美濃苗木藩における廃仏毀釈

美濃苗木藩における廃仏毀釈

苗木藩概要

苗木藩の石高:成立当時(初代遠山友政)の石高は10,521石と云われる。
その後、新田開発が奨励され、4代遠山友春の頃は実石高は約15,000石ほどに増加と云われる。
享保17年(1732)7代遠山友央の時、10,521石の内500石を幕府に返上、下野村などが天領となる。
苗木藩旧領は
(恵那郡)日比野、上地、瀬戸、坂下、下野、田瀬、福岡、高山、蛭川、毛呂窪、姫栗、河合、中野方
(加茂郡)飯地、峯下立村、福地、切井、赤河、大地、上田、黒川、久須見、越原、神土、柏本、宮代、下野、大沢、中屋、須崎、名倉、広野、宇津尾、田島、寺前、大野、佐見  という。(あるいは46村とも云うが不詳)
最後の藩主は国学者12代友禄である。


苗木藩の廃仏毀釈の概要(苗木藩の神仏分離・廃仏毀釈・神葬改宗

◆苗木藩と神葬改宗
慶応4年(1868)、神祇官権判事青山景通が自らの神葬改宗を弁事役所へ願い出る。
 「私儀家内に至る迄、神葬祭仕り度、この段願い奉り候」
明治3年7月23日、苗木藩郡市局名をもって家臣一同へ達
 「知事様近日御自葬御願相成候につき、士族ならびに卒族に至るまで自葬相願出候様仰出され候。この段心得のため申達するもの也」
同年7月27日、知事遠山友禄、神葬改宗を弁事役所に願い出る。
同年8月7日、苗木藩は、管内の士族、卒族その他一般のすべてが神葬に改宗する旨の伺い書を弁事役所に提出、即日裁可される。
同年8月27日、郡市局と神祇局から達
 「今般知事殿始め士卒族に至る迄、神葬願済み相成り候間、御支配一同神葬相改め申すべき事。但し、9月10日限り届出申すべき事」
苗木藩では、各村々に神葬祭世話役を設置する。

明治3年8月15日、郡市局達(苗木藩の廃仏毀釈)
 「一、村々の内、辻堂を毀ち、仏名経典等彫付候石碑類は掘埋め申すべく候。
   但し、由緒これある向きは伺い出ずべき事。
  一、諸社の内、未だ神仏混淆の向きもこれあるやに相聞え候。早々相改むべく申し候。

  右の条々相達し候もの也。
                   午 八月十五日  郡市局
  御支配村々里正中」

明治3年8月27日、達
 「一、諸社の内、未だ神仏混淆の場所もこれある哉に相聞こえ、左候ては、兼ねて相達し置き候御主意にもとり候間、早々改正致すべき事。
  一、堂塔並びに石仏木像等取り払い、焼き捨てあるいは掘り埋め申すべき事。」

明治3年9月3日、廃寺帰俗の申し渡し
大参事青山直道、管下寺院の全住職を藩庁へ呼び出し、申し渡し
 「今般王政復古につき、領内の寺院はすべて廃寺を申しつける。
 よって、この命に従って速やかに還俗する者には、従来の寺有財産を与え、苗字帯刀を許し、村内においては里正の上席とす。」

住職たちは、遠山家菩提寺雲林寺で協議、どの村もすべて神葬改宗となり、檀家をことごとく失った今となっては、どうすることもできず、ついに廃寺帰俗することに決する。

同年9月27日、苗木藩庁、管内の15ヶ寺廃寺・その寺僧の還俗を申し付けを、弁官(中央役人)に届け出る。

 「苗木村 雲林寺 同 所 仏好寺  黒川村 正法寺 坂下村 長昌寺
  福岡村 片岡寺 姫栗村 長増寺  蛭川村 宝林寺 神土村 常楽寺
  飯地村 洞泉寺 赤河村 昌寿寺  高山村 岩松寺 河合村 竜現寺
  犬地村 積善寺 中野方村 心観寺 切井村 龍気寺
     通計 十五箇寺
 右今般知事始め支配地一同神葬罷り成り候に付き、廃寺帰俗を申し付け、活計相営み申すべく候。
 この段御届け申し上げ候。以上
      庚午 九月二十七日 苗木藩
 弁官御中」

但し、雲林寺の17世浅野剛宗だけは還俗を拒否、
 「領主の多年の恩顧に報い、歴代藩主の菩提を弔う」ため、領外の下野村(現在の恵那郡福岡町)法界寺への退去を願い出る。
青山大参事が再三に渡り「五人扶持を与え、藩校の教師に任用するから速やかに還俗せよ」と説得するも
頑として拒否する。
藩はついに懇請を受け入れ、雲林寺の仏具、什器類と金三百両を与えて退去を認め、剛宗は、遠山家累代の位牌や雲林寺歴代住職の位牌を貰い受け、雲林寺の末寺法界寺へ退出すると云う。

なお、この時廃寺帰俗の処置を受けたのは、上記15ヶ寺以外に、苗木雲林寺塔頭正岳院や大沢村の蟠龍寺がある。(正岳院は雲林寺の寺中、蟠龍寺は住職全理が退去した後で、実質廃寺)

藩は住職に対し「速やかに帰俗する者には、従来の寺有財産を与えて生活を保障する」と申し渡す。
村方に対して「雲林寺始め村々寺院、更に廃仏帰農仰せ付けられ候に付き、寺院、田畑、山林等委細取り調べ届け出ずべし。その外、宝物、家財の儀は、本人、役人、檀家共相談の上、宜敷きに取り計らい申すべく候事」と布達。
 ※神土村常楽寺では、寺有田畑は檀徒の協議によって、元の住職自董こと安江良左衛門の所有になる。

さらに村内に数多くある無住の阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂、薬師堂などは壊され、仏像や仏具は焼却、土中に放擲、あるいは他領へ売却される。路傍にある石仏、名号塔、供養塔なども、その主なものは打ち割られ、引き倒されたと伝える。

◆苗木藩の神仏分離と敬神
慶応4年、苗木城の守護神竜王権現を高森神社と改称。
 「今般朝廷より仰せ出され候御趣意を以て竜王権現の御神号を、以来高森神社と御改唱仰せ出され候事」と布達、領内各社の神仏混淆を禁止し、社僧、別当職の還俗を命じる。
明治2年12月、還俗したものに、神職・社人としての身分を与え、その序列を定る。
即ち
 一、村々の神職は社人とし、藩命のものは神職と心得べき事
 一、神職の者共、神用の節は里正の上、庁用の節は次たるべし
 右の通り相心得らるべき事
       明治二年十二月  苗木藩庁
 神職序次
  安江正朝 柘植土雄 後藤清道 奥田正神 村雲泰定 坂岡重広 小栗氏重 鷲見信秀 宮原栄造
 社人序次
  各務広忠 林 義一 安江正起 阿部良晁 加藤直道 安江能安 林 繁高 藤沢光順 安江正高 大沢道賢

 これらの神職・社人は、かっては「行者さま」呼ばれた修験から転向したものが多く、その中には、柏本村元安正院の安江民部正朝、神土村永正院こと村雲宮内泰定、越原村安江隼人正起らの名がある。

明治3年9月29日、神田神社の祭典が盛大に行われる。
藩知事遠山友禄が大参事石原定安、権大参事棚橋朝成、少参事水野忠鼎らと共に参拝し、毎年米7斗を祭祀料として永代寄進することを約束する。

 これらの詳細は別項に掲げた村雲蔵多の『明治三年見聞録』で知ることができる。

明治4年5月、維新政府は、神社を、官国弊社、府県社、郷社などに格付を実施する。
それに従い、苗木藩は管内を次の6区に分け、各区に郷社を1社ずつ定める。
同年9月、従来の神職・社人を廃し、祠官・祠掌を改に任命。
同年10月、村社の決定を見る。
第1区  瀬戸村、上地村、町、日比野村、高山村=県社兼郷社神明宮(日比野村)−祠掌小栗氏重
第2区 蛭川村、黒川村、毛呂窪村=郷社佐久良田神社(黒川村)−祠掌阿部郁蔵
第3区 姫栗村、河合村、飯地村、峯村、下立村、塩見村、福地村=郷社中森神社(福地村)−祠掌柘植郡兵衛
第4区 中ノ方村、切井村、赤河村、犬地村、上田村、名倉村=郷社笠置神社(中ノ方村)−祠官心得柘植寿麿
第5区 田島村、宇津尾村、広野村、若松村、油井村、徳田村、成山村、室原村、久田島村、吉田村、寺前村、大野村、小野村、有本村、越原村、神土村、柏本村、下野村、久須見村、宮代村、大沢村、中屋村、須崎村=郷社神田神社(神土村)−祠掌俵実
第6区 田瀬村、上野村、坂下村、福岡村、下野村=郷社榊山神社(福岡村)−祠掌伊藤祐直

