卯 木 山 妙 蓮 寺
★妙蓮寺三重塔
□都名所圖會(天明年間刊)
□妙蓮寺(部分):「都名所圖會」巻1より
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「都名所圖會」妙蓮寺:左図拡大図
妙蓮寺三重塔と推定される塔婆が描かれる。
三重塔は天明8年(1788)の大火で類焼。
※天明の大火 2004/12/29:画像入換 |
都名所圖會記事:
卯木山妙蓮寺は寺内通小川の西にあり、右同宗にして開基は日像上人なり。古は西洞院五条にあり。柳屋仲興といふもの日像に帰依して宅地を寄附し柳寺と称す、其後大宮通四条の南にうつし、又元誓願寺通大宮に遷、天正廿四年に此地に移す。
当寺の什宝に、祈雨の本尊とて日蓮上人の自筆法華の曼荼羅あり。後光厳院の御宇に天下大に旱す、此本尊を以て桂川のほとりに至り諸雨の法を修せしむ、勿霊応ありて大雨数日に及ぶ、故に日蓮上人に大菩薩の号を賜る。
★妙蓮寺三重塔跡
・三重塔位置:
天明の大火前には、本堂(現在の本堂位置のやや東にあった)の西に祖師堂があり、三重塔は本堂もしくは祖師堂の西南附近にあった。
現本堂の西南に楠があり、その少し東、現在の井戸館の前(南)付近にあったと思われる。
但し残念ながら、塔跡を偲ぶものは何もない。
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2007/10/11追加
:2010/07/02画像入替
画像は「大本山妙蓮寺史」妙蓮寺、昭和57年 より
○寛延元年奉行調査古図:妙蓮寺蔵、寛延元年(1748)2010/07/02追加
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「大本山妙蓮寺史」妙蓮寺、昭和57年 より
○天明火災以前境内古図:
天明火災は天明8年(1788)、三重塔は祖師堂手前左、番神社拝殿手前右にある。北西、北、北東側に多くの寺中が並ぶ。
○洛陽妙蓮寺境内真図:
左図拡大図
天明の火災前に比べ、ほぼ規模を半減し、現在の規模となる。
但し宝塔跡の土壇がまだ残る。その他、番神社、同拝殿、同鳥居、宝蔵などの存在が知られる。 |
推定三重塔跡1:井戸館前から西南方向を撮影、
塔は楠の手前の車庫付近もしくはそのやや北付近にあったと推定される。
2004/12/29:追加
□妙蓮寺三重宝塔図:本門法華宗大本山卯木山妙蓮寺什宝
※画像は大本山妙蓮寺様ご提供(画像使用許諾:大本山妙蓮寺様より許諾済)
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□妙蓮寺三重宝塔図1(入手原図):左図の拡大図 □妙蓮寺三重宝塔図2(原図をグレースケールに変換した図)
妙蓮寺三重寳塔圖
大檀那
蓮成院天桂宗覺居士(天正13年8月9日細川丹波守)
瑞光院榮應妙宗禪尼(寛永7年10月13日同室?)
