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安政(1854〜1859)
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慶応(1865〜1867)
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下総国(寛永年間)

●寛永2年(1625)
12月−古河藩永井直勝、没。翌年1月、嫡男尚政が襲封。

佐倉藩主土井利勝が14万2,000石に加増される。

●寛永4年(1627)
2月−森川重俊、1万石で千葉郡北生実村(おゆみむら=現・千葉市生実町)に入封、生実藩成立。

●寛永6年(1629)
関東郡代の伊奈半十郎によって行徳領の塩浜検地が行われ、各村の塩浜役永高(えいだか)が定められる。

●寛永7年(1630)
将軍家光の側近、三浦正次が1万石となり矢作(佐原市)藩が成立。
幕府、日蓮宗不受不施派を弾圧し、日賢、日弘らが追放される。

●寛永8年(1631)
土井利勝、佐倉領15万石の検地を行う。

●寛永9年(1632)
1月−生実藩森川重俊、大御所秀忠の死に際し殉死。遺領は嫡男重政が相続。

●寛永10年(1633)
3月−古河藩永井尚政、老中を罷免され加増のうえ山城淀藩へ移封。4月、佐倉藩より土井利勝が入封。
佐倉藩土井利勝に替わり、石川忠総(ただふさ)が豊後国日田より佐倉に7万石で入封する。
竹袋(現印西市)から木下に水路を開削し利根川に通じる。

●寛永11年(1634)
閏7月−佐倉藩主・石川忠総、近江国膳所へ転封。
10月−栗原藩成瀬之成、没(38歳)。12月、之虎が遺領を継ぐ。

●寛永12年(1635)
12月−山川藩水野忠善、駿河国田中藩へ転封。山川藩は廃藩。
摂津国高槻より松平(形原=かたのはら)家信、佐倉藩へ入封。
江戸の海野屋作平衛らにより手賀沼に新田230余町歩を開拓。
江戸川の開削工事がはじまり、18年頃完成する。

●寛永15年(1638)
1月−佐倉藩形原家信、没。次男康信が襲封。
8月11日−幕府が関東山野巡察使の派遣を決定する。
9月20日−関東地方の山境論争に関する訴訟法度を定める。
12月−栗原藩、藩主成瀬之虎の死去(4歳)により跡継ぎなくお家断絶、廃藩となる。

●寛永16年(1639)
矢作藩三浦正次が下野国壬生へ転封、矢作藩は廃藩となる。

●寛永17年(1640)
1月−関東郡代伊奈忠治が江戸川開通のために下総関宿武蔵金彩間の水路開削を開始する。
6月−井上政重が1万石で入封し、高岡藩(香取郡下総町)が成立。
9月−佐倉藩松平(形原)康信、摂津国高槻へ移封。佐倉藩は幕府領となる。
北条氏重、遠江国久野より2万石で関宿へ入封。小笠原貞信、美濃国高須へ。
井上政重、1万石で高岡藩(成田市)成立。

●寛永19年(1642)
7月−堀田正盛が信州松本より佐倉藩に入封し、11万石を領す。