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日本史豆知識

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奈良時代
和銅三年(710年)-延暦十三年(794年)

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− 5.奈良時代の出来事 −

奈良時代は、律令体制が整えられ、藤原氏が天皇家と婚姻関係を結んで政治の主導権を握り、その後発展する基礎が作られていく時代です。それに伴い、政治の主導権をめぐって様々な争いが起こる時代でもあります。ここでは、奈良時代の社会状況、政権争いなど、主な出来事について見ていきますが、奈良時代は政権トップがめまぐるしく変わるため、その時々の政権トップの座についた人物を中心に話を進めていきます。

− 藤原不比等 −

藤原京の周辺は、蘇我氏を始め阿倍氏、大伴氏などの大豪族が基盤を持つ地域が多く、同じなら盆地でも、こういった大豪族の拠点がほとんどない奈良盆地北部の平城京への遷都を主導したのは、藤原不比等(ふじわらの ふひと)であると言われます。
律令政においては天皇が絶大な権力を持ちましたが、天皇の詔書(しょうしょ/天皇の命令を記した公文書)を発行するには、太政官(だいじょうかん)の最高幹部である公卿(くぎょう)の署名が必要で、公卿は重要な案件(あんけん/審議が必要な事柄)について会議を開いて審議し、結果を天皇に伝えるという権限を持っていました。
飛鳥時代の末、女帝であった持統天皇の後を継いだのは、持統天皇の孫にあたる文武天皇(もんむてんのう)でした。しかしその後は元明天皇(げんめいてんのう/文武天皇の母)、元正天皇(げんしょうてんのう/文武天皇の姉)と女帝が続いたため、公卿が大きな発言力を持っていました。平城京遷都当初は、公卿の中でも事実上のトップである左大臣は藤原京に留守番として残っていたので、平城京にいる公卿の中では最上位である、右大臣藤原不比等が次第に大きな権力を持つようになりました。不比等は大化の改新で活躍した中臣鎌足(なかとみの かまたり)の次男ですが、『大鏡(おおかがみ/平安後期の歴史書)』などには天智天皇の子などと書かれていて、飛鳥時代には大宝律令の編纂に加わったり、娘を天皇の妻としたりと皇室とも深い関係を持ちながらその勢力を強めていきました。
不比等は、自分の娘である宮子(みやこ)を文武天皇の夫人とし、宮子が産んだ子である首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)の即位を望みました。そうなると、自分は天皇の母方の外戚(がいせき)として、大きな権力を持つことができたからです。外戚とは、母方の親戚で、中でも祖父を指します。当時は子は母方で育てられたため、母方の祖父という存在が大きかったのです。
707年に文武天皇が亡くなると、その子である首皇子はまだ幼かったため、文武天皇の母が中継ぎとして即位しました。元明天皇です。元明天皇は和同開珎を鋳造させ、710年には平城京へ遷都し、大宝律令に基づいて政治を行いました。また712年には『古事記』が完成し、713年には『風土記』の編纂を命じました。
715年に元明天皇が退位した時、元明天皇・藤原不比等の孫である首皇子は15歳でした。当時の15歳はもう成人ですので即位してもおかしくはない年頃であり、そもそも元明天皇は幼かった首皇子の中継ぎとして即位したのでしたが、元明天皇の娘が元正天皇として即位しました。首皇子が即位できなかったのは、皇子の母が臣下である不比等の娘であり、皇族ではなかったからと考えられます。
そこで藤原不比等は716年、娘の安宿媛(あすかべひめ/宮子の異母妹・光明子とも)を首皇子の妃(きさき)としました。娘を孫の嫁としたのです。また首皇子にとっては母の妹(叔母/おば)を妻にしたことになります。これにより、次期天皇候補との結びつきを強めたのです。そして不比等は大宝律令の改訂に着手し、不比等の死後に完成したこの律令は養老律令(ようろうりつりょう)と呼ばれます。

− 長屋王 −

この頃には、日本で最初の歴史書である『日本書紀』の編纂が行われていました。それを主導したのは舎人親王(とねりしんのう)です。舎人親王は天武天皇の皇子で、壬申の乱で活躍した高市皇子(たけちのみこ)、元明天皇の夫である草壁皇子(くさかべのみこ)の異母兄弟です。舎人親王は、姪(めい)にあたる元正天皇の命により、異母兄弟の新田部親王(にいたべしんのう)と共に、皇太子となった首皇子の補佐を行っていました。
絶大な権力を有した藤原不比等が720年に没すると、舎人親王は知太政官事(ちだいじょうかんじ)に任命されました。知太政官事とは、8世紀前半に置かれた令外官(りょうげのかん)で、太政大臣(だいじょうだいじん)と同格です。しかし太政大臣は天皇の臣下である貴族が任命されますが、知太政官事は皇族が任命され、特に天武天皇の子孫が任命されています。
一方、新田部親王は中央の軍事組織である五衛府を統括する、知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよび じゅとうとねりじ)に任ぜられ、舎人親王は実権を臣下の藤原氏ではなく皇族の手に取り戻すべく、新田部親王、右大臣・長屋王(ながやのおおきみ)とともに取り組みました。
長屋王は、天武天皇の子で壬申の乱で活躍した高市皇子(たけちのみこ)の子です。舎人親王は高市皇子とは異母兄弟ですので、舎人親王にとっては、長屋王は甥(おい)にあたります。異母兄である高市皇子、草壁皇子、大津皇子は既に亡くなっており、舎人親王が知太政官事となって長屋王と共に政治を先導することになったのでした。また、長屋王の妻は元正天皇の妹である吉備内親王(きびないしんのう)でしたので、元正天皇は妹の夫である長屋王に信頼を寄せていました。
長屋王は平城宮の南東に位置する、左京三条二坊(さきょう さんじょう にぼう)に大邸宅を構えていました。平城宮は平城京の北端中央に位置する天皇の御所や各役所の建物が建ち並ぶ一角で、役人達は毎朝この平城宮にある役所へと出勤しましたが、地位の高い者ほど平城宮近くに広大な宅地を与えられたのです(平城京参照)。
貴族と呼ばれる特権階級の役人は、一坪(つぼ/町とも)単位で宅地を与えられました。当時の宅地面積としての一坪(一町)は、一辺がおよそ125メートルの正方形でした(大路と小路参照)。その面積はおよそ4,700坪です。これは国際大会のサッカーフィールド2個以上の広さです。これだけでも広大な面積ですが、長屋王は三条といった一等地にその4倍である四坪(四町)の宅地をあたえられていたのです。
注) ここで言う「町(ちょう)」は、あくまで条坊制の区画の名称であって、長さや面積を表す「町(ちょう)」とは異なります。区画としての町と、単位としての町とでは、その一辺の長さや面積が全く異なりますので混同しないよう注意して下さい(区画としての「町」と面積の「町」参照。
発掘により発見された長屋王の邸宅跡と見られるところから、大量の木簡(もっかん)が発見されています。木簡とは、アイスキャンデーの棒を大きくしたような、薄く細長く平たく削った木に文字を書いた物で、当時は貴重な紙の代わりに、あるいは小さくして荷札などに使っていました。表面を削れば何度も書き直せました。
こういった木簡の発見により、長屋王のもとには全国から鮑(アワビ)などの、たくさんの特産物が届けられていたことが分かりました。また夏には氷室(ひむろ)から冬に作った氷が届けられ、鶴なども飼育されていました。長屋王にはたくさんの下級官人が与えられ、長屋王とその家族のためだけに300人もの職人などが働いており、長屋王の屋敷は、もはやひとつの町と言っても過言ではありませんでした。
ところで、長屋王の前に権勢をふるっていた藤原不比等には息子達がいましたが、長男の武智麻呂(むちまろ)は中納言(ちゅうなごん)、次男の房前(ふささき)は参議(さんぎ)となっていました。しかし、右大臣である長屋王よりも格下でしたので、政治の主導権は長屋王が握っていたのでした。
ところが、724年に首皇子が聖武天皇(しょうむてんのう)として即位しました。聖武天皇は不比等の長女・宮子が産んだ子であり、不比等の長男である武智麻呂、次男である房前にとっては、異母妹が産んだ子ですので聖武天皇は甥(おい)にあたります。しかも、宮子の異母妹である安宿媛(あすかべひめ)が聖武天皇の妻となっているのです。ここで安宿媛を皇后(こうごう/天皇の正室)にすることができれば、藤原氏の権力は絶大なものとなります。そこで四兄弟は、父・不比等が築いた藤原氏の権勢を取り戻すべく、安宿媛を皇后に推して巻き返しを図ったのでした。

■ 百万町歩開墾計画

奈良時代には農民にさまざまな税が課せられ、その重い税負担に逃亡する者が後を絶たず、耕作されずに放置された口分田が増え、税の徴収に支障が出てきました。そこで722年朝廷は、田地を増加させる事を目的として、左大臣となった長屋王を中心として百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)を立てました。
『続日本紀(しょくにほんぎ/日本書紀に次ぐ国史)』には、百万町歩開墾計画とは陸奥国(むつのくに/福島、宮城、青森、秋田の一部)が政情不安定であったため、人が定住できにくいので庸(よう)・調(ちょう)を免除し、都へ上っている人々を国元へ帰し、こうした民を10日間労働させて百万町歩の田を開墾し、開墾しない者は罰し、成果を上げた者には褒美を与える。また公私の出挙(すいこ)の利益は3割とし、辺境の地を守るためには食料確保は重要なので、食料の貯えを進んで行う者には叙位する(位階を与える)というものであったとあります。こういったことから百万町歩開墾計画は、陸奥国、出羽国(でわのくに/山形、秋田の一部)の東北2国を対象にし、田地を増加させると共に、東北地方に派遣する軍隊の食糧を確保しようとしたものと考えられています。
では百万町歩とはどれ位の広さなのでしょうか。町歩(ちょうぶ)は、既に区画としての「町」と面積の「町」で解説しました通り、当時の1町歩は1辺が60歩(1歩=6尺=約1.82メートル)四方の正方形の面積です。つまり60歩×60歩=3,600歩となります。1歩は1坪(つぼ/3.3平方メートル)ですので、1町歩は3,600坪となります。従って100万町歩は36億坪となり、これを平方キロにすると約11,000平方キロとなります。これは東京都のやく5倍の面積となります。
10世紀初頭成立の『和名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう/平安中期に作られた辞書)』によると、陸奥国と出羽国両国を足しても十万町歩にも満たないことが分かり、また当時の全国の田地を足しても88万余町歩にしかならない事が分かります。従ってこの計画は無謀(むぼう)なものであり、スローガン的なものであったと思われます。

■ 三世一身法

723年朝廷は、百万町歩開墾計画に基づいて農地開墾を促進させようと三世一身法(さんぜいっしんのほう)を出しました。これは、新たに灌漑施設(かんがいしせつ/農業に必要な水を農地まで引いてくるための施設)を設け、墾田(こんでん/新たに田を作る事)した場合、開墾した本人・その子・孫の三代にわたってその田を私有出来るというものでした。当時は土地と人民は天皇のものとされたため、土地の私有は貴族といえども許されていませんでした。
この法により開墾が進んだかと思えばそうでもありませんでした。なぜなら、灌漑施設を新たに設けるとなると、莫大な費用と労働力が必要で、農民個人にはとても無理な事でした。また、親子三代私有した後は国に持って行かれるのですから、灌漑施設を自費で設けなければなりませんので、それを考えるとたいしたメリットはなかったのです。