同年12月、苗木県管下の各区とも郷社一社とその祠官および各区内の郷社、村社を一括しての祠掌が任命され、郷社、村社の祭祀が一様に行われるようになる。

第1区 神明宮祠官=安江 静(平田門人) 祠掌=神田 巖(苗木藩士)
第2区 佐久良田神社祠官=土岐正雄(苗木藩士) 祠掌=奥田正道(平田門人)
第3区 中森神社祠官=俵 実(苗木藩士) 祠掌=柘植長雄(平田門人)
第4区 笠置神社祠官=柘植顕義(平田門人) 祠掌=吉田澄暢
第5区 神田神社祠官=阿部敬儀(苗木藩士) 祠掌=加藤清敬(苗木藩士)
第6区 榊山神社祠官=土岐正徳(苗木藩士) 祠掌=小栗民重(苗木藩士)


蔵多日記 - 一庶民の記録に見る苗木藩の明治維新 -

蔵多日記:
幕末から明治維新の出来事(変革)を東白川村に住ずる一庶民の立場から記録した資料が残されている。
これは、村雲蔵多が記録したもので以下の4冊の綴りからなり、「蔵多日記」と呼ぶ。
「文久四歳甲子肇 慶應三歳丁卯至 合四歳之間大概記録」
「從慶應四戊辰歳 至明治二己巳歳 貮歳之間記録」
「明治三庚午年見聞録」
「明治四辛未年諸事記録」

村雲蔵多
嘉永2年(1849)村雲家の4代目として神土神付に生まれる。
幼いころから勉学に勤しむ。敬神の志厚く、神道家であったとされる。
要するに、幕末という時代の閉塞を打ち破る青雲の志を持った人物で、その結果は平田派国学・復古神道に染まった人物であったということであろう。例えば
慶應2年(1866)常楽寺の灌仏会について以下のような記述がある。
「當村平安泰山常楽寺にて當日釋迦の生れ日と云像をうぶゆと云ふあまちゃをせんじ草木の花實にて奇麗なる屋根をふきその中に すがたを安置しうぶゆをかけ夫を呑むなり 是を便りに老若男女あわてふためきて参詣するなり 實に仏に意を入て見ればうかしきものなり其は いかにといふにしゃかと云ふも天竺かびらへ国の人なり 其人の生れたる日を祝ひ産水を呑といふはきたなき事の限りなり 是をのむはたれたる糞を喰ふにかわりなしやと吾思ふ也」
(「かびらへ」とは、釈迦の生誕地カピラバストゥの漢名「迦毘羅衛(カビラエ)」のこと)
慶応3年、山下の安江鉄五郎と共に寄付を募り、神付の愛宕社、津嶋社、若宮の3社に「みす」を奉納。
「吾國は神國なり さるに君(きみ)をはじめ臣に至迄神之道を重しと守らせ給ふ也 付ては下民ニ ても神祇をおもく守るの処・・・ (中略) ・・・御祭り毎に御戸を開候得共御神躰現(あらわ)ニ 拝し奉り餘り恐れ多き事ニ て神事之度毎に御みすをかけ奉りたらよろしき也」
明治3年、平田派国学に入門、「神國之掟を守り一天萬乘之君奉守護神祇之道を厚く守」決意であった。

仏道の排斥と神葬祭に関する見解
『明治三年見聞録』から−大要−:
 王政復古、御一新につき、仏道は国の費えだから廃止して神代のように神葬祭にし、親が死んでも人手に渡さないで、丁寧に大切に取り納めるようにとお達しがあった。
 当領内でも、3〜4月頃から、書物をよく読む人が1村に2人3人と神葬祭を願い出て、すぐ聞き届けられ、太政官へ奏上されている。
 寺との縁を切れば、一切坊主を頼まなくてもよく、はなはだよろしい。
 無学文盲の者は、仏道を潰し、神葬祭になり、坊主に取りおきをしてもらわなければ、行きどころへ行かれないとか、仏道を廃止すれば世界が闇になるとか、人の気が強くなって世が治まらぬとか、なんのかんのと知りもせぬ語り話をして、お上の御政治をそしる者があります。全く国家の罪人だと、私は思う。
 とかく仏というものは外国から渡ってきたもので、もともとわが国にあったものではない。実に不要の道具同然である。
 だから、人々は早くこのことに気づき、神葬祭を願うことは当を得ている。
以下略

茶菴堂の廃止の状況
『明治三年見聞録』から−大要−:
 当村は昔から、少なくとも1組に1か所は観音、地蔵、弘法などを迎え、堂を造り、納めてきたが、今、君から早々取り払えと申されましたので、27日ごろ(明治3年8月)から、みんなで取り除きにかかる。
 神付(じんづき)組でも茶菴堂に納めてあった地蔵はじめ、三十三番の観音、薬師、弘法大師の像などを取り除くも、しかし、だれもそれを預かるという人がない。仕方がないので3体ずつ割あって組中みんなで預かることにした。
 この茶菴堂は古い堂で、その名は遠くへも聞こえていた。ここへ迎えたのは元来お地蔵さまです。しかし、中古に至って西国三十三所の観音の姿を迎え納めたという。
 実に仏というものは、釋迦をはじめその弟子たちの作り出したことで、地蔵も観音もありし人ではありません。すべて彼等が悟ったものであります。ですから、日本には不要の品で、無くてもことかかず、あっても益のないものですから、このように廃されるわけです。
 また、28日には、茶菴堂の西の方に建ててあった六地蔵、十三仏、南無阿弥陀仏などの石仏を残らず倒し、薦に包んで置いた。

常楽寺廃寺の処置について
『明治三年見聞録』から−大要−):
 当村檀那寺安泰山常楽寺も、檀家一同が自葬を願った以上は寺が不要になったので帰農し、従来の田地で百姓をされるという。裃、帯刀、苗字を許されたので、家名を安田屋とし、俗名を安江良左衛門と呼ぶことにされた。
 10月27日から29日まで、仏具など不用の品の競り売りをした。方丈の方一帯は130両で神戸弥介が買い取った。釣鐘堂は鐘ともども百両余りで笠松辺の坊主が来て買い取った。この堂は樫の丸柱造りで立派なものであった。

明治3年神田神社の祭り
『明治三年見聞録』から−大要−):
 神土村産土神社の祭りは、昔から毎年9月29日に、氏子の者が土腐酒を作ってお供えし、お参りするだけであった。その氏子も全部の人がお参りするわけでなく、実に勿体ないことであった。
 ところが最近、日に日に神を敬う心が高まってきました。
 もともとこの神社は、旧い神社で式内だと言い伝えられてきたので、それが本当であるかどうかを確めるため、神戸弥介氏が京都へ上られ、神祇局にお尋ねになった。たぶん式内だろうと思われるが、直ぐには分からないので、調査して回答をいただくことにして、お帰りになった。
 お上からも京都へ御催促いただいたところ今年になって、延喜式の式内で「神田(かんだ)神社」であると御沙汰があった。
 そこで今年の祭礼には苗木藩知事らも参詣されることになった。今までと違って、神国の掟により田畑の種々の初穂を献じ、さまざまに珍しい物を供えるようにとの仰せですので、それぞれ用意をした。
 裃、帯刀を許されている者はそれを着し、それ以外の者は羽織袴で参詣するようにとも達せられているので、一同礼服で参詣をした。
 知事は29日5つどき(午前8時)においでになる予定であったので、一同早朝からお待ちしたが、4つどき(午前10時)に到着した。総勢16人で、知事は馬に乗って到着された。知事を迎える人の波は、酒屋前あたりから邦好付近までの田畑に隙間なく充満した。
 知事は里正宅へお入りなり、暫く休息された後、神田神社をあらかじめ見るためお登りになって、社司に詳しくお尋ねになり、神鏡、宝物を拝見された。
 知事は、烏帽子、直垂を召され、その他の役職者は裃を着けて参詣された。
 知事は、近郷の神主や係りの者が手送りするお供物を次々と神前に飾られた。
 知事はじめ諸公の祝詞が奏上され、一同つぎつぎに拝礼し、お供物を下ろして神事を終わる。
 知事は御神酒をいただいた後、拝殿で少し休まれてから、里正宅へ行かれる。参詣人も多く賑やかだったので知事もお慶びだったようです。
 村の者たち一同も、お供えの芋や大根を肴にしてお酒をいただき、賑やかな時を過ごして帰った。
 時移り世変わりゆけば・・・・・・のことばのように、これまでは、産土神ありといっても参拝する人が少なくて、神社もあって無いと同じようでしたが、今日の祭りは家に残る人がいないくらい、われもわれもと参詣した。
 神も敬わなければ幸せも少なく、こうして神を重く敬う心を持つ人が多くなったことはすばらしいことであろう。これこそ神国のしるしであり、神の恵みも厚く、村も栄えていくことであろう。
 今回参詣された方々の名前を記する。
お客様
  苗木藩 知 事 遠山友禄公   同 大参事 石原定安   同 權大参事 棚橋朝成   同 權少参事 水野忠鼎
  同 大監寮 岩瀬邦雄   同 主辧事 纐纈正韶   同 郡市理事 紀野維益   同 勸農山林理事 山内勝孝
  同   吉田澄暢   同 醫 師 安江義幹   苗木高森神社神主 鷲見顕秀
    苗木藩 監 寮  西尾萬壽治     同   馬 屋  金太郎     同   夫 卒  平四郎
    同   石原家来       同   棚橋家来  鍬吉
神社方
  神田神社 神主 村雲宮内泰定   柏本神社 神主 安江民部正朝
  宇津尾 神主 加藤玄蕃直道   越護神社 神主 安江隼人正起
獻備世話方
  越護神社 神主 安江隼人正起   平尾倉 神戸弥介正衛   平若松屋 服田彦七正倍
  中通鈴原 桂川與左衛門盛壽   平酒屋 伊藤政太郎   中谷居母尾 安江清右衛門正房
  神付問田 今井賢三郎兼言
村役人
  里正 平邦好 安江新八郎正晁   平組頭 平永楽屋 伊藤儀介   東組頭 中通豆腐屋 早瀬清七
  西組頭 中谷中ノ谷 小池新右衛門吉保

