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【青森】
●延享元年(1744)
●寛延2年(1749)
●寛延3年(1750)
●宝暦3年(1753)
●宝暦5年(1755)
●宝暦10年(1760)
●宝暦11年(1761)
【岩手】
●宝暦5年(1755)
●宝暦10年(1760)
【宮城】
●寛延元年(1748)
●宝暦5年(1755)
●宝暦7年(1757)
●宝暦10年(1760)
【福島】
●延享元年(1744)
●延享2年(1745)
●延享3年(1746)
●延享4年(1747)
●寛延2年(1749)
●寛延3年(1750)
●宝暦10年(1760)
●宝暦12年(1762)
5月−津軽藩が領内の人馬賃銭を定める。
津軽藩領内で不作による餓死者が2万余人に達する。
弘前藩において宝暦の改革がはじまり、乳井貢(にゅういみつぎ)がその中心人物として登用される。
八戸の和算家の真法恵賢(しんぽうえげん)没。
1月11日−津軽藩で乳井市郎左衛門(貢)が勘定奉行になり,藩政改革が始まる。
八戸に住む町医者の安藤昌益が『自然真営道(しぜんしんえいどう)』(稿本)を完成させる。
この年、南部・八戸・津軽領ともに大凶作で、多数の餓死者をだす。
2月22日−南部藩が下北の檜山を藩所有とする。
3月−奥州から松前にかけて大風が吹き,商船70余隻が破損する。
飢饉のため、南部藩領の死者5万人と伝えられ,仙台藩領では打ちこわしがおこる。
この年、南部・八戸・津軽領ともに大凶作で、多数の餓死者をだす。
2月22日−南部藩が下北の檜山を藩所有とする。
仙台藩が農民の木綿以外の衣服着用を禁じる。
飢饉のため、南部藩領の死者5万人と伝えられ,仙台藩領では打ちこわしがおこる。
5月−仙台藩の買米方法が現金買制に変わる。
12月2日−仙台藩が,延享2年からこの年までの開墾による田高を幕府へ報告する。
会津藩内で年貢増徴派と増徴反対派が争論する。
二本松藩が赤子(あかご)養育制度を定める。
5月19日−三春藩が,領内農民に他国からの人買い商人の宿泊禁止・徒党禁止などの触れを出す。
9月5日−守山藩領内26か村の質物(しちもつ)奉公人が質物金年賦を要求して群集する。
12月−三春藩が幼児養育手当制度を創置する。
幕府が伊達郡桑折(こおり)の半田銀山を直轄とする。
平藩主内藤政樹、日向国延岡藩7万石へ転封。
9月−二本松藩が農民・町人の子供の出家を禁じる。
12月24日−会津藩で金曲村を主体とする猪苗代湖周辺の農民が若松城を包囲(金曲騒動)。首謀者は死罪、所払い。年貢半免
、定免制実施、代官らの罷免など要求は実現。
2月15日−白川郡幕府領の農民2,000人が代官の違法行為および種
子・夫食米(ふじきまい)の貸し下げ,年貢延納などを求めて塙代官所に強訴する。
2月−会津藩が年貢を5分引き下げ,定免制を実施する。
7月28日−会津藩が塩の専売制を始める。
3月−会津藩が繰綿(くりわた)仕入仲間と雑穀仲間を結成させる。