四  国  諸  国  の  塔  跡

四国諸国(阿波・讃岐・伊予・土佐)の塔跡

阿波大滝山(眉山)

 阿波大滝山三重塔

阿波大山寺三重塔

 阿波大山寺三重塔  昭和15年三重塔焼失と 云う。

阿波安国寺跡

2003/04/12「安国寺風土記」より:
板野郡土成町秋月にあり、通称「てらやしき」というところがその位置と推定され、ここに安国寺、補陀寺、光勝院があったという。現地では多くの瓦が出土する。現在輪蔵院のある高台?が経蔵の跡といい、五重塔跡は現在池になっている と云う。
補陀寺:細川和氏建立の大刹で、暦応3年'1340)安国寺に改組。光勝院:細川頼之が補陀寺東隣に貞治2年(1363)建立。
後に安国寺・光勝院は合併し現在は鳴門市に移転・再興されていると云う。

阿波石井廃寺

法起寺式伽藍配置であり金堂跡・塔跡・西回廊跡が確認される。創建は奈良前期とされる。
塔跡:心礎があり、四天柱礎4個が完存する。
側柱礎6個が残存。一辺5.38m、心礎の大きさは70cm×76cm、中央に径21cm深さ9cmの孔を穿つ。
金堂跡:東西5間・南北4間で、礎石28個が元位置に完存すると云う。
2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
 阿波石井廃寺伽藍配置図

参考:阿波大日寺礎石

○「川島町史・上巻」:大日寺塔の心礎石が「旧川島城」石垣に組み込まれていると記載する。(写真付)
○「幻の塔を求めて西東」の「手書き資料」:出枘式の心礎としての紹介がある。
大きさは98×75cm、径58/55cm高さ1cmの柱座を持つ。横倒しとなり、1/3は埋没。
○しかしながらこの礎石を実見すると、柱座があり礎石であることは間違いないと思われるも、大きさあるいは形式から見て(出枘の痕跡はないと思われる)心礎とするには無理があると思われる。
現在縦に置かれ、ほぼ1/3は埋没する。大きさは88cm×65cm(見える高さ)、柱座の径58cm×高さ1cm未満。(この数値は「幻の塔を求めて西東」とほぼ一致するが、「川島町史・上巻」の大きさは良く理解できない数字が記載されている。)
この礎石前にごく最近設置されたと思われる真新しい説明碑があるが、これも心礎とはせず、礎石とする。
大日寺跡はJR川島駅前西北の方1町が想定される。現在は人家が建て込んだ所で、少数の出土瓦・その他の遺物で寺院跡と推定されるだけである。明確な遺跡の出土は現在のところ無い。なお根拠は不明ながら、塔があったとすれば法起寺式であろうと云われる。創建は白鳳もしくは奈良期の2説がある。
※礎石の現在の在り場所は、近年の新造である新川島城(川島神社東)ではなく、川島城本丸跡と云われる現在忠魂碑のある丘(川島神社西)にある。そこには忠魂碑参道があるが、参道の左、3段構築の一番上の石垣に組み込まれている。
なお「旧川島城」とは、JR線南側の山腹の独立峰に位置する「上桜城」を指すこともあるが、礎石の組み込まれている「旧川島城」とは「新」川島城が建立されている川島城の本丸跡を意味する。(「上桜城」跡ではない。)
 阿波大日寺礎石1    同       2    同       3    同       4    同     位置

阿波郡里廃寺(立光寺)・史蹟

○「仏教考古学講座 第2巻 寺院」石田茂作監修、雄山閣、1984年 より
 阿波立光寺心礎と根巻板痕
昭和42.43年の発掘調査結果、法起寺式伽藍配置が確認される。
寺域は東西96m、南北120mと推定され、塔基壇は一辺約11.5mを測り、そこでは地下式心礎(地下60cm)を発掘する。
心礎の上では八角形の竪穴(心柱及び根巻板の痕跡、径106/108cm、深さ60cm)が検出される。
心礎は砂岩製で、大きさは1.8m×1.6mを測り、中央には舎利孔(径13.5cm、深さ6.5cm)を穿つという。
但し、心礎は埋め戻され、現在見ることはできない。また、発掘も古い時期のことであり、心礎写真も鮮明なものは無いと思われる。
現在はっきりと目にすることができるのは塔基壇化粧であり、それは河原石の乱積である。
なお塔基壇上には自然石の上部を削平もしくは柱座を造り出した礎石2個が残るはこれは再建塔の四天柱礎とされる。
廃寺は吉野川北岸の台地上に立地する。出土瓦から白鳳前期の創建とされる。
 阿波郡里廃寺伽藍
 阿波郡里廃寺塔跡1     阿波郡里廃寺塔跡2     阿波郡里廃寺塔跡3     阿波郡里廃寺塔跡礎石
 阿波郡里廃寺金堂跡     阿波郡里廃寺南大門跡
 阿波郡里廃寺出土瓦1     阿波郡里廃寺出土瓦2     阿波郡里廃寺出土瓦3
2008/08/14追加:
○「天武・持統朝の寺院経営」:
 阿波郡里廃寺伽藍配置
2014/10/20追加:
○「郡里廃寺跡の調査成果と史跡保存の経緯」木本誠二(「阿波学会紀要」第55号、2009.7 所収) より
 本廃寺はもともと「立光寺跡」といわれていたが、これは「立光寺」という大寺院が存在していたという地元の伝承があるからであり、また嘉永4年の検地帳にも「立光寺」という地名の記録があること に拠るものである。
 昭和39年石田茂作(当時は奈良国立博物館館長)によって簡易現地調査が行われる。その結果、大銀杏の南にあった六角堂の土壇が塔跡、その西方に金堂跡がある法起寺式伽藍配置の寺院であり,その寺域は約1町四方に及ぶと想定されるに至る。 (六角堂はこの時解体)
 その後、当地は開墾されることとなり、昭和42・43年に発掘調査が行われる。
この調査で、塔跡・金堂跡の位置が判明し法起寺式伽藍配置であること、寺域が東西94m、南北120mであることが確認される。特に塔跡においては、心礎が基壇面の下に置かれる地下式の構造であること、塔には2時期分の遺構があり、現在基壇面上に残る四天柱礎は、創建時ではなく建替時のものであることが判明する。
 塔跡:
昭和42年まで六角堂の基壇として利用されていた土壇が郡里廃寺跡の基壇の残存部である。
基壇上の表土直下は黄褐色の基壇築成土がみられ、そこを掘り込む形で四天柱・心柱の柱穴が確認でき、柱穴内には根石が詰まっている。
 阿波郡里廃寺塔跡俯瞰:心礎抜取穴、残存礎石2個、四天柱抜取穴などが写る。
なお、現在基壇面上に残る二つの礎石は、柱穴との位置関係から、北東隅の礎石が原位置をとどめ、北西の礎石跡は若干移動していると判断される。
 四天柱跡に囲まれた心柱の柱穴内に充填されている根石をはずすとさらに地下に平面八角形を呈する土坑が存在し、その床面には中央に舎利孔と思われる小孔を持つ心礎が存在する。
 阿波郡里廃寺心礎検出状況     阿波郡里廃寺心礎・心柱痕
以上のように、心柱跡が現基壇面上と地下の二面で確認できることから、塔は少なくとも一度の建て替えが行われたものと判断できる。現基壇面上で確認できる礎石や柱穴は再建時の遺構である。現在までに確認された柱穴の配置から再建の塔は、中央間が2.3m,脇間が2.1mの約6.5mに復元できる。
創建時の遺構は基壇下に残る心柱跡のみであるため、詳細構造は不明、心柱は柱穴の形状から断面八角形で心柱の周囲に腐蝕防止のための根巻板の痕跡がのこる保存状態の良好なものであった。
基壇の周囲はこれまでの間に大きく削られているが、表土層直下に薄く基壇土が確認できる。基壇東側は大きく削られており,基壇の端を捉えることは困難であるが、西側と南側で旧表土層を浅く掘り込んだ掘り込み地業の跡が確認できる。これにより、塔基壇の規模は一辺約11.5mに復元可能である。
2015/08/13追加:
上記の原資料は以下のものと推定される。
「立光寺跡の発掘調査」徳島県教育委員会・美馬町教育委員会(「徳島県文化財調査報告書 第11集」1968 所収)
「阿波・立光寺跡発掘調査概報」昭和43年度、徳島県教育委員会・美馬町教育委員会(「徳島県文化財調査報告書第12集」1968 所収)

阿波立善廃寺

 阿波立善寺心礎・隆禅寺多宝小塔

阿波太龍寺三重塔跡

 阿波太龍寺三重塔跡・伊予興願寺三重塔


讃岐白鳥廃寺

○「日本の木造塔跡」:心礎は1,6×1.4m、上部は削平され、径37×7.3cmの孔を穿つ。
塔土壇の一辺は12m。その他塔跡には動いているが9個の礎石を残す。
西方には11個の礎石を残す土壇があり、金堂と推定される。出土瓦などから奈良前期〜平安末期の寺院とされる。
また塔と金堂跡の間には放置された礎石4ヶが並べられる。
○2003/12/29撮影:
廃寺全景:向かって右(東)が塔跡で、左(西)が金堂跡。塔跡1:西(金堂跡)から東を撮影。塔基壇:南の石列を撮影。
讃岐白鳥廃寺全景     同     塔跡1    同     塔跡2    同     心礎1    同     心礎2    同     心礎3
 同     塔基壇    同     金堂跡    同  放置礎石

讃岐大窪寺

2013/08/15追加:
「四国遍礼霊場記」(原本は元禄2年「内閣文庫本」寂本原著7巻7冊、東京国立博物館本/元禄2年刊の複製) では寛文年中の初めまで多宝塔があったが退転すると云う。
 →讃岐大窪寺:四国88番札所

讃岐石井廃寺

○心礎は200×115×53cmで、径68×13cmの穴を持つ。心礎は現在位置の北西位置で出土したとされ、現在位置は後世のなにがしの小宇のあった場所と思われる。
○「日本の木造塔跡」:
心礎は2.2×1.2mで、径67×14/12cmの穴を彫る。その他の伽藍は不明。出土瓦から白鳳前期の創建とされる。
○2003/12/29撮影:
 讃岐石井廃寺心礎1       同        2      同         3      同         4

讃岐始覚寺

○「新編香川叢書 考古篇」:現観音院始覚寺前にあり、心礎の上にコンクリート製の極小型五重塔を置く。心礎は花崗岩で、171×125.5cm×55cm、中央に径76cmの円形造出があり(前後の文面から総合的に判断して造出ではなくて掘り込み穴の誤りであろう)、その中央に径37.4cm深さ8.2cmの孔を穿つ。但し掘り込み穴はごく浅く不明確である。
 ※2021/07/06追加:知識寺式心礎とされるが、外輪の穴は不明確であろう。
心礎は明治時代の開墾で抜取り、一時は庭石に転用されていたと伝える。
○「日本の木造塔跡」:本堂の前に心礎があり、その上に四足の石塔を置く。そのほか多くの石などを並べて、心礎はやっと見える有様である。
心礎の大きさは1.2m×1.06m×52cmを測る。(他の資料と大きさに随分隔たりがあるが、この理由は不明)中央に径39cm、深さ7,9cmの孔がある。石田論文では孔の周囲に径67cm、深さ0.6cmの円穴があるとするが、この刳り込みは極めて浅く、殆ど磨耗している。単なる窪みである可能性がある。
○「三木町ホームページ」より(要約):奈良末期あるいは平安初頭に創建と推定され、寺域は現在の始覚寺とその南西部一帯と推定される。この始覚寺跡は周囲より一段と高く、付近の平野部全域を 見ることが出来る立地である。
現始覚寺本堂の前に、塔の心礎が残る(花崗岩製。大きさは幅171cmm、奥行き125cm、高さ55cmを測り、中央部に直径80cmと38cmの二重の穴がある)。
○「幻の塔を求めて西東」:2重円孔式。大きさは171×128.5×55cm、径76×6cmと径37.4×8.2cmの円孔を持つ。
○本尊観音菩薩立像は平安末期の作とされる。現始覚寺は江戸期に観音堂が再興され、明治以降に現在のように整備されると云う。
なお、心礎7及び心礎8には2段円穴の内の大円穴の残欠が写る。単なる窪みではなく円穴であろう。であるならば、この心礎は現状よりひと回り大きいものであったであろう。
○2003/12/26撮影:
 讃岐始覚寺跡全景    讃岐始覚寺堂宇・心礎
 讃岐始覚寺心礎1       同       2       同       3       同       4       同       5
   同       6       同       7       同       8
 讃岐始覚寺本尊

讃岐下司廃寺:高松市西植田町南下司

○「新編香川叢書 考古篇」:発掘調査は未実施であるが、吉光神社・清光神社付近で古瓦を出土する。吉光神社クスの根元は土壇と思われ、8m×11mの方形で高さは2mという。土壇上に5個の(並びは不規則)礎石があり、上面は平に削平されている。心礎は確認されていないが、規模などから塔跡土壇の可能性があるとされる。 出土する瓦は奈良前期のものと推定される。
○心礎の発見、礎石配列の復元、九輪残欠などの出土を見ず、現段階では塔跡とは断定できないであろう。塔跡とする唯一の根拠は土壇規模などであろうが、やや薄弱。
○2003/12/26撮影:
写真:石階?は吉光神社(今土壇上に粗末な祠があるが、これであろうと推定)の参拝石階と思われ、これは近世・近年のものと推定される。
 讃岐下司廃寺塔跡1       同        2       同        3
   同     礎石1       同     礎石2       同     石階?