ああ ありがたき産土神
『明治三年見聞録』から-大要-):
 いつの日か、菅原知明という神道の講釈師が来て庄屋に泊まり、一晩講釈をしました。その者は、
 「私は、生まれた土地の産土神を大切に尊敬しています。毎月朔日、15日、28日には必ずお参りしなければなりませんが、農家ですので白昼お参りする時間がありません。だから朝早く起き、朝食前にお参りすれば差し支えありませんので、そのようにしています。産土神へよくお参りし信心すると、きっと厚き幸(さきわ)えがあるでしょう。こうすれば、神土村の産土神は他のどの村の産土神よりも尊い社で、霊験あらたかであるといって、参詣する人も多くなるでしょう。そのようになれば、村もどことなく福々しくなり、村繁栄の基となります。また、産土神を粗略にし、村の者がお参りもせず、お宮があってないような状態にすれば、その村は産土神の守り給うところもなく、貧しくなり、自然に滅亡するでしょう。」
と話しました。
 今思い出しますと、実にこのことであった。わが村の神田神社の祭りは、今まで村の者でも参詣する人が少なかったが、今回、このように(上述のように)尊いお宮であると方々へ聞こえ、近郷はいうに及ばず他国の人まで多くお参りしたということは、昔から聞いたことがありません。実に神国の有難さでこうなったものであろう。
 思うに、神田神社は霊徳尊くしてその名は四方に隠れなく、日々の参詣が多く、これこそ村繁栄の基でしょう。めでたし、めでたしと私は独り喜ぶのである。

仏名を俗名に
『明治三年見聞録』から-大要-):
 仏道を廃してからは、法名などを書いた位牌を焼き捨てたり、墓に埋めたり、あるいは他に売った人もあるように聞く。
 仏道は世間の浮宝と見え飾り立てる。位牌なども大きいものがよく、漆を塗り、金箔をかけたものをよしとする。だから漆は汚いものです。これに本名も記さず、外国から渡ってきた仏法の戒名を書き、それだけを敬うことは、わが国の掟にも背こことである。大体仏道というものは不実の法である。その次第は詳しく語るに及ばない。
 今、私が思ってみるすと、歴々の家では位牌の裏に俗称を書きましたが、中から下の者はそういうこともなく、系図もないですから、仏名をやめて俗名に改めようとしても、古い祖先の名は分からず、みんな戸惑った。無理をして新しい名を作り、御霊を祭り替えた人もあります。
 これをみても仏道の不実を知ることができる。表に戒名を記しても裏に俗名を書いておけば、今になって坊主をこのように悪く言わなくてもよかったでしょうに。おしなべて私たちも不明であった。
 今、神葬を行うについて、これまでの分も残さず改めよという君(知事)の仰せなので桜の木で笏の形を作り、それに俗名や実名を書き、裏には死亡年月日、何代目、父の名、続柄などを書した。これで、何百年経ってもその名はその家に残り、祖先からのことが明らかになる。これこそ仏道の左道と違い、神国の真道で、神葬祭のお陰と思う。
 10月16日、尾越の房平を頼んで、押場から桜の木を貰い、御霊代にする笏の形を作ってもらった。そして、竹で灯台と花立ても作ってもらった。

『明治四年諸事記録』の中で、

 これまでは、元旦の朝早く隣家へ年始のあいさつに行きましたが、今年はまず早朝産土神へ参詣した。

 3月15日には苗木本学校で祭礼があり、平田学の門人となっている人たちが2泊3日の日程で参詣した。

 神付の茶菴堂にあった観音などは、既に尾張国宮田村(現江南市宮田町)へ売却されたが、現品は運び出されないまま、神付の人たちの家に預けられていた。それが3月の中ごろ、代金と引き換えに運び出された。村雲蔵多の家にあった掛け物などの仏具もこのとき売却さた。

 廃仏毀釈の状況視察は藩の重要な仕事で、3月13日には青山大参事と石原定安大参事が揃って管内を巡察した。
3月25日には神田神社で神武天皇の御霊祭が営まれた。この祭には有本村佐見新田の人たちも残らず参拝した。

 この年、枝宮、枝社など小さな宮は大きな神社に合併が進めらた。享保の山論で斬首された2人の霊は、神付の神森神社の若宮として境谷に祀ってあった。場所が離れていて都合が悪いので、この際、神森神社に合併しようとしたところ、これは尊い神の社へ人の霊を併せ祀ることは甚だ宜しくないと、別に山の神の古祠を安置して祀ることになった。
 神森神社、越原村越護神社などが、例年6月14日に行っていた提灯祭は取り止めた。
 廃仏毀釈前は七月盆といっていた7月14、15、16日の3日間の休日は廃止し、替わりに御霊祭りといって7月1、2、3日を休日とした。
 これは正月は神を祭ることを第一とし、七月は先祖の御霊を祭ることを第一とする考え方をはっきりさせたものであった。
 各神社の秋祭は、神楽やしし舞が奉納され、例年以上に盛大であった。


苗木藩の神仏分離(廃仏毀釈)の具体例

具体例として、【1】加茂郡東白川村、【2】恵那郡福岡村植苗木、【3】同郡坂下村。【4】同郡蛭川村の例を取上げる。

【1】加茂郡東白川村における神仏分離(廃仏毀釈)

岐阜県加茂郡東白川村は旧苗木藩領であった村である。
「東白川村は元、神土村(かんど)、越原村(おっぱら)、五加村(ごか)の三ヶ村に分れ居りしを明治二十二年町村制實施に際し合併して一ヶ村となれり。」
東白川村は明治22年町村制施行により成立するがそれ以降、合併や分割は一度も行われていないという珍しい自治体(村)と云う。
もう一つ、近世この村は苗木藩領であった。
このため、苗木藩によって強行された、慶応4年の神仏分離令に伴う廃仏毀釈により寺院の全てが破壊され、その後現在まで寺院の再建が行われなかったため、全国で唯一、寺院の無い自治体とも云う。

【2】恵那郡福岡村植苗木における神仏分離(廃仏毀釈)

明治22年、 高山村・福岡村・田瀬村が合併し、恵那郡福岡村が成立。
明治30年、 福岡村・下野村が合併し福岡村となる。

【3】恵那郡坂下村における神仏分離(廃仏毀釈)

【4】恵那郡蛭川村における神仏分離(廃仏毀釈)

蛭川村では明治20年代報徳社運動が展開され、明治43年、広島県広村などと模範村として内務大臣表彰を受ける。
しかし村民には宗教心が無いとされ、一つには廃宝林寺を継ぐ高徳寺を起し、村の一部は高徳寺檀家となる。
もう一つには明治41年、内務省井口丑ニが来村・講演、村人の共感を呼び、ついに大正4年井口夫妻は村に移住し、神国教を開く。
現在も住民の8割(9割とも云う)は祖霊信仰を主とする神国教の信者と云う。
※村民が信仰心を無くしたのは、仏教を廃し・仏を毀わし、国家神道に基づく祖霊信仰を村民に強制し一元化したことも一因であろう。
 


【1】東白川村における神仏分離(廃仏毀釈)

 

東白川村サイト:「東白川村アーカイブス」に《秀逸な》”東白川村の「廃仏毀釈」”のページがある。
※ここでは、苗木藩による国学や復古神道の所業である廃仏が詳細に記録される。
※このサイトは<「東白川村の廃仏毀釈」:ふるさとシリーズ、東白川村教育委員会、2002.11、78p> をアップしたものと思われる。
 以下は上記アーカイブの要約である。

