羽  黒  山  ・  羽  黒  大  権  現 

出羽羽黒山・羽黒三所大権現、出羽慈恩寺

★★羽黒大権現五重塔(国宝)
 

「X」氏ご提供画像:
羽黒大権現五重塔1
羽黒大権現五重塔2:左図拡大図
羽黒大権現五重塔3
羽黒大権現五重塔4

応安5年(1372)もしくは正和5年(1316)再建塔。
慶長13年最上義光の大修理:修理棟札写;応安3年1369柱立、永和3年1377九輪上がある。(但し 建立年代には異説がある)。
もとは近世初頭に廃寺となった宝塔山瀧水寺の塔と伝える。
純和様を用いる。
一辺4.10m、高さ24.2m、総高29.9m。屋根は柿葺。五重塔は承平年中平将門によって創建されたと云う。
神仏分離前は本尊観音菩薩像(総高1.5m)・軍茶利明王像・妙見菩薩像(ともに総高1.2m)を安置。更に同三尊の前立仏も安置されていた。これ等の像は神仏分離で撤去、羽黒山 正善院に遷座、現在前立三尊は正善院黄金堂に安置と云う。
なお、神仏分離の処置で、五重塔は末社「千憑(より)社」と称する。

○2007/04/04撮影:
 羽黒大権現五重塔11  羽黒大権現五重塔12  羽黒大権現五重塔13  羽黒大権現五重塔14  羽黒大権現五重塔15
 羽黒大権現五重塔16  羽黒大権現五重塔17  羽黒大権現五重塔18  羽黒大権現五重塔19  羽黒大権現五重塔20

2007/02/19追加:
○「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」:
五重塔略歴:
承平年中(934-938)平将門の建立と伝える。
現在の塔建立の記録は、正和年中(1312-1317)の建立(「羽黒山年代記」「来迎寺年代記」「公私暦世日記」『「庄内物語」中にある「羽黒山五重塔棟札」』)とするものと、
応安2年(1369)立中・永和3年(1377)九輪上(「慶長13年棟札写」)、応安5年建立(「羽黒山旧記」「羽黒山中興覚書」)、永和4年供養(「羽黒山年代記」)、康暦2年(1380)供養(「来迎寺年代記」)とがある。
正和年中に建立した塔は退転し、応安−永和間に再興されたのであろう。
慶長13年最上義光、五重塔修復、寛永年中に2度屋根葺替え、元禄5年(1692)、正徳年中、明和9年、天明元年、文政6年、嘉永2年(1849)にも修理記録が残る。明治26年屋根葺き替え修理、大正5年半解体修理、昭和12年・同30年屋根葺き替え。
総高96尺3寸7分、初重総間16尺5寸8分、中央間5尺9寸1分、両脇間5尺0寸1分。塔身は73尺1寸。(相輪はかなり短い)
基本的に純和様を用いる。
須彌壇上には現在、意味不明な大国主を祀る。本尊は聖観音(棟札による)であったとされる。
  羽黒山五重塔立面・断面図

2015/02/16追加:
○「国宝五重塔 その意匠に見る日本美」小田原敏之、かもがわ出版、2013 より
天慶2年(939)平将門が羽黒山麓に五重塔を建立と伝える。(伝説)
平安期、参道の谷に建つ龍水寺は羽黒山上の別当寂光寺を凌ぐ勢力があったといわれる。
「羽黒山年代記」などによると、龍水寺五重塔は将門の創建伝説は別にして、正和年中(1312-17)に創建されたと思われる。
その後塔は焼失し、文中年中(1368-83)に再建されたものが現存する。
塔には軍茶利明王、妙見菩薩、聖観音が安置されていたが、明治の神仏分離では、急遽安置聖観音に替えて、けがらわしくも大国主を祀り、五重塔の取り壊しを免れるという。

