札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」です。仏教には、愛別離苦なる言葉があります。生き別れ、死に別れです。私たちにとって、別れほどつらいことはありません。その対象は愛する人であったり、可愛い動物であったり、大切にする物であるかもしれません。
私自身の話を少しだけさせてください。実は、数年前に、長いあいだ生活を共にしてきた猫を亡くしました。18歳でした。猫にしてみると、おそらくかなり長生きした方なのでしょう。大晦日の早朝に、彼女の死を看取りました。彼女があの世に行ってから、なんだか生活にぽっかりと穴があいてしまったかのようで、寂しい思いで日常を送りました。世に言うペットロスです。カウンセラーも、ペットロスになるのです。
それから半年がたった、ある日のことです。たまたま覘いたペットショップで、「声」がしました。生まれたての姉弟?の猫が二人(二匹ではない!)私の方を向いており、「ここから連れて行って」と話しかけてきたのです(そんな気がしたのです)。そのまま連れて帰ったのは言うまでもありません。この話を学生にすると、よく笑われます。
またしても猫中心の生活が始まりました。猫バカです。新居には、二人が思いっきりダッシュできるように室内に全長10数メートルの直線ニャンコ・ロード(「演歌の花道」ならぬ「ニャンコの花道」と呼んでいます)を作ったり、ここまでやるかという大がかりなキャット・ウォークを作ったりもしました。二人はいまや大人になり、元気に過ごしております。
この二人があの世に行くとき、私はまた悲しむでしょう。反対に、私が先に逝くことになったら、二人は悲しんでくれるだろうか。そして、私よりも先に逝ってしまった彼女は、私のことをあの世で待っているだろうか。
私と猫の話は、これまでとします。
愛する人、大切な人を失ったとき、人は悲しみに暮れます。喪に服する服喪追悼が始まるのです。生前の思い出に浸ったり、仏壇の写真に話しかけたり、手を合わせたり、泣いたり、ぼんやりしたりするのです。おそらく、この服喪追悼はずっと続くでしょう。けれども、大切な人の声が自分の心の中に宿っていることにハタと気がつくとき、それがひとつの節目になるはずです。
喪失体験をテーマとした、感動的な文学やドラマは星の数ほどあります。最近では、「そうか、もう君はいないのか」(城山三郎)が印象的です。私が、文学作品のような感動を相談者の方々に与えることができるのかというと、それは無理な話です。できるとすれば、一緒にいること、話を聞くことで、悲しみのプロセスを共にすることだけです。作家は、活字を通じて多くの人間を癒すことができます。それにくらべると、カウンセリングで一人のカウンセラーにできることの何と小さいこと。以上、札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」でした。
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