慶長5年(1600) 遠山友政、旧地を回復、再び苗木城に入る。(苗木藩の成立)
慶長19年(1614) 9月、遠山友政、菩提寺天竜山雲林寺を創建。
天保14年(1843) 平田篤胤逝去。 【平田派国学・平田派神道
嘉永5年(1852) 青山景通、平田銕胤の門に入る。
2014/09/03追加:<「Miyamoto」氏ご提供情報>
○平田先生授業門人姓名録(中):表紙に「羽写」と朱書があるので、羽田野敬雄(国学者・平田門人・羽田八幡宮司)が書写したものであろう。
本資料は豊橋市立図書館→羽田八幡宮文庫デジタル版→歴史のページからDL可能である。
 平田鐵胤主授業門人姓名録(中)1:部分図
嘉永5年の条に美濃國苗木藩・青山景通(稲吉は通称、直意は幼名である)の記載がある。
 なお苗木藩とは直接の関係はないが、嘉永6年には薩摩のあの悪名高き税所篤(通称は喜三左衛門、初名は篤満)の姓名がある。
蛇足ではあるが「息吹迺舎と四千の門弟たち」宮路正人(別冊太陽 平田篤胤」平凡社、2004 所収)より
 「(篤胤・鐵胤・延種の三代にわたる)平田国学の門弟の数は、文化元年(1804)から明治5年(1872)にかけ、4380余名の多きに達し、しかもしその周囲には、幾重にも積み重なる支持者・理解者の層を形成し、19世紀変革期日本の最大の知的集団を形成して」いった。
文久2年(1862) 9月24日、青山直道、刀番となる。
 【平田派国学者であるこの青年・青山直道は後日苗木藩の廃仏毀釈を主導する。】
※青山直道:
弘化3年(1846)、苗木藩士青山景通の長男として生誕。
文久2年(1862)、刀番となる。
明治2年、藩の職制改革、直道は、石原定安と共に大参事となる。
明治3年、藩主友禄が平田派国学に入門。
祭政一致の王政復古、復古神道の具現化の一環として、藩政改革・家禄奉還・廃仏毀釈を断行する。
当時の平田派国学及び復古神道の目指す世界を現実の政治として実行した能吏であろう。彼こそ苗木藩の廃仏を指揮した張本人であろう。
のち直道は大参事を辞し、廃藩置県後は、栃木、静岡両県に官吏として勤務する。
明治12年、岐阜県大野、池田郡(現揖斐郡)の初代郡長に任命、同14年退官。退官後しばらく富山県の官吏を務め、退官、東京に出て、易学を学び、易によって生計を立てると云う。
慶応元年(1865) 9月、青山直道、平田学派に入門。
2014/09/03追加:<「Miyamoto」氏ご提供情報>
○平田先生授業門人姓名録(中):羽田野敬雄(国学者・平田門人・羽田八幡宮司)が書写したものであろう。
同じく、本資料は豊橋市立図書館→羽田八幡宮文庫デジタル版→歴史のページからDL可能である。
 平田鐵胤主授業門人姓名録(中)2:部分図
元治2年(4月改元慶応)の項に10月23日美濃國苗木藩青山直道(佐次郎)20歳の名がある。
慶応4年(1868) 3月13日、新政府から神道が神祇官に専属する旨の布告。【太政官布告 慶応四年三月十三日】
3月17日、神祇局から社僧禁止の布令が全国の神社へ達。【神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応四年三月十七日】
3月28日、神祇局からいわゆる「神仏判然の御沙汰」と称する布告。【神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日】
4月10日、政府は、排仏の行き過ぎを戒める布告。【太政官布告 慶応四年四月十日】
4月23日、青山直道、藩主友禄に随行して出京する。
閠4月4日、太政官から別当、社僧の還俗を促す布達。【太政官達 慶応四年閏四月四日】
閠4月19日、太政官から神葬相改可などの布令。【神祇事務局ヨリ諸国神職ヘ達 慶応四年閏四月十九日】
            →【】内の布告・布達類は「太政官布告・神祇官事務局達・太政官達」にあり。
5月29日、蟠龍寺十一世祖恩が死去する。
5月、青山景通が徴士権判事に任命。
6月、遠山友禄が朝廷の命により信州善光寺へ出兵。
7月、家老千葉権右衛門に永蟄居を申し付け。
   苗木城守護神竜王権現を高森神社と改号、本地大日如来像撤去。
7月24日、青山直道、目付役に任用。
8月16日、青山景通、神葬改宗の願い出。
       九頭大明神が石戸神社と改称。
明治2年(1869) 旧苗木藩士の中の平田門人35人を数える。
  苗木藩に於ける平田派国学
2月、遠山友禄、職制の大改革を実施、執政などを置く。
同月、遠山友禄が版籍を奉還。
4月24日、遠山友禄が飛騨騒動により保護を求めてきた高山県知事梅村速水を京都へ護送する。
6月、今井七郎左衛門が東京で横死。
6月23日、遠山友禄、苗木藩知事に任命。
10月7日、遠山友禄、職制の改革、大小参事を置く。
11月2日、青山直道、苗木藩大参事に任用。
12月5日、藩校「日新館」が開校。
12月、還俗した社僧、別当職に神祇に奉仕する神職・社人としての身分を与え、その序列が定められる。

苗木藩に於ける平田派国学
嘉永5年(1852)青山景通(直道の実父)、平田銕胤の門に入る。平田派国学に徹し、銕胤の高弟となる。
慶応元年(1865)青山直道、平田国学に入門。
慶応4年(1868)維新政府が神祇官を再興、青山景通は神祇官権判事に任命される。
明治2年、青山直道が苗木藩大参事に任用、専ら復古神道を基とした祭政一致を政治理念とする。
(明治2年には旧藩士の中に平田門人は35人を数える。)
明治2年、「日新館」が開校。
 日新館内に新宮を造営、学神三神(八意思大神・忌部広成・菅原道眞)と国学四大人(荷田春滿・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤)を祭祀する。
 藩知事遠山友禄は大参事以下藩士一同を日新館に集め、国学四大人の神前で四ヶ条の誓詞を奉読。
一、開国以来の天恩を仰ぎ、復古維新の盛世を楽しみ、大いに尽忠の志を興起すべし
一、祭政惟一はわが皇国の大道なり、故に天地神祇を敬祀して、永久に怠ることなかれ
一、民は国の至宝なり、惨酷これに臨む事なく、努めて撫恤を加え、以って好世至仁の聖化に浴せしむべし
一、公平廉直を挙げ、偏執阿党をしりぞけ、上下一にして教化浴く布き、風俗を敦厚、陋習を除去するを専要となすべし
 ※以上の敬神思想、皇国思想が、神仏判然令を飛び越えて、廃仏毀釈に帰結するのは当然のことであった。
明治4年、平田派門下は領内で56人を数え、多くは藩の要職に任用された。
明治3年(1870) 蟠龍寺が事実上廃寺となる。
遠山友禄が平田派国学に入門する。
1月12日、反青山派に対する一斉弾圧。
1月25日、千葉権右衛門、千葉侑太郎、中原央、神山健之進が田畑や家財を没収される。
5月、名主の呼称を里正に改める。
7月23日、苗木藩郡市局長名をもって、家臣一同へ神葬改宗を願い出るよう示達。
7月27日、知事遠山友禄、神葬改宗を願い出る。
8月7日、苗木藩、管内の士族・卒族などのすべてが神葬に改宗する旨を願い出、その日のうちに、聴許される。
8月8日、反青山派に対する最終的処断、18人を終身流罪などに処す。
8月15日、苗木藩郡市局が廃仏の徹底を布達。
8月27日、苗木藩郡市局長名をもって、九月十日までに管内のすべてが神葬改宗をするよう村継ぎをもって布達。
8月28日、神付茶菴堂の仏像などが撤去。
8月から11月にかけて、廃仏毀釈が断行される。
9月1日までに、神土村、越原村、柏本五か村の村びと全員の神葬改宗願いが出される。
9月3日、苗木藩、管下寺院の住職全員を藩庁へ呼び出し、正式に廃寺帰俗を要求する。
9月、常楽寺11世自董還俗、安江良左衛門正常と改名。
9月、平民に苗字が許される。
9月27日、常楽寺など苗木藩管内の十五か寺が廃寺の届出をする。
9月29日、廃仏毀釈後初めての神田神社の祭りが行われ、苗木藩知事遠山友禄らが参詣する。
10月27-29日、常楽寺の仏具などが競り売りされる。
閠10月1日、常楽寺の鐘楼と梵鐘が尾張前飛保村(現愛知県江南市宮田町)深妙寺へ売却される。

青松山蟠龍寺
かっては飛騨御厩野大威徳寺末であったが、近世初頭に苗木藩菩提寺天龍山雲林寺末となり、臨済宗妙心寺派に属す、本尊は聖観音菩薩と伝える。
この寺は五加大沢の通称「横引き」から西に延びる旧道沿いの、南に面した山麓にあった。大澤村、柏本村、久須見村、下野村、宮代村、中屋村、須崎村七か村の檀那寺となる。
明治初年、12世全理が姫栗村長増寺から転住直後に、神仏分離令が布告される。
全理は村人と衝突し、寺を去っていったと云う。
かくして蟠龍寺は、藩庁からの廃寺帰俗の申し渡しを待たないで、事実上廃寺となる。
当時屋敷は1反歩ほど、田畑、山林を有し、建物は6間×13間、土蔵を有する。
本堂は飛騨高山へ売却し、位牌などは焼却、土地や什器諸道具などは地元の世話方5人に売り渡し、その代金は、15両を蟠龍寺の永代祭祀料として前記の5人に渡し、残りは旧檀家であった7か村へ分配する。
大般若経百巻の内50巻と過去帳8冊は藩役人の目を逃れて柏本の神職元安正院こと安江五郎正朝の家へ移すと云う。
明治20年ごろ、野上正伝寺(現在の八百津町和知)の先住が蟠龍寺の再興を企図、有志とともに2間×3間の小堂を建立するも、暴風のために倒壊するとも伝える。
大門先にあった名号塔、庚申塔などは、倒され放置されていたが、大正7年、再興される。