羽黒大権現・月山大権現・湯殿山大権現(出羽三所大権現)に於ける神仏分離

2006/11/05追加:
「神仏分離の動乱」および「日本の美術466出羽三山」より

古代の三所権現:
伝説のことはさておき、中世以前については文献上、余り多くの事象は把握できない。
延喜式神名帳:飽海郡三座のうち、(鳥海山と並び)月山神社(大)の記載がある。
延喜式神名帳:伊氐波神社(小)の記載がある。出羽(いでは)神社に比定するのが一般的であるが、これは復古神道流の付会 つまりは初めから結論ありきの所業であろう。
伊氐波神社は本来出羽国の国霊を祀る神社であったこと、また出羽大権現の社号が出羽神社とされたのは正一位の宣下があった文政6年(1824)とされる。以上からも延喜式神名帳と出羽大権現は無関係とするのが常識であろう。
中世の三所権現:
修験集団として、文献上からも、かなりの経済的基盤と力を蓄えていったものとされる。鎌倉期以降、東33ヶ国を羽黒領、西24ヶ国を熊野領、九州9ヶ国を彦山領とする「総鎮護」の思想が進み、信仰圏が拡大した。
三山の中で、湯殿山(表口注連寺、大日坊、裏口本道寺、大日寺が支配)は三山の総奥の院と宣伝し、出羽山と対立を生む事もあった。応永年間(1394-1428)大日寺真言僧道智が登山道を改修してから、湯殿山登拝が盛んになったと云う。
なお中世まで、葉山が月山・羽黒山とともに出羽三山として認識され、湯殿山は総奥の院の認識であったが、葉山薬師権現別当慈恩寺の離反により、葉山は急速に衰え、以降出羽三山との信仰関係は断絶する。
近世の三所権現;
羽黒大権現を中心とした三所権現は東国総鎮守として広範な信仰圏をさらに確立する。
近世初頭、羽黒山第50代別当宥誉は東照宮の勧請を画策、天海の弟子となり(天宥と改名)、東叡山寛永寺直末と進み、全山の面目を一新する。 このことは、天宥が羽黒山を真言から天台に改宗したことも意味する。(湯殿山は真言のまま。)
 →(注1)天宥
寛文5年(1665)寺領1500石(家綱朱印)を領有。以降近世は幕府と東叡山の威光のもと、西の熊野十二所権現に対抗する三所権現(羽黒山・月山・湯殿山大権現)として、領主の権勢を凌ぐ力を 保持していた。
近世には東叡山派遣の別当寂光寺、社僧18坊、修験360坊、多くの雑役から山は構成されていた。
(近世初頭では羽黒山山内居住の清僧33院、山外居住の衆徒・修験360坊、諸国散在の末派修験・行人・巫女・太夫は6000人を超える規模であった。)

明治の神仏分離:
神祇官は羽黒大権現を廃し、出羽神社に改組、山内僧侶の復飾を命ず。
明治3年神祇官達:
「羽黒山之儀、全体、僧徒之差出候記録等ハ、惣而信用難致ニモ有之ニ付、従来権現号相用来候ヘハ神ト相定可然、若、祠中仏体等有之候ヘハ速ニ取除、神体ニ相改候ヘハ混淆ノ筋ニハ無之ニ御座候・・・」
 →(注2)
明治4年酒田県より、羽黒山麓仁王門から月山山上までの末社や路傍に祀られていた仏像類の撤去が命ぜられる。
 しかしながら、赴任してきた宮司(西川須賀雄)が残した(下記のような)文書など
「羽黒山の如きは、二千年此の方仏地にて、山麓の旧修験、大方天台に帰入いたし、・・・大抵は頑固の強情をおしはり、殊に今度復飾神勤之輩さへ、表は羽織袴等著し、出頭いたし候而も、退而法衣を著し、護摩たき候所業有之・・・・」
「境内の仏体、神務所の仏壇等も、依然として不取除、・・・・三度之食事にも精進物のみ魚類等は見ることも出来不申候、・・・」
 などとあり、羽黒山の山内は中々頑強であったようです。
18坊の内3坊を除き、15坊は廃棄、僧侶は全て復飾するも、300余りの修験は天台宗に帰属する。
 →(注3)

明治5年2月出羽神社社司官田(羽黒宝前)が鶴岡に出て、その帰路急死する。
明治6年3月羽黒山出羽神社は国幣小社に列す、
 同年同月、出羽神社宮司兼権大講義に西川須賀雄が任命される。
  (西川須賀雄は初代官選宮司として赴任、徹底した廃仏毀釈が断行される。)
宮司西川は平田派国学者でありかつ神道家でもあり、当然「祭政一致の天皇ご親政」の「理想」に燃えていたであろうから、
説得・脅しあるいは様々な工作をし、また公権力なども使用し、羽黒山の廃仏=羽黒山の神山化への強引な転換を強行した。
 →(注4)西川須賀雄
この強引な廃仏・神山化は
「羽黒山之義は、二千有余年仏凝之所而宿弊更不脱、三百人之旧修験等、大方天台に帰入致し、再度仏法を隆盛ならしめんとし相企、彼是之情実筆紙に尽し難く候」
「羽黒山の義は容易ならざる場所にて、恐らくは此日本国中にて仏之巣窟と見候・・・・」
と頑強な抵抗があったが、ともかく三所権現の解体・神社化が図られた。
 →(注5)照見大菩薩の改号(開山堂改号)・・・象徴的な事件と思われる。

