平  城  宮  跡  復  元  模  型

平城宮跡復元模型:奈良市役所展示

平城京跡復元模型

 奈良市役所の1階ロビーに、市役所の移転に合わせ、1977年に設置され、平城京を「1000分の1」サイズで再現し、その大きさは「東西8.3m×南北6.4m」と巨大である。監修は奈文研といい、細部も丁寧に作られる。
 ※橿原市藤原京資料館に展示の藤原京跡模型と同じ縮尺で、大きさもほぼ同じである。

 再現されている寺院は13の大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・法華寺・西隆寺・西大寺・薬師寺・唐招提寺・紀寺・菅原寺<喜光寺>・新薬師寺・秋篠寺)と、13小寺(佐伯院・葛木寺・海龍王寺・伴寺・穂積寺・阿弥陀浄土院・服寺・禅院寺・殖槻寺・姫寺・平松寺・七条廃寺<三松寺>・法世寺)という。

 本ページでは、塔婆が確認できた次の諸寺を掲載する。
但し、塔婆の確認は撮影写真を目検したもので、見落としがある可能性もあるが、見落としはご指摘いただければ、幸いです。
本ページに掲載する諸寺。
 左京の京外
  東大寺、東大寺天地院、新薬師寺 → 大和東大寺東大寺天地院大和新薬師寺
 外京
  興福寺、元興寺、紀寺 → 大和興福寺大和元興寺
 左京
  大安寺、法華寺・法華寺阿弥陀浄土院、穂積寺、服寺 → 大和大安寺大和法華寺
 右京
  西大寺、西隆寺、平松廃寺、唐招提寺、薬師寺、七条廃寺(三松寺)
                          → 大和西大寺大和西隆寺大和唐招提寺大和薬師寺
 右京の京外
  秋篠寺 → 大和秋篠寺

各種平城京跡復元図
 平城京復元図1     平城京復元図2     平城京復元図3     平城京復元図4

平城京模型写真

◆模型全容
 平城京模型1     平城京模型2     平城京模型3     平城京模型4     平城京模型5

◆左京の京外
 東大寺・興福寺・元興寺・紀寺:左記に寺院が中央「くの字」形に並ぶ
 興福寺・元興寺・紀寺     東大寺・興福寺・元興寺・紀寺その2
 京外東大寺1     京外東大寺2     京外東大寺3:中央上は天地院     京外東大寺4
 京外東大寺5     京外東大寺6:左端下は天地院
 京外東大寺天地院:天地院は左端下
 新薬師寺・東大寺     東大寺・新薬師寺:上方に新薬師寺
 京外新薬師寺1     京外新薬師寺2     京外新薬師寺3     京外新薬師寺4

◆外 京
 外京興福寺:下から興福寺・元興寺・紀寺
 外京興福寺2     外京興福寺3     外京興福寺4
 外京元興寺1:上は興福寺、右下は紀寺
 外京元興寺2     外京元興寺3
 外京紀寺:右下が紀寺、左上は元興寺

◇平城京紀寺
 l珹寺通信編集長の野尻氏は次のように云う。
そもそも紀寺の起源は、遣隋使であった僧恵隠が帰国し、住持した寺が訳田寺、通称「紀寺」という。
藤原京遷都で、紀寺は藤原京左京8条2坊(現在の大字小山小字キデラ、小山廃寺)に移される。 →藤原京紀寺
次いで、平城京遷都で、平城京左京5条7坊に移される。
天平17年(745)頃、聖武天皇の発願、行基菩薩開基の寺としてl珹寺が創建される。
 ※紀寺の地にl珹寺が創建されたという意であろうか?、現在のl珹寺は平城京紀寺の僅かの一画に立地すると考えられる。
 ※l珹寺境内の発掘調査では奈良期の瓦が大量に出土し、l珹寺が奈良期の建立ということは確実視される。
さらに、長岡京遷都の折には、長岡京左京6条2坊に移り、
次いで平安京にも移転し、寺名を誓願寺とする。 →山城寺町誓願寺
因みに
l珹寺は次のように云われる。
縁起では、天平年中、聖武天皇の勅願で行基により開基され、平安期に紀有常により改めて伽藍を建立され再興されるという。
また藤原京から移転された紀寺の跡ともいわれ、周辺から奈良前期の瓦を出土する。
過去帳などによると、最初は法相宗、中頃には浄土宗誓願寺末寺、享保9年(1725)天台宗に改宗、京都養源院の末寺となる。『奈良坊目拙解』では「寺領廿石 浄土宗 先規誓願寺末寺、近世天台宗京大仏養源院末寺也」とある。現在は浄土真宗遣迎院派に属する。
 ※「大日本地名辞書・上方」吉田東伍、冨山房、1907
 ※「日本歴史地名大系第30巻 奈良県の地名」平凡社、1981
 ※「国史大辞典 14」吉川弘文館、1993
 ※「日本歴史大事典 1」小学館、2000