嘉永□年6月□□書旃
※□は不明:おそらく嘉永2年(1849)に軸装したものと思われる。
檀越は井上丹波守時忠並びに瑞光院榮應妙宗禪尼と解釈される。
☆三重宝塔の形式
典型的な唐様(禅宗様)建築であったと推定される。
☆建立時期は桃山もしくは江戸初頭と思われる。
(細川丹後守内室瑞光院栄応妙宗禅尼、寛永7年建立) 2006/09/18:
「秋の寺宝展」にて「三重宝塔図」を拝見する。
また
日蓮上人御親筆、日像上人御親筆、大覚大僧正御親筆の
各御本尊を拝見する。
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三重宝塔図から、層塔では珍しい純粋な唐様の三重塔であったことが窺える。
軸部:柱は粽を入れる。但し、初重下部に(写真では確認不可)礎盤が入っているのかどうかは不詳。
(※2006/09/18原図確認:礎盤は無く、亀腹を築き通常の礎石の上に柱を建てる。)
横材は全て貫とし、長押は一切使用しない。また典型的な唐様木鼻を使用する。
組物:斗栱も典型的な唐様三手先と思われる。柱間には蟇股を入れるも、詳細は不詳。
(※2006/09/18原図確認:蟇股は精巧な彫りを入れたものと思われる。)
扉:桟唐戸、窓:花頭窓、高欄:逆蓮頭を使用する。
垂木:確認のすべがないが、以上のような純粋な唐様を示すことから、三層とも扇垂木と推測される。
(「境内諸堂建物」では扇垂木三手先斗栱・・とある。下に掲載。)
屋根:檜皮葺きと思われる。
2007/10/11追加:
「境内諸堂建物」では
三重宝塔:高さ5丈但し九輪マデ三間四方彩色ノ扇垂木三手先斗栱、四方縁、屋根四方流、唐金九輪、
右建立細川丹後守内室瑞光院栄応妙宗禅尼、寛永7年建立 とあり
高さは15.15m、彩色ノ扇垂木三手先斗栱を用い、寛永7年瑞光院栄応妙宗禅尼の建立とされる。
層塔建築は基本的に中・近世の塔であっても、和様もしくは和様を基本に多少の唐様を折衷した様式を採るのが通例
とされる。
以上の意味で、唐様を基本とする塔建築は稀な例となる。
現存する層塔建築で、ほぼ完全な唐様を採用する塔は以下が知られる。
備後向上寺三重塔(室町・国宝)、加賀那谷寺(江戸初期・重文)、及び信濃安楽寺八角三重塔(鎌倉末・国宝)、
備後天寧寺三重塔(室町・重文)・・・多少崩はあるが、基本的には唐様を用いる。
三河三明寺三重塔(室町・重文)・・・3重のみがほぼ唐様と云う。(初重・2重は和様を用いる。)
□檀越に関して
妙蓮寺「覚」・細川、井上家資料:妙蓮寺寺中円常院様ご提供
私の能力では、判読不能の処も多々あるが、妙蓮寺寺中円常院様のご教示では、およそ以下の様に判読される。
蓮成院殿前丹州太守天桂宗覚大居士
天正 13年8月9日 井上家初代
井上丹波守時忠
蓮法院殿妙具日桂大法尼
天正5年2月6日
井上小左衛門尉時利
討ち死に 元和元年5月6日
妻 弘恵
時秋
妻 恵
瑞光院殿栄應妙宗比丘尼 寛永7年10月13日
(大檀那) |
系譜はおおよそ
時忠−時利/弘恵−時秋/恵
と推定される。 |
なお、井上家家紋は細川家と同一という。
大坂冬の陣後は(おそらく一族の誰かが)京都で商家を営み、現在に至ると云う。
また妙蓮寺円常院の住職就任式では、かならず井上家から出て、入坊する決りになっているとも云う。
※井上時利について以下のような異説がある(Web上の掲載情報)
官位:小左衛門。定利、利定とも称す。長井道利の三男。道利は斎藤道三の弟(もしくは長男とも云う)。美濃金山(兼山)城主。織田信長による斎藤家の滅亡の後、織田家に仕える。
時利は 慶長4年(1599)美濃と河内に760石を与えられるが慶長5年の関ヶ原の戦いで西軍加担、改易され浪人となる。
大坂の陣では大坂に入城し、冬の陣では谷町口を守備した。
元和元年(1619)5月6日の道明寺の戦いで討死。但し、慶長4年までの経歴は不詳とも云う。
井上頼次(五郎左衛門 成次。定次。半右衛門)は
時利の兄。長井道利の次男。秀吉に仕え、天正11年(1583)黄母衣衆に属す。大坂冬の陣、鴫野の戦いで討死。
