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奈良時代
和銅三年(710年)-延暦十三年(794年)

関連ページ: おさるの日本刀豆知識-日本刀の歴史・上古刀の部

− 2.奈良時代の税金とお金 −

ここでは、奈良時代の一般庶民達(農民)にどのような税が課せられていたのかを見ていきましょう。

目 次 
 

= 班田収授と税 =

■ 班田収授

飛鳥時代の大化の改新の詔によって、全ての土地と人民は国家(天皇)のものであるとされました。これを公地公民(こうちこうみん)と呼びます。この考えに従って、6年に一度戸籍(こせき)を作り、それに基づいて6歳以上の男女に一定の口分田(くぶんでん)を配り、それを耕作させました。口分田は生涯(しょうがい/一生)耕作できるのですが、売買はできませんでした。また、本人が死亡すると国に返さなければ成らず、その口分田は新たな対象者に貸し与えられました。これを班田収授(はんでんしゅうじゅ)と呼びます。
良民(りょうみん)の男子には2反(たん)、女子にはその3分の2が、奴婢(ぬひ)には良民の3分の1が貸し与えられました。奴婢とは奴隷(どれい)の事で、奴は男性の、婢は女性の奴隷を意味します。彼らは賤民(せんみん)と呼ばれ、一般の人々(良民)と区別され、売買されたりと差別的な扱いを受けました。
この良民の男子に貸し与えられた2反の田地とはどれくらいの広さなのでしょうか。
反(たん)は「段」とも書き、土地の広さを表す単位です。ただし反(たん)が布の大きさを表す場合もあり、その場合は「端」とも書きます(これについては後述)。
土地の広さを表す場合の1反は360歩(ぶ)です。歩とは平城京の項(区画としての「町」と面積の「町」)で解説しました通り、長さを表す単位で、一歩は約1.82メートルです。また歩が面積を表す単位の場合は、一辺が1歩(1.82メートル)の正方形の面積を表し、およそ3.3平方メートルとなります。これは畳二枚の面積(1坪)と等しく、1歩=3.3平方メートル=1坪となります。
従って、1反=360歩=360坪=1,188平方メートルとなり、2反は2,376平方メートル(720坪)となります。これは、分譲マンションのちょっとゆとりがある間取りの3LDK(25坪)28戸分の広さです。
注) 口分田は必ずしも自分の家周辺に与えられるとは限りません。近くに与えるべき土地がなければ遠い所に与えられる場合もあり、ひどい場合は隣国に与えられる場合もありました。また、平城京に住む六位以下の下級官人はそのほとんどが畿内(きない)出身者で、郷里に口分田を与えられており、本人は単身赴任でした。そして休暇の時には郷里に帰って農作業にあたりました。

▼ 郷戸と房戸

戸とは、戸籍に記される人民把握のための最小単位で、郷戸(ごうこ)と呼ばれ、これは50戸で郷(ごう/さと)と呼ばれる行政単位を構成する戸であることからこう呼ばれます。もともとは郷は里と呼ばれましたが、里が廃止されて郷となり、国-郡-郷という行政単位になりました。そして徴税はこの郷戸を対称に行われました。
しかし郷戸は単一家族ではなく、房戸(ぼうこ)が2、3戸で郷戸を構成しました。房戸は現在一般的に言う一家族で、奴隷(ぬひ)を含めておよそ7、8人で構成されています。房戸ごとに1つの家に住み、房戸が2、3戸で郷戸を構成します。しかし、郷戸を構成する房戸が必ずしも血縁関係にあるとは限らず、郷戸はあくまで税を徴収するための行政上の区分に過ぎず、郷戸は15人から20人前後で構成されていたと考えられています。

