河 内 神 感 寺 跡(多宝塔および推定塔跡)

河内神感寺跡

参考文献:
「東大阪市の寺跡−わが街再発見−」東大阪市教育委員会、平成12年(「東大阪市社会教育部文化財課」ご提供)
 ※上記資料の写真資料については「東大阪市教育委員会」の使用許諾済:(2004/03/16日付「東大坂市教委文第83号」文書)
「生駒山山麓の山岳寺院」福永信雄(「佛教藝術」265号、2003.11、所収)
2015/01/29参考文献追加;
「河内四條史」四条史編さん委員会、1977
「中河内郡誌」片岡英宗著、大正12年
「河内神感寺跡の調査」佐藤虎雄序文、昭和39年(1961)・・・本書は昭和39年8月調査の報告である。
「枚岡市の文化財 第3集 寺跡」枚岡市教育委員会、昭和36年
「原始・時代の枚岡」河内歴史研究グループ、昭和41年(1966)
「枚方市史 第1巻 本編」枚方市役所、昭和42年(1967)

楉蔵山神感寺跡の概要

以下は標記「東大阪市の寺跡」の要約:2003/11/30作成、2015/01/11更改、2015/01/29情報追加

この地は字「寺山」と称し、石垣などが残存し、寺跡であると戦前から認識されていた。
 ※寺跡の初現は大正12年「中河内郡誌」であり、続いて大正13年「中河内郡廃寺」にも記載される。
 2015/01/29追加:
  ※「中河内郡誌」片岡英宗著、大正12年:
   「村の東方に地蔵峠あり。・・・此の付近を寺山呼ぶ。・・・今尚此地域に石垣の繞れる跡存す。
   先年藤本法域氏この地に於いて、「神感寺大門瓦 文永十年癸酉(1273)ニニ月上三日」と陽刻せる古瓦を収得せり。
   現存する地域より見れば大伽藍たりしを思はしむ。」
     なお、片岡英宗氏は八尾常光寺住職、藤本法域氏は枚岡市六万寺町息徳寺住職)
  ※「中河内郡廃寺」片岡紫峰、大正13年;
   「村の東方寺山に在りしなり旧伽藍地は凡そ二段余歩、礎石今尚山頂に存す。
   又石壁及び石門等は明治初年迄散在せしと云ふ。・・・・・」
またこの地での採取平瓦に「神感寺大門瓦 文永十年癸酉(1273)ニニ月上三日」の陽刻が発見され、神感寺跡であると確認される。
 ※ニニ月とは4月、上三日とは上旬3日の意であると思われる。
 ※この古瓦は大正12年頃、藤本法城氏、片岡英宗氏によって採取される。
 2015/01/29追加:
 「枚岡市の文化財 第3集 寺跡」枚岡市教育委員会、昭和36年 より
  「神感寺大門瓦」の陽刻は多く採取される。その陽刻は、製作過程で「たたき棒」によって瓦を固める時、その「たたき棒」に
 文字が刻まれていたようで、それが陽刻として残ったものである。
  ともあれ、この瓦の年号から鎌倉期にこの地に神感寺と号する寺院があったことがはっきりする。
 出土遺物の内ごく少数の奈良期の瓦もあるが、その多くは鎌倉期以降のものである。
 山城醍醐三宝院文書に河内国神感寺住僧貞舜は灌頂を「受」けたものであるが、授者は醍醐寺文海であった。
 文海は誤醍醐天皇御前僧であったという経歴があり、おそらくはこれらの繋がりで神感寺は南朝に与することとなったのであろう。
 ついに正平の戦も南朝の敗滅に終り、神感寺も焼亡したのであろう。その後伽藍は再興されることなく程なく廃絶したのであろう。

