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●天明2年(1782)
1月2日−享保年間の浜田藩邸での女性仇討ち事件を下敷きにした浄瑠璃
「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」が外記座(げきざ)で初演される。
5月−豆腐の料理法100種を解説した「豆腐百珍」が刊行される。
7月15日−14日につづいて江戸とその周辺が大地震に襲われ、とくに小田原では
城郭から民家まで大きな被害をだす。
10月−幕府の天文台,新暦調御用所が浅草へ移転し、頒暦調所と改称される。
11月6日−飛脚問屋9軒による定飛脚問屋の株仲間が公認される。
11月15日−幕府が,朱座以外での朱および朱墨の売買がやまないため,輸人品は長崎から,
琉球産は薩摩から朱座へ送るよう触れをだし、朱座での専売を厳命する。
12月25日−幕府が,武家地近辺での消防について心得などを発令,武士方加勢者・
定火消・町火消3者間の喧嘩厳禁を申し渡す。
この年、
西日本では春から夏にかけて洪水に悩まされ、天候の不順から凶作となり、天明の大飢饉が始まる。
●天明3年(1783)
1月−工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著し田沼意次に献上。
1月−唐衣橘洲編「狂歌若葉集」、四方赤良・朱楽菅江編「万載狂歌集」が刊行される。
6月−全国的な天候不順で米価が急騰したため、江戸・大坂・京都などで米・銭の施しが行われる。
9月−絵師の司馬江漢が初の銅版画を制作する。
9月−蔦屋重三郎が,吉原五十間道から日本橋通油町へ進出し,出版界での足場を築く。
9月−大槻玄沢がオランダ語の入門書「蘭学階梯」を著す。
11月4日−幕府が上野・下野・常陸・武蔵・信濃へ一揆・徒党取り締まりを
命じ、9日改めて全国に触れをだす。
11月9日−幕府が武蔵・上野・信濃の浅間山噴火被害の修復を,官費による御普請とし,
お救いとして村方へ請負わせることを決める。
11月9日−幕府は,浅間山噴火により迂回の交通量が増加したため,甲州道中へ7年間
人馬駄賃2割増しを許可し,12月には中山道のうち7宿へ2割増し,11宿へ3割増しを許可する。
12月16日−幕府が,財政窮迫と凶作を理由に,翌年から7年間の諸事倹約を命令する。
12月25日−俳人で画家の与謝蕪村(68)没。
12月29日−華やかな芸風で人気を集めた初代尾上菊五郎(67)没。
この年
東日本が未曽有の飢饉で、餓死者が膨大な数にのぼり、各地で打ちこわしがおこる(天明の大飢饉)。
伊丹椿園(ちんえん)の「女水滸伝」が刊行される。
読書・習字の教育方法を説いた江村北海の「授業編」が刊行される。
●天明4年(1784)
1月27日−幕府が,浅間山噴火被害による武蔵・上野・信濃の
河川浚渫の助役を熊本藩に命じる。
閏1月16日−幕府が米価高騰のため,関東・東北・信濃の農民へ余剰米の販売を命じる。
3月4日−新番士佐野善左衛門が,江戸城中で若年寄田沼意知を刃傷する。
春−鉄山師下原重仲が「鉄山必用記事」を著す。
4月23日−飢饉による流民が多く,幕府は米価引き下げのため米穀売り
出しを督励し,あわせて一揆・徒党・打ちこわしを厳禁する。
5月23日−幕府が、日光道・奥州道の宿駅困窮のため,7年間人馬駄賃2割増しを許可する。
夏−山東京伝の妹,黒鳶式部らが,上野で手ぬぐいの図案展を開く。
9月−幕府が、暦の発行を許可している11人の暦屋以外の暦類の売買,辻売りを禁止する。
10月−幕府が灯火用油の値段高騰のため,売り惜しみや便乗値上げを禁じる。
