比  叡  山  延  暦  寺  日  吉  山  王  権  現

比叡山延暦寺日吉山王権現

日吉山王権現根本大塔、七重塔、新御塔

参考文献:
「廃仏毀釈の行方」藝術新潮、1973.3:所収「日吉社における習合と廃仏」景山春樹:
「日吉社の塔について」景山春樹、佛教藝術 44、昭和35年:
「日本史リブレット32:中世の神と仏」末木文美土、山川出版、2003

◆日吉山王権現の概要
 日吉社は、最澄が比叡山寺を営んだ時、まず日吉神宮禅院(神宮寺(*1))に詣で、香炉灰の中から一粒の舎利を得て登ったという ことにも表れているように、仏教と不可分な関係にあった。最澄は神宮禅院で得舎利を安置する場所を求め、大宮川を遡り、虚空蔵尾に至り、比叡山寺の基を作ったという。
東本宮は大山咋を祀り、記紀の時代からある地主神(「大山咋神は近淡国の日枝山に坐す」古事記)とされる。
西本宮は天智天皇7年に、大津京遷都に際し、大和大三輪の日吉社を勧請したとされる。
 *1:神宮寺は西本宮の西北の行者道沿いにその跡を残すという。(未見)
 2013/08/04追加:
 ○「日吉神宮寺跡」(「大津市埋蔵文化財調査年報 平成18年度」大津市教育委員会、2007 所収) より
  神宮寺跡の位置:(西本宮の西北の行者道沿い)または八王子山西側の大宮川谷筋から北方に上ったところに位置する。
 なお、八王子山山頂東に八王子社・三宮が鎮座する。
 2006年にこの地は発掘調査され、石組や礎石建物跡が発掘される。
 今回発掘された建物跡は「日吉秘密社参次第記」などの古絵図に描かれる神宮寺と非常に共通項が多いと評価される。

最澄との関係以来、日吉社は山王権現と呼ばれ、比叡山の地主神と崇められ、天台の法儀には、先ずその道場に神祇勧請が行われることとなる。まさにこれが天台の伝統となる。
また本地垂迹説により、山王の諸神には本地仏が定められ、山王本地曼荼羅が作成された。社殿には神像と並んで本地の懸仏(御正体)が礼拝され、経巻や法具が並べられ護摩供などが執り行われていたのが中世や近世の実体であった。

2012/04/03追加:
サイト「月刊 京都史跡見学会」の「第24号【神・神社とその祭神】《そのXIV》日吉大社(2008/10/19発行) 」では以下のように解説する。
 『日吉社禰宜口伝抄』には、「上代の日吉神社は今の八王子社なり。この峰は比叡山の東尾にあり、一に牛尾といい、また並天塚(あまなみのつか)という。その五百津石村(いほついわむら)は山末之大主神の御陵なり。その妻玉依比売御陵は、奥の御蔭(みかげ)の大岩なり」とある。
つまり、日枝山が神体山であると述る。
 また、『禰宜口伝抄』によると「天智天皇七年(668)三月三日、・・・大和国三輪山に坐す大己貴神(を比叡の山口において祭る」とある。
つまり、天智天皇が近江朝を定めた翌年に、古都の守護神であった三輪明神を勧請して、新都を守護してほしいとの思惑があったと思わる。
後年、地主神の大山咋神が二宮(東本宮)の祭神となり、勧請神の大己貴神は、大宮(西本宮)の祭神となる。
 和銅5年(712)日吉山王社が、藤原武智麻呂によって比叡山の東麓創建される。
そのときに、日枝山(牛尾山)の山頂に八王子(牛尾宮)と三宮を建て、前者に大山咋神の荒魂が、後者に鴨玉依比売神の荒魂が祀られる。これを山宮といい、その後、日枝山麓に里宮を移し、二宮に大山咋神の和魂を祀り、樹下(このもと)神社に鴨玉依比売神の和魂を祀ることになる。こうして、二宮系の4社が成立する。
 一方、大己貴神を祀る本宮の地に、貞観6年(859)聖真子権現(しょうしんじごんげん・宇佐宮・八幡神)が建立され、同じ頃、客人(まろうど・白山宮)も建立され、ここに大宮系の3社が成立する。以上の7社を合わせて「日吉七社」とか「山王上七社」とかと呼称する。

