筑  前  竈  門  山  (  宝  満  山  )

筑前竈門山(宝満山・宝満大菩薩)

筑前宝塔院

宝満山(竈門山)には六所宝塔の内の一つ「筑前宝塔院」が建立される。
六所宝塔: 概要:初期多宝塔
 安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存 上野緑野寺跡
 安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮)→筥崎神宮寺宝塔に変更 八幡宇佐宮 筥崎神宮寺
 安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、近年本谷礎石群が発掘され、この遺構であるとほぼ断定される。
 安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺) 下野大慈寺塔跡
 安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院 比叡山
 安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院 比叡山

筑前宝満山本谷遺構(本谷「妙見祠礎石群」、推定筑前宝塔院跡

○2011/03/13追加:
「宝満山の地宝 宝満山の遺跡と遺物」小田富士雄、太宰府顕彰会、1982 より
 本谷地区地形図:B地点に妙見祠礎石群がある。
A地点は近世には妙見原と呼ばれたところで、B地点の妙見祠はここに鎮座していたが、溜池築造時にB地点に遷座と云う。

 宝満山妙見祠礎石群略図:左図拡大図
1981年2日間で調査する。
現存する礎石は9個、礎石の根石が残存する礎石抜取穴5ヶ所、不明の堀穴2ヶ所を確認、心礎は妙見祠があり未確認。
中央間は10尺、両脇間は8尺を測る。
基壇側面には部分的に3列の積石が露出する。側柱礎石より各々10尺、13尺、18尺である。
基壇の南及び西には平坦部5ヶ所が確認でき、遺構の存在が考えられる。

 妙見祠礎石群礎石:番号は左図の番号に対応と云うも良く分からない。

なおB地点からは古瓦が採取され、何れも平安期に属するものである。

 国土地理院地形図:宝塔遺構位置図

○2009/02/04追加:宝満山(竈門山)遺跡
 平成20年(2008)本谷礎石群の発掘調査が実施され、その概要が明らかになる。
本谷礎石群は太宰府市大字内山字本谷に立地。
昭和56年(1981)大宰府天満宮文化研究所・小西氏によりこの遺構が発見されると云う。
 ※当時、ここには妙見祠があったことから「妙見祠礎石群」として報告される。(「宝満山の地宝」大宰府顕彰会、1982)
 ※妙見祠は現在、本谷池の近くに移されると云う。
礎石群は3×3間の基壇を伴う礎石建物で、南に石階の存在が推定される遺構であり、この遺構は以下の記録(「大宰府牒」承平7年<937>)より、筑前宝塔院跡ではないかと推測される。
 「大宰府牒」承平7年(937):(「石清水八幡宮文書之二」所収)
「府牒 筥崎宮 応令造立神宮寺多宝塔一基事
 牒 得千部寺僧兼祐申状偁、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇所宝塔、一一(?)塔上層安置千部経王、下壇令修法華三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔也、就中竈門山分塔、沙弥証覚在俗之日、以去承平3年造立已成。
上安千部経、下修三昧法、宛如大師本願、未成一処塔者、謂字弥勒寺分也、伝聞弥勒寺未究千部、書写二百部之間、去寛平年中悉焼亡乎、爰末葉弟子兼祐、添歎大師遺書之未遂、寸心発企念、弥勒寺分経火滅之替、於筥崎神宮寺、新書備千部、造一基宝塔、於上層安置千部、下間令修三昧、以可果件願、然則始自承平5年、且唱於知識令写経王、且運材木捜於彼宮辺巳了、彼宮此宮雖其地異、早欲造件塔、仏事之功徳、凡為鎮国利民也者、府判依謂、宮祭之状、早造立将令遂本願、故牒、
       承平7年10月4日 大典惟宗朝臣(花押) 参議師橘朝臣『公頼』」
 ※弘仁八年(817)伝教大師六所宝塔院造立を発願。承平三年(933)沙弥證覚、筑前竈門山の宝塔を建立。
 多宝塔の構造は二層堂で、上層は千部の法華経を安置、下壇では法花三昧行を修法の機能を持つ。