11月1日−桐座で常磐津舞踊劇「積恋雪関扉」が初演される。
源氏流いけばなの千葉竜トが、浅草で大花会を開催する。
●天明5年(1785)
春−山東京伝が黄表紙「江戸生艶気樺焼」を刊行。またこの年,洒落本の初作「令子洞房」をだす。
5月25日−石川雅望(まさもち=宿屋飯盛[やどやのめしもり])の父で,版画の木目刷りを創作し
た浮世絵師石川豊信(75)没。
8月5日−幕府が,盲僧を青蓮院の支配下におくことを認める。また,盲僧を武家出身者に
限定,農民・町人が盲僧となることを禁じる。
8月10日−町奉行与力で歌人の加藤枝直(えなお=94)没。
8月14日−旗本寄合の藤枝外記が遊女と心中し,10月29日,幕府が主君変死隠匿の罪で,
藤枝家を改易する。
8月−前野良沢が「蘭和訳筌」を著す。
9月−日本を中心に朝鮮、琉球、蝦夷を描いた林子平の地誌「三国通覧図説」が刊行されるが、
寛政4年(1792)、幕命により絶版となる。
10月7日−幕府が、関八州および伊豆・駿河の諸河川の稼ぎ船から農業船までに極印登録をして
課税を試みるが、強硬な反対運動にあい中止する。
●天明6年(1786)
1月9日−1772年に焼失した多紀安元(たきあんげん)の医学館が再建され,毎
年2月中旬から100日間医学教育を行うこととなる。
2月9日−石田梅岩の跡を継ぎ、講義所を設置して心学を普及させた手島堵庵(とあん=69)没。
5月−林子平が「海国兵談」16巻を脱稿する。
6月29日−幕府が、全国の寺社・農民・町人へ金銀を賦課し,大坂の貸金
会所から武家へ貸し付けることを発表する。
7月14日−数日来の大雨で関東各地に洪水がおこる。
8月2日−幕府が,7月の大洪水で浸水被害にあった御家人へ石高
に応じて救助金を貸し与える。
8月4日−幕府が関東大洪水により,損害のない国々からの食糧回送を命じる。
8月27日−老中田沼意次が25日の将軍家冶の死とともに解任となり,失脚する。
9月−米価高騰のため、幕府が問屋・仲買ほか一般人に手持ちの米などを売買するよう
命じる(逆効果となり11月に撤回)。また19日、諸国に酒造米石高の半減を命じる。
閏10月5日−田沼意次の領地のうち2万石が没収され,腹心の勘定奉行松本秀持(ひでもち)も
逼塞となり,以後も意次の政策に参画した者の失脚がつづく。
●天明7年(1787)
春−山東京伝が「通言総籬」を刊行する。
4月15日−徳川家斉が第11代将軍に就任する。
5月20日−夜から打ちこわしが発生、しだいに拡大して22日全市に広がる(天明の打ちこわし)。
6月16日−8日、関東郡代伊奈忠尊(ただたか)に関東内外から米を集めるこ
とを命じた幕府が、江戸在住者へ米麦を支給する。
6月19日−松平定信が老中首座となる。
6月29日−幕府が、酒造米高を前年からさらに減じて3分の1とする。
7月1日−老中が,諸役人に享保の制に戻し綱紀を粛正するよう申し渡す。
7月−幕府が文学・軍学・天文学・武芸などに長じる者の履歴書提出を命じる。
8月4日−6月18日に倹約令をだした幕府が,凶作と洪水を理由に,ふたたび3か年の倹約令を出す。
9月7日−この時期の蕉風の代表的俳人、大島寥太(りょうた=70)没。
9月27日−幕府が,田沼政権設置の鉄座・真鍮座を廃止する。
9月−森島中良が西洋知識書「紅毛雑話」を刊行する。またこの年、洒落本「田舎芝居」を著す。
11月26日−幕府が,朝鮮種人参販売について,田沼政権による極印制と人参座を廃止し,
元飯田町に人参製法所を設置する。
この年
諸国で連年の凶作から米価が高騰し、打ちこわしがおきる。
●天明8年(1788)