安泰山常楽寺
開基は詳らかではないが、常楽院といい、飛騨御厩野大威徳寺の末寺であったと云う。
慶長19年(1614)遠山友政、菩提寺である天龍山雲林寺(臨済宗妙心寺派)を創建、その後、領内宗派の統一を図り、常楽寺は改宗し、雲林寺末となり、安泰山常楽寺と称する。
現在の東白川村役場の位置にあったとされ、神土村と越原村一円を檀徒とする。
明治初年、苗木藩は廃仏毀釈を断行、領内の寺院に対して廃寺帰俗を命令。
明治3年9月、常楽寺11世自董は還俗、安江良左衛門正常と改名。
当時の常楽寺は、本堂5間×7間、庫裡5間×6間、2間四方の地蔵堂及び鐘楼、鎮守天神とを有し、寺領は田4反歩、畑2反歩ほどを有すると云う。
本堂は小学校校舎として転用され、明治24年まで存続、庫裡は近在の者に百五十両で売却、製糸工場として移転改築されると伝える。位牌類・仏具は寺の境内で焼却、もしくは売却、梵鐘及び鐘楼は百両余りで尾張国前飛保村無量山深妙寺売却と云う。
明治4年(1871) 平田門人は領内村役人を含めて56人を数える。

5月、明治新政府は神社の国家護持を位置づけ、社格を定めた。
同月、苗木藩は管内を6区に分け、各区に一社ずつの郷社を定めた。神田神社が郷社となった。
6月14日、廃藩置県。
7月14日、廃藩のため、遠山友禄知事辞職。
7月14日、15日、16日の盆休日を廃止、同月1日、2日、3日を御霊祭りの休日とする。
9月、神職・社人を廃し、祠官・祠掌が任命される。
10月、村社が決定された。
11月22日、美濃国諸県が廃止、岐阜県設置。
明治5年(1872) 修験道の流布が禁止。 【太政官第273号(布) 明治五年九月十五日
明治12年(1879) 2月、青山直道、岐阜県大野・池田郡(現揖斐郡)初代郡長に任命。
9月6日、常楽寺十一世自董(安江良左右衛門)が死去。
明治13年(1880) 平田銕胤が死去。(81歳)
明治14年(1881) 1月、青山直道、岐阜県大野・池田郡(現揖斐郡)郡長を退官。
明治18年(1885) 修験道の再興が許される。
明治20年頃 蟠龍寺の再興が企図されるも頓挫。
明治24年(1897) 常楽寺建物解体。
明治27年(1894) 4月4日、遠山友禄が死去。(76歳)
常楽寺鐘楼を買い取った深妙寺が前飛保から宮田(現江南市宮田町)へ移る。
大正7年(1918) 下野銅山監督安川憲の発願で蟠龍寺の石造物が再建。
昭和10年(1935) 8月1日、「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」が再建、供養祭が営まれる。
昭和23年(1948) 深妙寺の梵鐘が新しく鋳造される。
昭和51年(1976) 6月1日、「石戸神社殿」「蟠龍寺過去帳」が東白川村有形文化財に指定。
      「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」「蟠龍寺跡」が東白川村史跡に指定。
参考: 「東白川村村外に流出し現存する仏教遺物」は以下が知られる。
◇常楽寺鐘楼及び梵鐘
◇茶菴堂:西国三十三所観世音菩薩立像(33躯)
◇石造六地蔵尊(6躯)
◇岩倉千躰堂木造千躰地蔵尊像
◇常楽寺誕生仏
◇常楽寺帝釈天十徳善神八将神図
◇三十三体仏像(33躯)
◇四つ割の南無阿弥陀仏碑
 →詳細は「東白川村村外に流出し現存する仏教遺物」 を参照


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【2】恵那郡福岡村植苗木における神仏分離(廃仏毀釈)

サイト:「消えた中世の城下町・植苗木」 に優れた論考がある。
その中から明治の廃仏毀釈の関係する部分の要約である。

岐阜県中津川市福岡植苗木の城ケ根山の山麓に、広恵寺城があった。
 植苗木の城ケ根山頂に砦が築かれ、山麓には城主館や武家屋敷や広恵寺・片岡寺があった。
 現在、城ケ根山の山麓には、観音堂一宇、石積、礎石、古井戸、庭池、土塁や堀の跡の他に、多くの宝篋印塔と五輪塔が残る。
石塔の一部は附近に散乱しているようである。
※広恵寺城の築城は遠山景利、広恵寺城を苗木高森に遷したのは遠山昌利と云う。
○広恵寺:
観応元年(1350)、夢窓国師(多治見虎渓山開山)が諸国行脚の途中、広恵寺山麓に至り、この地が唐の広恵山に似ている故に、霊場として、弟子枯木紹栄禅師に開山させ、観音像を祀る。「智源山広恵寺」と号する。
江戸期、後継住職が絶えて廃寺となり、観音堂のみ残される。
弘化4年(1847)書写「福岡村暦止禄」では、元禄8年(1695)、揚源院(第4代友春母堂)によって観音堂が再建されたとある。
 <※大般若経箱には、応永10年(1403年)の年紀があると云う。>
明治3年、苗木藩の廃仏毀釈で観音堂は取り壊し。本尊観音菩薩は付知村の寺に預けると云うも不詳。
明治中期、地元の有志により観音堂は旧地に再興、さらに昭和60年、老朽のため改築。
○片岡(へんこう)寺:
慶安3年(1651)、寿昌院殿(苗木藩第三代遠山友貞の母堂)七回忌のため、一秀和尚(苗木雲林寺)によって創建。
家老棚橋八兵衛も、廃広恵寺の代院として、再興のため尽力する。
なお「崇福山片岡寺」は、福岡の二字を分け山寺号としたと云う。苗木雲林寺末寺。
明治3年、苗木藩の廃仏毀釈で廃寺、第11世は還俗し片岡と改名、開山周岳和尚像は片岡家で供養と云う。
現在、片岡寺跡周辺には、南無阿弥陀佛名号塔、三十三観音石像、歴代住職の墓碑などがあり、三界萬霊塔の建てられているところが山門の跡である。庫裡は間口八間、奥行十五間の建物であったと伝える。
また、片岡寺跡の周囲には、中世の広恵寺城武士館の面影をとどめた堀や土塁の一部が残存する。
おそらく中世の武家屋敷の跡に片岡寺が建立されたものと思われる。

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【3】恵那郡坂下村における神仏分離(廃仏毀釈)

サイト:ふるさと坂下 より
 ※本サイトは図書「ふるさと坂下」鎌田宮雄、昭和59年 のWeb版である。
 ※以下は標記サイトの廃仏毀釈関係からの要約である。

1)清簡坊 (握)

苗木に通ずる旧道の峠がある。ここには、塞の神(悪霊の進入を防ぐ境界神)石塔、馬頭観音(馬の安全祈願)、十一面観音(無病息災)、念仏供養の観音菩薩、地蔵菩薩など村の入口を守護した神仏像が残る。
そのうち、地蔵菩薩は(おそらく)清簡坊と呼ばれる石像で、享保14年(1729)己酉八月吉日に当村中により建立される。
明治3年、この地蔵菩薩は苗木藩の廃仏毀釈で首を落とされる。その後、握に村人によって首(仏頭)は再興される。
昭和34年伊勢湾台風で松の大木が根こそぎ倒れたとき、落とされた清簡坊の首が偶然姿を現すと云う。
喜んだ部落の人達は早速「首」を取替え、長く御苦労であった代用品の首は、その横に置いてある。
清簡坊とは半僧坊と同じ意で、寺院建立・維持には、「費用がかかりすぎて出来ないので、その代用を兼ねて仏の供養をしていただくためで、坊さんの半分位いだから、半僧坊とか清簡坊とか勝手な名前がつけられています。」

2)首なし地蔵(握)

握に、首なし地蔵がある。地蔵尊は、安永3年(1774)甲午年三月に握平中の人達の手で建立。
首なし地蔵というのは、苗木藩の廃仏毀釈で打ち落とされ、放置されているうちに、そう呼ばれるようになったものと推測される。
但し、昭和44年首は復元されたようです。

3)庚申尊(島平二)