かくして羽黒大権現の出羽神社への転換は強行された。
山内130の堂舎の内、85宇が取り壊され、総称としての別当寂光寺は廃棄、羽黒山荒澤寺・湯殿山大日坊・注連寺など僅かな仏教拠点が残こされたのみで(15坊が廃棄、破壊を免れる)、 仏堂も神社に改変された。
 ※(大日堂→薬山祇神社、山王権現→日枝神社、弁天堂→厳島神社、千手観音堂→豊玉姫神社・・・など)
坊舎の破壊、仏堂の棄却は当たり前、仏像の売却、木像・石像は谷に投げ落とすという蛮行が行われた。大般若経600巻は15円で売却などと伝えられる。
最終的には羽黒大権現・月山大権現・湯殿山大権現は出羽三山神社として捏造され、国家神道の枠中に位置付けられ、
今も基本的にその形態(出羽三山神社)を引継ぐ。
僅かに、羽黒山荒澤寺・正善院、湯殿山注連寺、湯殿山大日坊は寺院として存続し、旧来の伝統を継ぐ。
 →(注6)堂塔伽藍の改廃
 →(注7)その他参考

○近世の羽黒三所権現
  湯殿月山羽黒三山一枚絵図:下図拡大図:<少々容量は大です。>
    江戸後期に大量に出回った木版印刷とされる。
     但し、堂塔地名標記が不鮮明に付き、標記名は新しく補充しています。
     ※2007/01/21「出羽三山信仰の圏構造」岩鼻通明、岩田書院、2003 より


図では不明確(標記名なし)であるが、手向の仁王門は別当下屋敷下(図の下部ほぼ中央)の重層の建築と思われる。

湯殿山ご神体:「別冊太陽 日本の神 68」平凡社 より:2008/06/02追加
但し、湯殿山ご神体は「言わず語らず、語らば聞くな、聞かば語るな」と古来より厳しい戒めがある。
上図に於いても「湯殿山霊場也、秘所の為、之を省略」とある。
当然、写真撮影は固く禁止されていると云う。

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(注1)天宥
2007/01/21追加:「中興の祖・天宥執行・別当」(「図説 出羽三山神社1400年」所収)
天宥:羽黒山第50世・執行・別当・宝前院法印
寛永7年(1630)25歳で羽黒山別当に就任
寛永10年庄内藩主酒井忠義実弟忠重の領地(白岩)に百姓一揆が起こるも、一揆は鎮圧されるも
一揆の一部指導者は天宥が住持の岩根沢日月寺に匿われ、後に江戸に出訴し忠重の処分となる。
 ※以降、天宥と庄内藩との確執(庄内藩の羽黒山朱印状加判拒否など)が続くといわれる。
寛永18年江戸にて天海僧正に面会、羽黒山の真言から天台への改宗を申出、裁可される。東叡山末寺となる。
寛文5年別当の後任の含みで、家綱生母宝樹院実弟尊重院圭海を弟子とする。
寛文7年羽黒山智憲院・愛染院・竹野院、能林院、儀本院が天宥弾劾を幕府に提訴(この時は不受理)、
 さらに江戸輪王寺門跡に訴える。
同年、天宥・玄陽坊・宝積坊・常禅坊・三光坊などが提訴側と東叡山で対論。
 ※出訴の背景は多分に天宥の持つ政治性あるいは独断専行などに対する反発があったものと推測される。
同年、その後も4回対論するも、決着がつかず、紛争解決は幕府寺社奉行に委ねられる。
 幕府は庄内藩主酒井忠義に対し、「実地検証」を命ず。
 天宥は庄内藩の実地検証の藩吏を拒む。(庄内藩との確執が背景にあると思われる。)
寛文8年(1668)幕府評定所は「別当天宥弾劾訴訟」の判決を下す。
   「別当天宥及び大乗坊を伊豆大島に遠島に処す」
 同年、寺社奉行所は天宥派衆徒15人に対し、羽黒山・里より追放」の処置。
  ※天宥の配流地は実際は伊豆大島ではなくて、新島とされ、そこに墓所があるという。