1月12日−幕府が博打取り締まり強化のため密告も奨励、その触れを江戸町々の辻へ張りださせ、
また諸国へも触れを出す。
1月26日−米屋への打ちこわし頻発のため,幕府が,米の売り惜しみや酒の密造禁止を
発令し,米屋などへの徒党狼籍も厳禁する。
3月4日−松平定信が将軍補佐となる。
4月29日−幕府が定額貨幣の南鐐(なんりょう)二朱銀の発行を停止し、従来どおりの
秤量貨幣丁銀を新鋳する。
5月6日−前伏見奉行小堀政方が苛政の罪により改易され,伏見騒動が決着する。
7月15日−幕府が米価高騰のため,武家に在府人数の削減と領地からの食糧回送を命じ、
あわせて農村に倹約・勧農を命じる。
8月23日−幕府が関東産菜種の買問屋・仲買を廃止する。
10月2日−先手(さきて)弓頭長谷川平蔵が火付盗賊改に就く。
10月10日−1月16日に徳島藩の儒者柴野栗山(しばのちつざん)を儒官に登用した幕府が,
歴史書「国鑑(くにかがみ)」の編纂を命じる。
10月20日−幕府が、豪商7人を勘定所御用達に任命する。
12月−幕府が,4月から3割に減少させていた真鍮四文銭の鋳造を停止する。
●寛政元年(1789)
3月15日−2月に奢移禁止令をだした幕府が、あらためて奢移とみなす品目を定め,
その製造・販売を禁止する。
3月−幕府が孝行などにより褒賞された者の報告を求め,「孝義録」の編纂に着手する。
4月−幕府が火付盗賊改に犯罪人を目明しの手先として使うことをあらためて禁じる。
7月7日−1月に幕政を戯画化した「鸚鵡返文武二道」を刊行した恋川春町
(46)が、幕府から出頭を命じられたまま没する。
9月16日−幕府が札差に対して幕臣への借金帳消しなどを命じる(棄捐令)。
また,浅草猿屋町に賃金会所を設置する。
9月17日−幕府が,諸大名に1万石につき50石,5年間の囲い籾(もみ)を命じる。
11月10日−幕府が関東産綿実買受問屋・仲買を廃止する。
11月−力士谷風と小野川が横綱を免許され,初の土俵人りを披露する。
この年
幕府が時事的内容の黄表紙出版を統制、発禁処分の「黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)」の
作者石部琴好(きんこう)らが処罰される。
●寛政2年(1790)
2月19日−幕府が,無宿者や軽犯罪者の授産更生施設として石川
島に人足寄場の設置を決める。
4月−幕府が,妊娠中の女性の死刑執行は出産後と定める。
5月24日−幕府が、朱子学を正学と定め,正学以外の異学を湯島
聖堂で教授することを禁じる(寛政異学の禁)。
5月−幕府が好色本などの出版を禁止し,出版統制を強化する。10月27日には
ふたたぴ好色本などの出版を禁じる。
8月13日−幕府が,輸入薬種の高値是正のため、輸入品偏重を戒め,薬園育成用の
外国産薬種の苗の分与などを奨励する。10月には、輸入薬種の価格引き下げを命じる。
9月3日−納宿の株仲間解散が命じられ,新たに廻米納方引請人が任命される。
9月23日−前句付けの点者として名声を博し、付け句を独立させ川柳とした初代
柄井(からい)川柳(73)没。
11月−幕府が,旅費などを支給して,江戸へ流入した農民の帰郷促進を
はかる(旧里帰農奨励令)。
12月24日−幕府が朝鮮人参の栽培および売買を自由化する。
●寛政3年(1791)
1月25日−幕府が,湯屋での男女混浴を禁止する。
5月3日−盗賊葵小僧が獄門に処される。
5月−幕府が,近年の葬礼・仏事の奢移を戒め,1668年の触れどおりの簡素化を命じる。
5月−山東京伝の洒落本が幕府の発禁処分をうけ,京伝と版元の蔦屋重三郎が処罰される。