2012/04/03追加:
◆日吉山王権現の塔婆
 中世までの境内を知る手掛りとして多くの「山王宮曼荼羅」(自然景と社殿を俯瞰して描く形式)が伝えられる。
現在までに入手できた「山王宮曼荼羅」から日吉山王権現の塔婆の様子を概観することが出来る。

○山王宮曼荼羅

 山王宮曼荼羅:奈良国立博物館蔵:サイト「月刊 京都史跡見学会」より転載 :左図拡大図
 山王宮曼荼羅部分図:奈良国立博物館蔵:「中世の神と仏」より転載
 山王宮曼荼羅モノクロ:奈良国立博物館蔵:「中世の神と仏」より転載
本図は重文、絹本著色掛幅描表具、法量は120.7×68.1cm(含描表具171.4×77.9cm)
文安4年(1447)銘。
上方には日吉山王21社の本地仏・祭神の画像及び本地仏種字、本地仏名、社名を記す。
 山王曼荼羅には多くの違例が残るが、本図は自然景と社殿を描く宮曼荼羅形式の絵図である。
本図と基本構図を同一とするものには室町期の制作とみられる延暦寺蔵・日吉神社社頭絵図などがある。(いずれも下に掲載)
なお、本図には旧表背貼付紙の墨書が付属、三度にわたる修理銘などが記されているが、最も古い「日輪院長瑜」の文安4年(1447)の裏書には「西塔西谷」(但し西塔に西谷は存在しない)から本図が相伝されたことを述べる。作風から南北朝期を降らない頃の作と思われると評価される。
 ※八王子山下中央に根本大塔と二宮(現東本宮)西に新御塔が描かれるが、
  大宮(現西本宮)西には七重塔は描かれない。
2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 山王宮曼荼羅部分図2:山麓中央に根本大塔、二宮に新御塔が描かれる。
 

紙本着色日吉山王宮曼荼羅図: 延暦寺蔵:室町期成立か:
  リーフレット「日吉の神と祭」大津市歴史博物館、2011 より転載
 ※大宮(現西本宮)西に七重塔、八王子山下中央に根本大塔、二宮(現東本宮)西に新御塔が描かれる。
2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 日吉山王社絵図・延暦寺蔵:上記と同一図

山王宮曼荼羅図:近江日吉山王権現蔵: 室町期成立か:
  サイト「大津市歴史博物館」「天台を護る神々 -山王曼荼羅の諸相-」平成16年 より転載
秘密山王曼荼羅:近江日吉山王権現蔵:サイト「月刊 京都史跡見学会」より転載
 ※上記と同じく、大宮の西に七重塔、八王子山下中央に根本大塔、二宮の西に新御塔が描かれる。
2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 日吉山王社絵図・山王権現蔵:上記と同一図

以上のように、日吉山王権現の境内には、佛教的施設の象徴的建物として、中世まで以下の塔婆が存在することが知られる。
即ち、
根本大塔(*2)(多宝塔、塔下総社がその位置を示すという)、神宮寺には七重塔 (*3)があり、新御塔(*4)(神体山上り口)である。
さらに石造の法華塔(*5)(一丈八尺)なども造立される。

 □山王二十一社並八十七社絵図神宮寺図(叡山文庫) ・・・七重塔・多宝塔(根本大塔)・石塔が描かれる。

*2:根本大塔
天慶5年(942)平将門の調伏のため造立と伝える。
延慶元年(1308)焼失。元徳元年(1329)塔供養と記録される。
その後も度々造替され近世まで存続する。その位置は山王鳥居のすぐ北側で、今の総社の位置という。そばに塔下惣社と呼ばれる末社が建てられ、塔下彼岸所が付属していた。
 ※塔下惣社という小祠が存在するとも思われるも未確認。
 □秘密山王曼荼羅・根本大塔附近(日吉神社・行広)・・・根本大塔
 □日吉社宝塔曼荼羅:京都・神田喜一郎蔵・鎌倉後期):根本大塔を曼荼羅として表現 したものという。
 日吉山王宝塔曼荼羅:大谷大学博物館蔵、絹本着色:同上:2012/04/03追加
 □山王二十一社並八十七社絵図多宝塔図(叡山文庫) ・・・多宝塔
   ※この塔(多宝塔)については実態が不詳で良く分からない。あるいはこの図は根本大塔とも思われるが新御塔の可能性もある。
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 日吉山王秘密社参次第絵巻・1:絵の右の宝塔が根本大塔と推定される。(左の宝塔は新御塔と推定される。):日吉大社蔵

