能  登  石  動  五  社  権  現

能登石動五社権現(石動権現)

2010/09/08撮影画像は、当日の台風による強風・降雨の天候不良のため不鮮明である。

能登石動山境内古図

江戸初期の制作、天正10年(1582)焼失以前の景観を描いたものとされる。

2010/09/17追加:2010/09/08撮影:
石動山絵図:左図拡大図
 模写、石動山資料館蔵、原本の所在は未掌握
:講堂を中心に大宮・白山宮・梅宮・火宮・劒宮(以上五社権現)、末社、権現堂、五重塔、多宝塔、大師堂、開山堂、鐘楼、仁王門などが描かれる。

2010/09/17追加:
石動山絵図2:中能登町リーフレット「能登石動山」より転載

2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
寛文10年石動山山内絵図:江戸中期頃に寛文10年絵図を写すと墨書がある。・・・未見
また
なお、江戸後期の作と云う山内絵図(堂社・境内・尾根諸谷を克明に描き・坊舎名も記入)があると思われるも、未見。
また、上記「古図」で描く五重塔は「古図」の位置に見えず、現在の多宝塔跡に移されているとも云う。
これは寛文10年絵図と同一のものであろうと推測される。

2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
 元禄10年石動山山内絵図1:全図      元禄10年石動山山内絵図2:部分図

2011/02/10追加:
○「能登めぐり」直山大夢、嘉永7年(1854)<器水写、文久元年(1861)> より
 能登石動山の図

2008/07/16追加:
 石動山の主要堂舎跡配置図

2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
 主要堂舎跡・院坊跡配置図

2008/07/16追加:
創建:宝亀4年(773)智徳の開創という、本尊虚空蔵菩薩。
鎌倉期:石動権現(石動寺)として成立。建武の新政の動乱で山内堂舎は悉く焼失。
室町期:足利幕府により再興。山城勧修寺末。応永23年(1416)五重塔・講堂造立供養。
戦国期:一山はある意味では戦国武将化し、しばしば伽藍は焼失す。(天正10年前田氏と戦に及び一山焼亡する。)
 慶長2年、退避していた笊籬山(伊掛山)から72坊が旧地に帰還。このころ石動寺は天平寺と称する。
江戸期:前田家の保護と統制の下で近世の復興がなされる。講堂、不動堂、権現堂、釣鐘堂、火宮、梅宮、神輿堂など江戸初期に再興。
 寛文7年別当最勝院ほか14坊が追放され、一山58坊になる。
神仏分離:明治初年、58坊は還俗、復飾を申合せ。明治2年無住9坊を除き41坊が改名・還俗。8坊は天平寺として存続。しかし存続した8坊のうち真蔵院を除き次々還俗、明治4年真蔵院も気多神社社坊正覚院に転住。明治3年五社大権現号は廃止、大宮(権現堂)に客人宮、梅宮、火宮、剣宮の4社を合祀し、現在地へ移転し本殿とし、神輿堂を講堂跡?に移転し拝殿とする。
ほかの社殿は売却もしくは焼却されたという。売却されたもののうちいくつかは現存する。
結果石動山天平寺は廃寺、伊須流岐比古神社なるものが捏造される。

能登石動山五重塔跡

2008/07/16追加:
●五重塔現地説明板(要旨)
講堂背後の右側に五重塔、左側に多宝塔がある。天正10年(1582)の兵火で焼失し、山側に倒れたようであり、周囲からは火災の凄まじさを物語る焼け爛れた風鐸片・木組用材・焼土・灰等が出土した。塔土壇は、一辺約10mの正方形台状をなし、地山の削りだしと盛土で構成される。心礎・四天王礎・側柱礎および四周にめぐらされていた縁の礎石の全てが完存する。
応永23年(1416)建立にあたり石動山別当山城勧修寺慈尊院実順が導師を勤め塔及び講堂供養が執行される。(「京都勧修寺古文書」)
 2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
  京都勧修寺蔵:「石動山塔供養并同寺講堂供養舞楽曼荼羅供日記」
  応永23年(1416)・・・塔供養舞楽曼荼羅供 大阿闍梨当寺(天平寺)別当僧正大和尚位実順(勧修寺慈尊院々主)・・・
  且任先師栄海僧正(于時当寺別当)暦応4年(1341)塔供養唱導烈、・・・
  抑今度供養元由者、当寺檀那山下入道性元発頭也。・・・・

2008/07/16追加:
石動山五重塔跡
塔跡は東西35m、南北30mの平坦地にあり、一辺10m・高さ80cmの基壇を造り、三間四面の礎石(心礎を含む)、縁礎石、雨落溝が完存する。 柱間は等間で6尺(1.8m)を測る。

2010/09/17追加:2010/09/08撮影:

石動山五重塔跡11
  同       12
  同       13
  同       14
  同       15:左図拡大図
  同       16
  同       17
  同       18
  同       19
石動山五重塔焼失木材:塔跡より出土、石動山資料館蔵
石動山絵図五重塔部分:石動山資料館蔵

◎五重塔礎石実測値:心礎の大きさは115×95cm、その他の四天柱・脇柱は100cm〜120cm内外の大きさの自然石を用いる。

2008/07/16追加:石動山五重塔跡

2011/02/10追加
「史跡能登石動山:石動山遺跡第1・2次発掘調査概要」石川考古学研究会編、昭和54年 より
旧五重塔跡と称する。
 石動山五重塔跡実測図     石動山五重塔跡全景     五重塔跡出土風鐸舌     五重塔跡出土風鐸片
2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
 石動山五重塔跡2

能登石動山多宝塔跡

●多宝塔現地説明板(要旨)
本塔には、円形塔身の柱跡は見られず、五重塔と同様の礎石配列が残る。基壇の一辺は約10mを測り、心礎・四天柱礎・側柱礎および四周にめぐらされていたと考えられる縁の礎石が見られる。
柱間は、6尺(1.8m)で、四隅の礎石には、径17cm、深さ8cmの円孔を穿つ。
 2011/02/10追加:下に掲載「石動山院の調査」より
  ○石動山塔跡実測図:(現在は多宝塔跡と称する)

2010/09/17追加:2010/09/08撮影:

石動山多宝塔跡11
  同       12
  同       13
  同       14:左図拡大図
  同       15
  同  多宝塔心礎1
  同  多宝塔心礎2
石動山絵図多宝塔部分:石動山資料館蔵

◎多宝塔心礎実測値:大きさは130cm×115cmを測る。

「石動山絵図」には下重方3間、廻縁・上重円形の多宝塔の典型が描かれる。
これは極めて正統な多宝塔であり、礎石もほぼその構造を裏付けるものであるが、解せないのは心礎石を有することである。
多宝塔で心柱が地表の心礎に建つ例は特殊例を除き皆無であり、この点のみが当遺構が本当に多宝塔遺構なのかどうかを疑わせる。
しかし石動山絵図には多宝塔が描かれているので、それを尊重すれば多宝塔跡とするほかは無いであろう。
 あるいは未見であるが、江戸後期の作と云う山内絵図にはこの「多宝塔」位置に五重塔があるとも云う。もしそうであれば、ここには五重塔が立っていたことがある可能性がある。五重塔であれば、心礎があることと整合する。
なお、この遺構の礎石は動かされているものが多いが、明らかに心礎のみが他の礎石と比べて一回り大きく、心礎に相応しい礎石であることは疑いがない。つまり脇柱礎や四天柱礎が心礎位置に動かされたということは無いと思われる。

