美  濃   白  山  中  宮  長  滝  寺

美濃白山中宮長滝寺三重塔

美濃長滝寺

白山は加賀、越前、美濃の三国の境界に位置する。
白山を源流とする手取川は加賀を、九頭竜川は越前を、長良川は美濃を下る。
これらの三国では、古くから白山は超越した存在として崇められ、各川の上流には「白山三馬場」が成立していた。
三馬場とは加賀の白山寺白山本宮、越前の平泉寺、美濃の長滝寺白山本地中宮をいう。
長滝寺は養老元年(717)泰澄上人の創建と伝える。
また養老6年厳元正天皇の病気平癒を祈願、勅作の十一面観音、聖観音、阿弥陀如来が奉納されたともいう。
(それゆえ白山中宮には本地の名称が併称され、白山本地中宮と称する。)
天長5年法相宗から天台宗に転宗。(真言宗の衆徒も混在したようです。)
天長9年(833):既に「白山三馬場」が成立して、長滝寺は白山信仰の美濃側の中心となっていた。
治安3年(1023):堂宇30余、6谷6院360坊のうち、山津波で60坊が埋没。
 6谷:本院谷、中院谷、上院谷、須川院谷、蓮原院谷、葦原院谷
 6院:普明院、補陀落院、仙洞院、十禅院、浄土院、開厳院
堂宇:白山三所、若宮社、大将軍社、同拝殿、大講堂、一切経蔵、御誦経堂、閼伽井堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、開山堂、
三重塔
、法華堂、常行堂、薬師堂、入峰堂、同拝殿、金剛童子社、同拝殿、児御前社、十禅師社、御供所、御論堂、
伽藍神社、聖霊堂、十王堂などが知られ、その他釈迦堂、竈殿、神馬屋、地蔵堂、阿弥陀堂などもあったようです。
「当山堂社記」(年代不詳、経聞坊文書)では法華堂、(東)常行堂、三重宝塔、開山堂、護摩堂、薬師堂、釈迦堂、
阿弥陀堂、入峰堂、聖霊堂は天文以降天正年中までに退転とあるようです。

文永8年(1271):14の堂塔が焼失。
正応3年(1290):本殿、応長元年(1311)大講堂が再興。
南北朝期に散見する坊舎:等覚坊、池坊、宝泉坊、廊坊、学仏坊、経聞坊、辻坊、真如坊、常住院、円蔵坊、金台坊、
大日坊などがある。
戦国期には末寺の多くが浄土真宗に転宗する。

慶長5年(1600):郡上藩より76石などが安堵される。長滝村全村が寺域であったとされる。
寛文8年(1668):院家として宝珠院、宝淋院、本覚院、阿名院、衆徒(寺院)は西泉坊(大日坊隠居)、福寿坊(本覚坊隠居)、一乗坊、中之坊、池之坊(竹本坊隠居)、宝幢坊、経聞坊、真如坊、等覚坊、玉林坊、明尭坊、円教坊、持善坊、竹本坊、林泉坊、大日坊、宗心坊、円城坊の18 坊、山伏は泉光坊(教聞坊同宿脇寺)、禅養坊、竜蔵坊(阿名院同宿脇寺)、三教坊、宝蔵坊の5坊.神主(執行坊)1坊。
地蔵坊、正円坊、西泉坊、宝泉坊、、宝泉坊、成就坊、本覚坊は寛永頃までに退転したとされる。
享保11年(1726)惣坊中16、うち寺11・神主1・山伏4。
寛延3年(1750:)惣坊中14、うち寺10<5寺は無住>、山伏2、神主1となる。
江戸末期の三馬場の勢力は、加賀白山寺白山本宮系統の白山神社は約700社、越前平泉寺系統は約500社、
美濃長滝寺白山本地中宮系統は、約1300社であったという。

◆長滝寺古図(時期不詳・若宮家<旧執行坊>所蔵と思われます。)
・・・・白鳥町役場様のご提供です。
  
(2002年8月広報しろとりbS39より転載)

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近世の長滝寺(時期不詳)

三重塔跡・・・・白鳥町役場様のご提供です。
(2002年8月広報しろとりbS39より転載)
なお上記によると、2001年に三重塔跡の確認調査が行われたようで、そのときの写真とされる。
「白山美濃馬場の里」として整備されるようで、大講堂周辺の三重塔、開山堂、常行堂跡などが整備されるようです。
土壇・礎石などの残存状況は不明ですが、礎石はある程度残っているのかも分かりません。
白鳥町様ホームページ

