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消えてしまいたい


 「消えてしまいたい。このまま、ずっと」「もう消えちゃいたい」 誰もが、こんな言葉をつぶやいたことがあるのかもしれません。

 「消えてしまいたい」は若い人たちがよく使う言葉です。深刻な意味合いをはらんでいることもあれば、ただ口にしただけの軽い意味合いで使われる場合もあるでしょう。ここでは、それを耳にしたものが重く受け取らねばならない場合について述べるつもりです。

 「もう消えてしまいたい」は、そのまま受け取れば「もう死にたい」と言う意味なのかもしれません。すべてに絶望して希望を失い、「あの世に行きたい」の意味です。涅槃へ。

 ところが、このような言葉を発する相談者のお話によく耳を傾けると、「死にたい」とは微妙に異なるニュアンスを帯びていることが分かります。つまり、自分の存在を消し去りたい、何も感じなくなりたい、と言うわけです。自分の存在を、あるいは周囲の世界を感じなくても済むように、極限まで感覚を麻痺させたいのです。

 鋭敏になっている感覚を麻痺させたいとき、人間はどうするのでしょうか。おそらく、アルコールや、ドラッグや、オーバードース(安定剤や睡眠薬の一気飲み)に走るでしょう。いわゆる解離の能力が高い方は、自動的に感覚麻痺のスイッチが入るので、感覚を麻痺させる物質を体内に取り込む必要はあまりないのかもしれません(もちろん例外や重複もあるでしょう)。

 感覚がマヒしてふわっとした感覚、浮遊感、その中にいれば辛い現実を少しの間忘れることができる。「消えてしまいたい」人には、上記のような何らかのアディクションが伴っているかもしれません。「消えちゃいたい」が「ふわっとしていたい」にすり替えられるのです。

 「消えてしまいたい」「ふわっとしていたい」「死にたい」これら三つの言葉を並べると、苦痛から解放されて「生きたい」という生命的な本能が見えてきます。生死の境で生きながら、そこから生の方向へ這い上がることができたら、その人は死なずに、何とか生きていけるのかもしれません。

 生きているのか死んでいるのか定かではない意識状態、すべてがおぼろげに感じられる程度の浮遊感、そのような状態に身を置こうとするのは死にたいからではなく、生きたいからなのかもしれません。

 消えてしまいたい気持ちを束の間実現させてくれるアディクションは、その意味で言えばあくまで手段です。しかし、そのアディクションはそれ自体が次第に目的になってしまうかもしれません。問題が複雑化し、こじれ、もはや自分の力ではどうすることもできなくなってしまうのです。


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