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逝くもの、残されたもの



 生きるとは、息をすること。

 いま、きみの生命が絶えようとしている。
 苦しそうに、きみは息をつく。
 知らぬ間に息をあわせていた私も、呼吸が止まりそうになる。
 
 生きるとは、息をすること。

 きみの呼吸が止まる。
 息をしなさい。
 きみの名を呼ぶ。

 生きるとは、息をすること。

 きみは息を吹き返す。
 まだ息がある。
 
 生きるとは、息をすること。

 呼び止めて、ごめんね。



 死の向こうに待っているのは、何であろう。苦しみの果ての静寂であろうか。この世から解放されると、あの世に行けるのであろうか。私に分かっていることは、何もない。分かっているのは、逝く者がいて、残される者がいるということ。

 こんな話を聞いたことがある。幼子を亡くした母と、お釈迦様・仏陀の話である。あるとき、幼子を生き返らせたいと、悲しみに沈んだ母が仏陀のもとを訪れた。その母に仏陀は、村に行ってこれまで一度も死者を出したことのない家を探し、そこから芥子の実をもらってくるように話した。母は幼子が生き返ることを信じて、一軒一軒家をたずねた。だが、これまで一度も死者を出したことのない家などなかった。

 残された者が悟るのを、仏陀は待っていた。死別の苦しみ、苦しい別れのプロセスが続く母親に、仏陀は何をしたのだろう。とにかく、残された母は何かを悟った。とても大切なことを。

 カウンセラーは、この世での一回限りの生(相談者)を援助しているのであろうか、それとも、いずれあの世にいくこの世の生を援助しているのであろうか。あるいは、この世からあの世へ、あの世からこの世へ、姿を変えつつ輪廻転生する生を援助しているのであろうか。

 最晩年のキュブラ・ロスの姿を、随分前にテレビで見た。身体の麻痺(脳障害)と戦い、2004年に亡くなった彼女は、無慈悲な神を「ヒットラー」と呼んで悪態をついていた。ターミナル・ケアの先駆者がおのれの死に際して聖人ではなかったことで、おそらく彼女に対する評価は二分されることであろう。もちろん私は、不甲斐ない自分自身を愛することを最後のレッスンとし、神に悪態をつく彼女の姿を見て、不器用な私であっても私なりに死ねるのではないかと思った一人である。

 キュブラ・ロスが霊媒師と接触して、あの世のことに没頭していたのは、周知の事実である。そういえば、伴侶に先立たれた晩年のカール・ロジャーズも、降霊会での体験からあの世への確信を深めたらしい。ここに、精神医学や臨床心理学は科学であってオカルトではないという否定論者と、あの世も視野に入れた肯定論者を分かつ、超えることのできない分岐点があるのかもしれない。

 この世に生きているカウンセラーは、すでにあの世に逝った者を援助することはできない。しかし、死者の霊を弔うことはできる。そして、これから逝くもの、残されたものの話しに、耳を傾けることができる。もちろん、仏陀のように行くとは限らないのだが。

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