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明暦(1655〜1657)
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安政(1854〜1859)
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文久(1861〜1863)
元治(1864)
慶応(1865〜1867)
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下総国(享保年間)

●享保元年(1716)
3月−高岡藩井上政蔽(まさあきら)、没。4月、政鄰(まさちか)が襲封。

●享保2年(1717)
5月2日−幕府が関八州の鉄砲所持者を検閲し、また江戸10里四方では猟師にも鉄砲の使用を禁じる。
大洪水で関宿藩の水関所が全壊。
布施に紅竜山東海寺(布施弁天)が建立される。

●享保4年(1719)
布施・戸頭間の利根川往来の渡船が、川の中ほどで沈没し、20人が死亡。遺族や村人が犠牲者の 供養のため布施河岸に水天宮と石塔を建てる。
12月28日−幕府が関八州の川船について寸法・極印の改定・点検を命じる。

●享保5年(1720)
6月−関宿藩久世重之、没。8月、四男暉之(てるゆき)が襲封。

●享保7年(1722)
4月1日−幕府が町医師丹羽正伯(せいはく)を登用し,桐山太右衛門とと もに滝台野に薬園を開かせる。
牧支配の改正がおこなわれ、佐倉7牧のうち内野(うちの)牧・高野(こうや)牧・柳沢牧を佐倉藩預かりとする。

●享保8年(1723)
5月−佐倉藩稲葉正知を山城国淀へ、同地から松平(大給)乗邑を6万石で佐倉へ転封。

●享保9年(1724)
8月−印藩沼干拓のため平戸川・検見川間の掘割工事が始まる。
10月−下野国鹿沼より内田正親、小見川へ本拠を移し小見川藩、再び成立。

●享保10年(1725)
3月27日−将軍吉宗が小金原で鹿狩を行い,鹿800余頭を仕留める。

●享保12年(1727)
4月−幕府が田畑被害のため猪・鹿を鉄砲でおどすことを関八州の農民に許す。
10月15日−勘定奉行筧正鋪が飯沼新田の検地を命じられる。

●享保13年(1728)
2月−多古藩松平(久松)勝以(かつゆき)、没。4月、次男勝房が遺領を継ぐ。
12月14日−幕府が灯油・蝋燭製造のため関八州の農民に唐胡麻 (とうごま)の栽培を奨励し,江戸に買い問屋2人を定める。

●享保14年(1729)
2月26日−幕府が,関八州で猪・鹿に対する農民の鉄砲使用制限を緩和する。
8月−幕府が関八州の諸代官に命じて農民の菜種栽培を奨励する。

●享保16年(1731)
8月−高岡藩井上政鄰、家督を正森に譲る。

8月−幕府が江戸の精米屋保護および米価引き上げのため,陸奥・関八州から江戸への白米運送を禁じる。

●享保17年(1732)
閏5月−生実藩森川俊胤、俊常が襲封。

●享保19年(1734)
2月20日−下総行徳の浜に鯨2頭が漂着。江戸両国橋近くの広場で見世物にされる。
7月−生実藩森川俊常、没。9月、俊令(としのり)が襲封。

●享保20年(1735)
11月28日−幕府が関八州からの白米の江戸輸送をふたたび禁じる。
将軍吉宗の命を受け、下総馬加村(現幕張)が甘藷栽培試作地に指定され、青木昆陽 指揮の下、種藷17個から2石7斗6升の収穫を得た。