近  江  の  塔  跡

近江の塔跡
近江の白鳳期の古瓦散布地は100箇所近くが知られているという。

近江浄明寺塔跡

木之本町大音:
・現地案内板(大音区賤ヶ岳観光協会):「X」氏撮影:によると、「小字<塔の尾>にあり、浄明寺(廃寺)の西塔跡と伝える。 現在も地下に基礎の石が残っている。三重塔であった。」と云う。
三重塔とする根拠は不明。地下には礎石もしくは地覆石などの類が残っていると云うも不詳。
「X」氏ご提供画像近江浄明寺西塔跡    近江浄明寺西塔説明板
 画像
・2008/09/29:
浄明寺については不詳であるも、現地説明板を要約すると以下のようになる。
浄明寺は弘仁3年(816)弘法大師によって開かれたと伝える。古は大門を中心に西に西塔・西光寺・長久庵・堂角寺が、東には東塔・東光寺・天正寺・神宮寺が立ち並んでいたと云う。
天正11年(1583)賤ヶ岳の兵火で焼失と伝承する。
現在は大門跡に大日如来を祀る近世の大日堂の小宇1宇のみを残す。
 大音区史跡名勝案内図(現地)
 近江浄明寺大門:民家などの密集する狭い大音集落中央に唐突に広い道路(参道)が出現する。この附近を大門と云う。正面中央に大日堂がある。右(東)中央の屋根が誓海寺。
 近江浄明寺大日堂
地元民の話:
大日堂大日如来は西塔本尊であったと云う。
発掘調査は実施されていない。字塔尾と伝承されている。礎石等が有るかどうかは知らない。
字塔尾にあった礎石は誓海寺鐘楼の基壇の石に転用したとの話がある。
 ※この転用石は良く分からない。
 大音誓海寺鐘楼:礎石とほぼ断定できる石は存在しないと思われる。
・伊香郡史(明治36年):伊香具村大日堂(大音)では:
「大日堂ハ古昔天台宗盛ナル時字塔尾ト称スル地ニ一大刹那アリテ其塔ノ仏ナリト云フ元亀年中織田氏ノ為ニ堂宇其他ノ建物ヲ焼カレシモ幸ニ該仏像ハ火難ヲ免レ其後慶長年中字大日ニ堂宇ヲ再建シ仏像ヲ遷セリ・・・明治24年古器宝物取調ニ付・・・鑑査状ヲ得タリ・・大日坐像木丈2尺9寸5分・・・」とある。
・大門東に誓海寺(現大谷派)があり、元は空海創建と云う。久安年中(1145-)焼失し、この時焼失を免れた大日尊が現大日堂本尊と云う。西にある西光寺(現曹洞宗)はもと天台宗と云う。
 ※大刹であったと云う浄明寺の実態あるいは西塔の実態は依然として不明。

近江己高山

 近江己高山

近江大吉寺三重塔跡

 近江大吉寺跡

近江法道寺

東浅井郡湖北町津里:
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、180×140×45cm、径22×14cm、白鳳、裏返しされて置かれる。
○「X」氏情報:津里集落中心の観音堂入り口付近にある。赤茶の巨石が裏返しになっている。年輩の方のお話によると、溝に橋として架けられていた。子供のころ遊びで下から礎石を覗いたことがあり、穴が開いていたようであったとのこと。現状隙間から覗いても、表面の様子は全く分からない。
「X」氏ご提供画像 近江法道寺心礎
2008/09/29:
○心礎は確かに裏返しに置かれ、心礎かどうかの確認は不能。
 図       1       図        2       図        3
 図       4:(現下面):現在の下面(本来の上面)を撮影するも、孔などを見ることはできない。
津里の東にある観音堂を中心とした方1町半が寺域と推定される。法道寺の寺名は応和元年(961)の妙香院荘園目録に見えると云う。
津里の観音堂は現在屋根葺替中で瓦は全部降ろされ、大工棟梁が小屋組の工事中であった。
葺替中屋根の工事大工棟梁談:昔、この心礎は観音堂向かって右の溝の石梁として確かにあった。孔についてははっきりした記憶はないが、小孔があるとは聞いたことはある。現在「裏返し」になっているのが本来の姿でないのであれば、表向きにすることを考えて見よう。重さはどれくらいだろうか。(これは三脚によるチェーンでの石の吊り上げが可能かどうかの意)なんとか試みて見よう。」
 ※後段の心礎再表返しの試みについての話は、本気かどうかは不明、しかし全くの口先だけの話とも思われず、
  ある日実現している可能性が無きにしもあらずと密かに期待する。
観音堂の建築時期については、鬼瓦年紀や、建物の様式上から江戸後期の建築と思われる。
2011/06/03追加:
○鬼瓦年紀:文化11年(1814)、天保4年(1833)製を昭和35年再造したと推定される瓦などがある。
 近江法道寺跡観音堂     法道寺跡観音堂鬼瓦銘
 法道寺跡観音堂鬼瓦2:「天保4年三月製 建 昭和三拾五年四月」「 謹製 東浅?井郡湖北町 大西瓦製造所」
観音堂は、棟札などは未見であるが、工事で降ろされ偶々眼にした瓦の年紀だけで判断すれば、以下の経歴があると云える。
 文化11年建立もしくは修理、天保4年修理、昭和35年修理、平成20年修理

近江浅井廃寺c

東浅井郡湖北町今西:集落東にある。
・「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、大きさは110×110×60cm、径20×5cm、白鳳。円孔は傾斜している。
・寺域は比伎多理神社を中心にした2町四方と推定され、境内に心礎・礎石が散在する。古瓦が採取され、奈良後期の寺院とされる。朝日山と号したとされ、今堂前 (こんどまえ・金堂前)の地名を残す。
「X」氏ご提供画像: 近江浅井廃寺心礎
・「佛教考古學論攷 四 佛塔編」より: 近江浅井廃寺心礎
2008/09/29:
・「東淺井郡史」より:「弘仁年中伝教大師此処に来り、比伎多理神社の傍らに一刹を建立し、朝日山淺井寺と号す。七堂伽藍を備はりし寺院にして比伎多理神社の別当たり・・・・文亀年中山徒争乱の際寺領没収せられ継いで回禄の災に罹り・・・衰微す・・・ 」
・心礎は比伎多理神社境内にあり附近には礎石と思われる石が散在する。
なお比伎多理神社とは明治維新の時延喜式内社に付会した社名(要するにインチキ)で、本来は山王十禅師社であった。境内には多くの礎石と思われる石を残す。
心礎実測値:大きさは120×110×凡そ60cm、上面に径18×6cmの孔を穿つ。
 図      1     図      2     図      3     図      4     図      5     礎      石

近江八島廃寺c

東浅井郡八島 。「幻の塔を求めて西東」:心礎は二重円孔式、200×140×45cm、径80×2cmと30×10cmの円孔、表面荒れ、1/3が欠損、白鳳 。
「古代近江の遺跡」:心礎現存。
心礎は寺のあったとされる八島地区ではなく、その南方の内保八幡宮本殿横に石碑?として立てて飾られている。しかしこの心礎の出自あるいは八幡宮への移動の経緯などの情報は 皆無なので、八島廃寺心礎とする根拠は不明。
 この心礎はかなり特異なものと思われ、欠失が無ければ、2m四方の大きさに復元されるが、厚さは僅か45cmしかなく、現状は礎石というより「石板」に近いと思われ る。この厚さでは古代の心礎としての機能を果たせたのかどうかは疑わしいが、上面は不自然に荒れているので、あるいは石碑にした時などに、上面を削いだことも考えられる。また裏面も不自然に平らで、形状もこれまた不自然に方形で あることから、旧状は 現状よりひと回り大きく、高さも高い心礎を、現状のように加工したものとも思われる。
さらに円穴もかなり特異で、柱穴と推定される円穴の底は平ではなくて、中央が高くなり、その高くなった底に、半球状の円孔が穿たれている。現状では円穴の中央底と礎石上面がほぼ同じ高さであり、やはり円穴はもっと深かったとも思われます。現状の形態では、心礎としては極めて不可解な造作と思われ る。以上の意味で本当に心礎であるのかどうかについては若干の疑念もある。
塔基壇から発掘され、それを現在地に設置したなどの「由来」などがあれば、心礎と断定可能であるが、現状では不明。
 図       1     図       2     図       3     図       4     図       5

近江満願寺廃寺:長浜市弓削町

 近江満願寺廃寺:石造露盤を遺す。

近江榎木百坊廃寺心礎(近江福の神心礎)

榎木集落の南側「榎木町福の神地蔵尊」と称するささやかな堂の境内にある。
全くの推測であるが、3方を田圃に取り囲まれたこの堂境内は、古の塔や金堂などの伽藍の土壇の可能性はあるとも思われる。
塔心礎はこの境内の隅に放置される。土地の人の話では、昔からこの石はこの境内にあると云う。また道路拡張前は心礎の周囲は今よりはもう少し余裕があったとも云う。
心礎としては小さい自然石(1.2×1.8mくらい)に径約42cmの円筒というより半球形に近い深さ約5cmの孔を穿つ。古代寺院の心礎としては、極めて簡単な造りで、おそらく奈良末期に近い頃の終末の心礎と思われ る。 境内写真の右下に心礎はある。
なお古代のことはさておき、榎木の集落は中世から近世にかけて浄土真宗の盛んな土地と云う。故に字名に多くの寺院名を残すという。(土地の人の談)
2003/6/10:「幻の塔を求めて西東」より:
心礎の大きさは150×140×65cm、円孔42/43×9cm、奈良後期
2003/10/4:この場所は榎木百坊遺跡と云い、この場所の発掘で室町期の土塁跡が検出されたと云う。
心礎は別の場所から搬入されたと云われる。
百坊とはこの一帯に多くの寺院があったことによる。(土地の人の話では榎木部落一帯に多くの寺院名の字を残すという。)
福の神とはこの心礎自体の呼び名と云う。心礎には、「この石を触ると腹痛を起こす」や「この石の下には“金の鳥”が 伎いて石を触るとバチがあたる」などが言い伝えられていると云う。(この心礎にはある種の祟りがあるようで、であるならば、なぜこの心礎が「福の神」 とされるのかは不明と云うほかはない。)
 図     1     図     2     図     3     図     4      図     5
2007/08/15追加:
「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
「滋賀県遺跡目録」ではこの地は「福の神古墳」として登録されるも、現状古墳の面影は無く、古墳かどうかは不明とする。この心礎以外には遺物は皆無で、廃寺の実態は全く不明。
心礎は花崗岩製、大きさは1.8×1.5×0.7mで、径44×6cmの凹座を刳りぬく。
 近江榎木百坊廃寺心礎  榎木百坊廃寺心礎図
2007/12/24追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 近江榎木廃寺心礎図2