讃岐石清尾八幡宮

 讃岐石清尾八幡宮

讃岐天福寺多宝塔:現高松市香南町岡1077

美応山宝勝院天福寺と号する。
・石田茂作「佛教考古学論攷」:讃岐天福寺多宝塔、香川郡由佐村岡、真言御室、天文火災
・「日本社寺大観 寺院篇」:美応山と号す。行基草創といい、弘法大師の修営、円仁・円珍来住すと云う(号清性寺)。天福元年国司橘公忠方50町の寺域を画し、本堂、大塔、講堂、経蔵、鐘楼、大坊、12坊舎等を建立、天福寺と称 する。
・「香南町史」:「都當井原庄内、晴明封置屋敷有数多。川東下道満晴明屋敷立有。横井二有。岡之内一有。冠尾太夫屋敷も同。右所於チ今夏無蚊。當國中、外ニも所々有之由承之。阿倍氏世々以當寺為旦那寺。此寺四條院天福元年為勅願寺。故夫天福寺ノ號ヲ被下。右境内阿倍氏代々墓二三基有。チ今其名ヲ阿倍氏堂と申傳。チ今取此木則腹痛、被動不申由。」
「開基は天平年中、行基諸国行脚の途中此の土地に来られ由佐の音谷を仏法相応の霊地であるとされ、薬師如来を彫刻した。その後弘法大師はここを道場とした。四条天皇は是を信仰して国司橘の公忠に詔して音谷清性寺を現今の所に遷し天福寺とした」。

讃岐開法寺

○「日本の木造塔跡」:
塔跡には心礎・四天柱礎・脇柱礎全てを残す。塔の一辺は5.8mで、基壇は一辺11.2mの壇上積基壇(但し一部のみ残存)。
心礎は2.1×1.2mで、径85、幅3、深さ3cmの環状溝を彫り、中央に径46×15cmの孔を穿つ。環状溝からは2本の排水溝(幅・深さとも3cm)を持つ。その他の礎石は自然石。
白鳳期の創建とされる。伽藍配置ははっきりはしないが法起寺式と想定される。なお塔跡北方には講堂と想定される礎石が田の中に埋没しているのも発見されたと云う。
○「讃岐名所圖會」:
開法寺跡(今池となりて開法寺池と云へり。往古、国分寺末寺なり。今田の中に塔の跡あり。廃瓦多し。)
「菅家文章」菅贈太政大臣「客舎冬夜」の一節「開法寺中暁驚鐘開法寺在府衙之西」
とあり開法寺は讃岐国府の西に存在したとされ、当廃寺がこの開法寺跡とされる。なお当時、菅原道真は讃岐守に任官。
挿絵はなし。
○2001年に平安中期ころの礎石を伴った建物跡を発掘。開法寺の僧坊跡の可能性が強いとされる。
礎石は18個出土。最大長径約80Cmで、塔の主軸方向と同一の東西方向に並んでいた。庇を伴う建物らしく、礎石は二列の配置になっている。平安中期の土器やかわらを採取。
2003/12/30撮影:
 讃岐開法寺塔跡1      同      2      同      3      同      4      同      5
2016/10/08撮影:
 讃岐開法寺心礎1    讃岐開法寺心礎2    讃岐開法寺心礎3    讃岐開法寺心礎4    讃岐開法寺心礎5
 讃岐開法寺心礎6    讃岐開法寺心礎7    讃岐開法寺心礎8    讃岐開法寺心礎9
 讃岐開法寺塔跡11    讃岐開法寺塔跡12    讃岐開法寺塔跡13    讃岐開法寺塔跡14    讃岐開法寺塔跡15
 讃岐開法寺塔跡16    讃岐開法寺塔跡17    讃岐開法寺塔跡18    讃岐開法寺塔跡19
 以下は現地説明板より
 塔跡北側基壇化粧:最下段の延石の上に地覆石を置き、その地覆石の表面が凹状に加工され、縦に板石の羽目が置かれる構造である。(以上の写真説明であるが、意味が分からない部分がある?)羽目石内の下層は版築土層が確認される。
 塔跡西側基壇化粧:西側に検出された基壇である。その北端の断面。この以北の基壇は後世の掘削によって消滅していた。

讃岐鴨廃寺

○「新編香川叢書 考古篇」:
心礎の多きさは177×150cm×90cmで、中央に径39cm深さ11cmの孔を穿つ。また孔の周囲には径70cmの円形の薄い掘り込みがある。上面は中央が小高くなるように加工される。 (要するにやや不完全な山王廃寺式の心礎である。)心礎は原位置を保ち、根石なども観察できるとも云う。
出土瓦から創建は奈良前期と推定される。現在、心礎以外の遺構は発見されていない。
心礎は田の中にぼつんと孤立してある。案内板などなく、ほとんど知られていない心礎と思われる。
2003/12/30撮影:
 讃岐鴨廃寺心礎1      同        2     同        3     同        4     同        5
2016/10/08撮影:
今年の秋は天候不順のため稲刈りが遅れているようで、田圃には稲があり、訪問が少し早かったようである。
近くの開法寺と同笵の瓦を出土し、かつ心礎の形式は開法寺の亜流とも思われ、以上の意味で開法寺からやや遅れて建立されたものと思われる。
 讃岐鴨廃寺心礎21     讃岐鴨廃寺心礎22     讃岐鴨廃寺心礎23     讃岐鴨廃寺心礎24
参考:馬の神宝塔
鴨廃寺とは無関係であるが、鴨廃寺の北方の山際(ごく近距離であるが、道は鋭角のゝ字形に進む)に「馬の神宝塔」がある。
台石と塔身のみ残り、屋根(笠石)は失われ、台石の脇に破片となり散在する石材は形状から見て、相輪の残欠であろう。
塔身は底から刳り抜かれ中空であり、長方形の窓を1個所刳り抜く。岩質は礫岩で表面は荒れている。
塔身が中空であるのは、中に舎利、経典、仏像の類を安置したのであろうか。
年紀や仏像などの刻はなく、作成年代は不明であるが、形がおおらかであり、古い時代のものであるのかも知れない。
 馬の神宝塔立地:2方に石垣があるが、他に遺物はない。
 馬の神宝塔1     馬の神宝塔2     馬の神宝塔3     馬の神宝塔4:内部は中空である。      馬の神宝塔相輪残欠

讃岐醍醐寺塔土壇・坂出市西庄町醍醐

○塔土壇と推定される方形の土壇が残される。
讃岐醍醐寺塔土壇・・・(X氏ご提供画像)
○「新編香川叢書 考古篇」:
切り取られた土壇上に4個の礎石(花崗岩の自然石)が露出する。礎石間は約2mという。また一辺は5.7mとも云う。(この記述は良く分か らない。)奈良前期と推定される瓦が出土する。
○「香川県史第1巻」:
土壇(塔跡)は周囲が削り取られているが、7×9mで高さ1.5m。花崗岩製の礎石(西に3、南に1、北に2、壇上に1個)を残す。礎石間隔は西側は2.2m、北側は1.5m を測る。
醍醐という地名は北西6kmの沙弥島で誕生したと伝える醍醐寺開山理源大師聖宝との関係が考えられる。
現状この土壇は大変荒れている。辛うじて田の中に残るが、周辺の開発で削平される恐れがあると思われる。
 (確実な保護処置を採ることを望む)
○2003/12/30撮影:
現状露出している礎石は写真のように、土壇上に1個、土壇斜面の西と北に各1個のみ確認できる。多くの瓦の破片があるが、これは新しいものと思われ、ゴミとして運び込まれたものか、 あるいは近年までなんらかの堂宇がありその瓦かと思われる。
 讃岐醍醐寺塔土壇1      同         2      同  土壇上礎石
  同 土壇西側斜面礎石      同 土壇北側斜面礎石

讃岐白峯寺三重塔跡

 讃岐白峯寺三重塔跡

讃岐宇多津聖通寺

○「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画(「日本名所風俗図会 14」角川書店、1979-1988 所収) より
聖通寺
(鵜足津村にあり。壺平山宝光院。古城跡なり。真言宗京都仁和寺末)
本尊薬師如来(海中出現)・・・・・
寺記曰く、当寺は貞観10年(868)草創なり。これを沖の薬師といへり。時に聖宝僧正は狭岑島の人にて真雅僧正の弟子なりしが、諸国経歴の後狭岑島に一宇を建てしが、地狭く通路自由ならざるゆゑ、宇足津浦に一院を建てて沖の薬師を本尊として壺平山聖通寺宝光院と號す。
以下概要
寛平年中(889-)勅して、9間四面の釈迦堂・仁王門等を建てしむ。
文永年中(1264)勅ありて、三重大塔・鐘楼・鼓楼及び80余坊を再興したまふ。
その後、戦乱が相次ぎ再建を繰り返すも、天文年中の兵火で僅かに薬師堂・釈迦堂・三重塔・弁財天社のみ残れり。
暫く無住となり、島田寺兼帯となる。
天正16年生駒氏は島田寺を高松に移し、弘憲寺と改めた時、命により、当寺什宝を弘憲寺にたまひ、堂塔2基を象頭山に移す。
慶安3年備後鞆浦常喜院宥長上人来たり、讃岐国祖松平頼重の願により、薬師堂など再興なる。
 ※中世には三重塔の存在が知られる。
 ※天正年中、堂塔2基を象頭山に遷すというも、詳細は不詳。
絵図:
 聖通寺の絵図が掲載されるも、塔婆とは無関係であり、転載はせず。

讃岐法勲寺:綾歌郡飯山町下法軍寺西尾

心礎の一部(約5/1)が現存。心礎の全容は不明ながら、径約90cm、深さ約9cmの円孔を持つ心礎と復元される。
また本堂南の楠の根に包まれるように礎石があり、これが創建当時の位置を残す唯一のものであろうと云われる。
 (2016/10/09未見に終わる。)
白鳳期の創建といわれ、法隆寺式伽藍配置であったと推定される。
 讃岐法勲寺心礎残欠・・・2003/11/6X氏ご提供画像
「新編香川叢書 考古篇」:寺域想定地は水田化する。心礎の存在には言及するも、具体的な記載はなし。
○2011/07/24追加:
「法勲寺跡」森下英治 (「香川県埋蔵文化財調査年報」平成7年度 所収)より
 周辺地割と法勲寺推定寺域
「讃岐国名所図会」では、行基は讃留霊王(さるれおう)が退治した大魚が流れ着き災をもたらしていた福江を訪れ、大魚の灰から薬師如来を造立し法軍寺(魚御堂)を建立し、後に弘法大師が法勲寺を現在の場所に移した」と云う。
「吾妻鏡」に法勲寺の名前があり、鎌倉期まで存続したとされる。
さらに「弘憲寺縁起」によれば、その後法勲寺は廃寺となり、本尊・霊宝を近くの島田寺に移すと云う。
天正年中、讃岐に入府した生駒親正は島田寺良純をして法勲寺を再興するも、親正歿後、生駒一正は法勲寺を高松西浜に設けた親正の塚上に移し、弘憲寺と改号すると云う。以降法勲寺は小宇(現薬師堂)を残すのみとなる。
現在、法勲寺跡の一画には大正年中に創建されたと云う(昭和23年再興とも云う)真宗興正寺派の法勲寺が建つ。
古代法勲寺の遺物として、寺跡の田圃からは今も白鳳期-平安期の瓦が出土し、さらには塔心礎残欠及び礎石が残る。
なお、西南に前方後円墳があり、これを神体とした讃王大明神(讃留霊王神社)が祀られるも、詳細は不詳。
 ※現社殿は寛保2年(1742)の再建棟札を残す。
讃留霊王神社リーフレット(八坂神社社務所発行) より
 法勲寺心礎破片:写真下に写る。現地法勲寺境内「石の塔」の台石横にあると思われる。
 法勲寺残置礎石:礎石は昭和63年に発掘と云う。お旅所の一画高所に置かれる。手前の円孔のある礎石については不詳。
なお、お旅所の神輿置台は法勲寺の礎石1個(薬師堂付近から搬入と伝える)を使用。但し現在はコンクリートで覆われると云う。
2016/10/09撮影
○法勲寺跡現地説明板には次のように云う。
「古代法勲寺は綾氏の氏寺として奈良前期に創建され、延暦13年(784)弘法大師が再建と伝える。
明治30年頃塔跡を開墾、大正末期心礎の破片を発見する。この心礎破片は現法勲寺境内に置かれている。
昭和63年礎石をさかさま川で発見し、讃留霊王神社北側に「鐘楼跡」として配置保存する。
(礎石は護岸用に使用されていたという。)
さらに配置保存された礎石の一画に、復元した心礎が置かれている。
復元心礎は現法勲寺に保存されている実物の破片をもとに復元、心礎中央には径3尺(約90cm)深さ3寸(約10cm)の円穴が彫られる。
円穴の中央には径4寸(約12cm)の舎利孔を穿つ。」
○近世・現代の法勲寺の略歴:
天正15年(1580)生駒親正、讃岐に入府、荒廃した法勲寺を目の当たりにして、嶋田寺良純をして、法勲寺を兼帯させる。
慶長8年(1603)生駒一正、法勲寺を高松に移し、親正の菩提寺「弘憲寺」とする。
以降、法勲寺は小堂(薬師堂)を残すのみの姿となる。
昭和23年真宗興正派法勲寺として再興される。(住職談:この付近一帯は興正寺末寺が多く、興正派の地盤である。)
平成18年薬師堂造替。
 法勲寺石の塔
 法勲寺心礎破片1     法勲寺心礎破片2     法勲寺心礎破片3     法勲寺心礎破片4     法勲寺心礎破片5
 法勲寺復元心礎1     法勲寺復元心礎2     法勲寺復元心礎3     法勲寺復元心礎4     法勲寺復元心礎5
 讃岐法勲寺礎石1     讃岐法勲寺礎石2     讃岐法勲寺礎石3     讃岐法勲寺礎石4     讃岐法勲寺礎石5
 讃岐法勲寺古瓦1     讃岐法勲寺古瓦1
○2017/12/17撮影:
讃岐高松弘憲寺
 古代法勲寺は、少なくとも鎌倉期以後廃寺となり、本尊・寺宝を島田寺へ移す。
文禄4年(1595)生駒親正が讃岐に入封、法勲寺を再建し、島田寺良純を兼帯とする。
親正の死後、2代藩主生駒一正は親正の墓所内(現在地)に法勲寺を移し、親正の戒名(弘憲)から弘憲寺と改称する。
島田寺から法勲寺什宝を移し、島田寺を弘憲寺の末寺とする。
高松弘憲寺には石造では日本最大という石造五重塔がある。
現地説明板では、「庵治石」を使用し、高さ16m、重さ400トン、土台石は八畳敷、一重の屋根は畳7畳に相当する。
昭和25年一應の完成を見、仏舎利と霊標素焼の納入を行う。
この石塔は昭和初期、5人の石工によって3年を費やし完成したものであったが、戦争犠牲者の慰霊と平和祈願のため寄贈(おそらく戦後直ぐであろう)されたものである。
 高松弘憲寺石造五重塔1     高松弘憲寺石造五重塔2