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(注2)
明治3年10月、羽黒山が神山か仏山かの神祇官決定が出る前に、官田僧正以下が酒田県に復飾改名届けを提出。
復飾改名届け提出の僧侶は以下の通り
 羽黒山別当霊山院官田(羽黒宝前)、花蔵院権大僧都(花岡安記・禰宜)、智憲院権大僧都(菅原長禰・禰宜)、
 正穏院(正木澄順)、正善院(金井良助)、檀所院権大僧都(黒羽根此面・権禰宜)、経堂院(奥井法雄)、見善院(藤田竹蔵)、 
 東光院(東荻生・権禰宜)、宝積院(志田藤勝)、円珠院権大僧都(丸山里見)、善台院(花山正記)、護摩堂(滝本広瀬)、
 福円院(花岡繁記)。三学院(古木直志)、儀本院(谷足水)、明了院(小坂明良)、竹之院(竹森長瀬)、南流院(神路三学)、
 宝徳院(立華忠見)、福乗院(松岡若木)、威徳院(小野良筌)、行人方六供西性海、三浦西條など
  ※上記の僧位・神官の肩書きは明治6年「大祓式式次第」から抜粋・追加
「大祓式式次第」には上記以外に次の名称も見える。
 南陽院(花山南)、普賢堂(黒羽根岩記)

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(注3)
明治6年10月「乍恐以書附奉申上候(恐れながら書附を以って申上げ奉り候)」
「当山開祖照見大菩薩者・・・」で始まる願書は麓衆徒代として以下の連名でなされる。
 橋本坊、祐長坊、大林坊、桜林坊、三光坊、林光坊、南林坊、多宝坊、玉蔵坊、山城坊、安養坊、真所坊、松之坊、自 坊、
 栄昌坊、阿含坊、光林坊、明光坊、東林坊、竹之坊、長学坊、春長坊、宝鏡坊、正満坊、長円坊、順教坊、長伝坊
  ※一例であるが、上記によれば、橋本坊以下の衆徒が天台宗に帰属した300余りの修験の一端と推測される。

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(注4)西川須賀雄
天保9年(1838)肥前小城郡岩松村に生まれる。文久元年(1861)23歳で小城祇園社神主となる。
明治6年3月出羽神社宮司兼権大講義に任命される。
明治9年3月安房神宮宮司に栄転。
 「出羽三山の神仏分離」後藤赳司、岩田書店、1999 では
「西川須賀雄は平田派の国学者であり、かつ情熱的使命感あふれる青年神道家であった。」と評価する。
しかし
明治2年神祇官が復興され「祭政一致の天皇親政」「敬神崇祖」の政策が現実化した。
そのブレーンには福羽美静・平田延胤の大国派、平田派と呼ばれる国学者や神道家が連なっていた。
但し、祭政一致・王政復古が一度実現すると、平田派や復古神道家の政治的思想的な非現実性はすぐさま破綻する。
維新政府は国民宣撫の方策として、天皇教とも云うべき国家神道による国民宣教運動へと向かう。
原則は以下のようであった。
「三条の教則」とは
 第1条 敬神愛国の旨を体すべき事
 第2条 天理人道を明にすべき事
 第3条 皇上を奉戴し、朝旨を遵守せしむべき事
「十一兼題」明治6年教部省達(教導職へ)
 神恩皇恩説、人魂不死之説、天神造化之説、顕幽分界之説、愛国之説、神祭之説、鎮魂之説、
 君臣之説、父子之説、大教之説
「十七兼題」明治6年大教院達(教導職へ)
 皇国国体説、皇政一新説、・・・・
※要するに天皇神話を国教として(国家神道)国民を宣撫するものであった。
以上のように、「西川須賀雄は平田派の国学者であり、かつ情熱的使命感あふれる青年神道家であった。」との評価は
言い換えれば、所詮、天皇中心の国家神道の推進の片棒を担いだ狂信的な国家神道家でしかなかったということであろう。

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(注5)照見大菩薩の改号(開山堂改号)
宮司西川の国家神道家の本質を示す一つに「開山堂の改正願」がある。
「出羽神社境内開山堂願
・・・出羽神社境内なる開山堂之儀事実取調候所、諡号を能除太子とも照見菩薩共申し、事実は崇峻天皇之皇子蜂子命に渡らせ給ひ・・・・」「更に神号を奉り改正したく御座候」しかし「先年元別当覚淳代既に菩薩号の宣下も候へは」「右宣下状御返し申上候・・・・
 明治6年12月2日
    出羽神社宮司 西川須賀雄
 開山堂改正神号 蜂子命  右之通奉願候也」
以上のような、いかにも「国家神道家」らしい「願い」が画策される。
この「願い」は教部省から太政官(三条実美)に伺書が提出(明治6年12月28日)され、
即日「出羽神社境内の照見菩薩を改め、神号を蜂子命とすることに決定される。
宣下状とは以下のようなものであった。
「照見大菩薩号 (即今蜂子命)
  勅書の写し
 勅 能除太子者・・・・贈以徽号宣称照見大菩薩
           文政6年2月13日」
明治7年西川は照見大菩薩宣下状を返上する。
そもそも
出羽三所権現開祖は崇峻天皇皇子蜂子皇子であることを強く主張したのは第50代別当天宥であった。その後、
文化10年(1813)日光山医王院から荘厳院権僧正・覚諄が羽黒山執行・別当に着任
文政6年(1823)覚諄は蜂子皇子に対する「照見大菩薩」号及び「出羽神社正一位」の神階の宣下を賜る。
 (宣下・勅書は上記のとおり)