− 藤原四兄弟 −

そんな頃、不比等の4人の息子達、いわゆる藤原四兄弟が政界に進出しました。その四兄弟とは、長男で後の藤原南家(ふじわらなんけ)の祖・藤原武智麻呂(ふじわらの むちまろ)、次男で後の藤原北家(ふじわらほっけ)の祖・藤原房前(ふじわらの ふささき)、三男で後の藤原式家(ふじわらしきけ)の祖・藤原宇合(ふじわらの うまかい)、四男で後の藤原京家(ふじわらきょうけ)の祖・藤原麻呂(ふじわらの まろ)の4人です。
これら北家など4つの名称は、長男と次男の屋敷が南北の位置関係にあった事から北家、南家と呼ばれ、宇合が式部卿(しきぶのかみ/しきぶきょう/式部省長官)を兼ねていた事から式家と呼ばれ、麻呂が左京大夫(さきょうのかみ/さきょうのだいぶ/京職の長官)であった事から京家と呼ばれました。
兄弟であり、同じ藤原氏であるのになぜこのように「○○家」と区別したのかと言うと、「氏(うじ)」は血筋を表す言葉であり、例えば「藤原氏(ふじわらうじ)」は「藤原」という、同じ血筋の一族を指しますが、同じ藤原一族の中にも格差が生じていきます。出世する者としない者、家督(かとく)を継いだものとそうでない者などです。そして平安時代になると、「氏(うじ)」という、血筋ではなくより家族的な一族である「家」という意識が強くなっていきます。そこで同じ一族でも「○○家」といった呼び名で区別したのでした。
政界に進出した藤原四兄弟は、長屋王主体の政権への不満をつのらせていました。長屋王の妻は元正天皇の妹ですので、元正天皇の厚い信任のもと、長屋王が権勢を振るっていたのでした。
しかし、今では四兄弟の異母妹である宮子が産んだ首皇子が聖武天皇となっており、しかも宮子の異母妹である安宿媛が聖武天皇の妻となっています。つまり天皇周辺は藤原氏の血を引く者達となっていたのです。そこで四兄弟は、安宿媛を聖武天皇の皇后(こうごう/天皇の正室)とし、藤原氏の権勢をより強固なものにしようと企んだのです。当時身分が高い者は複数の妻を持ちました。特に天皇は安定した皇位継承者を得るため、多くの妻を持ったのです。そしてそれら妻達にはランクがあったのです。天皇の妻達の中で、皇后が最も格が高かったのです(天皇の妻達参照)。
724年、聖武天皇の母である宮子の称号を巡って、藤原四兄弟と長屋王との間に対立が起こりました。聖武天皇は、母である宮子に勅(みことのり/天皇の命令)によって、「大夫人(たいふじん)」という尊称を与えました。これは天皇の生母である夫人に対する尊称です。ところが、ひと月ほど後にこれが撤回され、文章上では皇太夫人(こうたいふじん)、口頭では大御祖(おおみおや)という尊称を用いるとする勅が改めて出されたのでした。
これは、左大臣となった長屋王などが主体となり、公式令(くしきりょう)には「大夫人」という尊称はなく、「皇太夫人」という尊称しかないため、「大夫人」という尊称を用いれば令に反し、公式令に従って「皇太夫人」という尊称を用いれば、先の勅に反することになってしまうため、どうすべきかを天皇に判断して頂きたいと申し出たのでした。
注) 公式令とは令の一編で、公文書の様式や書き方などの細かな規定が定められたものです。
これにより、聖武天皇は先に出した「大夫人」という尊称を用いるという勅を撤回し、「文章上では皇太夫人、口頭では大御祖」という尊称を用いるという勅を改めて出したのでした。「大夫人」という尊称を用いるという詔は、藤原房先が中心となって作成したものであったため、この詔を撤回されたことにより房先の面目は丸つぶれになり、この件をきっかけに、藤原四兄弟と長屋王との対立が起こるのです。

■ 長屋王の変

729年、左大臣である長屋王が、「左道(さどう/間違った事)を学んで国政を傾けようとしている」と言う讒訴(ざんそ)があり、問いただされた長屋王は自殺に追い込まれました。これを長屋王の変と言います。
注) 「讒訴」:他人をおとしいれるために事実を曲げて言いつける事
長屋王の変の背後には、天皇の後継者争いがあったとも言われます。聖武天皇には皇子が1人しかいなく、この皇子に何かあった場合は長屋王の子が後継者の最有力候補とみなされていました。しかし藤原四兄弟にとってこれはおもしろくありません。四兄弟の祖父は、大化の改新で活躍した中臣鎌足であり、父不比等は鎌足の子(天智天皇の落とし子とも)で、娘を文武天皇の妻とし、その娘が聖武天皇を産みました。
不比等はこれら天皇家との関係をバックに絶大な権力を持ちました。当然その権威は息子達四兄弟が引き継ぎたいと思います。しかしまだ格下であったため、長屋王が政権を握ったのです。しかも長屋王は、聖武天皇の妻となった四兄弟の異母妹・安宿媛を、皇后とすることには反対だったのです。皇后は、天皇が跡継ぎを残さずに亡くなった場合には女帝として即位する場合がありますので、皇族に限られ、臣下の娘が皇后になるなど考えられなかったからです。
従って、長屋王を陥れて政権を奪うためにありもしない事を告げ口させ、長屋王を落とし入れたと言う説があるのです。実際、告げ口した者は褒美(ほうび)を与えられています。
そして長屋王が没すると、藤原四兄弟の異母妹・安宿媛を、聖武天皇の皇后とするという詔(みことのり/天皇の命令)が出されたのでした。これに反対していた長屋王が亡くなったため、四兄弟の企みは成功したのでした。安宿媛は光明子(こうみょうし)とも言いましたので、光明皇后(こうみょうこうごう)と呼ばれました。
臣下の娘が皇后となる事は異例でした。皇后は跡継ぎがいない天皇が亡くなった場合に女帝として即位する場合もあるからです。邪魔者がいなくなったためこういったごり押しが可能となり、藤原氏の権力は絶大なものとなり、これ以後は藤原家の娘が皇后となることが慣例となりました。
731年には、太政官(だいじょうかん)の最高幹部である公卿(くぎょう)は9人でしたが、大納言(だいなごん)となった長男・武智麻呂を筆頭に、次男・房前、三男・宇合、四何・麻呂は参議となり、9人のうち4人を藤原四兄弟が占めると言った状況でした。こうして四兄弟は天皇家との密接な関係を背景に、事実上政権を握ったのでした。

− 橘諸兄 −

天平七年(735年)、新田部親王、舎人親王が相次いで亡くなってしまいました。天武天皇の皇子で重要視されていた人物が相次いで亡くなったため、ますます藤原四兄弟は勢力を伸ばしていくのですが、737年に天然痘(てんねんとう)という病気にかかって四兄弟は次々と死亡してしまいました。この年に天然痘が大流行し、朝廷の最高幹部である公卿(くぎょう)で出勤出来るのは、従三位(じゅ さんみ)・左大弁(さだいべん)であった橘諸兄(たちばなの もろえ)、従三位・大蔵卿(おおくらのかみ/大蔵省長官)であった鈴鹿王(すずかのおおきみ)のみという状況でした。鈴鹿王は天武天皇の孫にあたり、橘諸兄は敏達天皇(びだつてんのう/在位:572年-585年)の後裔(こうえい/子孫)でした。
こんな状況の中、朝廷は鈴鹿王を知太政官事(ちだいじょうかんじ/太政大臣に相当)に、橘諸兄を大納言に任命し、急場をしのぐこととしました。そして翌年には橘諸兄は正三位(しょう さんみ)・右大臣に任命され、政治を主導する立場となったのでした。
橘諸兄は敏達天皇の子孫ですから王(おう)であり、葛城王(かつらぎのおおきみ)と呼ばれましたが、臣籍降下(しんせきこうか)を受け、母方の氏(うじ)である橘(たちばな)を名乗りました。臣籍降下とは、天皇の子が皇族の身分から臣下の身分とされることです。
注) 「氏」や「名字」などについては、平安時代の項で詳しく解説する予定です。
橘諸兄は遣唐使として唐に渡って様々な文物を持って帰国し、聖武天皇や光明皇后に可愛がられた吉備真備(きびの まきび)と、一緒に帰国した僧である玄ム(げんぼう)と共に政務にあたりました。

■ 吉備真備

吉備真備(きびの まきび)は色々な逸話を持つ人物ですが、吉備の有力豪族である、吉備氏(きびうじ)の一族である下道朝臣(しもつみちのあそん)の出身です。吉備国は後に備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・美作(みまさか)の四カ国に分割された国で、現在の岡山県と広島県東部にあたります。
真備は地方豪族の子弟として大学に入学し、卒業時に実施される式部省の試験に合格し、従八位下(じゅ はちいの げ)に叙されたと思われます。そして716年に唐への留学生に選ばれ、翌年に安倍仲麻呂(あべの なかまろ)、僧の玄ム(げんぼう)らと共に唐へと渡りました。
17年もの間唐で儒学、律令、礼儀、軍事などを学び、天平六年(734年)の末に帰国しました。翌年には唐から持ち帰った多くの書籍や器物を献上し、正六位下(しょう ろくいの げ)に叙位され、大学助(だいがくのすけ)に任ぜられました。736年には外従五位下(がい じゅ ごいの げ)、中宮亮(ちゅうぐうのすけ)に任官し、翌年には従五位上に昇叙しました。そしてこの頃から政権を握った橘諸兄の政治顧問的な役割を果たすようになります。

