近  江  竹  生  島  宝  厳  寺

近江竹生島宝厳寺

古図に見る竹生島

2006/05/06追加:2018/08/30画像入替
●中世の竹生嶋の景観
 ○竹生島絵図( 菅浦・大浦境図の竹生島部分図):乾元元年(1302)の奥書を持つという。
ここでは(以下「古寺巡礼 近江 竹生島宝厳寺」より)
弁才天社本殿、前方左右に末社、拝殿、鳥居、宝厳寺楼門、観音堂、三重塔、鐘楼、坊舎が描かれる。

●中世の竹生嶋の景観
2006/05/06追加:2018/08/30画像入替
 竹生島祭礼図
2006/05/06追加:
 竹生島祭礼図(部分):左図拡大図:
  室町末期頃の成立とされる。

2010/10/06追加:
◇「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 竹生島祭礼図2:東京国立博物館蔵
絹本着色、82×89cm、上掲のカラー写真である。
なお右端には小島権現が描かれる。

2010/01/10追加:
岩金山大神宮寺竹生島絵図:江戸末期
 (画家・速水春暁斎は浮世絵師であり、初代は文政6年(1823)没。大阪で生まれ、のち京都に移住。
 二代目・春暁斎は初代の子であり、文政(1818-)〜慶応頃活躍と云われる。)
一山寺院であるが、船着場を上れば、一条院、さらに石階を上り、その上に月定院、さらに長い石階が続くが、石階の左に梅本院・実相院・吉祥院があり、右手には妙覚院がある。

2018/08/31追加:
竹生島巖金山實珠寚嚴寺繪
作成時期は不明、基本的に上に掲載の「岩金山大神宮寺竹生島絵図」を模倣している。旧本堂が「神社」とあり、神社の東に「神官宅」があり、明治の神仏分離の処置後の繪圖であろう。しかし、昭和17年に建立された「弁才天御殿」が描かれるので、その頃の作成かも知れない。
但し、建立された弁才天本堂は重層堂であるが、絵図では単層堂として描かれ、実際に建立された時期の作成ではなく、構想段階の時期(昭和17年の前)に描かれたのかも知れない。何れにしろ、時期の特定の難しい繪圖である。
一山坊舎として、船着場を上れば、一条院、さらに石階を上り、その上に月定院、長い石階が続くが、石階の左に梅本院旧跡、實相院旧跡、吉祥院旧跡、金竹院・号開山坊旧跡、右手には花王院旧跡、妙覚院の坊舎があることが知れる。

近江竹生島三重塔

2000/04月落慶時の撮影:「X」氏撮影画像
 近江竹生島三重塔1:左図拡大図
   同        2
 竹生島三重塔本尊

2004/07/01撮影:
 近江竹生島三重塔3
   同        4
   同        5
   同        6
   同        7
   同        8
   同        9
   同       10
   同       11
平成12年(2000)4月落慶。
約350年ぶりに再興という。
総高15.5m、一辺3.2m、総ヒノキ造。
ほぼ純和様の本格塔婆建築である。
橋本市郎氏設計、総工費3億円。

塔本尊は金剛界大日如来坐像。四天柱には32体の天部の諸像、四面壁には真言八祖を描く。

三重塔は文明19年(1484)の建立と伝えられが、江戸初期に焼失する。
「浅井郡志」の中にこの三重塔図面が残っているという。(未見・・・・探すも発見できず)
竹生島縁起では、神亀元年(724)聖武天皇の勅願で、行基の開基とする。
行基は、本尊弁才天像を彫刻し、本堂に安置、翌年観音堂を建立し、千手観音像を安置したと伝える。
創建時には竹生島寺と称し、東大寺に属する。平安期には叡山末となる。
永正5年(1508)竹生島大神宮寺と号する。(現在は大和長谷寺末)
慶長7年(1602)豊臣秀頼が豊国廟より本堂(現神社本殿)観音堂、唐門などを移築。
江戸期には妙覚院など4塔頭が管理に与る。

竹生島現伽藍

明治の神仏分離の処置が行われるまでは、現在の都久夫須麻神社本殿とされる堂宇が弁才天社(旧本堂)とされ、その堂宇の厨子に弁財天が安置されていた。現在、弁才天を安置する弁天堂(現本堂)は昭和17年に建立されたものである。
観音堂は西国33所の札所で、千手観音像を安置する。

 竹生島現本堂

 近江竹生島唐門1     同    唐門2     同    唐門3     同    唐門4
唐門(国宝):豊国廟の正門であった極楽門を移築とされる。
2011/11/20追加:
「舜旧記」(豊国社社僧神龍院梵舜著)慶長7年6月11日の条:「今日ヨリ豊国極楽門内府ヨリ竹生島ヘ依寄進壊始」という記述がある。
また渡廊の飾金具に「豊国大明神御唐門下長押」という銘があると云う。

 竹生島観音堂組物
観音堂(重文・桁行5間・梁間4間、入母屋造・桧皮葺き):西国三十三所三十番札所、本尊千手観音。
唐門などと同時に移建とされる。

 竹生島船廊下:(重文):日本丸(朝鮮出兵時の秀吉ご座船)の廃材を利用して作られたと伝える。

 竹生島旧本堂
旧本堂(国宝・現都久夫須麻神社本殿桁行3間・梁間3間・入母屋造・檜皮葺き、周囲に庇を廻らす、1間の向拝付き):
伏見桃山城束力使殿を移建したと伝える。
 ※伏見城ではなく、方広寺の秀吉御霊屋もしくは方広寺鎮守豊国廟の建物などが移築された可能性が高いという説も有力である。
 下に掲載の○「有為転変の歴史 創立・罹災と復興」桜井敏雄(「竹生島」滋賀県びわ町観光協会、1986 所収)を参照。
下記の明治の「神仏分離」の項で明らかなように、竹生島弁財天を安んじていた旧本堂である。
現在は「都久夫須麻神社本殿」とされているが、これは明治の神仏分離で竹生島弁財天を都久夫須麻神社と付会した結果である。
国家神道のマヤカシがはっきりしている今となれば、都久夫須麻神社を廃社となし、宝厳寺に復帰させるのが最も自然な処置と思われる。

