拝島山浄土寺:拝島大日堂【寺中本覚院多宝塔・五重塔】

拝島山浄土寺:拝島大日堂概要

◆拝島山浄土寺:拝島大日堂

 拝島山浄土寺(仁王門扁額では蜜厳浄土寺)とは、「新編武蔵風土記稿(巻119、多磨郡之31)」および各種サイトの情報を総合すると、武蔵国のこの地(拝島村)に古代の創建と伝える伽藍があり、武蔵では稀有の、古代に由縁する一山多院制の寺院であることが知れる。
 古のことは不明ながら、近世及び現在の伽藍は大日堂(本堂)・仁王門・山王権現(※)・薬師堂・鐘楼などであり、別當(本坊)普明院・寺中として本覚院(拝島大師と通称)・圓福院が現存する。
そして、現在も仔細に見れば、武蔵では、歴然と古代の一山多院制を今に残す稀有の寺院である。
 「新編武蔵風土記稿(巻119、多磨郡之31)」では
 宿の東端にあり、北の方へ入ること二十間許にして仁王門あり、夫より石階二十級を登りて南向八間四面の堂なり、
向拜に大日堂の三大字を扁す、三井親和(※)が篆書なり、堂内の宮殿二間に二間半、本尊大日、左右は彌陀・釋迦、共に木の坐像三軀を安す、大日は長さ一丈二尺、恵心の作なりと、この胎内は秘佛とする處の大日一軀を藏せり、木の坐像長二寸八分にて、行基の作なるよし、左右の二像は共に長一丈許、その作知れず、
天正中堂領十石の御朱印を賜はれり、その宛名淨土寺とあれど、今此寺號なし、殊に鐘銘にも拜嶋山浄土寺觀音院と見えたれば、時の別當たることは論なし、
ことさら往吉一山大坊ありしと云へば、此寺故ありて廢寺せしなるべし、
今現在する處は、普明寺・本覺院・圓n宦E知滿寺(※)の四ヶ寺にて、この餘瀧泉寺・蓮住院・密乘坊・明王院(※)は廢寺にて、以上八ヶ寺なり、普明寺は今の別當たり、
往古堂領十石、坊中配當の次第、別當二石外に學頭料一石にて残り七坊は一石なりしと、・・・・
 とある。
 ※宗派については、境内(大日堂の西)に山王権現が残存すること、現在の寺中の宗旨からして、天台宗である。
 ※三井親書(みついしんな):江戸中期の書家・篆刻家
 ※知滿寺は現在は廃寺
 ※明王院は仁王門を入って参道の左手にあったといい、拝島のフジは明王院境内に自生したいたものという。
  そして、現在大日堂左に明王院と号する長い梁間の堂として存在する。(但し、実態は不明)
浄土寺(大日堂)の縁起:
 「大日堂縁起」では、堂の創建は、一千年の昔にさかのぼり、天暦6年(952)玉川花井の島から、大日如来の尊像が出現し、堂を建てたのが創建という。(拝島の地名の由来)
 その後、戦国期、後北条氏の一族北条氏照によって滝山城が築城された時に、城の鬼門除けとして現在地に移される。
天正元年(1573)には、滝山城主北条氏照の重臣石川土佐守が、娘おねいの眼病を祈願し、平癒により堂宇を再建し、「大日八坊」といわれた一山八ケ寺を建立するという。
 天正19年(1591)徳川幕府より朱印10石を下賜、享保17年(1732)大日堂を石段下からの現在地の上に移築する。

◆寺中天台宗拝島山普明寺<事前調査が不十分で未見>
 大日堂別當、浄土寺本坊。天正元年(1573年)創建、本尊は大日如来。
大日堂から見て、拝島第一小学校を挟んだ西側にある。大日堂本坊が普明寺という関係であろう。

◆寺中天台宗本覚院
 大日堂東に位置する。
 本尊は元三大師像、寺伝では、良源自刻と伝え、比叡山横川にありしも、元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼討の時、敬ェ大僧都が大師像を持出し、諸国放浪の末、天正6年(1578)この地に大師像を安置し本覚院を創建するという。
 本覺院は通称拝島大師と称し、この拝島大師は江戸後期流行仏となり隆盛する。明治維新後も周辺では養蚕・製糸業が勃興し、さらに隆盛に拍車をかける。
 本覺院は潤沢な資金があるのであろう、戦後寺観が一新されたようである。
但し、それは流行仏の悲しさで、その姿勢・伽藍の様相は成金趣味で卑しく、本来の意味での宗教を逸脱し、拝金主義に堕し、決して好感の持てるものではない。
 拝島大師のサイトでは次のように云う。
拝島大師は、近30年、伽藍整備が進む。
昭和48年文殊楼(本尊文殊菩薩)建立、昭和53年大梵鐘ちぶさの鐘鋳造、昭和58年元三大師御本地如意輪観世音菩薩をまつる奥の院多宝塔建立、平成6年新本堂元三大師中堂(これは叡山根本中堂・大講堂とを具現)建立、平成6年水屋水天宮、平成7年総門南大門建立、平成8年文殊楼拝殿建立、平成9年西大門転害門建立、平成10年八角円堂(弁財天堂)を造営、2019年には五重塔竣工と続く。なお、旧本堂は現在大黒天堂と称する。
 本覺院多宝塔 及び 本覚院五重塔 は下に掲載

