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どん底/底の底



 病のために若くしてこの世を去った青年医師、井村和清氏の手記『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』をご存知でしょうか。そのなかに、彼が主治医から病名を告知され、右足を大腿から切断する手術が必要であることを告げられたときのことが書かれています。

「私は皆が病室から去ったあと、カーテンを開けました。駐車場が眼下にみえます。何台かの車が出入りし、急ぎ足で車から走ってくる人が見えます。バス停でバスを待つ人々もいます。私には、それらすべてが、私と全く異種の、まるで異性人でも見ているような感覚に陥っていました。あの人たちは私とは違う。あの人たちは生きたい所へ自分の足で歩いてゆける、走ることもできる、階段も昇れる。けれども、私はもう、あの人たちとは違うのだ。情けない思いでした」

 どん底に突き落とされたような、どうすることもできない衝撃が走ったことでしょう。だが、ここで底が尽きたわけではありませんでした。底が抜け落ちて、底の底が姿を現したのです。それは、片足を切断したにもかかわらず肉腫が再発し、そのことをみずからレントゲン写真に確認した日のことでした。

「その夕刻。自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした」

 どん底、つまり底の底に到達したとき、われわれは彼のように、森羅万象が輝いていることに気がつくことがあります。すべてが、ピカピカ、キラキラと、光って見えるのです。それに伴う感情は、一切合切がありがたいという感謝です。けれども、これは神秘的な現象ではありません。割と多くの方々が、さまざまな状況で経験しているはずです。

 このような光景を目の当たりにしたときに起こっているのは、それまであった意識が解体して、新たな、別の意識が生まれようとしていることです。新たな意識が誕生しつつあると言っても、いまある意識が死を迎えようとしているわけですから、それは危機的な状況であることに変わりありません。意識の死と再生は同時的に発生するわけで、そのような出来事の起こる場が「どん底」であり「底の底」なのです。

 学問的には、「精神の現象学」を書いた哲学者ヘーゲルについて研究した、解釈学者ガダマーが「ヘーゲルの弁証法」のなかで解明しようとしている現象です。けれども、ちょっと難しいので、哲学マニア以外は立ち入らないほうがよいでしょう。

 アルコール依存症の自助グループのなかで、どん底に行かないと断酒できないという言葉をよく耳にします。なるほど、その通りであると思います。生まれ変わること、人変わりが必要なのです。アディクション・嗜癖の領域では、「底」なる言葉が重要な意味をもっているのです。

 毎日寝て起きることも、やはり意識の死と再生です。昨日までの自分が今日の自分へと生まれ変わるのです。どん底の苦痛な意識の解体は、われわれの人生にとって何度もあることではありませんが、気がつかないほどの意識の死と再生は毎日起こっていると言うのが本当のところだと思います。

 「何だか今日は気分がいいなー。天気もいいし、昨日までくよくよしていたことが嘘のよう。散歩でもしようか」なんていう日曜日は、昨日までの自分から今日の自分へと、生まれ変わっているのではないでしょうか。

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