○2009/02/04追加:
平成20年大宰府市教育委員会が発掘調査を実施。
 (2008年3月21日 読売新聞)記事:「筑前宝塔院か、宝満山遺跡から礎石や瓦が出土」
広さ約25m四方の土を盛った基壇(高さ約2m)の中央部で、約8m四方の正方形の建物跡の礎石と、礎石が置かれていたと見られる穴計16ヶ所を確認した。基壇の周囲には土留めの石列があり、南側と東側には階段があった。遺構からは平安期(8〜11世紀)の土器や瓦、金銅製の仏像(高さ12cm)が出土。
宝満山には承平7年(937)筑前宝塔院が建立されたとの記録が残る。また、宝満山遺跡の上には約30年前までお社があり、ご神体には「宝塔」の文字が刻まれていたという。この遺跡について、太宰府市教委では「証拠はないが、(遺構が)宝塔院の可能性も否定できない」としている。

なお、竈門山に建立された宝塔の位置については、当初は内山地区周辺、さらには下宮礎石群が宝塔ではないかという説もあったが、この本谷礎石群が竈門山宝塔院である可能性が高いと思われる。勿論当初の六所宝塔の規模などは明らかではないが、発掘された堂々たる基壇および一辺の規模などから見て、当遺構は「下壇令修法華三昧」の堂の機能を十分に果たす遺構と思われる。

○2009/02/04追加:
2008/03/22宝満山遺跡現地説明会が開催される。
その様子は○宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)のブログにあるので転載する。
 宝満山推定宝塔院遺跡:見事に1間四面堂の遺構を窺うことができる。
 宝満山推定宝塔院南石階     宝満山推定宝塔院西石階
  ※もしこの遺構が「安西:筑前:宝塔院」であるならば、この「宝塔」は平面5間の天台大塔形式や平面円形の一重塔の宝塔ではなく、
   平面3間・上重円形の多宝塔か上重も方形の二重塔形式であったことになる。
   しかも、その一辺長(一辺7.8m)から見て、大規模多宝塔であったことになる。
 ◆宝満山遺跡第34次発掘調査(「本谷礎石群」もしくは「妙見礎石群」)
礎石建物跡1棟を確認、基壇は一辺25mの方形で、2段もしくは3段の石列を廻らす。南側正面と東西の斜面には石階を設置。基壇上には礎石及び礎石抜取穴を確認、中央間 は3.0m、両脇間は2.4m(一辺7.8m)を測る。

○2009/04/10追加:
 2009/03/28「X」氏撮影画像
 宝満山宝塔跡土壇:遺構跡は立ち木が切られ、明瞭に塔跡土壇を窺うことが出来る。
 宝満山宝塔跡1:写真中央やや右上に崩れた石組が見られるが、これが妙見祠の基壇跡で、ほぼ宝塔の中央に位置する。
  この周囲には原位置を保ついくつかの礎石が露出する。
 宝満山宝塔跡2:写真上やや右の石組は妙見祠檀の残礎で、写真左側縦一列に3個の礎石が並ぶ。妙見祠檀は宝塔跡中央に位置すると
  思われ、だとすれば、左側縦一列に並ぶ3個の礎石の一番下は脇柱礎・中央間の1個であり、上2個は四天柱礎の2個であろう。
○2011/04/13撮影:
 宝満山宝塔跡11     宝満山宝塔跡12     宝満山宝塔跡13     宝満山宝塔跡14     宝満山宝塔跡15

再興石造安西筑前宝塔

○2009/02/04追加:
 (2009年1月10日 読売新聞)記事:「筑前宝塔院跡?含む山林を天台宗が買い取り、保全へ」
宝満山遺構を含む山林は延暦寺が買い取るとの交渉が進展する。
 →2011/03/13追加:天台宗が山林1200平方mを買い取りと云う。

