肥 前 小 城 光 勝 寺 ・ 肥 前 日 蓮 宗 諸 寺

肥前小城光勝寺・肥前日蓮宗諸寺

肥前松尾光勝寺

 松尾山と号する。日蓮宗では鎮西本山と称する。
文保元年(1317)九州探題としてこの地に赴任した千葉胤貞により創建され、胤貞の猶子である中山法華経寺3世日祐を開山とする。
その後も千葉氏の外護のもと、14世(13世?)智観院日円上人までは中山法華経寺と両山一主制を採る。
永享5年(1433)初めて、専任の住職として中山より日親上人が第14世として赴任する。上人は天台などの影響がある寺風を厳しく糾弾し、鎮西の宗風を糺し、鎮西一円に弘教する。
しかし、日親上人の厳格な指導は領主千葉一族への指弾となり、遂に永享9年(1437)破門され、光勝寺を去り再び上京することとなる。
慶長年中に至り、佐賀藩祖鍋島直茂によって本堂はじめ伽藍が一新されるも、享保年中(1716-)に伽藍を焼失する。
本堂は寛延年間(1748-)に再建。仁王門は、元治元年(1864)に再建。
親師堂は千葉氏・鍋島氏の一族石井氏の寄進である。
現在伽藍として、総門・仁王門・楼門・本堂・親師堂などを有する。
また塔頭として親成寺、教仙寺がある。

◆長教山修善院(三日月久米)
延文年間(1356-1360)千葉胤貞の子智観坊日貞上人(光勝寺二世)が開基する。
 ※日貞上人は下総千葉胤貞の子で、中山法華経寺第2世日高上人の弟子である。晩年下総中山に還って法宣院を開創する。
寛永3年(1626)佐賀藩祖鍋島直茂の正室陽泰院<父石井常延(日教)、母蓮華院(日長)>の追善供養のため、同院を現在地に移転再興し、山号を両親の法名から一字ずつとり長教山修善院とする。
以降、明治維新まで鍋島氏、石井氏の肥後を受ける。
昭和54年本堂・納骨堂・鬼子母神堂が新築される。
以下の末寺を有したと云う。
諸富山親立寺(小城)、福寶山常満寺(小城)、長照山延命寺(小城松尾)、北浦山延福寺(小城松尾)、武久山妙暹寺(三日月長神田)、
増長山常圓寺(三日月長神田)、長妙山圓教寺(三日月高田)、天龍山泰平寺(三日月久米)、泰藤山妙顕寺(三日月樋口)、
妙覺山福正寺(杵島郡江北町惣領分上惣)、福岡山蓮成寺(佐賀市鍋島)


肥前の日親上人ゆかりの寺院

◆休息山親成寺(小城)
日親上人が松尾光勝寺に下向のとき、この地にあった妙見社で21日間祈願の後に入山すると伝える。
故に、山号を「休息山」と号する。

◆長池山妙勝寺(三日月三ヶ島)
日親上人が三ヶ島で百日間説法をなす。その成就の日、東方数町の地が光り輝き、その地を村人が掘ると、釈迦像が出現する。
この釈迦像を祀ったのが妙勝寺と云う。

◆増長山常円寺(三日月長神田):長教山修善院末
日親上人の弘教を阻むため、禅林寺の僧及び庄屋犬山氏は、日親上人を井戸に落とし入れ、投石し殺害を企てる。ところが、犬山家の一人息子が身代わりとなっていたので、 一人息子が息絶えることとなる。
犬山氏は大いに後悔・懺悔し、息子の蘇生を日親上人に懇請する。日親上人は祈祷し、蘇生をさせる。
犬山氏は日親上人に帰依し、禅林寺の僧も「日如」と改名し、寺号も「常円寺」と改号すると云う。

宝塔山親正寺(大和川上峡)
川上川(嘉瀬川)川上峡左岸にあり、対面(右岸)には妙法寺川上別院がある。
「血染めの宝塔」などと称される本尊題目は岩壁に刻まれるも、それを覆うように宝塔型の覆屋が建つ。覆屋の建築年代は不明、宝塔型身舎はRCで上部の軸部は木造とも思われるが不明、粗末な相輪を掲げる。
宝塔山親正寺は膝折坂の宝塔山とも称する。本尊の題目は「血染めの宝塔/書きかけの題目/清正公槍先のお題目」などと称する。この題目の上段は日親上人の彫ったものであり、下段の「華経」は加藤清正の筆になると伝える。
日親上人は中山法華経寺を破門され、光勝寺を追われ、迫害の中、京に上る途中、この川上の地で血に染まりながら谷間の清水で洗い、題目を彫りはじめるが、追手が迫り「蓮」の 字の途中で彫るのを断念する。
時は移り、
文禄元年(1592)熊本から唐津名護屋城に向かう清正がこの地を通過するとき、突然乗馬が膝を折り、立ち止まる。清正はここに書きかけの題目があるのを見出し、そしてその由来を聞き、それならばと穂先で「華経」の文字を書き足し、石工に残りを彫るように命じ、進軍を開始すると云う。
2013/09/22撮影:
 宝塔山親正寺本尊題目1   宝塔山親正寺本尊題目2    宝塔山親正寺本尊題目3
 本尊題目宝塔型覆屋1     本尊題目宝塔型覆屋2     本尊題目宝塔型覆屋3     本尊題目宝塔型覆屋4
 日親上人血洗いの霊水     宝塔山白龍の滝         宝塔山親正寺本堂

肥後国:この項は肥後国である。
玉名常楽山妙性寺
日親上人留錫の地。応永32年(1424)久遠成院日親上人によって天台宗から日蓮宗に改宗すると伝える。
詳細は不詳。
2013/09/22撮影:
 玉名妙性寺山門     玉名妙性寺本堂     玉名妙性寺玄関・客殿?     玉名妙性寺納骨堂
 玉名妙性寺小宇跡(堂名不明)
 日親上人碑1:側面     日親上人碑2:正面     日親上人碑3:側面     妙性寺題目碑
なお、東方1kmの高瀬町にある妙法寺も日親上人留錫の地と云う。

圓教山得城寺(長崎市神浦江川町)
 神浦に現存するも、詳細は不明、広島國前寺末。
  ↓2023/08/27追加:
 下総玉造の玉造城跡にあった円教山得城寺は、25世真章院日憲代の明治12年三月二十三日火災に遭い焼失し、再興に至らず、長崎県上浦村(現長崎市上浦町)に寺籍が移されるという。
過去帳および他の什物と檀家の一部は蓮華寺に移される。
本寺の檀家は不受不施派内信が多く、禁制の時代、≪得城寺書院は、その隠れ庵≫であったという。
また現地には歴代住職のほか多くの墓碑が残されているようである。おそらく得城寺開山と思われる「得城院日進上人」の石碑もあると思われる。
 ※ただ、寺籍を移した長崎得城寺がなぜ広島國前寺末であるのかは不明。
  →詳細は総常盤村>南玉造得城寺址(玉造城址) を参照
  ※上浦得城寺景観(GoogleMap より転載):入母屋造の本堂、庫裡、別途客殿もある?、題目石、数基の板碑類があると思われる。


2013/10/07作成:2023/08/27更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系