体罰って、小学生までは日常的にあっても仕方がないかなと思いますが、大人への階段を登り始めた高校生に対して行うのはどうか?と思いますね。
体罰を受けた側が心の底から申し訳ないと思う気持ちになるのなら、仕方が無いかと思いますが、心が折れるようだと、それは指導として間違っているでしょう。
私自身はいくつかの体罰で心に残っている物があります。幼稚園くらい頃に友達に怪我をさせてしまい、その友達の母に往復ピンタをくらいました。その後、家帰ってから、親にもピンタをくらいました。今とは違い、モンスターペアレンツがずっと少ない時代でやった行為に対して、客観的に親御さんが判断していた時代ですね。
喧嘩で負けて帰ってきたときは、3m位、父に張り飛ばされて家にしばらく入れてくれなかったこともあります。母からもよく体罰を受けましたが、理由が分からずにやられる体罰というのは嫌でしたね。そういうのは苦い思い出ですね。
学校でも、整列が曲がっているだけで蹴られたり、体育館で映画上映のときに滑り込みしたら、監視の先生に何発も足蹴を食らったりと。特に映画館の方は怒りの感情しか無かった記憶があります(^^!。
そんな時代を生きてきた世代は、体罰が当たり前すぎて、指導する側に立つとその方法を取ってしまうんですね。
体罰をする方は、何故体罰するのかを説明できない人が多い気がします。そもそも説明出来るなら、体罰なんてしなくて済みます。説明が理解できない場合は仕方がない気もします。説明に対する理解力が進んでいない小学生なら仕方が無い時もあるというのはそういう理由からです。
大学時代の部活である大会で無様な試合をした後、先輩にピンタを食らいました。その時は心に染みましたね。その先輩自体は普段はピンタをするような人では無かったです。仕方なく私にピンタをくれたのだと分かります。チームの皆に迷惑をかけた事が悔しくて泣いた記憶があります。その先輩のお陰でどこか甘えた部分があったのが吹っ切れた記憶があります。部活は楽しければ良いという考え方もあります。しかし負けるの凄く嫌という考え方もあります。勝てるんなら地獄の底までも這い蹲ってやるという覚悟まで出来る人もいます。そういう流れの時は体罰を食らっても気にもならない世界が出来ます。この手の人たちは逆に負け続けると心が折れますね。だから指導する側も勝たせるために厳しく接した方が良い事もあります。それで弱小だったチームが勝ったりしたら、メンバーにとっては何にも変えられない素晴らしい経験となります。そして厳しい先生の指導に感謝するものです。だから行き過ぎた指導というものが厄介で難しいものです。
一方、体罰を受ける側も時と共に変わってきいきます。私が会社時代に、親にも殴られた事がないという世代が入ってくるようになりました。この世代になると体罰に対する耐性自体持ち合わせていないだろうなぁと思います。実はこういう人たちは、精神的なタフさを持っていないです。体罰がタフさを鍛えるとは思っていませんが、不思議とそうなるのです。心が折れるのが早すぎたり、落ち込む期間が長すぎたりします。競争社会を生き抜く事が出来ないのではないか?と思わせたりします。この辺が体罰を肯定をする人の言い分となるのかも知れません。
それでも指導者は、手を出す前に、何故叱るのかを説明する癖をつけるべきじゃないかなと思います。相手が高校生ならもっと大人なんだと考えて指導すれば良いと思います。
(2013/1/14 記)
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