熱  田  神  宮  寺

熱田神宮寺

熱田神宮寺、熱田皇太神宮:木津山神宮寺大薬師

2007/06/09追加:
「熱田神宮寺の修正会と『尾張国内神名帳』の奉唱」(「国内神名帳の研究 論考編」三橋健、おうふう、1999 所収) より
 ※熱田神宮寺の興亡が余すところなく、纏められている。

 熱田神宮寺は明治の神仏分離で取壊される。
◇熱田神宮寺の草創
 熱田神宮寺の歴史のうち、創建は不詳なれど、宝暦2年(1752)「尾張府志」では聖武天皇の時代に創建とする。また
天保14年(1843)「尾張志」では仁明天皇の勅願創建とす。宝永元年(1704)「熱田神社問答雑録」も同一見解を採る。
天保12(1841)「尾張名所圖會」では仁明天皇の勅願創建とし、伝教・弘法両師の開基とする。
伝教・弘法との関係は元禄12年(1699)「熱田宮旧記」「神宮寺縁起」「尾張志」にも見える。
しかし、以上は何れも確認は不能、確実な文献資料は6通の「承和以下官符等」(熱田神宮文書)とされる。
◎太政官符 尾張国司
応置、神宮寺別当・・御船宿禰木津山を補任、経論一万五千九百巻の写経、仏菩薩四天王像1028体の造立、神体5躯造立及び神宮寺一区造建、如法院一処、塔3基、別院3処の造建を命ず。
                                  承和14年(847)」
以上を含む、昌泰3年(900)の太政官符までの6通の公文書がある。(以上が熱田神宮寺の初出であるとされる。)
その他中世以前の文書として、「延喜式」巻3に金剛般若経転読、「本朝文粹」寛弘元年(1004)大般若経供養の記事がある。
◇中世の熱田神宮寺
 神宮寺薬師堂・薬師如来は大いに繁栄した様が伝えられる。(文永7年(1270)「熱田神宮踏歌祭頌文」など)
元応2年(1320)詳細不詳ながら、神宮寺造営と記録される。
永享元年(1429)神宮寺上棟記事、永享7年(1435)塔御柱立有・・・記事、応仁3年(1496)常行堂御柱立有・・・。
中世の熱田神宮寺の景観は以下などで知られる。
・「熱田社享禄年中(1541-)之古圖」「熱田大神宮社殿書上」:
   寛文5年(1665)に貞享年中造営の準備として作成される。当然、荒廃する前の中世の景観を描く。
 熱田社享禄年中之古圖:東に五重塔、西に多宝塔があるが、3塔のうち三重塔は描かれていない。
 ※神宮寺本堂内に薬師(東)、大福田社(西)を置く。なお大福田社が現在の大幸田神社に相当する。
・「熱田社古図屏風」:木津山(亀頭山)と号する。熱田社の南、海蔵門の西南に位置する。
  中央が本堂(内部に薬師と大福田宮を安置)、東には如法院(本尊普賢)、東堂(本尊仁王)、鐘楼、御供所、三重塔(本尊弥勒)、
  五社不動堂、山王社、常行堂、五重塔(本尊五智如来)、宮谷観音堂など、西には多宝塔、西堂(本尊薬師)、大黒天神社などを配する。
・熱田神宮参詣曼荼羅
 熱田神宮参詣曼荼羅:紙本着色、享禄2年(1529)、徳川美術館蔵 、絹本着色、2曲1雙、170×145cm
上部中央は本社、廻廊の中央部に海上門があり、海上門右に五重塔、左は神宮寺で神宮寺本堂・多宝塔などが描かれる。
◇近世の熱田神宮寺
 慶長2年(1597)熱田神宮寺一帯が焼失する。
「享禄年中頃之図」、「熱田神宮寺記」では慶長年中に如法院・東堂・鐘楼・三重塔・五社不動堂・五重塔・西堂などの堂塔が廃絶と云う。
慶長11年、徳川家康の言上で、豊臣秀頼が神宮寺を造営、仏殿・大福田社・三重塔などが再興される。
しかしその後、衰退の一途を辿り、延宝(1673)・貞享(1684)の頃は僅かに本堂(薬師堂)のみが残存する状態であった。
 ※この頃の様子は下に掲載の慶安元年(1648)頃の作成の大日本五街道図屏風」で見ることができる。
元禄期に護持院僧正隆光に依って、将軍家に吹挙され、神宮寺再興の沙汰が下る。
元禄16年(1703)神宮寺落慶。堂宇を修造、不動院・愛染院を外から境内に移し(神宮寺東側)、医王院が再興(神宮寺西側)された。
不動院の傍らに不動堂、愛染院の傍らに愛染堂を建立する。
不動堂本尊は元の八剣社の本地で、不動堂退転後、長久寺に遷座、不動堂再興後、再び長久寺から不動堂に遷座。
愛染堂には愛染明王の大像と小像が安置される。大像は三重塔本尊で、同塔退転の時名古屋浅間社へ移座、愛染堂再興により、愛染堂に遷座する。小像は元本社北側の本地堂安置仏であった。
 その後、神宮寺は次第に衰微する。
宝暦12年(1762)「張州雑志」:如法院は蓬莱山と号し、熱田神宮寺座主、初め天台宗輪王寺に属するも、近世には野田密蔵院に属すると云う。権座主に円定坊・宝蔵坊・地福院があったが、今2院廃すと云う。
 江戸末期の熱田神宮寺の状態
「熱田志」:「円定坊・宝蔵坊は宝暦12年、願いによりてたゝみ、寺はなく寺跡は田畑に開墾す」
また社僧は尾張氏の庶流から補任されると云う。
 ※江戸末期の熱田神宮寺の状況は下に掲載の「尾張名所圖繪」の項を参照。
◇熱田神宮寺の神仏分離
 慶応4年(明治元年)3月、神仏判然令
「熱田大宮司千秋季福願書控」では以下のように記録される。
「先般薬師一山(熱田神宮寺)初、如法院及地福院之儀、夫々御取払に相成、住僧転住等之儀奉願候処、薬師一山儀者、公卿勅使御参向前日迄に堂舎等不残取払に相成、住僧等外寺へ転住仕候、実に以御主旨貫徹、
・・・・・如法院之儀者、・・・堂舎者其儘差置に相成候・・・・(しかし)薬師一山様、堂舎とも此節御取除に相成、住僧の儀者、外寺院へ転住候様支度奉存候
地福(院)之儀も、・・・是又取払に相成候様支度奉存候、・・・・
   (明治元年)8月4日  熱田大宮司 千秋加賀守護季福
神祇官御中」
 ※文中にある公卿・勅使参向は7月7日に行われたというので、熱田神宮寺(薬師堂)はそれまでに破壊(取払)されたと思われる。
薬師本尊初め諸仏は名古屋長久寺へ遷座すると云う。
神庫に蔵する経巻・仏具・仏書等は出して是を焼けりと云う。
 ※持福院は熱田神宮の供僧で、近世には権座主に地位にあった。当然神宮の年中行事に関与した。
木造十一面観音菩薩立像(熱田神宮寺の如法院旧蔵、藤原中期と推定)は野田密蔵院(如法院本山)に現存する。
不動院は神仏分離の処置にも拘らず、寺名を残し、明治36年北方の高蔵の地に再興が始まり大正3年に落慶、昭和20年空襲で焼失、戦後再度再興。熱田神宮修正会は明治維新で廃絶したが、高蔵不動院で再興されている。正月5日には「大薬師の鬼祭」として執行される。

