北広島等、札幌圏の精神療法
泣きじゃくる幼い子供を抱きしめて、母親が優しく声をかける。「大丈夫だよ。お前は何も心配しなくていいのよ。大丈夫だから、そんなに泣かないで。ほら、笑って」。
大変なミスを犯して動揺する上司の姿を見て、その部下が「大丈夫ですか」と尋ねる。上司は平気を装ってこう答える。「大丈夫だ、問題ない」。上司はまるで自分に言い聞かせるかのようにして、さらに続ける。「大丈夫。絶対、大丈夫。・・・きっと大丈夫。・・・」。
心が離れて行きそうな恋人のしぐさが気になり、別離の予感のなかで男が切り出す。「俺たち、大丈夫かな」。女が、どことなく思わせぶりなトーンの声で答える。「大丈夫よ。あなたに愛があれば、大丈夫」。
津波に流されてがれきの山ばかりになった荒れ地のなかで、中年の女性が立ちつくす。老婆が声をかける。「大丈夫だ。またやり直せばいい。私はこれで二度目。前はチリの津波だった。平気、平気、大丈夫」。
人生のいろいろな場面で口にされる言葉、「大丈夫」。日常のふとした場面で、そして、極限状況で。動揺する人間を気遣い、励まし、自信を取り戻させ、勇気を与える言葉。
多くの人間は、自分の心のなかにこの言葉を宿している。つらいときに、大丈夫だよと言って慰めてくれる声が、内面に根付いているのだ。では、この言葉、一体どこからやってくるのだろう。
その原型は母と子の交流なのかもしれない。痛みを訴える子どもを抱擁し、「痛いの痛いの飛んでけー。ほら、もう大丈夫よ」と暖かみを示す母。すると、嘘のようにそれまでの痛みが無くなり、ホッとする子ども。
このようにして外的な精神間の行為が、精神内の心的営みに転化し、自分の心のなかに「痛む自分」と「慰める自分」のペアが宿ると、もうその人は「大丈夫」と言って、自分で自分を慰めることができる。セルフケアの起源は、ここにあるのかもしれない。そして、このような声がいったん心の中に宿ると、今度は苦しみのうちにある他人を慰めることのできる人間になる。
精神分析学者のエリク・エリクソンは、このような大丈夫感を「基本的信頼感」と呼んだ。私たちが生きて行く上で、もっとも基本的な安心感。
現実をみると全然大丈夫ではないのに、大丈夫と言って笑う人がいる。人間の逞しさがここにある。そのような人は現実に根拠があってそう口にしているのではない。自分の心のうちにある根拠に後押しされて、そう口にしているのである。
もしも、この大丈夫感の希薄な方がカウンセリングにやって来たとしたら、大丈夫感を作ることが重要になってくるはず。とても、とても、長い道のりになるかもしれません。
追記
20数年前、志村けんさんのお笑い番組「だいじょうぶだぁ」が人気だった。子どもたちはみな「大丈夫だー」を連発していた。私の心の中に宿る「大丈夫」の声は、ときどき志村さんの声で聞こえることがある。暖かみとともに、笑いも、人間にとって大切なこと。
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