◆左 京
 左京大安寺1     左京大安寺2     左京大安寺3     左京大安寺4
 左京法華寺1:法華寺東北は海龍王寺     左京法華寺2:法華寺西南にあるのは阿弥陀浄土院(三重塔が存在?)
 左京穂積寺1:中央上は大安寺、西端は東市     左京穂積寺2     左京穂積寺3
 左京服寺1:下端が服寺、上右端は東市        左京服寺2

◇法華寺阿弥陀浄土院
法華寺境内南西部には丈六の阿弥陀三尊像を本尊とする阿弥陀浄土院があり、天平宝字3年(759)から翌年にかけて建立される。
「続日本紀」によれば、天平宝字5年(761)、光明皇太后(藤原不比等の娘・聖武天皇皇后)の一周忌がここで営まれる。
跡地には花崗岩の立石が地上に残されており、「和州旧跡幽考」にも記されているように、古くからここが阿弥陀浄土院の跡地であると伝えられてきた。
 ※「続日本紀」(天平宝字五年六月庚申〈 七日〉条。)は法華寺西南隅に阿弥陀浄土院があることを明示する。
 ※阿弥陀浄土院には三重塔があるが、その塔婆情報は寡聞にして知らず。
◇穂積寺
「日本霊異記」に登場(※未見)し、穂積氏の氏寺とも言われる。
○「2009年6月例会 『平城左京の寺院跡と遺跡』」 より
 平城京左京の南半には小規模な寺院が幾つか知られる。穂積寺、服寺は、ともに『日本霊異記』に記され『西大寺田園目録』からそれぞれの場所が推定されている。未調査であるが、特に穂積寺は土檀と礎石、瓦の散布から奈良期の寺院と考えられる。
 穂積廃寺礎石
○「角川地名大辞典」 では(※穂積寺跡は東九条村(現東九条町)にある。)
東九条村:
・・・・・奈良期の姫寺遺跡の一部にあたるところに、菅原道真・天穂日命・野見宿禰を祭神とする菅原神社がある。
ほかに市杵島姫命を祭神とする厳島神社や稲荷神社などがある。
穂積寺跡は奈良期左京9条4坊2坪に位置したといい、現在の法角堂稲荷社一帯にその跡を見出すことができる。「霊異記」「今昔物語」にも登場する。
また菅原神社境内周辺は姫寺跡とされ、発掘調査で多数の建物遺構が発見され、7世紀後半から8世紀にかけての瓦などが出土した。・・・・・
 ※穂積寺は「法角堂稲荷社一帯」とあるが、法角堂稲荷社とは不明である。現在「森本稲荷大明神」が地図上にあり、この稲荷が該当すると思われる。
 ※菅原神社は大正4年、厳島神社(東九条城殿山196)・稲荷神社(東九条ホテンド241)・冨神社(東九条宮南1324)を合祀するも、村内に不吉な事案が頻発し、厳島・稲荷の両社は元の場所に再び分祀されるという。分祀された稲荷とは現在の「森本稲荷大明神」と思われ、上述のように、「森本稲荷大明神」が穂積寺跡に該当すると思われる。
 穂積寺跡:GoogleMapより、森本稲荷大明神である。中央土壇が穂積寺跡土壇といい、上記の礎石が残るという。
◇服寺
服寺は”ふくてら”もしくは”はとり寺”か。服部氏の氏寺という。
○Wikipediaに服寺及び福寺の記事がある。(福寺と服寺は同一とする見解が存在する。)
以下Wikipedia記事を要約する。
概要:
 服寺は奈良で古くから文献上に現れる古代寺院であるが、その所在には諸説あり幻の寺である。
開基は行基とされ、行基の母の菩提を弔うため服喪中に建立したことにより、「服寺」と号したとの記録が残る(奈良坊目拙解巻第一 京終町大堂)。