7月−幕府が,西国産菜種の大坂への強制的回送をやめ,兵庫に新設の問屋へ集荷させ,
西宮・兵庫地域で絞油して自由に江戸・大坂へ送らせることとする。
8月6日−大風雨で江戸・相模が高波、山崩れに襲われ、大被害をだす。
9月2日−近海に異国船が出没し、幕府が異国船発見・漂着のさいの警備や手続きについて触れをだす。
9月18日−幕府が,菜種・木綿以外の栽培をなるべくやめ,米や雑穀の増産をはかるよう命じる。
9月21日−尾藤二洲が幕府儒官に登用される。
9月−幕府が,高波による死者の供養のため,回向院の僧を廻村させ,施餓鬼を行わせる。
10月13日−幕府の武芸奨励策の一環として,将軍家斉の前で幕臣による馬術・武芸が披露される。
10月24日−幕府が多紀氏の躋寿館を官学とし,医学館と改称する。
11月−幕府が、1723年の組合鑑札を所持していない古鉄商との取引を禁止する。
12月−幕府が,町入用節約分の70%の積み立て(七分積金)を始める。
喜多川歌麿が浮世絵の大首絵を創案する。
●寛政4年(1792)
3月9日−幕府が関東郡代伊奈忠尊を,家政不行届きなどにより改易する。
春−司馬江漢がアムステルダム版の世界地図をもとに,初の銅版世界地図
「輿地(よち)全図」を作成する。
5月16日−幕府が、林子平の「海国兵談」「三国通覧図説」を絶版とし、子平を禁錮に処す。
5月17日−幕府が近年の災害のため,寛水寺・比叡山のほか出雲大社・宇佐八幡社・
鹿島神官・香取社などに五穀豊熟の祈驚を行わせる。
7月21日−麻布から出火し、赤坂・飯田橋・番町などを焼失する。29日、幕府が
屋敷類焼の1000石以下の旗本に手当金をだす。
8月−幕府が湯島聖堂の施設拡充のため,400坪の庁堂・学舎を造営。翌9月,学術試験に
あたる初の学問吟味を実施する。
10月9日−3分1酒造令以来西国からの酒の江戸送りが増加しているため,幕府が、
東海・近畿など旧来の11か国以外の江戸への下り酒を禁じる。
12月8日−美人画・役者絵などにすぐれ、浮世絵勝川流の祖となった勝川春章(67)没。
12月27日−幕府が海岸防備の重要性と異国船取扱令を諸大名へ伝える。
●寛政5年(1793)
1月−司馬江漢が前年刊行した「輿地全図の解説本「地球全図略説」を刊行。大槻玄沢の序を
巻頭に収め,天動説や地動説などを紹介する。
3月7日−典仁親王に太上天皇の尊号を贈る問題が紛糾した件に関し、
幕府が公家2人を処罰する(尊号一件)。
3月17日−幕府が,海岸防備を厳重にするよう沿岸の諸大名に命じる。
4月6日−9代目弾左衛門の襲名が行われる。
6月21日−前年以来,兄の屋敷で禁固を命じられていた林子平(56)没。
6月−宇田川玄随訳「西説内科撰要」の刊行が開始される。
7月23日−松平定信が老中・将軍補佐役を罷免される。
7月23日−塙保己一が和学講談所を麹町に設立する。
9月18日−口シアから送還された漂流民大黒屋光太夫と磯吉が江戸城内吹上苑で将軍家斉と会う。
10月25日−湯島からの出火により、芝居の江戸三座のうち中村座・市村座が焼失する。
雉橋の野馬方で、安房嶺岡牧産の牛乳から白牛酷(バター)が試作される。
安芸の整骨医星野良悦が,木製人骨を杉田玄白らの蘭学者に見せる。
●寛政6年(1794)
1月10日−麹町から出火して山王社や大名屋敷を類焼、また4月2日にも新吉原が焼失する。
1月23日−女形から狂言・歌舞伎作者に転じた初代瀬川如皐(じょこう=56)没。
5月−東洲斎写楽が、版元蔦屋重三郎から役者絵なとを次々と版行する。
6月10日−新井成美が曽祖父白石の「西洋紀聞」を幕府へ献上した
件で時服をさずけられる。