▼ 吉備大臣入唐絵巻

唐に渡った吉備真備の活躍を描いた絵巻に、『吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)』があります。平安後期に作られた絵巻で、全四巻です。アメリカのボストン美術館が所蔵しています。唐に渡った吉備真備が、唐の皇帝から様々な難題を押しつけられますが、それらを全て解決し、宝物を手にして帰国するという物語です。
絵巻は、吉備大臣が乗った遣唐使船が長い航海を経て唐に到着する場面から始まります。岸辺には大勢の唐の役人や軍人が遣唐使船の到着を待ち構えています。みな険しい表情で待ち構えています。
到着した吉備は馬に乗せられ連行されてしまいます。吉備は学問を修めた優れた人物との噂が高く、唐の人々は自分達が負けてしまうのではないかと恐れていたのです。そして吉備は牢屋に閉じ込められてしまいます。
その夜、吉備が閉じ込められた牢屋に恐ろしい鬼がやってきます。その気配に気付いた吉備は鬼に向かって、「お前は何者か。私は日本国王の使いである。私に会いたければ鬼の姿を正して参れ!」と言いました。すると、鬼は衣服を正して再び吉備のもとに現れました。
すると、鬼は自分の過去を話し出すのです。「実は私もかつては遣唐使でした。安倍と申します」
吉備は「おぉ、もしやあなたは安倍仲麻呂(あべの なかまろ)」
「いかにも私は安倍仲麻呂です」と鬼は言いました。安倍仲麻呂は若くして遣唐使として唐に渡りましたが、帰国することなく、唐で一生を送った人物です。歌人としても知られ、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という歌が有名です。
吉備は「なにゆえあなたはそのようなお姿に?」と問いました。鬼は、「遣唐使として唐に渡った際、この牢屋に閉じ込められて飢え死にしてしまい、鬼となってしまったのです。ところで、日本に残してきた私の子孫がどうなっているかご存知ではないですか」と鬼は尋ねました。
「あなたの子孫は出世し、安泰に暮らしておられますぞ」と吉備は答えました。
「おぉ、それは誠にうれしい!。教えて頂いたお礼に、この国のことを全てお話しいたしましょう」と、鬼は吉備に言いました。
そんな中、唐の皇帝は吉備になげかける難題を考えていました。そこで最初の難題は文選(もんぜん)を読ませることとしました。文選とは、古代中国の文学作品を集めたもので、官僚試験の科挙(かきょ)にも使われたことがある難しい書物でした。皇帝は、日本人が知るはずもない文選を読ませ、読めないことを笑ってやろうと思ったのでした。
鬼からその企みを聞いた吉備は、ある呪文をとなえます。すると吉備と鬼の体は宙に浮き、二人は牢屋を抜け出して空を飛んでいきました。宮殿に忍び込んだ二人は、博士が文選を抗議する部屋へと進み、吉備は博士が講義する文選を盗み聞きし、文選を暗記してしまうのです。そして牢屋に戻った吉備は、さっそく暗記した文選を紙に書き出し、部屋中にまき散らしたのでした。
文選を持った博士達は、馬に乗り従者を引き連れて吉備のもとへ向かいました。文選が全く読めず、大恥をかいて悔しがる吉備の顔を思い浮かべ、うすら笑いを浮かべた博士一行が吉備を閉じ込めた牢屋へ到着しました。牢屋の扉を開けた従者は驚きました。日本人が知るはずもない文選の一節を書いた紙が部屋全体に散らばっていたからです。驚いた博士が「こ、これは何ですか?」と問うと、吉備は「これは日本で文選と呼ばれるもので、誰でも暗誦できるものですよ」と答えたのでした。信じられないような顔をしている博士に対し、吉備は「日本の文選と唐の文選を比べて見たい」と言い、この貴重な文選をまんまと手に入れたのでした。
ガックリと肩を落として帰っていった博士一行でしたが、次に皇帝が考えた難題は囲碁(いご)の対戦でした。囲碁は中国で生まれたもので、吉備は当然囲碁など知りませんでした。吉備は学問はできても囲碁となれば勝ち目はないであろうと皇帝は考えたのでした。次は囲碁の対戦であることを鬼から聞いた吉備は、さっそくルールを鬼から聞いて、天井を碁盤に見立てて練習を始めたのでした。
いよいよ対戦です。相手は唐の囲碁名人です。白熱した対戦が続き、このままでは負けてしまうかもしれないと思った吉備は、スキを見て相手の碁石をひとつ飲み込んだのでした。それにより、勝負は吉備の勝ちとなったのです。
しかし、名人が負けるはずがないと思った唐の役人達は、碁石を数え始めたのです。ひとつ足りないことに気付いた役人達は、吉備が隠したと探しますが見つからず、飲み込んだのではないかと、強力な下剤を吉備に飲ませたのでした。そして便を調べましたが碁石は見つからず、囲碁対戦も吉備が制したのでした。実は、吉備は術を使って碁石を胃の中にとどめていたのでした。

絵巻はここで終わっています。実は絵巻は後世に分割されてしまうことが多く、その一部がなくなってしまう場合も多いのです。そして分割された絵巻を、元に戻そうと連結する際に、順番を間違えて張り合わせてしまっている場合も多いのです。この『吉備大臣入唐絵巻』もこれにあたります。
『吉備大臣入唐絵巻』は、後世に切り離されてバラバラになり、一部が失われてしまっています。そのうえ、その後に再度元に戻そうと貼り合わせる際に順番を間違えて貼り合わせてしまっているのです。従って物語の後半は失われてしまっており、後半に出てくるべき画面が前半部分に間違えて張られている部分もあるのです。
後半部分は失われてしまっていますが、この絵巻は平安時代の説話集である『江談抄(ごうだんしょう)』を元にしていると考えられていますので、失われている後半部分を想像することができます。それによると、
後半にはさらにふたつの対決が描かれていたと思われます。そのひとつは、日本の滅亡を予言した野馬台詩(やばたいし)を、吉備が解読できるかというものです。皇帝は結界を張り巡らせ、難解で暗号のような不吉な文章を作らせたのでした。しかし、吉備は野馬台詩も解読してしまうのです。
万策尽きた皇帝は、食べ物を与えないで吉備を飢え死にさせようとしたのでした。そこでついに吉備が反撃にでます。双六(すごろく)を使い、日月を隠す秘術で太陽と月を隠してしまったのでした。すると唐の国内は大混乱に陥りました。皇帝が博士に命じて占わせると、原因は吉備であると判明し、ついに皇帝は吉備の帰国を許したのでした。

■ 藤原広嗣の乱

吉備真備は地方豪族出身でありながら、遣唐使として唐へ渡って様々な学問、教養を身に付け帰国し、聖武天皇、光明皇后に信任されて順調に昇進し、従五位上(じゅ ごいの じょう)・右衛士督(うえじのかみ)を兼務するに至りました。そんな中、藤原不比等の三男で、天然痘で死亡した藤原四兄弟の一人である藤原宇合(ふじわらの うまかい)の長男、藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)は従五位下・式部少輔(しきぶすないのすけ/式部省次官)に任官していました。
光明皇后は、藤原不比等と県犬養三千代(あがた いぬかいの みちよ)の間に産まれた娘で、三千代は不比等とは再婚でした。初めは皇族の妻となり、葛城王(かつらぎのみこ)を産んでいます。女帝である元明天皇から橘(たちばな)の姓を与えられ、橘三千代とも呼ばれます。そして皇族と離別した後に藤原不比等の後妻となり、光明子(こうみょうし/光明皇后)を産みました。つまり、葛城王と光明皇后は、父親は違いますが、どちらも橘三千代を母としますので、異父兄妹ということになります。そしてこの葛城王が橘諸兄なのです。
藤原氏は皇室と不快つながりを持つ事により権力を拡大していったのでした。しかし、不比等もその子である藤原四兄弟も既にこの世にはなく、光明子の母は藤原氏とはつながりがない橘三千代であり、しかも三千代を母とする光明子の異父兄である橘諸兄が政治を主導する現在では、臣下である藤原氏が権力を持ちすぎることは好ましくないという考えが主流でした。
また、吉備真備と共に唐に渡った僧・玄ムは、僧正(そうじょう)に任じられていました。僧正とは、お坊さんや尼さんを統括する者です。そして聖武天皇の母・宮子の病気を祈祷(きとう)によって治したことから、聖武天皇の厚い信任を受けていました。そして橘諸兄、吉備真備、玄ムらは、反藤原派として台頭していたのでした。
こういった状況をおもしろくないと思っていた者がいました。式部少輔の藤原広嗣です。吉備真備は地方の豪族出身であり、玄ムは僧侶であるのに、不釣り合いな出世を遂げているのが気に入らないのでした。自分は絶大な権力を持っていた藤原不比等の孫であり、その子孫として政治の中枢にいるはずの者であるとでも思っていたのでしょうか。
そんな中、藤原広嗣は九州の大宰府次官である大宰少弐(だざいすないのすけ/だざいのしょうに)として赴任する事になりました。これを反藤原派の吉備真備や玄ムによる左遷(させん/低い地位に格下げする事)と思った広嗣は、吉備真備・玄ムらを排除すべく、740年九州で反乱を起こしました。これを藤原広嗣の乱と呼びます。
反乱は、朝廷が派遣した追討軍によって鎮圧され、広嗣は処刑されました。

■ 大仏造立へ

聖武天皇は、藤原広嗣の乱後に平城宮を出て、山背国(やましろのくに/京都府)の恭仁離宮(くにりきゅう)に入り、ここを都にすることを決めました。恭仁京(くにのみや/くにきょう)です。この地が選ばれたのは、橘諸兄の根拠地であったからだとも言われます。
天然痘の流行、近畿地方を襲った大地震、橘諸兄らと藤原氏の政権争い、藤原広嗣の乱など、天災や政情不安に悩んだ聖武天皇が最後に頼ったのが仏教でした。そして聖武天皇は、741年、国毎に国分寺(こくぶんじ)と、国分尼寺(こくぶんにじ)を建てよと言う、国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)を出しました。これらの寺の建立を聖武天皇に勧めたのは、光明皇后だと言われます。仏教を深く信仰した光明皇后は、病人や貧しい人々、孤児などを救うための施設を設けたりと仏教普及に大きな役割をはたしました。
また聖武天皇は、742年には近江国(滋賀県)の紫香楽村(しがらきむら)に離宮を造り、しばしば訪れました。そして恭仁宮が完成するのを待たずに紫香楽の地を都にすることに決め、743年には盧舎那大仏造立の詔(るしゃなだいぶつぞうりつのみことのり)を出し、紫香楽の地に大仏さんが造られる事になりました。
こうして天平十二年(740年)から天平十七年(745年)にかけて、聖武天皇は山背国(やましろのくに/京都府)恭仁京(くにきょう)、近江国(おうみのくに/滋賀県)紫香楽宮(しがらきのみや)、摂津国(せっつのくに/大阪府)難波宮(なにわみや)間で都を転々と変え、民衆の負担を増大させ、社会不安をあおりましたが、天平十七年(745年)に都はようやく平城宮に落ち着きました。