讃岐田村廃寺

○「新編香川叢書 考古篇」:寺域想定地は水田住宅地で、寺域は明確ではない。
但し塔の本・瓦塚・塔の前・舞台の地名を付近に残すという。
心礎は番神社前に移転して、在る。
心礎の大きさは2.2×1.9×0.84mで、上面は削平され、中央に径47cm深さ7cmの孔を穿つ。
出土瓦から寺院は奈良〜平安後期まで存在したとされる。
心礎は現位置の東南方から出土したという。花崗岩製。
2024/11/02追加:
○「丸亀の歴史散歩」 より
 ※田村廃寺心礎は現在田村番神堂に置かれているので、田村番神堂について述べる。
◆田村の三十番神
 三十番神の思想は伝教大師(最澄)が唐から帰朝し、比叡山に法華経の道場を開いた時に、山門守護のためこれまで日本にあった神々を祀ったことに始まるという。
 慈覚大師(円仁)は、法華経の功徳について「授持・讀誦・解説・書寫」のどれか一つを行っただけでも佛の功徳を受けることができると説き、円仁自身も法華経八巻を3ヶ年かけて寫経する。
これを如法経といい、円仁はこの写経を安置する堂を如法経堂と称し、横川に建立し、法華経の守護神として、日本国中から主たる神々三十神を勧請し、一ヶ月30日を一日交代で守護するように定める。
これが三十番神であり、現在も横川如法経堂の隣に鎮座する。 → 比叡山横川
 日蓮上人も法華経を最高の経典とし、その教えを実践し布教するには、日本の神々にも加護を願う必要があるとし、法華経とともに大小の神々を祀るという思想に発展する。
 やがてその思想は国土安寧・五穀豊穣(平安〜鎌倉)、武運長久・戦勝祈願(鎌倉〜江戸)、家内安全・子孫繁栄(江戸以降)と時代とともに変遷する。
 鎌倉以降、日蓮宗寺院が建立されるが、武運長久・戦勝祈願、家内安全・子孫繁栄として武士及び庶民に信仰される。
 ※日蓮宗では三十番神を次のように祀る。
  1日 熱田大明神
  2日 諏訪大明神
  3日 広田大明神
  4日 気比大明神
  5日 気多大明神
  6日 鹿島大明神
  7日 北野大明神
  8日 江文大明神
  9日 貴船大明神
 10日 天照皇太神
 11日 八幡大菩薩
 12日 加茂大明神
 13日 松尾大明神
 14日 大原大明神
 15日 春日大明神
 16日 平野大明神
 17日 大比叡権現
 18日 小比叡権現
 19日 聖真子権現
 20日 客人大明神
 21日 八王子権現
 22日 稲荷大明神
 23日 住吉大明神
 24日 祇園大明神
 25日 赤山大明神
 26日 建部大明神
 27日 三上大明神
 28日 兵主大明神
 29日 苗鹿大明神
 30日 吉備大明神
以上の番神であるが、田村の番神は一体ごとの木像として祀られている。
田村三十番神の厨子には「開眼主 慈光山本隆寺 日政(花押)」とあり、日政は弘化4年〜嘉永3年まで、本隆寺の貫主であったので、この時代のものであろう。
 さて、番神像は近世末期のものであるが、そもそも田村の番神堂は法華宗久遠院の時代に創建されたものである。
   ※法華宗久遠院は高瀬本門寺中にあり
ただし、現在の本殿は田村の天満宮の本堂を移建し、拝殿は浜町から遷したものである。
浜町にあった時代の不動明王の画像が拝殿にあるので、不動堂ともいうがそうではないのはいうまでもない。
 そのほか、鳥居の脇には明治25年建立の高い「南無妙法蓮華経」と書いた法界塔がある。
また、鳥居の左側には田村廃寺心礎がある。
これは、竹本肇氏(77歳)によれば、明治35年頃300m程の南東で掘り出したもので、大正の初め頃ここに運び、琴平参宮電鉄が走り出した頃には停留所の傍らに置かれ、廃止された時に再び手水鉢の代わりに現在地に遷されるという。
◆田村廃寺
番神のところで、旧国道から左へ分かれ南へ約50m進むと、若草おtいう美容院があり、この東方約30mのところに北へ流れる中井戸という溝がある。
この溝の東西に、塔の本・鐘塚・鼓楼塚・舞台・腰巻などという地名があり、多くの古瓦が掘り出されている。現在番神にある塔心礎も山野一郎氏宅の西方から出たという。
出土瓦は白鳳期から天平期のものと云われている。
 八葉複弁蓮華文軒丸瓦:田村廃寺跡から出土・個人蔵
○2003/12/30撮影:
 讃岐田村廃寺心礎1    讃岐田村廃寺心礎2    讃岐田村廃寺心礎3    讃岐田村廃寺心礎4
 

讃岐宝幢寺跡

○「新編香川叢書 考古篇」:
金倉寺記録によると宝幢寺は貞観年中(但し出土瓦からは創建は白鳳ともされる)智証大師の創建で、大師開基17談林の一つという。
宝幢寺は天文の争乱で破壊され、その後用水池となる(宝幢寺池と称する)。
 「今池中に塔礎石あり、古瓦多数あり」とある。用水池工事は江戸期とされる。
○昭和54年発掘調査。土壇は2基のように見えるが実際は後世に分断されたもので東西約9mの方形土壇とされる。砂礫層のゆえに、砂礫層まで掘り、強固に版築工法で固めたものと推定される。心礎は花崗岩で、三段孔式である。
○「日本の木造塔跡」:
心礎の大きさは2.36×1.92×0.74mで、径87×5/4cmの円穴、24×3cmの蓋受孔、11×8cmの舎利孔を穿つ。また放射状排水溝1本がある。
2024/11/02追加:
○「丸亀の歴史散歩」 より
宝幢寺:
 宝幢寺は木造薬師如来の大像を本尊とする。永禄元年(1558)三好実休の軍によって焼かれ、そのまま廃絶し、瓦礫のみが残っていた。
慶長年中に宝幢寺池、寛永9年(1632)に仁池、寛文〜延宝年中に上池が完成し、付近の潅水に利用されるようになる。
宝幢池を含む3池は冬の渇水期、池底が現れ、塔心礎などが露呈する。
 金倉寺の「当寺末寺之事」では宝幢寺について、次の様に記す。
一、此寺は清和天皇貞観年中(859-877)智證大師開基にて、自作の聖観音を以て安置の精舎也。即大師開基17檀輪中の其一にて堂塔僧院数多これあり候所、永正・天文の争乱に伽藍残らず破壊仕り、其寺跡用水池と相成宝幢池と云う。今池中大塔の礎一つ相残古瓦等多数御座候
 ※智證大師17壇林とは情報がなく、不明。
 圓珍は「弘仁5年(814)讃岐国金倉郷に誕生、多度郡弘田郷の豪族佐伯氏の一門のひとり、俗姓は和気、
 空海の甥(もしくは姪の息子)ということ、及び17壇林の一角であったという讃岐宝幢寺や鷲峰寺が讃岐に存在することから、
 17壇林は讃岐に存在していたとも推測される。(推測)
◆宝幢寺推定伽藍配置
 昭和15年の「史蹟名勝天然記念物調査報告」に福家惣衛の報告がある。
それによれば、伽藍配置は法隆寺式と推定し、次の伽藍配置図が示される。ただし、冬の渇水期、県の教育委員会が金堂跡想定地を発掘調査するも、土壇など発見されなかった結果に終わる。
 宝幢寺推定伽藍配置
◇塔心礎
 塔心礎実測図:史蹟名勝天然記念物調査報告書
◇出土瓦
 宝幢寺跡出土瓦:八葉複弁蓮華文軒丸川原は奈良期、四重弧文軒平瓦は白鳳期、いずれも個人蔵
◇水煙断片
 宝幢寺跡出土水煙断片
◇梵鐘鋳型と同撞座鋳型
 <省略>
残存する宝幢寺遺佛には次のものが知られる。
◇十一面観音立像
 金倉寺の「当寺末寺之事」では宝幢寺十一面観音木像について次にように記す。
一、右は宝幢寺池中より掘り出し候て、郡家村社内に相納これあり候所、其後御城下西新通町秋田屋三右衛門彩光を加え、鵜足郡川原村神宮寺へ移しこれを安置す。
 国分寺に鑑真の創建で智證大師の興隆と伝える鷲峰寺があり、この仏殿に室町中後期の作と推定される十一面観音立像がある、(等身大)「泥吹き観音・ごみ吹き観音」と通称される。泥吹きとは池中から掘り出した故である。
末寺の神宮寺に祀ってあったが、明治の時廃寺となり、ここに移したものである。宝幢寺に祀られれ、埋められ、掘り出された仏像である。
 ※鷲峰寺:香川県高松市国分寺町に所在、天台宗。本尊は千手千眼観世音菩薩。
鷲峰寺は、寺伝では、天平勝宝6年(754)鑑真により建立、貞観2年(860)智証大師十七檀林の一つとして清和天皇の勅願寺となるという。
戦国期喪失、寛文元年(1661)高松藩主松平頼重が寺院の復興を命じ、三井寺の観慶阿闍梨を中興1世の住持として迎え、延宝4年(1676)に伽藍が再建される。木造十一面観音菩薩(別称・泥吹き観音)は寺宝である。
◇石造観音像と石仏
 明治40年頃、宝幢寺池北堤の水門の東方約70mの地点から掘り出し、長福寺(現在は廃寺)へ祀る。(高さ38cm)
もう一体も高さ38cmで重元の墓地の六地蔵の傍らに安置する。
 ※重元とは香川県丸亀市郡家町重元か?、ここには重福寺と号する寄棟造の比較的大きな一宇が残るがこれであろうか。
◇薬師如来
 宝幢寺池築造の頃出土、重元の長複寺へ祀る。高さ50cm。
◇一寸八分の薬師金佛
 <省略>
○2003/12/30撮影:
通常は池中に没しているが、渇水期には礎石が現れ、讃岐富士と宝幢寺池と礎石の組み合せが見られる。
 讃岐宝幢寺心礎1   讃岐宝幢寺心礎2   讃岐宝幢寺心礎3   讃岐宝幢寺心礎4   讃岐宝幢寺心礎5
 讃岐宝幢寺心礎6   讃岐宝幢寺心礎7
 