▼ 良民と賤民

律令制下においては、天皇と皇族以外の人達を良民・賤民の二つに大別しました。
良民(りょうみん/一般の農民)は中男(ちゅうなん/17歳-20歳の男性)、正丁(せいてい/21歳-60歳の男性)、老丁(ろうてい/61歳-65歳の男性)、次丁(じてい/正丁・老丁のうち軽い身体障害者)に区分され、これらの区分を元に税が課されました。
賤民(せんみん)は、良民よりも低い身分とされ、卑しい(いやしい)身分として最下層に位置づけられました。そして賤民は官戸(かんこ)、陵戸(りょうこ)、官奴婢(かんぬひ)、家人(けにん)、私奴婢(しぬひ)の五種に分けられ、これを五色の賤(ごしきのせん)と呼びます。官戸、陵戸、官奴婢は各役所に、家人・私奴婢は個人の元で雑用などに従事しました。
官戸とは、良民または官人(役人)で罪を犯して没官(もっかん/家財没収)された者、家人、奴婢が主家の者と通じて産まれた子、官奴婢で66歳以上の者です。官戸は一戸を構えることが許され、口分田も良民と同じ広さが貸し与えられました。また役所で雑用にあたる際も一戸全員が狩り出されることはなく、奴婢よりも身分的には上位でした。
食糧・衣服は支給され、10日に1日は休日を与えられ、両親の死亡に際しては忌引き(きびき/近親者の死亡により休暇をとること)、産後の休暇、また妊娠中であれば軽作業に従事することなどが認められました。原則として76歳になると良民となる決まりでした。
陵戸は、天皇や皇族の墓守(はかもり)に従事した者達です。人数が足りない場合は一般の農民で補充され、その場合は歳役(さいえき)雑徭(ぞうよう)を免除されました。陵戸は84戸、一般農民からの補充は150戸とされ、後に一般農民から補充された者達は守戸(しゅこ)と改称されました。
陵戸には良民と同じ広さの口分田が貸し与えられましたが、その身分は世襲(せしゅう/代々引き継ぐこと)であり、同じ身分同士の結婚しか認められず、良民とは別の戸籍で管理され、諸陵寮に隷属しました。
また官奴婢とは国有の奴隷であり、官奴司に隷属し、諸役所に配属されて雑務にあたりました。66歳以上になると官戸とされ、76歳以上になると良民とする規定でした。
家人は、官戸と同様に一戸を成す(家族を成す)ことが許され、家族全員が同時に使役されることはなく、売買することは許されず、私奴婢よりも上の身分でした。結婚は家人同士でしか認められず、口分田は私奴婢と同じく良民の3分の1を貸し与えられました。
私奴婢は、国有の官奴婢に対して私有の奴婢を指します。売買・譲渡の対象となりました。貴族や大寺院が数十人から数百人の私奴婢を所有したとされますが、一般良民では一部の富有な者が数人所有した程度であったと言われます。
良民とされながらも、特定の技術や技能を以て仕えた雑戸(ざっこ)の中には賤民扱いされた者もいましたが、こうした賤民や雑戸は平安前期の末には解体へと進み、平安後期以降には解放された旧賤民が貴族や寺社の所領に流入し、貴族や寺社に隷属して肉体労働などに従事し、その代わりに税を免除されたりしました。
奴婢という身分から解放されたとはいえ、みな行く当てもない浮浪生活者とならざるを得ませんでした。こういった者達を受け入れたのが貴族や寺社でした。こういった貴族や寺社は自分の所領でも荒れた土地へ彼らを住まわせ、私的な労働力として使役したのです。彼らが居住した地域、また彼ら自身を散所(さんじょ)と呼びます。またこうした所へも行けなかった者達は河原(かわら)に居住するようになりました。
こうした旧賤民が暮らした散所や河原などは、農業には適さない不毛(ふもう/土地がやせていて作物が育たない)土地で、河原は調雑徭といった税が課されない土地であったため、税を払わない者として差別を込めて散所者、河原者と呼ばれて差別されるようになりました。
こうした者達は江戸時代になると、穢多(えた)・非人(ひにん)と呼ばれ、士農工商には含まれない人外の者(じんがいのもの)とされ、卑しい(いやしい)者として差別されるようになりました。