○2011/03/13追加:
「天台ジャーナル 第81号 2009/12/01発行」
宝満山と宇佐神宮に「宝塔」を建立
 ・・・「六所宝塔」・・は、歴史の流れの中で失われ、当時のものは現在残っていない。そのため、伝教大師の遺徳を偲び、大師顕彰の意味を込めて法華経を納める宝塔(如法経塔)が、九州・太宰府宝満山の安西筑前宝塔跡と宇佐神宮に、それぞれ建立され、 (2009年)十一月十六日に宝満山で、また十七日には宇佐神宮で除幕法要が厳修された。
 ・・・宝満山の遺跡発掘調査は、平成二十年に太宰府教育委員会によって行われ、裾部の一辺が二重の基壇を持つ三間四方の礎石建物が発見され「本谷礎石群」と呼ばれた。その後の調査で基壇周辺より平安期の瓦や小金銅仏などが出土し、年代や文献とも一致した。
 ・・・この発見が契機となり、天台宗では、天台宗開宗千二百年慶讃大法会の記念事業の一環として、宗祖伝教大師顕彰を含めて宝塔を建立することを計画。九州西教区が中心となって宝満山に、また九州東教区の尽力で宇佐神宮に宝塔が建立されたものである。・・・
○2011/03/13追加:
サイト:宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)
 「安西塔落慶法要」では落慶法要の様子が、
  「六所宝塔安西塔の開眼供養」 のページでは○安西塔開眼供養の写真が、
   「安西塔が石造で宝満山に再建さる」 のページでは○再興石造安西塔の写真が掲載される。
○2011/04/13撮影:
 竈門山石製六所宝塔1     竈門山石製六所宝塔2
竈門山石製宝塔実測値は以下の通りである。
   初重一辺3尺、下重一辺5尺、初重屋根一辺5尺、高さ9尺を測る。

竈門山概要

◎概要
竈門山は上宮、中宮、下宮と配置され、中宮には講堂、神楽堂、鐘楼、石の鳥居、荒神社、法華塔、九重塔などがあったが、今は全て廃絶する。江戸期の座主坊である楞伽院は上宮を少し下ったところにあったと云う。 (壮大な石垣積の平坦地が残る。)

2011/03/13追加:
◎「太宰府市史 通史編1」太宰府市史編集委員会、2005 より
竈門山寺は宝満山に鎮座する竈門神社の神宮寺で、竈門神社や竈門山に由来する通称で、古代に一度だけ文献に現れるが、それ以降は大山寺・有智山寺・内山寺の名で現れる。
大山寺(ダイセンジ)→内山寺(ダイセンジ)→内山寺(ウチヤマテラ)→有智山寺の関係にある。
延暦22年最澄が逗留して以来、比叡山と深い関係を持つ。
12世紀初めには豊前弥勒寺や筑前観世音寺と所領を争う。
長治2年(1105)には延暦寺末寺との記録が残る。
慶長2年(1597)小早川隆景による復興、寛永18年(1641)伽藍の一部焼失、福岡藩主黒田忠之による再建がある。
遺構としては下宮礎石群、妙見祠礎石群がある。
妙見祠礎石群は下宮から東北に約700m離れた尾根の先端部平地にある。方3間の建物に復原できる。
建物規模は一辺8+10+8の26尺を測り、基壇最下段の一辺は焼く16mとなる。

2011/03/13追加:
◎「宝満山の環境歴史学的研究」森 弘子、太宰府顕彰会、2008 より

◇「宝満山絵図」:西図<太宰府側から描く>と東図<筑紫野側から描く>とがある。描写された情景から中世末期〜江戸初頭の景観を描いたものと推定される。
 宝満山絵図東図
 宝満山絵図東図b:文字情報書き入れ図:ただし上宮から向かって左の稜線上には多くの書き込みがあるが、これは省略する。
 2011/04/07追加:
 「宝満山近世僧坊跡の調査と検討」岡寺良(「九州歴史資料館研究論集33」2008 所収) より
  宝満山絵図東図・部分図
◇「筑前国続風土記附録」挿絵:平岡邦幸氏蔵

筑前国続風土記附録挿絵:左図拡大図
筑前国続風土記附録挿絵b:文字情報書き入れ

太宰府側から見た宝満山を描く。江戸後期成立。

その他の絵図として以下が知られる。
「竈門山図」奥村玉蘭、文政5年(1822)
「宝満山山中絵図」「筑前国分間一郡切之絵図」寛政11年(1799)<中野幡能著「筑前国宝満山信仰史の研究」の巻末附図>
 → 2012/01/20追加:
○「筑前名所圖會 四」奥村玉蘭、文政5年(1822)もしくは文政4年 より
 竈門山図:全山がこれ神仏習合の山であったことが普く描かれている。
 竈門山坊舎記事:座主坊楞厳院と号す
岩本坊、寂光坊、仲谷坊、南之坊、鳥居坊、修蔵坊、大聖坊、東院坊、福寿坊、浄善坊、福泉坊、浄行坊、財徳坊、伊多坊、尾崎坊、新坊、道場坊、井本坊、松林坊、 西井坊、亀石坊、奥之坊、経蔵坊、福蔵坊、大谷坊、常道院は滅罪寺也以上27坊・・・
 座主坊楞厳院上宮裏躰の圖:座主坊跡石垣及びその平坦地は今尚その姿を留める。

