江別など札幌圏のカウンセリング相談
カウンセリングの効果とは何か、相談者の方々にとって一番の関心事であると思います。それを受けるとどうなるのか、はっきりと分からないまま、それでいて何か期待を持って来談する方がほとんどでしょう。ここで少しだけ、効果について説明します。
カウンセリング(以下、療法と表記します)にはさまざまな理論があります。行動療法、来談者中心療法、認知療法、精神分析療法、ゲシュタルト療法など、本当に目が回るほどの流派があるのです。それぞれが独自の人格理論を唱え、療法によって何がどのように変化するのか、それぞれがまったく異なる見解を示します。
たとえば、無意識の心的内容が意識化されることでよくなるとか、誤って学習されたことを正しく再学習することでよくなるとか、自動的に思い浮かぶ厄介な考えが修正されることでよくなるとか、自分の感情を体験することでよくなるとか、耐えられない記憶を脱感作することでよくなるとか、潜在能力が開発されることでよくなるとか、バラバラです。
相談者の方々がもつニーズもさまざまです。苦痛な症状から解放されたいとか、いま出来ないあることが出来るようになりたいとか、分かっちゃいるけどやめられないことがあるとか、自分の意志ではお手上げのことがあるとか、その他もろもろです。けれども、共通しているのは、いまある悩み、苦しみから解放されて、少しでも楽に生きたい、と言うことのような気がします。誰しも、藁をもすがる思いでやってくるのです。
このように考えると、療法を受けることによる効果とは、相談者が少しでも楽に生きられるようになることです。療法であるカウンセリングは、相談者のこうしたニーズを満たすことができるのでしょうか。
こんなことを言うとびっくりされるかもしれませんが、私の答えは、半ばイエス、半ばノーです。もっと言えば、療法による効果は、実際にやってみないかぎり分からないのです。確かに、一般的なレベルで言えば、さまざまな療法には効果があります。その効果を大々的に宣伝して、相談者たちをたくさん集めるところもあるのかもしれません。しかし、それはあくまで一般的なレベルの効果です。一人の生きた人間に対して具体的に効果があるのか、どの程度の効果があるのかは、やはりやってみなければ分からないのです(療法の効果について説明するカウンセラーのホームページを見ると、「すべての方に当てはまるわけではありません」といった「但し書き」が必ず添えられて居るはずです)。
やってみなければ分からないと書きました。もう少し、医学的なリスク・危険度の問題と絡めて考えてみます。
たとえば、こうです。何らかの心臓疾患が悪化して、もう数週間しか心臓がもたないとします。担当医は、こう言います。「手術が成功すれば助かります。しかし、難しい手術なので成功率は10パーセントです」 一か八かやってみなければ分からないわけです。それに対して、盲腸の手術を控えた人の話です。担当医は、こう言います。「簡単な手術ですから、心配無用です。成功率は、ほぼ100パーセントです」 手術前から成功が予測されるわけです。
この二つの例を使って、「やってみなければ分からない」について考えてみましょう。ここで医師が口にするパーセンテージは、一般的なレベルの話です。つまり、100人に同様の手術をして10人とか、ほぼ100人が成功したデータがあり、それに基づく予測をしているわけです。しかし、そのようなデータに基づく発言にもかかわらず、あくまでそれは予測にすぎません。成功するか失敗するかは、実際に手術を終えてから初めて「成功した」あるいは「失敗した」と言えることです。そうです、手術の難易度にかかわらず、どちらもやってみなければ分からないのです。
私はいつも一般的なレベルでない、個人のレベルで具体的に考えますから、やってみなければ分からないのです。しかし、例のような「一か八か」やってみなければ分からないと言う(怖い)意味ではありません。何か物を作ろうとしてイメージを膨らませ、実際に出来上がった物が、考えていたものとちょっと違うとか、思い通りに出来たとか、そんな体験を誰でもしたことがあると思います。そのような意味で、療法はやってみないと分からないのです。
相談者が求める療法の効果が、やってみないと分からないとなると、おそらくがっかりする人たちがいるはずです。療法に対する期待が大きければ大きいほど、なおのことです。残念ながら、私は夢を売る人間ではないようです。
もっとがっかりさせてしまうかもしれません。もうひとつ、療法では、よくなる前に悪くなることもあるかもしれません。たとえば、これまで自分から逃げてきた人が、もう逃げてはいられない、自分と向き合って真剣に考えたい、と言って来談したとします。自分と向き合うことで、このような方は一時的につらい体験をするでしょう。受け入れられない自分の嫌な側面と向き合うわけですから。このような方にとって、少し楽になってよくなるのは、心の痛みを通過してからなのです。
療法は本来、痛みのある心に安らぎや癒しを与えるものです。それが基本であり、効果です。しかし、そのような安らぎを超えて、痛みとともに自分と向き合おうとする人たちもいます。痛みを超えた、その向う側を見ている人たちです。そのような意味で、療法は、安らぎのときもあり、苦しみのときもあり、まるで人生そのもののようです。
「魔法のように、悩み、苦しみから解放されます」、私には、そんなキャッチフレーズで人を欺くことはできません。「やってみなければ分かりません。でも、希望を失わずに、やってみませんか」、私に言えるのは、こんなちっぽけなこと。
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