※さらに、次のよな「服寺」に関する諸記録が残る。
 延久3年(1070)『興福寺雑役免帳』に、「四段百八十歩、春鳥寺田、大仏供庄」と記録の残る春鳥寺は、服寺のことであるとする説がある。
 保延6年(1140年)服寺に安置の行基作の十一面観音が、盗賊にあうも、興福寺の僧寿行が拷門坂(かもざか)の南の越田池の西で田の中から発見し、以降興福寺西金堂に安置されたとの話が残る。
服寺には光背のみが残されたが、光背のみでも霊験あらたかであったので、服寺を光塵寺とも呼ぶようになったと伝わる。
 寛元元年(1243)3月18日に、覚盛が服寺で釈迦大念仏会を開いたとの記録がある。
 江戸期には東大寺仏生院弁蔵作の十一面観音が、肘塚町の廃長福寺本尊として安置されていたが、これが往古服寺の本尊であったとの伝承も記録される。
所在に関する諸説:
 江戸期の『奈良坊目拙解』では、「福寺」は「服寺」であり、福寺池跡にその場所を比定する。「福寺」の項で述べる、福寺池跡からの複弁蓮華文軒丸瓦の発見により、福寺が奈良期にまで遡る可能性が高まり、本説の可能性も高まった。
 『日本霊異記』には、諾良(なら)左京に吉祥天女の像を祀る服部堂と呼ばれる寺院が記録されていて、服寺を「はとりでら」と読むことでこの左京服部堂を服寺と見る説もある。
 服部堂の比定地も諸説あるが、『奈良朝寺院の研究』によると、『西大寺田園目録』内に「添上郡左京九条三坊四坪内二段 字辰市ノ南、八鳥」(坪付は現奈良市西九条町)との記載がある。このヤトリ或いはハトリは「服」を指すと考えれば、服部堂すなわち服寺は辰市にあったと比定される。
服部堂は奈良市西新屋町にかつてあった元興寺吉祥堂のことであるとする見方もある。
一方
福寺は、奈良県奈良市南京終町にあった寺院という。
跡地には1970年(昭和45年)に埋め立てられるまで福寺池が存在した。
文献上の初出は室町期以降であるが、江戸期の資料においては奈良期創建と伝わり所在不明の幻の寺である服寺(ふくでら・はとりでら)と同一視され(奈良坊目拙解巻第一 京終町大堂)、また近年奈良期に遡り得る瓦が福寺池跡で発見されたことによりその可能性も高まる。
なお、福寺については次のことも知られる。
 室町期に興福寺大乗院の末寺として記録に残り、行基の母を祀る尼影堂等もあったという。
 文亀3年(1503)の土一揆で蜂起した馬借達により塔堂悉く焼き尽くされたという。
 本尊・行基の作という大日如来坐像が、江戸期京終町の大堂に伝わっていたとの記録がある。
 京終地蔵院の本尊日如来坐像には、台座天板にこの像は元京終村・福寺の大日如来であったとの陰刻銘が残る。
 福寺の所在地は、江戸期の書物『奈良坊目拙解』に「京終村の服寺池がその古跡である』との記述があるが、その福寺池は1970年埋め立てられ、宅地として開発される。
その工事中に池底より多くの石仏、石碑、瓦等が発見され、石仏・石碑等は池跡の南東一角に集められ、今日も祀られているが、瓦等は個人の庭や床の間の美術品として所持されていたが、2016年、元興寺文化財研究所の調査によって、これらの個人蔵の瓦9点のうち5点が奈良期後半(8世紀)にまで遡る古代瓦、複弁蓮華文軒丸瓦であると判明する。これにより福寺が奈良期にまで遡る古代寺であった可能性が強まる。