金蒔絵小塔(三重小塔)

金蒔絵小塔と称する。徳川家光寄進という。宝物館展示。
高さ63.5cmで須弥檀上に乗る。初重は一辺12.5cmで23重は亀腹を造り円筒形軸部を載せる。
全面黒漆塗で、須弥檀縁・匂欄、初重柱・斗・肘木は朱漆塗、須弥檀・軒・屋根・扉などは金蒔絵が施される飾金具を多用する。
初重内に仏像台座があるが 、現在、安置仏は無いと云う。 製作:江戸初頭か桃山期か?
 竹生島三重小塔1    同       2
2010/01/10追加:
 竹生島三重小塔3:「開創二千二百年記念帖/竹生島宝厳寺」大正12年 より

焼失三重塔遺物:
宝物館に「大塔扉、焼失三重塔扉、室町時代」として展示があると云う。
しかし、この真偽は不明:宝物館入口で問い合わせをするも、回答は「扉など聞いたこともない」とのことであった。
(宝物館内は未見)

2018/08/31追加:
○「竹生島」滋賀県びわ町観光協会、1986 より
 竹生島石造五重塔:重文
大正末年頃まで島の北西湖辺樹林の中にあったといわれ、その後唐門横に移される。
昭和47年の豪雨により土砂崩れで殆どの部材が湖中へ転落する。最上層の笠石と相輪の下部が発見できず、昭和49年に之を補い、弁才天堂の前に建立する。
昭和53年に最上層の笠石が湖中から発見されるも、破損が甚だしいため、別に保管している。
格狭間の形や笠石の形状などから鎌倉後期の造立と考えられる。初重塔身には顕教系四仏を彫る。全高2.46m。


竹生島弁才天略歴

2006/05/06追加:
「古寺巡礼 近江 竹生島宝厳寺」より
宝厳寺縁起では、初めて竹生島へ渡来し、仏道を修行し、仏像造立・堂宇建立した僧は行基菩薩とする。
仏法伝播と共に、竹生島の神は仏法を悦び聞く一個の衆生となる。つまり宝厳寺はその創建の時から、竹生島の神宮寺であった。
また宝厳寺は草創の頃から平安期にかけて、観世音菩薩が祀られ、その霊験所としての信仰が高まった。
この時代には、天台僧が多く渡島修行し、また皇室等の信仰を受け、堂塔伽藍の整備が進められた。
古代から中世にかけて、竹生島は「水神」としての弁才天信仰が興隆する。
中世には竹生島は弁才天降臨の地として、また西国33所観音霊場として、貴賎大衆の参詣の最盛期を迎える。
貞永元年(1232)竹生島全山焼亡。3間四面の弁才天宝殿、同じく3間四面の観音堂等、坊舎30余灰燼に帰す。
※復興の様子は、冒頭の「★古図による竹生島」の「竹生島絵図( 菅浦・大浦境図の竹生島部分):乾元元年(1302)の奥書」を参照。
正中2年(1325)大地震により多くの堂塔が倒壊。再興の勧進状によれば
3間四面の弁才天宝殿、同じく観音堂、小島権現本地阿弥陀如来を安置する3間ニ面の堂、1間四面の阿弥陀堂、島主大明神の堂、小島権現堂、七所王子の宝殿各1棟計7棟・・・、三重塔、1間四面の経蔵、七間の中門廊、5間の経所、5間の薬屋、湯屋、食堂、鐘楼・・・の伽藍が復興対象として挙げられている。
復興の後、
享徳3年(1454)火災・全山焼亡。天文9年(1540)一応完了する。
永禄元年(1558)火災・堂舎炎上。浅井氏などの援助を受けるも復興は遅々とした進行であった。
慶長7年(1602)豊臣秀吉が片桐且元を奉行として、復興に当る。
近世初頭、延暦寺末から、新義真言長谷寺末に転ずる。
江戸期には朱印300石を受ける。
慶長8年(1603)「寺領置目」では、瑠璃坊、実相坊、月定院、妙覚院など23の坊舎がある。
経済的困窮より、享保元年(1716)には9院、幕末には4院に減ずる。
「中世以降、弁才天信仰が隆盛になるに及んで、浅井姫命の神格は弁才天の中に吸収・融合せしめられ、竹生島は仏教一色の霊場となり、・・・・古来の社名や祭神はほとんど忘れられていたのであった。」
従って明治初頭の竹生島には勿論神職は存在せず、妙覚院、月定院、一乗院、常行院があるのみであった。
明治の神仏分離で常行院は復飾し、神職となる。(現在の生島家と云う)
弁才天は宝殿を出て一時観音堂に移座、弁才天社は都久夫須麻神社と改称されたが、神体が無く、適当に宝厳寺宝物中より2点を選び、神体とした云々は既述のとおりである。

