江別等、札幌圏のカウンセリング相談
カウンセリングはもともと、相談者とカウンセラーが実際に顔をあわせて対面で行うものでした。しかし、テクノロジーの発展に伴って、電話カウンセリングやメール・カウンセリング(インターネット相談)等の遠隔カウンセリングが出現しました。このページのテーマは、電話やメールによる相談についてです。
電話相談の走りは、何と言っても「いのちの電話」でしょう。いのちの電話には歴史があります。これまで多くの方々の声に無料で、それも24時間、耳を傾けてきました。回線がいつも混みあっているため、つながらない難点があるようですが、それも多くの利用者がいることの裏付けです。自殺予防に、これほど貢献している団体は他にないのかもしれません。
人間の伝達手段は、電話からメールへと比重が移りました。そこに現われたのがメール相談です。思い立ったときに、時間を選ばずに送信すると、ほどなくしてカウンセラーからの回答が届きます。本当に便利です。
通常の対面式と、電話やメールによる相談は、一体どんなところが違うのでしょうか。
まず一番大きな違いは、相手がいまここに居ない、つまり「顔が見えない」と言うことです。さらに、メールになると、対面や電話では可能な、「声を聞くことができない」わけです。別の視点からは、メールや電話だと必ずしも名乗る必要が無いわけですが、その意味で匿名性が保たれると言えます。
要約すると、こういうことになります。対面式だと相手の顔が見えて、どこの誰なのか明かされますが、遠隔相談だと、相手の顔が見えず、どこの誰なのか分からないまま匿名性が保たれるのです。
匿名であること、自分のことを誰も知らないことについて、少し触れます。私たちは、家庭や職場などで、自分の名前を名乗って生きています。あるいは、名前で呼び掛けられます。いろいろなしがらみもあって、少し窮屈なときもあるかもしれません。けれども、職場から自宅への帰路、電車やバスに乗ると、そこにはみずしらずの人間ばかりが乗車しています。自分はその人たちのことを何も知りませんし、その人たちも自分のことを知りません。みんなが匿名になれるときです。そのときだけは、少し気が楽になるかもしれません。私たちがたまに旅行して見知らぬ土地を旅するのも、匿名になれる安堵感、癒しがあるからなのかもしれません。
多くの相談者が電話やメールによるカウンセリングを求めるのは、さまざまなニーズがあるからだと思います。一番大きな理由は、やはり匿名性を保てることなのかもしれません。さらには、人と顔を合わせるのが怖くて、家から出ることができないと言う方々には、他人とコミュニケーションを営む窓口として、なくてはならないものであるはずです。遠隔相談は、このような相談者のニーズがあって成り立っているのです。
さて、カウンセラーとしての私の話です。私は、電話やメールによる相談援助は行いません。もちろん、私にも電話相談の経験がありますが、やはり相手の顔が見えないと、自分の力量を発揮するのが難しいような気がするからです。私のスタイルは、相手がいまここに居て、その声に耳を傾ける「いまここ」でのアプローチを重視します。文字や信号だと、どうも駄目です。
メールの場合、書かれた文章を解読します。やはり意味の誤読が起こりやすいです。たとえば「元気」と言う一文字でさえ、それを判断するコンテクストが限られるのです。本当に元気なのか、元気が無いので元気になりたいと感じているのか、そのような細やかなニュアンスは、やはり実際に生の声を聞かないと分かりにくいのです。電話もそうです。声のトーンが実際の声と微妙に異なりますし、音声に時間的なズレが生じて間合いが狂いますし、やはり実際に顔を合わせての会話からは遠くなってしまうのです。
では、テレビ電話だとどうなのか。これは面白い問いです。姿も見えるし声も聞けますから、対面式と変わらないのではないかと。実際にテレビ電話を使って会話したことはあります。しかし、映像の質が悪く数秒ごとのスナップショットが見えるだけで、音声とのずれが大きかったです。
では、テレビ電話の性能が向上して、映像も音声も鮮明になったとしたらどうなるのか。おそらく、かなり話しやすくなるでしょう。けれども、やはり相手は画面のなかに映っているだけです。ここには居ないのです。
問いをさらに進めましょう。では、SFチックだが、ホログラムの技術が進化して、相手が自分の目の前に立体的に姿を現わすとしたらどうなるのか。ヴァーチュアル・リアリティの世界です。
ここまでくると、もう私には考えが及びません。けれども、電話やメールのような匿名性が失われることは確かだと思います。こうした技術的革新とカウンセリング形態の変化については興味深いところではありますが、それはまたの機会にします。
関連記事
札幌とその近郊の精神衛生を求めて