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2007/01/21追加:「出羽三山と『廃仏毀釈』」(「図説 出羽三山神社1400年」所収)
(注6)明治の神仏分離による羽黒大権現堂塔の改廃:以下の一覧表の通りです。(ピンク色は取壊し、青緑色は仏堂を神社施設に転用)
  ※下記に掲載した116堂塔坊舎の内、
     取壊しは59堂塔坊舎・・51%(内1は社)、仏堂を神社施設に改竄は36堂塔坊舎・・31%
     仏地として残された堂塔坊舎は12・・10%、残された堂塔は2、社のままは7社
     実に半分は取壊され、3割は仏堂が廃止された勘定になる。
     逆に言えば、三社権現の実態は寺院であったということであろう。

参照:上掲の湯殿月山羽黒三山一枚絵図
  別当下屋敷右下の重層門が仁王門、別当下屋敷は現在「羽黒町立いでは文化記念館」が建立されている。
 
明治の神仏分離による羽黒大権現堂塔の改廃:○2007/04/15改定
地区 羽黒山堂塔坊舎 神仏分離の処置 参考・備考・写真など
羽黒山頂 愛染院 取壊し .
東光院 取壊し .
見喜院 取壊し .
竹之院 取壊し .
積善院 取壊し .
宝積院 取壊し .
三学院 取壊し .
明了院 取壊し .
威徳院 取壊し .
南流院 取壊し .
福円院 取壊し .
四維摩堂 取壊し .
虚空蔵堂 取壊し .
慈恵大師堂 取壊し .
五智堂 取壊し .
御本社 三社合祭殿 羽黒山本社1  羽黒山本社2  羽黒山本社3:雪囲中
重文・羽黒山大堂・本堂・本社、文政元年(1818)再建(別当は荘厳院覚諄)
そもそも、羽黒山上には、羽黒山寂光寺が建立され、次いで月山大権現、湯殿山大権現を勧請し、羽黒三所大権現と称したようです。この羽黒三所大権現を祀る根本堂であった。
鐘楼 現存 羽黒山鐘楼
重文:元和4年(1618)最上義俊(最上家信?)再興、
梵鐘は建治の大鐘(建治元年1275銘・重文)。
行者堂 健角身神社 現存か?造替して現存か?
開山堂 蜂子神社 羽黒山開山堂(向かって右、雪囲中)
弁天堂 厳島神社 羽黒山弁天堂(向かって左、雪囲中)
阿弥陀堂 八坂神社 現存か?造替して現存か?
大日堂 大山祇神社 現存か?造替して現存か?
文殊堂 思兼神社 現存か?造替して現存か?
経蔵 神輿舎 .
地蔵堂 天宥社 現存か?造替して現存か?
薬師堂 霊祭殿 現建物は昭和48年再建。
博物館前 正穏院 取壊し .
山頂駐車場西 智憲院 取壊し .
三ノ坂上 檀所院 取壊し .
善台院 取壊し .
円珠院 取壊し 羽黒山円珠院跡
儀本院 取壊し .
宝徳院 取壊し .
福乗院 取壊し .
南陽院 取壊し .
能林院 取壊し .
卒塔婆堂 取壊し .
大師堂 取壊し .
華蔵院 羽黒山参籠所・斎館 羽黒山華蔵院
華蔵院(正穏院・智憲院とともに三先達寺院)遺構、元禄10年(1697)再建。
祓川内で唯一現存する坊舎の遺構。
地蔵堂 埴山神社 .
八幡坂 毘沙門堂 尾崎神社 八幡坂とは三ノ坂上を云うようです。現存か?造替して現存か?
八幡宮 八幡神社 現存か?造替して現存か?
南谷 玄陽院 取壊し 南谷は寛文2年(1662)天宥法印が築造、紫苑寺と称する。一部の礎石が遺る。また苑池(の一部)が復原されているようです。
御本坊平 宝前院(別当御本坊) 取壊し 羽黒山本坊跡1  羽黒山本坊跡2  羽黒山歴代?墓所
