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●天明元年(1781)
●天明2年(1782)
●天明3年(1783)
6月−豪雨のため利根川が大洪水をおこし、農作物が大被害をうける。
●天明4年(1784)
●天明5年(1785)
●天明6年(1786)
●天明7年(1787)
●天明8年(1788)
●寛政元年(1789)
●寛政3年(1791)
●寛政4年(1792)
●寛政5年(1793)
●寛政6年(1794)
●寛政7年(1795)
●寛政12年(1800)
野田の醤油仲間が結成される。
香取出身の万葉学者で歌人の楫取魚彦(ぁとりなひこ)が60歳で没す。
4月−結城藩結城勝起、没。6月、勝剛(かつかた)が襲封。
浅間山が大噴火し、関東一円が降灰で凶作となる。
伊能忠敬、飢饉に際し、私財を投じて大阪から米を買いいれて窮民に分け与え、
領主の津田氏より苗字帯刀を許される。
閏1月16日−幕府が米価高騰のため,関東・東北・信濃の農民へ余剰米の販売を命じる。
2月10日−幕府が、江戸に関八州産の菜種の買受問屋2軒,村々に買次ぎ200人を指定し、
大坂回しと自給分以外の販売を命じる。
1月−関宿藩久世広明、没。嫡男広誉(ひろやす)が襲封。
10月7日−幕府が、関八州および伊豆・駿河の諸河川の稼ぎ船から農業船までに極印登録をして
課税を試みるが、強硬な反対運動にあい中止する。
田沼意次の命により、印幡沼・手賀沼開拓工事に着手。
幕府が印旛沼・手賀沼開発のため勘定所役人を派遣する。
7月14日−数日来の大雨で関東各地に洪水がおこり,大部分完成していた印橋沼・手賀沼の干拓工事も
壊滅的打撃をうける。つづき、田沼意次の老中辞任もあって、8月24日、印藩沼・千賀沼開発が中止される。
諸国大飢饉となる。千葉町など(佐倉藩領)の米穀商18軒が打ちこわしにあう。
6月−生実藩森川俊孝、没。急遽養嗣子とした俊知が8月、遺領を継ぐ。
成田山新勝寺が、深川の永代寺で出開帳(でがいちょう)、多数の参詣人でにぎわう。
3月−高岡藩井上正国、家督を正紀(まさのり)に譲る。
9月4日−大風雨で、船橋・行徳付近が大津波におそわれ、行徳の塩田が壊滅する。
5月17日−幕府が近年の災害のため,寛永寺・比叡山のほか出雲大社・宇佐八幡社・
鹿島神宮・香取社などに五穀豊熟の祈驚を行わせる。
佐倉藩で、藩士師弟の教育のため学問所が設けられ、のち温故堂と称される。
3月〜4月−老中松平定信が関東沿岸を巡視する。
9月−香取郡嶋村・玉造村(多古町)で日蓮宗・不受不施派の僧14名が幕府に捕らえられ、13名が牢死する。
10月−多古藩久松勝全(かつたけ)、次男勝升(かつゆき)に家督を譲る。
佐原の伊能忠敬、家督を長男の景敬に譲り、江戸深川黒江町に住む。
2月−小金原で行われる将軍の鹿狩りのため,幕府が村々から徴発する勢子(せこ)用の
鉄砲使用手続きについて触れをだす。3月5日、将軍家斉が狩りを行う。
8月−幕府が、日蓮宗不受不施派信仰の隆盛につき、禁止宗教の信仰厳禁を命じる。
隠居した伊能忠敬が江戸に出て、天文学者の高橋至時(よしとき)に入門する。
閏4月−結城藩結城勝剛、長男勝愛(かつざね)に家督を譲る。
伊能忠敬、蝦夷測量(第一次測量)のため出発。