稲荷山(島平二)に、金龍山三井寺(※)があり、そのすぐ下に、小宇がある。堂内には、庚申尊、千手観音、それにかっては不動明王(盗難)が祀られる。
庚申尊とは、猿田彦大神とか青面金剛菩薩とか云われ、道祖神とも結びつき、各地の路傍に多く祀られる。
寛永十発酉年(1633)、庚申尊を合郷の元床屋邸内に祀り、庚申講が出来る。
享保十七年壬子年(1732)、百年祭、天保三壬辰年(1832)、二百年祭が行われる。
明治3年、苗木藩の廃仏毀釈で焼却処分となるが、有志一同相談の結果、木曽田立村の奥垣戸に、密かに預けておくことに決する。
10年ほど後、木曽方面の信者の要請により、同村いもじ屋の脇に仮の堂を設けて出開帳を行ない、僅かながらも信仰の灯を守る。
廃仏の狂気も治まり、再び坂下へ戻る事になり、合郷の山手の上蔵に安置して細々と信仰は続く。
昭和になってから、三百年祭開催を機会に堂宇建立の話が持ち上り、庚申堂が建立される。
昭和6年、盛大に三百年祭が執行される。
 ※金龍山三井寺は不詳。(現存あるいは再興されていると思われる。)
木造役行者倚像が知られる。この像は金竜山三井寺(真言密教系祈祷寺とされる)の持仏と云い、廃仏毀釈で良雪山法界寺に預けられる。
明治17年釈迦如来座像(※※)とともに、再々興された蔵田寺に持ち込まれる。
木造役行者倚像は桧の寄木造り、南北朝期末から室町初頭に作製されたものと推定される。
 ※※木造釈迦如来座像
廃長昌寺の本尊、明治3年廃仏毀釈で長昌寺は廃寺、下野法界寺に預けられる。明治17年蔵田寺再々興に際し、法界寺より町組、合郷組区長が連名で借入れて蔵田寺に安置し、蔵田寺の持仏として護持される。桧寄木造り、南北朝期末から室町初期に作製と推定。
そのほか蔵田寺に廃長昌寺十王堂安置の維摩王像(十王像の一体、万治年間修復墨書きあり)がある。


4)高峰観音(中外)

明治3年の苗木藩廃仏毀釈までは、高峰山頂からやや苗木よりの所に祠があり、観音像が安置されていた。
坂下からも苗木からもよくお参りがあったと伝える。
明治3年、焼き払いを命ぜられ、祠は焼却される。しかし祠内の観音像は左肩の一部分が焦げただけで残ると云う。そこで、畚に入れて担ぎ、木曽川へ土左衛門(水没)にしようということになる。
高峰より担いでいく途中に、付知中谷の熊谷某に出会う。事情を聞いた熊谷某はこの観音像を所望する。
熊谷某は付知の自宅に戻り、近所の人に披露すると、お寺に寄付という助言を受ける。
そこで、この観音像は付知の宗敦寺に遷され、観音堂を建立して護持する。
※観音像は、付知町宗敦寺の英霊殿に現存、年二回の大祭が行われる。
観音像は木造坐像、高さは約50cm、鑑定によると鎌倉期の作で、聖観音ではなくて、るようですが、しかし実際は大日如来のようです。
明治36年、観音の復興の運びとなり、石仏33体(西国33番・乙坂の早川丈右衛門氏彫刻)を人馬の脊で山頂へ運び、小さな祠を建て再興する。
※今は、お堂も潰れかけ、床は落ちているような状態のようです。なお、山頂に行く道の取り付けには山下の観音もあるようです。

5)お薬師様(本郷)・・寄木漆泊造薬師如来座像

上野の本郷に薬王山東光寺があった。本尊は鎌倉期のものとされ、創建はその頃と考えられるも、いつしか衰微し、庵室あるいは堂程度のものが維持されてきた。
明治3年、苗木藩より、堂の焼払い又は取り取壊しを命ぜられる
本堂は打ち毀されるも本尊薬師如来は村人の手で秘匿される。
※打ち毀しの触れにより、「こっそりと組頭が幾晩も幾晩も集まりました。」
「幾晩話し合っても同じことの繰り返しでした。」が、結論は以下の決死の「秘密」であった。
「1.焼き払いはとても出来ない。2.打ちこわしも恐ろしくて出来ない。
思案の結果、長百姓林宗助翁から、絶対の秘密が持ち出されました。それは、団結がなくては出来ないことで、一人でも漏らす者がいれば守り通せないことです。そこで、代表者の手によって御本尊はひそかにどこかへ隠されました。山の中かもしれないし、どこかの家の中かもわかりません。お互い口が硬く守り続けられました。そして幾年月が過ぎると、どこに隠されていたか、それは絶対の秘密であってわかりません。」

数年後、薬師堂建立の声が盛んになり、苦肉の策として神社を建て、その中へお薬師様を祀ろうと考え出し、受持ち神宮苗木村水野忠鼎へ、薬師神社建立の申請をするも、不許可。
明治9年、再度嘆願したところ、薬師菩薩は仏だから不可、常陸国鹿嶋郡磯浜村鎮座少彦名神社分社なら可との沙汰がある。(少彦名は薬の神のようです。)
明治10年に建立を申請、認可。
明治11年旧8月15日に祭典の運びとなる。本堂打ち毀しの時に、秘匿した本尊を神社の屋根裏に安置すると伝える。
明治41年、社の横に小宇を建て、天井に草模様の絵を四十八枚張り、名古屋から台座を購入し、薬師如来像を安置。
大正7年に本堂再興に着工。上野全戸総出、全戸寄付、総工費一万余円、区有林鹿峰と松山の一部処分の事業と云う。
世話人:林 松太郎、西尾 金十、田口 伊六、古田 銀弥、林  治介、古田 常吉
大工:遠藤富三郎(飛騨)及び弟子二名
大正13年本堂落慶、総欅造。
なお まわりには、大洗磯前神社、南無弘法大師堂、それに社務所などがあるようです。

6)阿弥陀様(西方寺)

西方寺の入口の曲り角の岩石に、石造阿弥陀の像がある。
享保年間(1730頃)、西方寺一帯の親玉・可知一家(現在中津川市十一屋旅館)が建立したものといわれる。
明治3年、廃仏毀釈の時、この仏像を守るため、可知亀次郎(現中津川市十一屋旅館、当時は西方寺の幸屋)が仏像の前に石垣を築かせて隠匿し、破壊を免れると云う。露見すれば、打ち首という時代であった。
明治15、16年頃、石垣をとりはずし、明治27年に可知亀次郎は供養塔をニ基奉納する。
明治末期、中央本線工事のとき、鉄路は西方寺の阿弥陀の上を通す計画であったが、可知九郎介は断固それを阻止する。
その結果、中央本線は、阿弥陀の横を通り、ものすごい盛土をし、川上川に鉄橋をかけ、明治41年野尻まで開通という。
この工事で可知九郎介(幸屋)は移転することになり、現在の十一屋旅館を買収する。
※西方寺:詳細不詳。
浄土宗の古寺であった。元亀3年(1572)武田勝頼の東濃侵攻で灰燼に帰すと云う。

7)古庵(中之垣戸)

明治維新まで、中之垣戸の一帯を和合と呼び、和合の中に、寺山という小字がある。(家号古庵附近)その寺山の一角に小さな草茸の家があ、それが古庵であった。
中之垣戸公会堂の前に小盛土があり、そこに墓標がある。墓標は慶安2年(1649)8月8日の年紀と園明庵主と記され、古庵開僧の墓であると伝える。
明治3年、苗木藩の廃仏毀釈で、この古庵も廃寺、最後の住職である尼は身を寄せるところがなく、長昌寺住職広田文五郎(現中津川市)の世話になり一生を終えると云う。
現在、古庵の近くには、念三夜塔、庚申像(正徳5年(1715)建立)、三申像がある。(この三つの石像の前後には三つずつ穴が堀ってあり、これは、柱を建てた跡で昔は簡単な覆屋があった。
また、道をへだてた反対側には妙覚堂があり、本尊は鬼子母神であったが、廃仏毀釈によって広田観音堂(新町河十前)に遷されたと伝える。

9)善光寺様(小野沢)

小野沢の公会堂の下、昔の旧道の横に善光寺を始め、弘法大師、南無阿弥陀仏、西東巡礼百番供養塔等が残る。
小野沢の善光寺は、安永4年(1775)乙未4月吉日勧請と伝える。
明治3年の廃仏毀釈で、打ち毀しの役人は善光寺像を脊おってどこかへ持っていったと云う。
善光寺仏は小野沢谷の川原に打ち捨てられたようで、善光寺仏の呼ぶ声が知らせたと伝えられる。
(当然善応寺仏は元に戻され、供養される。)
廃仏毀釈にも関わらず、今でも、小野沢には念仏講が残っており、今でも祭が行われているようです。

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【4】恵那郡蛭川村における神仏分離(廃仏毀釈)

「神々の明治維新」岩波新書 より

村は戸数353戸、石高867石、明治維新前大部分は臨済宗宝林寺檀徒であった。
牛頭天王、白山妙理大権現、蔵王権現、八幡大権現、八王子天王の五社のほか、稲荷明神・秋葉権現・荒神・天神・金毘羅権現・大神宮・津島明神・弁天・薬師・庚申などの小祠がいたるところにあった。
明治2年の神仏分離で祭神は国家神道・復古神道風に改竄され、社名が変更される。
 牛頭天王→素戔嗚命・安弘見神社(地名・村氏神)、白山妙理大権現→不明・今村神社(現在は白山神社)、
 蔵王権現→安閑天王・内理神社、八幡大権現→誉田別命・田原神社、八王子天王→国狭槌尊・奥渡神社
明治3年、宝林寺処分(廃寺)、住職は安弘見神社神官になる条件で還俗、庫裏・厠が住居として残され、本堂以下は破却される。
寺領処分金30両で神鏡6個を購入、神体を取り替える。また小祠・石像・石碑も悉く棄却される。
尤も後日仏像などの一部は探し出され再び祀られる。
この廃仏の先頭にたったのは奥平正道(平田門人・後初代村長・郡会議員)であった。
※神国教:本殿は祖霊殿と呼ばれ、そこには家々の祖霊が棚状に並べられ、神殿一杯に並べられる。祖霊信仰をベースにする意味で、神葬祭を受け継ぐものといえる。