2011/02/10追加
「史跡能登石動山:石動山遺跡第1・2次発掘調査概要」石川考古学研究会編、昭和54年 より
ただし、この資料では新五重塔跡と称する。(しかし江戸期に五重塔が建立されたことは無いであろうとする。)
 石動山多宝塔跡実測図     石動山多宝塔跡全景

能登石動五社権現概要

2008/07/16追加:
「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年 より
石動山石動権現:石動山沿革:
養老元年越の沙門泰澄この山に登臨し造営を新にし、天平勝宝8年一山を総括し天平寺の号を立てり。
建武2年能登国司中院定清この山に篭りて越中守護利清を防戦、諸堂社悉く烏有に帰す。
吉見頼隆、能登の守護になりて、順次復興す。
天正10年七尾城温井景隆・三宅長盛この山に篭り一山衆徒ともども、佐久間盛政・前田利家と戦い一山焼亡す。
 一山は笊籬山(伊掛山)に避く。
天正19年前田利家寺領を寄進、石動山坊中の還住を許す。笊籬山(伊掛山)より還住。
承応3年(1654)社殿建立、元禄年中神輿堂造営、開山智徳上人墓石を建立す。
・元禄14年神輿堂棟札に記載される坊舎は以下のとおり。
大宮坊、大善院、重蔵院、顕実坊、良智坊、心王院、華蔵院、乗照院、実珠院、釈迦院、重善院、妙高院、隋観坊、大徳坊、東蔵院、大智院、実性院、来智院、仏頂院、月光坊、行住院、妙覚 坊、大覚坊、威徳院、福智院、安養院、宝達坊、旧観坊、妙蔵院、祐定院、普門院、慈光院、阿弥陀院、戒定院、宝行院、三蔵院、東林院、一明坊、五智院、真蔵院、延命院、宝池院、千手院、総行院、性空坊、妙法院、重宝院、来迎院、中央院、道任坊、日乗院、円光院、松本坊、大宝院、明勝坊、尊祥院、華王院(再興石動山58坊)
 ※大宮坊は近世五社権現別当であった。平成14年行政により復元・整備され公開される。
・幕末の頃一山衰退、無住の僧坊が増加、明治維新の時39坊を残すのみとなる。
明治の神仏分離の行われるや、明治3年三蔵坊隆度宝池院復飾・神勤、延命院は旧寺を維持し、他の僧侶は下山し地方寺院の住職となるあるいは還俗・帰農するもの等あり。
五社権現本地仏竝各寺院の仏類の一部は一寺に集め天平寺の寺号を以て維持することに至れり。
然して自余のものの多くは各地に散乱せり。羽咋正覚院は当時の石動山住持が襲職せしにより石動山関係の仏書類を多く蔵す。
旧跡:
石動山最高点(大御前)は五社権現を祀る堂で南面す、その下は小堂あり(衆徒の渇仰の霊地)、大御前から現在の拝殿に下る途中(中間)に小堂の跡あり、現存拝殿の西北・参道西のやや高き所に塔婆跡あり、建築は略正方位で、礎石配列は三間四方の規模なりし、外側の礎石3個に各直径3寸深さ2寸5分の円孔あり、石材は諸処焼爛の形跡あり、現今「オーレン」(意味不詳)の試作場となれり。
また現拝殿の周囲に巨大なる礎石を残せり、これ旧拝殿の規模を徴するに足る。
(東西11間5尺で両端のものを加えて8個あり、中間の礎石間は13尺、左右の礎石間は10尺内外)
拝殿石階の東南に講堂跡あり。(残存する礎石より7間5面<ママ>の建築で、各礎石間は約8尺・・・)
大宮坊の旧址は東南にあり現今水田となりしも高き石垣を残せり、大宮坊の東に泰澄石塔あり。(約40階の石段上の平坦地にあり、高さ6尺5寸の五輪塔)
現拝殿の南に動字石あり、その西南に坊跡の現存するもの多く寺地を区画する石垣・石段および庭園址等今なお厳然たるものあり。
坊跡は今民有地で畑地・水田となりたるも石垣の一部・石段等なお存する。即ち心王院は寺址、延命院は西尾氏、普門院は西氏、中央院は岡山氏、大智院は藤林氏、三蔵坊は広田氏、花王院は宝池氏、来迎院は某氏、重善院は某氏、阿弥陀院は山本氏の宅地となりて、他田地となしりものは真蔵院、花蔵院、本蔵院等あり、畑地となりしは尊祥院ほか多し。
 石動山五社権現本地仏1
 石動山五社権現本地仏2:左より倶利伽羅不動明王、蔵王権現、虚空蔵菩薩、十一面観音、将軍地蔵菩薩:(伊須流岐比古神社蔵)
2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
 石動山五社権現本地仏3:上掲と同一画像、伊須流岐比古神社本殿安置、何れも近世のものである。

2010/09/17追加:2010/09/08撮影:

石動山全体案内図:左図拡大図、
現地の説明板を撮影、石動山の遺構の全体がほぼ概観できる。

石動山全体案内図2:伽藍中央部・部分図
※多宝塔跡南は経蔵跡、伝清水屋敷跡は大宮坊北の複数の区画からなる広大な平坦地である。

中世には300の坊舎と3000の衆徒を擁したと云うも、現下の堂宇としては本殿(元の大宮)、拝殿(神輿堂=権現堂)、旧観坊 、行者堂(平成元年旧地に戻る)などしか現地には存在しない。
現在、天平寺跡は史跡として順次発掘され、整備・保存がなされる。
五重塔、多宝塔、大師堂、篭堂、開山堂、経蔵、仁王門等の遺構及び大宮坊、円光坊、心王院、阿弥陀院、宝池院、東林院、五智院、大徳坊、宝珠院などの多くの坊舎跡が整備される。

能登石動山仁王門跡:降雨でフラッシュ使用のため、写真不鮮明。11×7mの基壇上に八脚門の礎石を完全に残す。
能登石動山仁王門:明治初年、長楽寺(能登部下)に移され現存する。正面中央間12尺、両脇間8尺、入母屋造。
 なお仁王像は本土寺(中能登西馬場)に移され現存する。
能登石動山本社:明治7年五社権現を合祀した大宮を山頂の大御前から現在地に移建。承応2年(1653)前田利常の寄進による。
桁行3間・梁行2間、3間の向拝を付設、入母屋造、平入り、銅板葺、千鳥破風付き、向拝に軒唐破風を加える。
能登石動山拝殿1     ○能登石動山拝殿2     ○能登石動山拝殿3     ○能登石動山拝殿4
神輿庫もしくは権現堂を拝殿として移築、伊須流岐比古神社などという国家神道の神社の体裁を整える。神輿庫は5社の神輿が納められていた堂で元禄14年(1701)の建築(棟札)。7間×4間、入母屋造。堂の前左右には礎石列が残り、以前は一廻大きな堂があったことが分かる。
※この堂は講堂跡と解説する向きもあるが、拝殿南の広い平坦地を講堂跡と云う解説もあり良く分からない。
能登石動山行者堂1:降雨でフラッシュ使用のため、写真不鮮明。   ○能登石動山行者堂2:中能登町リーフレット「能登石動山」より
明治7年行者堂は最勝講村に17円で売却され、最勝講村天神者拝殿となるも、昭和63年拝殿の改築を機会に解体し、平成元年石動山の元位置に戻される。
能登石動山大師堂跡1     ○能登石動山大師堂跡2:弘法大師を祀る。弘法大師像の墨書には元禄17年(1704)宝達坊祐遍の寄進により祖師堂に安置とある。祖師堂とはこの大師堂と推定される。2間四面、四面に縁を廻らす。礎石が完存する。
能登石動山経蔵跡
能登石動山旧観坊1     ○能登石動山旧観坊2     ○能登石動山旧観坊3     ○能登石動山旧観坊4
石動山に現存する唯一の坊舎遺構である。江戸末期の建築と推定される。規模10間半×6間。入母屋造、屋根茅葺。慶安2年(1649)の書上帳に見える。