近江新庄馬場廃寺心礎

八坂神社境内に心礎はある。1.7×1.4mの大きさで、外径84cm、内径57cmの幅14cm深さ5cmの円周孔(枘穴)を穿つ。
いわゆる舞木廃寺式心礎である。石灰岩製。
詳しいことは不明とされるが、付近から布目瓦が出土し、心礎は動いていないとされる。出土瓦から白鳳期の寺院とされる。
なお八坂神社拝殿に「牛頭天王」の扁額が掲げられている。新しい扁額のようでおそらく近年のものと思われる。これは一つの見識というべきか、おそらく明治維新で強制的に牛頭天王の称号を廃し、八坂神社に改称したものの 「収まりが悪い」ということなのであろうと推察する。
 図     1     図     2     図     3     図     4     図     5     扁     額
2007/12/24追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 近江新庄馬場廃寺心礎図

近江長浜八幡宮

長浜八幡宮は明治維新後、ほぼ完全に神仏分離が実行されたと思われる。古絵図にみるような三重塔などの痕跡はもとより仏教的なものははぼ一掃され、見るべきものは無い 。
延久元年(1069)源義家が後三条天皇の勅を奉じて石清水八幡宮より勧請。元亀・天正の兵乱に焼失。天正9年(1581)豊臣秀吉などによって再興。別当は新放生寺と号したが、 明治維新の神仏分離により、周囲にあった多くの社僧は廃絶し、仏教関係の什宝は、東の舎那院に移す。
社殿は、明治18年雷火のため焼失、現社殿は明治22年に再建。なお北門前観音堂安置木像聖観音立像が伝来すると云う。放生池も現存すると云う。
 長浜八幡宮古絵図:「社寺境内図資料集成 2巻」より
舎那院(真言宗豊山派)は弘仁2年(814)弘法大師の開基といい、秀吉により再興、明治維新前は八幡宮の学頭坊であった。本堂(愛染堂)は八幡宮本地堂 を移建という。また昭和14年八幡宮整備により、護摩堂(桁行3間、梁間3間、寄棟造檜皮葺。室町期)も移建されたという。
 舎那院本堂(旧本地堂)   舎那院護摩堂:旧長浜八幡宮護摩堂

近江竹生島

 竹生島宝厳寺

近江歓喜光寺

筑摩神社社記: 承和8年(841)筑摩神社・今江寺・法善寺・薗華寺・本願寺・護寧寺・歓喜光寺、大和興福寺の支所となる。
歓喜光寺には五智如来宝塔(三重塔)があったと伝える。
正応4年(1291)南都興福寺別院近江国坂田郡筑摩社並七ヶ寺之絵図描画される。
文明6年(1474)南都興福寺別院近江国坂田郡筑摩社並七ヶ寺之絵図模写される。(2回目)
承応2年(1653)筑摩神祭列図模写される。
同じく、南都興福寺別院近江国坂田郡筑摩社並七ヶ寺之絵図模写される。(3回目)
文化12年(1815)南都興福寺別院近江国坂田郡筑摩社並七ヶ寺之絵図模写される。(4回目)
 ※文化12年は推定で乙亥の年紀とある。文化12年は椿井政隆の活躍した時代である。
なお筑摩神社は「鍋冠祭」で著名である。
 興福寺別院近江国坂田郡筑摩随一冨永山歓喜光寺絵図:正応4年図を文明6年模写したもの(蓮成寺蔵)
 ※本図の実態は不明であるが、下に掲載の「近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図」と同じ年紀を持つこととその描画の特長から、
 「近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図」と同時に作成された「椿井文書」であろう。
2005/12/11追加:「社寺境内図資料集成 2巻」より
 近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図:坂田神明社蔵;「文明6年正月以古図写之」とある。・・・下にカラー図版を掲載。
   同上    部分図(歓喜光寺)
2010/02/18追加:
上に掲載の「歓喜光寺絵図」及び「筑摩社之図」は何れも椿井政隆による「椿井文書」である。いわゆる中世と偽装する偽書である。
2020/09/13追加:
○「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
 近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図:カラー図版、モノクロ圖は上に掲載。歓喜光寺は左上に描かれる。
乙亥年藤原胤政謹畫とあるが、藤原胤政とは椿井政隆の別名である。
(椿井氏は家系圖では藤原姓を名乗る。椿井右馬助平群懐暎胤政との署名もある。藤原胤政そのものの署名も存在する。)
 「筑摩社并七箇所之圖」の信憑性を高めこの地域に偽歴史を浸透される為に多くの関連付け資料(偽書)が椿井政隆によって作成されるが、上述の「富永山歓喜光寺繪圖」はその関連付け資料の一つとして作成されたものであろう。

近江普光寺

○「古代近江の遺跡」:
広浜神社境内に心礎を残す。2.5×2,1mの大きさで、径80cm×15cmの円孔を穿ち、その外側に幅5cmの周縁を彫る2段穿孔の舎利孔を持つ。心礎が原位置を保つかどうかは不明。白鳳期の瓦を出土。 <なお実測値もほぼ上記の通り>
○「日本の木造塔跡」:
大きさは2,2×2,1m、外穴径100×1,5cm、内穴88×10cm。
全くの平野部に心礎のみ残存する。大型の心礎であるが、その他のことは不明と云う。なお心礎には1条の排水溝らしきものがあるが、意味のないもので、後世の加工と見るべきものと思われる。
 近江普光寺心礎1     近江普光寺心礎2     近江普光寺心礎3     近江普光寺心礎4     近江普光寺心礎5
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 近江普光寺心礎図
2011/05/29追加:
○「佛教考古學論攷」 より
 近江普光寺心礎6
2013/10/26追加:
「土地改良総合整備関連遺跡発掘調査報告書 T-2 普光寺廃寺・屋中寺廃寺」神保忠宏ほか、滋賀県教育委員会ほか、1995 より
 心礎実測図及び石田茂作調査図:湖東流紋岩製
現地表からの高さは0.46〜0.48mでほぼ水平を保つ。原位置のままかは未確認である。
広浜神社境内に礎石の可能性のある流紋岩あり。柱座をもつものもある

近江高宮廃寺

 心礎亡失か、詳細不詳、亡失心礎/近江高宮廃寺

近江多賀神社

 近江多賀大明神

近江敏満寺・胡宮明神

 近江敏満寺・胡宮明神

近江勝楽寺

元天台(現臨済宗)の寺院で、背後の山中に旧本堂跡・伝三重塔跡がある(「滋賀県の歴史散歩・下」)と云う。
伝三重塔跡などの確認のため、裏山に登るも、それらしき跡は発見できず。

近江蚊野廃寺(塔ノ塚廃寺)

・「X」氏情報:心礎と推定される自然石の礎石を残すも、心礎か否かは不明。
・「古代近江の遺跡」:字「塔ノ塚」の水田中に土壇があった。現在は哺場整備で整備(破壊)されたが、塔跡想定地は公園として残される。礎石と思われる石が残存する。
・滋賀県文化財学習シート(サイト:滋賀県埋蔵文化財センター)より
現状は塔の基壇と推定される土壇のみを残す。発掘調査では法隆寺式伽藍と確認され、当寺に瓦を供給した瓦窯2基が発見される。出土遺物から、白鳳期に創建され、平安期まで存続したと推定される。
・「現地説明板」:7世紀から10世紀にかけて存続した寺院跡であり、現在田の中に塔基壇を残す。
昭和53年発掘調査され、寺域は方2町であり、溝・門跡・僧坊跡などが明らかにされた。また附近の軽野神社境内に礎石と思われる石が数個残る。なおこの地には古代、蚊野氏の本貫地であった。
・塔基壇と云う基壇上に大石がある。大きさは凡そ150×190×65cm、上面も相当荒い面であるが、この面が柱の据付面とすれば、この面の大きさは凡そ150×150cmを測る(実測)。
 ※水田中にあった土壇を塔跡として推定しているが、削平がひどく規模等不明である。心礎と思われる自然石の礎石が検出されている。
 ※確かに、この大岩を心礎とするのは心礎位置から出土したなどの事実がなければ無理であろう。心礎とするには、後世の破壊がないとすれば、あまりに不整形と思われる。特に軽野神社にある 、表面をほぼ鏡面のように平に削平した礎石が同一の廃寺のかつ同一の時期の礎石であるならば、その落差は大きすぎる。また直感的に、この大石が白鳳創建時の心礎であることは有り得ないであろうと思われる。
但し塔跡と推定される土壇に心礎に相応しい大石が存在するのは偶然とは思われず、あるいは本当に心礎であるのかも知れない。
 土     壇     土     2     図     1     図     2     図     3
 礎     石:軽野神社にある礎石写真

近江法堂寺跡(法蔵寺跡)

