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恋愛相談としてのカウンセリング


 いまもむかしも、恋愛相談や恋の悩み相談がすたれることはありません。いつの世も、人間は愛し合ったり、憎しみ合ったりするからです。「恋のお悩み解決します」的なキャッチフレーズが、ウェブ上にはあふれんばかりです。

 思春期の頃、誰しも恋をしたでしょう。初恋です。相手に夢中になるだけでなく、恋愛小説や占いに熱中したり、告白するとかしないとか友人と恋愛談議に花を咲かせたり、相手に恋するのか、恋愛に恋するのか、もうわけの分からない状態です。片思い、失恋、出会いと別れ、思春期の淡い思い出を胸に秘めて、みんな大人になるのです。

 ここまで書いて、いや、こんなプラトニックな恋愛観など、もう過去のことではないのかと言う声が私のなかで響きました。10代でさえむき出しになったエロス、時代はもう変わってしまったのだと。

 一世紀も前のことです。精神分析の(エロスとタナトスの)フロイトが生きた国と時代は、性愛に関することを口にするのは下品なことだと戒められました。上品な社会だったのです。セックスはあくまで秘め事でした。いまはどうでしょう。秘め事について公然と語られるのではないでしょうか。かつて闇であった人間の営みが、白日の下に晒されたわけです。

 初期の精神分析家は、性愛に焦点を当てて話を聞くことが多かったようです。誰にも言えない秘め事の部分を取り上げて、分析したわけです。結果として精神分析の著書には、ペニスとかヴァギナなどセクシャルな用語がいっぱいです。当時の庶民が目にすれば、おそらく性的汚言症に満ちた人たちと思ったはずです。性に焦点を当てて、神経症で苦しむ人たちに一定の治療効果をあげていたようですから、驚きです。

 フロイトの系統にあったウィルヘルム・ライヒは、フロイトよりも性に焦点を合わせる分析家でした。彼が重視したのは、セックスによってオーガズムを感じることのできる能力でした。オーガズム反射に至らないとすれば、それを抑制するようにして、身体の筋肉が緊張して鎧のようになっていると考えたのです。これが神経症の原因と考えられました。

 ここまで性に焦点を合わせる相談技法は、いわゆるセックス・カウンセリングの領域をのぞいて、もういまの時代は残ってはいないのかもしれません。

 さて、恋愛相談の話です。何か問題が起こったときに、夫婦や恋人同士といったカップルで来談される場合は、その多くが二人の関係を何とか修復したいと考えているはずです。そうでないかぎり、二人で来談する可能性は低いでしょう。いがみ合った二人は、すぐに仲直りするかもしれません。

 けれども、カップルのうち一方しか来談できない場合があります。たとえば、別れた元カレや元カノとヨリを戻して復縁したいとか、ある人と不倫関係にあるとか、離婚を考えたいとか、パートナーの暴力で苦しいとか、すでに別れた人からストーカー行為を受けたとか、そのようなケースです。

(かりに相談の内容が離婚話だとして、相手と話し合いがうまく行かないので裁判にとか、慰謝料がとか、そこまで考えが具体化しているのであれば、さしあたり心理相談よりも弁護士の法律相談の方が役に立つはずです)

 「淡い恋心を抱いて誰かに恋してる。この気持ちをどう相手に伝えよう」、おそらくこのような方々は、心理相談にはやって来ないでしょう。相談があるにせよ、身近にいる誰かに話して、その多くは自分の力で行動に移せるはずです(もちろん行動に移せずに苦しむ人もいます)。このように考えると、「恋愛相談」と呼ぶにふさわしい方々が、実は恋愛相談にはやってこないことになるのです。

 何らかのトラブルや苦しみを抱えて、人は相談にやってきます。人を好きになっては別れ、別れたかと思うとすぐ恋をする、自分でも嫌になるほどの恋愛依存症に悩んだり、あるいは出会い系サイトを頻繁に利用する、自分では止めることのできないセックス依存症に悩んだり、あるいはまた「別れたい。でも別れたくない」と言う葛藤で、身動きすらできないうつ病になったりで、一口に恋愛相談と言っても、その内実は多様です。

 ウェブ上のサイトをのぞくと、恋の駆け引き、相手の落とし方、上手な別れ方など、まるで恋愛ゲームのテクニックが溢れんばかりです。しかし、恋愛には、ああすれば必ずこうなると言う因果関係は成立しません。つまり、恋愛には誰にでも当てはまる法則がなく、そのため科学として成り立たないわけです。恋愛の科学などない、これは淡い恋心に水をさす言葉かもしれません。悩んでこそ成長できる、この言葉は慰めになるでしょうか。。

 愛とは何か? こんな大きなテーマに答えられるほど、私は大人物ではありません。ただ、愛は幻想であるような気がします。二人が抱く、素晴らしい共同幻想のような気がするのです。愛と言う幻想の無い孤独、こんなに寂しいことは他にありません。「あばたもえくぼ」にならないのですから。だからこそ、孤独のなかで苦しむ人は、愛と言う幻想をずっと追い続けるのかもしれません。人間であるかぎり。


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