越  後  乙  宝  寺

越後乙宝寺三重塔・心礎

越後乙宝寺三重塔(重文)

慶長19年(1649)起工・元和6年(1620)完工。
願主は村上藩主村上忠勝、棟梁は京都小嶋近江守藤原吉正(棟札)という。

2007/04/06撮影:
越後乙宝寺三重塔1
  同        2:左図拡大図
  同        3
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  同       15

純和様を用いる、一辺4.3m、高さ76尺(約24m)。屋根杮葺。
本尊:普賢菩薩像(胎蔵界大日如来とも云う)

「久保田」氏ご提供画像:
 越後乙宝寺三重塔:撮影年月不詳、少なくとも2006年以前の撮影であろう。

2010/04/25追加:
 昭和25年乙宝寺塔:毎日新聞掲載

2012/07/02追加:絵葉書
 乙宝寺三重塔絵葉書:撮影時期不詳

乙宝寺概要

如意山と号す。真言宗智山派。本尊大日如来。
寺伝では天平8年(736)行基により開山と云う。(聖武天皇勅願、行基菩薩と婆羅門僧正の開山)
中世には「乙寺」と称したと推定される。(「越後国乙寺縁起」貞和3年<1347>の奥書)
慶長初頭に上杉氏の影響があり、天台宗から真言宗に転宗と云う。
元和3年(1617)村上藩主から寺領100石が寄進される。
文政11年(1828)には末寺和光院、地福院、常楽院、宝憧院、円乗院(以上乙村)、龍福寺などがあった。
昭和12年大日堂及び旧国宝本尊大日如来・阿弥陀如来・薬師如来の3体を焼失。
境内は約25,000坪、周囲約15町歩の松林が囲うと云う。
寺中地福院、宝常院、和光院が現存する。

○「江戸時代の寺社境内絵図 補遺」慶応義塾図書館所蔵 より
 北越の全図(乙宝寺):江戸後期、この地方の大寺である景観が表される。
 北越の全図(上記部分図):三重塔タカサ10丈5尺(約32m)とある。

2008/06/21追加
○「重要文化財乙宝寺三重塔保存修理工事報告書」2000 より
 乙宝寺境内図:延享2年(1745)
  仁王門、弁天堂、三重塔、鐘楼、大日堂(金堂)が伽藍中枢をなす。大日堂周囲に観音堂、千躰地蔵堂、六角堂などがある。
  右側やや離れて八所権現堂、西側に方丈・庫裏などの本坊、その手前には寺中(寺家)の存在が知られる。
 紙本着色乙宝寺縁起絵巻:文化7年(1810)・・・原本は貞和3年<1347>で文化7年に写本
  乙宝寺の草創と中興を描く。下掲の乙宝寺仏舎利(釈尊左眼)の発見及び後白河院が仏舎利を都に安置しようとするも、
  仏舎利は元の乙宝寺石座(心礎)に飛び返った逸話などがある。

○現存伽藍:
再興本堂(大日堂)、方丈殿、仁王門(延享2年・1745)、六角堂(舎利堂、一辺9尺、延享頃)、弁天堂(寛文8年・1668)、観音堂、地蔵堂、鐘楼などが現存する。
  乙宝寺仁王門:延享2年(1745)改修   乙宝寺鐘楼


越後乙宝寺心礎

奈良期の心礎を残す。
○「幻の塔を求めて西東」:
心礎は二重円孔式。大きさは180×143cm、径66×30cmと径23×15cmの円孔を穿つ。寺域外に移動。白鳳。
○「まちだより 2004.12.01号」(中条町)中条町の文化財4、乙宝寺の塔心礎 より転載
 安元2年(1176)越後守城助永の伯父宮禅師が 夢告により、倒壊した宝塔の心礎を掘り出し、その心礎から仏舎利を発見したと伝える(『乙宝寺縁起絵巻』)。
この塔心礎は、直径2mの花崗岩製の二重孔式で初重の径は66cm、深さ30cm、二重の径は23cm深さ15cmで初重の側面はよく磨かれている。
様式と形状から7世紀末ころから奈良朝初期の白鳳様式と考えられ、乙宝寺最初の建立年代推定に有力な資料である。
現境内の六角堂床下に遺存する。
  