◇能登石動山開山堂:
越中道神社拝殿として現存、享和元年(1801) 建立<棟札>、中田村が道神社の拝殿として金130円で買い受け、明治10年当地に再建。方3間、宝形造、屋根杮葺。軒は二軒扇垂木、組物三手先、詰組、尾垂木、蛇腹支輪を用いる。正面中央間桟唐戸。
  石動山開山堂(越中道神社拝殿):写真はとやま観光ナビより転載
 2011/02/10追加:「石動山天平寺歴史資料調査報告書」石川県教育委員会、昭和55年  より
  一辺4,5m、高さ5.4m。
  越中道神社拝殿     石動山開山堂木割図
 2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
  越中道神社拝殿2
◇能登石動山梅の宮:
七尾三島の金刀比羅神社拝殿として現存する。
 2010/10/12撮影:
  石動山梅の宮遺構:【現金刀比羅神社拝殿】:延宝2年(1674)建立。正面3間・奥行はおそらく5間(側面は板覆があり全く見えない)、
   妻入り、入母屋造・屋根桟瓦葺。
  梅の宮遺構正面妻飾:妻飾には彫刻を施す。但しこの彫刻が梅の宮の時代のものかどうかは分からない。
  梅の宮遺構正面妻飾彫刻:彫刻の豪華さから、石動山上にあった時代のものとも思われる。
  梅の宮遺構細部:唐様の意匠を用いる。なおこの建築を拝殿とし、背後には本殿があるが、覆屋に覆われ全くどのような建築かは不明。
  ※梅の宮跡は石積基壇及び礎石を残すと云うも未見。
  ※金刀比権現の由緒は以下の通りと云う。
  幕末頃、七尾の船頭が瀬戸内海で丈夫な梶を取得する。船頭はこの梶をお金に替え、その資金で讃岐に行き、金毘羅権現を勧請する。
  しかし神社建立の資金の募集は難渋する。折りしも、神仏分離の石動山瓦解で、祠を求むることが出来、現在地に遷座・祭祀する。
  街中に鎮座し、境内は縦長の驚くほど狭小な境内地に鎮座する。

石動山寺坊跡:以下の坊舎以外にも多くの坊舎跡が残るが、未見。
石動山円光坊跡1     ○石動山円光坊跡2
石動山三蔵坊跡:三蔵院は廣田氏宅地となると云うから、坊跡にあるこの写真の建物は廣田氏か?
石動山宝珠院跡     ○石動山心王院跡     ○石動山阿弥陀院跡
石動山重善院跡:重善院は某氏宅地となると云うから、坊跡にあるこの写真の建物は某氏か?、現住の談では重善院の後裔と称する。
明治の神仏分離で復飾・帰農した後裔なのであろうか?。
石動山花蔵院跡     ○石動山月光坊跡     ○石動山顕実坊跡
石動山伝清水屋敷跡:近世の石動山神主清水氏の屋敷跡と伝承する。しかし発掘調査の結果は中世末の遺構・遺物が出土。
これは応永23年(1416)五重塔・講堂落慶法要の時、山城勧修寺から導師を向かえ、上大宮坊を新造したと云うから、この坊跡とも推定される。現在は盛土をして保存。 近世の遺構は近代の耕作で削平され明確ではない。
石動山大宮坊跡1     ○石動山大宮坊跡2     ○石動山大宮坊跡3:大宮坊は中世石動山を支配と云う。
現在、書院台所、番所、厠、御成門、台所門、板塀、勅使橋の建物を復元、本堂跡・証誠殿跡・庭園跡の遺構を整備。
なお、永仁2年(1294)日像上人佐渡より能登に向かう船中、大宮坊満蔵を法論の末屈伏、日乗と改名改宗させる。その後日像・日乗石動山へ登山・折伏を試みるも、石動山の衆徒は従わず、滝谷へ退避する。
                           →参考:能登妙成寺: →日像上人略伝
石動山宝達坊跡     ○石動山慈光院跡
石動山仏蔵院跡1     ○石動山仏蔵院跡2:この本堂は昭和53年以降に建替えられたものであろう。
 2010/10/19追加:
 ○龍崋山日澄寺堂宇跡?:仏蔵院跡に礎石建物跡が残るも、おそらく日澄寺関係の退転した堂宇跡であろうと思われる。
 現在仏蔵院跡は滝谷妙成寺別院龍崋山日澄寺となる。
 滝谷妙成寺別院龍崋山日澄寺:
  「妙見菩薩縁起」では、明治22年、石動山仏蔵院(藤島氏邸)に本堂等の堂舎を建立、七尾小島の日蓮宗上慶寺(廃寺)の名跡を移し
  上慶寺と号し、翌年龍華山日澄寺と改号すると云う。
  開基は日澄上人(堀之内妙法寺住職、妙成寺51世松村日澄か)と思われる。
  その後、山門・鐘楼・妙見堂・釈迦堂などが建立される。
  しかし事情は不明であるが、現在では堂宇は解体、梵鐘は軍に供出、本堂(及び山門)のみ再建されていると思われる。
 2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
  昭和54年日澄寺本堂の老朽化により建替が計画され、急遽同年に発掘調査が行われる。
  発掘は部分的であったが、最下層は推定平安期とされる遺構、その上は天正以前と推定される焼土、天正の焼失と推定される遺構、
  その上には近世の本堂跡と推定される遺構、そして現在地表にある日澄寺本堂礎石(近世仏蔵院礎石の転用か)が確認される。
  結果日澄寺本堂は予定地を前面にずらし、50cmの盛土をして建築される。
石動山宝池院跡1     ○石動山宝池院跡2     ○石動山蓮池跡
石動山性空坊跡      ○石動山重蔵院跡      ○石動山行住院跡
2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
○東林院跡:
大宮坊背後の台地上にある。前面には大規模な石垣(高さ約1.8m長さ70m)と石階(幅8m11段)を残す。
広大な敷地には庭園を配する。建物跡は桁行11間梁間5間(1号建物)、2・3・4号建物跡を残す。
 東林院跡実測図     東林院跡

