札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」です。どうして自分は生きているのだろう、何のために・・・、こんなことは考えずに生きるのが大部分の人間であると思います。つまり、生きるとは当り前のこと、自明のことなのです。
しかし、人間が極限の情況におかれたり、絶望の淵にあるとき、生きることの意味と向き合わねばならない場合があります。死なないで生きている理由、死なずに生きていたい理由、つまり生命の根拠へと投げ出されるわけです。これは人間として根源的な問題です。仏教(宗教)や哲学(特に実存哲学)で扱う問題でもあり、生きる意味が分からない、生きる意味がない、生きる意味を失うなど、人間性の極限の圏域にある問題なのです。
生きていたい理由を悟ったとき、人間は生きようとするでしょう。生きていたい理由が見出せなかったとき、人間はみずから命を絶つでしょう。自殺です。その違いはどこにあるのか。おそらく、それは誰か、他者の存在であると思います。
「夜と霧」などで著名な実存的精神科医、人間性心理学者のフランクルが「それでも人生にイエスと言う」のなかで、次のような趣旨のことを述べました。つまり、人生の意味をわれわれが問うのは間違いだ、むしろ人生の方からわれわれに問いを提起するのだと言うものです。ここで言う人生とはドイツ語のレーベンの訳です。人生や生命の意味です。
われわれのちっぽけな自我を超えた生命の側から問われている、といった発想は、東洋思想(タオ)と随分類似するように思われます。自然によって「生かされている」と言う表現を思い出して下さい。哲学のハイデガーも「エス・ギープト」、つまり「それが与える」と言います。
生きる意味を失ってしまったとき、それが将来するのを「待つ」ことが大切になってきます。しかし、その時を待てずに、苦しみのあまりみずから生命を断つ人たちが後を絶ちません。生きる意味を失ってしまった人たちにカウンセリングは何ができるのだろう、私もずっと問われ続けるのです。以上、札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」でした。
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