→官位・没年などは合至するも、真偽は不明。
しかし、上記『妙蓮寺「覚」』が第1級資料と思われる。徳川また細川家を憚り、異説が生じたものと思われる。
○2004/10月掲載記事:旧記事
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□妙蓮寺三重塔図面掛軸:京都新聞より 2004/10月:妙蓮寺寺中円常院様から以下の情報を入手。
三重塔:
「ひぐらしの塔」と云われ、細川一族の建立という。
但し細川氏は当時、徳川方・豊臣方と分流し、この塔は豊臣方の細川氏の建立と云う。
それ故、豊臣方の細川氏は姓を井上に変えたと思われる。
(井上氏は今日も妙蓮寺寺中円常院の檀家と云う。)
三重宝塔図は軸装。先般の「虫干し」で公開される。 |
★妙蓮寺略歴
卯木山と号する。現在は本門法華宗大本山。本尊:十界曼荼羅。
永仁3年(1295)京都弘教の遺命を受けた日像上人は、柳屋仲興の帰依を受け、五条西洞院に一宇を建立する。
(妙法華経寺と号した。)
(この頃、日慶上人、日存上人、日道上人、日隆上人が庵を構えると云う)
後、破却される。
応永年中(1394-1428)大成房日慶上人が四条綾小路に妙連寺を建立し、復興する。
(開山は庭田重有息日応上人)
文明5年(1473)日慶上人、寺内に道輪寺学室を開設、日忠上人を学頭に招聘。
明応5年(1496)、妙覚寺・立本寺(本迹一致義)と妙蓮寺・本能寺・妙満寺(本迹勝劣義)とが
妙蓮寺において激しい討論を行った(一体方記録)とされる。:「日蓮教団史概説」影山堯雄、平楽寺書店、1959 より
天文5年(1536)天文法華の法難で焼かれ、堺(末寺法華寺)に逃れる。
天文10年(1541)帰洛を許され、大宮元誓願寺通に復興する。
天正15年(1589)秀吉の命(聚楽第造営)で現在地に移転。
享保15年(1730)の西陣焼で塔頭6院・番神堂等を焼く。(本堂・祖師堂・三重塔・方丈・山門は残る)
天明8年(1788)の大火で全て類焼(三重塔も焼失・鐘楼は残る)。
その後、現伽藍が再建される。(三重塔は再興されず。)
2010/07/02追加:「大本山妙蓮寺史」大本山妙蓮寺、昭和57年 より
学室道輪寺:開基は常住院日忠上人、文明5年建立、中興建立は大成坊檀越渡辺氏行蓮・同室妙寿。云々・・・
(常住院は大成坊とも小方丈とも称す)
往時は27坊あり、天明の大火後は8坊再建・現存、未再建は善勝院、廃絶は慈性院、宝蔵院、見龍院、芳徳院、専隆院、本法院、玉蔵院、隋遠院、重玄院、本尭院、寿詮院、円教院、法寿院、大雲院、倶要院、龍雲院、寿命院、久成院
2001年5月25日撮影:
□本
堂(仮本堂のまま、未だ再興に至らず)・□方
丈・書院・□山
門・□鐘
楼等を有する。
※2006/09/18聞き取り:本堂は敦賀本妙寺(妙蓮寺末)祖師堂を移すという。
→越前敦賀の諸寺中(瑞應山本妙寺の項):但し敦賀空襲で焼失し、現在は殆ど古の面影はない。
2004/10/11撮影:
現伽藍(□概
要 図) (□概要図その2)
□本
堂・鐘 楼 □本
堂 □鐘
楼
境内は一部駐車場化する。
現在は恵光院・玉龍院・本光院・円常院・堅樹院・慈詮院・本妙院・常住院の8院がある。
2009/05/09撮影: 妙蓮寺境内図
山 門 本堂・鐘楼 本 堂 鐘 楼 方丈(寺務所)
寺中
慈詮院 本妙院 常住院 堅樹院 圓常院 本光院 玉龍院 恵光院
2007/10/11追加:
「近世京都日蓮宗立本寺、妙満寺、妙蓮寺の伽藍配置」丹羽博亨(「日本建築学会計画系論文報告集424」1991年 所収)
●「妙蓮寺開闢再興略記」:天文10年の帰洛後
「大方丈は聚楽第の建物を拝領して建立、慶長年中日源上人代、大仏殿建立の残木を拝領し本堂(釈迦堂)普請成就(元和元年上棟)、15代日然上人代に祖師堂建立などで、祖堂(祖師堂)・鐘楼・三重宝塔・大門・浴室・皷楼・宝蔵・僧坊27院・学室道輪寺」が整備された。
「山城名跡志」元禄15年(1702)脱稿 では