能登川町佐野:
整備以前、土壇はまったく削平され、水田の中に塔心礎のみ屹立する状態だったと云うも、平成8-10年にかけて発掘調査および史跡公園整備が行われ、現在は史跡として整備されている。
現在中門・塔・金堂・礎石堂宇(経蔵もしくは鐘楼)が復元整備される。現地の案内板によると、伽藍配置は西向きで、中門を入ってすぐ右が塔で、正面に金堂、金堂右奥に経蔵もしくは鐘楼がある配置と云う。
沿革などはまったく不明。小字名に「法堂寺」が残る。出土瓦などから7世紀後半の創建とされる。
心礎の大きさは1.2×1.0×1.5m。上面は削平し、外径86cm深さ2cmの孔があり、内径67cm深さ13cmの2段円穴を彫り、さらに中央に舎利孔を穿つ、舎利孔蓋受孔は径 12-13cm深さ1.8cm、舎利孔は径10cm、深さ6cmを測る。要するに蓋受孔を含めれば4段孔式心礎となる。(大きさは2.4×1.75×1.5m、外径90cm、内径60cmいう数字もある。対角線の距離)
写真「建物跡」は平安期初頭の礎石建物(経蔵あるいは鐘楼を想定)。
 法堂寺塔土壇1     法堂寺塔土壇2     法堂寺心礎 1     法堂寺心礎2     法堂寺心礎3     法堂寺心礎4
 法堂寺心礎5
 法堂寺建物跡       法堂寺金堂跡
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 近江法蔵寺心礎図
○2008/09/19追加:滋賀県埋蔵文化財センター 情報:
 整備前法堂寺塔心礎   法堂寺跡遺構図
2013/10/26追加:
○「能登川町埋蔵文化財調査報告書 第47-2集 法堂寺廃寺跡−法堂寺遺跡発掘調査報告書−」杉浦隆支、能登川町教育委員会、1999 より
 法堂寺心礎実測図:心礎は周辺の山で産出される湖東流紋岩を使用。
塔心礎以外の礎石、盛土は取り去られており詳細は不明。
心礎の大きさは南北2.15m×東西1.55m×高さ1.5m。菱形に近い四角形の心礎上面中央に、円孔が三段に掘られる。
外側は径90cm深さ1〜3cm、その内側に径67cm深さ14cm、その中央に径14cm深さ8cmの舎利孔がある。

近江百済寺五重塔跡

 近江百済寺五重塔跡

近江金剛定寺

天台宗。本尊十一面観世音菩薩。創建は奈良期とされ、室町期兵乱で一山ことごとくが焼亡。それ以降は一堂のみが再興され、細々と法統を継ぐ。往時は三重塔をはじめ多くの堂塔と各谷に坊舎があったとされる。不動明王・二童子像 (平安後期・重文)、木造聖観音立像(重文)などを伝える。
 東大寺別院龍護西中山金剛定寺伽藍 之絵図(康永元年(1342)の年号があるが、江戸後期のものとされる。)
  ※椿井政隆による「椿井文書」に酷似する。江戸後期に中世のものと偽装する手口、絵の調子も極めて似る。
  「椿井文書」の典型を示し、椿井政隆による中世と偽装する「椿井文書」であることは明らかであろう。
  ただ、興福寺ではなく東大寺別院とするのは、何か事情があったのであろうか。
  (東大寺別院であるから当然、金剛定寺は興福寺官務牒疏には記載なし。)
2020/09/13追加:
○「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
 椿井政隆は衰退した山岳寺院である近江金勝寺を盛大に描くことに執着し、金勝寺25別院を作り上げ、さらにその下部にも幾つかの別院を創作した。しかしこれでは、近江の国が興福寺別院金勝寺およびその別院で覆われてしい不自然なので、「比叡山別院八葉山蓮華教寺繪圖」やK本項の「東大寺別院龍護西中山金剛定寺伽藍之圖」も作成し、バランスをとる配慮をしたものと思われる。

近江桑実寺

 近江桑実寺

近江雪野寺跡

○「古代近江の遺跡」:塔と推定講堂跡が確認されている。塔は一辺約13.7mの乱石積基壇で、柱間は約2,4mを測る。塑像片と塔跡北西隅から風鐸2個と破片1個を採取したという。塔礎石5個 が残存すると思われる (あるいは亡失?)。
2013/10/26追加:
○「滋賀県雪野寺跡発掘調査の概要」岡村秀典・菱田哲郎・高橋克壽(「塑像出土古代寺院の総合的研究」京都大学文学部考古学研究室、1992 所収) より
 雪野寺跡伽藍想定図     雪野寺跡の伽藍と調査区     雪野寺跡塔跡実測図
北東から南西に傾斜する地形に建つ。焼土・炭の層があり、北西方向に向け焼け落ちたものと推定される。塔一辺は唐尺で7.5+8.0+7.5尺と思われる。なお風鐸が出土する。
基壇北東部は地山の岩盤をそのまま利用し、南西部は粘質土を盛る。化粧は花崗岩自然石を積み上げる。
2007/08/15追加:
○「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
竜王山(雪野山)の南西麓に立地し、北と東は山を負い、南と西は平野を望み、南に向かって寺地を採ることは可能、現在の竜王寺と天神社で東西を限る形で雪野寺跡はある。
昭和12年に発掘調査がなされ、現在の知識も当時の報告書以上に出るものはない。
これまでに明らかになったのは塔跡だけであるが、塔基壇一辺は45尺(13.7m)で、石積の低い基壇化粧がある。基壇は中央で5-6mの巾で溝状に貫通破壊され、礎石は東列4列とに西列北2個目の計5個が残存する。残存礎石により塔平面は中央間8尺両脇間7尺を持つ(一辺22尺)であった。
塑像片:今までに約430片が出土という。
金銅風鐸ほぼ完形のもの2個断片1個が塔西北隅付近から出土。
 雪野寺塔跡基壇西区     雪野寺塔跡東南隅     雪野寺塔跡北区     雪野寺塔跡東区
 雪野寺跡出土童子形塑像  雪野寺塔跡出土風鐸
2007/12/24追加:
○「近江の寺址とその出土瓦・心礎と仏像彫刻」:
「凹座心礎か今亡」「上に阿育王式の新しい石塔あり」
 ※心礎についての情報は不明確ではっきりしないが、発掘調査時には既になかったと思われる。
2008/09/19追加:滋賀県埋蔵文化財センター 情報:
○雪野寺の法灯を伝える竜王寺は古くは「野寺」といわれ、「野寺鐘縁起」では、行基による開基で、和銅3年(710)に建立されたとする。
 雪野寺塔跡平面図
○「忘れられた霊場をさぐる[2]」栗東市文化体育振興事業団、平成19年 より
安吉山と号す。天台宗 。現在の龍王寺付近で塔跡が検出され、古代にも塔を備えた寺院であったと推定される。伝承では承暦2年(1078)越前平泉寺衆徒に焼討ちされ廃絶と云う。その後平安 末期に再興され、龍王寺と改号すると伝える。中世には雪野山麓(現竜王寺の東300m)に 移り、多くの坊舎が展開され、今に坊舎跡を残す。中世末にはこれらも興亡を繰り返し次第に衰微したものと思われる。
承応3年(1654)行海によって、現在の龍王寺が再興される。
 近江雪野寺境内概略図
2008/10/04撮影:
 雪野山 山容:西から雪野山を見る、写真中央山裾に雪野寺はある、手前は日野川。
 塔土壇1:南から撮影、塔土壇2:東から撮影、塔跡はブッシュに覆われる。      土壇2
 塔礎石:5個残存と云うも、現在露出しているのは写真の南東隅の礎石のみと思われる。
 なお、「上に阿育王式の新しい石塔あり」とあるが、石塔は今はない。
 龍王寺     坊舎跡:山上に上る道途中に坊舎跡の形跡を明瞭に見ることが出来る。 多少は潅木に覆われてはいる。
------------------------------------------------------------------------------------------------
○苗村神社
雪野寺西方約2kmに位置し、多くの古建築を残す。(但し雪野寺とは直接な関係はない。)
 苗村神社西本宮:右(東)から十禅師社、西本殿、八幡社は拝殿の蔭で見えない。
 苗村神社西本殿1:国宝、三間社流造、鎌倉後期と推定。
   同    本殿2
 苗村神社十禅師社:重文、一間社流造、室町期と推定。
 苗村神社八幡社:重文、一間社流造、室町期と推定。
 苗村神社神輿庫:重文、天文5年(1536)建立か、4間×2間・切妻造
 苗村神社不動堂:本尊不動明王立像:重文、鎌倉初期造像と推定。
 苗村神社楼門1:重文、応永年中(1394-)頃と推定、三間一戸楼門入母屋造、茅葺。
   同   楼門2:殆ど寺院建築であると云う印象である。
 苗村神社東本殿:重文、一間社流造、室町期(前庭に永享4年・1432在銘の石燈籠がある)