2018/08/31追加:
○「有為転変の歴史 創立・罹災と復興」桜井敏雄(「竹生島」滋賀県びわ町観光協会、1986 所収) より

 竹生島は古来より神のいます「いつき(く)べのしま」として祭られ、神の斎く島が「都久夫須麻」「竹生島」と転化したものと考えらえる。
 竹生島の国史における初見は「三代実録」元慶3年(879)3月2日条で「延喜式」に載る式内社である。その神は竹生島明神(浅井比当ス)で、神格は不明、おそらく湖を領する水神であったものと思われる。
 平安初期、最澄が一乗止観院を建立した時、叡山の仏法守護の為、本地佛として弁才天祀ったと伝える。(応永21年/1414「竹生島縁起」)
 竹生島弁才天の初見は大江匡房の「江談抄」(長治・嘉承年中/1104-1107)で、この頃弁才天を島主として祀っていたことが知れる。
 弁才天はその発祥が「水の女神」であり、「竹生島縁起」などに載る「浅井比当ス」は湖北の豪族浅井氏の始祖霊を祀ったものと見ると、島で神仏習合が進展するなかで、浅井比当スは弁才天とする思想が定着したものと思われる。
さらに「弁才天縁起」では貞観2年(860)円仁が文殊楼を建立した際、弁才天は丑寅の方角を鎮護すると約したので、円仁は弟子眞静を遣わし宝殿を改築、円仁自ら刻んだ弁才天を安置するという。
 承平元年(931)の「竹生島縁起」によると、天平10年(738)聖武天皇の命で行基が島に渡り、2尺の四天王像を作り小堂に安置したという。これは天平宝宇4年(752)三間の仏殿に改築され、翌年には郡の大領浅井直馬養が金堂の観世音菩薩を造立するという。
 平安期には天台の僧や修験者の渡島修行が相次ぎ、三間の仏殿は験堂と呼ばれたという。平安末期には園成寺系の山伏・修験者によって近畿各地の観音霊場をめぐる風習が成立したと思われ、「観音霊所三十三所巡礼記」(嘉禄より貞永・天福年中に成立)には第17番として等身の千手観音菩薩を行基が願主となって祀ると記する。
 承平の「竹生島縁起」では、貞観2年渡島した天台僧真静は神社を改築、同13年(871)には浅井盤楯が自宅を移して食堂とし、翌年には浅井應志根が湯釜を施入する。仁和3年(887)には神殿を修造、寛平2年(890)には中門・磴橋を造立する。
 宇多法皇は昌泰3年(900)に行幸し、木工寮に命じて三間堂を七間堂に改める(神殿か)といい、延喜16年(816)に多宝塔一基を建立、延長元年(823)には五間神殿?を改造、同8年(930)には法華三昧堂を建立したとある。
 (以上は承平元年及び應永22年の「竹生島縁起」による。)

 中世の事情は正中3年(1326)の「竹生島勧進状」によってかなり判明する。
即ち貞永年中(1232-33)の全山焼失、さらに嘉元年中(1303-06)には台風の被害を受ける。勧進状の作られた前年の正中2年には大地震によって堂舎塔廟が一宇残さず破壊する。三間四面の弁才天宝堂、同じく三間四面の観音堂などの再興の為の堂名が挙げられる。
中世社頭の景観を知ることのできる資料として「菅浦荘与大浦下荘堺繪圖」(竹生島繪圖)と「竹生島祭礼圖」がある。
 ※「竹生島絵図」(堺繪圖)及び「竹生島祭礼図」は冒頭に掲載。
 「菅浦荘与大浦下荘堺繪圖」(竹生島絵図)は包紙及び圖裏書に乾元元年(1231)8月17日とある。だとすれば、この圖は貞永元年(1231)焼失後、正中2年(1325)の大地震による壊滅(一宇も残さず)する以前の景観を描くものとなる。また嘉元年中(1303-06)の台風被害を受ける以前の姿ということにもなるが、正中3年(1325)の「勧進状」は当絵図に描かれた建物の情況を説明しているものとみてよいだろう。
 絵図では正面の石階を登り、懸造の建物の下を潜ると社頭に達する。懸造の建物は拝殿で、「勧進状」でいう「中門廊7間」であろう。社頭の幄舎(あくしゃ)のない舞台は古式であり、舞台東西に切妻造檜皮葺の南北に長い建物は五間經所・五間楽屋に相当する。
本殿は「勧進状」に「三間四面宝殿一宇即是弁才天御坐宝殿也」とあるが、正面は入母屋造・妻入・向拝付設・主屋前面に蔀度を吊り、正面・側面三方に椽を廻らせ、背面は不明であるが、一見熊野造のように描いている。これは「竹生島祭礼圖」に描かれる入母屋造・平入・向拝付設の本殿や現在の本殿の裳階(旧本殿の側廻り)の形状とは著しく異なる。

 西側の寶厳寺の一部は島の南端に楼門を南面して建て、その北に懸造で入母屋屋根の観音堂と思われる建物が見える。
  寶厳寺観音堂断面図・平面図
繪圖では三間堂で南面し、入母屋造・平入の懸造に描いている。観音堂もまた、「竹生島祭礼圖」とも現在の堂とも、規模や棟の掛け方が異なり、懸造である点が同じであるだけである。ところで現在の観音堂は桁行5間梁間4間で周囲に椽を廻らす構造であるが、堂の中心部は東寄りの3間分であり、通常の本堂とは違った異例な平面である。東寄りの3間分は「堺繪圖」中の懸造・平入の三間堂と対応すると思われ、この堂が西側に増改築されたものが現構ではないかと思われる。「祭礼圖」中の観音堂は南面する妻側(梁間)は4間、桁行も4間である。柱間装置から判断すると、南半が外陣と見られ、「境界繪圖」中の3間堂を核として南側に1間増築し、西側にも1間通り増築し桁行が4間となり、屋根を東西棟より南北棟としても不自然ではない。その後、更に西側に1間通りを付加したとすると、現在の観音堂の平面となる。内陣内東側に立つ二本の円柱や同じく内陣内の西側の入側柱筋に立つ円柱は以上の発展過程の名残りを示すものと見られる。
 ところで「祭礼圖」の作成年代であるが、観音堂(慶長8年/1603)と本殿(向拝・庇は永禄10年/1567、身舎は慶長7年/1602)を結ぶ渡廊は当圖には描かれておらず、この古い部分の様式は本殿を再建した永禄頃の様式と見ても不自然ではない。そうすると、当圖の下限はこの頃に設定でき、さらに観音堂の形態が異なるところから、現観音堂の寛政した慶長8年以前の状態を示すものと見ることができる。
(本「祭礼圖」は所謂参詣曼荼羅の要素もあり、おそらく室町末期の作成であろう。)
 享徳4年(1455)の「勧進状」によれば、同年正月焼失後、「竹生島堂宇、塔婆・回廊・食堂・経蔵・鐘楼等」を再建する旨を述べるが、これらの堂宇の再建の経過については不明な点が多い。「建地割圖」「東浅井郡志」などの諸資料を総合すれば、本堂の立柱は享徳4年、神殿の立柱も享徳4年、厨子は享徳4年末に完成、三重塔の再建時期は不明、鐘楼は長禄3年(1459)木材調達、寛正4年(1463)頃竣工、楽屋は文明6年(1474)、小島権現は文明16年造営、与楽堂は永正6年(1609)再建、廊橋造営の釿始は天文2年(1533)、経蔵(輪蔵)は天文14年設計終了という具合で天文9年(1540)頃には竹生島の復旧は終了したと考えられる。
 こうして復旧整備された竹生島は、永禄元年(1558)火災を起こし、焼失する。
寶厳寺の大檀越であった浅井長政や羽柴秀吉、湖北の豪族は寄付奉加などで復旧を目指すも、乱世の世で思うようには捗らなかったようである。寶厳寺観音堂の建立は慶長7年(1602)まで遅延していたようである。観音堂の形態からすると、享徳再建時の姿を示すものと考えた方が良いかも知れない。上記2圖に見られる配置は若干相違するものの基本的には類似して、舞台を囲む一部と本殿の位置、および観音堂なども現在までよく面影を留めていて、少なくとも中世以来の伝統を踏襲するものと思われる。
 なお、「境界繪圖」と「祭礼圖」で相違する点は湖辺の仁王門(楼門)が姿を消し、本殿と観音堂の谷間に三間入母屋造の堂が建つ。観音堂北側に三重塔が建ち、西側に建物(祭礼圖では宝珠を上げる阿弥陀堂)がある点は共通している。