書院の一部は麓の社務所に移建するも、大正12年焼失。
二ノ坂 愛宕社 取壊し .
山王権現 日枝神社 現存か?造替して現存か?
一ノ坂 薬師堂 取壊し .
薬師堂 取壊し .
愛染堂 大直日神社 現存か?造替して現存か?
観音堂 保食神社 羽黒山観音堂
大日堂 葉山祇神社 現存か?造替して現存か?
祓川橋外 子安観音 磐裂神社 .
子安地蔵尊 根裂神社 .
弘法大師堂 天神社 .
千手観音堂 豊玉神社 .
勢至堂 大年神社 .
祓川橋内 不動院(羽黒山外) 取壊し .
護摩堂 取壊し .
毘沙門堂 取壊し .
地蔵堂 取壊し .
大日堂 取壊し .
常念仏堂(羽黒山外) 取壊し .
地蔵堂 取壊し .
八大堂 取壊し .
五重塔 現存 .
不動堂 水波能売神社 .
姥堂 須賀瀧神社 .
吹越 児子堂 取壊し .
不動堂 取壊し .
大日堂 取壊し .
開山堂 吹越神社 昭和62年改築。
吹越籠堂 明治期再興、現存。
手向 下居社 取壊し .
恵比寿堂 取壊し .
蓮台院 取壊し .
仁王門 随身門 羽黒山仁王門:元禄年中出羽矢島藩主より寄進。
元三大師堂 金神社 羽黒山元三大師堂
天地金神社、応永4年(1397)学頭法性院尊量により創建、現元三大師堂は羽黒山地憲院宥然により安永9年(1779)再興堂。本尊は元三大師像。神仏分離で須佐之男命を祭祀。
新森稲荷社 新森稲荷神社 .
天童稲荷社 天童稲荷神社 .
聖山稲荷社 聖山稲荷神社 .
東福稲荷社 東福稲荷神社 .
福王寺稲荷社 福王寺稲荷神社 .
峰薬師堂 峰薬師神社 .
薬師堂 薬師神社 羽黒山薬師堂
金剛樹院 仏地として残す .
正善院 仏地として残す 羽黒山正善院:中世には手向山中善寺の本坊(中善寺は300余坊で構成)として羽黒山十大寺の一つとされた。
近世には正善院・金剛樹院・護摩堂の天台3ヶ寺が山外の清僧であり、手向の人別改を務める。
羽黒山大堂(現在の合祭殿)内陣・宮殿安置であった三山本地仏(観音・阿弥陀・大日)を移安する。
黄金堂 弥陀堂 取壊し .
愛染堂 取壊し .
如意輪堂 取壊し .
十一面観音堂 取壊し .
文殊堂 取壊し .
弁天堂 取壊し .
黄金堂 仏地として残す 羽黒山黄金堂
重文・鎌倉期・源頼朝の命で建立と伝える。文禄3年(1594)大修理。
桁行5間梁間4間正面に1間向拝宝形造(本来は寄棟造であったが改造)。
黄金堂は元来長寿寺の金堂と伝え、羽黒山寂光寺の大金堂に対して小金堂と称し、後に前者は大堂、後者はコガネ堂と云われ、黄金の字が充てられたという。
正善院管理。
お竹大日堂 仏地として残す 羽黒山お竹大日堂1  羽黒山お竹大日堂2
寛文6年(1666)佐久間勘解由家が施主となり建立、現存。正善院管理。
地蔵堂 仏地として残す .
大黒堂 仏地として残す .
鐘楼 仏地として残す .
仁王門 仏地として残す 現在は黄金堂門前に移建されている。現存、正善院管理。
荒沢 北之院 仏地として残す 左記3ヶ院を合わせ荒沢寺とする。
(北之院・経堂院は明治初頭は無住で火災焼失、実質は聖之院だけが荒沢寺で残る。)
経堂院 仏地として残す
聖之院 仏地として残す
開山堂 取壊し .
釈迦堂 取壊し .
十王堂 取壊し .
念仏堂庵 取壊し .
千躰地蔵堂 取壊し .
常火堂 仏地として残す .
地蔵堂 仏地として残す .
阿弥陀堂 仏地として残す .