門は南向、堂も同じ、祖師堂は仏殿の西にあり南向、三重塔は祖堂の南にあり東向、番神社(鳥居・拝殿も)は塔の南にあり東向
・享保15年(1730)の西陣焼で塔頭6院・番神堂等を焼く。(本堂・祖師堂・三重塔・方丈・山門は残る)
○寛延元年奉行調査古図:妙蓮寺蔵、寛延元年(1748)
(:2010/07/02画像入替、画像は「大本山妙蓮寺史」大本山妙蓮寺、昭和57年 より)
上記「山城名跡志」の通りの伽藍が配される。
なお、この図では宝蔵院跡には宝蔵が建ち、専隆院・慈詮院は廃寺となっている。
・天明8年(1788)の大火で全て類焼(三重塔も焼失・鐘楼は残る)。
「境内諸堂建物」では
本堂:石燈籠一対本堂前有之、梁行12間、桁行13間、高6丈、前拝後拝、勾欄獅子口、祖師堂同断、右日源上人御建立
祖師堂:梁間8間、桁行7間2尺、高4丈6尺、前拝3間出、後拝同断、階前有之、柱総丸柱枡形虹梁海老虹梁大瓶束蟇股、
絵様肘木三手先斗栱、四方唐戸、四方勾欄擬、内陣蔀戸、屋根瓦葺切妻破風狐格子懸魚、南方に獅子口一ツ破風際、
前方オロシ獅子口一ツアリ、右日然上人御建立、天明焼失後未再建
三重宝塔:高さ5丈但し九輪マデ三間四方彩色ノ扇垂木三手先斗栱、四方縁、屋根四方流、唐金九輪、
右建立細川丹後守内室瑞光院栄応妙宗禅尼、寛永7年建立
・寛政2年(1790)、天明8年焼失本堂を、12間四面の仮本堂として再建。
◇大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第四學區之部)
旧地は8,590坪、今4,705坪
恵光院・玉龍院・本光院・円常院・堅樹院・慈詮院・本妙院・常住院(現在と変わらず) 2010/12/19追加:
「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
卯木山妙蓮寺塔中:
恵光院、玉竜院、本光院、円常院、堅樹院、常住院、専隆院、芳徳院、宝蔵院、寿命院、竜雲院、久成院、法寿院、慈性院、大雲院、本行院、壽詮院、円教院、随音院、重玄院、見竜院、善勝院、玉蔵院、本法院、本妙院、慈詮院、倶要院、動林寺 28ヶ院
花洛の末寺:北野御前通宥清寺などがある。 2003/8/18追加
◇「雍州府志」黒川道祐撰、天和2年(1682)草稿、貞享3年(1686)刊 より
本門寺
上立売の北に在り、日蓮宗21箇寺の一、卯木山と号す、日蓮上人の像有り、宗門の徒之を特に尊崇す。
妙蓮寺
日蓮宗21箇寺の一、日中上人の開基也、・・・
※以上の記事の意味するところは不明である。(2013/02/01) ◇2004/10月:妙蓮寺 寺中円常院ご住職よりの情報
・慈詮院後方、鬼門に三十番神堂があったが明治期に退転。近年(昭和42年)、宝蔵を取壊。
推定番神堂・拝殿跡1:楠の背後付近に番神堂、拝殿などがあったと推定される。洛陽妙蓮寺境内真図(上掲)などを参照
推定番神堂・拝殿跡2:楠の付近には石材・蓮華座の台石などが散乱
する。番神堂・拝殿・鳥居などの石材であろうか。
宝蔵は洛陽妙蓮寺境内真図(上掲)などでは庫裏東側にある。
・近年発見の「松尾社一切経」が発見される。(本ページの最後の項を参照。)
・江戸期より八品門流では、十界皆成と久遠皆成との論争があると云う。
妙蓮寺は、勝劣派の中での八品門流で、なおかつ久遠派である。
そのため、他の四山(京都本能寺・尼崎本興寺・鷲栖鷲山寺・岡宮光長寺)とは現在では別立する。
本門佛立講に関して:
本門佛立講は、当時高松の妙蓮寺末寺を中心とした高松八品講の影響を受け、成立する。
教義ははっきりと久遠派となり、妙蓮寺配下となるも、その後、独立して現在に至る。
そのため、本門仏立宗も久遠派である。
(なお、高松八品講講頭松平頼該の印鑑・持仏・過去帳・永代経などは没後、妙蓮寺に納められると云う。)
★大本山妙蓮寺末寺:判明分のみ掲載
○能登七尾揚柳山本行寺 →能登の日蓮宗諸寺
○越前敦賀瑞應山本妙寺 →越前敦賀の諸寺中
山城上鳥羽妙福寺:明治初頭に廃寺 → 山城の日蓮宗諸寺中の上鳥羽・下鳥羽の項中