 神社本社(本殿)の建築について
  神社本殿平面図・正面図
 正面5間、側面4間で南面する。中央の3間四方が身舎で、その周囲に1間通しの裳階を廻らす。身舎の屋根は入母屋造で、正面・背面に軒唐破風を飾る。この時裳階側面が5間にならないのは、裳階の柱が身舎の柱筋とは無関係に4間として立てられているからである。(正面・背面の裳階は身舎に合わせて5間である。但し中央間の2柱の柱間は厳密には整合せず、身舎と裳階の柱筋は若干ずれている。)更に裳階の4周には椽を廻らし、正面中央に向拝を1間設ける。
 即ち本殿の外観は軒破風を飾る入母屋造に裳階をつけた重層の重い建築に見えるが、実は身舎と裳階はバラバラの建築であり、本来一つのものであるはずが、一体化していない、いわば妙な建築である。
まず、身舎と裳階の柱筋は前後の各2個所で合致するだけで、その他の柱筋は総じて合致しない。
柱も身舎は面取角柱であるが、裳階は円柱という異例さである。また、裳階の屋根は身舎の柱に取りつかず、いわば裳階の小屋裏で始末され、屋根は身舎と断ち切られている。身舎と裳階は僅かに正面入側で4丁の海老虹梁で結合されるだけで、しかも中央の2丁の虹梁は柱心が一致しないため、著しく振れて取付られている。要するに身舎と裳階は著しく遊離している建築なのである。
 永禄元年(1558)竹生島焼失、棟札によれば、本殿は同年釿始、乱世の折、再興は永禄10年の年月を要する。
 但し、細部の装飾や彫刻は桃山時代の豪華な雰囲気で満ち溢れている建築である。(従って国宝建造物である。)
 本殿の概要は以上であるが、修理の過程などで、その由緒などの一部が推測可能となっている。
身舎の各部材から方位を示す墨書が発見され、身舎は本来は東向(現在は南向)であったと判明している。
また身舎の地垂木上端に「此塗物は大仏にてぬり申候也」との墨書があり、身舎は大仏つまり方広寺の建物を移建したことを強く示唆するものである。
(伏見城の遺構とも言われていたが、身舎は方三間の建築であると思われ、身舎の黒漆塗の仕様、各部に極彩色の草花や樹木を描く室内意匠、屋根の前後に軒唐破風を付設、小天井の吹寄菱組の使用、和様二手先尾垂木付組物の使用など格式高い建物の遺構である可能性が高い。具体的には方広寺の秀吉御霊屋もしくは方広寺鎮守豊国廟の建物などが移築された可能性が高いと判断される。)
「梵舜日記」慶長7年(1602)6月11日条には「今日ヨリ豊国極楽門、内府ヨリ竹生嶋ヘ依寄進、壊始、神神門、大坂ヨリ被仰了」とあり、これは寶厳寺唐門に当たると考えられている。寶厳寺唐門と同様に、豊国廟より本殿身舎は移築された可能性は大いにある。


竹生島に於ける神仏分離

○明治の神仏分離:
明治2年:大津県は、宝厳寺住職峯覚以に縁起・古記録類の提出を命ず。
明治4年:同県は縁起の記述あるいは「延喜式」の式内小社・都久夫須麻神社の記載を根拠に弁財天社の都久夫須麻神社への改称(宝厳寺は廃寺)を命令す。
宝厳寺は、弁才天社仏堂としての存続と都久夫須麻神社の新設を嘆願す。
しかし大津県の強硬姿勢は変らず、神仏分離(廃寺と改称)の実行を強要す。
やむなく宝厳寺は、弁才天像を観音堂(のちに塔頭妙覚院座敷)に遷座、本堂を都久夫須麻神社本殿とし、常行院覚潮が還俗・神勤する処置を採り、一応の妥結が図られる。
その後明治中期まで、蓮華会の執行権の帰属、弁才天像・観音堂敷地の移管を巡り、宝厳寺と神社は対立するが、
結局は実体のない神社側には移管はされず。
昭和17年、現在の本堂が復古調で再建され、大弁才天像は本尊として遷座し、本来の姿に復帰する。
 (著名な弁才天女社の中で、神仏分離による結末は以下の通り。
 江ノ島弁才天は完全に神社に変質したが、竹生島および宮島弁財天は大きな影響を受けながらも、寺院としての法灯を守る。)