近江蒲生安養寺廃寺

 近江蒲生安養寺廃寺

近江宮井廃寺

○「古代近江の遺跡」:まわりの水田より一段高く、移動した礎石が散在する天神社境内やその南西の推定塔跡基壇を中心とする寺跡である。
塔跡は一辺12.75m高さ1.5mの基壇が確認(土壇を残すと思われる)され、心礎位置には別の礎石が置かれ、原位置を保つ四天柱礎3個と脇柱礎10個を残す。柱間は2.25m。心礎は天神社に移動し、三段式心礎で、一段目は径114cm、二段目は径71cm、三段目は径18×9cmの孔を穿つ。
天神社境内は金堂跡とされ、そこから瓦積基壇を確認。
その他北方建物・西方建物が確認されている。
2007/08/15追加:
○「近江の古代寺院」小笠原好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
「近江蒲生郡史」では「・・字寺内に古寺跡存す。・・畠地中大礎石数個古の儘に現存す本堂跡なるべし。又塔の台石は天神森に存し共附近に鐘楼台跡あり、此地一面布目瓦散乱す。・・・」 とある。
天神社南側入り口附近に花崗岩の心礎が置かれている。神社境内西南30mには塔基壇(一辺13m・高さ2m)と思われる土壇があり、東に2個・南に1個礎石が露出している。
昭和56-58年に発掘調査を実施。その結果、金堂・塔・北方建物・西方建物の基壇と寺域などがほぼ明らかになった。
金堂跡:天神社祠のすぐ北側が該当する。
塔跡:発掘結果、基壇一辺は12,45m(42.5尺)、高さ1.2m(4尺)と判明、礎石は四天柱礎3個(東北欠)、側柱礎10個(南側東第2・東第3欠)が原位置を保つ。心礎位置には大型礎石( 1.12×1.34m・表面には火災痕)が置かれていた。これは根石も見られるが、これは創建時のものではなく、下を断ち割った結果、後に現在の場所に置かれたものと判明した。
 宮井廃寺塔心礎位置の土層
塔心礎は天神社前に置かれている。ほぼ三角形(三辺は2.16m、1.84m、1.58m・厚さ86cm)の花崗岩で、三段式の円孔を持つ。外円は径114×5cmで外側が深くなっている。中円は径71×9cmで底は内湾する。舎利孔は径18×9cm。元は塔基壇の地下に据えられたものと推定される。基壇化粧は全て削られたと思われるも、花崗岩の出土状況から乱石積基壇と推定される。
 近江宮井廃寺心礎     宮井廃寺心礎図     宮井廃寺塔跡土壇
 宮井廃寺塔跡(南から)   宮井廃寺塔跡図
○滋賀県埋蔵文化財センター「滋賀県文化財学習シート」 より
 宮井廃寺心礎
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 近江宮井廃寺心礎図
2008/10/04撮影:
写真塔土壇:土壇上には塔礎石があると云うも、現状露出はしていない。
 塔土壇1     塔土壇2     塔土壇3
写真心礎位置:現在心礎は塔土壇上になく、金堂土壇南方(塔土壇東)にある、位置は写真白丸印。
 心礎位置     心礎1     心礎2     心礎3     心礎4     心礎5
写真金堂土壇:天神などと云う実態ではなく小祠があるのみ、小祠後方が金堂土壇。
 金堂土壇
写真礎石:上記の小祠の前方に礎石がある。
 礎石
○「日本の木造塔跡」
心礎は1.4×1.36mを測り、外円は径95.5cm×5cm(内に向かって底が高くなる)、中円は径70×10cm、内孔(舎利孔)は18×6cm。

近江石塔寺

2007/12/24追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 近江石塔寺心礎図  7世紀後期の大石塔あり、詳細不明。
2008/10/04撮影:
奈良期の三重石塔を残す。(奈良前期と云う、重文、初重塔身は石材2枚を使用、相輪は後補。 高さ7.6m)。創建時にはこの石塔の位置に木造塔婆があったとする見解もある。であるならば石製三重塔台石は塔心礎と推定する見解もあると思われる。
 石塔寺三重石塔台石
 石塔寺三重石塔1     石塔寺三重石塔2     石塔寺三重石塔3
石製宝塔:正安4年(1302)銘、重文。
石製五輪塔2基:嘉元2年(1304)、貞和5年(1349)在銘、ともに重文。
   同    石製宝塔       同   石製五輪塔1       同   石製五輪塔2
※なお天台宗備中玉島山圓乗院に近年当塔をモデルにした三重石塔が建立される。 総高7.6mと云うから同じ大きさであろうか。

近江椅田廃寺b(近江綺田寺廃寺)

東近江市綺田町。
「古代近江の遺跡」:寺域は栩原(とちはら)神社<稲荷神社>を中心とする。拝殿前後に礎石が遺存し、拝殿南に南北約20m東西十数mの土壇が、その南西に一辺約10mの土壇がある。それぞれ講堂・金堂・塔跡と想定される。出土瓦から白鳳創建で平安期まで存続したとされる。附近から奈良期の瓦が出土し、本願成寺の跡といい、地名の寺町とはこのことに由来する と云う。
2008/10/04撮影;
 遠望:現在の栩原稲荷神社、北東から撮影。
 塔土壇1     塔土壇2      北側土壇:写真北側土壇は推定であって、確定しているものではない。
 礎石
綺田の集落中に栩原稲荷神社(今はこのように称する)が東西方向に狭くかつ長く(正面は西)鎮座する。
土壇の状況は明確ではないが、良く観察すれば、土壇とも推定される微かな高まりが残存する。
拝殿の北側(南ではなく)に土壇南端とも思われる微高地と拝殿南西に土壇北端とも思われる微高地が残る。拝殿南の土壇とは良く分からない。また拝殿前後に礎石が残存すると云うも、礎石様の石は1〜2個を除いて、これも良く分からない。

近江新善光寺(20年前位に廃絶・取壊)

 新善光寺三重塔     宮大工・棟梁高木敏雄師(新善光寺三重塔棟梁の末裔)

近江花摘寺廃寺

○下物(おろしも)の天満宮付近が寺域とされる。
天満宮境内には心礎と思われる大石(手水鉢に転用)、石造塔露盤、十数個の礎石と思われる石(柱座を持つ礎石も混在)が残る。
2004/07/01撮影;
 花摘廃寺推定心礎1     花摘廃寺推定心礎2     花摘廃寺推定心礎3     花摘廃寺推定心礎4
 花摘廃寺礎石群        花摘廃寺礎石
2018/07/19撮影:
 花摘寺推定心礎11     花摘寺推定心礎12     花摘寺推定心礎13
 花摘寺礎石11     花摘寺礎石12     花摘寺礎石13     花摘寺礎石14     花摘寺礎石15     花摘寺礎石16
 花摘寺聖徳太子堂1     花摘寺聖徳太子堂2      下物天神社1     下物天神社2     下物天神社本殿
 烏丸半島の蓮:直接の関係はない
○推定心礎:230×179×70cmの大きさで、上面は平滑に削平されたと思われる。
ただし現状は手水鉢に転用のため、上面は大きく刳られ、円穴などの形状は全く覗うすべもなく、心礎であることを証明することはできない。
しかし附近は寺跡と云われ、また附近には礎石が散在する現状から見て、おそらく心礎を転用した可能性が高いと思われる。その大きさは心礎として相応しいものと思われる。
石造露盤:
 一 近江花摘寺石造露盤
○花摘寺は聖徳太子開基とされるが、付近の田畑などから出土する瓦からこの廃寺jは白鳳の創建であろう。そして昭和56年度の寺域内北東部の調査で寺院の廃絶時に形成されたと思われる瓦だまりからの出土品 から、平安期には寺院が廃絶したと判断される。
なおその他の礎石は鳥居右に集めて雑多に置かれる。鳥居左には仏堂(聖徳太子堂)を残すも、その由来は不明。
2007/08/15追加:
○「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
『栗太志』では「天神祠 祠1宇 境内至テ広シ コノ境内元伽藍ノ跡ナルベシ 其故ハ経塔ノ蓋ノ如キ物アリ、大サ方6尺(1.8m)。又柱石ノ如キモノアリ、長6尺広4尺余(1.8×1,2mほど)、石面穴アリ径リ3尺5寸(1m)、深5寸(15cm)許、其他4尺、或ハ方5尺許ノ石数十境内に落々タリ、又其近辺古瓦多シ・・・」とある。おそらく経塔の蓋の如きものとは石製露盤で、心礎は手水鉢に加工前で、その概要は一重円穴式で、大きさは長6尺広4尺余(1.8×1,2mほど)で、径3尺5寸(1m)、深5寸(15cm)許の円穴を持っていた心礎と思われる。伽藍配置などは主要部が未発掘のため不明、出土瓦は白鳳期・奈良期・平安期のものが出土と云う。
2013/10/26追加:
○「草津市下物 花摘寺遺跡」辻広志・丸山竜平(「昭和53年度滋賀県文化財調査年報」滋賀県教育委員会、1980 所収)より
 花摘廃寺石造品略測図:推定心礎、石製露盤、礎石5点の略測図がある。
2015/07/29追加:
○「近江栗太郡志 巻5」滋賀県近江栗太郡編、昭和元年(1926) より
第11章 常盤村>花摘寺趾 では以下のように述べる。
 花摘寺趾は常盤村大字下物(おろしも)に在り、・・村の東南隅小字君か門(一者寺前)に氏神天満宮あり、古は天神と称す、其境内に接続して古寺趾あり、今樹竹の叢林となる、
其地に礎石古の儘に点在し、又方六尺の大石中央に径一尺余の穴を穿ちしものあり之塔の心柱なり、
各所に布目瓦散乱し丸瓦の瓦当には十六分弁の蓮華紋を表し、外郭に斜格文帯を周らす天平時代に近きものなり、
又土中より青色赤色白色の絵具様のもの出づ
奈良朝の盛時に建立せし古刹なるべし、然れども寺名詳らかならず里人は花摘寺の名を伝す、※
栗太志の編者田中貞昭が文化中実見の状を志中に記す、左の如し
 下物村 川越侯封内 村嵩761石7斗零九合
 天神祠 祠一宇   境内至テ広シ
 此神何ノ神ヲ斎祀リタルヤ知ル人ナシ、コノ境内元伽藍ノ趾ナルベシ、
 其故ハ経塔ノ蓋ノ如キ物アリ、大サ方六尺、又柱石ノ如キモノアリ、長六尺廣四尺餘、石面穴アリ径リ三尺五寸、深サ五寸許、
 其他方四尺、或ハ方五尺許の石数十境内ニ落々タリ、・・・・
※「栗太志」で云うところの大きさ方6尺(180cm)の経塔の蓋のようなものとは石製露盤であることはその大きさからも頷ける。
また「近江栗太郡志 巻5」でいう方六尺の大石中央に径一尺余の穴を穿ちしものとは之塔の心柱というけれども、これも石造露盤であることは明白であろう。
問題は心礎であろう。
「栗太志」では江戸後期(文化年中)には、大きさ6尺(180cm)×4尺(120cm)の表面に径3尺5寸(105cm)深さ5寸(150cm)ほどの穴を穿った柱石の如きもの(心礎)があったという。文化年中には小型ではあるが、一重円穴式の心礎があったと解釈すべきということであろう。
しかし、現在の手水鉢を心礎の転用という立場からいえば、手水鉢の大きさは、「栗太志」で実見したという心礎より数段大きく、手水鉢と「栗太志」でいう心礎とは別のものと言わざるを得ないのである。何れにせよ、手水鉢が心礎なのか、「栗太志」で云うところの柱石の如きものが心礎なのかは、いずれとも決し難い。あるいは「栗太志」で云うところの柱石の如きものとは心礎としてはやや大きさが小さく、単なる礎石の一つであるのかも知れない。
※上掲の「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989 は上記「近江栗太郡志 巻5」を下敷としたものであろう。