2013/08/09追加:
◇「旅行手記」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」 1975 所収) より
 ※「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」では、「社寺雑記」(野帳)にありと云う。天保8年(1837)武四郎20歳の時、安楽寺天満宮を訪れるというから、この時竈門山を訪れたのであろう。
  所圖竈門山寳満宮

◎「筑前国続風土記」貝原篤信<益軒>著、元禄元年(1688)〜宝永6年(1709):
 「筑前國続風土記 巻之七 御笠郡 上」:
  仏教に関係する記事の抜粋は、およそ以下の通り。
 ○竈門山
「・・・前略・・・天武天皇の御宇、心蓮上人といふ僧、初て此山に寺院をかまへ、宝仲寺と号す。法相宗なり。
心蓮上人は白鳳12年6月10日寂す。仏頂山東尾寺其居所なり。即ち仏頂山に墓所あり。仏頂山はかまど山の北に在て、竈門山より高し。其後やうやく繁栄して、有智山、南谷、北谷。三所の僧舎すべて370坊ありしとかや。此内300坊は衆徒方とて、もっぱら経説を学ぶ。70坊は行者方とて、専戒行をつとめて、入峰を事とす。今もむかしの僧坊の跡三所に残りて昭々たり。
文武天皇の御宇に、役小角登山して、・・・・修験道者、・・・此山を以修法の場とし、・・・・
延暦21年伝教大師入唐安穏のため登山して、竈門神に祈り、薬師仏7体を作り、7ケ所に安置す。此比より変じて天台宗となり、叡山に属せるならん。・・・中略・・・
延暦21年弘法大師登山して、・・・求聞持の法を執行・・・求聞持同あり。・・・・
弘仁9年4月、伝教大師有智山の辺におゐて、宝塔院を建つ。是日本国六所宝塔院の一也。所謂六所宝塔院は、・・・・・
弘治3年豊後の国主大友宗麟、・・・検地せんとす。・・・宗麟・・寺院僧坊に課役をかけ、堂社破壊・・其跡を墾きて田となす。・・・270区ありし僧坊も衰微して、わずかに25坊に成ぬ。今所在の25坊は是皆行者方なり。衆徒坊猶2坊ありしが、その後滅びぬ。2坊は善如坊・浄泉坊 是也。
・・・・
文禄2年小早川隆景登山あり。・・・隆景米100石寄進・・・隆景宝満の社造営あるべきとて・・・慶長2年に至て作り終わる。神殿、拝殿、講堂、神楽堂、鐘楼、行者堂、末社等、・・成就せり。・・・
寛永18年2月、火災おこりて、講堂、神楽堂、鐘楼、行者堂、一時に焼失す。・・・
慶安元年、国主忠之公、・・・当社造営の事始あり。・・神殿(方2間半)、拝殿、(2間3間)講堂、神楽堂、鐘楼、行者堂、薬師堂、護摩堂当旧慣(ママ)に復せり。・・以下後略・・・」
 ※心蓮上人:法相宗僧、元興寺僧・道昭と同時代の元興寺寺僧。白鳳2年(673)年、筑紫大宰府の背稜・宝満山(竃門山、三笠山)を開山、同山に法相宗・竃門山宝仲寺、その山頂に草庵(仏頂山東居寺旧東尾寺)を建立し、修法を行う。心蓮、同山にて玉依命の神託を受け、天武天皇の勅を得て竃門山上宮を建立。

◎2008/07/21追加:「太宰府めぐり」伊東尾四郎、森岡書店、明35.4
竈門山:宝満山とも云ふ。古来修験者の修法場として名高く、維新前では修験25坊存したり。
「筑前国続風土記」では:
白鳳年中に年心蓮上人、初めてこの山に寺院を構え宝仲寺と号す。法相宗なり。
その後繁栄し、有智山・南谷・北谷、三所の僧舎370坊在しとかや(三百は衆徒、七十は行者と云う)
文武天皇代、役小角登山し修法す。延暦21年伝教大師登山し、祈願、天台宗に転ず。
今所在の25坊は皆行者方なり。寛永の初めまでは衆徒方2坊(善如坊・浄泉坊)在しがその後滅びぬ。・・・
「太宰管内志」では:
坊舎25坊は山上に住す。坊号は
平石坊、南ノ坊、東院坊、福寿坊、大聖坊、修蔵坊、中谷坊、福泉坊、浄行坊、松林坊、浄善坊、井ノ本坊、道場坊、鳥居坊、新坊、尾崎坊、財徳坊、伊多坊、亀石坊、奥ノ坊、西井坊、大谷坊、福蔵坊、経蔵坊以上25坊なり。或道院は当山の無常院なり。
「竈門山水帳写」寛文11年(1671)では
修蔵坊、富倉坊、歓明坊(大聖坊)、南之坊、楞迦院(平石坊)、福泉坊、経蔵坊、東院坊、浄善坊、道場坊、鳥居坊、新坊(財行坊)、尾崎坊、福寿坊、松林坊、井之本坊、財徳坊、市坊、伊多坊(栄門坊)、亀石坊、岩本坊、金凝坊、福蔵坊、大谷坊、浄行坊、寂光坊、普内坊、奥之坊、仲谷坊 の名があると云う。