※創建時(平安期)の根本大塔の形式については以下の考察がある。
 創建時の根本大塔の形式は全く不明であるが、「秘密山王曼荼羅」・「日吉社宝塔曼荼羅」に描かれた「根本大塔」はいずれも中世の根本大塔を著していると考えらる 。即ち「秘密山王曼荼羅」の根本大塔は方形基壇に建ち、円形亀腹(一階塔身)上に高欄を廻し、さらに二階として円形塔身を載せた一重二層の宝塔形式である ように描かれる。屋根は方形で火炎宝珠を載せた相輪を建て、四隅に鎖を垂らす。
「日吉社宝塔曼荼羅」にも極めて酷似した「宝塔」が描かれる。
 以上から判断すれば、この時代(中世・室町期)の多宝塔はいわゆる「多宝塔形式」が一般的となっているのに、わざわざ「宝塔」形式と云う極めて珍しい形式で根本大塔が 描かれるということは、根本大塔は宝塔形式あったものと推定される。
即ち、創建時の根本大塔も宝塔形式であり、そのため中世の再興に於いても、宝塔形式を遵守して再興されたものとの推論が可能と思われる。

*3:七重塔
貞元2年(977)の建立と伝え、度々造替されるが、元亀の兵乱で姿を消しその後再興に至らずと推定される。
日吉社根本神宮寺附近にあったと伝承される。
 □秘密山王曼荼羅・七重塔附近(日吉神社・行広)・・・ 七重塔前に「石塔」が描かれる。
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 日吉山王秘密社参次第絵巻・2:絵の左に「後醍醐天皇御願利生七重塔」とある。右は大宮。
   大宮・七重塔間に「白河院御願多宝塔(石造)」がある。:日吉大社蔵

 ※近江利生塔については通常「芦浦観音寺」(芦浦観音寺は近江安国寺であるとされる近江八幡金剛寺の堂を残すと云う。)とされるが、資料の裏づけがある訳ではない 。
日吉山王権現七重塔に「後醍醐天皇御願利生七重塔」とあり、良くは分からないが、日吉山王権現七重塔が「利生塔」との認識があった可能性があるのであろうか。

*4:新御塔
嘉禄元年(1225)美福門院・後鳥羽院の発願という。
神体山上り口附近に建立というが、位置ははっきりしないと云う。
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 日吉山王秘密社参次第絵巻・1:絵の左の宝塔が新御塔と推定される。(右の宝塔は根本大塔と推定される。) :日吉大社蔵
なお
 山王曼荼羅(奈良国立博物館):文安4年(1447)の銘、右端は東本宮で、その社頭左に多宝塔(美福門院建立)があった。
また左端が西本宮で、東本宮から西本宮に至る中間に根本塔(宝塔形式のようです)があったようである。

  ※「山王二十一社並八十七社絵図」・「秘密山王曼荼羅」は元亀焼亡の後の復興期・天正年中に描かれたものとされる。
  ※「日吉山王秘密社参次第絵巻」は1巻、天正7年(1579)南光坊祐能法印絵、天和3年(1683)模写(巻末の記)、
    元亀の兵火で焼失した日吉権現の復興と布教のために描かれたとされる。日吉大社蔵

*5:石造大塔婆
嘉禎2年(1236)大宮と二宮の間に建立されたという。
この石塔の塔身は昭和25年頃まで、推定当初位置に残存していた。現在(昭和35年)京都嵯峨井上博道氏植木畑にあるという。おそらく明治の神仏分離で相輪、屋覆、台座などは散逸し、塔身のみ現地に打ち捨てられたものと思われる。
この宝塔屋覆は下坂本比叡辻観福寺にある。(土地の伝承)井上氏所有塔身とは釣り合うようです。
なお井上氏植木畑には境内大宮川の渓から発見された石造宝塔(身・屋覆)も買い取られ現存するという。