近江宝光寺

天台宗。白鳳4年(675)天武天皇天武天皇の御願で、僧定恵の開創と云う。本尊木造薬師如来立像(平安・重文・秘仏) を有する。付近には花摘寺など10ヶ寺の白鳳寺院跡が密集する。下記の「宝光寺絵図」に見られるように、かって大塔(多宝塔)が存在したと思われる。
 宝光寺絵図(「金勝寺別院駒井図法光寺四至封彊界図」):2007/08/15画像入替、多宝塔は大日塔と称する。
2010/02/18追加:
 「金勝寺別院駒井図法光寺四至封彊界図」は椿井政隆による「椿井文書」である。いわゆる中世と偽装する偽書である。
○「古代近江の遺跡」:最近の発掘調査で現本堂前で瓦積基壇を発掘し講堂跡と推定される。基壇北西100mでは多数の瓦の集積があり、大萱神社本殿南でも厚い焼土と瓦の集積が見られる。
 ※現段階では、塔婆に関する具体的な遺物・遺跡などが発見されている訳ではない。

近江笠寺廃寺 :草津市南笠

○「古代近江の遺跡」:妙楽寺境内に心礎と思われる礎石を残す。一辺1.5m高さ75cmで、中央に径75cnの浅い円孔を彫る。
他に円形造出をもつ礎石1個も残す。出土瓦から白鳳ー平安中期まで存続したとされる。
心礎・古瓦は通常非公開とする。
 近江妙楽寺遠望:心礎は実見できず。
2007/08/15追加:
○「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
心礎法量は上述と全く同じ記載である。
 近江笠寺廃寺心礎
○2008/01/18追加:2008/01/05再訪。
心礎は中庭にある。諸事情により、事前了解が無ければ、心礎の見学は不可。(当日訪問してその時に了解を得るのと事前に得るのとの「違い」についての住職の弁明があるも、殆ど その弁明の了解は不能。)結局、心礎は実見できず。
 推定笠寺廃寺礎石:妙楽本堂右前・庫裏玄関前に石燈籠の台石となる。円形造出が見て取れる。 但し、小さい礎石であり、大堂の礎石とは思われない。
○2009/10/07追加:
事前の予約をする目的で電話にて見学を申し込むも不可。不可とする理由は体調が不調、掃除が不行届き云々というものであるが、言葉の端々から感じられるのは一言で言えば「迷惑」 あるいは「見せたくはない」ということであろうと推測する。様々に交渉しても不可。
2014/10/20追加:
○「2013年度 老上学区まちづくり協議会 まちづくり計画」 より<写真は2014/10/21撮影>
▽笠寺廃寺:
自鏡山妙楽寺の中庭と境内には当廃寺の遺物とされる堂塔の礎石(約6尺4寸四方、柱台穴付き)、同舎利窟があり、白鳳時代(645〜700)の軒丸瓦なども保管されている。  ※舎利窟とは不明。
▽大日如来像(草津市指定文化財) :
現在は大日山仙命庵(妙楽寺の北側に隣接)に安置される。鎌倉初期、恵心僧都源信の作といい、金剛界大日如来座像である。
元は古代笠寺の本尊であったが、笠寺絶えて大日寺(仙命庵前の禅寺)に移され、大日寺絶えて治田神社に祀られ、仙命庵建立で仙命庵に遷座する。なお「信長の比叡山焼討ちを逃れるため土中に埋めた」という口伝があり、昭和31年に焼失した比叡山大講堂が昭和35年に再興された時、本尊の貰受け話があったという。
 ※治田神社には小堂が建てられ、そこに安置というが、明治の神仏分離の処置で仙命庵に遷されるという。
 近江仙命庵門前     近江仙命庵本堂
▽治田神社:
現在は妙楽寺北方2町にある。開化天皇ほか3座を祀るという。古代にこの地を統治した治田連彦人は開化天皇6世の子孫といい、この社は治田連の勧請という。元は鳩が森(現在地の西方数町か)にあり、明治44年に現在地の天神社に合祀される。
 ※以上であれば、笠寺旧本尊像が安置されていたのは、鳩が森にあった時の治田神社であろう。
 近江南笠治田社:国家神道による整備がなされ、見るべきものは何もない。
▽南笠治田社北方に南笠古墳群があり、現在は僅かに前方後円墳2基と半壊した円墳1基を残すのみという。
前方後円墳の1号墳は全長29m、2号墳は全長30mの小型古墳であるが、形状が整美に残り、それゆえ前方後円墳の姿を瞬時に覚ることができる。5世紀後期頃の構築という。
 近江南笠古墳     近江南笠古墳1号墳     近江南笠古墳2号墳
2014/10/27追加:
○「幻の塔を求めて西東」;心礎は一重円穴式、大きさは140×130×73cm、径72/79cm深さ4cmの円穴を穿つ、白鳳期。
2014/10/21撮影:
 近江笠寺廃寺心礎1     近江笠寺廃寺心礎2     近江笠寺廃寺心礎3     近江笠寺廃寺心礎4
 近江笠寺廃寺心礎5     近江笠寺廃寺心礎6     近江笠寺廃寺心礎7
次の写真3枚は妙楽寺中庭心礎付近の庭石であるが、これも笠寺の礎石という(住職談)。
 笠寺廃寺伝礎石1     笠寺廃寺伝礎石2     笠寺廃寺伝礎石3
 笠寺廃寺伝礎石4:本堂前石灯篭台石
 近江妙楽寺門前     近江妙楽寺本堂     近江妙楽寺鐘楼     近江妙楽寺行者堂     近江妙楽寺弁財天

近江大宝天王宮

◆当社には三重塔があったものと推定されるが、詳細は全く不明。
◆鎮座は大宝元年(701)と伝える。当初は小平井村信濃堂<シナンド>(栗東市小平井)に降臨、霊仙寺村(栗東市霊仙寺)を経て、最終的には綣 <まき>村(現在地)追来社(伊不伎社)に鎮座と伝える。社号は大宝天王宮と号する。(「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「牛頭天王暦編」等)
平安前期から天台宗が入り、その影響化に入ると思われる。
永亨5年(1433)足利義教公社領寄進、天文14年(1545)佐々木定頼社殿修復。
元亀2年(1571)織田信長山門破却、神領没収。江戸幕府からは庇護を受け、社殿修復がなされる。
正徳3年(1713)には、本殿、境内社34、三重搭大日、護摩堂、薬師堂、神楽堂、鐘桜堂、経堂等があったという。(根拠の資料は不明)
江戸初期には京都北野徳勝院(北野祠官三家の内の一院)末寺である神応院が別当となる。
明治の神仏分離令で、佛眼寺(京都四条道場金蓮寺末寺、大宝山と号す大宝天王宮)と分離、大宝天王宮を大宝神社と改号する。 別当神応院禪覺は還俗、足助武雄を名乗り、神主となり足助氏は現在に至る。 永正3年(1506)修理銘のある小津神社旧蔵本であった大般若経は焼き捨てられると云う。
◆「大宝神社所蔵品展」栗東歴史民俗博物館、平成10年 より
 「綣村旧領絵図」 :(江戸期)
南西から北東に中仙道が通じ、西に佛眼寺、東に天王社があり、参道がほぼ西やや北から東やや南方向に参道が続き、参道北に天王社社殿がほぼ南面して配置される。
入手した絵図は小さく不鮮明であるが、天王社社殿はほぼ現状のままと思われ、塔は勿論顕著に仏堂と思われる堂宇は絵図には認められない。この絵図で見る限り近世には顕著な仏堂は退転していたものと思われる。絵図西方の佛眼寺・地蔵堂及び南方の西琳寺・本覺寺は現存する。
・現境内に次の案内掲示がある。
 江州栗太郡綣村大宝天王社内(元亀以前のもの)
鳥居 (社参道すじ) (馬場) 社家西坊 護摩堂 薬師堂 岩神神楽堂 門 拝殿 十禪師 本社 若宮権現 月読宮 鐘楼堂 経堂 御池 熊野権現その他<計8社> 三社 神輿堂
 (社参道すじ)三重塔大日 蘇民将来 その他<19社>
・・・但し要約
 ※これの典拠は不明、また方位や詳細な位置関係も不明で伽藍配置は明確にはできない。
以下を含む中世・近世に古文書約1600点を残す。
 「侍衆寺坊衆宮衆名書」(文安3年・1446)・・・多くの時衆と思われる人名が書かれる。
「大寳天王縁起」(桃山)、・「綣村天王社古帳」、・「今宮應天大寳天王社神主職譲状」(室町)、・「当社天王社御定式」(正長元年・1428)、・「天王社従先規并西坊家法」(延宝7年・1679)
20数体の神像が伝わるも牛頭天王の像は伝わらない。
佛教関係の堂宇は現存しないが、次の仏像・什器が伝わる。
 ・薬師堂本尊薬師如来(本地仏、綣区会議所安置、江戸期)
 ・護摩堂本尊不動三尊像(平安期、綣区会議所安置)
 ・木造阿弥陀如来坐像(鎌倉、神宮寺である仏眼寺左脇檀に安置、伝来不詳)
 ・御正体(懸仏)残欠(鎌倉〜室町、纔かに本殿内陣に3体が残る)
 ・大宝天王宮梵鐘:寛文11年(1671)、冶工国松庄右衛門正次
◆大宝天王宮現況
 ・大宝天王宮参道:西から撮影、奥の左手に社殿があり南面する。参道すじに三重塔があったとされ、この参道が 中世以来のものならば、この参道の左右どちらかに三重塔があったものと思われる。
 ・四脚門(両築地付):享保3年(1718)京都宝鏡寺門跡の寄進
 ・追来(おふき)神社本殿(重文・弘安6年<1283>建立:棟札現存):一間社流造としては日本最古の遺講と云う。桧皮葺。古来は意布伎(伊不伎)神社と記される。 社内にあった狛犬の台座裏に「伊布伎里惣中」と記されている。中世以降若宮権現と称する。祭神は伊吹山の神と云う。社内には木造狛犬一対(鎌倉期、重文)が伝えられる。
 ・追来神社本殿1      追来神社本殿2      追来神社本殿3      追来神社本殿4
 ・稲田姫神社本殿:安土桃山期、写真右は本社
 ・時宗大宝山佛眼寺:神宮寺、近年本堂、山門、鐘楼 を改築     佛眼寺地蔵堂:近年の改築