◆右 京
 秋篠寺・西大寺・西隆寺:左下端は秋篠寺、中央やや上右は西大寺、左上端は西隆寺
 西大寺・西隆寺1     西大寺・西隆寺2
 右京西大寺1     右京西大寺2     右京西大寺3
 右京西隆寺
 薬師寺・唐招提寺1     薬師寺・唐招提寺2:左端上は平松廃寺     薬師寺・唐招提寺3
 右京薬師寺1     右京薬師寺2     右京薬師寺3     右京薬師寺4     右京薬師寺5     右京薬師寺6
 右京唐招提寺1     右京唐招提寺2     右京唐招提寺3     右京唐招提寺4
 平松廃寺・薬師寺・唐招提寺:下に平松廃寺、右端は薬師寺、上端は唐招提寺
 平松廃寺・唐招提寺:下端に平松廃寺、右端右に唐招提寺
 右京平松廃寺
 七条廃寺・薬師寺・唐招提寺:下端七条廃寺、右端薬師寺、上端唐招提寺
 右京七条廃寺1     右京七条廃寺2     右京七条廃寺3
平松廃寺
○2020年奈良県埋蔵文化財調査センタープレス発表 より
平松廃寺
 平松廃寺は平松3・5丁目に所在する、平城京の条坊復原では右京五条四坊十二坪にあたる。
昭和12年に発見され、所在地名から平松廃寺と名付けられる。出土する軒瓦の年代から7世紀後半の創建寺院とみられてきた。
出土した8世紀の瓦の中で、田中廃寺との同笵瓦があり、本廃寺は田中廃寺の後身寺寺院ではないかという説も云われてきた。
 今回(2016年)、右京四条四坊十二坪の北東部で調査が行われ、遺構としては奈良前半の整地痕跡や奈良期の溝を確認しただけであるが、溝から多量の8世紀の瓦類が出土する。
その中で、7世紀後半の軒瓦が2種出土し、2種とも橿原市教育委員会に持参し、実物同士付き合わせた照合作業の結果、2種とも田中廃寺創建瓦と同笵と判明する。
このことから、平松廃寺の前身寺院が田中廃寺であることが確実となる。
今回の展示では、田中廃寺との同笵瓦の他、過去の平松廃寺の調査で出土した軒瓦も展示する。
なお、 平松廃寺からは、平城宮の第一次大極殿でも使われた黒みを帯びた「黒瓦」と呼ばる瓦も出土する。
また、「黒瓦」の中には、平城京薬師寺や飛鳥本薬師寺と同笵の軒丸瓦(「複弁八弁蓮華文」)も出土する。これらのことは、平松廃寺が官寺扱いであった可能性を示唆するとも思われる。
○サイト「平城宮跡の散歩道」>謎の寺院(奈良・平松廃寺)から大量の瓦 =奈良市埋文センター速報展 より
 平松廃寺位置図:平松廃寺調査地
○2020.03.04「奈良新聞」>同じ木型の瓦確認 - 橿原「田中廃寺」が前身/奈良の古代寺院「平松廃寺」
 7世紀後半創建とみられる古代寺院「平松廃寺」(奈良市平松3、5丁目/平城京右京五条四坊十二坪)の前身が、橿原市田中町の田中廃寺であることが奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で明らかになる。
松廃寺跡で平成30年に出土した瓦が、田中廃寺の創建瓦と同じ木型から作られたもの(同笵瓦)と確認される。
 平松廃寺は平城京の条坊の西端で昭和10年に発見され、地名から平松廃寺と命名される。
昭和62年に近隣の調査で出土した外側に唐草を巡らす「複弁八弁蓮華紋軒丸瓦」は美しさから偽物が出回るほどで、瓦コレクターの間では有名な寺であった。
 平成2年から7年にかけての田中廃寺の調査で8世紀の同笵(どうはん=瓦の模様をつける木型が同じ)軒瓦が確認され、田中廃寺が平城京に移建されたのが平松廃寺という説が出た。
 平松廃寺の発見から80年が経った平成28年に初めて発掘調査が行われ、溝から多量の8世紀の瓦類が出土した際は、2割程度が田中廃寺と同じ瓦であった。
 今回の調査(南北約30m、幅2・5m)では、遺構としては奈良期前半の整地痕跡や同時代の溝を確認しただけであったが、7世紀後半の軒瓦2種類が出土。橿原市教育委員会で田中廃寺の創建瓦と実物同士付き合わせると、2種類とも同笵の瓦だった。
 平松廃寺からは、黒みを帯びた「黒瓦」と呼ばる瓦も見つかり、これは平城宮の第一次大極殿でも使われたものであった。田中廃寺は蘇我氏傍系の田中氏の造立とみられるが、黒瓦は田中氏の位階から考えると不自然であり、平松廃寺は平城京移建後に官寺として扱われた可能性もあるという。
 同センターの原田憲二郎活用係長は、「前身寺院が田中廃寺だったことは確実で、寺名さえ不明な平松廃寺を考える上で貴重な発見」としている。
 平松廃寺・田中廃寺出土瓦:左が平松廃寺から出土した「単弁蓮華(れんげ)紋軒丸瓦」(飛鳥時代)。右は橿原市教育委員会蔵の同笵瓦の田中廃寺創建瓦=奈良市大安寺西2の奈良市埋蔵文化財調査センター
◇七条廃寺(三松寺)
七条廃寺は三松寺(曹洞宗)周辺から北東にある天武神社の西側にかけての場所にあったと思われる。
奈良期の瓦や土器のほかに飛鳥期のものも出土しており、平城遷都以前にも何らかの施設があったと思われる。

◆右京の京外
 秋篠寺・西大寺:下端秋篠寺、上端西大寺
 京外秋篠寺1     京外秋篠寺2     京外秋篠寺3     京外秋篠寺4

◆平城京模型以外の展示物
 推定興福寺五重塔模型1     推定興福寺五重塔模型2
 平城京第一次大極殿模型1     平城京第一次大極殿模型2


2006年以前作成:2022/11/04更新:ホームページ日本の塔婆