○「竹生島要覧」河邨吉三、明治33年、「明治維新神仏分離資料」所収より

明治2年某月:大津県庁より竹生島役者を召還す。即妙覚院住職覚以出頭す。
権大属田中久兵衛立会し、覚以に告て曰く、
「其島に延喜式内都久夫須麻神社と申す神社のある筈なり、然るに未だ其の届けも無之、・・・付いては其島の縁起古記等の写し・・口碑なども・・至急差出べし。 」
覚以帰島の上、縁起2巻儀軌1巻古記集1冊を・・田中懸属に面会し、之に白して曰く、
「古記集内に、貞永元年焼失勧進記の内に、弁財天、島守大明神、小島権現の3社を書する而巳にて、都久夫須麻神社と称する社殿は記さざるも、延喜式に都久夫須麻神社記載あるを以て、島内に都久夫須麻神社とすべきものを考ふれば、恐らくは島守大明神、小島大権現の内ならむ、然れ共、現今にては、確乎としてその社なりと申し難し、・・・・・もし無之時は、新に神社を造営仕ては如何」と伺ひたる。
田中懸属曰く「尚政府に於いても取調べの上、追ってご沙汰あるべし」・・・延喜等の写しを相預け退出す。

明治4年2月:更に呼び出して、山田権大属立会いの上、先に差出せるところの御震翰縁起に、5ケ所の付箋を為し、
之を示して曰く、
「此の如きの理由あるを以て、今般弁財天を浅井姫とし、弁財天社を以て、都久夫須麻神社とすべきと仰せ出なり・・」
覚以曰く「・・是一島の大事に関す、拙僧の独断では御請致し難し・・・・・」
山田属は・・・次の達書を渡せり。
                          浅井郡竹生島役者
竹生島弁財天社、自今都久夫須麻神社と改称被仰出候事、
   明治4年辛未2月                 大津県庁(印)

覚以は帰島し、「僧侶は驚愕為す所を知らず」であったが、一山で協議し、とりあえず県庁に嘆願するも、官吏はこれを聴かず。
依って本寺(総持寺)に稟議し、本寺とともに、願書を奉呈せし。
願文の大意は以下の通り。
  願文
・・・・元来弁財天女の儀は仏説最勝王経弁財天女品に歴然とあり、仏像に候・・・・御一新の主旨は良く分かりますが・・・
仏像の弁財天女を、其の儘都久夫須麻神社改称仕れば、かえって混淆に相成り、・・・・今まで通りの処置をお願いしたい・・・
都久夫須麻神社の古跡は弁財天社の外に御座候様に奉存候・・・・・。
       明治4年7月2日                                      坂田郡下司村総持寺(印)

  大津懸御庁
・・・・・・・当島弁財天の儀は仏像を以仏号を唱え来り、・・・神州固有の神と改称候儀は、乍恐李如何にも混淆可仕・・・・
式内神社・・・・の古跡は不明、・・・神殿造営・・・・をお願い致したい。
       明治4年7月2日                                      竹生島総代 妙覚院(印)

「願文」を携行し、妙覚院覚以僧都・総持寺役者は大津県庁に出頭。
山田権大属は先ず総持寺役僧を応接場に呼び出し曰く
「今般竹生島弁財天を都久夫須麻神社として崇敬なされ度、思召しにて、御達になりたる者なり、夫れを彼是と申せば、朝敵同様なり、明治初年4月阪本山王の馬場にて山王社の仏体仏器等を焼き捨てたるともあれば、万一左様の事に相成らんにも限らず、ここを能々考慮すべし、たとえ白きものを黒きと被仰出候共、朝廷よりの仰を背くとは出来ず、その方等左程までに仏法を信ずるなれば、・・・・、天竺国に帰化すべし、今県庁より達する通り御受けせざれば、・・・・自然焼払などのなれは、如何に致すや」
総持寺と妙覚院は「また時を持て上願することにして、数行の涙とともに御受する」こととなる。

     言上出願
先般弁財天社、自今都久夫須麻神社と御改称被仰出、奉敬承候、
(以下略)
      明治4年7月4日                竹生島総代 妙覚院(印)
   大津懸御庁                                     

同日付けで「総持寺」からも「受書」が提出される。
その後、以下の願書を差し出せり。
                                                  拙僧儀
今般 御趣意奉戴、復復飾神勤仕度、此旨御聞済被仰付候はば難在(ママ)仕合に奉存候、以上
        明治4年7月                                 常行院 覚潮  」
宛先は「大津懸御庁」で竹生島総代妙覚院の「添書」があり、
【付箋】 願之趣き 御聞済被成下候御事、

 かくして後、弁財天社の尊像は不取敢観音堂に移し置き、その後妙覚院の座敷を取り繕ひ、此れに安置せり、今猶此処に在す。
又都久夫須麻神社は、俄かに弁財天の古堂を以て神社とせしなれば、其神霊とすべきものなし、・・・・(復飾神勤となりし)覚潮と覚以協議の上、宝厳寺の宝物中より、2個の品を取出し、之れを神霊として安置す、ここに始めて都久夫須麻神社といふもの新たに出来たり。
(中略)
「・・・天部の神を祭るに天部の名を以てし、又それが為に造りたる仏堂に納むる者は豪もこれに関与せざるや明かなり。
そもそも竹生島弁財天社の如きは、・・聖武天皇釈氏の説を信じ玉ひ最勝経説に拠て、弁財天を刻して此の所に安置し賜ひ、玉体安穏天下泰平五穀成就を祈祷せしむ所と定めれらたり、之に弁財天社と命するも、弁天堂の名を以てするも、何の不可なると之れあらん。
聖武天皇はこの宝殿を岩金山太神宮寺大梵湧楼飛殿宮と勅命し玉ひたり、太神宮寺と命名し賜ひたる所以は、天照皇太神の御夢託に依り、本堂閣を建立せられたるを以てなり、・・・而して後世弁財天を祭る宮なるを以て、之を弁財天社と称す、是また何ぞ異むに足らんや・・・。 」

さらに、大津県庁の「竹生島弁財天社、自今都久夫須麻神社と改称」する根拠の疑いについての詳述がある。
その概要を下記に纏めると、おおよそ以下の通り。

懸史田中某の達示により、覚以より奉呈せし竹生島縁起に以下の【付箋】があり、その【付箋】には、宝厳寺は神社であることの根拠が標される。

竹生島縁起の考霊天皇代の縁起の条に
第一の【付箋】「帝王編年記の文と大同小異あり」
古老口伝の条に
第二の【付箋】「古老口伝に、宝石者、自神代有之、浅井姫命下坐石上と云ひ、今地主と云ふ、神域の鉦たる参考に備ふ可し」
成務天皇の縁起の条に
第三の【付箋】「故に穴太氏為祝部累代奉仕と、この時未混淆また神域の証とすべし」
天平宝宇8年の縁起の条に
第四の【付箋】「伊呂波字類抄云、竹生島在近江国、この島在依中臣奏上件神奉授従五位上勲八等、ここの説と合、また神域の証とすべし」
一条院御宇の縁起の条に
第五の【付箋】「従神代迄聖代と、仏法未伝のとき、巳にこの神在ことを云、然れは、弁財天なりと付会せること、自から了然たらん哉」