近江鈎安養寺

○「興福寺派下金勝寺別院鈎安養寺之絵図」(川辺家蔵、137×86cm)が残る。
 興福寺派下金勝寺別院鈎安養寺之絵図:五重大塔 (五智如来大塔)が描かれる。
  ※この絵図は椿井政隆による「椿井文書」である。いわゆる中世と偽装する偽書である。
○東方山鈎安養寺は天平12年(740)良弁開基と伝え、「興福寺官務牒疏」では金勝寺25箇別院の1つとして記載される。
長享元年(1487)室町第9代将軍足利義尚、六角高頼追討のため、当寺に陣を敷く。
元亀元年(1570)織田信長の兵火のため、全焼。貞享2年(1685)再建される。木造薬師如来坐像(鎌倉期・重文)を残す。
1994,95年に「山寺屋敷」(寺坊跡の伝承地)を発掘、中世には坊舎があったと推定される遺物が出土する。
○「椿井権之輔周辺による近世伽藍絵図について」松岡久美子(「忘れられた霊場をさぐる[1]」栗東市文化体育振興事業団、平成17年(2005)  所収) より
「興福寺派下金勝寺別院鈎安養寺之絵図」については椿井権之輔自身が筆跡などから手を下したものと推定される。
当絵図には安養寺寺内に「鈎公文所」の設置があるが、足利義尚の陣が安養寺に置かれたのは、手狭なため約20日とされ、このような恒久施設が置かれたとは考えられない。
さらに下方には「将軍家仮御殿鈎御所」も描かれる。これは足利義尚が安養寺を出て、陣を置いた「鈎真宝館」を表すものと推定されるが、これ権之輔が活躍した頃一般化した「鈎真宝館」は永正寺と云う説に準拠したものであろうと推測される。

近江大宝寺跡

大法寺とも綴る。
○「古代近江の遺跡」:一辺約10m高さ約1mの土壇を残す。おそらく塔の基壇と推定される。新旭町安井川?大荒比古神社東側付近。白鳳−奈良期の瓦を出土。
○2008/11/23現地訪問するも、上記の寺院土壇は発見できず。
清水山城館跡(史跡)の西方に本堂谷遺跡がある。清水山城館跡は、天台宗清水寺の坊舎を一族郎党の屋敷に転用し、本堂谷遺跡は大宝寺のそれを転用とも云われる。本堂谷遺跡の山林中には堀と土塁によって区画された20以上の曲輪の存在が知られるとされる。
上記の大宝寺土壇はこの本堂谷遺跡の山林中に残存するのかあるいはこの少し南方に残存するのかは現在未掌握。なお、寺跡の南辺付近にある保福寺には大宝寺の旧仏と云う釈迦如来坐像(重文・平安期)を厨子中に安置と云う。

近江衣川廃寺 (史跡)

飛鳥−白鳳期に建立された寺院とされる。琵琶湖西岸の堅田丘陵の先端に位置する。金堂跡、東南に塔跡とされる遺構を検出。
塔跡は一辺9mで高さは1.06m程度とされる。中心に径1,5m深さ40cmの発掘抗があり、心礎抜き取り穴と推定された。 但しその他の礎石は、精査にも関わらず、その据付の痕跡が全く発見できなかったという。そのため塔は基壇のみ作られ、塔自体は建立されなかった可能性が高いと判断された。
但し白鳳期の瓦は出土するので、金堂は建立されたということであろう。なお、平成6年から史跡整備事業として範囲を拡大して調査を行ったが金堂・塔以外の建物遺構は全く検出できなかったと云う。
金堂規模は18m以上×15m×1.3mで、礎石据付の痕跡が残る。
金堂・塔跡以外には堂宇が建立された形跡がなく、平安末には廃寺となると思われる。
塔および金堂基壇はいずれも版築され、その断面は金堂基壇の後に復元展示され、さらにこの遺跡の付属展示施設に版築の切取が展示される。
 近江衣川廃寺伽藍配置    同  塔基壇発掘    同    塔基壇1    同    塔基壇2
   同    金堂基壇   同 金堂基壇版築模型   同  版築切取(展示)
2008/09/19追加:滋賀県埋蔵文化財センター 情報:
 近江衣川廃寺発掘図   衣川廃寺塔跡発掘
2015/05/09撮影:
 八弁忍冬蓮華紋軒丸瓦:大津市歴史博物館展示、白鳳期、瓦窯跡付近から出土

近江法光寺:雄琴、大津市苗鹿二丁目

「紙本著色法光寺境内絵図」(江戸期)が残ると云う。<未見>
当絵図には五重塔、釈迦堂、大堂、桜本多寶院、こもしき元三大師行場などの堂宇と近在の様子が描かれると云う。
法光寺は伝教大師の創建で延暦寺末、往時は堂舎24宇30余坊があったと伝える。あるいは貞観5年(863)小槻宿禰今雄の創建とも云う。 本尊は秘仏薬師如来。
元亀2年(1571)の兵火で焼失、延享3年(1746)再興される。現在も、こもしき、大堂、桜本、釈迦堂の地名(小字)を残すと云う。
法光寺の現況は丘の麓にほぼ南面して数棟の堂宇を残すのみで、伝えられるような大伽藍を偲ぶものはない。現寺域の南などにおそらく堂塔があったような地割を示すも不詳。
 近江法光寺1      同     2      同     3

近江穴太廃寺

発掘調査(バイパス工事)により、創建伽藍(東に塔、西に金堂)と再建伽藍(東に塔、西に金堂、北に講堂)が重なって検出される。
創建伽藍と再建伽藍の方位は35度前後のぶれがあると云う。
創建伽藍は飛鳥期のものと推定され方位は北で東に35度傾斜する。再建伽藍により削平され、詳細は不明ながら、川原寺式伽藍(もしくは法起寺式)との見方が有力と 云う。
再建伽藍はほぼ真北を中軸線とする法起寺式伽藍とされ、大津京時代に建て替られたと推定される。
金堂は3×3間の身舎に四面に庇を廻らせる。基壇は瓦積。講堂は5×2間の身舎に四面庇の構造である。
現状は、史跡整備の計画はあるも、埋め戻され地上には何も留めず、見えるのは高速道の高架橋のみの状況と云う。
2011/08/16追加:
○「一般国道161号(西大津バイパス)建設に伴う穴太遺跡発掘調査報告書W」滋賀県教育委員会、2001 より
 穴太廃寺発掘図:図の中央やや上の遺構が講堂跡、向かって左下が再建金堂、右下の4割程度は発掘されているのが、再建塔跡。
創建時の金堂・塔跡はこの図のどれなのかは良く分からない。
 穴太廃寺創建塔遺構図
掘り込み地業の有無は不明。基壇外装は長さ80〜100cm、高さ20cm、幅18cmの側面を切りそろえた石列が1段分遺存。大和産凝灰岩質砂岩を使用する。基壇化粧は切石積基壇、一辺は10.2m。
 穴太廃寺再建塔遺構図
金堂基壇東辺より10,8mに所にある。基壇北辺より風鐸・吊り金具・板状銅製品出土する。周辺から多量の焼土・炭が検出され、焼失か。
基壇中央は基壇盛土と異なる土で版築され、心柱を支える版築層とも考えられ、地下式心礎の可能性もあるが、断ち割っていないため不明。
基壇化粧は瓦積、基壇の一辺は13.32m、西辺中央及び北辺中央で巾2.6mの石階を発掘。
○「新版・古代の日本 6 近畿U」坪井清足・平野邦雄、角川書店、1991 より
 穴太廃寺発掘写真
北から撮影、手前は講堂遺構、右奥は再建金堂遺構、その左には再建塔遺構が写る、その他の遺構は不明。

近江南滋賀町廃寺跡(史跡)