6月−幕府はロシアより帰還した大黒屋光太夫・磯吉に報奨金と月々の手当を与え,番町薬革
園へ閉じ込めてみだりに外国の物語をすることを禁じる。
7月17日−訳書「天地二球用法」などで地動説を紹介した長崎通詞本木良永(60)没。
8月−桂川甫周が,大黒屋光太夫の体験を聞いて「北瑳聞略」を著す。
9月−幕府が、この年の酒造高を1786年までの造り高の3分の2とし,制限を緩和する。
9月−幕府は,住持をおいている無檀家・無本寺の寺が無住となったさい、
廃寺処理すると触れをだす。
9月−幕府が土佐藩の蜂蜜など、各大名へ薬種献上を命じる。
10月15日−幕府が1789年からの倹約令の年限終了につき,引きつつき10カ年の倹約を命じる。
閏11月11日−オランダ正月を祝う新元会が,大槻玄沢の塾芝蘭堂で開かれる。
●寛政7年(1795)
1月9日−初代横綱免許の一人、谷風梶之助(46)没。
1月−幕府が、近年隆盛の富士講を厳禁する。
3月−医師橘南谿(なんけい)が諸国遊覧体験を記した「西遊記」の刊行が始
まる。8月には「東遊記」の刊行が始まる。
4月27日−幕府が、難破船から浮遊荷物を拾得した者への荷主の1割謝礼について,
今までの現物をやめて金銭とする。
6月15日−増上寺境内・神明前・神田橋などが落雷をうける。
6月−本居宣長が没年まで書きつづけた随筆「玉勝間(たまかつま)」のうち1冊が刊行される。
7月17日−画家の円山応挙(63)没。
9月6日−幕府が,和学講談所付きの町地4か所を決め、その町地運用による年額50両を
講談所の運営資金とする。
10月3日−幕府が、女髪結に商売替えを諭す。
10月4日−幕府が、前年につづいて酒造高の規制上限を緩和し、1786年までの造り高を許可する。
11月14日−大坂定番同心高橋至時が幕府天文方に登用される。
この年、
心学者中沢道二(どうに)の「道二翁道話」初編が刊行される(1824完結)。
「敵討義女英(かたきうちぎじょのはなぶさ)」が刊行され、以降、敵討ち物が流行する。
●寛政8年(1796)
1月−幕府が薬種として白牛酪(バター)の販売を公表する。
2月18日−稲村三伯らが,蘭和辞典「波留麻和解」を完成する。
2月22日−幕府が、関所女通行手形の記載方法を改め、主人との続柄を書くように定める。
3月8日−幕府が、諸大名へ行列の風俗質素や往来の邪魔にならな
い供の間隔について触れをだす。
5月28日−幕府が、肥前藩儒者の古賀精里(せいり)を湯島聖堂の儒官に登用する。
8月24日−幕府が,吉原や他の遊女屋で遊んだ僧侶70余人の大半を遠島に処し、
一部は日本橋にさらしたうえ各宗触頭(ふれがしら)がへ預ける。
10月−幕府が医学館への薬種料を100両から200両へ増額する。
12月6日−琉球使節が江戸城で将軍家斉と会い、芭蕉布・久米錦・焼酎・泡盛酒などを献上する。
この年、江戸で橘の鉢植えが狂乱的に流行する。
●寛政9年(1797)
1月−幕府が、輸入薬種の高値是正のため,14品目について過去3か年の売り出し相場の
5割増しで取り引きするよう命令する。
4月14日−幕府が油の流通把握のため、少量の人力絞り用以外の菜種・綿実をすべて大坂・兵庫へ
送るよう厳命し,領主には大坂町奉行への生産額・回送高の届け出を命じる。
5月6日−版元蔦屋(つたや)重三郎(48)没。
8月28日−幕府が,日雇い稼ぎの者の賃金引き上げ要求などを押さえるため、日雇座へ差し出す
役銭を免除し,日雇座を廃止する。
9月11日−幕府が金銀貸借などの金公事につき,相対済し令を発令する。
9月−幕府が、質屋の質物不法取り扱い処罰を決める。