▼ 大仏造りは命がけ

聖武天皇の時代は、天平(てんぴょう)という年号で、これは「天下太平(てんかたいへい)」を願って付けられた名前でした。ところがこの頃には天然痘(てんねんとう)という病気が大流行し、多くの人達が亡くなりました。また近畿地方が大地震に襲われ、都には使者があふれました。そして聖武天皇と光明皇后との間に生まれた待望の男の子も、1歳の誕生日を迎える前に無くなってしまいました。
このような天変地異(てんぺんちい)が起こるのは、私の徳が足りないからだと聖武天皇は自分を責めました。悩んだ聖武天皇は、仏教にその救いを求めました。鎮護国家(ちんごこっか)という思想のもと、つまり金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)という、経文(きょうもん)を唱えてその教えを広めれば、仏教の守護神である四天王が国を守り、災難を取り除いてくれるという考えに基づいて、国毎に国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)を建てるように命じます。この国分寺の総本山が東大寺、国分尼寺の総本山が法花寺(ほっけじ)でした。
聖武天皇は渡来人がたくさん住んでいた大阪の寺を訪れた時、驚く物を見ました。それは日本には無かった金色に輝く大仏でした。そしてシルクロードぞいには金色に輝く大仏が造られている事を知り、自分も大仏を建立しようと思うようになります。そして巨大な銅の盧舎那仏(るしゃなぶつ)を造る事を命じます。その地が近江国(おうみのくに/滋賀県)紫香楽宮の近くにある甲賀寺だったのです。つまり、奈良の大仏さんは当初滋賀県に造られる予定だったのです。しかし、周辺で不審火などが多発したため、都が平城京へ戻る際に現在の東大寺に建立されることになったのです。
盧舎那仏とは、全世界をあまねく照らす仏の中の仏です。そして聖武天皇は「大仏を造る為なら国中の銅を使い果たしてもかまわない」とその意気込みを見せています。造られた当初、大仏は今よりも大きく16メートルもありました。こんなに大きな仏像を造ったのは、権力を誇示する為ではなく、日本国全土をあまねく照らして守って欲しいという願いが込められていたのです。
大仏造りは、当時の国民の半分に当たる延べ260万人が参加した国家プロジェクトとなりました。なぜこんなにたくさんの人が参加したのかと言うと、聖武天皇が「一枝の草、一握りの土くれを持って来てでも参加して欲しい。そして共に仏の功徳(くどく)を受け、悟りの境地に至ろうではないか。私の知識となってこの事業に協力して欲しい」と呼びかけたからなのです。
知識(ちしき)とは、ある事業に対して自分から参加したいという意識を持って参加する人、つまりボランティアの事です。京都の醍醐寺(だいごじ)に、大仏造りに知識として参加した人達の名簿が残っています。聖武天皇の呼びかけに、大人から子供まで、若者から年寄りまで、男性女性を問わず、材木を運搬した人、銅などの鉱物を提供、運搬した人、提供する物が無い代わりに労働力を提供した人など延べ260万人の名前が記録されています。
大仏はおよそ次のような手順で造られたと考えられます。
1.まずは原寸大の原型を作ります。木材で大仏の骨組みを造り、その骨組みに縄や植物の蔓(つる)などを使って編み込むようにしてカゴを作る要領で大仏の形を作ります。
2.その上に粘土を塗り重ねていき、粘土の等身大の大仏を作ります。この時大仏の細かい部分まで作っておかなければなりません。これが銅を流し込んで作る際の原型となるからです。
3.原型となる粘土の大仏が充分に乾燥したら、この原型に再び粘土を塗り重ねて外枠(そとわく)を作ります。大仏の形を取る作業です。外枠の粘土を塗る前に、原型とくっついてしまわないように雲母(うんも)の粉を振りかけたりしておきます。
雲母は花崗岩(かこうがん)などに含まれていて、耐火性に優れ、電気も通しにくいという性質があります。現在でもゴムや陶器の離型剤として使われていて、白雲母は透明なため、ストーブの火の確認窓などにも使われています。また雲母は「きらら」・「きら」などとも呼ばれ、キラキラと光沢感がありますので、有名な物では写楽の浮世絵の背景にも使われており、「雲母刷(きらずり)」と呼ばれます。
4.外枠が固まったらこれをはずします。大きいので分割して外し、後でくっつけて焼くとくっつきます。これで原型の型が取れました。
5.次に原型を一定の厚みで削っていきます。つまり原型を一回り小さくする感じです。そして削り終わった原型に外枠をかぶせます。すると、原型を削った厚み分外枠との間にすき間ができます。このすき間に銅を流し込んで銅製の大仏を作るのです。つまり原型と外枠のすき間は、銅製の大仏の厚みとなる訳です。
しかし大仏の高さは16メートルもあったので、外枠を作る作業、銅を流し込む作業は8回に分けて2年がかりで行われました。これが大変な作業で、大仏の高さ16メートルを単純に8で割ると2メートルとなり、2メートル分ずつ外枠を作っていきます。
まず一番下の第1段階部分の外枠を作ります。できあがったら外枠の高さ(2メートル)まで土で埋め、その上に銅を溶かす為の炉を築き、そして溶かした銅を外枠と原型とのすき間に流し込みます。同じように2段階目の外枠を作り、またその外枠の高さまで土で埋めます。ここで、地面から4メートルの高さまで大仏は土で埋められた状態になっています。この作業を8回繰り返していくのですが、高くなればなるほど危険が増し、炉がひっくり返ったりして大勢の人達が犠牲になりました。銅を流し込む作業が終わると、埋めた土を取り除き、外枠を外すと大仏さんが現れるのです。
この大仏造りは、順調には進みませんでした。ある程度出来たと思ったら地震が起きて崩れてしまい、また作り直すと火事が起きて焼けてしまうと言ったような事が起こり、知識達もほとほと疲れ切ってしまい、やる気を無くして工事を中断してしまいました。しかし、皆は驚きました。聖武天皇自ら袖に土を入れて、泥まみれになって土を運び始めたのです。それを見て知識達も立ち上がり、工事が進められたと伝わっています。
752年、完成した大仏の開眼供養(かいげんくよう/新しい仏像に魂を入れる儀式)が行われましたが、大仏全体に施す予定であった金メッキは間に合わず、頭部分のみに施されていました。また大仏殿も完成してはいませんでしたが、一説には光明皇后が開催を急がせたと伝わっています。聖武天皇の調子が良くなかったからです。開眼供養には、中国や朝鮮半島、インドなどから10,000人もの僧侶が招かれ、盛大に行われました。
大仏殿は江戸時代の再建時に縮小されましたが、当初は今の1.5倍もあり、七重の塔(高さ100メートル)が2塔も立っていました。そして大仏、四天王像など7体の巨大な仏像が収められていたと言われています。四天王像は12メートルあり、土で造られ極彩色が施されていました。そして大仏は前身に金メッキが施され、大仏殿の内部は極彩色で、目もくらむ様な光景であったようです。
大仏・大仏殿は、1181年に平重衡(たいらの しげひら/清盛の子)ら平家軍が清盛の命で奈良の東大寺などを焼き討ちにした際に消失しましたが、大仏は4年後に、大仏殿は鎌倉時代の1195年に再興されました。しかし、戦国時代の1567年、松永久秀(まつなが ひさひで)らが東大寺周辺で起こした戦いで大仏殿は焼失してしまいました。戦国時代であった為再興は進まず、仮に造られていた大仏殿は慶長15年(1610年)の台風で倒壊し、大仏は頭が落ちてしまい首無しの姿で雨ざらしという無残な姿になってしまいました。大仏が再興したのは元禄4年(1691年)、大仏殿が再興したのは宝永6年(1709年)の事で、これが現存しているものです。
頭部は江戸時代、体は大部分が鎌倉時代から室町時代、胸の部分は戦国時代に修理されたものとなっていますが、台座や両袖、太股(ふともも)などに、一部天平時代の部分も残っています。台座の蓮(はす)の花びらに細い線で描かれた画像も天平時代のものです。奈良の大仏は、度重なる天災や火災、戦乱による消失にもかかわらず、その度に再興されてきました。これは聖武天皇や光明皇后が全国民が平和に暮らせるよう願った思いと、それに協力してきた知識達の願いがこめられていたからではないでしょうか。

▼ 行基

奈良時代の僧侶に行基(ぎょうき)がいます。和泉国大鳥郡(大阪府堺市)に産まれ、社会事業に尽力した僧侶です。
大宝律令によって律令が整備されると、班田収授によって農民に様々な税が課せられ、その負担の大きさに農地を放棄して逃亡する者も少なくありませんでした。そんな社会不安が広がる中、行基は民衆に仏教の教えを説いて回りました。仏教により民衆の不安を取り除こうとしたのです。
しかし、律令制においては僧侶は国家公務員であり、仏教は公のものであって民衆に布教してはならないと定められていました。養老元年(717年)、元正天皇は行基は法に反して民衆に仏教を布教し、民衆を先導する危険人物として、行基の行動を取り締まるべく詔(みことのり)を発し、その活動を弾圧しました。
しかし、行基は学んだ土木技術を元に、各地を回って貯水池としての池を掘ったり、道を作ったり、橋をかけたりしました。また税として徴収された庸(よう)・調(ちょう)などは、税を負担する農民自らが都まで運ばなければならず、その往復の道中での食事は自己負担でした。従って充分な食料を持参できず、帰る道中で餓死する者が多発していました。行基はこういった人達を救うために、彼らを収容して食事を与える布施屋(ふせや)を各地に作りました。
行基はこういった民衆のための社会事業を行いながら布教したため、その教えは各地で民間に広まり、行基の信者は730年頃には1,000人を越えていたとも言われます。こういったことから、731年聖武天皇は行基に対する弾圧をやめ、行基の信者のうち老人に限って僧や尼となることを許しました。
このような中、新たな災害が日本を襲いました。天然痘という病気が大流行したのです。海外から伝染した天然痘は、735年に大宰府(だざいふ)に始まり、737年には畿内(きない)・都にも広まり、藤原四兄弟をはじめ、朝廷の最高幹部である公卿(くぎょう)のほとんどが病死し、死者の数はおびただしい数に上りました。
こういった状況を打開すべく、最終的に仏教に頼った聖武天皇は大仏さんの建立を決めるのですが、その勧進(かんじん)に行基が起用されたのです。勧進とは、寺社の修復や建立などに際し、その必要性を広く民衆に説いて、募金を集める行為です。行基の民衆に対する絶大な影響力を考慮してのことでした。
天平十七年(745年)、行基は78歳で大僧正(だいそうじょう)に任ぜられ、仏教界の最高位に昇り詰めました。この大僧正に任ぜられたのは行基が最初でした。そして行基は大仏さんが完成するのを待たずに82歳で亡くなりました。

■ 墾田永年私財法

百万町歩開墾計画や三世一身法で思ったほど開墾が進まない中、聖武天皇は743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)を出しました。これは国司に許可を得て、自らが墾田した土地は永久に私有地とする事を認めた法で、その私有出来る土地の広さは身分(位階)によって定められていました。貴族は100町歩から最高で500町歩、親王は300町歩から500町歩まで、庶民は10町歩までとされました。この時代の1町歩は3,600坪(つぼ)ですから、最低の10町歩でもサッカーフィールド約18個分の広さになります。
しかし、これにより私有地を増やしていったのは、貴族や有力豪族、寺社などでした。これもやはり灌漑施設を新たに設ける事が条件でしたので、一般農民にそんな力はありませんでした。また百万町歩開墾計画は農民を使って開墾させるものでしたから、さらに農民の負担が増える事となり、重い負担に逃げ出す者は減りませんでした。
逃げ出した農民達を浮浪人(ふろうにん)と呼び、貴族や有力豪族、寺社などはこれら浮浪人達や周辺の農民を使って開墾を進め、私有地を獲得していきました。これが後に荘園(しょうえん)と呼ばれるようになる土地所有の形態の始まりで、これを初期荘園(しょきしょうえん)と呼びます。
これらの私領は畿内周辺や東北地方が中心でした。貴族や有力寺社は奈良に居ますので、現地には管理人を置きました。そしてその私領で働く農民には収穫した中から賃金が支払われ、朝廷にも祖を支払いました。残りはその私領の持ち主、つまりは貴族や有力寺社の物となるのですが、それら残りの収穫物を奈良まで運んでこなければなりません。その費用もかかるので畿内周辺などに初期荘園が多く作られました。
朝廷は東大寺の大仏が完成すると、東大寺に4,000町歩もの広大な土地の開墾を認め、その他の寺にも1,000町歩、2,000町歩といった土地の開墾を認めました。これら墾田永年私財法によって得た私有地は、この時点では完全な私有地ではなく、班田収授で農民が貸し与えられた田地と同じく税である祖を国司に納めなければならず、その一部は朝廷の収入となりましたので、開墾地が増えることは朝廷にとっても税収増加となってよろこばしいことだったのです。
ところが、律令制では公地公民、すなわち土地と人民は天皇のものという原則の上に成り立っていましたので、この原則を中央自らが崩したことが律令制の崩壊への一歩となり、やがてこういった荘園も朝廷の力が及ばない完全な私有地と化していくのです。