寺址は大津京の域内にあり、伽藍は大津京の方位と同一と云う。昭和3年から数次の発掘調査が実施され、伽藍配置は南から南大門・中門・回廊内東に塔・西に小金堂が配置され、さらに北に金堂、講堂、三面僧房が付設(川原寺式)するものであったとほぼ確認されている。梵釈寺あるいは崇福寺跡とも考えられた時期もあったが、現在はそれらは否定され、寺名不詳とされる。出土瓦等から白鳳期創建と云う。
現在、塔跡及び金堂の東部分の跡が史蹟公園として整備される。散在する金堂礎石と塔心礎・基壇が認められる。
心礎は1.55×1.36mの大きさで、径82cm・深さ10cm、径21cm・深さ4cm、さらに径19cm・深さ14cmの3段の孔を持つ。
 心     礎     基     壇     復元伽藍図
「N」氏ご提供:2004/8/10撮影画像
 □南滋賀町廃寺心礎
2007/08/15追加:
○「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
・昭和3年肥後和男氏調査:
塔(東塔)は方約40尺(12.12m)であり、瓦積基壇を発掘、高さは1尺3寸〜1尺8寸程度が遺存する。礎石は全て抜き取られ全く検出されず。心礎は近くの民家で手水鉢として利用されていた。大きさは5尺(1.5m)×6尺(1.8m)程度の花崗岩製で、径2尺7寸5分(83cm)×3寸5分(10cm)の円穴、径7寸(21cm)×6寸(18cm)の円孔(受蓋孔を持つ)を穿つ。
(西塔)は東西約42尺、南北37尺の瓦積基壇を発掘、礎石は全く不明、しかしこれは塔ではなく小(西)金堂の可能性があると思われる。
金堂は両塔の北側にあり、東西75尺、南北60尺の基壇を検出、礎石は明確でない。さらに北に講堂、その北に食堂跡が検出された。
 南滋賀町廃寺心礎実測図      南滋賀町廃寺東塔基壇
 南滋賀町廃寺塔基壇西面      南滋賀町廃寺塔基壇南面      南滋賀町廃寺塔基壇南面
・昭和13年-15年柴田実氏調査:
推定南廻廊跡礎石6個を検出、東廻廊跡で新に礎石を発掘、西廻廊のボーリングで礎石を検出、西塔(小金堂)基壇は東西40尺、南北44尺と確認、講堂基壇縁石列及び基壇上に礎石11個を検出、食堂跡で12個の礎石を確認。またこの調査によってこの寺院の創建は白鳳期で(つまりは梵釈寺ではない・崇福寺跡はほぼ別途確定している)平安末期まで存続したことが確認された。
その後の調査:
昭和40年、講堂規模は正面91尺、側面41尺の規模と確定。
昭和37・38年調査、食堂跡は北僧坊跡と判断される事実が発掘される。
昭和37年、西僧坊と想定される遺構が発掘される。
現在では南滋賀町廃寺は白鳳期創建で、金堂東前に塔、西前に小金堂、後に講堂があり講堂を囲んで三面僧坊を持つ「川原寺式」伽藍配置を取る寺院とされる。
○2008/09/19追加:滋賀県埋蔵文化財センター 情報:
 「復元伽藍図」:南滋賀町廃寺跡平面図
○2009/12/11撮影:
 近江南滋賀町廃寺心礎11        同         12         同         13         同         14
    同         15          同         16         同         17         同       塔土壇
2013/10/26追加:
○「南滋賀町廃寺」肥後和男(「滋賀県史蹟調査報告書第2冊」1929 より
 塔基壇断面図     塔心礎石実測図
○「大津京阯(上)南滋賀の遺跡とその遺物」滋賀県史蹟名勝天然記念物調査会、1940 より
 東塔瓦積基壇:上左は北辺、上右は同断面、下は南辺
○「史跡南滋賀町廃寺跡保存官吏計画策定報告書」滋賀県教育委員会、1981 より
 南滋賀町廃寺遺構図

近江崇福寺跡(史蹟)

 大津京の西北に位置し、山裾が3つの尾根に侵食された地形上(尾根上)にある。
昭和3年・15-16年の発掘調査で、南尾根(字:大形)上に金堂・講堂・付属堂宇、中尾根(字:丸山)の東に塔・西に小金堂、北尾根(字:弥勒堂)に弥勒堂・付属堂宇跡が確認された。それぞれの尾根は約 180-100mの距離を置き、急な深い谷で隔てられる。
現在、この寺跡は「扶桑略記」等の文献及び出土品から、南尾根上の寺跡は梵釈寺(桓武天皇建立)に、北・中尾根の寺跡は崇福寺(天智天皇勅願・大津京の鎮護)跡と推定されている。寺跡は整備され、 山中に今なお各堂宇の礎石が整然と残る。
崇福寺は平安期には南都の各寺とともに10大寺に数えられるも、その後は山門・寺門の争いの中で、鎌倉期後半には廃絶したとされる。
2001/09/27撮影:
 崇福寺塔跡(西北隅)  同塔跡(四天柱礎石)  同塔跡(全景)  同塔跡礎石配置図
 同 南尾根金堂跡    同 金堂礎石
○「日本の木造塔跡」:
 塔跡は心礎・四天柱礎・脇柱礎が完存する。心礎は地下1.2mにあり、大きさは1.8×1.5mのほぼ方形で、中央に径53×10cmの円孔を穿つ。南側面を平滑に加工し、底辺21、高さ18、奥行27cmの舎利孔を彫る。この舎利孔及び蓋には朱を塗り金箔を押し、中に3重の舎利容器が安置されていた。※心礎高さは2尺(60cm)。
 舎利容器収納外函:銅函で大きさは10.7×7.6×7.6cm、中函:銀函で大きさは7.9×5.8×4cm、
内函:純金函で大きさは6.1×4.25×3.3cm、その中に瑠璃の壷があり舎利を安置する。
2007/08/15追加:
○「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
 崇福寺塔心礎     崇福寺塔・小金堂中間階段     崇福寺塔基壇切石(北)
○2009/12/11撮影:
 近江崇福寺塔土壇11     近江崇福寺塔礎石11     近江崇福寺塔礎石12     近江崇福寺塔礎石13
 近江崇福寺塔礎石14     近江崇福寺塔礎石15     近江崇福寺塔礎石16     近江崇福寺塔礎石17
 近江崇福寺塔礎石18     近江崇福寺塔礎石19
 近江崇福寺小金堂跡11     近江崇福寺小金堂跡12
 近江崇福寺金堂跡11     近江崇福寺金堂跡12     近江崇福寺金堂跡13     近江崇福寺金堂跡14
 近江崇福寺金堂跡15
 近江崇福寺講堂跡11     近江崇福寺講堂跡12     近江崇福寺講堂跡13
 近江崇福寺経蔵跡11     近江崇福寺経蔵跡12
 近江崇福寺弥勒堂跡11     近江崇福寺弥勒堂跡12     近江崇福寺弥勒堂跡13

2007/01/10追加:
○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 より:
 舎利容器は昭和15年出土。(国宝、近江神宮蔵、京博寄託。)
塔跡は約3尺の基壇上にあり、心礎は地下4尺にある。心礎南側に底巾7寸、高さ6寸の半円形の横孔が穿たれ、同じ半円形の蓋が嵌っていた。石蓋を取り外すと奥行は約9寸あり、内壁は朱下地に金箔を置き、舎利容器が荘厳具とともに発見された。
舎利容器は金銅製脚付外函・銀製中函・金製内函からなり、内に舎利3粒を納めた金製口蓋付きの瑠璃壷を入れていた。舎利は径5厘以下の不整形の水晶玉であった。
この外函にはさらに木函があったらしく腐朽した木片が舎利孔内にあった。金銅の外函と銀製中函との間には白色の香泥を詰めこの中に紫水晶2個と南京玉14個が混じていた。そして外函の下には銀銭12枚、径2寸3分の金銅唐草文貼付鉄製鏡1個、長径7分余・短径6分の青銅鈴2個、刺玉3個が置かれていた。銀銭は径1寸内外、厚さ1分弱、重さ2匁内外のもの12枚、但し1枚は大型で径1寸3分厚さ1分強重さ9匁強で、この大型以外は中央に小孔があり、且つ不整形の小片が付着し、田字形の印刻あるものが2枚あった。
 崇福寺塔舎利容器     崇福寺塔舎利容器実測図
○Web情報:
 心礎側面の舎利孔から舎利容器と、これを納める外容器および各種の荘厳具が出土。
舎利容器は金製の蓋をもつ緑ガラス製小壷で、水晶の舎利3粒が収納されていた。(金蓋瑠璃壺 高3.0cm)
外容器は金製(内函)・銀製(中函)・金銅製(外函)が入れ子になる。
 (金製内函6.0×4.2、銀製中函7.9×5.8、金銅製外函10.6×7.9cm)
 (内函、中函、外函の造作は精緻を極める。金製内函には舎利壺を安置するための、蓮華形の台座を造る。)
荘厳具として紫水晶・ガラス玉・硬玉製丸玉・無文銀銭・金銅背鉄鏡・銅鈴などがあった。
(金銅背鉄鏡1点径7.0、無文銀銭 11点径3.0前後、緑ガラスビーズ3個径0.6〜0.7、紫水晶ビーズ2個径0.5、0.7
半透明緑色ガラスビーズ11個径0.2、箔、金粒、金具類11片<金銅箱のピンの破片など>、推定鈴の破片、木片(香木か?あるいは木函破片か?)、石灰のような粉(白色の香泥?)
 崇福寺舎利容器・外容器      崇福寺舎利容器・外容器2
 崇福寺外容器・金製中函:舎利壷安置の蓮華座
 崇福寺舎利荘厳具1:鏡1個、無文銀銭11個(12枚発掘とも思われ1枚紛失は破片化か?)、鈴1個(もう1個は破片化か)
 崇福寺舎利荘厳具2:緑ガラスビーズ3個、紫水晶ビーズ2個、緑色ガラスビーズ11個、金箔、粉(香泥)、金具類11片、
               推定鈴の破片、木片などと思われる。(舎利3粒は?)
   ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 崇福寺舎利容器実測図2:上に掲載の実測図より鮮明  近江梵釈寺心礎図
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
古代の舎利容器の内、現物の遺存するものは以下の5例(6例)がある。
 ※近江崇福寺跡・攝津太田廃寺伊勢縄生廃寺大和法輪寺美濃山田寺跡・(大和法隆寺西院五重塔は再埋納)
「扶桑略記」:「天智7年(666)・・於近江志賀郡建崇福寺」とある。その後も志賀寺・志賀山寺として諸誌に名が挙がる。
梵釈寺は延暦5年(786)の創建(「続日本紀」)とされる。
 近江崇福寺跡測量図     近江崇福寺中央尾根測量図
 近江崇福寺金銅容器     崇福寺金容器・ガラス容器    近江崇福寺舎利容器
2010/01/10追加:
○「滋賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告書第10冊」昭和15年 より
 崇福寺阯全景
 崇福寺阯出土舎利容器     黄銅舎利容器内部・瑠璃壷     崇福寺阯出土銀貨     南京玉・刺玉・水晶
2020/03/13追加:
○「縄生廃寺出土舎利容器に関する若干の考察」上原真人<「縄生廃寺跡発掘調査報告」昭和63年 所収> より
 崇福寺舎利容器納置方法

