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1月14日−幕府が町人の出願をうけ,金銭延売買会所の設置を許可する。
4月6日−対馬藩の通事が朝鮮通信使崔天宗(りっしんべん有り)を殺害する。
6月−川辺郡山本村の農民が徳川家康の朱印状を届け出て,幕府から銀5枚を与えられる。
7月3日−近畿一帯が大風雨に襲われ,8月3日にも再び大風雨にあう。
大阪、江戸時代を通じて最高の人口となる。
1月14日−近松半二・三好松洛らの人形浄瑠璃「本朝廿四季」が初演される。
5月−武庫(むこ)郡の村々が,油の原料となる種物を従来どおり絞
油屋へ自由に売却することなどを求めて,翌月にかけて幕府へ訴願をくり返す。
6月3日−幕府が、輸出用の銅の産出不振のため、1750年設置の長崎御用銅会所を
ふたたび銅座に改組して,銅売買の統制をはかる。
1月−幕府が銅貯蔵量不足のため,幕府倉庫である大坂御蔵(おくら)
ヘ,長崎上納銅・吹銅を300万斤に達するまで年々囲い置くことを命じる。
2月13日−幕府が,尼崎藩領のうち西宮・兵庫の町々と周辺の菜種産地を幕府領とする。
4月23日−村々の農民が共同で大坂下屎仲間の値段つり上
げを幕府に訴えた争議に,一応の裁決が下される。
春−大坂・木村兼葭堂が地大雅らを招いて書画会を開く。
8月25日−幕府が,摂津・河内・和泉3国内での油絞りを公認し,
油稼ぎ株を設定する(明和の油仕法)。
1月28日−近松半二ら脚本の「妹背山婦女庭訓」が竹本座で初演される。
幕府が兵庫に穀物仲間株設定を許可する。
1月12日−天満青物市場問屋株と仲買株、許可される。またこの年、
大坂を中心に株仲間が相ついで公認される。
6月5日−大坂綿問屋仲間株が公認される。
2月5日−人形浄瑠璃「摂州合邦辻」が初演される。
4月−幕府が菱垣廻船問屋株9軒を公認する。
6月4日−諸藩の蔵屋敷が財政窮迫から空米切手を発行しているため、幕府が,
切手記載の銀高を商人に補填することを決め,円滑な通用をはかる。
7月30日−幕府が二朱銀の鋳造量をふやし,毎月銀座から大坂御蔵(おくら)へ移送
するよう発令。上方での流通をはかる。
7月−幕府が,大坂や摂津・河内・和泉・播磨に関する金銀訴訟の担当役所について
、関係地域による分担制をやめ,大坂町奉行一轄とする。
8月3日−幕府が大坂家質(かじち)奥印差配所を廃止し,代わりに川ざらい冥加金を三郷に賦課する。
4月20日−奈河亀輔ら作の「伽羅先代萩」が中の芝居で初演される。
6月−翌月にかけて、村々が幕府にたいし,菜種の販売先指定
の撤回を要求する訴えをおこす。
12月19日−大火が発生し,菅原道真をまつる天満宮が焼失,菅原系の公家は3日間出仕を停止する。
6月−大坂20か所で落雷があり、四天王寺五重塔などに被害がでる。
9月1日−幕府が油取次ぎ所を八尾・久宝寺・平野郷に設置し,大坂への油の集荷力強化をはかる。
「金門五山桐」「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」「心中紙屋治兵衛」がそれぞれ初演される。
9月28日−近松半二作「新版歌祭文」が竹本座で初演される。
12月−幕府が,大坂の江戸組・堺筋組・油町組の毛綿仕入れ積み問屋株を公認する。