10月−1786年4月の烏亭焉馬(えんば)の咄の会以来,料亭で江戸小咄を披露する会が流行し,
幕府が質素倹約などの面から禁止する。
11月18日−幕府が,翌年からの新暦採用を公表する。
12月1日−幕府が湯島聖堂を官学とし,学問所と改称する。
12月18日−西洋医学を紹介した宇田川玄随(43)没。
12月18日−漁船などが外国船と遭遇することが多いため、幕府が穏便に処理するように改めて命じる。
この年、
「絵本太閤記」初編が刊行され、圧倒的人気をえて、現在にまでつづく豊臣秀吉像が
形成される(1802年完結)。
●寛政10年(1798)
2月−幕府は、唄・浄瑠璃・三味線などの女師匠が男子を弟子にとることを戒め、とくに武士の
女師匠への入門を禁じる。
4月−国東治兵衛の「紙漉重宝記」が刊行される。
5月1日−品川沖で鯨が捕れ、3日、代官の差配で浜御殿の海へ回し、将軍家斉が見物する。
5月−庶民が慶長銀など古銀を貯蔵するため、幕府が銀座での古銀引き替え促進を命じ、
以後3カ年の各古銀交換比率を定める。
5月−塙保己一が「群書類従」の版木の防火保管のため用地借用を願い、幕府が土地の貸与と、
地代などを決める。
6月−大坂から下ってきた岡本万作が、神田で落語寄席をはじめる。
また,烏亭焉馬が小咄集「無事志有意」を発刊する。
6月−本居宣長が「古事記」の注釈書「古事記伝」を完成する。
8月−本多利明が西洋との交易を説く「西域物語」を著す。
11月−幕府が、銭相場安値・物価高値で各宿困窮のため、東梅道・佐屋路へ10か年人馬賃20%増し、
他街道へ10か年15%増しを許可する。
●寛政11年(1799)
1月15日−幕府が大名・旗本らの家譜の集大成「寛政重修諸家譜」の編纂を開始する。
1月−諸国産物を集大成した「日本山海名産図会」が刊行される。
3月−幕府が、改暦にともない京都で刊行された「寛政増続古暦便覧」「懐宝長暦便覧」
を絶版とし,幕府公刊暦以外の類似刊行物を禁止する。
4月−蕎麦屋台など煮売り商売の流行にたいし,幕府が,防火なとの理由から,総人数700、
上野・浅草などを除く地域の人数制限など、規制にのりだす。
5月20日−天文学の麻田剛立(ごうりゅう=66)没。
5月−オランダ風の煙管など外国品を模造した品が流行し,幕府が,その製造・売買を禁止する。
6月−村々が神事・祭礼のさいに芝居・見世物を興行するため、幕府は人を集める興行を禁止する。
7月20日−幕府が、唐銅の仏像・鐘・灯篭などを製造して勧進することを禁止し、千社参りと
称して参詣先に千社札を張りつけることを規制する。
勘定奉行中川忠英が「清俗紀聞」を刊行する。
●寛政12年(1800)
1月−町火消しが出初めと称し,火消し道具を持ちだして梯子の上で芸などを行うため、
幕府が禁止する。
3月30日−昌平坂学問所新築工事が終わったため、幕府が夏からの入学を許可し、4月には
寄宿・通学願い手続きなどを決める。
4月22日−幕府が、逃亡など人足寄場関係の刑罰を1797年制定の罰より重くして町奉行へ
通達、6月13日、寺社奉行・勘定奉行へも通達する。
6月−地理学者伊能忠敬が、幕命により陸奥・出羽・越後の沿岸測量に出発する。
7月2日−幕府が江戸常是(じょうぜ)家を上納金延滞により処罰し、京都常是家を江戸・京都・大坂の
銀座御用とする。11月22日、銀座移転先を蠣殻町に決める。
7月−幕府が、頻発する奉公人の欠落を防ぐため、奉公人周旋業の人宿(ひとやど)に、生国・下受人
などを記す人別帳を作成することなどを命じる。
8月−賞品を賭けて的を射る賭的(かけまと)が農民の間で流行し、暮府が賭博として禁止する。
9月8日−画家の伊藤若沖(85)没。