讃岐金倉寺

四国88ヶ所第76番札所。智証大師円珍の生誕地と云う。
智証大師が三層塔を建立し、法華経を一字一石に刻み寺門の鎮護とする。塔婆は天正年間に兵火で焼亡したとされる。
「讃岐国名所圖會」では、塔跡として礎石が完存しているように描かれる。
推測(未確認)ではあるが、現状の礎石は無造作に置かれ、おそらく元の位置ではないと思われる。
○2001/12/27撮影:
讃岐国名所圖會の図から判断して、西寄りに動かされ、礎石も若干失われていると思われる。元の位置は写真「元の塔跡推定地」であるように思われる。
善通寺市文化財保護課の「三層塔真柱礎址」(昭和37年)の石柱がある。(台石は別の例えば石灯篭などの台石の転用と思われる。)
 讃岐金倉寺推定塔心礎      同  塔跡の現状      同  塔跡の石柱      同 元の塔跡推定地
○讃岐名所圖會」:記事:「塔跡(境内にあり)」
 金蔵寺伽藍図(部分図)・・・塔跡が描かれる。
智證大師生誕の地とされる。

讃岐善通寺c

 讃岐善通寺

讃岐出釈迦寺

 讃岐出釈迦寺大塔跡

象頭山金毘羅大権現

 讃岐金毘羅大権現多宝塔

讃岐弘安寺:仲多度郡満濃町

薬師堂(満濃町役場近くにある・本尊薬師如来)に心礎を残す。心礎の大きさは2.05m×1.55mで、礎石上部を削平し、径55cm×深さ11cmの孔を穿つ。
手洗鉢として転用され、原位置ではないとされる。本堂の縁下に礎石が8個残り、金堂跡と云う。 出土瓦から創建は白鳳とされる。
境内は、一町以上と推定され、大門、念仏寺、鰌(道場)池などの地名を残す。その後、讃岐28官寺の一つとして繁栄したが天正年中に焼失、その後に和気氏が再建した。
○「新編香川叢書 考古篇」:
木村集落中に薬師堂があり、堂の敷地は方1町あり、その北西に13×22×1mの土壇がある。
径1m前後の礎石11個があり、小堂が建てられる。小堂の前に心礎がある。大きさは2.4×1.7×1.2mで、花崗岩製とされる。
2003/12/27撮影:
 讃岐弘安寺心礎1      同      2     同      3     同      4     同    礎石1     同    礎石2
2016/10/09撮影:
現地説明板では次のようにある。
 この地には巨大な心礎と12個の礎石が残る。周辺からは白鳳期の瓦が出土する。寺院は讃岐28官寺として繁栄するも、天正の兵火で焼失したと思われ、当時の土壇上に一宇があり、薬師如来を祀り、立薬師として崇められる。
心礎・礎石のほか武神像・十三仏笠塔婆、宝篋印塔などの古物が伝えられる。十三仏笠塔婆には永正16年(1519)の年紀がある。
 弘安寺心礎21     弘安寺心礎22     弘安寺心礎23     弘安寺心礎24     弘安寺心礎25
 弘安寺礎石21     弘安寺礎石22     弘安寺礎石23     弘安寺礎石24     弘安寺礎石25     弘安寺礎石26
 弘安寺立薬師堂     弘安寺十三仏笠塔婆
 弘安寺宝篋印塔:年紀は不明、背後左は布団太鼓、右は立薬師堂、その前に手水舎・心礎、左の小宇内に十三仏笠塔婆がある。宝篋印塔最下段の台石は礎石の転用か。

讃岐満濃町中寺跡d:2007年史蹟指定

 讃岐中寺跡

讃岐高屋廃寺:観音寺市高屋町・惣門・塔の内

奈良平安の古瓦の出土を見るのみであるが、塔の内の字が残り、何らかの塔婆があったとも思われる。

讃岐道音寺c:三豊郡豊中町

「幻の塔を求めて西東」の手書き資料:93×65cm、径15×6cmの円孔(底の径は11cm)を持つ、半壊、上に横倒し。白鳳。
2003/11/6追加:「X」氏情報
上記情報に近い礎石はあるようであるが、特定が困難のようである。半壊・横倒しの故か?
「新編香川叢書 考古篇」:昭和36年境内を限る石垣に礎石と推定される巨石が転用されているのが発見された。
この礎石はほぼ四角形で、径17cm深さ5.2cmの孔を穿つ。花崗岩製。またその他の礎石3個が存在し、各々境内近くの水田の畦、近くの大西権兵衛神社、近くの沼池の樋尻に築込み(伝承)されてあるという。

讃岐妙音寺c:三豊郡豊中町

「幻の塔を求めて西東」の手書き資料:八角形。大きさは100×85×20cm、中央に直径10cmの穴あり。「一段100×13cm、ニ段75×4cm、 三段70×3 cm」と云う記載があるが、意味が不明なるも、八角形は三段構造であり厚さは20cm(13+4+3cm)であり、中央に径10cmの円孔があると云う意味か。
2003/11/6追加:「X」氏情報
寺院側説明は以下の通り。古瓦の出土はあったが、礎石については認識が無いと云う。
「新編香川叢書 考古篇」:大量の瓦及びその他の遺構の記載はあるが、礎石の記載は皆無。


伊予旧宝蔵寺塔心礎・川之江市:2002/3月「X」氏撮影画像

○「X」氏情報:現在、心礎は円教寺境内の手水鉢(写真での判断)に転用される。
大きさは長径約2m、穴の径約65cm。写真で判断する限り穴は後世に加工されたものと思われる。
 伊予旧宝蔵寺心礎1       同          2
○2014/10/03追加:
川之江町井地円教寺境内の入口に据えられる。この石は、ここから500mあまり南の宝蔵寺という地名の場所から運ばれてきたといい、そこにはかって宝蔵寺があり、石は心礎であったと考えられる。
 心礎は片岩(緑泥石片岩であろう)で、長さ170cm、幅155cm、厚さ約65cmの大きさで、中央に径65cmの穴を椀型に彫りこみ、最も深いところで約7cm、穴の周囲には径85cmほどの浅い溝を穿つ。さらに穴の中心部には、径約1.5cmの円孔を彫り、舎利孔であろうか。
奈良期か平安初期の心礎との解説もあるが、舎利孔を持つとすれば、もっと古いものかも知れない。
2015/11/08撮影:
礎石表面には内径85cm外径87〜88cm程(つまり巾2〜3cm程)の深さ2〜3cmの円形溝を彫る。そして円形溝から外に向かって2個所に幅3cm深さ3cmの排水溝も彫る。 (実測)
 もともと、この心礎は径65cm深さ4〜5cm程度の円孔があったものと思われるが、手水鉢として据えられた時に、底が椀形に彫り下げられたものと推定される。
 また「穴の中心部には、径約1.5cmの円孔を彫り、舎利孔であろうか」とする見解もある小円孔があるが、これは舎利孔ではなく、手水鉢に加工した時に水抜き孔として穿孔を始めたものであろう。おそらく底まで貫通させることなく中断したのであろうと思われる。
 伊予宝蔵寺心礎1     伊予宝蔵寺心礎2     伊予宝蔵寺心礎3     伊予宝蔵寺心礎4     伊予宝蔵寺心礎5
 伊予宝蔵寺心礎6     伊予宝蔵寺心礎7     伊予宝蔵寺心礎8     伊予宝蔵寺心礎9
円教寺現況:円教寺の由緒などは情報がなく一切不明。
 伊予円教寺本堂1:本堂の西に集会所があるが、おそらく庫裡があったのであろう。右端に5基の墓碑が写るが、おそらく歴代住職のものであろうと思われるが、墓銘の解読を果たせず、不明である。
 伊予円教示本堂2:右端に写るのは真新しい井地神社の拝殿・本殿である。祭神は菅原道真・厳島・春日権現というも詳細は不明。
宝蔵寺心礎は現在地(圓教寺手水)から南東に直線距離にしておよそ400mの地点の宝蔵寺跡にあったといい、地元の人が現在地に運んで奉納したという。 宝蔵寺跡は製紙工場のプラントが建設されている。
○「四国中央市埋蔵文化財調査報告1」四国中央市教委、2006 より
 宝蔵寺跡位置図
○円教寺と宝蔵寺の位置関係
 円教寺/宝蔵寺位置図:YahooMapより
○「伊予三島市史 上巻」伊予三島市、1984 より
心礎の大きさは178×138cm、径68cm、深さ15cmの枘穴あり。穴の中心部に深さ21cmの小穴あり。その外周に幅2.5cm、深さ2cmの溝が同心円的に刻まれ、その両端に外側へ排水のための溝が2箇所ある。
 伊予宝蔵寺心礎図

伊予河内寺c:新居浜市高木町

○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、100×95×30cm、径57×深さ5cmの円孔(あるいは径61×深さ7cm)、白鳳
○2003/11/06:X氏撮影画像
円孔はきれいに穿たれるも、1/3くらいは欠損する。
心礎を含む礎石が13個残存する。但し礎石は後年に移転配置されたものと云う。
境内から7世紀末頃の布目瓦、軒丸瓦、軒平瓦などを出土。
 伊予河内寺塔礎石     伊予河内寺塔心礎
2012/04/28追加:
○「古代寺院の出現とその背景」埋蔵文化財研究会編、1997(埋蔵文化財研究集会; 第42回) より
遺構は心礎(硬質砂岩製・心礎以外は結晶片岩の自然石)を含め、13個の礎石が遺存する。ただし、礎石は全てが移動し、原位置を保たない。心礎柱座は径60cmの凹枘である。
 伊予河内廃寺心礎2   ※なお河内寺は現存する。
2014/11/03追加:
○「愛媛県史 原始・古代 1」愛媛県、1982 より
河内廃寺は条里制の施行された平野部にあるが、その伽藍は明らかでなく、塔跡と思われる礎石が一三個知られているにすぎない。それも礎石が全て当時のものとも思えず、また、すべて移動しているなど、疑問を残す。
現存している礎石は長径80〜110cm、短径50〜105cm大の自然石である。
心礎石は破損し、現存長90×95cm大で枘穴径60cm、深さ7cmの枘穴礎石である。礎石の配置から一辺長約 5.5mと想定される。
 寺伝によれば、延久年中(1069-74)に伊予守頼義が河内国から移し建立したので河内寺と号し、薬師堂がその旧跡であるという。しかし、出土瓦からみた河内廃寺の創建時期は白鳳時代の中ごろとするのが穏当と思われる。
 なお、河内廃寺は往時、東西八〇間、南北六〇間の寺域を有し、七堂伽藍を具備していたと伝えるが実態は明らかでない。
○2015/11/08撮影:
現状は心礎と側柱礎12個の計13個の礎石が置かれ、四天柱の位置には何も礎石は置かれない。
また側柱礎は等間であり、柱間は凡そ180cmを測るもの(現状は一辺5.4m)であるが、すべての礎石は移いているとのことなので、どこまで原状を反映しているのかは不明である。
住職談では、礎石の元あった場所は現境内に接する東側の田圃(現在は住宅が建つ)であり、そこから運ばれたという。
また河内寺は戦後長い間無住であり、関係のない第三者が住んでいたという。 なお本尊薬師如来坐像(像高91.5cm)は平安前期の古佛で、中央(京都)でもめったに見ないものであろう。しかし、この古佛は権威ある機関では評価が低く、甚だ不条理なものを感ずる。ところで、これから護摩を焚き、開扉するので拝観していけば宜しい。(以上住職談)
 伊予河内寺塔礎石11:2003年 撮影の上掲載「伊予河内寺塔礎石」(東から撮影)と比較すると、礎石の置かれた所と周囲の樹木はすべて伐採される。伐採により、南にある古い墓石が視界にはっきりと入る光景となる。また西端に写る「鎮守」と思われる祠も撤去され、この祠は山門脇に移建される。(祠の名称は確認を怠る。)
 伊予河内寺塔礎石12    伊予河内寺塔礎石13    伊予河内寺塔礎石14    伊予河内寺塔礎石15
 伊予河内寺塔礎石16     伊予河内寺塔礎石17
境内の東はかっては田圃であり、現在は写真のように民家が建つ。塔礎石は東の田圃から運ばれたと聞いている。(住職談)
 塔礎石出土地(現住談):「鎮守」と思われる祠が右端に写る。
 伊予河内寺心礎3     伊予河内寺心礎4     伊予河内寺心礎5
 伊予河内寺門前     伊予河内寺山門     伊予河内寺本堂:本堂右の宝形堂の堂名は不明
 伊予河内寺堂宇:向かって左から庫裡・本堂・宝形堂・民家(塔跡)