2004/08/02追加:
「X」氏ご提供画像(2004/6/4撮影)
美濃長滝寺三重塔跡1
  同         2

神仏分離

明治元年:神仏分離で、長滝寺と白山神社に分離。
大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺とし、
白山三社、拝殿を白山神社、左右末社、児御前、竈社、御鍬社を摂社として分離する。
明治2年には阿名院、経聞坊、一乗坊、蔵泉坊、宝幢坊、竹本坊、大日坊、大本坊、持善坊、明尭坊、等覚坊、真如坊(無住)、中之坊(無住)、大円坊(無住)の14坊、と執行坊(神主) の存在が知られる。
明治32年の火災でほとんどの堂宇が焼失する。
大正年中に長滝寺大講堂と白山神社本殿・拝殿は旧地に再建される。
衆徒寺院は多くは廃絶したようですが、阿名院は航空写真によると、本殿東側に存続すると思われます。
また経聞坊、宝幢坊(天台宗)の坊舎も残っているようです(と思われます)。

現在も当地には平安、鎌倉、室町期の多くの工芸品、仏像、絵画、典籍、経典、古文書んどが伝えられているようです。
国重文指定のものを列挙すると、木造釈迦如来および両脇侍(鎌倉)、木造四天王立像(鎌倉)、宋版一切経(南宋)、石灯篭(鎌倉)、古瀬戸瓶子(鎌倉)、鉄蛭巻手斧鎌倉)、鉄製斧(鎌倉)が伝えられている。その他県及び町指定の多くの什宝も伝えられている。
例えば近年の文化財調査で新たに県文に指定された南宋の木造韋駄天立像(近世資料では一切経蔵の本尊が唐作彩色韋駄天像との記載があり、上述の宋版一切経とともに伝来 ・寄進されたようです)、善財童子立像(近世資料では金剛童子堂拝殿に釈迦如来像とともに安置されていた像であるようです。「但し童子御姿唐佛なり」とありこの童子像と思われる 。)なども現存する。

その他の付帯史跡

若宮修古館
白山神社の北にある。もと長滝寺の執行坊(神主)で、神仏分離以降は白山神社の社家であった。
現在は若宮家住宅および展示場のようです。

白鳥寺
現白鳥神社は同じく養老年中泰澄上人の創建と伝え、白鳥寺と称し、七堂伽藍を構え、ここに白山社を勧請したという。
泰澄上人は白鳥の先導で当地に至ったという。
中世には長滝寺坊中が白鳥寺別当を兼務していたようです。
なお白鳥寺は慶長年間に廃絶したが、神社の現本殿は江戸後期の再建とされ神社として存続するようです。

石徹白

石徹白は「いしどしろ」と読むようです。
地図を広げて見ると、この地域は越前の国ですが、現在の所属は岐阜県になっています。
大野盆地や越前平野との交通が極めて不便なため、昭和33年福井県から岐阜県白鳥町に越県合併して地域です。
石徹白は御師(宿泊と白山登山の先達と各地への布教を務めた)の村とも社家社人の村ともいわれた。
また石徹白は中世・近世を通じて、三馬場のうち最も白山参詣の信者が多く参集し、御師が生業であったようです。
石徹白には中居神社が鎮座し、白山三社、大日霊神社、日少宮、大宮(大講堂、現在は拝殿)、泰澄堂などがあった。
明治2年神仏分離により、中居社の仏具・仏具は河原で毀損、焼却されたという。
この時点より石徹白の宗教性は急速に失われていったとされる。
なお神仏分離にあたり大師堂が建立され、一部什宝が存続する。
銅造虚空蔵菩薩坐像(重文)は藤原秀衝の寄進と伝え、平安期の秀作とされる。もと中居神社大講堂安置仏とされる。

★白鳥町役場様には以下の資料を送付いただきました。
白鳥町役場のホームページはこちらです。

広報「しらとり」bS39、2002年8月
パンフレット「ぎふ美濃白鳥町の 文化財」、「白山文化の里 しろとり」、「ぎふ美濃 白山長滝公園」、「阿弥陀ヶ滝」