− 藤原仲麻呂 −

聖武天皇と光明皇后との間に産まれた待望の男の子は、1年も経たずに亡くなってしまい、聖武天皇の夫人である県犬養広刀自(あがたのいぬかいの ひろとじ)との間に産まれた、安積親王(あさかしんのう)が唯一の男子でした。安積親王は皇太子の最有力候補でしたが、738年、光明皇后との間に産まれた阿倍内親王(あべないしんのう)が女性として皇太子となりました。
この時期、頭角を現してきたのが藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)です。仲麻呂は、天然痘で死亡した藤原四兄弟の長男・武智麻呂(むちまろ)の次男です。また、光明皇后は藤原四兄弟の異母姉妹ですので、仲麻呂は光明皇后の甥(おい)にあたります。仲麻呂は光明皇后の信任厚く順調に昇進し、天平十五年(743年)、参議(さんぎ)となり、朝廷の最高幹部である公卿(くぎょう)に列し、政治に直接関与する立場となりました。
そんな中、阿倍内親王が皇太子となったことに不満を持つ者がいました。従一位(じゅ いちい)、左大臣の橘諸兄とその息子・橘奈良麻呂(たちばなの ならまろ)親子です。安積親王は有力な皇太子候補でしたが、女性の阿倍内親王が皇太子となりました。これは異例なことでした。安積親王の母は県犬養広刀自ですが、県犬養氏(あがたいぬかいうじ)と言えば、橘諸兄の母も県犬養氏(県犬養三千代)でした。つまり橘諸兄と安積親王の母は同族なのです。
藤原氏の台頭を快く思わない橘諸兄は、藤原不比等の娘である持統天皇の娘・阿倍内親王よりも、安積親王が皇太子となることを望んでいたのです。ところが、藤原仲麻呂が参議となった翌年、安積親王が急死してしまいました。仲麻呂にすれば、反藤原氏である橘諸兄と同族の安積親王は邪魔者だったに違いありません。そこで安積親王は仲麻呂に毒殺されたのだとも言われます。
同じ時期、橘奈良麻呂は小野東人(おのの あずまひと)と謀反の計画を立て、佐伯全成(さえきの またなり)にもちかけました。その計画とは、皇太子となった阿倍内親王を廃止、代わりに黄文王(きぶみおう)を据えるというものでした。黄文王は、長屋王の子で、他の子達は長屋王の変で処罰されましたが、黄文王は藤原不比等の娘との間に産まれた子であったため、難を逃れたのでした。
また小野東人は、左兵衛率(さひょうえのかみ)を務めていましたが、藤原広嗣の乱に加担し、伊豆国に配流(はいる/島流し)となっていた者です。そして佐伯全成は軍事氏族で、陸奥国(むつのくに/福島、宮城、岩手、秋田北東部、青森)の国司を務めていた人物です。しかし、この謀反の計画は、佐伯全成が拒否したため実行されることはありませんでした。
奈良麻呂が謀反の計画を練り、藤原仲麻呂の台頭を抑えようとしている中、天平十八年(746年)、仲麻呂は式部卿(しきぶのかみ/式部省長官)となり、役人の人事を握る立場となりました。そして天平二十年(748年)には正三位(しょう さんみ)に叙され、その人事権を使って反藤原氏勢力の排除に取りかかり、その筆頭である従一位・左大臣の橘諸兄と対立するようになるのです。

■ 吉備真備の左遷と鑑真

天平勝宝元年(749年)、聖武天皇は娘である阿倍内親王に譲位(じょうい/天皇の座を譲る事)し、孝謙天皇(こうけんてんのう)が誕生しました。聖武天皇が孝謙天皇に与えた宿題は、さらなる仏教の普及とふさわしい後継者に皇位を継承する事でした。光明皇后との間にはもう男子はおらず、孝謙天皇も未婚であったため、天皇の座を継承するにふさわしい人選を託したのでした。孝謙天皇は、与えられた課題に向け真面目に取り組みましたが、中継ぎとしての女帝を認めない貴族達もいたのです。
一方、藤原仲麻呂は叔母(おば)の光明皇太后(こうたいごう)の信任を受け、参議、式部卿(しきぶのかみ)兼務であったのが、749年参議から中納言(ちゅうなごん)を飛び越して大納言(だいなごん)に任ぜられました。大納言は太政官(だいじょうかん/朝廷の中枢)の次官にあたります。つまり大臣の下であり、いよいよ左大臣・橘諸兄に近づいてきたのです。
注) 皇太后とは、前天皇の皇后の称号で、この時点では聖武天皇は譲位して前天皇となっていますので、光明皇后は皇太后となります。
さらに翌月には、皇后の家政機関であった皇后宮職(こうごうきゅうしき)という役所を、紫微中台(しびちゅうだい)と唐風に改称し、仲麻呂はその長官に任ぜられました。家政機関とは、家政婦という言葉があるように、身の回りの世話や秘書的な役目を果たす機関です。しかしその権限は次第に大きくなり、朝廷の最高機関である太政官をもしのぐほどになっていきます。さらに中衛府大将(ちゅうえふのかみ/ちゅうえふのだいしょう)も兼務となりました。中衛府とは、天皇の身辺警護を任務とする、いわば天皇の親衛隊です。これにより、仲麻呂は政治と軍事の両方を手中にしたことになり、その権力は絶大なものとなっていきました。
こうした藤原仲麻呂の急速な台頭に危機感を覚えた橘奈良麻呂は、再び佐伯全成に謀反の計画をもちかけたのです。しかし、全成はまたこれを拒絶したため、またもや計画は実行されることはありませんでした。
ところで、遣唐留学生として唐に渡り、学問や兵学、音楽や暦学など様々な知識を会得して帰国した吉備真備は、聖武天皇や光明皇后の信任厚く、地方豪族出身でありながら破格の昇進を果たし、阿倍内親王(即位前の孝謙天皇)の家庭教師を務めるほどになっていました。そして天平十五年(743年)には従四位下(じゅ しいの げ)、春宮大夫(とうぐうのかみ/とうぐうのだいぶ)となりました。春宮坊(とうぐうぼう)は皇太子の家政機関で、大夫は長官のことです。そして天平十九年(747年)には右京大夫(うきょうのかみ/うきょうのだいぶ)にまで昇り詰めました。
平城京は右京・左京に分かれ、それぞれに四等官が置かれました。右京大夫は右京の長官であり、現在の東京都知事のようなものです。当時は血筋が物を言い、いくら才能があろうと地方豪族出身者が貴族となることはかなわず、能力が無くても血筋が良い家に生まれれば、そこそこの地位まで昇れたのです。このような情勢の中、地方豪族出身の吉備真備が、貴族となり特別行政区域である平城京の長官になるというのは全く異例で、破格の出世だったのです。
しかし、頭角を現してきた藤原仲麻呂の、反藤原氏派の排除が始まるのです。仲麻呂は光明皇太后、孝謙天皇の信任を背景に、次第に専横(せんおう/やりたい放題)な態度をとるようになり、自分にとって邪魔な有力人物を、策略やその力を以て排除していくのです。これを他氏排斥(たしはいせき)と言いますが、これから平安時代を通じて藤原氏の執拗な(しつような/しつこい)他氏排斥が続くのです。
その手始めとして、橘諸兄の右腕として活躍していた吉備真備がターゲットとなりました。阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると、天平勝宝二年(750年)、吉備真備は筑前守(ちくぜんのかみ)、ついで肥前守(ひぜんのかみ)に左遷(させん)されたのです。さらに天平勝宝四年(752年)には、遣唐副使として再び唐に向かわされたのです。
遣唐使に選ばれることは名誉なことでしたが、当時の航海術や船では命がけの旅でした。無事唐に到着できる保証はなく、多くの船が途中で難破して多くの遣唐使は命を失いました。また無事に唐に到着したとしても、無事に帰国できないことも多かったのです。こういった事情を利用して、仲麻呂は吉備真備を遣唐副使といった名誉ある任務として有無をいわさず唐へ渡らせ、途中で事故で死んでくれれば自ら手を下さずとも、吉備真備を排除できると考えたのです。
ところが、吉備真備は無事に唐へ渡り、そこで一回目に一緒に唐へ渡った阿倍仲麻呂(あべの なかまろ)と再開するのです。先に紹介した、吉備真備が唐で皇帝の難題を全て解決し、宝物を持って帰国する物語を描いた、『吉備大臣入唐絵巻』は、この二回目の入唐で阿倍仲麻呂に再会した時を題材としていたのです。
入唐した翌年には、吉備真備は鑑真(がんじん)を伴って帰国し、正四位下(しょう しいの げ)に叙され、大宰少弐(だざいすないのすけ/だざいのしょうに)に任命されました。これは九州の大宰府(だざいふ)の次官です。大宰府は「遠の朝廷」とも言われた地方特別行政区域で、その役割から地方官としては破格の待遇を受け、大きな権限も持っていました。しかし、地方豪族出身でありながら、中央でその才能から頭角を現した吉備真備は、産まれながらの貴族である仲麻呂にとっては邪魔な人物でした。そこで4年振りに中央へ戻って来た吉備真備を、また地方官へと追いやったのでした。

▼ 鑑真

鑑真(がんじん)は唐の僧侶です。仏教は飛鳥時代には聖徳太子によって取り入れられましたが、仏教では僧や尼さんが遵守すべき戒律(かいりつ)というものがあり、それを守ることを誓う授戒(じゅかい)という儀式を受けることによって、正式な僧尼と認められたのです。
しかし、当初日本では自己申告というか、自分で出家したと宣言するだけの者がほとんどで、授戒の儀式はおこなわれておらず、またこの儀式を行うことができる伝戒師もいませんでした。そこで伝戒師を招来すべく、日本から榮叡(ようえい)、普照(ふしょう)の二人の僧侶が唐へ渡りました。そして10年経ってようやく鑑真に会うことができました。鑑真は戒律を学び伝える宗派である律宗の継承者であり、数多くの者に授戒の儀式を行っていた著名な僧侶でした。
鑑真は二人の要請を受け、日本へ渡ってくれる弟子はいないかと問いかけましたが、危険を冒してまで日本へ渡ろうという者は一人もいませんでした。そこで鑑真自身が日本へ行くことを決めると、21人の弟子も同行すると名乗り出たのでした。しかし、いざ出航となると、やっぱり危険を冒してまで日本などへ行きたくないという弟子達による妨害や、日本から来た僧は海賊であるなどといった密告、難破や漂流などによって5度も失敗に終わり、12年もの月日を経てようやく日本へと渡ることができたのでした。しかし、その間に榮叡は亡くなってしまい、鑑真自身も視力を失ってしまいました。この旅で亡くなった者は36人、途中で鑑真の元から逃げ去った者200余人にのぼったと言われます。
鑑真一行は、天平勝宝五年(753年)、薩摩国(さつまのくに/鹿児島県)に到着し、翌年平城京へ入りました。聖武上皇により授戒伝導の委任を受け、上皇自ら東大寺大仏の前で授戒の儀式を受けました。ここに日本における授戒の儀式が始まったのでした。その後、鑑真に与えられていた皇族(新田部親王/にいたべしんのう)の屋敷跡を唐招提寺とし、戒律研鑽(けんさん/深く研究すること)の道場とされました。
現在では中国からやって来る人や物にはろくな物はありませんが、昔は中国にも鑑真のような立派な人もいたのです。