伊予法安寺跡(史蹟):西条市小松町北川

出土瓦から飛鳥期に創建された寺院跡とされ、四天王寺式伽藍配置とされる。聖徳太子開基とも伝える。
現在は金堂跡及び塔跡に礎石が残存する。
塔跡には礎石16個を残す。全て自然石を使用し、中には十文字の掘り込みがある礎石もある。中心にも礎石が置かれているが、その大きさ(80cm×50cm)や心礎としての加工もなく、心礎ではないとされる。塔基壇は一辺11.9m、高さ0.6mと推定。
塔の北28mのところにある金堂跡には薬師堂下などに合計十数個の礎石が残る。中門跡は塔跡の南に位置し、天正4年頃には巨大礎石が8個あったと云う。(現在は遺失)。講堂跡にも大正4年までは巨大礎石2個があったと云う。
鐘楼跡と推定される場所にも大正4年まで巨大礎石が7〜8個あったとされる。また回廊跡と思われる土手にも以前は礎石があったが石橋に転用したと伝える。
 伊予法安寺塔跡1      同       2      同       3      同        4      同     伽藍図
2008/08/14追加:
○「天武・持統朝の寺院経営」 より
 伊予法安寺伽藍配置図
2014/11/03追加:
○「愛媛県史 原始・古代 1」愛媛県、1982 より
法安寺は、寺伝によれば旧主布山永寿院法安寺と号し、推古天皇4年(596)聖徳太子が伊予行幸の際に創建されたと伝える。
法安寺跡は本格的な発掘調査が未実施であり詳細は定かでないが、石田茂作によって以下のような確認調査が行われている。
 塔跡:方約12m(40尺)、高さ約60cm(2尺)の基壇上に16個の礎石が現存する。礎石は主に緑泥片岩の扁平な自然石を使用、そのうち9個の礎石の上面には柱の中心を示す十字形が刻まれる。礎石は心礎など一部移動した形跡がみられ、四天柱の一つもなくなっている。
 柱間寸法は中央間2.3m(7尺)、脇間1.9n(6尺5寸)で一辺長約6.06m(20尺)の塔跡である。塔の一辺長20尺は大和法輪寺三重塔とほぼ同じである。建立時期は中央間と脇間の寸法にほとんど差がないことからみて八世紀初期の可能性もある。
 金堂跡:塔跡の北方約28m(93尺)のところに東西約18m(60尺)、南北約12m(40尺)、高さ90cm(3尺)の方形の基壇が残存し、その上の薬師堂の前に 7個、その床下に8個、そして築地下に1個、北隣墓地に1個、都合17個の関連礎石が確認されている。
礎石は上面を平らにしただけの硬質砂岩の自然石で十字形の刻印もなく、堂前の三個を除き、他は移動しているものとみられる。
金堂の規模は石田茂作の推計によると、原位置の礎石3個と塔跡の中軸線から東西45.09尺=7・054尺+10.33尺+10.33尺+10.33尺+ 7・054尺の桁行5間、南北45.40尺=7.054尺+10.65尺+10.65尺+7.054尺の梁間4間と推定される。中央間が脇間の約一・五倍となっており、また、基壇は正方形(四〇尺×四〇尺)の対角線をもって東西長(六〇尺)にあてた裏尺を採用した可能性がある。裏尺は飛鳥時代から白鳳時代の七世紀代に使用されたものである。
 講堂跡:今は現存しないが、金堂跡から約28m(93尺)北方に礎石が五個あったというが、これを講堂跡であろう。
 中門跡:塔跡の約27m南方に大正4年ごろまで八個の礎石が存していたといわれ、中門跡とみられる。
以上の遺構は中門跡、塔跡、金堂跡、講堂跡が南北一直線上に配置され、攝津四天王寺、大和山田寺と同じ伽藍配置である。
創建時期は塔跡や出土瓦からみると七世紀中葉以後の白鳳時代の伽藍配置とみた方がよいように思われる。

伊予国分尼寺塔跡(他中廃寺)

 水田中に塔跡と推定される8m×12mの土壇があり、花崗岩製の自然石礎石6個が約2m間隔で残存する。
土壇はもともと方12mと推定され、また残存礎石は四天柱礎1と側柱礎5と推定される。出土瓦から白鳳期の建立と云われる。
国分尼寺に塔がある例は無いとされるが、当寺に塔がある理由は国分尼寺建立以前の寺院を国分尼寺に転用した為であろうとも云われる。
2002/12/27撮影:
 伊予国分尼寺塔跡1      同        2     同        3     同        4     同        5
○「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
桜井小学校の西南に真言律宗法華寺があるが、寛永年中に桜井小学校の地(小字古寺)から現地に移る。この付近から古瓦の出土を見、国分尼寺があったものと推定される。
法華寺から南に2・3町のところに礎石群がある。ほぼ方5間高さ約4尺の土壇があり、礎石6個を残す。何らかの堂宇のあったことは確かであろうが、従来これを塔址としたことは誤りである。もとより法華寺関係のものとも思われない。ここより出土の瓦は多いが、一部国分寺瓦より古いものがあるが、大半は平安期のものである。
「愛媛県史蹟名勝天然記念物調査報告書」ではこれを法華寺塔礎とするが、固より誤りである。
2014/11/03追加:
○「愛媛県史 原始・古代 1」愛媛県、1982 より
伊予国分尼寺塔跡は県指定史跡である。史跡塔跡の北西約4町に法華寺がある。
寺伝によれば、もとは引地山山麓の小字、古寺と称された桜井小学校敷地にあったが、寛永2年(1625)に現在地に移されたという。
さらに、年代不詳ではあるが中世以後のものと思われる法華寺古図によれば、要害山・釣瓶山を背景に北から南へ金堂、僧房そして小さく五重塔が並び、伽藍の前面は海と川で入江をなしていた様子がわかる。五重塔は伽藍配置からみて別寺と思われるが、方角からみて、県指定史跡の国分尼寺塔跡をさしている可能性もあろう。
 県指定の国分尼寺塔跡はその所在地の小字、他中(塔頭か)から他中廃寺と称する。塔跡の周囲から白鳳期の単弁・複弁蓮華文軒丸瓦が出土する。
 ところで、法華寺の元の寺地が桜井小学校敷地とする見方は妥当と思われる。桜井小学校の敷地からは平安時代初期の均整唐草文軒平瓦が出土し、これは国分僧寺跡出土瓦と同一手法のものであり傍証の一つとなろう。県指定史跡の国分尼寺塔跡は白鳳期の建立と思われ、奈良時代の国分尼寺(法華寺)とはかなりの年代差がある。しかも、国分尼寺には塔のないのが定説であり問題が残る。しかし、他の国分寺には前身寺院の転用例があり、国分尼寺創建にさいして、本寺の別(子)寺である塔頭としたことも十分に想定できよう。
 塔跡:発掘調査は未実施、基壇は現存部が南北約3m、東西8mで、高さは70cm程度である。
礎石は全部で6個残っているが、5個は側柱礎石で、1個は四天柱礎石と思われる。配石は北側柱が西から3個目まで、西側柱も北から3個目まで残り、その3個目の東側に四天柱1個が残存する。大きさは80×120cn前後で、その柱間は約2m等間と思われる。礎石は硬質砂岩で表面は水平であるが、特に柱座などの造り出しはない。なお、基壇は赤土と石灰土で交互につき固めた版築技法が認められるという。
 現存遺構から塔跡を復元すると、建物一辺長が三間の6m四方(20尺)、基壇の一辺長は、側柱心から基壇外面までの軒出し部が3m(10尺)とみて、12m(40尺)四方と推定される。塔跡からは白鳳期の瓦が出土する。
 他中廃寺堂跡実測図:もし本遺構が塔跡であるならば、礎石6が四天柱礎となる。
○2015/11/07撮影:
 他中廃寺土壇
 他中廃寺礎石1:向かって左より時計回りに礎石6、1、2、3、4、5が写る。      他中廃寺礎石2:同左
 他中廃寺礎石3:向かって左より時計回りに礎石6、1、2、3、4が写る。      他中廃寺礎石4
 他中廃寺礎石5:手前より6、1の礎石が写る。     他中廃寺礎石6:向かって左より時計回りに礎石2、3、4 、5が写る。
国分尼寺(法華寺)は建治元年(1275)大和西大寺末となり、現在も真言律宗である。寛永2年(1625)現在の高台へ移る。
 伊予法華寺山門1     伊予法華寺山門2     伊予法華寺本堂     伊予法華寺大師堂
 伊予法華寺書院      伊予法華寺鐘楼
瑜伽大権現(塔堂)
瑜伽大権現は平面3間四方(向拝付設)で一重、宝珠の代わりに相輪を載せる。いわゆる「塔堂」の形式である。
建築年代は不明(おそらく戦後のものであろう)、備前瑜伽山から勧請したのであろうが、その由緒なども不明。
 鎮守瑜伽大権現1     鎮守瑜伽大権現2     鎮守瑜伽大権現3     鎮守瑜伽大権現4     瑜伽大権現堂相輪
2016/06/05追加:
○「伊豫國分寺」鵜久森經峯(「国分寺の研究(下)」角田文衛編、昭和13年(1938) より
(伊豫國分尼寺趾の項):
伊予国分尼寺跡の塔跡は小字他中(たちゅう)にある。他中とは「塔頭」の義であり、これは古くより法華尼寺に付属する堂宇があるため、この附近の小字となったのであろう。塔礎というのは田の中の高まりにあり、地目は墓地と登記され、桜井町曽我部助一氏の所有地である。
塔礎は原位置を保ち、現在では6個を残す。
 他中廃寺堂跡実測図
礎石はいずれも自然石で、柱座や枘を造り出した痕跡はない。柱間はおよそ6.5尺でもし塔跡であるならば、一辺19.5尺となり極めて小規模の塔となる。これはおそらく塔跡ではないであろう。
礎石の大きさは次のとおり。(長径×短径×高さ):1〜6の番号は上記「実測図」の番号に符号する。
 1:4.3尺×2.5尺×1.5尺、2:4.3尺×1.9尺×1.3尺、3:4.3尺×2.55尺×1.3尺
 4:3.0尺×2.4尺×1.0尺、5:4.2尺×2.2尺×1.0尺、6:3.0尺×2.5尺×1.2尺
なおこの遺跡からは古い(奈良期の)各種の瓦が出土する。
現在の本堂・書院・鐘楼はいずれも近年の造塔で、客殿は現在の本堂・書院として造替され、本堂は現在の大師堂であると思われる。
 伊予国分尼寺旧本堂     伊予国分尼寺旧客殿
○「新修国分寺の研究 第5巻(上)>第5伊予>国分尼寺」西田栄、昭和62年(1987) より
伊予国分尼寺の所在は確証されてはいないが、諸文献および出土遺物から、現在の桜井小学校地であろうと推定されている。
現在の法華寺(国分尼寺)は引地山麓にあるが、記録では寛永2年に「古寺」(小字、桜井小学校地)から移転するという。
現在の法華寺南東約2町に土壇と礎石が残り、国分尼寺塔跡とされていたが、出土する古瓦から国分二寺創建に先んずる遺跡と見られるに至るというのが現状である。
この塔跡の最初の報告は大正13年刊「愛媛県史蹟名勝天然記念物調査報告書」でなされたもので、次のように報告される。
 法華尼寺塔跡配置図
この現状は今日まで遺跡として現存する。
ただ、変化したのは所有者が土地を法華寺に寄進したこと、礎石は露出する6個以外にボーリング探査ではなお若干存在することが明らかにされたことである。
 他中廃寺堂跡見取図
国分尼寺は現在の桜井小学校にあったことはほぼ異論をみないが、この塔跡と国分尼寺との関係は全く確論がなく、その関係は分からない。さらに、この塔跡が本当に塔跡であるあるいは堂跡であるのかも確論がない。
 法華寺古図:(片山才一「伊予国分寺」所収):片山氏は中世のものとする。
本図には五重塔及び三重塔とも思われる層塔が描かれる。これらとこの塔跡との関係はもとより未解明である。

伊予本堂寺塔礎石(伝):朝倉正善寺

越智郡朝倉町(現今治市朝倉南)正善寺境内に礎石はある。
 正善寺の略歴は以下の通り。
愛媛県今治市朝倉字朝倉南甲410、高野山真言宗。河野氏が朝倉郷中村(現本郷)に祈願寺として建立(開基は宥学上人)往古は七堂伽藍を具備したといい、往時は法隆山本道寺と称したという。
暦応3年(1340)行司原の岡武蔵守光信(南朝方、行司山城に拠る)が諸堂を再建した時、禅宗に改め、正禅寺と改称する。
南北朝期の貞治年中(1362-)焼失、再興にあたり本道寺を現在地(朝倉南)に移し、真言宗となり、正禅寺を正善寺と改称する。
河野氏が法隆山本道寺を朝倉郷中村(現本郷)に祈願寺として建立する。
暦応3年(1340)、行司原の岡武蔵守光信が諸堂再建し、禅宗となし寺号を正禅寺と改号する。
 現在境内には5個の礎石があり、それは本道寺(本堂寺)から移したという。
そしてその礎石は塔の礎石ともいうようであるが、塔の礎石という根拠は良く分からない。
なお、平成2年現地(本郷)では発掘調査が行われ、礎石を配した遺構や瓦が出土し本堂寺跡として確認したようであるが、詳細は不明。またこの遺構は白鳳・奈良期ともいうようである。
2015/11/07撮影:
今治市発行の「朝倉マップ」が手元にあるが、このマップの正善寺の項では「正善寺は、もと本郷にあった本堂寺の名残りである。境内に本堂寺跡の塔礎石が置かれている。」 という。
 なぜ、塔礎石であるのかの根拠は不明であり、そもそも本堂(道)寺に塔があったのかどうかも不明。あったとしても、移した礎石を塔礎石という根拠も不明である。
 礎石自体は焼損を受けたと思われる1個を除き、柱座を造り出すもので、礎石に間違いはないと思われるも、もとより、心礎である礎石は別にして、礎石一般を積極的に塔礎石とする説明はつかない。
 本堂廃寺説明石板:説明石板奥に1個(礎石1)、手前に2個(礎石2と3)、玄関前左右に各1個(礎石4と5)の合計5個の礎石がある。
 本堂廃寺礎石1の1     本堂廃寺礎石1の2     本堂廃寺礎石2の1     本堂廃寺礎石2の2     本堂廃寺礎石3
 本堂廃寺礎石4の1     本堂廃寺礎石4の2     本堂廃寺礎石5の1     本堂廃寺礎石5の2
 正善寺山門     正善寺庫裡・玄関:玄関左右に礎石が写る。     正善寺本堂1     正善寺本堂2

