紀 伊 海 禪 院 多 宝 塔

紀伊海禅院多宝塔・紀伊養珠寺

このページは「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 の「引き写し」である。
菅原先生のご研究には深く敬意を払うものである。(菅原先生の略歴はこのページの最終に掲載)

なお菅原先生には、先生の著作の要約および一部転載をご承諾いただきました。
(礼を失した、またこの素人の稚拙なページにご配慮いただき、深く感謝致します。)

紀伊国名所図会に見る海禪院多宝塔

2017/07/31追加:
○「和歌浦の風景 カラーでよむ『紀伊国名所図会』」2012 より(解説:額田雅裕、彩色:柴田浩子)

妹背山全図00:下図拡大図

妹背山全図01:下図拡大図

○「紀伊国名所図会 巻之2」 より
妹背山養珠寺(日蓮宗一致派)
承応3年(1654)の造営。心性院日遠上人の開基。諸堂坊は遠州養珠院の御殿を移建する。

妹背山全図:下図拡大図

多宝塔部分図:下図拡大図

記事:「多宝塔(妹背山にあり。本尊釈迦仏・阿難・迦葉の三尊、ともに加藤清正朝鮮征伐のときに
かの地より持ち帰る尊容なり。本尊御身体に、尊尼の霊骨をおさめたまふ。)
唐門、瑞門、自然石階段、拝殿。塔頭 海禪院。
当山御宝塔は、慶安2年中正院日護僧都の開基にして、すなわち東照神君三十三回の御追福として、
幾許の小石に法華の首題を書写し給ひ、なほ本院太上皇の叡聞に達し、尊尼の信心深厚叡感のあまり、
御震翰の題目を染めさせ、ならびに公卿百官の所書題目石を贈らせられ、なおまた諸国より集来の題目石、部数21万を、
すなわち宝塔の下をふかく窟りて、これを収めたまふ。・・・以下略」

2017/07/31追加:
○「和歌浦の風景 カラーでよむ『紀伊国名所図会』」2012 より(解説:額田雅裕、彩色:柴田浩子)
 
   妹背山/大相院/東照宮/天満宮:上図拡大図(容量:1.78MB):西村中和/画:「紀伊國名所圖繪」に彩色を施す。

2015/10/30追加:
○ 「紀伊国名所図会 巻之2」 より
妹背山/大相院/東照宮/天満宮:和歌の浦全図である。
 妹背山/大相院/東照宮/天満宮

西国三十三所名所圖會の記事

○「西国三十三所名所圖會 巻之3」
妹背山
多宝塔(いもせ山にあり。本尊釈迦・阿難・迦葉の三尊を安す。
慶安2年中正院日護僧都の開基にして、神君三十三回忌の御追善として建立したまふ所なりとぞ。)

江戸期多宝塔平面図(南紀徳川史)

  ※「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 より転載

妹背山御宝塔図:下図拡大図

2006/02/17追加:
 紀州和歌浦會圖1:江戸後期;全図 : 中央が紀伊東照宮・右下が海禅院
 紀州和歌浦會圖2:上図の紀伊東照宮及び紀伊海禅院部分図 、左上御宮が東照宮三重塔・右下が海禅院多宝塔

明治初頭の妹脊山・多宝塔

明治初頭撮影の多宝塔:下図拡大図

明治初頭撮影の妹背山:下図拡大図

海禪院多宝塔創建と現状

2009/11/07追加
元和5年(1619)徳川頼宣入府。矢継ぎ早に以下の整備を行う。
雑賀山に東照宮を造営、別当天耀寺(雲蓋院)を開山。
東照宮の鬼門の守護として東北の小山に愛宕権現を勧請、別当円珠院を置く。
生母養珠院の逝去後、養珠院菩提のため妹背山を整備、多宝塔を建立、霊牌所として養珠寺を建立、その背後の丘に鎮守妙見堂を置く。
養珠寺子院である海禪院を多宝塔管理の寺院として妹背山に建立する。

多宝塔は承応2年(1653)建立。和歌の浦・妹背山にあり、観海楼の背後に聳える。
この地から、対岸はるかに紀三井寺(多宝塔)を望むことができ、逆に紀三井寺からも遠望できる。