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東白川村村外に流出し現存する仏教遺物

◇常楽寺鐘楼及び梵鐘

 村雲蔵多の「明治三年見聞録」:
「十月廿七日より廿九日迄糶(せり)いたし 仏具不用之者賣佛候 方丈之方一圓代金百三十両ニて神戸彌介買取 釣鐘堂ともども代金百餘りニて笠松辺之坊主来たり買取候 此堂桜の丸柱にて誠よろしき堂なり」とある。

売渡申一札の事
一 釣鐘一口 長五尺五寸 差口二尺五寸七分 但し鐘楼堂付き
 右は、去る弘化四未年御願い済みの上、鋳直し候ところ、今般本寺雲林寺始め御廃寺につき、両村檀中の者一統熟談の上、
 貴寺へ売り渡し申し、代金残らず受け取り申すところ相違これ無く候。
 もちろん、当御藩は申すに及ばず、檀中の者一人たりとも、かれこれ申すまじく候。後日のため売り払い申す一札、よって件の如し。
  明治三庚午年閏十月朔日
   美濃加茂郡神土村常楽寺帰農 安江良左衛門
    同郡 越原村世話人惣代 安江増兵衛   同郡 同村組頭惣代 今井藤松    同郡 神土村世話人惣代 伊藤繁三郎
    同郡 同村組頭惣代 早瀬清七       同郡 越原村里正  安江猶一郎   同郡 神土村里正  安江新八郎
  世話人中仙道今渡村 常介殿
  尾張前飛保村 無量山 深妙寺 殿

鐘楼堂
真宗大谷派無量山深妙寺(愛知県江南市宮田町本郷・・明治27年前飛保村より移転)に現存する。
木造、瓦葺、桜丸柱4本建、格天井、一辺285cm。
建立時期については、梵鐘の鋳直しによる鐘掛供養が弘化4年に行われ(鐘銘)、それ以前の建立と推定される。
<参考:常楽寺は文化元年(1804)火災で焼失、翌文化2年から3年にかけて方丈と庫裡が再建、同5年常楽寺落慶>

梵鐘
今次大戦で供出され、現存しない。(現梵鐘は昭和23年再鋳)

常楽寺の梵鐘の銘文(無量山深妙寺の過去帳から)
檀信如意
 維時広(弘)化四丁未歳春 三月吉辰
        雲林十六葉松静山謹誌焉
            常楽十一世自董代
 神土村庄屋     世話人神土
   安江權八平正喬     神戸弥左ヱ門正辰
 越原村庄屋  服田佐七良正二
   越原雄右ヱ門平正憑
勸化世話人 神土 伊藤爲平盛豊 榊間次兵ヱ森由
      越原 安江弥吉正男 桂川愛助康治
    以下
 寄附人名
   勢州桑名住 広瀬与左ヱ門尉藤原政次作

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◇茶菴堂:西国三十三所観世音菩薩立像(33躯)

濃州加茂郡神土村神付茶菴堂安置仏と推定(茶菴堂安置とする資料には乏しいが、茶菴堂安置と推定される。)
現所在地:
  臨済宗妙心寺派吉祥山安楽(禅)寺:岐阜県加茂郡坂祝町大針
形式形状:木造金箔、像高約80cm、座像約40cm
銘文及び年代:宝暦9年(1759)(安楽寺案内書では、33体のうちの1体にのみに在銘と云う。)
 ※村雲蔵多「明治三年見聞録」では、「寛延元年(1748)西国三十三所を迎え安置する也」とある。
坂祝安楽寺への移座については詳らかではない。
 村雲蔵多「明治三年見聞録」:「當村にても壱組に付壱ヶ処宛は観音地蔵弘法等を迎へ、堂を造り、むかしより納め来り候處なれども、今君(藩主)より早々取りはらへと被申候事ゆへ、同月(明治三年八月)廿七日頃より、一統取除にかゝり候。同神付組の儀も茶菴堂に納め有之候地蔵はじめ、三十三番の観音薬師弘法大師の像等有之候処、取除候得共、誰預るといふ人なくして、三躰づゝ割合、組中へ預り申し候」
 運び込まれた三十三所観世音菩薩像は、一時寺屋敷地内に保管されるも、明治3年暮、観音堂(本堂東側)が建築され、安置される。
 
※茶菴堂
建立時期は不明。
村雲蔵多「明治三年見聞録」には、以下の記録がある。
○ 貞享二乙丑年(1685)七月吉日再建…(世話人清兵衛、茂兵衛)
○ 寳永元甲申年(1704)霜月吉日…(補修)
○ 正徳四甲午年(1714)暮秋吉祥日…(補修、大工蜂屋藤原朝臣、春見喜七高重、春見喜兵衛高光)
○ 享保十九甲寅年(1734)三月十二日…(補修、大工宮代村藤原朝臣、熊崎半兵衛正勝)
○ 延享元甲子年(1744)霜月廿五日…(補修、世話人榊間惣吉)
○ 寛延元戌辰年(1748)仲冬廿四日…(補修、大工神土村早瀬善四郎景由、同兵次郎、手伝い小池作次郎、新田金次郎)
この年、庄屋安江八十助、組頭榊間惣吉、願主桂川吉兵衛らの手によって西国三十三所の観世音菩薩を迎え安置。
○ 文政十二己丑年(1829)三月吉日…(補修、大工神土村今井龜平従延、安江弥蔵正明、安江増平兼車、従延弟子桂川宇之介、榊間弁蔵義高、柾木挽安江栄蔵、組頭今井栄八、五人組桂川伝八、世話人桂川丈介)

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◇石造六地蔵尊(6躯)

廃仏毀釈当時の所在地:不明
現所在地:岐阜県羽島郡笠松町中野・地蔵堂
形式形状:総高75cm(像高50cm、台座25cm(蓮華高8cm、棹高17cm))
製作年代 : 天保6年(1835)
 昭和62年、地蔵堂が改築、その工事のため、地蔵尊は一時地元の浄土真宗称名寺の経堂に仮安置される。そのとき、中野の郷土史家元教員松原八重子が、地蔵尊の台座・棹に刻まれた銘文を調査、以下のことを知見する。
刻まれた人名の全てについて中野の人に心当たりがないこと、東白川村に多い「安江」の姓が多いこと、「越原」常楽」などの文字がある。
かくして、その後銘文などの調査で、この六地蔵尊は東白川村に関わることがはっきりする。しかし、この移転の時期、経緯などは全く不詳。

六地蔵尊の台座の棹に刻まれた銘文
 

(1) 願主
  村雲山三郎
       盛傭
  現常樂村仲
  十世祖來代
  安江權八妻
  服田佐七母
  榊間治兵衞
       森由
(2) 安江十三郎
  嶋倉 伴治
  安江 正平妻
  田口 源十
  嶋倉 初平
  大坪忠左ヱ門
  大坪重兵衞
(3) 神戸 弥助
      正辰
      妻
(4) 越原
  五斗 正英
      信男
  安江 良八
      政珎
  安江善兵衞
  松岡吉十郎
  越原雄右ヱ門
       正珎
(5) 安江 惣助
  越原
  安江 爲八
  桂川仲右ヱ門
  安江 源吉
  桂川由右ヱ門
  安江惣三良
(6) 松岡平左ヱ門
  越原
  安江 岩藏
  安江 十助
  安江重左ヱ門
  安江 爲助

   天保六乙未年
   十一月日

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◇岩倉千躰堂木造千躰地蔵尊像

濃州加茂郡越原村岩倉千躰堂安置:(東白川村越原曲坂(まがりさか)・・現在曲坂集会所の敷地)
現所在地:
  曹洞宗万灯山法禅寺 薬申閣:岐阜県恵那郡加子母村
数  量:
 1000体のうちの500体
銘  文:
   仏像の裏面に寄進者の名があることは確認されているが、現在は固定安置されているので調査することができない。
年  代:
  寛政10年(1798)及び文化11年(1814)
由  来:
越原村双竹亭崔二『千躰地蔵尊施助勧請文』(名古屋女子大学蔵)では
慶長年中、双竹亭崔二の祖先が千躰堂に千躰地蔵尊を安置。千躰堂棟札では、千躰堂は延享3年(1764)に再建されるも、仏像が盗難に遭い、堂も未手入となり、堂は崩壊する。その後村人は跡地に小宇を建て、石造地蔵尊を安置する。
寛政10年(1798)、越原村弥吉が広く寄進を求めて漸く500体だけを再興。
文化11年(1814)、双竹亭崔二は再び寄進を求め、残る500体を再興。
 (このときの地蔵尊1体の値段は、銀1匁5分と記録される。)
明治3年、廃仏毀釈で千躰地蔵尊を処分、その処分については、白川に流すことに衆議が一致する。
処分当日、村びとが岩倉橋から1体ずつ川に流している途中に、加子母村万賀島屋宗十郎が通りかかり、宗十郎はまだ残されている500体を譲り受け、自宅に安置する。
 五百体の地蔵尊は、その後法禅寺に移され、加子母村の人たちの寄進により更に500体が再興(1000体に再興)される。
昭和32年、加子母村上区藤山の薬申閣を法禅寺境内に移し、そこに千躰地蔵尊が安置される。
 