西本宮楼門前の左手山林中に石造宝塔(現桓武天皇記念碑)が現存する。
昔はこの石塔前に拝殿があり、常住の供僧が12人もいて、昼夜勤行がなされていたと伝える。

延慶元年(1308)塔下彼岸所から出火し、根本大塔、七重塔、七社社殿・社務所、彼岸所、仏堂、不断経所などを焼失。
元徳元年(1329)塔供養。
元亀2年(1571)信長の叡山焼き討ちで全焼。「社頭108社・拝殿・・塔門瑞垣、諸彼岸所以下、七重塔婆放火・・・」

「中世の神と仏」末木文美土、日本史リブレット2、山川出版社、2003
日吉山王社は
大宮(西本宮・釈迦)、二宮(東本宮・本地薬師)、聖真子権現(宇佐宮・阿弥陀)、八王子権現(牛尾宮・千手観音)、客人権現(白山宮・十一面観音)、十禅師権現(樹下宮・地蔵)、三宮(三宮・普賢)を上7社とし、中7社・下7社を合わせ山王21社といい、その末社を合わせ108社の組織であった。

比叡山山王権現の組織:2008/02/07追加

山王21社の概要は以下の通り。
現社名・現祭神は現在の名称を示す。なお東本宮境内の各社は、「大山咋神の家族および生活を導く神々」と云われる。
明治の神仏分離で、本来の形に戻すとして、大宮と二宮の祭神を入れ替え、大宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る二宮は摂社・大神神社に格下げするも、昭和初年に元の形に復すると云う。

山王21社 社 名 所 在 現 社 名 現 祭 神
上七社(山王七社) 大宮(大比叡)   西本宮 大己貴神
二宮(小比叡)   東本宮 大山咋神
聖真子   宇佐宮 田心姫神
八王子 八王子山頂 牛尾神社 大山咋神荒魂
客人   白山姫神社 白山姫神
十禅師 東本宮境内(妃) 樹下神社 鴨玉依姫神
三宮 八王子山頂 三宮神社 鴨玉依姫神荒魂
中七社 大行事 東本宮境内(父) 大物忌神社 大年神
牛御子 牛尾神社拝殿内 牛御子社 山末之大主神荒魂
新行事 東本宮境内(母) 新物忌神社 天知迦流水姫神
下八王子 東本宮参道 八柱社 五男三女神
早尾 境内入口附近 早尾神社 素盞嗚神
王子 境外・止観院の附近 産屋神社 鴨別雷神
聖女 宇佐宮境内 宇佐若宮 下照姫神
下七社 小禅師 東本宮境内(子) 樹下若宮 玉依彦神
大宮竈殿 西本宮境内 竈殿社 奥津彦神・奥津姫神
二宮竈殿 東本宮境内 竈殿社 奥津彦神・奥津姫神
山末 東本宮参道 氏神神社 鴨建角身命・琴御館宇志麿
岩滝 東本宮参道 巌滝社 市杵島姫命・湍津島姫命
剣宮 白山姫神社境内 剣宮社 瓊々杵命
気比 宇佐宮境内 気比社 仲哀天皇

なお、牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、元来これが元々の信仰形態と云われる。磐座を挟み2社の奥宮(八王子・三宮)がある。
二宮は崇神天皇7年、牛尾神社の里宮として勧請され、三宮に対する里宮は十禅師 とされる。

明治の神仏分離と破壊

明治の神仏分離で激しい破壊を受ける。
破壊焼却された什宝の明細は「神仏分離資料」の「日吉社焼捨御道具並社司之持運品覚」に数千点が列挙される。
例えば以下である。
 大宮御本地仏(厨子共)、二宮権現御神体(厨子共)、二宮権現御本地仏(厨子共)、聖真子権現御神体(厨子共)、
 聖真子権現仏体(下殿安置)・弁財天・不動明王、聖真子社本地堂仏体(厨子共)、客人宮本地仏・如法塔、
 十禅師権現本地仏(厨子共)・地蔵尊(厨子共)、三宮本地仏(厨子共)・・・・・・・膨大な軸物・御正体・経典・香炉・棟札・机
 など、あらゆる仏器・仏具が破壊・焼却される。