そもそも、この地には徳川家康33回忌追善に養珠院の発案で法華経を収めた石室が設けられ、
その上には法華題目碑が建てられ、それを保護する小堂が建てられていた。
承応2年(1653)養珠院が逝去し、徳川頼宣は和歌浦に養珠寺を創建し、妹背山の小堂を改め
新たに多宝塔を建立し、あわせて拝殿・唐門を造営し、その護持のため海禪院を創設する。
多宝塔には釈迦如来を安置し、養珠院の分骨を納めたという。
多宝塔屋根の軒丸瓦には葵文、軒平瓦には澤潟文(養珠院実家蔭山家文)が使用される。
一辺3.21m。

明治維新後は堂宇の多くが退転し、多宝塔のみが往時の面影を伝える。
なお最近「妹背山海禪院復元整備(徳川期伽藍の復興)」に向けての努力が続けられている模様である。
 ( この様子は、「妹背ふたゝび・・・」のサイトにある。なお当サイトには 伽藍復旧に向けての発掘調査報告なども記載されている。)
  ※<2015/10/24記す。>残念ながら、詳細は不明であるが、「妹背ふたゝび・・・」のサイトは閉鎖、
  「妹背山海禪院復元整備(徳川期伽藍の復興)」の取組は頓挫している模様である。

2015/10/30追加:
○「和歌山史要」増補3版、和歌山市役所、昭和14年 より
 和歌ノ浦海禅院
報恩寺末。慶安元年頼宣生母養珠夫人、東照宮の33回忌追善のため、法華題目7字を片石に書かせしに、太上皇の叡聞に達し、叡感の餘り親しく宸翰を染めさせられ、また諸王公卿に詔して同じく片石に書さしめ、合わせて之を賜ふ。即ち夫人書す所と合わせて総て20餘萬石、石窟を穿ってこれを納め(宸筆の片石は石函に盛て中央にありという)紀藩儒臣那波元成書する所の石碑を建て小堂を造りしが、承応2年(1653)8月夫人掩粧の後、頼宣これを改めて二重卯の宝塔を造り、釈迦如来を安置し本尊となし、夫人の分骨を本尊腹中に納む。また拝殿、唐門を建て諸堂守護の為西ノ濱に当寺を建立、養珠寺に属せしむ。
しかれども廃藩後衰頽し、今は僅かに宝塔、水閣、寺務所を存するのみとなれり。

海禅院多宝塔

2003/01/05撮影:
 妹背山遠望1(左図拡大図) :東方より
 妹背山遠望2

2007/03/28撮影:
 妹背山三断橋
 妹背山遠望:西南より
 妹背山・多宝塔

2015/10/08撮影:
 海禪院多宝塔37:紀三井寺より 遠望
 妹背山三断橋2
 妹背山観海閣
 海禪院経王堂
 海禪院経王堂内部

2001/01/05撮影:
 紀伊海禪院多宝塔1
   同        2
   同        3

2003/01/05撮影:
 紀伊海禪院多宝塔1:左図拡大図)
   同        2
   同        3
   同        4(葵文と澤潟文)
   同        5
   同        6
   同        7
   同        8(扁額)
   同        9
   同        10

2007/03/28撮影:
 紀伊海禪院多宝塔1
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5
   同        6

2015/10/08撮影:
 海禪院多宝塔31
 海禪院多宝塔32
 海禪院多宝塔33
 海禪院多宝塔34
 海禪院多宝塔35
 海禪院多宝塔36
 海禪院多宝塔38
 海禪院多宝塔39
 海禪院多宝塔40
 海禪院多宝塔41
 海禪院多宝塔42
 海禪院多宝塔43
 海禪院多宝塔44
 海禪院多宝塔45
 海禪院多宝塔46
 海禪院多宝塔47
 海禪院多宝塔48
 海禪院多宝塔49
 海禪院多宝塔50
 海禪院多宝塔51
 海禪院多宝塔52
 海禪院多宝塔53
 海禪院多宝塔54

海禪院多宝塔内部

題  目 碑:下図拡大図

2001/01/05撮影:

内部には題目碑(高さ182cm、幅75cm、厚さ42cm)と
その下に石室(南北164cm、東西210cm、深さ189cm以上)がある。
石室には経石が収められる。

(題目碑は1基であり、掲載写真は2枚の写真を左右に貼付したものである。)