◆拝島圓福寺:昭島市拝島町1丁目6-5:<事前調査が不十分で未見>
 本覚院すぐ西に堂宇を構える。
圓福寺は、創建については不明であるが、天正元年(1573)に大日八坊の一寺として再建される。
「新編武蔵風土記稿」では
 客殿三間に七間南向、本尊は聖観音を安置す。開山詳ならず。
大日領一石の配当、廃寺の蓮住院の寺務を摂行し、都合二石をおさむといへり。
 とある。

◆拝島山浄土寺(大日堂)伽藍

2006/03/17撮影:
 拝島浄土寺大日堂      拝島浄土寺仁王門
2023/05/26撮影:
 2004年大日堂・仁王門・薬師堂大修理、江戸期の姿に復元修理される。なお、仁王門安置の金剛力士像は鎌倉期、大日堂安置の大日・釋迦如来坐像は平安期、阿弥陀如来坐像は江戸期の彫刻である。
 拝島山大日堂11    拝島山大日堂12    拝島山大日堂13    拝島山大日堂14
 拝島山大日堂15    拝島山大日堂16    拝島山大日堂17    拝島山大日堂18
 拝島山大日堂19    拝島山大日堂20    拝島大日堂21:本尊は大日如来
 拝島山薬師堂1     拝島山薬師堂2:左は明王院
 拝島山明王院      拝島山鐘楼
 拝島山仁王門1     拝島山仁王門2      拝島山仁王門3扁額:蜜厳浄土寺とある。
 拝島山仁王門4     拝島山仁王門5      拝島山仁王門6     拝島山仁王門7
 拝島山山王権現11    拝島山山王権現12     拝島山山王権現13    拝島山山王権現14
 拝島山山王権現15    拝島山山王権現16     拝島山山王権現17    拝島山山王権現18
 拝島山山王権現19    拝島山山王権現20
 本覚院南大門     本覚院諸堂1     本覚院諸堂2     本覚院諸堂3     本覚院諸堂4


拝島浄土寺寺中本覚院多宝塔

2006/03/17撮影:
本覚院多宝塔。建築年代、寸法など不詳。昭和57年建立か。
総欅造り、斗栱は唐様を主に用いる。
拝島大師は大日八坊の一つである本覚院にある。拝島山本覚院元三大師堂と称する。大師とは慈恵大師(元三大師・良源)を云う。
元亀2年(1571)織田信長比叡山焼き討ち、敬甚(けいたん)大僧都が慈恵大師像を救出、諸国を遍歴、天正6年(1578)現在地に安置して本尊となすという。
大日堂は天台宗拝島山密厳浄土寺大日堂と号する。天暦6年(952)多摩川氾濫時に漂着した大日如来木像を祀ることに始まるという。中世には滝山城の鬼門として、北条氏の庇護される。天正6年(1578)北条氏照家臣石川土佐守が娘おねいの眼病全快を感謝して大日堂及び8坊を造営寄進という。
8坊のうち、普明寺(本尊大日如来、天正年中創建)・円福寺(本尊阿弥陀如来、天正年中創建)・大日明王院(元は多摩川寄りにあったが流失、大日堂隣に移建)は現存する。8坊のうち知満寺・竜泉寺・蓮住寺・密乗坊は既に文化文政期には廃寺となり、現在はその位置も明確でない。
幕府より大日堂領10石(普明寺4石、その他の7坊各1石の配分)を受ける。
なお山王権現が大日堂西に現存する、型どおり、明治の神仏分離で社号を改め、強制分離されたままである。
2006/03/17撮影:
 本覚院多宝塔1    本覚院多宝塔2    本覚院多宝塔3    本覚院多宝塔4    本覚院多宝塔5
 本覚院多宝塔6    本覚院多宝塔7    本覚院多宝塔8    本覚院多宝塔9
2023/05/26撮影:
 本覚院多宝塔11     本覚院多宝塔12    本覚院多宝塔13     本覚院多宝塔14
 本覚院多宝塔15     本覚院多宝塔16    本覚院多宝塔17     本覚院多宝塔18


拝島浄土寺寺中本覚院五重塔

2019年五重塔竣工。
2019/05入仏供養を予定。
木造、和様を用いる、屋根瓦葺と思われるも、詳細は不明。
ただ、スタイルとしては極端に細長く、相輪は短く、ほぼ死語であるが「栄養失調症」「うらなり瓢箪」を連想するが、言い過ぎであろうか。
2019/05/26追加:
○サイト:拝島大師 本覚院 より転載:
 武蔵拝島大師五重塔1     武蔵拝島大師五重塔2     武蔵拝島大師五重塔3
2019/06/02追加:
○2「X」氏2019/05/25撮影画像
 武蔵拝島大師五重塔4     武蔵拝島大師五重塔5
2023/05/26撮影:
 本覚院五重塔11     本覚院五重塔12     本覚院五重塔13      本覚院五重塔14
 本覚院五重塔15     本覚院五重塔16     本覚院五重塔17      本覚院五重塔18


2024/06/12作成:2024/06/12更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系