2011/03/13追加:
◎「宝満山の環境歴史学的研究」森 弘子、太宰府顕彰会、2008 より
 中宮:中宮は八合目の平坦地にあった。寛政9年(1797)「山中絵図」では、入口は石階で、右に三宝荒神、鐘楼があり、石階上に鳥居、その右に神楽堂、正面に大講堂(四間半四方もしくは三間×三間半、屋根栩葺、本尊は本地十一面観音)がある。大講堂後は小丘で、丘の後に役行者堂がある。
 下宮:「旧記」に「大塔・金堂・鐘楼・大講堂・僧坊・食堂・文庫・経蔵・神社・伽藍所々其跡猶存せり。大塔・輪堂の跡は心柱の礎に知るべし・・・」
 近世の山上坊:盛時は内山・北谷・南谷の三所に370坊があったと伝える。永禄年中(1558-69)に山伏25坊が西院谷ついで東院谷に移住すると伝える。(実際は大友氏の宝満城築城の強制移住とも推測される。)
西院谷は百段ガンギを登った付近である。百段ガンギ下の吉田屋敷跡(浄行坊→天保年中に吉祥坊と改号)、その奥に大谷坊、岩本坊、福蔵坊、百段ガンギを上がったところに亀石坊、奥之坊、榮門坊(伊多坊)、寂光坊、少し登って財徳坊、浄土院(行基開基・阿弥陀寺)があった。また退転したものに浄行坊西北に西井坊、浄行坊下に福蓮寺があったと云う。
東院谷では薬師堂後ろに南坊、薬師堂の前付近から中宮に至る道沿いに冨倉坊、東院坊、勧明坊、修蔵坊、仲谷坊、大石に下る道筋に福泉坊、経蔵坊、福寿坊、松林坊、井本坊、浄善坊、道場坊、鳥居坊、財徳坊(新坊)、尾崎坊があった。
 なお坊の配置には新研究があると云う。(「九州歴史資料館研究論集33」岡寺良、2008、詳細な図あり)