第一の【付箋】については、浅井姫などの系譜などには諸説があり、様々な解釈があるということだけのことと思われる。
第ニの【付箋】については、自神代有之の文言を捕えただけのもので、また、地主と号すとは弁財天とは別の神社があるとの証拠には成りえても、「弁天社は・・都久夫須麻神社なりとの証拠」にはなりえない。 云々。
第三の【付箋】については、ただ「祝部」の二字を以て、神域の証拠に取れり。云々
第四の【付箋】については、伊呂波字類抄の説をとりて縁起に記載したのか、竹生島縁起から伊呂波字類抄に記載したのは詳らかにせず、云々
第五の【付箋】については、この神とは一体何の神であろうか、そもそもここで云う「神代」という文字は「以上古よりという意なり」、云々
「そもそも、【付箋】云ふ所は、都久夫須麻神社は弁財天より以前にありしと云ふ証左迄にて、弁財天の宝殿を以て都久夫須麻神社の正殿なりと云へる証拠と為すに足らず、」
「社殿のなき神は少なからず、又縁起式に記載ある神社も廃絶せしものあり、栗田郡の意布技神社、浅井郡の岡本神社等は、縁起式に記載さるも、今その社を知る能はず、」

都久夫須麻神社の「延喜式」での記載の扱いは単に小社でしかも最後の記載順序でしかない。もし、都久夫須麻神社が弁天社と同一とするならば、天皇自ら祭祀を行う弁財天社であれば、小社などの扱いには決してならないであろうと思われる。
且つ、
都久夫須麻神社の祭神について、矢野玄道(安政年中妙覚院文専の需に応じて)の「竹生島温故」では、「凡そ天下の神書を集めて、・・調へたるも、竹生島の祭神は判然せず」「神祇専門の人々も・・この祭神は知る人あるなし」とあり 、さらに「何となれば、島の秀霊を以て地主とし祭られたものなればなり」とも云う。
 ※都久夫須麻神社の祭神は少なくとも弁財天ではないとの明言がある。

弁天社は、その後、貞永年中(1232−)に焼失、再興。
享徳3年(1454)焼失、再興勧進は大弁財天の霊場として実施されるも、再興伽藍も永禄年中(1592-)に再び焼失。
この再興は秀頼内大臣が片桐且元を奉行としてなす。この再興はいずれも極彩色であった。
要するに白木掘立萱葺千木の神社建築ではなく、「何人も一度竹生島に詣り、拝観せば、一目瞭然にして仏閣にして神社にあらざることを知るなり」 ということであった。
(後略)

「弁天堂を以て直ちに都久夫須麻神社なりと認むるは即ち不可なり」
「一人の地主あり、その家を失ひ、借地人自ら建築して住居せる家屋を指して、直ちに我が家なりとし、借地人を放逐して、地主たるもの・・・その家屋に住めば、借地人たるものこれを肯諾するや否や」

「竹生島には小島と大島あり」「小島は大島(竹生島)の元島なり、これが島の柱礎なり」
「小島は不動にして、大島は浮遊せり」ゆえに「毎年3月2日に雌雄綱を以て小島より大島を繋ぎし」「島繋ぎ」の神事がある。
「この小島の頂上に一基の社殿あり、これが根本の神社なり」
「大島(竹生島)なる東北の辺に古びたる拝殿の樹陰に在るをみる」「小島を拝する拝殿なり」
「竹生島寺の住職になるには、別火して百個日間、この小島の拝殿に行き、・・・勤行を為すなり」
「これは比叡山の阿闍梨行・竹生島の小島行きとて、世に名高き執行なり」
「小島は地主神の在すところにして不動なり」
「これ等を吟味すれば・・・・小島に祭るところは是れ都久夫須麻神社なり、この島固有の神なり、即ち地主神なり・・・・」
「浅井姫命、此石上に下り坐ますと云へる・・・小島は是れその神体(大和大神神社の三輪山の如く)なるか」
「小島の上に鎮座する紗を指すも可なり、小島そのもの直ちに神体なりとするも、亦可なり」
「この小島を離れて、都久夫須麻神社を索むるの地はなかる可し」
「永禄10年の小島権現の正殿を再建せし棟札今尚存す、・・・・全面を写し、・・掲ぐ」

「明治初年大津懸の達書等も、皆この弁財天の隆盛なるに眼眩み、当時流行せし唯一神道主義に心惑はされ、厳然たる神社在るにも拘はらず、弁財天の古堂を以て、恐れ多くも都久夫須麻神社の神霊を祭るに至れりなり」

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以上が「竹生島要覧」河邨吉三、明治33年、「明治維新神仏分離資料」所収の概要である。

なお上記に掲載されている
永禄10年「小島権現再建遷宮棟札」には多くの大阿闍梨・大徳の他に、竹生島の坊舎であろうと思われる院号があるので、以下に挙げておく。
 即ち、竹林坊円運、不動院行意、法輪院行印、光輪円棋、明王坊清雄、妙覚院快忠、常行院静秀 とあり
当時はこれ等の院坊が竹生島弁財天社一山を経営していたものと思われる。

