出 羽 立 石 寺 三 重 小 塔

出羽立石寺三重小塔

立石寺三重小塔

永正16年(1519)建立。
(三重小塔銘:永正16年華蔵院僧十穀静充らにより岩屋に安置とする。)
華蔵院脇の洞窟中に安置。全面にはガラス格子戸 があり、詳細な拝観はできない。
小塔は一辺45cm・高さ2,5m、和様を基本に組物・木鼻は唐様を用いる折衷様で構成される。
内部は省略された箱物構造といわれ、その意味では建築ではなくて、工芸的作品であろう。

立石寺三重小塔1:左図拡大図
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8

初重:方1尺5寸、軒高1尺8寸5分  二重:方1尺寸5分、3尺2寸5分
三重:方1尺、軒高4尺5分       露盤下まで5尺3寸、総高8尺2寸

 「X」氏ご提供画像:立石寺三重小塔A

 「N}氏ご提供画像:立石寺三重小塔B

 出羽立石寺三重小塔:「佛教考古学講座第3巻」より

参考:立石寺青銅製宝塔(小塔)

 立石寺銅製小宝塔1  立石寺銅製小宝塔2

実態は不明、高さ8尺2寸(2.46m)、地上からの総高1丈3尺6寸(4.08m)
釈迦・多宝如来を安置、如法堂(奥の院)御前仏と云う。

立石寺概要

宝珠山と号す。天台宗(近世は上野寛永寺末)。
開基は慈覚大師円仁、安養院開山は心能、千手院・山王院開山は実玄とする。
常願寺と号する。承和(834-)年中までには寺観を整える。
貞観2年(860)常願寺より寺号を立石寺と改める。中堂には叡山から法灯が移され、山王21社が勧請される。
大永元年(1521)伊達氏に加担したため、天童頼長らに攻撃され、三重小塔を残し、灰燼に帰す。
最上義守母の外護を受け、天文3年(1531)山王権現が再興、翌年には中堂に法灯がもたらされる。最上氏は寺領1300石を寄進する。
慶安元年(1648)1420石の朱印を受く。
元和3年には5院36坊、寛永14年には5院32坊、延享5年(1748)には4院8坊が「無寺空坊」、寛延2年(1749)には14院16坊と云う。
明治2年奥の院から出火、本堂以下を焼失、
同3年神仏分離により山王権現を分離、同5年11坊が坊号返上・帰農を願い出、同11年8院坊の取壊しを願い出。

山寺(立石寺)現状伽藍

山内には、山麓から中腹にかけて以下の伽藍が順次高度を増して点在する。

立石寺根本中堂:重文、正平11年(1356)斯波氏により建立、慶長年中に大修理、5×5間、一重入母屋造銅板葺
 立石寺根本中堂1  立石寺根本中堂2  立石寺根本中堂3
立石寺山王権現:幕府より264石余の朱印を受ける。
 立石寺山王権現1  立石寺山王権現2
 立石寺常行念仏堂:四間四面、元禄4年(1691)この地に移建。
 鐘 楼   山 門  本 坊 なども山麓に存在する。
 立石寺仁王門:嘉永年中(1848-)建立
 立石寺観明院:現在無住
 立石寺性相院:明治初頭極楽院・善行院を合併
 立石寺金乗院:天保11年(1840)再建になると云う。
 立石寺中性院:明治初頭不動院を合併、最上義光、山形藩主戸沢氏歴代の日拝所
   最上義光霊屋:なぜか粗末な堂宇ではある。
 立石寺華蔵院:慈覚大師住坊と伝える。
 立石寺如法堂(奥の院)    立石寺開山堂・納経堂:開山堂は嘉永4年(1851)再建、納経堂 (左)は慶長4年(1599)建立
 立石寺五大堂:正徳4年(1714)再建    立石寺胎内堂    立石寺釈迦堂


2007/04/18作成:2007/04/18更新:ホームページ日本の塔婆