2011/04/07追加:
「宝満山近世僧坊跡の調査と検討」岡寺良(「九州歴史資料館研究論集33」2008 所収) より
いわゆる近世の「宝満山25坊」は山頂上宮の東側の座主坊を中心にそこから南東側の尾根に展開する東院谷16坊と、中宮の西側の「百段ガンギ」と呼ばれる石段の左右に展開する西院谷の9坊があったとされる。
 宝満山山頂付近地形図
東院谷:
ここには座主坊を初めとする坊跡と推定される16の平坦地が密集する。
何れの坊跡も石垣や堂の礎石列を確認することができる。また墓石が散乱する墓地と思われる平坦地も多く見られる。
なお薬師堂は伝教大師が入唐求法の際に造った薬師如来を安置したと伝える場所である。
 なお、坊舎の比定に当っては「竈門山水帳」(井本家文書)、「筑前国続風土記附録」、
 「附録」の「竈門山神社図」(上に掲載の筑前国続風土記附録挿絵筑前国続風土記附録挿絵b:)、
 「宝満山絵図」(上の掲載の宝満山絵図東図宝満山絵図東図b宝満山絵図東図・部分図:)などの史料を重用した。
東院谷についてはほぼ全ての坊舎をほぼ正確に比定し得たといえる。
 東院谷平面図
西院谷:
中宮には大講堂が建てられていた。また大講堂の前には九重塔が建っていたとも伝える。
中宮に至る「百段ガンギ」の左右には坊跡や墓地と思われる平坦地が散在する。
比定に当っての文献・絵図類は上述の通りであるが、一部坊舎については完全には比定が出来なかった結果となる。
なお浄土院(常道院・成道院)は阿弥陀寺と号し、山伏等の葬儀を行う寺院であった。
また○24の坊跡の北側は「吉田屋敷」と認識されていて、吉田屋敷とは吉祥坊を指し、山に残った最後の坊として明治28年までこの地に留まったと云う。
 西院谷平面図
また坊跡の比定の先駆的な研究として「宝満山史跡見取図」(藤田敏彦氏作成、1980か)があると云う。
 宝満山史跡見取図
2011/04/13撮影:
 宝満山上宮跡
 宝満山座主坊跡1     宝満山座主坊跡2     宝満山座主坊跡3     宝満山座主坊跡4
  :周囲を圧する石垣のみが残る。伽藍地には何も残らない。
   2012/01/20追加:「筑前名所圖會」より(上掲)座主坊楞厳院上宮裏躰の圖
 宝満山南坊跡:地表には特に目立つ遺構は残らない。
 宝満山薬師堂跡1     宝満山薬師堂跡2     宝満山薬師堂跡3     宝満山薬師堂跡4
  :基壇規模は1間堂もしくは3間堂程度の小規模堂宇であろう。
 薬師堂横遺構1     薬師堂横遺構2:鳥居の台石2基と石燈籠竿1基か
 宝満山福泉坊跡     宝満山経蔵坊跡1     宝満山経蔵坊跡2
 宝満山法城窟
 宝満山冨倉坊跡1:冨倉坊入口      宝満山冨倉坊跡2
 宝満山修蔵坊跡1     宝満山修蔵坊跡2     宝満山修蔵坊跡3
 宝満山東院坊跡1     宝満山東院坊跡2     宝満山青面金剛碑
 宝満山行者堂跡1     宝満山行者堂跡2:安置遺物
 宝満山中宮跡1       宝満山中宮跡2:破損石仏 (明治新前の石仏はどうかは不明)
 宝満山財徳坊跡1:財徳坊に至る石段     宝満山財徳坊跡2:財徳坊石垣     宝満山財徳坊跡3:財徳坊平坦地
 宝満山亀石坊閼伽井     宝満山亀石坊跡1     宝満山亀石坊跡2
 宝満山岩本坊跡1       宝満山岩本坊跡2     宝満山岩本坊跡3
 宝満山百段ガンギ
 宝満山吉田屋敷入口:この奥が吉田屋敷跡 <吉祥坊、明治28年最後まで山に留まった坊>であるが、通常の装備では踏査不能。
 大谷坊又は吉祥坊跡:ブッシュに蔽われ良く分からない。      宝満山殺生禁断碑

2011/03/23追加:
「太宰府市史 考古資料編」太宰府市史編集委員会、1992 より
竈門山下宮参道の南側隣接地に大型建物の礎石が点在する。
南北8列・東西6列が確認される。礎石は花崗岩製で、礎石は柱座を彫り出すもの、自然石なものなどが混在する。
東西列は東からおよそ10・12・12・10・14尺、南北は北からおよそ10・10・12・12・12・10・10尺であう。西側の一列のみが大きく。これは良く分からない。
この平面から判断すると5間の身舎(2間×5間)に四面の廂を廻らせる堂(5間四面)に西に1間の礼堂(孫廂)を付設した建物とも推測できる。
本遺跡の整地作業は調査の結果11世紀後半と見られる。
 竈門山寺下宮礎石群
○2011/04/13撮影:
 竈門山寺下宮礎石群1     竈門山寺下宮礎石群2

岩船山地藏菩薩縁起 → 岩船山高勝寺371
2011/03/13追加:
◎「宝満山の環境歴史学的研究」森 弘子、太宰府顕彰会、2008 より
「岩船山地藏菩薩縁起」は延享元年(1744)の成立であり、伯耆の「大山寺縁起」(鎌倉末期までには成立)より新しいものである。
 しかし、ここに語られる内容の中に
「明願は大智妙権現の御利益にて宝満大士の夢告を蒙り生身の地藏菩薩に遭遇し奉り年来の所願成就・・・」
「筑紫の竈戸山宝満大士は地藏菩薩とともに済度衆生の御誓ありときく」などがある。
 宝満大士(筑紫、竈戸山)とは宝満大菩薩であり、岩船山の地藏信仰は伯耆大山寺から伝えられたものではなく、筑前の大山寺から伝えられたものであろう。(つまり、岩船山の地藏も伯耆大山寺の地藏も宝満山の地藏信仰が伝わったものであろう。)
根拠の詳細は複雑なので割愛するが、以上のような推論・仮説が成り立つのではないだろうか。
 岩船山地藏菩薩縁起:下野高勝寺蔵:伯耆大山寺弘誓坊明願が竈門山にて宝満大菩薩からお告げを受ける場面と云う。
ここに描かれる堂塔は竈門山(宝満山)である。勿論実写ではないが、宝満山の何がしかの雰囲気を伝えるものであろう。