○山城花園成願寺 →明治以降の多宝塔中779
○本行寺(福山市城見町2−2−14) →備後の諸寺中
○備後沼隈本郷妙皇寺 →大覚大僧正開基寺院中
○備後沼隈本郷大法寺 →大覚大僧正開基寺院中
本成寺(三原市西町333)
妙得寺(尾道市原田町梶山田4291) ○讃岐高松寺町大本寺:江戸後期には妙蓮寺末であった。但し、現在では法華宗(本門流)/京都本能寺末である。
○讃岐高松寺町本典寺:江戸後期には妙蓮寺末であった。但し、現在では法華宗(本門流)/京都本能寺末である。
★妙蓮寺蔵「松尾社一切経」
平成5年、松尾社一切経を土蔵から発見。
松尾社一切経は平安後期(12世紀初頭・永久年中?)作成とされる。
江戸末期以降不明であったが、立正大学文学部史学科の妙蓮寺に於ける調査合宿で発見される。
約3500巻と云われ、1997年重文に指定される。
この一切経は(どういう経緯かは不詳であるが)、近世終末の廃仏毀釈の折、本能寺八品講から寄進されたものという。
※2006/09/18確認:
一切経は永久3年(1115)頃から、松尾社神主2代が願主となり、康治2年(1143)に完成という。
安政4年(1857)妙蓮寺檀徒嶋田弥三郎義忠により寄進される。
平成9年重文指定。全部で5000余巻のうち3600余巻が残存する。
2007/10/11追加:
「妙蓮寺蔵『松尾社一切経』の発見と調査」中尾尭(「立正大学文学部論叢
103」1996 所収) より
一切経は昭和42年に妙蓮寺宝蔵から土蔵に移されたもので、土蔵の中で35ケの経櫃に入り、一部は長持に入れられていた。
経櫃は、文安4年(1447)に作成との箱書きがある。
一切経はおよそ5000巻から成るとされる。
その内、これまに、京都東山法然院に45巻、京都国立博物館に1巻が知られていたが、今般約4000巻に及ぶ「松尾社一切経」が発見される。
開巻できた巻数はおよそ3500点、水損・虫食などで開巻不能なもの約300点、軸のみ存在するもの(長持ちに入っていたものが大部)約50巻、所属不明なもの数十巻を数えると云う。
松尾神社絵図(江戸期)では本殿左に十禅寺という神宮寺があった。
松尾社一切経は天台宗系の寺院で作成された「大般若経」を冒頭に置き、次いで天台系寺院に所蔵されている一切経を原典とし、南都仏教に影響を受けながら写経と校正が行なわれたものと推測される。
願主は松尾社の神主を務めた秦宿祢親任をはじめとする秦氏一族である。
おそらく永久3年(1115)から写経が始まり、長寛元年(1163)頃に完成したと思われる。
※松尾社絵図については「京洛平安期の塔婆」「松 尾 社」の項を参照。
嘉吉3年(1442)に大規模な虫干しが行われ、その4年後の文安4年に経櫃の新調が行われる。
次いで江戸初期に大幅な修理が加えられた形跡があり、東山法然院所蔵の「松尾社一切経」45巻が流出したのはこの時と推測される。
法然院には寛永8年(1631)の「松尾社神宮寺一切経目録」が伝わり、この時点で「松尾社一切経」の4712巻が現存し、330巻の経巻が既に失われていることが知られる。
嘉永7年(1854)2月3日「松尾社一切経」を納めてあったと思われる「読経所」が「畳まれ」る事態になる。(先代日次記」)
おそらくは神仏分離の「はしり」であろうが、つまり、大量の一切経はどこかに運び出され、読経所の建物が取壊される事態となる。
されに、この間の事情は不明ということであるが、安政4年(1857)妙蓮寺の有力な檀家で、かつ「仏立講」の中心メンバーである嶋田某氏が「松尾社一切経」を妙蓮寺に寄進する。
かくして、この一切経は庫裏の裏手の頑丈(二重の防火壁に砂が封入)な宝形造の宝蔵に納入される。
おそらくこの宝蔵はこの一切経を納入するために建立された土蔵ではないかと推測される。
昭和42年この宝蔵も取壊され、書院裏手の宝蔵に移される。
2006年以前作成:2010/12/19更新:ホームページ、日本の塔婆
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