■ 橘奈良麻呂の乱

光明皇太后やその娘・孝謙天皇の信任厚い藤原仲麻呂が台頭する中、政界トップの座にある左大臣・橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなの ならまろ)は、正四位下(しょう しいの げ)、参議となり、直接政治に参加する立場となっていました。
天平勝宝七年(755年)二月、聖武上皇が病気で伏せていた際、お酒の席で橘諸兄が上皇に対して礼を失した発言をしたという密告があり、上皇はこれを許しましたが橘諸兄はそれを恥じ、翌年辞職する事になってしまいました。18年もの長きに渡り政界のトップの座にいた諸兄でしたが、ついにその政治生命を終えたのでした。
諸兄が辞職した756年、聖武上皇のお見舞いとして陸奥国守(むつのかみ)・佐伯全成が黄金を携えて上京してきました。佐伯全成は、阿倍内親王(後の孝謙天皇)を廃し、黄文王を皇太子に据えようという謀反の計画を、橘奈良麻呂から二度ももちかけられたあの佐伯全成です。謀反の計画は二度とも佐伯全成に拒絶されたため、謀反の計画は実行されませんでしたが、奈良麻呂はまたもや上京して来た佐伯全成に謀反の計画をもちかけたのです。
佐伯全成は、奈良の大仏さんに施す金メッキに必要な黄金を陸奥国の国司が献上したことから、天平勝宝元年(749年)に陸奥介(むつのすけ)として従五位上に叙位されました。また752年の大仏開眼会では、軍事氏族の一員として大伴伯麻呂(おおともの おじまろ)と共に久米舞(くめまい)の舞頭を務め、その後に陸奥守(むつのかみ)に任ぜられたのです。なお久米舞とは、武人が剣を持って舞う舞踏です。
佐伯全成に三度目の謀反計画参加を促した際、奈良麻呂は、左大弁(さだいべん)・大伴古麻呂(おおともの こまろ)にも謀反の計画をもちかけていました。大伴氏(おおともうじ)も軍事氏族ですので、この両氏をもってすれば計画は成ると考えていたのです。しかし、佐伯、大伴両氏に拒絶されたのでした。
天平勝宝八年(756年)五月、聖武上皇が亡くなりました。その遺言により、道祖王(ふなどおう)が皇太子とされました。道祖王は舎人親王の子で、天武天皇の孫にあたります。そして天平勝宝九年(757年)一月、酒の席での失言により失意の上に辞職した橘諸兄が亡くなりました。
ところが、翌年の天平宝字元年(757年)四月、孝謙天皇により道祖王は皇太子を廃されてしまいました。その理由は、聖武上皇の喪中にも関わらず、道祖王が淫らな行為をしたとか、いくつかの道祖王の素行の悪さを挙げています。何か一方的ないいがかりのようにも思えますが、道祖王は皇太子を廃されてしまいました。
そこで右大臣の藤原豊成(ふじわらの とよなり)と、中納言の藤原永手(ふじわらの ながて)は、道祖王の兄である塩焼王(しおやきおう)を新しい皇太子として推しました。しかし、孝謙天皇はこれも退けたのです。以前、塩焼王が聖武上皇に無礼を咎められた(とがめられた)ことが原因だと言われます。
塩焼王が中務卿(なかつかさのかみ/なかつかさきょう)を務めていた、天平十四年(742年)十月、塩焼王は女嬬(にょじゅ)4人と共に捕らえられ、伊豆国三嶋に3年間配流されていたことがあるのです。これが何の罪によるかは分かりませんが、女嬬と共に捕らえられているのが気になります。女嬬は天皇の家政機関、つまり身の回りの一切を取り扱う役所である後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)のひとつ、内侍司(ないしのつかさ)で働く女官ですから、何か皇位継承などに関わる問題を起こしたのかもしれません。
なお藤原豊成は、天然痘で死亡した藤原四兄弟の長男で、藤原南家(なんけ)の祖である武智麻呂(むちまろ)の長男で、仲麻呂の実の兄です。また、藤原永手は藤原四兄弟の次男で、藤原北家(ほっけ)の祖である房前(ふささき)の次男です。従って、豊成・仲麻呂と永手は従兄弟(いとこ)同士ということになります。
道祖王が皇太子を廃され、塩焼王を推す声も退けられ、仲麻呂が推す大炊王(おおいおう/後の淳仁天皇)が皇太子とされたのです。そして同年五月には、大宝律令が廃され、仲麻呂の祖父・不比等が主となって編纂した養老律令(ようろうりつりょう)が施行されました。
そんな中、天平宝字元年(757年)六月、紫微中台(しびちゅうだい)が紫微内相(しびないしょう)と改称されました。紫微中台は、仲麻呂が光明皇太后の家政機関であった皇后宮職を唐風に改称したものでしたが、仲麻呂はその長官に任命され、この官職の長官は大納言待遇とされました。大納言は、朝廷の最高機関である太政官(だいじょうかん)の次官であり、左右大臣に次ぐ地位でした。また家政機関とは身の回りの世話を行う秘書的なものですが、聖武上皇が亡くなると、光明皇太后の命令を発する機関としてその権限が次第に大きくなっていったのでした。そして紫微内相と改称されると、その長官は大臣待遇とされ、太政官や中務省を通さずに、直接天皇の命令を発する権限を持つようになり、事実上の朝廷の最高機関となったのでした。そして仲麻呂はその長官に任命され、ついに政界トップの座についたのでした。
同月、山背王(やましろおう)から、孝謙天皇に密告がありました。それは、橘奈良麻呂らが謀反を計画し、兵を挙げて藤原仲麻呂の屋敷を取り囲もうとしているというものでした。山背王は長屋王の子で、奈良麻呂に祭り上げられた黄文王とは同母の兄弟となります。長屋王の変では長屋王の正室やその子ら多くが処罰されましたが、黄文王と同じく藤原不比等の娘を母に持つ山背王は処分を免れたのでした。
密告を受けた孝謙天皇は、謀反を起こそうと企む者があるとの噂があるが、みな逆心など持たずに朝廷に従うよう、命令を下しました。
すると、中衛府(ちゅうえふ)の舎人(とねり)である、上道斐太都(かみつみちの ひたつ)が藤原仲麻呂邸にやってきました。そして備前守(びぜんのかみ)・小野東人(おのの あずまひと)に、謀反への参加を持ちかけられたと密告したのです。この謀反への参加を持ちかけたという小野東人は、橘奈良麻呂と共に謀反の計画を立て、佐伯全成に持ちかけたあの小野東人です。この小野東人は、藤原広嗣の乱にも加担したとされ、伊豆国に配流となっていた者なのですが、後に許されて従五位上(じゅ ごいの じょう)に叙され、備前守(びぜんのかみ)となっていたのです。
仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告するとともに、小野東人を捕らえ、取り調べさせました。取り調べにあたったのは右大臣の藤原豊成と、中納言の藤原永手でした。皇太子を廃された道祖王の替わりに、その兄の塩焼王を推していたあの二人です。
捕らえられ、尋問を受けた小野東人でしたが、東人は事実無根と無実を主張したのでした。ところが、取り調べに当たっていた右大臣・藤原豊成の三男・乙縄(おとただ)が、普段から奈良麻呂と親しくしていたということから、今回の謀反計画に加担していたのではないかと疑われ、乙縄は日向掾(ひゅうがのじょう/宮崎県と鹿児島県の一部の国司三等官)に、父である豊成も連座して大宰帥(だざいのかみ/だざいのそち/大宰府長官)に左遷されることになったのでした。大宰府は「遠の朝廷」とも言われ、その待遇は地方官としては破格なものでしたが、右大臣の豊成は定員外、つまりは既に長官がいるにも関わらず赴任するのですから、これは左遷以外の何物でもありませんでした。
藤原永手が主となって再び尋問を始め、小野東人を拷問にかけると、東人はとうとう自白したのでした。自白の内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王(あすかべおう)、黄文王(きぶみおう)らが組みして兵を挙げ、藤原仲麻呂を殺害し、仲麻呂が推して皇太子となった大炊王(おおいおう)を廃し、光明皇太后の宮から駅鈴(えきれい/少納言参照)と御璽(ぎょじ)を奪い、孝謙天皇を廃し、塩焼王(しおやきおう)、道祖王(ふなどおう)、安宿王、黄文王の中から次期天皇を立てるというものでした。
7月4日、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、道祖王、黄文王らは捕らえられ、藤原永手による尋問が行われると、みな謀反を企んだことを認めたのでした。そして杖(つえ)による全身を打たれる拷問により、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、小野東人、道祖王、黄文王らは絶命したのでした。
杖による拷問で命を落とした道祖王は、聖武上皇の遺言により孝謙天皇の皇太子とされていましたが、上皇が亡くなると孝謙天皇により皇太子を廃されました。その裏には仲麻呂の影がありました。仲麻呂が推した大炊王が代わりに皇太子とされたからです。そして謀反に加担したと名前が挙がった塩焼王は、道祖王の兄なのです。つまり兄弟で謀反計画に加担したとされたのでした。
塩焼王、道祖王はともに新田部親王(にいたべしんのう)の子です。新田部親王は天武天皇の子で、長屋王の項で解説しましたが、知太政官事、つまりは太政大臣に任ぜられた異母兄弟の舎人親王とともに、新田部親王は中央の軍事組織を統轄する知五衛及授刀舎人事として、皇族に政権を取り戻すべく働き、また天武天皇の子孫として重要視されていた人物でした。しかし、天平七年(735ねん)、新田部親王、舎人親王は相次いで亡くなりました。ちなみに、新田部親王の屋敷跡が鑑真の唐招提寺となっています。
朝廷内で重要視されていた、天武天皇の皇子である舎人親王、新田部親王が亡くなると、注目はその子達に注がれます。その子達も天皇候補になり得ますし、少なくとも朝廷内で重要視されるべき人物となるからです。そして新田部親王の子が塩焼王、道祖王です。そして舎人親王の子が、仲麻呂の後押しによって皇太子となった大炊王なのです。実は大炊王は、まだ幼い時に父・舎人親王が亡くなってしまい、七男であったこともあり、官位も与えられないでいました。仲麻呂は自分の息子の未亡人を大炊王の妻とし、自分の屋敷に住まわせていたのです。つまり大炊王は仲麻呂の養子同然だったのです。
道祖王は拷問により命を落としましたが、兄の塩焼王は謀反計画に加担したという直接的な証拠がなかったため、臣籍降下(しんせきこうか)され、氷上真人(ひかみのまひと)という氏姓を与えられ、氷上真人塩焼と改名することで許されました。これで新田部親王の後裔は政界から排除されました。
安宿王、黄文王、山背王はみな長屋王の子で、彼らもやはり仲麻呂にとっては邪魔者でした。黄文王は杖による殴打で命を落とし、兄の安宿王は佐渡島に配流となりました。山背王は謀反の計画ありとして、仲麻呂に密告した褒美として昇叙しましたが、10年ほど後に亡くなります。
奈良麻呂から三度も謀反計画への参加を求められ、全てを拒否した佐伯全成は、謀反計画に参加したわけではありませんでしたが、全てを供述した後に自害しました。
このように、謀反の計画に関わったとされ、処分された貴族や皇族は443人に昇り、仲麻呂は自分に敵対する者、邪魔な者を一掃することに成功したのでした。