◎古文献資料及び伝世品は以下が知られる。
◇「南狩置文」:延元2年(1337)「於鷲尾並に神感寺城郭。・・」(全文は以下)
  「於鷲尾并神感寺城郭致忠輩事云、日來労勲云、今度忠節殊以神妙也、恩賞事、最前可有其沙汰侯由、
  旦可令存知侯間、可令下知給旨 天気所侯也、仍上啓如件、
     延元二年三月十一日  勘解由次官光任
                         謹上 中院右兵衛督」
 ※南北朝期には南朝方の城塞となっていたことが分かる。
◇「三宝院文書」伝宝灌頂記:延元4年(1339)
 「・・・師・・・権少僧都法眼和尚位文海・・・
    受者大法師貞舜年廿八戒十四河内国神感寺住僧 道場同・・・」
 ※修験に関係した山岳寺院であったと推定される。というより醍醐三宝院の末流ということであろう。
◇「唐招提寺の居箱(すえはこ)」<神感寺伝世品>:以下の墨書があるという。
 「河内国河内郡楉蔵山/神感寺安南院法通物/香炉箱也 大聖竹林寺買得/永正12年・・・ 従門葉中寄附也」などとある。
 さらに「河州」「河内郡」「往生院」との断片も書かれている。
 ※この据箱は元は往生院の所有であったが、それぞれの寺院の衰退により、
  往生院、神感寺、竹林寺と流転し、現在は唐招提寺に収さまっているということであろう。
  ※山号の「楉」は柘榴のことであり、柘榴は「大木の奇麗なるもの」という意味もある。
◇大和天川村天河神社蔵「大般若経」(鎌倉前期書写)の巻392に「河州神感寺」の墨書がある。
 ※この大般若経については「大和中川寺跡」のページに黒田f義著「当尾と柳生の寺々:浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」から、
 以下の転載がある。
  「大般若経:
  大和吉野郡天川村天河神社(天川弁才天社)所蔵、今65巻を存する。各巻毎に書写識語が加えられ、それによれば、
  本経は建久9年に起筆し元久2年に終筆したものである。鎌倉末頃生駒郡生駒村伊古麻都比古神社の持経となり、
  南北朝期中頃から室町初期にいたるまで、中川寺にあり、後河内神感寺(所在未詳)に移ったことが知られる。」
   (所在不詳とある神感寺は本ページの神感寺である。)
 2015/01/29追加:
 「河内神感寺跡の調査」佐藤虎雄、昭和39年(1961) より
 天川神社には巻数の分かるもの65巻、不明のもの3巻の大般若経断章が伝えられる。
 この巻の大部には奥書があり、元は大和平群郡生馬寺の持経であったと知れる。その内の392巻裏面には「河内神感寺」の墨書がある。
 生馬寺と神感寺は生駒山を挟んで東西に位置し、何等かの繋がりがあったのかも知れない。
 なお、生馬寺は往馬坐伊古麻都比古神社の神宮寺であったと考えられるが、詳細は分からない。
◇大和興福寺蔵「大般若経」(室町後期)には「河内国神感寺西方院」の墨書と「楉蔵」の黒印がある。
◇大和常照寺蔵「大般若経」(室町後期)にも「河内国神感寺西方院」の墨書と「楉蔵」の黒印がある。
 ※常照寺は日蓮宗高取常照寺か

要するに、神感寺は少なくとも室町末期まで存在していたことが知られる。

神神寺跡遺構

昭和37年にこの地を高圧線が通ることとなり、幅200mに渡って樹木の伐採が行われ、遺構の一部が明らかになる。
昭和39年8月及び昭和40年8月初めて本格的な調査を実施する。

◆神感寺遺構図1:

神感寺遺構図1:左図拡大図

昭和39年40年と発掘調査が行われ、概要が明らかとなる。
寺域は東西600m、南北は500mに及び、遺跡は良好に残存し、主要伽藍は主に鎌倉期に整備されたと判断される。

右図はその発掘調査の結果判明した伽藍配置図である。

以下に示すように、遺跡の残存状況は山中のためか極めて良好だったと思われも、発掘調査後相当な時間が経過し現地は発掘調査前の原野に還る。

◆神感寺遺構図2:

神感寺遺構図2:左図拡大図

建物2は推定多宝塔跡である。

「塔の台」と伝える位置にある建物16は塔跡と推定される遺構である。

遺構の概要は以下のとおり。
2015/01/29追加:▼印写真は「河内四條史」から転載、無印は上に掲載の通り「東大阪市の寺跡」より転載

【■東北地区】:伽藍主要部を形成する。
 伽藍中心部概観     ▼神感寺跡全景
○建物1は中門と推定される。
下から12段の石段を登ったところに位置する。基壇は自然石を四周に廻らし、東西約5m南北約7m高さ約10cmを測る。
礎石3個と礎石抜取り穴2個を検出し、以上から東西2.4m南北1,8mの建物が想定される。
基壇の南には12段の石階が付設する。
 神感寺中門跡     ▼神感寺中門跡2      神感寺中門南石階     ▼神感寺中門南石階2
○建物2;多宝塔跡と推定、中門の東に位置する。
三間四面の柱間とその中に環状の7個の礎石が残る。基壇は一辺約7m高さ70cmの乱石積基壇である。
礎石配列から判断して、多宝塔跡であることは間違いないと判断される。
 礎石配列:3間四方の側柱礎石の中に7個の礎石を円形に配置する。
これは、創建高野山大塔あるいは根来寺大塔と同様な、宝塔に裳層をつけた発生期の多宝塔形式を示す貴重な遺構である可能性があり、この意味で大変貴重な遺構であろう。
 多宝塔跡・中門跡:向かって左が多宝塔跡、右が中門跡