石動山旧仏:かっては石動山に多く存在したであろう仏像は纔かに以下が「石動山資料館」に残る。
写真は2010/09/08撮影:
解説は2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
◎石動山資料館諸仏
 木造十一面観音立像     木造十一面観音立像2:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
 像高82cm、総高146cm。
 銘には慶長14年(1609)奉再白山本地十一面観世音菩薩、施主越中之中納言・・・と記す。
 木造地蔵菩薩立像:平安末期の本地仏と推定、像高88cm。
 木造弘法大師坐像:銘には元禄17年(1704)奉寄附石動山天平寺祖師堂・・・、施主宝達坊祐遍・・・と記す。
 木造胎蔵界大日如来:像高36.8cm    木造金剛界大日如来:像高36.7cm、いずれも江戸後期
 木造不動明王立像:像高46cm
 木造阿弥陀如来立像1:鎌倉期の作と推定     木造阿弥陀如来立像2:この 観音・勢至の脇侍・台座は文化2年(1805)の後補。
 木造天部?立像         木造毘沙門天立像
※石動山資料館展示の諸仏については、能登部下の長楽寺住職が供養を行うと云う。
※伊須流岐比古神社なるものの神主は山上には常駐しない、能登部の某社(名称は失念)神主が祭礼を行うと云う。
 →清水家は五社権現の社家で、現在は能登部神社を本務として伊須流岐比古神社を兼務する宮司家(「鹿島町史 石動山資料編」)という。
2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
◎石動山下山の彫刻など
鹿西町能登部下長楽寺:木造大日如来坐像(講堂安置)、木造二天王立像2躯(大師堂中門安置)、木造弘法大師坐像(大師堂安置)、木造地藏菩薩立像(下山仏)、木造不動明王立像(下山仏と伝える)
鹿島町井田円光寺:木造不動明王立像(花王院本尊の銘)
柳田村柳田法華寺:木造五智如来5躯(東林院像か)
柳田村石井長福寺:木造大日如来坐像3躯(石動山大寳院本尊)
鹿西町西馬場本土寺:木造仁王像2躯(石動山仁王門安置)
七尾市飯山町光善寺:木造阿弥陀如来坐像(下山仏と伝える)
鹿島町井田伝流寺:木造不動明王立像:施主は石動山の宥實、宥實造立の5躯の内の1躯、ほかの4躯の消息は不明。
氷見市中田道神社:木造大日如来坐像、当神社の拝殿は開山堂(上に掲載)を移設したもので、この時本像も譲り受けたものであろう。
氷見市白川秋葉社:木造烏天狗立像(石動山火の宮安置)、明治の神仏分離で堂宇とともに当地に移すと云う。
氷見市吉岡の中川邸:木造弘法大師坐像(下山仏と伝える)、氷見市吉岡の菊池邸;木造十一面観音立像(下山仏と伝える)
氷見市白川大日堂:木造大日如来坐像(石動山神山から遷す。遷座後大日堂は焼失し焼損仏となる。)
以上のほか、末社やその神宮寺に安置の本地仏・蔵王権現像など多くの彫像が残る。
 ※多くの仏画があるが、その一例として桜井家蔵「紙本着色石動山五社権現画像」を掲載する。
また石動山下山や末社の仏画・仏器:経典・書跡なども多く残存する。

2011/02/10追加:
「石動山院の調査」浜岡賢太郎(「能登半島に於ける石動山文化の史的研究 VOL: 1」能登文化財保護連絡委員会編,、昭和47年 所収)

石動山内に入ると、苔むした礎石、半壊の石垣土居、近頃雪に押し潰された屋舎がそのまま放置されている光景に出会う。
石動山部落は大正年中46戸、昭和25年38戸を数えるも、現在(昭和47年頃)10戸が林業で村を守る。
要するに、石動山は荒廃が進むが、まだ堂社・坊舎などの遺構は旧態をとどめるものも多い。
であるから、その間に精密な実測図の製作が必要である。
以下は羽咋高校地歴クラブの部員などが指導者の指導のもとに製図したものである。
石動山塔跡実測図:(現在は多宝塔跡と称する):
基壇石垣正面には石階は埋没する。脇柱の位置に10個、中心に心礎、向かって左に四天柱礎2個を残す。
心礎の大きさは2m×1.6mの花崗岩製であり、他の礎石はおよそ1m×1mの同質のものである。四隅の礎石には径10cm深さ6〜8cmの円孔を穿つ。柱間は中央・両脇間とも6尺(1.8m)を測る。古絵図ではここに多宝塔が表される。
(未見でありはっきりしないが、江戸後期の作と云う山内絵図ではこの位置に五重塔が描かれるとも云う。)
石動山講堂跡実測図
現在ここは神社の参道になり、一画に宝蔵が建てられている。
高さ1mの石垣で基壇を画する。基壇は東西38m奥行は約30mである。東西基壇の中央約10mは4級の石階を築く。
残存する礎石は大礎石(2.0×2.0mのものもある)と小礎石(0.8×0.6m〜)とが混在する。参道上の南側に並ぶ大礎石列は近世のものではないであろう。近世の講堂礎石は石階から4.5m入った地点を正面とし、小礎石からなる礎石群がそれであろう。この建物は桁行7間梁間5間両脇に椽を持つ柱間およそ8尺の大堂であろう。旧建物は大礎石上に建つのであろうから、巨建築であったと推測される。
石動山拝殿実測図:(旧神輿堂)
神輿堂は元禄14年の建築であるが、両側と南面に大礎石が並ぶ。神輿堂よりひと回り大きな7間×5間の大堂があったものと思われる。
これは金堂(本堂)であったのであろうか。
「石川県鹿島郡誌」では明治7年神輿堂を移築と云うが、現拝殿が移築されたとは考え難い。近世の絵図にはここに神輿堂あるいは権現堂が建っていたと知られる。
石動山火の宮跡実測図
明治7年氷見中田の神社拝殿として移築現存する。
 2011/02/18追加:・・・中田の神社とは道神社であろうか。であるならば道神社に移建されたのは開山堂であろう。
   「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年では、火の宮は氷見の白川秋葉社に移すと云う。
石動山劒の宮跡実測図
明治初年この宮がどのような処分されたかの記録がない。
○石動山仁王門:
3間1面、中央間は12尺、両脇間は8尺で、8尺幅に2列の礎石が完存する。礎石は1.5×1.0m〜0.7×0.6mの大きさである。

2011/02/10追加
「史跡能登石動山:石動山遺跡第1・2次発掘調査概要」石川考古学研究会編、昭和54年 より
基壇上には新旧2つ講堂跡礎石が重複する。
小さい礎石からなる建物跡は正保4年(1647)再建・明治の神仏分離で取壊された講堂跡と推定される。建物規模は桁行7間梁間5間に3面に椽を付設した柱間8尺(2.4m)のものである。
大きい礎石からなる建物跡は礎石に焼失痕があり、天正の兵火で焼失した講堂礎石と推定される。建物規模は桁行7間梁間5間に4面に椽を付設した桁行柱間12尺(3.6m)梁間柱間11尺(3.3m)正面中央間15尺(4.5m)を測る大建築である。
講堂西南隅には動字石があり、東北隅には霊泉「鰯ヶ池」がある。
また東南隅には鐘楼跡、東(鐘楼北)には3基の基壇状遺構(建物跡)が残る。さらに今回の調査で講堂跡平面の約20mの隔てた西端で4×9間と3×4間の礎石建物跡が発見される。
 石動山講堂跡配置図     石動山講堂跡実測図