乙宝寺塔心礎:寺伝では天平8年(736)開山と伝え、開山の時代とこの心礎の時代が合致する。
2008/06/21追加
○「重要文化財乙宝寺三重塔保存修理工事報告書」2000 より(上記「まちだより」はこの書からの転載)
中条房資記録(貞徳3年・1454)によれば、応永31年(1424)黒川基実の館が攻略され、伊達の軍勢に「乙宝寺之舎利」が奪われる事件があった。房資は竹内空範禅師と相談してこの什宝を20貫で買受、「乙寺」へ寄進したと云う。
 越後乙宝寺塔心礎2   乙宝寺心礎実測図
2007/04/06撮影:
○心礎は六角堂下にあり、観察は不能。
 乙宝寺六角堂1  乙宝寺六角堂2:本尊釈迦如来
 乙宝寺心礎1   乙宝寺心礎2    乙法寺心礎3:心礎の具体的形状の確認は不可である。
心礎以外の白鳳あるいは天平期の具体的な遺構などの情報は寡聞にして知らず。
2011/05/05追加:
サイト「新潟県北部の史跡巡り」中に「乙宝寺1(塔芯礎)」のページがある。
○ここには以下の写真及び図版の掲載がある。
 「乙宝寺縁起絵巻」には礎石から仏舎利が発見された事が記載されている。
また
 塔心礎は
 六角堂床下の中央にある石で、直径2m前後の円形塊状の花崗岩で、柱穴以外の表面は荒削りで一方柱孔の外縁の一部を残して缼落している場所がある。 と云う。
 越後乙宝寺心礎21:おそらく 横から投光、しかもカメラを構えた人物の背後から投光したものと思われ、それ故、写真の下方に黒い円形の影が写る。この円形の黒い影はカメラを構えた人物の頭の影と思われる。
 越後乙宝寺心礎22:「越佐研究 20集」よりとある。
上方から撮影したものと思われる。円穴及び小孔が写る。
 乙宝寺心礎実測図2:「中条町史 資料編1」よりとある。上掲の実測図と同じものであろう。
柱穴以外の「表面は粗削り」で、「柱穴の外縁の一部を残して欠落している」箇所があるとあるので、上面はかなり荒れているものと思われる。
あるいはこの柱穴の径は66cmであり、心柱の径が66cmであれば心柱の据付には問題がなく、特に平面を丁寧に削平はしなかったものとも推測される。
円穴中央の小孔は舎利孔としては彫りが雑であり、枘孔の類であろうと思われる。
2016/05/19追加:
○「乙宝寺心礎と頸城地方心礎の問題」平野団三(「越佐研究 第20集」新潟県人文研究会、昭和38年 所収) より
昭和37年村上市文化財保護委員・斎藤誠一氏、瀬波・波済健氏(瀬波とは不明)の調査により、乙宝寺の心礎が「発見」される。
 ※この心礎は「唐びつ」とされていたようであるが、両氏の調査によって、心礎であると発表されるという経緯があったようである。
冒頭に上に掲載の「越後乙宝寺心礎22」写真が掲載される。
この六角堂床下中央に宝蔵される心礎を実見・調査する。一見して、これは「唐びつ」ではなく、古塔の心礎であることに驚く。
心礎の形状は円形塊状であり、石の種類は花崗岩で、大きさは径約2mを測る。柱孔以外の表面は粗削りであり、一方柱孔の外縁の一部を残して欠落しているところがある。
中心の柱孔は径66c、深さ30cm、その底部に径23cm深さ25cmの舎利孔が穿たれる。
寺伝によると平安期この「唐びつ」が出土、舎利は後白河院御覧の上、再び当寺へ返還され今に伝えられるという。
 この心礎は奈良朝前期に属する心礎ではないだろうか。その理由は法隆寺心礎仏舎利孔や薬師寺東塔心礎のように舎利孔を造って仏舎利を奉安する流行は飛鳥白鳳を中心とするもので、奈良期に入ると極めて稀なことになるからである。
 ところで、この心礎を越後国分寺心礎と断ずる向きもあるが、それは即断はできない。
元来、国分寺塔婆の心礎は大別して、出枘敷と入枘式の様式があって、出枘式は西日本に多く、入枘式は東日本に多い。入枘式では甲斐国分寺心礎、飛騨国分寺心礎、武蔵国分寺心礎がその好例であろう。
ここで特に注意されることは、国分寺心礎の現在のところ(全国的凡例に従えば)一つも舎利孔が発見されたことが無いということである。このことは乙宝寺心礎が国分寺塔婆の心礎であるという説に大きな支障を与えることになるであろう。
2016/05/19追加:
○「今昔著聞集」及び「今昔物語集」がこと。
乙宝寺は「今昔著聞集」(鎌倉期成立)の「乙寺」、「今昔物語集」(平安後期成立)の「國寺(乙寺の誤記か)」として登場する。
 「古今著聞集」:巻20/「魚虫禽獣」第30/通巻680話:
 「今昔物語集」:巻第十四 本朝付仏法(法華経の霊験譚)/第百廿六話:越後國々寺僧為猿写法花語第六
  ※國寺とするのは、「法華験記」には「越後國乙寺」とあることに照らし、「乙」を「ゝ」と読み誤った可能性が高い。
  従って、本来は「越後國々寺僧・・」は「越後國乙寺僧・・・」であると思われる。
何れも大意は以下である。
 二匹の猿が発心し、乙寺の僧侶に懇請し、法華経の写経を始める。写経の紙は仲間の猿の持参した木の皮を漉いたものであった。
ところが、写経が5巻に至った時、突如猿は姿を見せなくなる。不審に思った寺の僧侶が裏山を探すと、猿は不慮の事故死をしていた。
僧侶は不憫の思い、菩提を弔い、写経途中の法華経は須弥壇前の柱を彫り、その中の納めたという。
 その後40数年後、紀躬高朝臣が越後國守と成りてくだり、乙寺に詣で、住僧に尋ねて問ふ。「この寺の書き終わらざる経やおわします」と。その昔持経の僧齢八十を出で、この経の根源を語る。国司大いに歓喜して曰く「・・・昔の猿はこれわれ也・・」と。
さらに国司は三千部を書きたてまつりけり。かの寺いまにあり。
 ※「今昔物語集」は「紀躬高朝臣」ではなく、承平4年(934)に赴任した国守・藤原子高が猿の「転生」という。
 古今著聞集・通巻680話:京都大学附属図書館所蔵 古典籍(古典大系) より
 今昔物語集・第百廿六話:実践女子大学学術機関リポジトリ より