多宝塔跡基壇(発掘時状況)

多宝塔跡礎石配列(発掘時状況)

神感寺多宝塔跡基壇
  :左端図拡大図

神感寺多宝塔跡礎石配列
  :中央図拡大図

神感寺多宝塔跡基壇2:左図拡大図
礎石配列から、宝塔に裳階を付けた本来の多宝塔であろう。
(平面5間ではあるが、根来大塔がその例である。)

○建物3:金堂跡と推定。
礎石配列より東西5間、南北6間の建物であるが、南1間の柱間が広く広縁及び庇と考えられ、方5間の建築と推定される。
基壇は東西14m南北18m高さ80cmの乱石積基壇である。
礎石は焼けて損傷し、表面に焼けた柱根を残すものも発見される。
 金堂跡・歩廊跡     神感寺金堂跡     ▼神感寺金堂跡2     礎石上の焼失柱根痕跡
○建物4:歩廊跡か
中門・多宝塔と建物5の間にある。
金堂の東に接し、高さ70cmの東西に長い基壇がある。南側は乱石積基壇。多宝塔へは石階でつながる。礎石は未検出。
○建物5:
東西4.7m南北3mの基壇で、柱間は不明。
堂の性格は不明であるが、位置から見れば例えば灌頂堂などであろうか。
○建物6:
東西2間、南北2間の建築で、基壇は5×7m×2.5cm。小規模であり、例えば鎮守などが想定される。
○建物7:中門に至る石段の東にある。
現存礎石3個と5個の抜取り穴から柱間約2.1mの方2間の建物が想定され、礎石が大きいことと合わせ、鐘楼跡であろうか。
 ▼神感寺建物7跡
○建物8:
他の遺構と比して、基壇は非常に低い。南側の東西路より北に登る3段の石階が取付く。
3個の礎石と抜取り穴から、柱間約2,2mの方3間の建物が想定される。
○建物9:
18m×14mの平坦地にある。平坦地の南と西は石垣がある。
南北石段(石階1)の途中から幅3.5m高さ2,5mの石段が分岐してこの平坦地に至る。
建物基壇は5×6mの低いもので礎石は未調査のままである。
 建物9跡より石階1を望む
○建物10・11:
南北石段(石階1)の先の西の平坦地にある。建物10の基壇は一辺約4.5m、共に礎石は未調査のまま。
○建物12・13:
建物12の建物は一辺約5mの平坦地、建物13は西と南が石垣の平坦地で、建物が存在したと考えられるが礎石は未調査のままま。
○南北階段跡:石階1
幅2,5m全長21,5m。東の平坦面とは高い石垣で、西の平坦地へは石段が分岐する。
登り詰めたところから東へ建物8の北を飛び石が続き、中門の階段下に至る。
 神感寺石階1     ▼神感寺石階1-2:左の写真と同一のものであろう。
○池跡:
東西16.5mで、円形を呈し、中ノ島を持つ。池周囲は石垣を組む。
 神感寺池泉跡     ▼神感寺池泉跡2     神感寺池泉中島
○大溝・土塁:
全長約220m幅5−7m、内側は盛土をした土塁で、土塁上から深さ2.5〜3m。
○東西路:
南北石段(石階1)を基点に西の谷に至る。路面には30cm前後の平石を20cmほどの間隔で並べてある、南は築地となる。

【■東南地区】
3段(以上あると思われるが)の平坦地があり、調査では14建物が確認されている。
○建物14:
3間四面の堂跡で礎石は小さい。瓦の出土はない。(8〜14も瓦の出土なし。)
 神感寺建物14跡     ▼神感寺建物14跡2