首謀者は日吉権現祠官樹下茂国(当時は神祇事務局権判事)および日吉権現祠官生源寺義胤で、武装した神威隊(諸国の神官出身の志士 と称する愚連隊)50人と人足50人が乱入し、神体の仏像・仏器・経典など を土足で踏みにじり、破壊・焼却をなす。
樹下は、仏像の顔を矢で射ぬき、快哉したという。(その様子は「神仏分離資料」に詳しく報告される。)
この破壊は慶応4年3月28日の布告がまだ山門に届いてない段階のこととされる。
明治2年12月樹下茂国および生源寺義胤はこの件の責任で処罰される。

「慶応4年4月朔日社司樹下茂国及び生源寺等より、延暦寺執行代に対し、七社社殿の鍵の引渡しを申し入れ。
(略)
社司側はもはや猶予ならず、この上は、武力を以って決行せんとて、樹下茂国は生源寺社司及び部下の祝部に、同士の壮士340名、並びに坂本村の人夫数十名を加えて、一隊となし、槍棒などの兵器を携えて、山王権現の神域内に乱入し,直ちに神殿に昇り、殿扉の鍵を捻じあけて殿内に入り、神体なる仏像及び僧像始め経巻法器等、苟やしくも仏臭い物件は悉く之を階下に投げ捨てた。七社ともに此れと同様であった。其取除いた数多の仏像法器は、此れを二宮社前に集積し、土足をもて蹴り、或は槍の石突や棒をもて突き砕く抔、乱暴狼藉のうえ、終に火を放ちて焼き捨てたのであった。」(「明治維新神仏分離資料」 )

2006/11/05追加:「神仏分離の動乱」より
比叡山延暦寺山王権現
山王権現祠官などに主導され、本地仏をはじめ膨大な員数の仏教的什宝が破壊・焼却される。
また社僧の多くはこの騒動のなかで復飾した。
その後は山門側の巻き返しもあり、また明治2年頃には神官に対するテロが横行すると云う。
無秩序の中で、結局は「強制的に」日吉権現は山門と分離する。
山門(延暦寺)と日吉権現との分離時の財産目録は以下の通り
・山門
  東塔 根本中堂、大講堂をはじめとして65坊
  西塔 常行堂、法華堂をはじめとして39坊
  横川 中堂、御廟をはじめとして22坊
・日吉神社
  大宮・ニ宮ほか 上七社、中七社、下七社をはじめとして本末合わせて社内百八社

現社殿

 大宮(西本宮)社殿1      大宮(西本宮)社殿2・・・・・国宝・天正14年(1586)再興堂
 聖真子権現(宇佐宮)      ・・・・・重文・慶長3年(1598)再興
 二宮(東本宮)社殿          ・・・・・国宝
 十禅師権現(樹下宮)本殿・・・・・重文         など国宝2棟、重文17棟の建築を残す。

西本宮本殿(国宝):天正14年(1586)建立。檜皮葺き、屋根形式は「日吉造」と云う。
東本宮本殿(国宝):文禄4年(1595)建立。
 重文建築は以下の通り。東照宮も今は日吉大社の所属なのであろうか。
西本宮拝殿(桃山)、西本宮楼門(桃山)、東本宮拝殿(桃山)、東本宮楼門(桃山)、日吉三橋(大宮橋、走井橋、二宮橋)(桃山)、摂社宇佐宮本殿(桃山)、摂社宇佐宮拝殿(桃山)、摂社樹下神社本殿(桃山)、摂社樹下神社拝殿(桃山)、摂社白山姫神社本殿(桃山)、摂社白山姫神社拝殿(桃山)、摂社牛尾神社本殿(桃山)、摂社牛尾神社拝殿(桃山)、摂社三宮神社本殿(桃山)、摂社三宮神社拝殿(桃山)、
末社東照宮本殿・石の間・拝殿(江戸)、末社東照宮唐門(江戸)、末社東照宮透塀(江戸)


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