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(注7)その他参考
廃仏毀釈の過程で仏像も多くが棄却されたと伝えるが、幸いなことに酒田の佐藤泰太朗氏が三山からの仏像の流失を嘆き、私財を投入して、仏像を収集し、その曾孫寛司氏が出羽神社に寄贈した仏像群が残る。(出羽三山歴史博物館所蔵)
その総数243躯、像形は如来・菩薩・明王・天部・高僧像に渡り、平安期8躯・鎌倉72躯・室町50躯・桃山23躯・江戸70躯にわたるという。多少は他の流出 仏が含まれてはいるが、大部は出羽三山の仏とされる。
また荒澤寺正善院黄金堂にも多数の仏像が安置されている。
月山山頂「お室」安置の仏像群(近世の像ではあるが)は現在曹洞宗善宝寺に移安と云う。

手向の現存宿坊:以下のような宿坊が現存するとされる。
東光院、神林坊、小林坊、大江坊、延命坊、生田坊、桜林坊、三光院、大進坊、薬師坊、田村坊、大聖坊、星野坊、双林坊、文殊坊、春照坊、. 東林坊、奥井坊、宮下坊、太田坊、大塚坊、勝木坊、円宗坊、正伝坊、明光坊、宝積坊、養清坊、小関坊、栄山坊、西蔵坊、善学坊、正満坊

湯殿山大権現・月山大権現
湯殿山支配の寺院は表口参道に注連寺、大日坊(表口は大泉藩領)、裏口には本道寺、大日寺(酒田藩領)の4ヶ寺であった。
奥宮である湯殿山は、羽黒山が出羽神社と変質する過程を見て、注連寺大日坊は大泉県に、本道寺大日寺は羽黒山別当宝前寺とともに酒田県に対し各々別々に 「寺院としての由来とその存続」の請願を行う。
湯殿山は「仏法一遍の山、大日如来応化権現之唱」云々
しかし当然のことながら神祇官はこれを認めることは出来ず、無理な論理は承知の上で、以下の裁断を行う。
「月山湯殿山は従来仏山云々之伺書、御県添書を以出願致候得共、右月山湯殿山は、素々神山にて、当国一宮なること判然に付き、右伺書差返候、依而此段申入候」
「湯殿山仏道を以保護せしは中世以来にして、往古は全く神地たること相違無之候に付き、復飾神勤可為致事、」
これに対し、湯殿山は更に異議申立を行うも、却下され、ついに湯殿山神社がでっち上げられる。
一方、月山は別当日月寺を初めとする4ヶ院28坊があったが、神仏分離令に対して、別当・社僧・修験が帰順神勤の願いを出し、仏教を捨て、神官になると云う。

月山別当日月寺:
出羽三山神社岩根沢事務所(摂社月山出羽湯殿山三神社社殿・重文)として現存する。
明治の神仏分離で出羽三山神社に属す。
日月寺は旧天台宗で長燿山と号す。嘉慶元年(1387)創建と云う。ほぼ旧寺院時代の姿(本堂・庫裏)が残るようです。
現存建物は天保11年(1840)建立。仏堂・客殿・座敷・庫裏等の機能を一つに併せた複合建築であり、桁行66.9mの規模を有する。

湯殿山大日寺
 開基は、「大祖弘法大師」「天長年中(824〜833)湯殿山を開かれ、また、大日寺も創建したまう」(妙学坊文書)と云う。
中興は、道智上人と伝える。湯殿山参詣者の便を図るため、参道整備(道智道)を為す。
近世には湯殿山別当四ヶ寺(大日寺、本道寺・大日坊・注連寺)の1つとして、隆盛する。
朱印は四石五斗を有す。本堂、山門、惣天門、福蔵、地蔵堂、山王堂、五智堂、大師堂、鐘楼、庫裏、台所、金蔵院、妙智院、蓮華院、門前家来六軒七坊、宿坊二十六坊を数えるとされる。
明治の神仏分離で荒廃し、明治7年廃寺、明治8年湯殿山神社と改竄される。
明治36年山門鐘楼を残し、灰燼に帰す。

湯殿山本道寺:
口の宮湯殿山神社として現存、旧真言宗、月光院と号す、大永5年(1525)羽黒山修験林光坊の創建と伝える。
江戸期は徳川家七祈願所の一つであった。そのため、戊辰戦争で攻撃を受ける。
明治7年、本道寺は廃寺、湯殿山神社口之宮となる。
 ※仁王像の返還:2005年、もと本道寺山門安置の仁王像が元地に返還されたようです。本道寺仁王像は明治8年、弥勒院(山形県河北町)に移り、 明治38年、仙台ホテル(大泉梅次郎氏創業)が弥勒院 から購入、玄関に安置、昭和20年戦災でホテルは焼失、仁王像は無傷で、最近は3階ロビーに飾られていたと云う。近年ホテルは経営難で経営主体が変り、元地に返還(寄贈)されることとなった。仁王像は高さ3.2m、重さ約150kg 、返還後は拝殿に安置と云う。