■ 藤原仲麻呂の乱

信頼していた皇族や貴族達が、このようなクーデターを起こそうとしていた事に孝謙天皇は非常にショックを受けました。そして天平宝字二年(758年)、失意のうちに孝謙天皇は大炊王(おおいおう)に譲位(じょうい/天皇の座を譲ること)し、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が誕生しました。この譲位も、仲麻呂が要求したものと思われ、このあたりから孝謙上皇と仲麻呂が不和になっていくのです。そして孝謙上皇は、父・聖武天皇から与えられていた授刀舎人(じゅとうのとねり)を、強化して授刀衛(じゅとうえい)として、自衛のために軍事力を強化したのでした。
大炊王(淳仁天皇)は、天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)の7男でした。しかし幼少の頃に父である舎人親王が亡くなってしまったために官位も与えられていませんでした。そして仲麻呂は大炊王を自分の息子の未亡人と結婚させ、養子として自らの屋敷に住まわせていたのです。つまり仲麻呂は、自分の思い通りになる大炊王を皇太子とするよう、孝謙天皇に強く推したのでした。
淳仁天皇は仲麻呂の操り人形であったため、自らはほとんど決裁せず、政務は仲麻呂に任せっきりとなりました。また同年、仲麻呂は唐風の政治を推進し、太政官を乾政官(けんせいかん)とするなど、官職名なども唐風に改称し、自らも唐風に恵美押勝(えみの おしかつ)と改名しました。そして仲麻呂は大保(たいほ/右大臣)に任ぜられたのでした。
天平宝字四年(760年)、仲麻呂は太師(たいし/太政大臣)に任じられ、ついに政界のトップの座についたのでした。また、皇族以外が太政大臣に任じられたのはこれが初めてでした。しかし、同年に光明皇太后が亡くなりました。仲麻呂にとっては最大の後ろ盾(うしろだて)であった皇太后の死去は、大きな痛手となりました。
天平宝字五年(761年)、都は平城宮から近江国の保良宮(ほらのみや)に移されました。平城宮の改築のためという理由でしたが、実は近江国は藤原氏の強い勢力下にあったのです。仲麻呂はそこへ都を移し、後ろ盾を失った勢力の挽回を図ろうとしたのでした。
この頃から、仲麻呂の言いなりで天皇としての務めを果たさない淳仁天皇と、孝謙上皇は対立するようになります。ある日、淳仁天皇は自分の亡くなった父親(舎人親王)に、天皇の尊号を贈りたいと孝謙上皇に言いました。しかし孝謙上皇は、
「自分を天皇にしてもらった恩に報いる(むくいる)事が出来ていないのに、父母兄弟までもが恩恵を受けようとするのは恐れ多いとは思いませんか」
とその申し出を退けました。これ以来、天皇と上皇の関係は悪化していきました。
やがて孝謙上皇は病気がちになり床(とこ)に伏せるようになりました。そんな上皇を看病したのは、道鏡(どうきょう)と言う僧でした。道鏡は東大寺で仏教を学び、サンスクリット語(インドの言葉)にも長け(たけ)、大陸の最新学問を学んだ僧でした。そして当時は宮中の医療には、僧があたっていたのです。優秀な僧は最新の科学や技術を学んだ科学者・医師でもあったのです。道鏡による熱心な看病を受けた孝謙上皇は、次第に道鏡を寵愛(ちょうあい/特別に大事にして愛する事)するようになり、次第に2人の男女関係が噂(うわさ)されるようになると、二人は非難の的となりました。
注) 僧が医師をも務めていた訳ですが、この時代の医療は祈祷(きとう/お祈り)が中心でしたので、現在のような治療といった医療ではありませんでした。
一方、政界のトップとして栄華を極めた藤原仲麻呂でしたが、後ろ盾(うしろだて)であった光明皇太后が死去し、孝謙上皇が道鏡を寵愛し始めると、うかうかとはしていられませんでした。トップの座を道鏡に奪われてしまうかも知れないからです。そこで仲麻呂は、淳仁天皇を通じて道鏡との関係を咎め(とがめ/間違った事をした人を注意する事)させました。
天平宝字六年(762年)五月、一年足らずで都は再び平城京へ戻されました。このような中、しつこく道鏡との関係を責める淳仁天皇に、孝謙天皇の怒りが爆発しました。孝謙上皇は宮殿を出て、母である光明皇太后が建立した尼寺の総本山・法花寺(ほっけじ)に入り、尼になったのです。そして淳仁天皇を批判し、
「私が新しく建てた天皇なのに、私に恭しく(うやうやしく)従う事がない。暴言を吐き無礼を働いた。祭礼など小さいことは今の天皇が行い、国家の大事と賞罰は私が行う」
と、詔(みことのり/命令)を出したのです。
これにより、これまで仲麻呂に反感を持っていた者達が上皇側に集まりました。仲麻呂は、その権力を使った強引な人事などにより、同族の藤原氏からも反感を買っており、これを機に反仲麻呂派が集結していくのです。
ところで、橘諸兄の右腕として活躍し、仲麻呂の他氏排斥によって地方国司に左遷され、その後に再度遣唐使として唐へ派遣され、やっと帰国したと思えば九州の大宰府へと追いやられていた吉備真備は、ようやく地方官の生活を終え、天平宝字八年(764年)正月の人事で、造東大寺司(ぞうとうだいじし)長官として都に帰ってきました。真備70歳の時でした。
孝謙上皇との対立、道鏡の台頭、吉備真備の中央復帰など強い危機感を感じた仲麻呂は、同天平宝字八年(764年)九月、武力により孝謙上皇を排除しようと兵の動員を企みますが、密告により上皇側に全て筒抜けになっていました。孝謙上皇は、淳仁天皇が居る宮殿を急襲し淳仁天皇を監禁、天皇の証(あかし)である玉璽(ぎょくじ)と駅鈴(えきれい)を奪い返し、権力を自らに取り戻しました。そして仲麻呂の太政大臣を解任し、全国に討伐の命令を出しました。
仲麻呂は一族を連れて平城京を脱出し、藤原氏の強い影響下にある近江国(おうみのくに/滋賀県)を目刺しました。そこで孝謙上皇は、造東大寺司長官として中央に復帰していた吉備真備を召し出し、従三位(じゅ さんみ)に昇叙させ、中衛大将(ちゅうえのかみ/ちゅうえのだいしょう)として仲麻呂追討にあたらせました。吉備真備は遣唐使として唐に渡った際、様々な学問や知識と共に兵法も習得していたのです。
真備は仲麻呂の逃走経路を予測し、軍を先回りさせてその進路を防がせました。近江国への進路を断たれた仲麻呂は、やむなく子供が国司を務める越前国(えちぜんのくに/福井県)を目指すことになりました。
仲麻呂が連れ出した一族の中には、橘奈良麻呂の乱で謀反計画に加担したと疑われるも、証拠はなかったために臣籍降下することによって許された、塩焼王(氷上真人塩焼と改名)がいました。塩焼は皇族を離れて天皇の一家臣として仲麻呂に近づき、中納言にまで出世していたのです。そして仲麻呂はこの塩焼を天皇として立てようともくろんでいたのです。
越前国へも先回りされた仲麻呂は進退窮まり、そこへ官軍に援軍が合流したため敗退し、仲麻呂は妻子など一族で琵琶湖を船で逃亡しますが捕らえられ、一族もろともみな斬り殺されました。また仲麻呂と一緒に逃亡していた塩焼も斬り殺されました。これを藤原仲麻呂の乱、もしくは仲麻呂は恵美押勝と改名したことから、恵美押勝の乱とも呼びます。

− 道鏡 −

藤原仲麻呂の乱が終結すると、道鏡は大臣禅師(だいじんぜんし)に任ぜられました。禅師とは、徳が高い僧に与えられる尊号です。道鏡は孝謙上皇の看病に当たった際、看病禅師に任ぜられていますが、これは僧の身分で医師をも務めるという意味です。従って、大臣禅師は僧の身分のまま大臣に就任したことを示しますが、道鏡を大臣禅師に任じた際に孝謙上皇は、「俗務を以て煩わさず」として、議政官として職務には当たらせないと表明しています。しかし、これはあくまで表向きの表明でした。
孝謙上皇は、同年十月には淳仁天皇を廃して淡路国に配流とし、重祚(ちょうそ/退位した天皇が再び皇位につくこと)して、称徳天皇(しょうとくてんのう)が誕生しました。そして橘奈良麻呂の乱で息子の謀反への加担が疑われ、九州の大宰府に左遷された藤原豊成は、許されて中央に復帰して右大臣に任じられました。実は、豊成は大宰府への左遷を不服とし、病気と称して難波にある別荘に移り、そこで8年もの間過ごしており、九州へは赴任していなかったのです。
天平神護元年(765年)閏(うるう)十月、道鏡はついに太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんし)に任ぜられました。これは僧の身分のまま太政大臣に就任したということです。さらに、翌天平神護二年には、海龍王寺(かいりゅうおうじ/奈良県)の毘沙門天像より、舎利(しゃり/釈迦の遺骨)が出現し、これを機に道鏡は法王(ほうおう)に任ぜられました。法王は仏教界のトップの座ですが、待遇は天皇に准じるものでした。さらに、道鏡の弟子の円興を法臣として法王の補佐にあたらせ、其真を法参議・大律師(僧尼を統括する役)に任じ、周囲を側近で固めたのでした。
また道鏡が力を持つようになると、その弟である弓削浄人(ゆげの きよひと)は急速に昇進していきます。従八位上(じゅ はちいの じょう)という、下から4番目の低い位階から、従四位下(じゅ しいの げ)へと一挙に13ランクも昇進し、下級官人から一気に中級貴族へと昇格したのでした。さらに昇進は進み、藤原仲麻呂の乱後には従四位上、参議となるのです。参議は朝廷の最高幹部である公卿(くぎょう)の一員であり、直接政治に関わることができる者です。さらに翌年には従三位(じゅ さんみ)・中納言に昇ったのでした。このような急速な昇格は異例であり、しかもついこの前までは下級官人として食べるのがやっとといった待遇から、一挙に最高幹部の仲間入りなど考えられない昇格でした。称徳天皇がどれほど道鏡を寵愛し、恋は盲目状態となっていたかがうかがえます。
なお、海龍王寺は尼寺の総本山である法花寺に隣接していて、ここら一帯は藤原不比等の邸宅跡です。これらの寺は不比等の娘である光明皇后の発願で建立されたとされ、称徳天皇はその光明皇后の娘ですので、仏教を深く信仰した亡き母ゆかりの寺だったのです。
称徳天皇は、道鏡と共にさらなる仏教の振興(しんこう/盛んになる事)に務めましたが、東大寺に対抗して平城京の西端に西大寺を、道鏡の出身地である河内国(かわちのくに)の弓削(ゆげ)に由義宮(ゆげのみや)を造営し、全国の国分寺の修理を意欲的に行い、また道鏡は称徳天皇に各地の大寺への行幸(ぎょうこう/お出かけ)を催促するなど、仏教振興のために莫大な財を費やしたのでした。
また仏教の殺生禁止の考えに基づき、鷹(たか)や犬、鵜(う)などを使って猟をすることを禁じ、肉や魚を贄(にえ/大膳職参照)として献上することも禁じました。また、貴族による墾田をいっさい禁止する一方で、寺院の墾田は認め、農民の小規模な墾田は認めるなど、貴族に対する締め付けも行われました。
そして、藤原仲麻呂の乱で亡くなった人達の供養や国家の安泰を願い、称徳天皇は法隆寺・東大寺・西大寺・薬師寺・四天王寺など10の寺に10万ずつ、合計100万個の木製小塔を奉納しました。内部には陀羅尼経(だらにきょう/仏教において不思議な力があるとされる長い呪文)が納められていて、これは現存する世界最古の活版印刷(かっぱんいんさつ)だと言われています。
注) 活版印刷とは、ハンコのように左右逆にした文字を凸型に浮き彫りにしたものを一文字ずつ作り、これらを組み合わせて文章を作り、これを一つの版として印刷するものです。