2011/02/18追加:
「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
 主要堂舎跡・院坊跡配置図(上に掲載)
大宮(本社)跡:
 大宮跡(大御前)実測図:明治7年五社を合祀し、今の本殿の場所に移建、今は仮宮が建てられる。二段にわたって削平される。
火宮・劒宮跡:
 火宮・劒宮跡実測図
 火宮跡:一辺約14mの石積基壇を築き、基壇上には6×7列の礎石が整然と残る。
 劒宮跡:平坦面の中央に一辺約4,7m高さ90cmの土壇上に今は4個の礎石を残す。桁行1間梁間2間の小祠があったと伝える。
梅宮跡:七尾三島町金刀比羅神社本殿は梅宮を移築したものと云う。
 梅宮跡     梅宮跡実測図:一辺約11m高さ約1mの基壇上に44個の礎石が整然と並ぶ。
 社は桁行3間梁間2間で正面に廂を持ち三方に椽をめぐらせた建物と推定される。さらに周囲に礎石があり、覆屋があった可能性がある。
鐘楼跡:
 鐘楼跡実測図:野面の化粧石を四周に廻らせた一辺約6.5mの基壇上に2個の礎石が残る。
大師堂跡:
 大師堂     大師堂跡実測図:一辺約6.5mの方形土壇上に礎石が完存する。2間四方で一辺約3,6m、四方に椽を廻らす。
籠堂(峰入堂)跡:
 籠堂跡     籠堂跡実測図:7間(12.6m)×3間(5.4m)の建物で、南面する。
開山堂跡:
 開山堂実測図:礎石は完存する。柱間は約2.4m、正面のみ中央間2.4m両脇間1.2mを測る。四方に椽を廻らす。
 開山堂跡:2間四面の宝形造の建物であった。氷見中田の道神社拝殿として現存する。享和元年(1801)建立。
仁王門跡:12×7.5mの基壇(周囲には野面の化粧石を廻らす)に12個の礎石が完存する。
桁行中央間は12尺両脇間は7.5尺、梁間柱間は各々7.5尺を測り、桁行3間(8.1m)梁間3間(4.5m)の建築であった。
 長楽寺山門・仁王門     仁王門実測図     仁王門跡
行者堂跡:
 天神社拝殿:鹿島最勝講の天神社拝殿として現存する。
 天神社拝殿:写真左が行者堂か、拝殿に転用するに妻入に変更、正面(元の梁間)を3間に改変するように見えるも、不自然ではある。
  →昭和63年天神社拝殿の改築を機会に解体し、平成元年石動山の元位置に戻される。(前述)
 行者堂跡
 行者堂跡実測図:平坦面に椽束石を含む20個の礎石が残存する。建物は桁行3間(4.8m)梁間2間(3.6m) で三方に椽を持つ。

2011/02/10追加:
「石動山の寺社」清水宣英(「能登半島に於ける石動山文化の史的研究 VOL: 1」能登文化財保護連絡委員会編,、昭和47年 所収)

現存する石動山伝記や由来書などでは、石動山は盛時においては、末社80、境内50町四方、坊舎360余、知行43000石余、衆徒およそ3000を擁したと云う。北陸道を中心(特に信濃・越中・能登に集中する)にその分社は知られるだけで135社以上を数える。
この盛観は建武2年の南北朝の乱で寺院一山は回禄する。
戦後一山は回復するも、戦国期の天正10年前田氏と石動山及び荒山で合戦に及び、般若院・火宮坊・阿弥陀院・大和坊などを初めとする多くの衆徒は戦死、一山の寺坊も悉く焼亡の憂き目を見る。
しかしながら、笊籬山(伊掛山)に退避した寺坊もあり、慶長2年に帰山が許されたとき、72坊(76坊とも)が石動山に還住すると云う。
そして、近世を通じ石動山はある程度の寺観を維持し、幕末時の在住する寺坊は58坊と云う。
しかしながら、明治維新の神仏分離で、一山の寺坊は悉く退転する。
在住寺坊58のうち50ヶ寺が還俗、8ヶ寺は峰続きの八大仙に転住、その後行方不明となる。