2018/06/06追加:
「大日本五街道図屏風」慶安元年(1648)頃の作成、三井高遂氏蔵
 ※本屏風は「大日本五道中図屏風」とも称される。現在は「三井文庫別館」蔵である。
 ※「日本名所風俗図会 巻6」 より転載

 熱田神宮寺は、慶長11年(1606)豊臣秀頼の再興の後、衰退の一途を辿り、延宝(1673)・貞享(1684)の頃は僅かに本堂(薬師堂)のみが残存する状態であったといわれる。(上掲載)
 本屏風絵は慶安元年(1648)頃の作成と云われるので、衰退の局面に入ったころの熱田神宮寺が描かれたものであろう。
秀頼は三重塔も再興というも、本屏風絵では、多宝塔が描かれ、おそらく慶安年中には多宝塔が残っていたものと思われる。
 大日本五街道図屏風:名古屋城下・熱田宮部分図

2010/03/01修正:
尾張名所図会 巻之3より:天保12年(1842)成稿:

熱田大宮全圖として見開き3ページ(其1、2、3)に及ぶ境内図が掲載される。
この境内図には詳細に熱田大宮の多くの社が描かれ、精査するも、塔の痕跡はない。本文中にも記載はない。
 (近世末期には熱田大宮には多宝塔があったとは認められない。)

続けて「木津山神宮寺大薬師」の絵図・本文がある。
        ●熱田神宮寺:下図拡大図

・・・右大臣豊臣秀頼公再興し、・・・・是また頽廃して年久しく無住となり、・・・長久寺住僧隆慶、元禄15年堂宇を修造し、不動院愛染院を外より境内に移し、医王院を再建して住持を立てられ、旧観に復せしめ給へり。・・・・
本尊薬師如来の坐像。・・・・
不動堂:、・・此堂もと八剣宮の境内にあり・・・八剣宮の本地佛と称せし・・・元禄年中再興の時にここに移し、不動院これを守る。
愛染堂:・・此の堂もと本社の境内にあり・・・元禄年中再興の時にここに移し、愛染院これを守る。

多宝塔跡:今の不動堂その古跡なり。享禄の宮図に見えたり。この塔の鰐口、今亀井山円福寺にありて、銘は本堂の鰐口と同じく「慶長十一年再興神宮寺宝塔」の文字見え、裏に「正徳元年以代金求之」よし彫り付けたり。その外五重塔跡、常行堂跡、輪蔵跡等、古跡甚だ多くして尽くしがたし)

 ※熱田神宮寺には中世には多宝塔・五重塔などがあったが、中世末に荒廃し、近世初頭に再建されるも、再度頽廃、元禄年中の再営では多宝塔は再営されず、多宝塔跡に不動堂が移されると云う。
 ※要するに、近世末期、多宝塔の姿はないことが確認できる。


2006年以前作成:2010/03/01更新:ホームページ日本の塔婆