▼ 称徳天皇呪詛事件

神護景雲三年(769年)、不破内親王(ふわないしんのう)が、県犬養姉女(あがたいぬかいの あねめ)、忍坂女王(おさかのじょおう)、石田女王(いわたのじょおう)らと共謀し、称徳天皇を呪詛(じゅそ/のろいの儀式を行うこと)してその命を縮め、不破内親王の子である氷上志計志麻呂(ひかみの しけしまろ)を新たな天皇に立てようとしていると密告があり、関係者が処罰されるという事件が起こりました。
称徳天皇の髪を盗み、佐保川から拾ってきた髑髏(どくろ)に入れ、宮中に持参して3度にわたり呪いをかけたというのです。その首謀者とされた不破内親王は、内親王を廃され、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と改名されたうえで平城京を追放され、息子の氷上志計志麻呂は土佐国に配流となりました。また不破内親王と共に首謀者とされた県犬養姉女は、犬部と改名されたうえで平城京を追放、忍坂女王、石田女王は共に平城京から追放となりました。
この事件の首謀者とされた不破内親王は、称徳天皇の異母妹にあたります。聖武天皇と光明皇后との間に産まれたのが称徳天皇(孝謙天皇)で、夫人・県犬養広刀自(あがたいぬかいの ひろとじ)との間に産まれたのが不破内親王なのです。そして不破内親王は、先の藤原仲麻呂の乱で仲麻呂と共に斬り殺された、塩焼王(臣籍降下により氷上真人塩焼と改名)の妻だったのです。
県犬養広刀自は、聖武天皇との間に井上内親王、安積親王(あさかしんのう)、不破内親王と、一男二女をもうけています。みなさんはこの安積親王という人を覚えているでしょうか。安積親王は聖武天皇にとっては第二皇子でしたが、光明皇后との間に産まれた第一皇子が一年ほどで亡くなってしまったため、皇太子の最有力候補でした。しかし、光明皇后との間に産まれた阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が女性として皇太子とされました。そしてその後に急死してしまったあの安積親王です(藤原仲麻呂参照)。
この時代は、身分の高い者は複数の妻を持ちました。正室と側室です。それは安定して跡継ぎを確保するためでした。この正室と側室との間に産まれた子達は異母兄弟(姉妹)となるのですが、この時代の異母兄弟(姉妹)は他人も同然で、貴族社会においては争い事が絶えなかったのです。日本史ではよく兄弟の争いが出てきますが、そのほとんどはこの異母兄弟の争いなのです。そして異母兄弟が他人も同然だったのに対し、同じ乳で育った者同士は乳兄弟(ちきょうだい)と言って、たとえ血のつながりが無い者同士でも、実の兄弟以上の深い絆で結ばれていたのでした。
安積親王は藤原仲麻呂に毒殺されたとも言われます。男子の安積親王がいるにも関わらず、女性の阿倍内親王が皇太子とされたのは異例であり、しかもその後に安積親王は不自然に急死しているからです。光明皇后は飛鳥時代から奈良時代初頭にかけて政権を握った藤原不比等の娘であり、藤原氏にとっては県犬養広刀自が産んだ安積親王よりも、藤原一族の光明皇后が産んだ阿倍内親王が天皇になってくれた方が都合がよかったのです。そこで、県犬養広刀自が産んだ次期天皇の有力候補であった安積親王を毒殺して排除したのです。
また、不破内親王と共に事件の首謀者とされた県犬養姉女は、不破内親王の母である県犬養広刀自の身内で、不破内親王に使えていた女官でした。なお、共犯者とされた忍坂女王、石田女王については詳細は不明です。
不破内親王の夫は氷上真人塩焼でした。この人は天武天皇の皇子である新田部親王の子で、元は塩焼王という皇族でした。しかし、橘奈良麻呂の乱に加担したと疑われるも、証拠不十分で臣籍降下し、氷上真人塩焼と改名し、皇族の身分から臣下の身分になることによって許されました(橘奈良麻呂の乱参照)。この塩焼王の弟は道祖王(ふなどおう)で、聖武上皇の遺言により孝謙天皇の皇太子とされましたが、上皇の死後間もなく孝謙天皇により皇太子を廃されたあの道祖王です(橘奈良麻呂の乱参照)。そして代わりに藤原仲麻呂が推す大炊王(おおいおう/後の淳仁天皇)が皇太子とされたのです。
道祖王が皇太子を廃された際、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らは塩焼王を次期皇太子として推していたのですが、孝謙天皇に反対されて仲麻呂が推す大炊王が皇太子とされたのでした(橘奈良麻呂の乱参照)。そして後に塩焼は仲麻呂に接近して中納言まで昇進しましたが、藤原仲麻呂の乱で仲麻呂に加担し、追討軍に斬り殺されたのでした(藤原仲麻呂の乱参照)。
こうして県犬養広刀自の一男二女のうち、安積親王は藤原仲麻呂によって毒殺され、不破内親王は策略によって退けられましたが、残る井上内親王は皇位継承とは無縁であろう白壁王(しらかべおう)と結婚していました。白壁王は、天智天皇の第七皇子・志貴親王(しきしんのう)の第六皇子です。壬申の乱によって、天皇の皇位継承は天智系から天武系へと移り、以後天武系の皇族が皇位を継承してきたため、天智系の白壁王は皇位継承とは無縁の存在だったのです。

■ 宇佐八幡宮神託事件

称徳天皇は亡き父・聖武上皇の遺言に従い、仏教の更なる振興のために道鏡と共に仏教中心の政治を進めていました。そして法王となった道鏡は政治の主導的立場となり、法臣、法参議といった補佐役を道鏡の弟子達が務め、また道鏡の弟である弓削浄人を急速に昇進させたりと、影響力を強めていきました。
こうなると、道鏡の専政(せんせい/独断政治)かのように思われますが、朝廷の最高機関である太政官(だいじょうかん)には、最高幹部である公卿(くぎょう)がおり、いくら道鏡と言えども何でも独断で決定した訳ではないのです。左大臣には藤原永手、そして右大臣にはなんとあの吉備真備が就任していたのです。藤原永手は、中納言を務めていた時、橘奈良麻呂の乱において当時右大臣であった藤原豊成と共に、容疑者の取り調べをしたあの藤原永手です。
豊成は永手とは従兄弟(いとこ)同士で、豊成の息子が奈良麻呂と親しくしていたことから謀反への加担を疑われ、豊成も連座して大宰府へ左遷(させん)となりました。のち許されて右大臣に復帰しましたが、間もなく亡くなってしまいました。そこで空いた右大臣に吉備真備が大抜擢されたのでした。これは地方豪族出身者としては破格の出世でした。そして大納言には、道鏡の弟である弓削浄人が昇格し、また、称徳天皇呪詛事件の首謀者とされた不破内親王の姉・井上内親王が結婚した、皇位継承とは縁がない白壁王は、中納言に就任しました。
皇位継承を巡って様々な事件が起こる中、独身であった称徳天皇には皇子が無く、皇太子が決められないまま時間だけが過ぎていきました。そんな中、ある事件が起こりました。
神護景雲三年(769年)五月、九州の大宰府から称徳天皇に使いがやって来ました。それは称徳天皇の亡き父・聖武上皇が深く信仰した、宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)が下した神託(しんたく)でした。神託とは、巫女(みこ)を通じて語られる神のお告げです。そして下された神託とは、「道鏡を天皇にすれば、天下は平和に治まるであろう」というものでした。これは、称徳天皇(当時は孝謙天皇)が故聖武上皇から与えられた「仏教を更に振興し、ふさわしい者に皇位を引き継ぐように」という、2つの課題を一気に解決する神託でした。
しかし称徳天皇は、皇族出身者でない道鏡を天皇にする事に迷いを持っていました。そこで称徳天皇は、神託の真偽を確かめるために、信頼する法均尼(ほうきんに)という尼さんを九州の宇佐八幡宮に派遣して、その真偽を確かめようと考えたのでした。法均尼は和気広虫(わけの ひろむし)と言い、孝謙上皇に仕えた女官でしたが、上皇が出家した際に共に出家し、法均と名乗りました。しかし、女性の身では九州までの長旅はつらかろうと、法均尼の弟である和気清麻呂(わけの きよまろ)を宇佐八幡宮へ向かわせたのでした。
そして清麻呂が持ち帰った返事は先の神託とは全く逆のものでした。つまり天皇の血を引く者に皇位を引き継ぐべきであり、道鏡を排除すべきであるというものでした。
称徳天皇は清麻呂の返事を聞いて激怒しました。清麻呂が貴族達と組んで道鏡を排除しようとしていると思ったのです。そして清麻呂を別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)と改名し、大隅国(おおすみのくに/鹿児島県東部)へ流罪としたのです。
「道鏡を天皇とすべし」、「道鏡を排除すべし」という2つの神託に称徳天皇は悩みました。1ヶ月悩んだすえ、諸臣を招集し詔を発しました。「神や仏のお許しを得られないのであれば、君主の位を得る事は難しい」とし、道鏡を天皇とする事をやめたのです。そして臣下達に対し、
「今回の神託について、清麻呂らと謀った(はかった)者がいることは知っている。謀りごとをたくらんだ者は心を改めて以後は仕えよ(つかえよ)。」
と語り、その者達を許したのです。そして「恕(じょ/許すという意味)」と書かれた、長さ8尺の帯を臣下達に配ったのです。
その後、称徳天皇は病に倒れましたが道鏡を近づける事はなく、宝亀元年(770年)に亡くなりました。そして道鏡は下野国(しもつけのくに/栃木県)の薬師寺に左遷され、称徳天皇が亡くなった2年後に没しました。この事件を宇佐八幡宮神託事件と呼びます。
道鏡が本当に天皇の座を狙っていたかどうかは不明ですが、孝謙天皇(称徳天皇)と道鏡とのこんな話が伝わっています。それは、道鏡が左遷された下野薬師寺の近くに小さな祠(ほこら/神を祭る小さなやしろ)があり、そこに孝謙天皇が祭られているのです。この祠は、孝謙天皇の最期を看取った女官の子孫と言われる5つの家が代々守っており、そこには小さな塔が伝わっています。中には骨が入っていて、死後も道鏡と一緒に居たいと願った孝謙天皇が女官に託したと伝えられているのです。
この事件によって、朝廷は仏教勢力を政治に介入させる事の危うさを知り、奈良の強大な仏教勢力と手を切るために、大寺院などを奈良に残したまま長岡京、平安京へと遷都し、平安京では朝廷が大寺院を営む事はありませんでした。
※NHK その時歴史が動いた「悲しき女帝 許されざる恋 -道鏡事件の真相」を参考に書きました。