湯殿山別当之開基帳」では、七五三掛注連寺は天長年中(824〜833)、大網大日坊は仁寿2年(852)、北側の肘折阿吽院は明徳元年(1390)、東側岩根沢日月寺が嘉慶年中(1387年〜1388)、大井沢大日寺が応永 2年(1395)、本道寺が大永5年(1525)の開基とされる。
大井沢大日寺道智上人は湯殿山参道を二度にわたり開削し、置賜、山形方面から大井沢までの参道を開く。 このことにより、湯殿山の繁栄が始まるとも云われる。西村山地方西部から西置賜にかけて道智開基寺院が多く見られる。
 


★★本山慈恩寺:(葉山別当)
葉山の別当であった。
(中世まで、葉山が月山・羽黒山とともに出羽三山として認識され、湯殿山は総奥の院の認識であった。)

詳細は「出羽慈恩寺」のページを参照ください。
 


参考:備中玉島羽黒権現

遠く西国(備中)に羽黒権現が祀られる。
玉島羽黒権現は江戸期に関東の大名が西国に転封され、その大名によって羽黒権現が勧請され、本来は羽黒権現の信仰圏でない地に祀られたケースと思われる。
出羽羽黒大権現と比べ小規模ではあるが、ここでも明治の神仏分離の影が見え隠れする。

現在羽黒権現のある地は羽黒山と呼ばれる碗状の小丘である。
 (※ここでも羽黒権現は明治の神仏分離の処置で羽黒神社と改号されたようである。)
干拓で陸続きになる前は乙島・柏島と云う2つの島に挟まれた「阿弥陀山」と伝承?する小島であったと云われる。
万治元年(1658)備中松山藩主水谷勝隆が玉島地方の干拓に際し、阿弥陀山上に出羽国羽黒大権現を勧請する。
 (あるいは水谷氏の本貫地常陸下館の羽黒権現を勧請したとも云う。)
 ※因みに、水谷氏は備中移封前は常陸下館を領していたが、下館に於いても、初代下館城主水谷勝氏は羽黒権現を勧請し、
 別当天台宗清瀧寺を建立すると云う。但し、羽黒権現は羽黒神社として現存するも、別当清瀧寺は明治の神仏分離の処置などで廃寺となる。
寛文5年(1665)第2代藩主水谷勝宗、社殿を改築、阿弥陀山東斜面に別当羽黒山清瀧寺を建立する。
清瀧寺初代別当には京都青蓮院仙海和尚(勝隆実弟)を招じ、開山とする。
 なお現在の羽黒権現社殿は嘉永3年(1845)、幣拝殿は安政4年(1852)の再建という。
その後の清瀧寺は以下のように変遷すると推測される:(資料を未調査のため推測)
 玉島羽黒権現付近地図
明治の神仏分離の処置で、羽黒権現は羽黒神社と改号、羽黒山東参道途中にあった清瀧寺(旧清瀧寺)は羽黒山を下り、羽黒山北側すぐの地に移転 し新に清瀧寺(新清瀧寺)を建立する。(推定)
羽黒山東参道途中にあった旧清瀧寺の建物(山門・本堂)はそのまま残され、公共施設?や学校?などに転用されたと思われる。
その後120年前後の時が経ち、近年(少なくとも昭和後期あるいは平成の初期)になり、下山した新清瀧寺は旧地(羽黒山東斜面参道途中)の旧清瀧寺に移転つまり復帰し、旧清瀧寺建物(山門・本堂)が再び清瀧寺として使用され復活していると思われる。
なお清瀧寺が羽黒山の旧地に復帰した後の新清瀧寺の境内・堂宇もそのまま清瀧寺として残存する。
2005/05/04撮影:
 旧/現羽黒山清瀧寺:羽黒山東参道に復帰した清瀧寺。この境内・建物は神仏分離前の清瀧寺の境内・建物と云う。
 旧/現羽黒山清瀧寺山門:天台宗・清瀧寺の扁額を掲げる。
 新羽黒山清瀧寺2:維新後に移転した地に残る堂宇
2007/03/17撮影:
 新羽黒山清瀧寺1
2013/03/17撮影:
 羽黒権現東参道:向かって右中段に旧/現清瀧寺がある。      旧/現羽黒山清瀧寺2
 新羽黒山清瀧寺3     新羽黒山清瀧寺4
 :新清瀧寺境内には、移転後も、羽黒山清瀧寺石碑、鳥居、本殿(本堂)、観音堂(推定)、庫裏、法華石塔、護摩殿合天井寄進石碑が残る。
2014/09/27撮影:
 新清瀧寺石柱     新清瀧寺本堂     新清瀧寺観音堂     新清瀧寺法華塔     旧/現清瀧寺石垣


2006年以前作成:2015/02/16更新:ホームページ日本の塔婆