伊予三島大明神(大三島宮/現在は大山祇神社と称する)

中世は三島大明神を中心として多くの堂塔・坊舎が立ち並んでいたものと思われる。(詳細は良く分からない。)
 ○一遍上人絵伝(巻10): 描かれる塔は三重塔であろう。
 ○大山祇神社古図(室町期):右上に多宝塔、左下に三重塔が描かれる。
左に神宝所、僧坊、庁舎、炊屋、政所、三重塔、右に神宮寺、多宝塔、神館舎、武者所などがあったと思われる。
2007/01/02追加:
「Y」氏ご提供伊予大三島国幣大社大山祇神社古図」:上図と同一の古図で 、この室町期の古図が唯一中世の三島大明神の姿を伝えるものであろう。
2014/10/03追加;
○大山祇に神宮寺ができたのは保延元年(1135)と伝える。山号は月光山。当初は「神供寺」と称するという。
盛時には次の24坊があったという。
 泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊・瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・
 乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊・・・(「大三島詣で」、大山祇神社々務所)
正治年中(1199-1201)そのうち8坊は別宮に移転し、16坊が残るという。
天正5年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の4坊となり(「本縁」)、幕末には1坊となる。
 明治の神仏分離の処置で神宮寺は廃寺、仏像・仏具は東円坊に遷し、本堂はそのまま祖霊殿となる。しかし平成4年放火により焼失する。その後、現在の祖霊殿が再建される。
現在は東円坊と神宮寺奥の院(阿弥陀堂、神社西250mにある)及び別宮の南光坊のみが残存する。
東円坊は大山積の本地仏である大通智勝仏を本尊とする。
◇なお、大山祇神社は四国の他の一宮と同じく、四国霊場の札所であったが、参拝が困難であることから、四国側の別宮・地御前〔じごぜ〕である別宮大山祇神社〔べっく〕が札所とされる。現在は別宮の別当・南光坊が55番札所である。
◇中世の宝篋印塔3基(重文)が残る。
一遍上人の来島を記念して文保2年(1318)に建立されたもので、もとは本殿裏にあったが、明治3年に現在地に移すという。(「大三島記」)
上人は正応元年(1288)伊予繁多寺に入り、続いて大山祇神社に参詣すると伝える。
なお、一遍上人は大山祇神社最大の氏人であった豪族・河野氏(越智氏の後裔という)の出身である。
○2015/11/07撮影:
 社頭の案内板には、無反省というか厚顔無恥というか未だに国家神道の教義を掲げる。
要するに、記紀の物語で日本が創建され、それが日本や日本人の本質であるというような世界観は御免蒙りたい訳であるが、今次大戦前の大日本帝国に先祖帰りしたい懲りない面々が未だに日本では跋扈しているということなのであろう。
 今次大戦の敗戦まで、国家とは天皇を操る一握りのエリートが多数の国民を収奪する機構・実力組織でしかなかったのである。
したがって、当然国家は支配層の利益が第一で、国民は支配層が利益を得るための消耗品としか考えなかったのである。
考えても見よ。大日本帝国が編み出したのが国家神道なのである。
ごく一部を除き、総ての神社は国家に管理統制され、国家が管理する神社のヒエラルキーに嬉々として組み入れられていったではないか。
大日本帝国が再現する教義など勘弁して欲しいのである。
◎三島大明神現況
総門:平成22年竣工
 三島大明神総門翼舎
拝殿:
重文、切妻造、正面唐破風付向拝、屋根檜皮葺。記録では天授4年(1378)再建というが、解体修理で応永34年(1427)の墨書が部材から発見されるという。
 三島大明神拝殿1    三島大明神拝殿2    三島大明神拝殿3    三島大明神拝殿4    三島大明神拝殿5
本殿:
重文、三間社流造、屋根檜皮葺。応永34年(1427)再建。
 三島大明神本殿1    三島大明神本殿2    三島大明神本殿3    三島大明神本殿4    三島大明神本殿5
上津社:
天授4年(1378)再建、三間社流造、屋根檜皮葺。県文。
 三島大明神上津社
下津社:
明暦元年(1655)再建、三間社流造、屋根檜皮葺。県文。
 三島大明神下津社
十七社:
入母屋造諸山神社と切妻長棟造の十六神社が一体となっている建築である。屋根檜皮葺。慶安5年(1652)改築。室町期の様式を残すという。合計17の社に21体の木彫神像を祀る。内16体は平安後期の神像として重文指定を受ける という。2社が合体しかつ十六神社は長大な長棟で珍しい建築である。
 三島大明神十七社11    三島大明神十七社12    三島大明神十七社13    三島大明神十七社14
 三島大明神十七社15    三島大明神十七社16    三島大明神十七社17    三島大明神十七社18
 三島大明神十七社19    三島大明神十七社20    三島大明神十七社21
宝篋印塔:
三基とも重文、東塔(向かって左、 文保2年/1318有銘、花崗岩製、高さ 302cm)、中央塔(鎌倉後期、花崗岩、高さ 429cm)、西塔 (鎌倉後期、花崗岩、高さ 332cm)
もとは本殿裏にありしも、明治の神仏分離の処置で現在地に移すという。
一遍上人が当社を参詣の時奉納したとも云う(社伝)が、文保2年(1318)の年代は一遍上人の遷化した正応2年(1289)の29年後であり、有り得ない話であろう。
 三島大明神宝篋印塔
 2022/08/05追加:
 東塔は仏師念心の作という。
  ○「大山祇神社宝篋印塔 東塔」のページでは次のように云う。
  (重要文化財、鎌倉時代後期 文保二年 1318年、花崗岩、高さ 302cm)
  国宝館の入口前に三基の重文宝篋印塔が立っている。東塔は、正面に向かって左側の宝篋印塔。
  塔身は四面とも無地で、摩滅が激しいが正面と次面に刻銘がある
  刻銘:「勧進聖・・・・・文保二年(1318)戌午十二月九日、大工法橋念心」(大工とは石工・仏師)
   三島大明神宝篋印塔・東塔:2015/11/07撮影
  仏師(大工)念心在銘の作品は
  備後佐木島磨崖和霊石地蔵(→明治以降の三重塔中496にあり)、備後米山寺小早川氏廟所宝篋印塔(重文)がある。
神宮寺(神供寺)跡:
保延元年(1135)の創建と伝える。往時は四国88所55番札所であった。明治の神仏分離の処置で神供寺は廃寺、明治6年杵築大社から分霊を勧請、相殿に信徒の祖霊を祀る祖霊社とする。
享保18年(1773)神宮寺焼失の記録があり、神宮寺はその後まもなくの再建であり、その建物が明治の神仏分離の処置で祖霊社に転用されたのであろうが、平成4年日帝残滓の 焼却処分として中核派が放火し、旧神宮寺建物は焼失する。平成6年現在の建物を再建。
なお、神宮寺跡の片隅に無縫塔が数基あり、さらに五輪塔や石塔の部材を適当に積み上げたものが残る。無縫塔は神宮寺関係の僧侶の墓であろうか。刻銘は摩耗して判読し難いが、寛保2年(1742)と判読できる無縫塔もある。
 三島大明神神宮寺跡    神宮寺跡推定僧侶墓
東円坊:
唯一残る神宮寺坊舎である。東円坊の草創は越智為澄次男・妙尊が社の近くに一宇を建立したことに始まり、その子が東円坊を称したという。東円坊は代々、三島大明神の供僧を統括する検校を世襲する。明治の神仏分離の処置で神宮寺は廃寺、本地佛大通智勝仏が当寺に遷される。なお、大通智勝仏は阿弥陀堂に安置という。(未見)
現在東延坊には次の仏像を安置する。
木造金剛界大日如来坐像(大通智勝仏)、木造胎蔵界大日如来坐像、木造南無太子立像、木造薬師如来三尊像(本尊)
また境内には附近から五輪塔・石仏などが集められ安置される。これらは室町期のものと推定され、おそらくは附近にあった24坊の僧侶の墓標と思われる。
 東円坊石垣    東円坊本堂1    東円坊本堂2    東円坊手水舎    東円坊阿弥陀堂    東円坊五輪塔類
奥之院:入口に生樹の御門がある。奥之院は阿弥陀堂と庫裡からなり、阿弥陀堂には阿弥陀三尊を安置という。
 奥之院生樹の御門    奥之院阿弥陀堂1    奥之院阿弥陀堂2

(参考項目):
◆備中木野山神社
2014/09/28撮影;
天暦9年(955)伊予大山祇神を備中に勧請したと伝える。近世には備中松山城主の崇敬をうける。近隣各地に分社があるようである。
当初は木野山山頂に鎮座するも、大正期に里宮が作られる。写真は里宮である。
 備中木野山神社1     備中木野山神社2     備中木野山神社3
木野山里宮の社殿のある同一平坦面東に八幡社がある。但し鳥居・随身門・参道石階は別途にある。この八幡社の由緒は不明。
 備中木野山八幡社1    備中木野山八幡社2    備中木野山八幡社3

伊予茶臼権現推定塔礎石

旧北条市河野(別府若宮)
 礎石は153×138×69cmの大きさで、径87cmの円柱座があり、その中央に38cmの出枘を造る。
しかし、本礎石は礎石であることは確実であるが、本礎石の出土状況などが必ずしも明確ではなく、心礎なのかどうかはよく分からない。
但し大きさおよび形状から見て、心礎である可能性もあると思われる。この場合、その形状から奈良後期の心礎もしくは礎石と推定される。
しかし、下で述べられるように、大型の同じような礎石が多くあったことが事実とすれば、心礎ではなく、塔の脇柱礎などもしくは大型の堂宇の礎石の一つであった可能性が高いであろう。
 現在、礎石は茶臼権現という小祠の台石になる。茶臼権現の由来は「この礎石を茶臼権現と称して信仰されるのは、昔、殿様がお通りになったとき、当所の涌き水で茶をたてたところよい香りが漂ったという伝説によっている。」 というようなことという。
 茶臼権現推定心礎1    同        22005/2/11「X」氏ご提供
  
写真には礎石とも思われる石が写るが礎石かどうかは不明。
2014/10/03追加:
 この礎石は現在地より東方約20mの田の中から移動されたもので、その上に小祠を据え、茶臼権現と称している。
現在もこの地を含み東方を大寺、西方を竜徳寺という「ほのぎ」(小字)が残るという。付近の宅地造成では多数の布目瓦が出土ともいう。
○ページ「別府遺跡」 (「Web考古館 別府遺跡」)では以下のような図が掲載され、次のように解説する。
 別府遺跡条理・地割図
図中の黒ポイントが茶臼権現(古代の礎石)がある位置である。また黄色の1〜3区は2001年に行われた発掘調査区である。
では条理・地割で見てみよう。図中の緑のラインは現在でも中世の条理の影響を受けている道だと考えられる。周辺の田畑や家屋もおおむねこの条理の影響を受けていると考えられる。しかし別府遺跡の南側約100m地点に中世の条理の影響を受けていないほぼ東西に延びる道が1本(オレンジのライン)残る。全長で約109m(1町)あり、このラインを別府遺跡に向かい一町四方に拡張すると1区の掘立柱建物跡と土坑がこの一町四方の北東隅に主軸を南北に併せた状態で含まれるようになる。この一町四方の区割りとは古代寺院の区割りであるとも考えられる。
 地元の人の口伝では、明治初期までは数多くの大型の石がこの周辺に集積されており、明治19年の大洪水で決壊した高山川の堤防修復にこの集積された石を利用したと伝える。その集積された大型の石の中の一つがこの礎石だとすると、この礎石と同等の礎石がいくつも存在した可能性が考えられる。
 なお、茶臼権現及び礎石は別府部落所有のようである。
○2014/11/16撮影:
日没後の撮影となる。後日を期す。
 茶臼権現礎石3    茶臼権現礎石4    茶臼権現礎石5    茶臼権現礎石6    茶臼権現礎石7    茶臼権現礎石8
○2015/11/07撮影:
今度は日の出前の撮影となる。
 茶臼権現礎石11    茶臼権現礎石12    茶臼権現礎石13    茶臼権現礎石14    茶臼権現礎石15
 茶臼権現礎石16    茶臼権現礎石17    茶臼権現礎石18:礎石かどうかは確認の術がない。