中世末に存在が確認できる寺坊は次の270坊と云う。以下はその消長である。
 ※表は標記「石動山の寺社」より、一部修正して転載。


寺坊名・本末関係などは慶安2年書上 、石動山社堂寺屋鋪地詰帳などによる。 消長(変遷) 寺坊景観
寺坊名 本末関係
1 阿仏坊 花蔵院末 中世末退転 .
2 阿弥陀院 本寺 (荒山合戦記)慶長還住、慶応2年存続 阿弥陀院跡
3 阿弥陀坊 花王院末 中世末退転 .
4 安祥院 大宮坊末尊祥院末 中世末退転 .
5 安養院 吉祥院末乗照院末 慶長還住、慶応2年まで存続 .
6 安楽坊 本寺 中世末退転 .
7 安楽坊 大宮坊末両界院末 中世末退転 .
8 池ノ坊 福智院末大徳坊末 中世末退転 .
9 一道坊 花王院末 慶安寺屋敷のみ(退転) .
10 一妙(明)坊 惣持 慶長還住、慶応2年存続、明治維新に八大仙に転住 .
11 一心坊 大宮坊末両界院末 中世末退転 .
12 岩本坊 道忍坊末 慶安寺屋敷のみ(退転) .
13 岩本坊 惣持 中世末退転 .
14 祐定院 大宮坊末来宝院末 慶長還住、慶応2年まで存続 .
15 祐盛院 大宮坊末来宝院末祐定院末 中世末退転 .
16 梅本坊 火宮坊末性空坊末 中世末退転 .
17 円月坊 宝池院末 中世末退転 .
18 円光坊 三蔵坊末 慶長還住、慶応2年まで存続 円光坊跡1円光坊跡2
19 円山坊 般若院末 (石動山合戦)中世末退転 .
20 円乗坊 大宮坊末東蔵院末 中世末退転 .
21 円心坊 大宮坊末来宝院末仏頂院末 中世末退転 .
22 円道坊 福智院末 中世末退転 .
23 円福院 火宮坊末 慶長還住、元禄期までに退転 .
24 円満院 般若院末 (荒山合戦記)天正廃絶 .
25 円明坊 火宮坊末 慶安寺屋敷のみ(退転) .
26 延命院 火宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年まで存続 .
27 王地院 火宮坊末普門院末 中世末退転 .
28 大宮坊 本寺 (荒山合戦記)慶長還住、慶応2年まで存続 大宮坊跡1大宮坊跡2大宮坊跡3
29 奥ノ坊 五智院末 中世末退転 .
30 戒定院 吉祥院末 慶長還住、慶応2年まで存続 .
31 花王院 本寺 慶長還住、慶応2年まで存続 .
32 花蔵院 本寺 慶長還住、慶応2年まで存続 花蔵院跡
33 覚證院 不詳 慶長還住、元禄期までに退転 .
34 覚清院 大宮坊末 慶安寺屋敷のみ(退転) .
35 覚善院 火宮坊末性空坊末 中世末退転 .
36 覚浄院 単立 中世末退転 .
37 観照坊 大宮坊末顕実坊末 中世末退転 .
38 観請院 五智院末 中世末退転 .
39 観蔵坊 火宮坊末日乗院末 中世末退転 .
40 観徳坊 大宮坊末宝性院末 中世末退転 .
41 観音院 五智院末 中世末退転 .
42 観明坊 長楽院末重宝院末 中世末退転 .
43 吉祥院 本寺 寛文期までに退転 .
44 儀道坊 大宮坊末妙蔵院末大宝院末 中世末退転 .
45 旧観坊 大宮坊末仏蔵院末 慶長還住、慶応2年まで存続 旧観坊1旧観坊2
旧観坊3旧観坊4
石動山旧観坊平面図
46 旧乗坊 吉祥院末乗照院末 中世末退転 .
47 教照坊 火宮坊末 寛文期までに退転 .
48 行住院 大宮坊末来宝院末 慶長還住、慶応2年まで存続 行住院跡
49 行蔵坊 不詳 天正廃絶 .
50 教智坊 大宮坊末妙覚坊末 中世末退転 .
51 玉浄坊 五智院末 中世末退転 .
52 玉泉坊 重善院末 中世末退転 .
53 清水坊 大宮坊末来宝院末 中世末退転 .
54 玉蔵坊 宝池院末 中世末退転 .
55 玉従院 五智院末 中世末退転 .
56 金蔵坊 大宮坊末仏蔵院末 (荒山合戦記)中世末退転 .
57 空尊坊 五智院末 中世末退転 .
58 栗山坊 重善院末 中世末退転 .
59 慶乗坊 大宮坊末心王院末 中世末退転 .
60 月光坊 本寺か 慶長還住、慶応2年まで存続 月光坊跡
61 月心坊 般若院末 (石動山合戦記)天正廃絶 .
62 顕実坊 大宮坊末中本寺 (荒山合戦記)慶長還住、慶応2年まで存続 顕実坊跡
63 玄珠院 大宮坊末宝性院末 寛文までに退転 .
64 玄達坊 般若院末 天正廃絶 .
65 幸円坊 阿弥陀院末 元禄までに退転 .
66 高円坊 大宮坊末両界院末 中世末退転 .
67 広珠坊 阿弥陀院末 中世末退転 .
68 光泉坊 不詳 天正廃絶 .
69 広達坊 五智院末 中世末退転 .
70 光明院(坊) 宝池院末 慶長還住、元禄期までに退転 .
71 極楽院 不詳 天正廃絶 .
72 五常坊 火宮坊末性空坊末 中世末退転 .
73 五智院 本寺 慶長還住、慶応2年まで存続 .
74 小林坊 般若院末 (石動山合戦記)天正廃絶 .
75 金剛院 不詳 天正の頃越後へ転住 .
76 西谷坊 大宮坊末宝性院末 中世末退転 .
77 最勝院 宝勝院末中本寺 慶長還住、寛文期までに退転 .
78 最蔵坊 本寺 中世末退転 .
79 最道坊 道忍坊末 中世末退転 .
80 座主坊 火宮坊末普門院末 中世末退転 .
81 坂本坊 本寺 中世末退転 .
82 三蔵坊 本寺 慶長還住、慶応2年まで存続 三蔵坊跡
83 山蔵坊 五智院末 元禄期までに退転 .
84 慈学院 花蔵院末 中世末退転 .
85 慈光院 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続、明治維新に八大仙に転住 慈光院跡
86 自性坊 大宮坊末両界院末 中世末退転 .
87 実乗坊 宝池院末 (荒山合戦記)天正廃絶 .
88 釈迦院 福智院末 慶長還住、慶応2年存続 .
89 寿命院 大宮坊末東蔵院末 中世末退転 .
90 秀円坊 花蔵院末 中世末退転 .
91 重円坊 泉南院末 中世末退転 .
92 重観坊 大宮坊末来宝院末仏頂院末 中世末退転 .
93 重(十)善院 本寺 慶長還住、慶応2年存続 重善院跡
94 修善院 大宮坊末来宝院末仏頂院末 中世末退転 .
95 十蔵院 本寺 慶長還住、慶応2年存続 重蔵院跡
96 重宝院 長楽院末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
97 十万坊 五智院末 中世末退転 .
98 修蓮坊 宝池院末 中世末退転 .
99 性円坊 五智院末 中世末退転 .
100 正覚坊 大宮坊末宝性院末 中世末退転 .
101 浄覚坊 本寺 中世末退転 .
102 乗覚坊 火宮坊末性空坊末 中世末退転 .
103 成喜坊 大宮坊末妙蔵院末 中世末退転 .
104 性空坊 火宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 性空坊跡
105 松月坊 不詳 (荒山合戦記)天正廃絶 .
106 性幸坊 大宮坊末尊祥院末 中世末退転 .
107 浄光坊 大宮坊末妙蔵院末 中世末退転 .
108 乗照院 吉祥院末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
109 浄照院 本寺 中世末退転 .
110 乗(浄)実坊 本寺 (荒山合戦記)慶長還住、元禄期までに退転 .
111 成就院 大宮坊末妙蔵院末 中世末退転 .
112 成福院 東林院末 慶長還住、慶応2年存続 .
113 浄宝坊 本寺 中世末退転 .
114 常満坊 火宮坊末延命院末 中世末退転 .
115 真蔵院 東林院末 慶長還住、慶応2年存続、明治維新に八大仙に転住 .
116 神蔵坊 大宮坊末来宝院末仏頂院末 中世末退転 .
117 真浄坊 不動院末 中世末退転 .
118 心王院 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 心王院跡
119 随観坊 大宮坊末心王院末 慶長還住、慶応2年存続 .
120 管本坊 火宮坊末普門院末 中世末退転 .
121 杉本坊 大宮坊末両界院末 中世末退転 .
122 泉覚坊 吉祥院末 中世末退転 .
123 善賢坊 本寺 中世末退転 .
124 千光院 不詳 慶長還住、元禄期までに退転 .
125 善広院 花蔵院末 中世末退転 .
126 千手院 大宮坊末来宝院末 (石動山合戦記)慶長還住、慶応2年存続 .
127 千手坊 本寺 慶安寺屋敷のみ(退転) .
128 専祥院 不詳 (石動山合戦記)天正廃絶 .
129 善照院 火宮坊末延命院末 中世末退転 .
130 泉(千)南院 本寺 慶長還住、元禄期までに退転 .
131 千福院 不動院末 中世末退転 .
132 泉福坊 大宮坊末妙蔵院末 中世末退転 .
133 宗円坊 泉南院末 中世末退転 .
134 相応院 大宮坊末宝達坊末 中世末退転 .
135 惣行院 大宮坊末 慶長還住、慶応2年存続 .
136 惣持院 惣持 慶安寺屋敷のみ(退転) .
137 蔵寂坊 宝池院末 慶長還住、元禄期までに退転 .
138 蔵従(衆)坊 宝池院末 元禄期までに退転 .
139 宗乗坊 宝池院末 中世末退転 .
140 尊祥院 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続、明治維新に八大仙に転住 .
141 大覚坊 大宮坊末妙蔵院末 慶長還住、慶応2年存続、明治維新に八大仙に転住 .
142 大学院 不詳 天正9年金沢へ転住、医王寺を建立 .
143 大行院 本寺 慶長還住、元禄期までに退転 .
144 大巻坊 本寺 中世末退転 .
145 大乗坊 宝勝院末最勝院末 中世末退転 .
146 大定坊 十蔵院末 中世末退転 .
147 大泉坊 大宮坊末妙蔵院末 中世末退転 .
148 大善院 宝池院末 慶長還住、慶応2年存続 .
149 大善坊 本寺 元禄期までに退転 .
150 大善坊 大宮坊末 慶長還住、寛文期までに退転 .
151 大惣院 本寺 元禄期までに退転 .
152 胎蔵坊 五智院末 中世末退転 .
153 大蔵坊 大宮坊末宝性院末 慶長還住、元禄期までに退転 .
154 大智院 五智院末 慶長還住、慶応2年存続 .
155 大徳坊 福智院末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
156 大日坊 東林院末 中世末退転 .
157 大仏坊 大宮坊末 慶安寺屋敷のみ(退転) .
158 大宝院 大宮坊末妙蔵院末 慶長還住、慶応2年存続 .
159 大満坊 吉祥院末多門院末 中世末退転 .
160 大和坊 不詳 天正廃絶 .
161 谷ノ坊 三蔵坊末 中世末退転 .
162 多門院 吉祥院末中本寺 元禄期までに退転 .
163 智行坊 火宮坊末日乗院末 中世末退転 .
164 智笏坊 大宮坊末両界院末 中世末退転 .
165 智乗坊 長楽院末 中世末退転 .
166 智道坊 花蔵院末 中世末退転 .
167 中円坊 大宮坊末両界院末 中世末退転 .
168 中央院 本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
169 中行坊 大行院末 中世末退転 .
170 中道坊 不動院末 中世末退転 .
171 長栄坊 吉祥院末乗照院末 中世末退転 .
172 長見坊 大宮坊末心王院末 中世末退転 .
173 長楽院 本寺 慶長還住、元禄期までに退転 .
174 伝定坊 阿弥陀院末 中世末退転 .
175 堂観坊 大宮坊末来宝院末仏頂院末 中世末退転 .
176 東光坊 大宮坊末妙蔵院末 中世末退転 .
177 東光坊隠居 東光坊寺中? 中世末退転 .
178 東寿院(坊) 阿弥陀院末 中世末退転 .
179 道照院 五智院末 中世末退転 .
180 東蔵院 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
181 道忍(任)坊 本寺 (石動山合戦記)慶長還住、慶応2年存続 .
182 道念坊 般若院末 中世末退転 .
183 東福坊 阿弥陀院末 中世末退転 .
184 当楽坊 五智院末 中世末退転 .
185 東龍坊 長楽院末 中世末退転 .
186 東林院 本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
187 徳蔵坊 大宮坊末来宝院末行住院末 中世末退転 .
188 南泉院 宝寿院末 中世末退転 .
189 南蔵坊 泉蔵院末 中世末退転 .
190 仁王院 五智院末 中世末退転 .
191 日乗院 火宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続、明治維新に八大仙に転住 .
192 能正坊 本寺 (石動山合戦記中世末退転 .
193 能満坊 大宮坊末顕実坊末 慶安寺屋敷のみ(退転) .
194 橋本坊 重善院末 中世末退転 .
195 般若院 本寺 (荒山合戦記)天正廃絶 .
196 火宮坊 本寺 (荒山合戦記)慶長還住、寛文期までに退転 .
197 福円坊 不動院末 中世末退転 .
198 福寿院 大宮坊末顕実坊末 中世末退転 .
199 福乗院 大宮坊末来宝院末仏頂院末 元禄期までに退転 .
200 福智院 本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
201 藤本坊 泉南院末 中世末退転 .
202 仏蔵坊 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続、
現在仏蔵院跡は滝谷妙成寺別院龍崋山日澄寺 が建つ。
仏蔵院跡1仏蔵院跡2
203 仏頂院 大宮坊末来宝院末 慶長還住、慶応2年存続 .
204 不動院 本寺 寛文期までに退転 .
205 普門院 火宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
206 宝覚坊 宝池院末 中世末退転 .
207 宝行坊 大宮坊末 慶長還住、慶応2年存続 .
208 宝広院 大宮坊末尊祥院末 中世末退転 .
209 法行坊 五智院末 慶長還住、寛文期までに退転 .
210 宝寿院 本寺 慶長還住、慶応2年存続 宝珠院跡
211 宝珠院 火宮坊末 慶長還住、慶応2年存続 .
212 宝樹院 惣持 中世末退転 .
213 宝勝院 本寺 中世末退転 .
214 宝憧坊 大宮坊末妙蔵院末大覚坊末 (荒山合戦記)中世末退転 .
215 宝性院 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
216 宝泉院 大宮坊末来宝院末 中世末退転 .
217 法仙謗 般若院末 (石動山合戦記)天正廃絶 .
218 宝蔵坊 大行院末 中世末退転 .
219 宝達坊 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 宝達坊跡
220 宝池院 本寺 慶長還住、慶応2年存続 宝池院跡1宝池院跡2
221 法門坊 五智院末 中世末退転 .
222 菩薩坊 宝勝院末最勝院末 中世末退転 .
223 本覚坊 宝池院末 中世末退転 .
224 本勝坊 大宮坊末東蔵院末 慶安寺屋敷のみ(退転) .
225 舞日坊 宝池院末 中世末退転 .
226 松尾坊 大宮坊末仏蔵院末 中世末退転 .
227 松本坊 五智院末 慶長還住、慶応2年存続 .
228 満月坊 宝池院末 寛文期までに退転 .
229 曼珠院 五智院末 中世末退転 .
230 満照坊 長楽院末 中世末退転 .
231 万徳院 花王院末 中世末退転 .
232 明王院(坊) 大宮坊末妙覚坊末 中世末退転 .
233 妙覚坊 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
234 妙観坊 大宮坊末慈光院末 中世末退転 .
235 明観坊 大宮坊末両界院末 中世末退転 .
236 妙高院 本寺 慶長還住か、慶応2年存続 .
237 明宗坊 大行院末 中世末退転 .
238 妙春坊 般若院末