比叡山延暦寺日吉山王権現

 比叡山延暦寺日吉山王権現

近江園城寺

 近江三井寺
「園城寺境内図」(推定正和元年(1312)−建武2年(1336)製作)には、
中院に五重塔、三重塔、別所水観寺三重塔、北院に新羅社三重塔、別所常在寺三重塔、
南院に別所徴妙寺三重塔、別所尾蔵寺三重塔、別所近松寺三重塔、別院如意寺三重塔、別院世喜寺三重塔の合計10基の塔婆が描かれる。

近江・瀬田廃寺(桑畑廃寺) ・・・・・第2次近江国分寺

 近江国分寺

近江国昌寺 ・・・・・第3次近江国分寺

 近江国分寺

近江少菩提寺(史跡)

天平3年(731)良弁の創建と云う。円満山大般若台院と号し、三重塔などと37坊があったと云う。 興福寺別院とされる。
元亀元年(1570)織田信長に敗れた佐々木六角の敗残兵によって全山焼失、以降復興されず廃寺となる。
現在は纔かに、石造多宝塔(仁治2年(1241)銘)、石造地蔵三尊(鎌倉・南北朝)などを残す。
 少菩提寺絵図:
 「円満山少菩提寺四至封彊之絵図」:(西応寺蔵 )
  ※下掲の「少菩提寺絵図2」が詳細である。
2009/10/16追加:
 少菩提寺絵図2:
 「円満山少菩提寺四至封彊之絵図」:西応寺蔵:興福寺保管絵図を、絵師南龍王順(椿井権之輔)が複写。
  ※椿井権之輔は明和7年(1770)〜天保8年(1837)、山城生まれ、模写絵が各地に伝わると云う。
  ※西応寺:少菩提寺37坊の一つ禅祥坊跡にある。
 ・「忘れられた霊場をさぐる」栗東市教育委員会、平成17年 より
  少菩提寺絵図部分トレース      少菩提寺境内概略図
2010/02/18追加:2020/09/13追加:
 上記の「円満山少菩提寺四至封彊之絵図」は椿井政隆による「椿井文書」である。いわゆる中世と偽装する偽書である。
明応元年(1492)4月25日に描かれた原本を南龍王順(椿井政隆の号)を書写したと記す。
しかし、明応の改元は7月のことで、4月はまだ延徳4年である。このような年代表記を未来年号というが、偽文書の判断基準に一つであるが、椿井文書にはこのような未来年号になっているケースが多い。
 では、なぜそのようなことをするのか、推測であるが、若し偽作が露顕した時に、椿井が戯れに製作したと言い逃れをするためだったのではないだろうか。
2009/11/08撮影画像
 少菩提寺石造多宝塔:重文・塔高448cm。
 少菩提寺地蔵三尊;中尊は像高158cm・鎌倉期、両脇侍は南北朝期。
 少菩提寺閻魔像:総高160cm、閻魔像高58cm。他4体を刻む。
 少菩提寺一石五輪塔:少菩提寺西の阿弥陀石像(墓碑)が無数に散乱する山中にある。中世末期のものと推定される。
2009/11/18追加:
少菩提寺主要部は上記の石造物のある谷筋ではなく、この谷の東北の谷筋にあり、今般は未見。
上記の椿井権之輔の少菩提寺絵図2には三重塔があり、また近江の他の天台大寺の堂塔構成からみて、塔婆ほぼ間違いなく塔婆の建立があったと推定されるも、塔婆の伝承地 などについては未だ拝聴せず。
なお西応寺(少菩提寺禅祥坊の後身)、菩提禅寺(少菩提寺の遺仏と云う木造阿弥陀仏如来像・平安期・重文を有する)なども残る。

近江善水寺

岩根山と号する。本尊薬師如来。和銅年中(708-)の創建と伝え、延暦9年(790)伝教大師の中興と云う。
南北朝期<貞治5年(1366)再建>の天台密教本堂(国宝・7間×5間・入母屋造・屋根檜皮葺)を有する。
以下の情報がある。
元亀2年(1571) 織田信長比叡山焼き討ち後、当山も焼き討ちを受け、本堂、仁王門、塔、六所権現社を残し全山焼亡と伝える。
 (以上の伝承<典拠は不明>から、何らかの塔婆が存在したものと推定される。蓋し湖南の天台の大寺の一山であり、同じく湖南の常楽寺・長寿寺、あるいは湖東 の天台三山その他の天台大寺の伽藍構成から見て、層塔のあった蓋然性は極めて高いであろう。
但し、塔婆の存在が遺構・遺物などで実証された訳でも、また絵図などの史料がある訳ではない。)
※塔跡の伝承地は寡聞にして未だ知らず。地形からして本堂に向かって右手奥の傾斜地にあったのであろうか?。
善水寺山内は三尾に区分され、本堂付近を「中尾」、東側清涼山を「東尾」、西北側十二坊山を「西尾」と称する。盛時には26坊を有したと伝える。なお十二坊として、善覚院、中之坊、角之坊、岩蔵坊、持蓮坊、宝泉坊、角心坊、善明坊、浄心坊、大門坊、宝乗坊、実蔵坊の名称が伝わる。 (「善水寺古記」)
2009/11/18追加:
「忘れられた霊場をさぐる」栗東市文化体育振興事業団、平成17年(2005) より
 近江善水寺遺構図:中尾付近の図、不動寺は東尾の一郭か?、西尾の遺構は 情報なし。
 岩根山善水寺之景:明治30年頃の善水寺、『大日本名蹟図誌』に所収か?。
2009/11/08撮影画像
 近江善水寺本堂1   近江善水寺本堂2   近江善水寺本堂3   近江善水寺本堂4   近江善水寺本堂5   近江善水寺本堂6
本堂の他にはわずかに以下などの堂宇のみが残る。
 善水寺元三大師堂:正徳3年(1713)再建。
 善水寺観音堂:元禄9年(1696)東尾観音堂を中尾岩久蔵院跡に移す、本尊は丈六聖観音坐像(平安期)を安置。
 善水寺行者堂:明治9年飯道寺岩本院行者堂を移したものと云う。
なお、本堂内に以下の仏像を安置する。
本尊薬師如来座像(重文・平安期・正暦4年(993)の年紀あり)、梵天立像・帝釈天立像(重文・平安期)、
四天王立像<広目天・多聞天・増長天・持国天>(重文・平安期)、不動明王座像(重文・平安期)、兜跋毘沙門天立像(重文・平安期)
※以上十躯の一具像は、正暦年間の頃の比叡山根本中堂諸尊を模刻し当山に奉安されたものと伝える。
金剛力士像二躯(重文・平安期・旧仁王門に安置・仁王門は昭和28流失・西坂の途中に跡地あり・・・未見)
持国天・増長天立像(重文・鎌倉期・旧二天門に安置)、金銅誕生釈迦仏立像(重文・天平)
その他十二神将や客仏など多くの古仏を安置する。

近江長寿寺(東寺)

 近江長寿寺・近江総見寺三重塔

近江金勝寺(大菩提寺)

 近江金勝寺

近江狛坂寺

 近江狛坂寺跡

近江石居廃寺 (史跡)

心礎と思われる礎石の大きさは110×75cm。柱座径65×5cm。径21×10cmの擂り鉢状の円錐穴を穿つ(実測)。
以下の資料などから塔の存在は推測できるが、上記の礎石が心礎かどうかは疑問がある。
確かに舎利孔もしくは枘孔と思われる孔はあるが、その形状は擂り鉢状であることまた他の金堂礎石と形状・大きさが類似して、擂り鉢状の孔を除けば、金堂などの礎石と考えた方が自然 とも思われる。また心礎とするにはこの礎石が塔跡から運ばれ、のちにこの堂跡に置かれたと推定するしかない。さらに、この礎石は塔跡の心礎位置から出土したという証明や伝承もない。
云ってみれば、この擂り鉢状の孔は後世の加工(意図は不明)である可能性も有り得る。
あるいはまったく逆に柱礎石に孔を穿ち、心礎に転用した可能性も考えられるが、いずれにしろ不明とするしかないであろう。
 跡1     跡2     図1     図2     図3     図4     図5     図6     図7     図8
「古代近江の遺跡」:金堂と推定される土壇が残る。ただし道路整備で原形を損ねている。
基壇上に19個の礎石(花崗岩製・円柱座を造出)がある。但し西・南の配列は乱れ、同時期のものとは疑わしものもある。南側東から3個目礎石は径24/22cmで深さ11cmのすり鉢状の円孔を持つ。なお基壇南東約50mの字は「塔の前」と称する。瓦・塼仏・塑像・泥塔などの破片が出土。
「滋賀県の歴史散歩」:基壇は11.7×7mで基壇南・西は道路整備で削られ、礎石配列はやや乱れる。堂は5×3間と推定される。基壇北にはかって、礎石らしい巨石があったといい、また南東「塔の前」の小字が残る。本寺は白鳳期創建で平安期まで存続したと考えられる。「近江輿地志略」では「在原寺」跡と 云う。
「日本の木造塔跡」南側礎石の東から3個目礎石には径60cmの柱座に径24×12cmの孔を穿つ。南側礎石は動かされていて、移動の折に、この礎石列に塔心礎が紛れ込んだものであろう。心礎大きさは90×80cm。

近江甲賀寺跡 ・・・・・第1次近江国分寺:紫香楽山寺址

 近江国分寺
 


2006年以前作成:2015/05/23更新:ホームページ日本の塔婆