1.田中懸属曰く「尚政府に於いても取調べの上、追ってご沙汰あるべし」との言質があり、これに依ると、地方官は東京の神祇省などに報告・指示を仰いでいたことが推測される。
それゆえ、明治2年の「伺い」の提出から、処置の下達が明治4年にずれ込んだものと思われる。
2.山田権大属が総持寺役僧に告げた「諭し」は「朝敵」「坂本山王社の焼き討ちと同様の結末」などの文言があり、これは恫喝以外のなにものでもない。いかに「強圧的」に佛教側に対応したかが良く分かる。
3.竹生島宝厳寺弁財天社を都久夫須麻神社とした理由は、ほとんど「言いがかり」に類するものであった。
これは、逆に言えば、「ほとんど理由がないことの証明」であったと云える。
4.竹生島北東に小島があり、そこには小島権現がある。
その由緒・それに纏わる行事などから、小島権現が地主神であった可能性が高いことが論証されている。
「延喜式神名帳」に記載のある「都久夫須麻神社」なるものがあったとすると、この論証が最も妥当ではないか。
 ※小島権現については以下を参照。

◎近江小島権現
2004/11/27追加:参考;
 竹生島及び小島地図:竹生島(大島)の北東に小島がある。
   往時、小島は琵琶湖の底から聳え大島(竹生島)は浮いているとされ、大島が流れないように注連縄で結合されていたという。
   即ちこの小島が主で、大島(竹生島)は従であったと伝える。
 竹生島鳥瞰: 同上。航空写真。大島の北東に小島がある。
 小     島: 小島の写真(某WEBサイトから)。なお、かっては小島にあったという社殿は、現在、この小島には無いと云う。
2010/01//10追加:
 ○岩金山大神宮寺竹生島絵図:江戸末期・・・・上に掲載
   ※絵図右端に小島が描かれ、小島から大島(竹生島)が流されないように繋留する注連縄が描かれる。
    小島には小島明神の社殿があり、大島には拝殿がある。
    以上を見ても、地主神があるとすれば、小島(小島明神)が地主神であることは明白であろう。
 ○近江国絵図・部分図:天保8年(1837)の部分図、「琵琶湖/竹生島の沈影」 より
   ※竹生島右に子島が描かれる
 ○「竹生島の小島」早崎観縁(「滋賀県地方史研究 第4号」平成6年 所収) より
 竹生島には新旧2つの縁起(一つは承平元年・931で、もう一つは応永21年・1414のものである)が残るが、何れも天平10年(738)行基の開創とする。東大寺山綱紀では「竹生島寺 在淺井郡湖中 僧坊16宇 本尊大弁才天女 行基開基」とする。
 竹生島自体が湖中の絶界であり、霊地であったが、東に位置する小島は地霊が宿るとされた。
小島には小島堂が造営された。正中3年(1326)の勧進沙門素達の丈には「1間四面宝殿1宇小島権現宝殿也」とある。この小島堂は小島明神、島守大明神などとも云われ、様々な絵図などに描かれる。そしてここでは小島行と云われる修行が行われた。
また、何時しか向いの大島に小島拝殿が設けられた。(「竹生島明細帳」:拝殿2間半四面 但し大島にあり、小島を遥拝す)
明治12年小島堂再建(間口1尺5寸、奥行2尺)となり、さらに後には1尺×1尺2寸に縮小される。
昭和35年頃まで島結の儀式が執り行われた。これは盛大な儀式であり竹生島寺を挙げた大祭礼であった。要するに大島の根元である小島に大島を繋ぎとめる儀式であり、最終的には途絶しかつ絶壁の小島に入堂・本尊への供物献上・読経などであり、全島全寺を挙げて行われた。
 小島堂本尊:「竹生島明細帳」では法華経十羅刹女、当島の鎮守で小島権現または小島明神と称す とする。
島結の儀式は小島・大島を注連縄で結ぶ儀式もあるが、これは年間で2日だけのことで、行事の終りには水中に切り落としたと云う。であるので、小島と大島が綱で常時結ばれていると漠然とした認識があるとすれば、それは間違いである。

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2018/08/31追加:
○「竹生島における神仏分離について」佐々木孝正(「大谷学報 55 ( 2 ) 」大谷学会、1975-09 所収) より

1)竹生島の近世以前の状況:
 承平元年(931)撰述の「竹生島縁起」は浅井姫命の鎮座を語る。さらに、「大神」「七所神子」と呼ばれる龍神が島に祀られていたという。
異伝として龍神は長さ千丈の鯰とも語られ、要するに浅井姫命は龍又は鯰の伝承があるように、水神であった。従って「延喜式内」の都久夫須麻神社は水神の性格を持つ浅井姫を祀ったものであることが分かる。仏堂としては承平元年には千手観音像を安置した験堂と延長8年(930)建立の法華三昧堂があったと伝えるも、未だ弁才天を祀る弁天堂は存在しない。さらに縁起は竹生島神の託宣によって、僧侶がその祭地を島の乾から巽に遷したといい、竹生島神社の神宮寺の成立と活動を伝えている。
 竹生島弁才天は應永22年(1415)撰述の「竹生島縁起」では延暦7年(788)最澄が叡山の仏教守護の為祀ったことに始まるという。
しかし、確かな文献上の初見は「江談抄」(12世紀初頭)に「島主弁才天」とあるのがそれである。12世紀初頭には浅井姫と弁才天との習合が進み、竹生島の僧侶によって、おそらく弁才天が浅井姫の本地と唱えだされたのであろう。
 次に中世以降の堂舎について注意して見ると、貞永元年(1232)沙門良全の竹生島造営勧進状には、観音堂のほか、神殿としたは弁才天、島守大明神、小島権現の三社が挙げられ、正中3年(1324)勧進沙門素達の勧進状にも修造すべき神殿として「三間四面宝殿一宇、即是弁才天御坐宝殿也」と述べるほか、島守大明神宝殿(一間四面)一宇、小島権現宝殿(一間四面)、七所王子宝殿(一間四面)七宇の計10棟の神殿をあげている。島守大明神と七所王子は承平元年の縁起が語る島の大神とその神子七体であるが、注目すべきは弁才天は島の中心宝殿に祀られるが、浅井姫を祀る神殿はないということである。これは、中世に至って島の仏教霊場化が進み、竹生島寺の住僧や山伏・修験の徒によって島の信仰管理が行われるのに従って、本来は本地堂と建立せられた弁天堂に、垂迹した浅井姫も併祀されるにいたったということだろう。
 ※弁才天堂が神殿として扱われていることに拘泥しすぎであろう。実際は中世には浅井姫命を祀る神殿は廃絶し、それ故浅井姫を祀る神殿はなかったのではないか。
 「近江邦菅浦荘与大浦下荘繪圖」(乾元元年/1302)では、島の南の社地に弁財天社本殿一棟とその左右両脇に小社殿2棟、さらにその前方に拝殿等の建物が描かれる。またその西には竹生島寺の堂舎が描かれる。上記でいう本殿の左右の小社殿2棟は島守大明神と七所王子の社殿であろう。この竹生島の伽藍配置は近世を通じて殆ど変化はなかったものと思われる。
 近世に入ると、島の伽藍・祭神はどのような見方をされていたのか。
 宝暦7年(1757)の竹生島年中行事の書上げには弁才天社本殿を宝殿・御殿・本堂と称し、本殿両脇前方の2社殿はただ「両明神」とのみ語り、神名を明らかにしていない。
 「近江國輿地志略」(享保19年)では現今、竹生島神社の祭神は弁才天であるが、弁才天は佛徒の仮託にすぎず、正しくは宇賀神を祀るという。
 貝原益軒も竹生島の祭神は市杵島姫もしくは宇賀神とし、「延喜式には浅井郡都久夫須麻神社と称す、浮屠はこれを弁才天也と云」と述べる。
 「木曽路名所図会」は本社弁才天女は延喜式の都久夫須麻神社の当たるが左右の社殿には宇賀神を祀るとしている。
 以上から、近世には竹生島は「弁才天の霊島である信仰が卓越していたために、祭神浅井姫の神名は次第に閑却せられ、一般には弁才天宝冠中の白蛇を指し、弁才天の別称ともなっていた宇賀神などを祀るものとみなされ、祭神の名称に諸説が唱えられる」状況であった。