宝満山に於ける明治維新神仏分離

2011/03/13追加:
◎「宝満山の環境歴史学的研究」森 弘子、太宰府顕彰会、2008 より
「明治維新神仏分離資料」では以下のように述べる。(伊東尾四郎)
   ※「竈門神社の神佛分離」伊藤尾四郎氏報、・・・原本には「本稿は木村卯平氏及大岡重美氏母堂の負ふところが多い。」とある。
 宝満山には座主楞迦院(平石坊)他25坊があった。寺領は50石、二の鳥居付近には講堂(十一面観音・毘沙門天など)、鐘撞堂、行者堂があった。また薬師堂、護摩堂、法華堂、九輪塔などもあった。
明治4年坊舎が廃されたとき、廃仏派は楞迦院を首領として9坊が属し、奉仏派は亀石坊以下16坊が属する。
お互いに抗争するも、県から祝部(ほうり)秀麿が派遣され、廃仏毀釈を断行、奉仏派は之に抵抗するを得ず、破壊されるにままに任せる状況であった。破壊は徹底的に行われたが、中には現在に伝えられるものも残存する。
「官幣小社竈門神社考」には以下のように記される。
 講堂:慶安元年黒田忠之再造、今の神祇殿これなり。本尊十一面観音・毘沙門天・陀祇尼天その他の仏像は明治3年悉く焼き捨つ。
 神楽堂:神祇殿の前にあり今は大破に及べリ。(→大破の故に明治17年取除き)
 鐘堂:明治3年廃滅す。
 薬師堂:元福泉坊の側にあり、薬師像・・・明治3年堂を廃して焼き捨つ。
 護摩堂:・・・・・明治3年廃す。     鳥居2基:略
 法華塔:元講堂の後にあり、正中2年の銘あり、明治3年廃せり。
 九輪塔:寛文7年建立、明治3年廃す。
 休堂:・・・・・明治3年廃す。
「復飾記」旧井本坊文書 では
明治元年9月復飾したのは、福蔵坊(福井)、鳥居坊(鳥居)、井本坊(井本)、座主楞迦院(藤井・平石坊)、中谷坊(中谷)、寂光坊(大久保)、福泉坊(福永)、冨倉坊(冨永)、大谷坊(大谷)、欣明坊(柴田・大聖坊)・・・これ等は廃仏派で、
明治5年4月復飾したのは、福寿坊(福沢)、尾崎坊(長谷尾)、吉祥坊(吉田・浄行坊)、浄善坊(保田)、南ノ坊(高橋)、財徳坊(石井・新坊)、道場坊(原田)、榮門坊(木村・伊多坊)、岩本坊(緒方)、修蔵坊(佐々木)、奥ノ坊(大岡)、東院坊(高城)、松林坊(松尾)、亀石坊(亀井)・・・これ等は奉仏派である。残る文書から明治3年全ての坊に復飾命令が出されたものと推測される。
 最後の座主周雅は明治元年復飾、宝満宮社務頭となるも、明治6年までに離山した。
福蔵坊(福井)は近隣の村の祠司と太宰府神社の祖霊係りを務めるも明治15年死亡。
井本坊(井本)は一旦は廃仏派であり、離山するも、後に宝満修験の復興に尽力し明治22年には天台寺門派権少講師に補される。
その他廃仏派は明治5年神社が村社となり神職は全廃され、例えば福泉坊(福永)は帰農する。
 奉仏派は亀石坊を中心として纏まり、明治2年前年に復飾した修験を抜きにして、この山の最後の峰入修行を行う。
明治2年旧藩主は山伏が神職に転じるにあたり、永世98石の寄附を行う旨の布告をする。
これに対し南ノ坊賢俊は寄附を受け取らず、明治4年離山し、信者の斡旋で糟屋郡新宮の永福院に入山し、明治15年聖護院の配下に入り、今も聖護院末である。
 明治5年竈門神社は村社となり、大勢の神官は不要との説諭で、吉祥坊(吉田)一人を祠掌として残し、明治6年全員下山する。