(石動山合戦記)天正廃絶

.
239 明勝坊 本寺 慶長還住、慶応2年存続、明治維新に八大仙に転住 .
240 明泉坊 三蔵坊末 中世末退転 .
241 妙蔵院 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
242 妙池院 不詳 元禄期までに退転 .
243 妙法院 本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
244 弥勒坊 大宮坊末来迎院末 元禄期までに退転 .
245 明広院 本寺 元禄期までに退転 .
246 薬師坊 宝池院末 中世末退転 .
247 山本坊 福智院末 中世末退転 .
248 山本坊 火宮坊末普門院末 中世末退転 .
249 陽俊坊 不詳 天正廃絶 .
250 来迎院 大宮坊末中本寺 慶長還住、慶応2年存続 .
251 来智院 火宮坊末 慶長還住、慶応2年存続 .
252 来宝院 大宮坊末中本寺 慶長還住、元禄期までに退転 .
253 来明坊 大宮坊末妙蔵院末 中世末退転 .
254 龍泉院 千手院末 中世末退転 .
255 龍道坊 大宮坊末尊祥院末 中世末退転 .
256 龍日坊 宝勝院末最勝院末 中世末退転 .
257 龍宝坊 大宮坊末顕実坊末 中世末退転 .
258 両我院 不詳 元禄期までに退転 .
259 両界院 大宮坊末中本寺 慶長還住、元禄期までに退転 .
260 良観坊 花蔵院末 中世末退転 .
261 良玄坊 大宮坊末宝性院末 元禄期までに退転 .
262 良善院(坊) 宝池院末 慶長還住、元禄期までに退転 .
263 良蔵坊 火宮坊末 中世末退転 .
264 良智院(坊) 大宮坊末心王院末 慶長還住、慶応2年存続 .
265 良道坊 道忍坊末 中世末退転 .
266 了徳坊 不動院末 中世末退転 .
267 林泉坊 阿弥陀院末 中世末退転 .
268 蓮玉坊 火宮坊末日乗院末 中世末退転 .
269 蓮華院 五智院末 中世末退転 .
270 蓮蔵坊 大宮坊末東蔵院末 中世末退転 .