伊予太山寺塔礎石 ・松山市太山寺町

龍雲山護持院太山寺と号する。大師堂そばに三重塔の礎石と称する石造物がある。
大きさは径約90cm、穴の径は約74cm(「X」氏による)。この石の現在の用途は不明。
なお「X」氏の判断では塔礎石とするには無理があるという。蓋し、その通りであろう。
寺伝では、創建は用明2年(586)豊後の真野長者といい、天平11年(739)には聖武天皇の勅願で行基が十一面観音を刻んで本尊としたという。 平安初頭弘法大師の巡錫があったといい、66坊を構えるという。その後漸次頽廃するも、嘉元3年(1305)河野氏により再興される。
四国52番札所。
本堂:国宝、嘉元3年(1305)建立、桁行7間梁間9間の大建築である。
仁王門;重文、嘉元3年、三間一戸八脚門。
本尊は十一面観音立像7躯(重文・平安後期)。
なお、その他に一の門、四天王門:楼門/入母屋造/天和3年(1683)再建、大師堂:明治17年再建、護摩堂、稲荷堂、聖徳太子堂:1971年再建、鐘楼堂;明暦元年(1655)再建、厄除大師堂、長者堂などを具備する。
 伊予太山寺塔礎石:2002/3月「X」氏撮影画像
2014/10/03追加;
(三重塔礎石は)大師堂の傍にあり、新しい”たわし”でこすれば痔が治るといわれているようである。(多くのWebページで同文の紹介がある)
2014/11/16撮影:
○「えひめの記憶」> [『ふるさと愛媛学』調査報告書]>「(1)太山寺から円明寺へ」のページ より転載
 ○太山寺圖:江戸中期とある
伊予太山寺塔礎石については、この石がどのような「伝承」に基づき「塔礎石」とされるのかの情報がなく、また形状からも見ても礎石とする根拠は見いだせない。
そもそも、太山寺に塔婆が建立されていたという情報も寡聞にして接することができない。
伊予太山寺塔礎石;
 伊予太山寺塔礎石1     伊予太山寺塔礎石2     伊予太山寺塔礎石3     伊予太山寺塔礎石4
 伊予太山寺塔礎石5     伊予太山寺塔礎石6
伊予太山寺現況;
 太山寺主要伽藍1     太山寺主要伽藍2     太山寺主要伽藍3
 伊予太山寺仁王門1    伊予太山寺仁王門2    伊予太山寺仁王門3     伊予太山寺仁王門4    伊予太山寺仁王門5
 伊予太山寺本堂11     伊予太山寺本堂12     伊予太山寺本堂13     伊予太山寺本堂14     伊予太山寺本堂15
 伊予太山寺本堂16     伊予太山寺本堂17     伊予太山寺本堂18     伊予太山寺本堂19     伊予太山寺本堂20
 伊予太山寺本堂21     伊予太山寺本堂22     伊予太山寺本堂23     伊予太山寺本堂24     伊予太山寺本堂25
 伊予太山寺本堂26     伊予太山寺本堂27     伊予太山寺本堂28     伊予太山寺本堂29
 伊予太山寺楼門1       伊予太山寺楼門2       伊予太山寺鐘楼        伊予太山寺大師堂1     伊予太山寺大師堂2
 伊予太山寺長者堂       太山寺聖徳太子堂       伊予太山寺護摩堂     伊予太山寺稲荷堂
 伊予太山寺本坊         伊予太山寺玄関         伊予太山寺客殿

伊予朝生田廃寺心礎:松山市朝生田町

○「幻の塔を求めて西東」:
二重円孔式、200×143×60cm、円柱座造出径43×1/3cmと径29×20cmの孔を持つ、白鳳期。
○2005/02/11「X」氏撮影:
写真で見るかぎり、二重円孔と言うより、円孔の廻りに排水溝を彫り、2本の排水溝を彫る形式と思われる。また現状側面の一部は欠損しているとも思われる。
現在心礎は善宝寺境内にある。
善宝寺と朝生田廃寺との関係は不明であるが、善宝寺は縁起によると、
推古天皇の代、河内の僧宥全が当地に聖徳太子作阿弥陀如来を祀ったことを始まりとする。
天平年中には行基が留錫し、観音像を刻み、本尊となし、観音寺と改号する。
弘仁11年弘法大師が来り、真言院となす。斉衡3年(856)地震により三重塔倒壊。
天慶3年(940)藤原純友の乱により伽藍焼失。弘安4年(1281)河野通有により伽藍再興。
嘉元3年(1305)12坊中8坊を焼失。観応2年(1352)足利尊氏伽藍再興、善宝寺と改号する。
 朝生田廃寺塔心礎1       同        22005/2/11「X」氏撮影画像
2004/04/09追加:
○「日本に於ける塔の層数と教義との関係」石田茂作、昭和11年より
記事:「善宝寺三重塔、愛媛温泉郡石井村、新義真言、平安、今なし」
2014/10/03追加:
「松山市史料集 第1巻」のp.500に「朝生田廃寺の礎石と心礎」の図版があると思われるも、未見。
2014/11/03追加:
○「愛媛県史 原始・古代 1」愛媛県、1982 より
寺跡は朝生田町の善宝寺付近一帯に比定される。かつて善宝寺の墓地近辺から掘り出された塔の心礎石は境内に置かれる。
径1.5m、柱座径45cm、枘穴径37cmの自然石であり、外面には排水用の溝が二本切られる。
 出土瓦は大和平隆寺出土の複弁八弁蓮華文軒丸瓦と同笵の瓦や、これと組み合わせになる忍冬唐草文軒平瓦などが出土している。ほかには平安前半の複弁四弁蓮華文軒丸瓦があるが、この瓦は伽藍窯跡出土の瓦に類似する地方色豊かな軒丸瓦である。
○2014/11/16撮影;
善宝寺付近は完全に宅地であり、心礎の他に古代朝生田廃寺を忍ばせるものは皆無である。
心礎は花崗岩と思われる。また心礎側面の一部が大きく割れ欠損する。
 伊予朝生田廃寺心礎11     伊予朝生田廃寺心礎12     伊予朝生田廃寺心礎13     伊予朝生田廃寺心礎14
 伊予朝生田廃寺心礎15     伊予朝生田廃寺心礎16     伊予朝生田廃寺心礎17     伊予朝生田廃寺心礎18
 伊予朝生田廃寺心礎19     伊予朝生田廃寺心礎20     伊予朝生田廃寺心礎21     伊予朝生田廃寺心礎22
 伊予朝生田廃寺心礎23
円孔底隅に斜下に貫通する水抜き孔(小孔」)があるが、これは近代の機械による細工であろう。
 伊予善宝寺山門          伊予善宝寺本堂・庫裏

伊予来住廃寺(史蹟) ・(きしはいじ)・長隆寺廃寺

 伊予来住廃寺:石造露盤が遺る。

伊予中ノ子廃寺

 「亡失心礎」の「伊予中ノ子廃寺」の項を参照。

伊予松前城発掘塔礎石・松前 (マサキ)町

現在は妙寛寺(身延山末寺)境内に「塔の礎石」として保存・展示される。
当礎石は明治42年松前城跡(古くからの築城のようで、近世は加藤嘉明が入城)開墾の際、発掘されたと伝える。
「X」氏情報:町の教育委員会の見解は以下の通り。開墾時に発掘された礎石は、同町内の古刹である金蓮寺あたりから松前城の築城時に転用された可能性がある 。
なお「X」氏の見解では、この礎石が塔礎石かどうかは判断出来ないと云う。
 伊予松前城発掘礎石2002/3月「X」氏撮影画像
2014/10/03追加
○松前城跡:松前町筒井
平安初期この地に定善寺(性尋寺、今の金蓮寺)が存在し、軍事・交通の要衝として境内に砦が設けられたのが松前城の始まりであろうといわれる。
南北朝期には松前城が攻防の一つの拠点であったことが知られる。
その後、中世には幾多の変遷があったが、文禄4年(1595)朝鮮の役で戦功をあげた加藤嘉明が淡路志智城より6万石で松前城に入府する。
翌慶長元年(1596)嘉明は金蓮寺を現在地に移転、伊予川を改修して城郭及び松前港の大拡張を行う。
慶長6年(1600)嘉明は関ヶ原の戦功により20万石に加増、慶長8年(1603)松山城に移り、松前城は廃城となる。
天保年中以降二の丸を耕地化し、余り土を盛った所が現在の城跡地であるという。
明治42年耕地整理により様相は一変し、大正11年龍燈の松が倒壊して松前城を偲ぶものは皆無となるという。
○金蓮寺(定善寺):松前町西古泉65
玉松山十二光院と号し、現在は真言宗智山派に属する。
定善寺は大同3年(808)河野氏により開基され、天安元年(857)弘法大師の法孫明実が入って寺の基礎を固め、貞観元年(859)玉生八幡の大別当を兼ねるという。
寛喜3年(1231)唐僧明海が渡来、入寺し堂塔を整備し、中興開基とされる。
文禄4年(1595)加藤嘉明は、松前城築城のため金蓮寺を現在地に移す。
妙寛寺:松前町筒井1123(宗意原)
身延山に属する。日進山(旧泰運山)と号する。
天正7年(1579)行学院日潤上人、妙円寺を創建する。
慶長8年(1603)加藤嘉明が松山に築城移転、当地にあった妙円寺が共に移転する。嘉明臣武井宗五郎貞通その跡地に宗意庵を建立する。
嘉永2年(1849)西高柳教願寺より清正公像(現存)を勧請する。(明治初期に教願寺は妙寛寺に合併する。)
安政4年(1857)大地震により本堂が壊滅、明治3年(1870)妙円寺日寛上人が再建し、妙寛寺と改号する。
明治30年頃、伊予市大平の天神堂を移し、これを本堂とする。
明治42年松前城跡開墾の時、塔の礎石が発掘され、これを当寺に遷す。
 ※塔の礎石とする根拠は不明、もし塔の礎石であるなら、以上の経緯から定善寺のものなのであろうか。
昭和49年現本堂庫裡を新築。
○2014/11/16撮影:
伊予松前廃寺心礎実測値
心礎の多きさは95×115cm厚さ45cm、中央に径25cm高さ5cmの出枘を造り出し、その中央に径8cm深さ7cmの孔を穿つ。
岩質はおそらく砂岩と思われる。
 伊予松前城発掘塔礎石1     伊予松前城発掘塔礎石2     伊予松前城発掘塔礎石3     伊予松前城発掘塔礎石4
 伊予松前城発掘塔礎石5     伊予松前城発掘塔礎石6     伊予松前城発掘塔礎石7     伊予松前城発掘塔礎石8
写真の「塔礎石3」で見られるように「礎石」側面には「明治42年3月23日/松前城址開墾之際発掘」と刻む。この刻銘を刻したのは発掘時なのか移転時なのかそれともそれよりも後日なのかは不明であるが、この刻銘がこの「礎石」の由来を語る殆ど唯一のものなのであろう。
つまりは松前城址から発掘したことは確かであっても、この「礎石」が寺院に関するものなのか、ましてや塔に関係するものなか、あるいは城の施設に関するものなのか全く不明とするしかない。
形状から見ても、確かに表面は平に削平されてはいるが、出枘を造出し、さらに出枘の中央に円孔を穿つような様式の寺院の堂塔の礎石は類例がなく、寺院の堂塔の礎石とするには無理であろう。また「塔の礎石」という意味には「心礎」というニュアンスも込められているのかも知れないが、心礎にしても、こういった様式の心礎は類例がなく、心礎ではありえないであろう。また心礎としては石質が脆すぎるであろう。
確かに礎石あるいは台石ではあるのであろうが、堂塔のものではなく、松前城の建築物の礎石、何等かの城の施設の台石である可能性が強いであろうと思われる。
 伊予松前妙寛寺本堂     伊予松前妙寛寺庫裡     伊予松前妙寛寺歴代墓碑等:但し歴代は不詳という。

