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●慶長元年(1596)
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2月−豊臣秀吉、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家および東国の諸大名らに淀川の堤を築かせる。(この年冬完成
、太閤堤とよばれる)
9月1日−秀吉、大阪城で明使楊方亭に会うが表文に怒り、翌日使者を帰す。
大地震(慶長の伏見大地震)により、摂津国八部(やたべ)郡の兵庫津(神戸市)は壊滅
(大半の家屋の倒壊と出火により多数の死者を出す)に近い被害を受け、同郡の須磨寺(神戸市)の堂塔
なども倒壊し、敦盛塚(平敦盛の供養塔)も中浜まで移動する。
1月10日−豊臣秀頼、伏見城から大阪城に移る。
9月9日−徳川家康、大阪城で秀頼に会う。
9月28日−家康、大阪城西の丸に入る。
1月元旦−豊臣秀頼が諸大名の参賀を大阪城中で受け、次いで西の丸に赴き徳川家康に年賀を述べる。
5月12日−家康、大阪城でウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンに会う。
6月16日−家康が上杉景勝の返書に激怒、大坂城に諸大名を集め会津征伐を命令、自らも出陣。
7月17日−豊臣氏五奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以が、家康の罪科13か条を告げ、挙兵を促す。
7月17日−細川忠興夫人ガラシャ(38)が、人質として大阪城入城を強要され、死を選ぶ。
9月15日−関が原の戦いで西軍敗走。
9月27日−家康・秀忠父子が大阪城西の丸に入り、豊臣秀頼と会見する。
10月1日−秀頼、摂津・河内・和泉3国64万石を領する大名となる。
10月−石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らを六条河原で処刑。
2月−豊臣秀頼が大阪城で、徳川家康・秀忠父子を饗応する。
3月23日−家康、大阪から伏見城に移る。
閏11月2日−秀頼、四天王寺を再建。
1月−伊達政宗、秀頼に謁す。
豊臣秀頼、摂津国須磨寺(慶長元年の大地震で倒壊)を再興する。片桐旦元、兵庫津の検地を行う。
10月2日−大阪・伝法・尼崎・山城川・伏見の過書船仲間結成。幕府、河村輿惣右衛門、木村惣右衛門に支配させる。
7月28日−徳川秀忠の長女千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ。
家康が秀頼の上京を促すが、秀頼生母淀君が反対する。
12月13日−秀頼、生国魂神社を再建。
大阪両替町に銀座を新設。
7月19日−金銀銭の比価を公定、永楽銭1貫文=京銭4貫文=銀50匁=1両とする。
6月12日−方広寺再建始まる。
4月7日−豊臣秀吉の五奉行首座・浅野長政(65)没。
2月27日−大阪城内に豊国社造営。
2月16日−幕府が元キリシタン大名高山右近、内藤如安(ジョアン)らを長崎に護送する
4月16日−秀頼、方広寺の鐘を鋳造。
7月26日−家康、方広寺の鐘名に異議を唱え、大仏開眼供養の延期を命じる。
10月1日−豊臣秀頼の家老・片桐且元が失脚、大阪城を退去する。
10月1日−家康、大阪討伐を決める。大阪冬の陣。
10月6日−真田幸村、長宗我部盛親、後藤基次らの有力武将が大阪城に入城する。
11月15日−家康、秀忠20万の徳川軍出陣。市中で戦闘開始(大阪冬の陣)。
12月19日−徳川・豊臣の和議成立。