【■西南地区】(「塔の台」)
「塔の台」と伝える最高所(標高460m)を含み、北側に3段、南側に5段の平坦地が造出され、それ以外にも西面及び南面に数段の平坦地がある。
調査は最高所の平坦面のみで実施し、建物跡2棟と東から登る石階を発見する。
○建物15:
一辺9mの自然石による乱石積基壇の上に建つ3間四面、柱間2,4mの礎石建物。
基壇の東南隅に靴脱ぎ石と思われる大石2個があり、そこから東の石階まで飛び石が続く。
また出土瓦の中に「神感寺大門瓦」が含まれるため鎌倉期の建物跡と推定される。
 神感寺建物15・16跡    建物15北縁の瓦出土状況
 ▼神感寺建物15跡1     ▼神感寺建物15跡2
○建物16:塔跡と推定される。
建物15の基壇1.9m東に約6m×約7m×約30cmの基壇が在る。
3間四面の平面の内部に方2,7mで礎石が並ぶことから塔跡と推定される。
建物占地などから見て、上記の建物15より後のものとも考えられる。
「塔の台」の伝承及び礎石配列から塔跡の可能性はかなり高いと思われる。

●推定塔跡基壇(発掘時状況)


推定塔跡基壇:左図拡大図


○石階2:
南北路に接する平坦面より比高差約4.8mの斜面に築かれた巾3.5mの大型の石階で、建物15、16が建つ平坦面の東中央に取付く。
 神感寺石階2     ▼神感寺石階2-2
○南北路:
各所に石敷が認められる。

【■西北地区】
4段の平坦地が認められる。坊舎跡などが想定されるが、未調査のままである。

【■奥の院】
北方約400mの尾根上に「北寺」の字が残る。おそらく神感寺奥の院と推定される。但し未調査。

以上のように、遺跡の保存状況は大変良好と思われる。(しかし現状はほぼ原野に還り、簡単には遺構の追認はできない。)


神感寺跡の現状

2003/11/27撮影:多宝塔跡および推定塔跡遺跡は、以下の事情で、残念ながら実見することは不能であった。

発掘調査から40年近くが経過する。
その後、遺跡の状況に手が入れられたのかどうかは、不明であるが、遺跡全体の表面は原野(雑木林もしくはブッシュ)にほぼ還る。
したがって
現状は東西・南北道路の近くのみは辛うじて遺跡のごく一部を観察することは可能であるが、
伽藍主要部(中門・多宝塔・本堂付近、推定塔跡付近)は通常の装備では足を踏み入れることは困難である。
また足を踏み入れることが出来たとしても、潅木・笹で遮られ、見通しがきかず、伽藍造成の大まかな様子すら覗うことも困難で、さらに地表は堆積物に覆われ、礎石などの観察も難しいと思われる。

 □多宝塔もしくは鐘楼跡付近と思われる造成段差と「遺構」・・ ・但し、推定の域を出ず。

 □推定塔跡(建物16跡)

推定塔跡の現状

推定塔跡土壇の北東隅石垣(左図拡大図)

推定塔跡東石段1

推定塔跡東石段2

 □建物15跡

建物15跡礎石1(左図拡大図)

建物15跡礎石2

建物15跡礎石3

建物15跡瓦散乱状況

 □神感寺跡大溝・・東西通路やや北に地点から北側を撮影
 □神感寺池跡・・写真中央のやや下にかすかに水面が見える。
 □神感寺石垣・・ 建物11がある平坦地西側石垣
 □推定坊舎跡平坦地・・西北区

2016/03/14撮影:
再度、【東北地区】の多宝塔跡及び【西南地区】の推定塔跡の痕跡を求めて、探索する。
【東北地区】の状況は2003年の探索時と大差はなく、ほぼ原野と化したブッシュや灌木の中に分け入るしかない。
遺構の内、大溝及び池跡は明瞭で容易に発見可能である。
しかし、多宝塔跡を始め堂塔の遺構はブッシュの中にあり、しかもブッシュの中は殆ど見通しのきかない状態であり、そこをかき分けて進む しかなく、しかもかき分ける距離は長く、多宝塔跡を発見するのは相当に困難である。
今般、多宝塔跡を確定させるために、金堂跡(建物3跡/多宝塔跡の西にあり大きな基壇を持つ)も合わせて探索するも、その他の残余の多くの建物跡については探索を敢えて実施していない。それは何れの遺構もブッシュの中に埋もれ、相当な労力と時間が必要であり、 その余裕がなく、それは断念する。
【東北地区】遺構:
 神感寺跡大溝2     神感寺跡大溝3     神感寺跡池跡2

多宝塔跡:
 多宝塔・金堂跡方向遠望
 多宝塔跡礎石1:礎石3個が写る:左図拡大図
 多宝塔跡礎石2
 多宝塔跡礎石3
 多宝塔跡礎石4
 多宝塔跡礎石5
 多宝塔基壇隅石1
 多宝塔基壇隅石2
 多宝塔基壇隅石3