伊予海岸山岩屋寺:絵図に木造多宝塔 と思われる塔が描かれるも、木造多宝塔があったと云う確証はない。

2013/08/15追加:
○「四国遍礼霊場記」(原本は元禄2年「内閣文庫本」寂本原著7巻7冊、東京国立博物館本/元禄2年刊の複製) に記載の「岩屋寺圖」では法華仙人行場跡の右に多宝塔とも思われる塔婆が描かれるが詳細は不明である。
 ○岩屋寺圖
記事:・・・本堂・・・大師堂とは廊下で通じている。堂の上には特に屹立した岩があり、高さが3丈ほどで堂の椽から16段の梯子をかけて登る。
岩上には仙人堂を建て、・・法華仙人は弘法大師の時代までこの山に住むと伝える。その上は屏風を広げたような岩で、少々窪んだところに卒塔婆がある・・・・。その下には塔があり仙人の舎利塔といわれている。
 ※岩屋寺圖では木造多宝塔のようにみえるが、果たしてどうなのであろうか、情報がなく、詳細は不明である。
なお、各Web情報では「寺の左右にある礫岩峰は、左の鐘楼門に面したところが胎蔵界峯、右が金剛界峯と呼ばれている。金剛界峯には、法華仙人の行動の跡と舎利塔が残っている。」との主旨の記載が散見される。
以上のように、現在、現存する舎利塔は石造五輪塔のようであり、木造多宝塔は現存しない。
また記事で云う「仙人の舎利塔」と現存する石造舎利塔が同一のものであるとの確証は必ずしもないが、同一のものと仮定して、木造多宝塔が何時しか退転し、石造五輪塔に造替されたのであろうか。あるいは、木造多宝塔は石造五輪塔(舎利塔)を奉安したもので、いつかの時代に退転し、石造舎利塔のみが現存するのであろうか。


土佐長徳寺塔遺構(調査報告書では多宝塔遺構、実態は真言大塔遺構と推定):長岡郡本山町寺家

下記の「発掘調査報告書」では「多宝塔跡」と報告されるが、発掘調査平面図に従えば、この遺構は「多宝塔」ではなく「真言大塔跡」とすべきであろう。 現状についての情報は皆無であるが、おそらく跡地は埋め戻され、地上には何も残らないものと推測される。
○「長徳寺址発掘調査報告書」高知県長岡郡本山町教育委員会、昭和52年 より
 多宝塔の礎石の下に敷かれる根石群が整った形で確認される。
吾橋山長徳寺は久安5年(1149)本山の領主である八木頼則・盛政父子(後注)によって建立され、鎌倉期には隆盛であったと云う。
その後、2度の火災に遭い、室町期まで存続する。火災に遭い、室町期まで存続したことは、文献上からも、発掘調査の知見とも一致する。
 土佐長徳寺概要図:A地区は長方形の建物跡(潅頂堂か)、B地区は多宝塔跡、C地区は坊舎跡と推定される。
 ・昭和51年第一次の発掘調査が行われ、その結果、礎石の根石が南北約6m・東西約15m四方の範囲で発見される。長方形の建物があったものと想定される。
発掘場所は「長徳寺跡概要図」のA地区、河岸段丘上の緩傾斜地である桑畑である。
 ・昭和52年第二次発掘調査が行われ、「長徳寺跡概要図」のB地区・畑一面を全面発掘する。その結果以下が判明する。
多宝塔礎石下の根石がわりあい動かない状況で出土する。
 長徳寺多宝塔跡実測図     長徳寺多宝塔跡発掘写真     多宝塔跡四天柱根石
上記の「実測図」や「発掘写真」のように、外側は一辺5間の方形平面と判断される根石群があり、その内側におそらく12本の柱を建てた円形平面 を持つ根石群、さらにその内側にも、柱の数はやや根石が乱れ判然とはしないが、円形平面を持つ根石群が発見される。つまり一辺5間の方形平面の中に、二重 の円形平面を持つ建物跡であることが判明する。
さらに、中央には根石群のかたまりがあり、これは四天柱の礎石の根石と思われるが、一方に偏ったものである。
「初層の総柱間は約14mあるので、その大きさは現存する紀伊根来寺多宝塔(一辺約15m)よりやや小さいものである。」
    ※昭和12年再興の高野山大塔の一辺は約22m。 → 「高野山
また、ここからは古瓦の一片も出土せずと云う。
なお、礎石は早くから抜き取られ、付近の住民によって墓石や人家の階段に利用されると云う。
  ※残念ながら本遺構の年代については、今般の発掘調査では年代の決め手となる成果がなかったのか、全く言及がない。
 ・「長徳寺跡概要図」のC地区(若一王子宮の西方、保育園の南)では、礎石が二個露出するものがあったので発掘するも、下に根石のない礎石であって、明治以後に小さな小屋の礎石に使ったことが古老の話で判明する。しかし、その明治以降の小屋と違う根石も発見され 、中世の羽釜などが出土し、この地区には坊舎があったものと推定される。
 ・遺跡の北の山中には奥の院がある。南北23.5m,東西10mの平坦地である。何等かの堂宇があったものと思われる。
南に下ったところには大門と云う字名が残る。
そして若一王子の存在から真言の伽藍と推定すれば、Aの堂舎は潅頂堂跡、Bは多宝塔跡、Cは坊舎跡と推定されるが、護摩堂があったとすれば、それは潅頂堂西側、金堂は多宝塔西側と推定される。
 ※若一王子社は長徳寺鎮守であろう。今に大きな拝殿と本殿を残す。
 後注:八木氏について
  八木氏については清和源氏吉良流の八木氏、平氏、但馬国造八木氏などの諸説があり、判然とはしない。また八木氏は平安末期に本山に入部し、後には地名から本山氏を名乗るようになるといわれる。
また、ページ「土佐中央部の古社と奉斎者」では以下のように述べる。
 十世紀前半の承平年中、紀貫之の『土佐日記』にも、前国司貫之の帰任に際して、当地の有力者として馬のはなむけをした「八木のやすのり」(八木康則と表記か)が見えている。
 久安五年(1149)に吾橋山の開発領主として長徳寺(本山町寺家にあった寺)の発願造立した者に、頼則・盛政の名が見えるが、この両者は豪族本山氏の祖といわれる(編年紀事略)。この頼則の名は「やすのり」に通じるか。吾橋庄の名の初見は、応安七年(1374)十二月の信濃守八木下文(『蠧簡集木屑』所収長徳寺文書)とされる。
○本多宝塔跡の評価:
 多宝塔跡の発掘図から、遺構は平面方5間で、その内部に二重の12本と思われる円形柱を有し、また一辺の長さが約12mを測るとすれば、基本的には、この遺構は多宝塔というより「真言大塔」の遺構であろう。
 また本塔の建立時期は、残念ながら、発掘調査報告書には一切触れられていないので、良く分からないが、長徳寺の創建が久安5年(1149)と云い、その後2度の火災があり、室町期には細々と存続していたと云うことを信じれば、長徳寺真言大塔は久安5年(1149)頃の建立と推定して良いであろう。
 ところで、上記「調査報告書」で報告された「二重の円形平面を持つ」ということの意味と「中央にある四天柱礎のかたまりが一方に偏る」ということが奇異に思われることについては、以下のような解釈が可能であろう。
 その前に、拙「初期多宝塔」のページを参照すれば、現在には平安期の遺構は伝わらないが、平安期には多くの多宝塔が造立され、さらには真言大塔や天台大塔も造立されたことが知れる。
このことから、久安5年(1149)頃に真言大塔が造立されたとしても決して特異なことではない。
さて、同じく拙「初期多宝塔」のページから真言大塔形式 とされる例を引用すれば、
  (但し、原史料は未見、孫引き)
 ◇紀伊高野山大塔(2代):康和5(1103)年供養、典拠:高野春秋、再建記録:多宝塔(高16丈、広8丈、裳層付・・・)本尊;胎蔵界五仏:
  久安5年焼亡。保元元年(1156)再興。「多宝塔1基、高16丈、下壇広8丈、土壇9丈6尺、・・・母屋内柱12本円形、次仏壇柱12本八角、
  次水輪柱12本円形・・・」とあり規模・母屋柱12本などより、大塔形式であったと思われる。
 ◇紀伊高野山大塔(3代):保元元年(1156)供養、典拠:御室相承記、高野春秋:久安5年(1149)造始。大永元年(1521)焼失。
  ※弘安8年(1285)「高野山曼荼羅供図」では「大塔は方5間、内部に12本の円形柱列、8本の八角柱列、4本の仏壇柱」が
  描かれているという。  → いずれも「高野山」を参照
とある。
 次いで、拙「初期多宝塔」のページ中の【清水擴「平安時代仏教建築史の研究」】を参照すれば、「高野山大塔各氏復元図」に示されるような真言大塔の平面形式が知れる。
 さらに、拙「初期多宝塔」のページ中の「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」で、【高野山大塔・西塔指図:「高野春秋」所載 】にも真言大塔の平面形式を知ることができる。
つまり、「二重円形平面を持つ」という意味は、真言大塔の汎用形式であったと推測されるのである。(但し立面形式は不明。)
 また、「中央にある四天柱礎のかたまりが一方に偏る」とは、上記高野山大塔の例を見ても仏壇間(四天柱)は中央にあり、確かに奇異ではある。しかも、立面 構造は不明であり、かつ建築としては良く理解できないことも事実である。
しかし、高野山大塔においても、上述のように、初重には中央に「4本の仏壇柱」がある。長徳寺では何かの事情があり、東側に「4本の仏壇柱」を建てたのであろう。
一辺が大きい大塔であり、礼拝の場を塔内に広くとるために、須彌壇を中央ではなく一方に寄せたのであろうか。また東側に偏って仏壇を造作したのは、塔の正面が西向であったため、東面に設置したものであろうか。何れにせよ、この場合、四天柱は塔本体の構造材では なく、単に須彌壇設置のための柱であったのであろう。しかし類例がないので良く分からない。

土佐野中廃寺:南国市元町1

 →土佐野中廃寺


土佐僧津廃寺(仮称)<瓜尻遺跡>

2020/07/16追加:
〇2020.07.11「高知新聞」記事:
「安芸市に7〜10世紀古代寺院の仏塔 統合中学校予定地の瓜尻遺跡 豪族の氏寺か」
 安芸市僧津の統合中学校の建設予定地に広がる瓜尻遺跡で、水煙が県内で初めて確認されるなど、重要な遺物が多数見つかり、7〜10世紀にかけて大規模な古代寺院が存在していたことが分かった。安芸市教育委員会の試掘や専門家による踏査で判明。安芸郡の豪族が造った氏寺と推測される。
 青銅製水煙残片     採取された古瓦
〇2020.02.27「高知新聞」記事:
「遺跡発見で安芸統合中学校の開校遅れ 調査で最短1年」
 高知県安芸市の新統合中学校の開校時期が、2023年4月から少なくとも1年遅れる見通しであることが判明。建設予定地から古代の寺院跡とみられる痕跡が複数発見されたため。4月から安芸市は半年から1年間、本格的な発掘調査を行う。
 新中学校は市立安芸中学校と清水ケ丘中学校を統合し、安芸市僧津地区の約4万9千平方mに新設する計画。
※瓜尻遺跡内の僧津(安芸市立の新中学校建設予定地)で、古代寺院の存在を示す相輪の水煙残片と多数の古瓦などが、採取され、この地に塔を伴う古代寺院の存在することが明らかとなる。
 発掘はこれから本格化する予定のようで、堂塔の基壇・地業・基壇外装・礎石などの発掘が期待される。特に塔を伴うので、心礎などの発見もあればと期待される。

土佐最御崎寺(室戸岬)

明治期まで多宝塔があった。「日本塔総鑑」、「日本の塔総観 中」 → 土佐最御崎寺

土佐金剛頂寺(室戸岬)

○「日本塔総鑑」:
金剛頂寺塔に嵌めこまれていた真言八祖半間彫板彫像が残存し「土州金剛頂寺塔、八祖像、嘉暦弐丁卯二月十二日・・・」とある。
「日本の塔総観 中」:
明治期まで多宝塔があった。

土佐比江廃寺(史蹟)

塔跡の発掘調査により、塔基壇は一辺38尺で、栗石乱積基壇と判明。
心礎は3.4m×2.21m(砂岩)で、径81cmの円孔、および径15cmの孔を穿つ重孔式。
「日本の木造塔跡」:2.8×1.82mの大きさで、径81×13cmの円穴があり、その中央に径15×9cmの孔を穿つ。
法隆寺式伽藍配置の図が現地にあるが、伽藍配置が確認されている訳では無いと思われる。
出土瓦・心礎の形式などから白鳳期の創建とされる。
 土佐比江廃寺心礎1    土佐比江廃寺心礎2    土佐比江廃寺心礎3    土佐比江廃寺心礎4    比江廃寺伽藍想定図
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 土佐比江廃寺心礎5:比江の蘇我寺塔址:柱座及び円形舎利孔
2014/10/03追加:
○これまで昭和44年,平成元・2年,平成6・7年に発掘調査が実施される。
伽藍配置については、昭和44年の調査で38尺四方の塔基壇を有する法隆寺式伽藍配置と推測されるものの、考古学的に立証されてはいない。さらにその性格については豪族の氏寺として建立され、国府付属寺院(国府寺)や国分尼寺に転用されたと推測されるなどその実態は不明のままである。
平成6・7年の調査では心礎の再調査を行い、原位置を保っていることが改めて確認される。また、東側から掘り込み地業が検出され、それが南東側に拡がっていることが確認される。さらに、版築土から8世紀代の須恵器が出土し、建立時期が白鳳期ではないことが判明する。
○2014/10/04撮影;
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 土佐比江廃寺心礎23     比江廃寺伽藍想定図2

土佐竹林寺三重塔跡

 土佐竹林寺三重塔跡・五重塔


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