11月−幕府が、1788年に停止した南鐐二朱銀の再鋳造を決める。
12月21日−伊能忠敬が、蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を勘定所へ提出する。
●享和元年(1801)
4月2日−幕府から、前年につづいて陸奥から関東の測量を命じられた伊能忠敬が江戸を出発、
7月26日、銚子犬吠崎から富士山の方位測量を終える。
6月29日−儒者の細井平洲(74)没。
7月12日−平易なことばで心情を歌う「ただごと歌」を唱えた小沢蘆庵(ろあん=79)没。
7月25日−地理学者の長久保赤水(せきすい=85)没。
7月−巾着切りなどが徒党を組み,往来人へ喧嘩をしかけて懐中物などを盗むため、幕府が
厳重な取り締まりを命じる。
8月−幕府が、本草学者小野蘭山に関東から東海で薬草を採取させる。
8月−志筑忠雄がドイツ人ケンペルによる「日本誌」の抄訳「鎖国論」を著す。
9月29日−国学者本居宣長(72)没。
9月−幕府が、諸国孝行者などの話をまとめた「孝義録」を学問所から刊行することを決める。
9月−御岳教の教祖普寛(ふかん=71)没。
11月−幕府が、武家屋敷や寺社在町でふたたび賭博が流行しているため、その取り締まりを命じる。
12月−幕府が、土蔵などのない者が火災時に諸道具を往来へおくことを禁止する。
●享和2年(1802)
1月25日−博学の好事家で南画家でもある木村兼葭堂(けんかどう=67)没。
1月−十返舎一九の「浮世道中膝栗毛」初編刊行(1808完結)。
2月26日−蘭医桂川甫周(ほしゅう)が将軍家斉に顕微鏡の使用法を講じる。
3月16日−風邪が流行し、幕府は御家人に医薬を、困窮町人に御救米・銭を与える。
5月23日−幕府が、町人女が色縮緬を髪飾りに使用することを禁止する。
6月27日−歌舞伎俳優,4代目松本幸四郎(66)没。
7月1日−6月25日より降り続いた雨で、江戸が洪水に見舞われ、箱根温泉場が流失する。
7月18日−狂歌作者の唐衣橘洲(きっしゅう=60)没。
7月−幕府が、大雨洪水による米価高騰のため酒造制限令を出し,酒造量を1788年の半分とする。
10月29日−幕府が、前将軍家治の忌日中における江戸吉原遊興の不始末の件で、
諸藩の留守居役60余人を処罰する。
10月−志筑忠雄がニュートン力学などを紹介した「暦象新書」を完結する。
12月−幕府が酒造制限を解除し、酒造米の10分の1を諸民救済のため貯蔵させる(翌年中止)。
この年、農学者大蔵永常が「農家益」前編を刊行する。
「絵本太閣記」(岡田玉山挿絵)7編が完結する(1804年絶版)。
●享和3年(1803)
閏1月−幕府が、長崎で落札した輸入品を大坂のほか京都・堺へ販売することを
京都・堺・長崎・大坂・江戸5か所の商人に許す。
2月5日−幕府が、勘定方役人山田大吉に東梅道筋分間絵図面の作成を命じる。
2月−本草学者小野蘭山が、「本草綱目啓蒙」の刊行を開始する(1806年完結)。
2月−伊能忠敬が、幕命により東海・北陸・佐渡の沿岸の測量に出発する。
5月−はしか流行により、幕府が窮民救済を町会所に命じる。
5月−江戸〜大坂を運行する菱垣廻船が衰退したため、十組(とくみ)問屋が組外商人の
取り締まりを願い出る。
6月11日−心学者中沢道二(79)没。
7月29日−谷中の延命院住職日道が戒律を犯し、死刑に処せられる。
10月17日−杉田玄白とともに「解休新書」を訳出した蘭医前野良沢(81)没。
12月12日−老中松平信明(のぶあきら)を病により免職とする(1806年7月2日再任)。
山谷に料理茶屋八百善が開店、江戸第一の料理として評判となる。