金堂跡:
 金堂跡礎石1     金堂跡礎石2     金堂跡礎石3

【西南地区】遺構:
推定塔跡(建物16跡)は灌木林の中にあり、しかも灌木林に分け入ってすぐの距離にあり、多宝塔跡の探索と比して、比較的容易に発見が可能である。

「塔の台」石階:
「塔の台」石階は建物15及び推定塔跡(建物16)に東から取付く石階である。
 「塔の台」石階1:左図拡大図
 「塔の台」石階2:何れも向かって右上の高まりの石組は推定塔跡の東面基壇である。
 「塔の台」石階3
 「塔の台」石階4
 「塔の台」石階5
 推定塔跡東面基壇1
 推定塔跡東面基壇2
 推定塔跡東面基壇3

推定塔跡:
 推定塔跡俯瞰:左図拡大図
右端は塔跡南側基壇石列、下側には塔跡西側基壇石列、内部には数個の礎石が写る。
 推定塔跡西南隅基壇1
 推定塔跡西南隅基壇2
 推定塔跡西南隅基壇3
 推定塔跡西南隅基壇4
 推定塔跡西面基壇
 推定塔跡礎石1
 推定塔跡礎石2
 推定塔跡礎石3

建物15跡:
 建物15跡全容     建物15跡基壇     建物15跡基壇と礎石
 建物15跡礎石1     建物15跡礎石2     建物15跡礎石3     建物15跡礎石4     建物15跡礎石5


楉蔵山寺心礎について

「幻の塔を求めて西東」には「楉蔵山寺心礎」として以下の記載がある。
「大阪 楉蔵山寺 東大阪市四条町 形式:一重円孔式 現位置のまま 創建:奈良後期」
しかし、この心礎に関しては異例なことに、心礎法量(大きさ・孔の径・深さ)の記載は全くない。

東大阪市社会教育部文化財課様の見解では、楉蔵山とは神感寺の山号であり、楉蔵山寺とは神感寺のことであろう。
しかしながら神感寺の創建は出土瓦などから平安初頭の創建とされ、鎌倉期に繁栄し、室町には兵乱で焼亡し、江戸初頭には急速に衰微し、廃寺となったと推定されること、および多宝塔には勿論、推定塔跡の写真にも心礎と思われる礎石は見当たらず 「幻の塔を求めて西東」の記載の根拠(出典)は全く分からない。

2015/01/09追加;
 「幻の塔を求めて西東」に記載されといるということは、著者が実見したか、何らかの記録(調査報告書など信頼のおける刊行物)が存在しそれを転載したか、またあるいは信頼できる第三者から情報を得て、それを掲載したかの何れかと判断して良い。
「楉蔵山寺心礎 」の有無の確認ができないこと及び心礎の法量の記載がないことから判断して、著者(西堀氏)はおそらく実見したのではなく、何らかの刊行物から引用した のか、第三者からの情報に基づき、記載したのであろうと思われる。
 いずれにせよ、実態は全く不明のままであるが、「現位置のまま」とあるので、東大阪市四条町のどこかに「伝神感寺心礎」とする礎石が人知れず密かに存在するの であろうか、あるいはかっては存在したが、売却や開発によって破壊とかの事由で、現在は亡失ということなのであろうか。

遺跡の西に八大龍王神感寺が建立されている。本寺は昭和5年、龍神の神託により教会が創設されたことを起源とするようである。
 (現神感寺は法灯は継いではいない、つまり古神感寺とは全くの無関係である。)
現神感寺の地も古神感寺の坊舎などの跡地と思われ、工事途中で、屋根瓦や各種の仏器などが出土したと云われる。
この現神感寺のどこかに「楉蔵山寺心礎」が遷されていることもあるのではないかと想像するのであるが、これは荒唐無稽な想像であろう。

現神感寺

2015/10/29追加:
「原始・時代の枚岡」河内歴史研究グループ、昭和41年(1966) より
初和5年岩佐亮教師は竜神の神託により、この地(寺跡西部)に八大竜王神感寺を開く。現在までの建設工事で、瓦など多くの遺物が出土する。
 ※昭和5年は昭和初年ともいう。
「河内神感寺跡の調査」佐藤虎雄、昭和39年(1961) より
岩佐亮教師はたまたま「神感寺」銘の古瓦を得て、往古の「神感寺」の名称を継続することとなる。


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