大宮坊支配は中本寺、末寺、孫末寺を合わせて84ヶ院坊、火宮坊支配は23ヶ院坊、五智院支配は19ヶ院坊、宝池院支配は14ヶ院坊、吉祥院支配は8ヶ院坊、般若院支配は7ヶ院坊、阿弥陀院と花蔵院支配は各々6ヶ院坊、不動院・福智院・長楽院支配は各々5ヶ院坊などである。

2011/02/10追加:
「能登石動山」桜井甚一[ほか]著、北国出版社、昭和48年 より
石動山の瓦解(明治維新・神仏分離・廃仏毀釈)

慶応4年太政官布告(神仏分離令)、廃藩置県で加賀藩150石の寄進米停止、北越7ヶ国の勧財禁止、上地令で山林没収。
一山は五社大権現と天平寺の非分離を願いでるも、明治3年神祇官より却下。
一山58坊のうち8ヶ坊は峰続きの八大仙に転住、41ヶ坊は復飾神勤しながら帰農して自活、残り9ヶ坊は態度保留となる。
41ヶ坊は真蔵院・長谷覚円に各寺坊の仏像・仏器を預け任せることになる。
しかし復飾した41ヶ坊は凶作続きなどで、次々に下山、神官・医師・教師・巡査などになる。
八大仙から再び帰山した長谷覚円(真蔵院)も仏像・仏器を持参して下山、後に能登一宮正覚院に転住する。
 (真蔵院兼務、真蔵院は後に天平寺に改称する。)
この間、明治7年、一山の協議の上、維持管理が困難となった社殿・堂宇を朽ち果てるに任せるより、売却せんと決する。
即ち、五社の社殿は本社大宮に合祀、神輿堂を拝殿として今の地に遷宮、梅宮(現金毘羅神社本殿)と拝殿(現西宮拝殿)は七尾へ、仁王門(現長楽寺山門)と仁王像(現本土寺)は能登部へ、開山堂(現道神社拝殿)は氷見中田へ、松本坊は氷見宇波へ(松本坊は明治末年まで魚取社として存在するも積雪にて倒壊)売却、その他の寺坊も譲り受けた寺院や民家が山麓の村々に残る。
 (民家に移築改修された坊舎は平の西田家、山口家、白川の戸田家などがあった。)
大講堂は取壊したものの木割りが太く、止む無く焼きその余燼を鍛治屋に売却と云う。鐘楼は梵鐘を吊ったまま焼却し、打ち壊すと云う。
明治末年には寺坊の系統を次ぐもの20軒あまりとなり、昭和初期には宝池院(宝池氏)、仏蔵坊(岡崎氏)、着任坊(日出山氏)、延命院(西尾氏)、三蔵坊(広田氏)、妙高院(高沢氏)の6軒となる。
次いで昭和20年代には宝池・西尾・広田の3氏となり、現在(昭和48年頃)では西尾氏のみとなる。
 ※西尾家は延命院の後裔で今(昭和61年)も延命院の屋敷跡に住む。庭内には旧のままの金毘羅大権現の祠が祀られ、
  屋内には旧寺坊関係の仏像・仏器が保存される。(「「鹿島町史 石動山資料編」」)
明治以降、新に移住してきた人々(加賀白山麓などの移住者が坊跡に転住)と旧寺坊の子孫とで石動山集落は成立したが、大正期には46戸、昭和35年38戸、昭和48年現在13戸、40歳以下の労働人口は皆無となる。
大宮坊跡は長らく越路小学校石動山分教場であったが3年前より閉鎖される。
山院の現況(昭和48年)は以下の通りである。・・・・しかし現在平成22年では以下の現況もほぼ姿を消す。
仁王門を入り、少し直進すると三蔵坊の崩壊寸前の姿(現在新しい建物あり)が右下にあり、心王院跡には戦後天平寺を名乗り住職の退転とともに瓦解した本堂が崩壊(現在建物なし)している姿がある。その南東には阿弥陀院の見事な石垣が残る。
△旧観坊は唯一の完存する坊舎であるが、坊の子孫広田氏は昭和30年半ばで下山し長く無住である。
 石動山旧観坊平面図
△民家として石垣庭など保存状態の良好な寺坊跡
延命院(西尾氏)、仏蔵院(日蓮宗日澄寺)、宝達院(谷道氏)、宝池院(三野氏)、性空坊(小林氏)、大覚坊(丸山氏)、妙覚坊(石田氏)、祐定院(小林氏)、阿弥陀院(山本氏)、十善院(小林氏)
△近年無住となり保存状態の良い寺坊跡
三蔵坊(広田氏)、旧観坊(田村氏・鹿島町)、顕実坊(山本氏)、千手院(山口氏)、心王院(天平寺・堀江氏)、明法院(北田氏)、来迎院(山本氏)、大智院(不詳)、普門院(西氏)、中央院(不詳)、明勝坊(北田氏)
△建物なく石垣・庭など残存する寺坊跡
東林院、成福院、大善院、松本坊、道任坊、花王院
△田畑・植林地となる寺坊跡
宝性院、慈光院、妙高院、重蔵院、宝行坊、乗照院、戒定院、行十院、重宝院、仏頂院、大徳坊、安養院、五智院、福智院、良智坊、随観坊、一明坊、真蔵院、花蔵院

2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
○石動山神輿堂棟札
 神輿堂棟札・表裏:元禄14年年紀、裏面に58ヶ寺坊名が並ぶ。
○三蔵坊(広田家)文書
 以下17ヶ寺の明治5年・石動山旧住職戸籍帳が残る。
宝珠院(浅野)、心王院(竹戸)、阿弥陀院(大西)、東蔵院(井関)、花王院(岡部)、東林院(林)、重宝院(金子)、仏蔵院(村田)、宝池院(宝池)、重蔵院(児玉)、行住院(渡辺)、戒定院(渡辺)、釈迦院(菅)、大徳坊(徳野)、福智院(星野)、中央院(岡山)、成福院(岡崎)
○三蔵坊(広田家)文書
 唯一復飾せず山内に残った真蔵院は明治35年、天平寺に改称。この天平寺は昭和10年雪のため倒壊。
 昭和18年再興までの手段として広田邸(旧三蔵坊)を借用する。その借用文書が残る。
    覚書
  今回天平寺再興にあたり、新本堂完成に至るまで、仮本堂として無料借用候也
     昭和18年
       天平寺住職 長谷快賢、長楽寺住職 北原広禅、後任住職 亀谷弘教
  広田嘉四郎殿
○能登正覚院文書
 明治18年石動山真蔵院長谷覚円が、真蔵院兼帯のまま気多大神宮正覚院に入寺。
明治2年中央院住職(覚円)、真蔵院に転住
明治2年真蔵院は真蔵院等八ヶ寺の本地仏、各院本尊・仏像、仏器、経典、求聞持堂、経堂など惣什宝の付属方願いを提出する。
 ※還俗しなかった八院として以下の寺坊が記録される。
 尊祥院、真蔵院、一明坊、大覚坊、惣行院、慈光院、明勝院、日乗院
○金沢市立図書館所蔵文書
明治3年石動山復飾社家先祖由来并一類附帳 には以下の寺坊の記録がある。
 元東蔵院(守井)、元重蔵院(児玉重蔵)、元花王院(岡部志摩)、元妙高院(高沢)、元三蔵坊(広田)、元宝珠院(浅野)、元行住印(渡辺)、元五智院(松岡)、元妙蔵院(広瀬)、元延命院(西尾)、元大宝院(岡崎)、元中央院(岡山)、元花蔵院(星野)、元大善院(柴田)、元祐定院(児玉東梅)、元安養院(藤嶋)、元大徳坊(徳野)、元月光坊(柴田)、元松本坊(松岡)、元阿弥陀院(金子)、元仏頂院(西尾)、元宝達坊(岡崎)、元心王院(竹戸)、元乗照院(鈴木)、元普門院(守)、元花王院(赤部清記)、元戒定院(渡辺)、元福知院(星野)、元成福院(岡崎)、元千手院(月見)、元性空坊(広田)、元宝池院(宝地)、元仏蔵院(岡崎)、元東林院(林)、元道住(任)坊(日出山)、元顕実坊(岡部)、元旧観坊(豊崎)、元来迎院(林)、元阿弥陀院(大西)、元妙法院(星野)、元釈迦院(菅)
 ※阿弥陀院、花王院などは重複があるが、改名後の氏名は相違し、なおかつ先祖・一類の内容も相違する。


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