2017/01/25追加:
○「新潟県史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第1輯」新潟県編、昭和10年(1935) より
◇乙寶寺
乙寺縁起:
・・・安元2年()越後国に城太郎助長といfものあり、其伯父に宮禅師といふ聖あり、・・・
夢に一人の沙門来て告、此所に釈尊遺身の舎利まします、はやくあらわしたてまつるへしと、・・・光のたちしへんをほる。
・・・その跡ほるに、塔の火鑓寶鐸なとほり出す、その下に四五十人してひく程の石を四ふたにして、面のひろさ6尺7寸、まはり2丈なる大石あり、其の面には二重に穴をかまふ、人是をみて石の釜となつけ又は石の唐櫃といふ、はしめの一重は輪の口、広さ2尺2寸ふかさ1尺、次の二重は輪の口、広さ8寸ふかさ4寸也、その中に一粒の佛舎利まします。・・・
 安元2年(1176)・・・後白河院聞食て勅定ありて、御舎利を都へ御奉請ありて、をかませおはします・・・(後白河院は金の三重塔を建立し舎利を安置し拝礼する。)・・・安元2年7月にもとの石座に御舎利とひかへり給ひて、いまにこの寺にまします。
                               ※舎利とひかへり:舎利飛び還るの意と解する。
  詞書 正二位行権中納言兼春宮大夫臣源安朝臣
   貞和3年(1347) 繪所正五位下行加賀守藤原伊久畫 之(この2行は「乙寶寺縁起」の奥書と解する。)
 ※「乙寺縁起」によれば、二重円孔式の心礎の存在が知られる。
 その大きさは6尺7寸(約2m)であり、面に径2尺2寸(約67cm)深さ1尺(約30cmの円穴を彫り、
 さらに径8寸(約24cm)深さ4寸(約12cm)の舎利孔を彫るものであったと推測される。
 この法量は現実に残存する一般的な心礎の法量に良く当てはまり、「乙寺縁起」の記述は俄かに信憑性をもつこととなる。

◇舎利堂一名六角堂は延享2年(1745)の再建なり。すなわち佛舎利出現の址なりと云傳ふ、今床下に石製の函の形をなせるものの残缺を存す。
◇黒川家は領主として乙寶寺の大檀越であったであろう。左眼舎利は一時黒川實基の館の内に安置せられてあった時に、出羽伊達氏の武将滑津氏に襲撃され、實基は切腹し、舎利は奪ひ去られた。それを空範(僧侶)と中条房資が相談して、廿余貫の銭に替えて取り戻して、乙寶寺に寄進したことを房資自らが記録している。これは応永30年から33年までの間に起こったことである。
国宝、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、三躯は本堂内に安置せる秘仏にして平生は開帳は為さず。
 乙寶寺三重塔01     乙寶寺三重塔細部
 乙寶寺国宝三尊:昭和12年焼失した本尊大日如来・阿弥陀如来・薬師如来であろう。


2007/04/21作成:2017/01/25更新:ホームページ日本の塔婆