題目碑土台 :下図拡大図

「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 より転載

表面上部:題目、下部:「養珠院殿妙紹日心大姉」(養珠院法号)を刻む。
裏面:「南無多宝如来」と「南無釈迦牟尼仏」の2仏、「東照大権現」と「大弁財天女」の2神を刻む。
紀年銘:慶安2年、願主:養珠院、銘文撰述:日護上人の僧官・法諱・・・を刻む。


「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、
清文堂出版、2002 より転載

石室内石室:下図拡大図

1996年海禪院多宝塔下の石室から数千個の経石が発見される。(和歌山市教委)
和歌山市教委の調査によると、石室は縦2.1m、横1.7mで、
石室内の深さ2.4mのところから下に直径約3〜18cmの石がぎっしり詰まっている。
その数は数千個で、どの深さまで埋まっているかは調査されてはいない。
一つの石にいくつも経文が書かれ、経文で多宝塔を描いた石や、「慶安二年」(1649)の文字がある石も発見された。
  これは、徳川家康の33回忌追善のため、養珠院(家康室、初代紀州藩主・頼宣の生母・お万の方)が、 全国から二十数万個も集めて、石室の収められたと伝えられる「南無妙法蓮華経」と書かれた経石であろう。
「南紀徳川史」には、延べ250万回分に相当する経文を書いた石が集まったと記述される。

2007/01/01:「Y」氏ご提供
 安藤広重「和歌の浦」:「大日本六十余州名所図会」、歴史画報社、昭和9年 に掲載印刷されたもの。
 「和歌の浦」:「改正日本国尽7-南海道」瓜生寅、明治7年、淡彩木版挿絵

2007/05/09追加:
JIT(日本画像行脚)様より
 <053-「遠い風景」所収>
  紀伊和歌の浦
 「日本写真帳」、明治45年発行 より
  和歌の浦

「和歌山県絵はがき集 写真帖」より
 古雅掬すべき和歌の浦・絵はがき:昭和初年の撮影と云う。
 和歌の浦 下り松・絵はがき:昭和初年の撮影と云うも、この下り松は大正8年枯れ死と云うから、それ以前の撮影か。

2007/08/30追加:
「近畿名所」高木秀太郎、神戸:関西写真製版印刷、明36年 より
 和歌の浦131
「日本名勝写真図譜略説」東京:画報社、明治34年 より
 和歌の浦132

2009/11/07追加:
「紀州東照宮の歴史」特別展図録、和歌山県立博物館、1990 より
和歌浦図:江戸前期と推定
 和歌浦図・全図:左に東照宮・雲蓋院など六坊、中央に養珠寺・妙見宮・妹背山・海禪寺、右は紀三井寺
 和歌浦図・部分:左上は妙見宮・その下は養珠寺、右下は妹背山多宝塔などがある。

2015/10/30追加:
「紀州経済史文化史研究所所蔵」戦前絵葉書 より
 和歌の浦妹背山観海閣多宝塔


菅原正明先生略歴
明治大学文学部卒業、明治大学大学院修士課程文学研究科(考古学)終了
奈良国立文化財研究所主任研究官・(財)和歌山県文化財センター次長などを経て
前和歌山県立博物館副館長
妹背山護持顕彰会顧問
主要著作・論文
「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」清文堂出版、2001
「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」清文堂出版、2002
「西日本における瓦器生産の展開」国立歴史民俗博物館、1989
「金剛峰寺真然廟」高野山文化財保存会、1990
「泉南紀北の支配者 根来寺」『中世の風景を読む』5、小学館、1995
「祈りの考古学」和歌山県文化財センター、1998

なお、当サイト中の以下のページに先生のご研究成果を利用。
「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」の著作からは
紀伊海禪院多宝塔>・・・・・当ページ。
紀伊養珠寺、養珠院、日護上人
紀伊天野社(丹生都比売神社)多宝塔跡
「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」の著作からは
<紀伊の塔跡>の紀伊上野廃寺の項
<江戸後期三重塔>の紀伊道成寺の項
<国分寺塔跡>の紀伊国分寺跡の項
<紀伊の塔跡>の紀伊高野山大伝法院真然堂の項

2005/06/12:
関連ページ:「検証 もうひとつの武将列伝」<当ページに掲載の海禅院多宝塔写真 の転載要請があり、受諾する。>

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2006年以前作成:2017/07/31更新:ホームページ日本の塔婆