2)竹生島における神仏分離:
 明治初頭の竹生島には神職はおらず、竹生島寶厳寺は妙覚院、月定院、一条院、常行院の一山四院によって管理運営されていた。
それ故であろうか、神仏分離の強権発動に対して、僧侶側の抵抗は激しいものがあり、それらを含む竹生島における神仏分離の処置(権力の宗教への介入)の概要は上述の○「竹生島要覧」河邨吉三(「明治維新神仏分離資料」明治33年 所収)のとおりであるので、そちらを参照。
 神仏分離の処置は、最終的には次のような結末であるので、確認をしておこう。
明治4年2月大津県庁は「竹生島弁財天は都久夫須麻神社と改称」との達書を竹生島僧侶に手交する。
竹生島僧侶は竹生島堂舎・仏像・仏器などの破壊を怖れ、やむなく、それを受諾する。合わせて寺地と社地の境界引分けのこと、弁才天は移座し従来のとおり僧侶による奉仕を行うこと、常行院覚潮は復飾し生島常之進が神勤することも条件とする。
以上により、弁才天は観音堂へ一時移座、ついで妙覚院座敷へ移る。都久夫須麻神社は神体がなく、寶厳寺宝物中から2品を選び神体として安置してスタートする。
明治7年寺地と社地の境界が決定、明治16年妙覚院峯覚以と生島常之進は協議して、寺院と神社の備品を振り分け引受品を区分する。
かくして、この頃、竹生島の神仏分離はほぼ完了する。

 しかしながら、神仏分離の過程について、著者(佐々木孝正)の独自の見解があるので、それに言及する。
明治4年11月神職生島常之進は改称したばかりの都久夫須麻神社の社殿内部の状況を報告し、神社としてどのように改装するかの伺いをたてている。
その報告では、内部は縷々佛教の弁天堂としての内部荘厳であったことが報告される。しかしこれについては、筆者は寺院側の管理体制を守るかの観点から述べたもので、疑わしいものであろうという。また、この建造物は神殿としての機能も合わせ持つものでもあるはずで、仏式一色というのはありえないであろうともいう。
 ※神仏分離の処置後に、僧侶側このような細工をする意味がないであろう。一歩譲って、あえて意味があるとすれば、本殿(旧本堂)に残された厨子・仏像・仏具・扁額などを寺院側に取り戻すための画策ということは有りうるのかも知れない。
 さらに筆者は、祭神浅井姫命や都久夫須麻神社の社号が近世末や明治初頭に全く忘却せられていて、明治2年の官憲の指摘によってはじめて気づいたとするのも極めて疑問であるという。なぜなら「近江國輿地志略」や「木曽路名所図会」には言及されているからである。
 ※島内には都久夫須麻神社の痕跡はないのが事実であろう。都久夫須麻神社は島外の何処かにあったか、もし当時島内にあったとしても、それはとっくに廃絶したか、實は小島権現がそれであるという可能性が高いのではないか。
 また、筆者は、安政6年3月竹生島妙覚院文専は矢野玄道(幕末・明治の復古神道家)に、諸説まちまちで不分明と考えられていた竹生島祭神の神名についてその考証を求め、併せて竹生島史の略述を依頼するという事実があるという。矢野はこれにこたえ、「竹生島温故」を著述する。その中で、祭神を弁才天とすることを仏家の妄説として退け、浅井比賣が正説で、都久夫須麻神社が本来のものであると指摘するという。
以上のように、竹生島の住僧の依頼によって、矢野は「竹生島温故」を著したわけで、従って、竹生島住僧は矢野の結論を知っていたはずであり、この意味では住僧は浅井比賣や都久夫須麻神社の名を知らないと装ったのでないかという疑念があると筆者はいう。
 ※矢野玄道の人柄・論理など詳細を承知しないので、一般論でいえば、矢野とは平田篤胤の門下であり、国学・復古神道の権化である。その玄道に竹生島の祭神などの考証を求むれば、浅井比賣や式内社都久夫須麻神社に付会するのは火を見るより明らかで、何をかいわんやである。国学者や復古神道家の学問の意義は、現代の精神を古代にあったであろうと幻想する神道に作り替えることにあり、そのための学問であったからである。< → 矢野玄道 など参照>

なお、本論文は「蓮華会」についての本質や神仏分離後の「蓮華会」の歴史について論述するが、これについては割愛する。


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