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◇常楽寺誕生仏

濃州加茂郡神土村平臨済宗妙心寺派安泰山常楽寺旧蔵
現所在地:伊藤泰蔵(元旭光山大蔵寺);岐阜県加茂郡白川町上佐見
形式形状:金銅製、高さ16cm、(花御堂、盥など潅仏具一式を含む)
潅仏具収納木箱の墨書;
  弘化五年戊申三月出来 代金 壹両貳分
          當山十一世自董代
   誕生仏及び潅仏具一式
     明治五年申三月
       神土村元常楽寺之鈴ユズリウケ申候也
        当山十三世惠欽代
 この誕生仏は、明治3年廃物毀釈により常楽寺の仏像、仏具が処分された折、大蔵寺へ売却されたものであるが、
木箱の裏書きによれば、鈴だけは売却から2年後に大蔵寺に譲り渡されたようである。

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◇常楽寺帝釈天十徳善神八将神図

濃州加茂郡神土村平臨済宗妙心寺派安泰山常楽寺旧蔵
現所在地:巖谷山阿弥陀寺:岐阜県益田郡下呂町御厩野字門垣内
形式形状:掛け軸 (絹本)、155×34cm
裏書: 一切祈祷之本尊 帝釈天 十徳善神
                 八将神
     宝暦三年癸酉天
       神土村常楽寺慈門記    施主 伊藤八十吉大明神   此代金 二歩

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◇三十三体仏像(33躯)

廃仏毀釈当時の所在地:不詳
現所在地:牧戸集会場:岐阜県恵那郡加子母村
形式形状:木造 一部金箔張り 像高 約25cm
 この三十三体の仏像については、資料不足で詳らかにできない部分が多ある。しかし、銘文の中に東白川村に係りのある文言が多く見られるから、東白川村に関連する仏像と推定される。
 神士加舎尾観音堂、中谷観音堂、神付観音堂、越原陰地観音堂、常楽寺などが考えられる。
 ※四国88所が33所で切れている理由は不明。
三十三体仏像の銘文等
本 尊 等 銘  文
    阿州坂東村  
第 1番 阿洲霊山寺 本尊釈迦如来 霊山寺 一岳了居士 為菩提
第 2番 〃 極楽寺 本尊阿弥陀如来 極楽寺 木室金源大姉 為菩提
第 3番 〃 金泉寺 本尊釈迦如来 金泉寺 超天宗居士 為菩提
第 4番 〃 大日寺 本尊大日如来 大日寺 松岳春貞大姉 為菩提
第 5番 〃 地蔵寺 本尊地蔵菩薩 地蔵寺 俗名宮代村徳左ヱ門 為菩提
第 6番 〃 安楽寺 本尊薬師如来 安楽寺 大抱自椿大姉 為菩提
第 7番 〃 十楽寺 本尊阿弥陀如来 十楽寺 寂室自照信女 為菩提
第 8番 〃 熊谷寺 本尊千手観世音菩薩 熊谷寺 梧岳了相居士 為菩提
第 9番 〃 法輪寺 本尊釈迦如来 法輪寺 大沢 俗名磯右ヱ門 為菩提
第10番 〃 切幡寺 本尊千手観世音菩薩 切幡寺 □山妙雲信女 為菩提
第11番 〃 藤井寺 本尊薬師如来 藤井寺 柏本村         
第12番 〃 焼山寺 本尊虚空蔵菩薩 焼山寺 中谷 庄屋瑞山春的信士  梅屋理常信女
第13番 〃 大日寺 本尊十一面観世菩薩 阿州一ノ宮寺 花蔵寺    桃林了花信士 為菩提
第14番 〃 常楽寺 本尊弥勒菩薩 常楽寺 名倉村 俗名金左ヱ門 為菩提
第15番 〃 国分寺 本尊薬師如来 国分寺 中屋村 覚元叟良夢信士     法室妙性信女 為菩提
第16番 〃 觀音寺 本尊千手観世音菩薩 觀音寺 (銘文なし)
第17番 〃 井戸寺 本尊七仏薬師如来 井戸寺 加子母村 茂八良 平 伊八良 源蔵 治兵ヱ
第18番 〃 恩山寺 本尊薬師如来 恩山寺 越原村 施主 惣市
第19番 〃 立江寺 本尊延命地蔵菩薩 立江寺 施主 平 山本清五良
第20番 〃 鶴林寺 本尊地蔵菩薩 鶴林寺 (銘文なし)
第21番 〃 太龍寺 本尊虚空蔵菩薩 太龍寺 (銘文なし)
第22番 〃 平等寺 本尊薬師如来 平等寺 施主 中通組
第23番 〃 薬王寺 本尊薬師如来 薬王寺 施主 岐阜 南谷ひで子    施主 呉服町 久松ひさ子
第24番 土洲最御崎寺 本尊虚空蔵菩薩 東 寺 施主 小林 平九兵衞
第25番 〃 津照寺 本尊楫取延命地蔵菩薩 土洲宝珠山 津照寺(銘文なし)
第26番 〃 金剛頂寺 本尊薬師如来 西 寺 施主 中ノ谷 彦七郎
第27番 〃 神峰寺 本尊十一面観世音菩薩 神峰寺 施主 大口組
第28番 〃 大日寺 本尊大日如来 施主 中通 善兵ヱ 右治郎      亮兵ヱ 左吉
第29番 〃 国分寺 本尊千手観世音菩薩 国分寺 施主 親田 金治郎
第30番 〃 善薬寺 本尊阿弥陀如来 神宮寺 施主 平 庄屋内 くに
第31番 〃 竹林寺 本尊文殊菩薩 臺山寺 施主 □七良 市助 □吉  彦吉 平八郎
第32番 〃 禅師峰寺 本尊十一面観世音菩薩 禅師峰寺 平 酒屋内 施主 長冷
第33番 〃 雪蹊寺 本尊薬師如来 高福寺 施主 こざさ 庄助

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◇四つ割の南無阿弥陀仏碑
 この塔は、天保6年(1835)7月、常楽寺山門わきに建立、施主は神戸弥助政辰、伊藤爲平盛豊、服田喜三太正命。
神戸正弥氏所蔵の文書:
「天保七丙申年(一八三六)二月出来
   南無阿弥陀佛
     金三両壱分弐朱弐匁五分
         酒屋四人肴代
     金四両三分三匁
         石屋伝蔵上日百六人ちん銀
     金壱分壱朱  苗木雲林寺様御礼ニ遣候
     金壱分    常楽寺御礼
     金壱分    常楽寺へ地料上ル
      弐匁五分  同寺風呂有御礼
      三朱ト三匁□分
            石屋爲蔵三人等ちん銀共
       〆金九両壱分三匁三分五厘入用

 大仏の石は釜淵前堰の上の川にこれあり候 親田日雇神戸材木川狩の節代人忠左衛門と申す者棟梁にて引き申し候 材木十五六本敷材といたし候 新巣より仕出 候栂角なり 下屋定右衛門出火にて家を普請いたし候時右材木へいたし申し候」
 ※石工は信州高遠伊藤傳蔵であった。

 明治3年(1870)、苗木藩役人から「名号塔を壊せ」という命令が出、急拠、高遠村へ飛脚が飛ぶ。
この塔の作者である石工傳蔵が駆けつけ、「粉々に砕け」という藩命に傳蔵は、「わたしは苗木藩の者ではない。高遠の石工だ。仏の顔を踏みにじるようなことはできない」といって、鏨を打ち込み、節理に従って4個に割る。
割られた4個の石塊は、近くの「おくら(神戸正弥宅)」の畑の積石や裏の池の脇石などとして名号の文字が見えないように伏せ込まれ、また、台石は現在の役場前広場の東南隅の角石とされる。

こうして、この破壊は、いつしか人々の記憶から遠ざかっていくことになる。

昭和という時代に入り、激動の予感と、生活不安にかられていたころ、村内に悪疫が流行する。
これは「名号塔埋没のたたり」という噂が流れる事態になる。
昭和10年、天祐館医師安江浩平、消防組の指導者を中心とした平地区在住の壮年14人が世話人となり、四散した石塊を集め、一週間に及ぶ作業の末、現在地に名号塔を再建する。
同年8月1日、伊深正眼寺住僧や鹿塩長昌寺の矢田祐保和尚など5人の僧侶を導師として再興供養が営まれる。
 


2006年以前作成:2014/09/03更新:ホームページ日本の塔婆