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分かってくれない



 「分かってくれない。私のことなんか、誰も分かってくれない」。

 誰しも一度は口にしたことのある言葉でしょう。
自分に対する周囲の無理解を嘆き、悲しみ、自分の殻に閉じこもるときによく口にされる言葉です。たとえば、何かで親と対立する思春期の子供や、精神症状などの主観的体験を誰かに伝えようとしてもうまく行かない人や、周囲には理解しがたい独創的な発想をする人などがよく口にするのかもしれません。

 ここで「分かる」の意味について考えてみましょう。これは「理解する」と言い換えることもできます。さらに、この言葉が発せられるときには必ず相手がいて、二人のあいだで初めて意味をもってきます。つまり「分かる(理解する)」は「分かってくれる(理解してくれる)」と、「分からない」は「分かってくれない」と、それぞれペアになっているわけです。このペアを基本として考えて行きます。

 「分かってくれない」は、相手が自分のことを理解してくれないことを意味しています。相手のことを言っているわけです。ここで見えにくくなるのは、それ以前の自分の気持ちです。つまり、そこにあるのは、相手に分かってほしいという願望や、私のことを理解せよという命令なのです。命令という表現に違和感を感じる人もいるかもしれません。そのような方は、「あなたを愛している」という告白には「私を愛して」という命令が暗に含まれることを思い起こして下さい。

 「分かってほしい」という気持ちを言い換えると、自分のことを何も言わずに(批判せずに)受け入れてほしい、聞いてほしい、苦しい気持ちを汲んでほしい、といったことになるかもしれません。無条件に受容してほしいわけです。このような気持ちに答えてくれる人が、つまり分かってくれる人が、日常生活のなかで自分の周囲にいれば、分かってくれた、理解してもらえたと、大きな安堵感が得られるはずです。けれども、自分のことを分かってくれる人と出会うのは、とても難しいことなのかもしれません。あなたの「分かってほしい」が相手にとってあまりに執拗なものであれば、その人は嫌気がさして「分かった、分かった」と言い、あなたから離れて行ってしまうかもしれません。

 「分かる」にはいろいろな意味があります。例えばこんな使い方をします。「同じ苦労をした者同士でなければ分からない」、「子どものことで苦しんでいる私の気持ちが、独身で子供のいないあなた(カウンセラー)にどうして分かるというのですか」、「いいとこのボンボンには分からねーだろう」など。

 分かってほしい人が、分かってほしい相手に暗に求めているのは、一人の人間として、自分と似たような体験をしていること、つまり類似する人生経験であると思います。「あなたもそう? 私もそうなの」と言う体験としての同型性です。共通項があるので、何らかの仲間意識が生まれやすいのです。社会的な地位や階級、つまり生きている世界も、なるべく同じ世界が求められるのかもしれません。

 では、耳を傾ける側、カウンセラー側の「分かる」についてです。これには大きく分けて、二つの「分かる」があるような気がします。ひとつは、情報ないし知識として分かることです。相談者の話の内容を、論理的に理解する側面です。もうひとつは、心情として共感的に分かることです。ピンとくる、腑に落ちる、ジーンとくる、といった感情や情動レベルの共鳴です。

 これらを単純に組み合わせると、カウンセラーがクライエントの話に耳を傾けるとき、次のような場合が考えられるでしょう。@相談者の話はよく理解できるし、話を聞いていると胸がジーンとくる。Aクライエントの話はよく理解できるものの、いまひとつ心情としてピンとこない。B相手が何を言っているのか分かりにくいし、全然共感的になれない。カウンセリングの世界ではカール・ロジャーズの「共感的理解」なる考えが重視されているのですが、カウンセラーはいつも上記のような三つの状態を揺れ動きながら話を聞いているのかもしれません。

 「分かってくれない」に関して、もっとも相性の悪い二人を想像してみましょう。こんなカウンセラーがいたとします。相手の気持ちを汲むことがおろそかで、「○○の症状がある人は○○の対応が最善だから、まずは心理学的診断こそ重要」と教科書的なことばかり考えていて、「情」よりも「知」が優位な人です。そこに「分かってほしい」相談者がやってきます。そして、その相談者は、相手に黙って話を聞いてほしいし、「うんうん、そうね。そうね」という肯定しか相手に許さず、それ以外の反応はすべて自分を否定するものだと感じてしまう人だとしましょう。

 答えは火を見るより明らかです。カウンセラーは相手の気持ちに目もくれずに、教科書的な助言を与えるばかりです。相談者の訴えよりも教科書に照らすことの方が大事なのです。相談者は自分のすべてを否定されたような気持ちになり、「分かってくれない。こんなところもうやめよう。別のカウンセラーを探さなくっちゃ」と心のなかで呟くはずです。

 私はいままで、数々の「分かってくれない」体験と出会ってきました。同じ言葉であるにもかかわらず、そこにはさまざまなトーンが込められていました。諦め、断念、悲しみ、悲哀、非難、攻撃、自暴自棄、・・・・。カウンセラーである私は、相談者と顔を合わせるとき次の地点から出発します。「私たちは何よりもまず同じ人間なのだ。そして、ここにいる私とあなたは、別々の人生を歩んできた、異なる生命なのだ」。似ているところも、異なるところもある、二人の人間が、いまここにいる、その事実から出発するのです。

 同じ人間ですから、相手のことが分かることもあるでしょう。それに、二人とも異なる個性をもった存在ですから、容易には分からないこともあるでしょう。分かったり、分からなかったり、それが私のカウンセリング・スタイルであると思います。分かったときはニッコリと頷くかもしれません。分からないときは分からないと口にするかも知れません。ごく自然にやっているような気がします(分かった振りをしない)。相談者にしてみれば、分かってもらえたと感じるときと、分かってもらえないと感じるときが、おそらく交互にやってくるでしょう。「自分のことをすべて分かってほしい、すべて分かってくれないカウンセラーならいらない」と言う相談者にとって(そのような方がいたとして)、私はどのように映るのでしょうか。

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