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「芝高輪東禅寺の討入といえば、名代のものであるが、それから後にも一騒動
持上がったことがある。これは御存知の方が少ない。同寺はお話しするまでもない、英国人の屯所で、幕府よりそれぞれ
警固の大名をつけて置く、私は松平丹波守の藩で、討入後の固めですから用心に用心を重ね、厳重に厳重を加えていた。
【明治古老の証言】
異人の方でも油断せず、夜中は双方不寝番(ねずのばん)。警固隊の私共は時刻々々に境内を巡回しました。(略)異人は
その当時毛唐人といい、夷狄といい、禽獣視していたのに、ソレを警固したり、後生大事に尊重するのだから、志ある武士は
慷慨しない訳のものでないんですが、私の藩にも伊藤軍兵衛というのがあって、慷慨家でした。
(略)某晩(あるばん)の
事軍兵衛さん、東禅寺の縁側の所に忍び寄り、立出でたる異人の脇腹目懸けてズブリ二間槍をば突出す。武芸一と通りは
心得ある男の手練、阿(あ)っと叫ぶ途端連立つ異人が咄嗟(さそく)の早術(はやわざ)、ピストルで軍兵衛の襟首を射抜いた。
軍兵衛さんもコレに愕(おどろ)いて藩の陣所へ帰るや否や、御上屋敷へ逃帰ったのを、知るものは絶えてなかったのです。
サテ夜中の騒動は討入と同じく、浪士が忍び入ったに違いないとて、私共は大狼狽、幕府からも外国掛が出張する。
上を下への騒動となったが現場に槍が落ちていて(略)伊藤軍兵衛に違いないとなったから松平丹波守の一隊は、一同
調べられる。
軍兵衛は御上屋敷に頸(くび)を射られて寝ていましたが、結局切腹という事になり、怯(わるび)れず、
かねての覚悟といい、重症の身なれば、間もなく自刃しました。(略)
享年ここに三十五歳、惜しい人物を殺した
もので、その時は慥(たし)か勤番で来ていましたが、妻子もあった人です。但し殿様は御役御免となり、幕府の異人
警固は愈々厳重になったそうでした。」〔増補幕末百話・篠田鉱造著・岩波文庫より〕