同じく明治5年修験宗は廃止され、修験は天台・真言のいずれかに帰入するよう命ぜられるが、聖護院(本山派)は天台宗に、後に天台寺門宗に帰入する。下山した宝満山山伏は多くが聖護院の配下に入ることとなる。
廃仏派で帰農した福泉坊(福永)は天台宗寺門派の取締りになり、井本坊(井本)は前述のとおり天台寺門派権少講師に補される。
また南ノ坊賢俊、修蔵坊益雄、尾崎坊角壽、道場坊覈迻(円通院)、奥之坊重弁(宝照院)、財徳坊儀道、福寿坊円乗、栄門坊坂人などが僧侶であったと云う。
 「山伏の行方」として以下の紹介がある。
神仏分離で簡単に(中には進んで)復飾神勤し、ほどなくして零落していった僧侶の事例が多いなかで、珠玉の例と思われる。
 道場坊覈迻は筑紫野柚須原で10年ほど寺子屋を営むも、小学校が整備されると筑紫野山家の真言宗円通院に入り、後にここを天台宗聖護院末とする。円通院は今も天台宗寺門派のまま残り、夏には大施餓鬼供養を修していると云う。
 奥之坊重弁は当初志摩郡小田村宝照院に入り、のちに博多の町民の要請で、宝満山中から「塩売り大黒天」を持って、博多竹若番(現冷泉町)の智楽院(元は博多にあった財蔵坊の隠居寺)に移る。この時智楽院は宝照院と合併し、新に宝照院と号する。昭和55年頃聖護院に帰属する。今も宝満山山伏の寺として大黒天開帳ほかの行事は博多の町衆に親しまれていると云う。
 明治22年宝満山峰入りが復興される。これは
南ノ坊賢俊の斡旋で、旧宝満山山伏の奥之坊重弁・冨倉坊朝明・松林坊壽玄・財徳坊儀道・福寿坊円乗などが参画する。
 余談ながら、明治5年竈門神社は上宮が村社、下宮は無格社、中宮の講堂は神祇殿とされる。
しかしながら、宝満山の歴史や他社との比較から見て、村社と云う格付は当初からおかしいという見解があり、官幣社への昇格の運動が試みられる。
明治24年「福城窟は玉依姫の陵墓」であると強弁し、上宮中宮下宮は一体であることを訴え、明治28年竈門神社は官幣小社に昇格する。
 (この間国幣小社であった太宰府神社は明治15年官幣小社に昇格、明治28年念願の北野天神と同格の官幣中社に昇格する。)
玉依姫とは「造り話」に出てくる神武天皇の御母ということで、こういった「子供だまし」が通用する時代であったのであろう。
勿論「福城窟は玉依姫の陵墓」の証明の理屈は付会・強弁の連続であるが、大真面目に論じられた時代があったのは愛嬌であろうか。
 国家神道が表面上信じられた時代の竈門寺神社や祭神の論じ方の典型として以下の例が挙げられる。
  恭シク惟ミルニ
  官幣小社竈門神社ハ掛巻毛畏伎(かけまくもかしこき)皇祖神式天皇ノ御母神玉依姫命ヲ奉祀セル神社ニシテ延喜式二名神大社トアル
  古社ナリ、御鎮座地ハ筑前国ノ中央二聳ユル寵門山頂上ノ霊地ニアリ、天武天皇白鳳2年ニ宮殿ヲ建立シ宝満宮ト号シ
  国家ノ鎮護トナシ玉ヒシヨリ、白河天皇応徳2年ニ官符ヲ下シ宝満大神九国二島ノ総鎮守ノ宣命アリ、歴代皇室ノ御尊崇最モ摩ク、
  下テ武門武将ノ崇敬モ亦深カリシコトハ史上著名ナル事実ニシテ人ノ知ル所二有之候
                              (寵門神社文書「大正六年特別御下賜願」1917年)
ただし、栗田寛などは祭神は玉依姫ではなく豐玉姫であろうとする説を唱える。国家神道全盛の時代であるが、官幣社の祭神について異説が様々に論ぜられているのは驚きであり新鮮であろう。


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