■ 農民に課された税金

▼ 租

農民に課せられた税のうち、祖(そ)は口分田に課せられる税で、1段あたり2束2把(にそくにわ)とされました。租は稲で納めましたが、1束は籾殻(もみがら)付きの米で1斗(と/10升=100合)で、1把は1束の10分の1ですので、2束2把は籾殻付きで2斗2升という事になります。
1束は玄米換算で5升とされましたので、2束2把は玄米換算で1斗1升という事になります。玄米1合はおよそ150グラムで、1斗1升は11升=110合ですから、玄米1斗1升はおよそ16.5キログラムということになります。
注) 当時の1升(10合)は、現在で言えば4合ほどになります。
注) 1段は1町歩(3,600坪)の10分の1ですので、360坪となります。360坪の土地とは、分譲マンションのちょっとゆとりのある3LDK(25坪)14戸分の広さです。
稲(いね)が1束得られる田の面積を一代(いちしろ)と呼び、一代は5歩(ぶ)とされました。そして一代から得られる1束の量を成斤(せいきん)と呼び、これを基準に課税されました。歩は何度も出てきた単位ですが、1歩は1.82メートルですから、5歩は1.82×5=9.1メートル四方の正方形ということになります。
1町歩は3,600歩ですから、1町歩は3600÷5=720代になります。一代は稲が1束得られる面積とされていますので、720代では720束得られるということになります。税として治める租は1段当たり2束2把ですので、1町歩(10段)では22束ということになります。720束収穫できて22束を税として納めるのですから、税率は22÷720=0.03となり、収穫高の3%ということになります。
租は農民達が住む国(今で言う都道府県)に納められるもので、各国の財源となりました。また一部は精米して都へ運び、平城京の役人の給料とされましたが、この精米作業も農民に課せられました。現在私達は精米された白米を食べていますので、精米という工程を知らない人も多いと思いますが、籾の状態の米を精米、つまり白米にするにはいくつもの工程を経なければならず、現在のような機械も無い当時は全て手作業であり、大変な作業でした。なお、これらお米に関して詳しくは、弥生時代の豆知識「お米について」をご覧下さい。

▼ 庸

庸(よう)は正丁(せいてい/21歳-60歳の男性)、老丁(ろうてい/61歳-65歳の男性)、次丁(じてい/正丁・老丁のうち軽い身体障害者)に課せられた税で、一年間に10日間の都での労役の代わりとして、布(麻布など)を正丁で二丈六尺(約7.8メートル)、もしくは米・地方特産物などをおさめるというもので、老丁、次丁は正丁の二分の一を納めました。
庸は都を警護する衛士(えじ)や、平城京建設のために集められた労働者などの食料、賃金の財源となりましたが、飛騨国(ひだのくに/岐阜県北部)、畿内(きない)平城京の住民は免除されました。

▼ 調

調(ちょう)は正丁・老丁・次丁・中男(ちゅうなん/17歳-20歳の男性)に課せられた税で、麻布などの繊維製品を納めるのが原則ですが、海産物などの地方の特産品での代納も可能でした。麻布の場合は長さ四丈二尺(約12.6メートル)、幅二尺四寸(約72センチ)を1反(いったん/一端とも書きます)とし、これを正丁1名分の調としました。また、老丁、次丁は正丁の二分の一、中男は正丁の四分の一の調が課せられました。
調は畿内平城京の住民は半分に減額され、後に銭貨(お金)で納めるよう定められ、飛騨国(ひだのくに/岐阜県北部)は調を免除されました。
畿内の住人や飛騨国の住人が税の一部を免除されたのは、彼らが優遇されていた訳では無く、以下で解説する労働税が別途課されていたからなのです。詳しくは以下をご覧下さい。
注) 反(たん)は、班田収授の項では土地の広さを表す単位として出てきました。土地の広さを表す場合は「段」とも書きます。一方、反が布の大きさを表す場合もあり、その際は「端」とも書きます。現在では着物を作る際の巻物のような生地を一反(いったん)と呼んでいるので聞いたことがあるかもしれません。
なお、庸や調を徴収するために、戸籍とは別に計帳(けいちょう)が毎年作成されました。各郷戸(ごうこ)は家族の名前、年齢、性別、身体の特徴などを記載した申告書を、毎年六月末までに国司(こくし/県知事)に提出し、国司はそれを元に郡別に戸数や人数、徴収する庸や調の量を集計し、八月末までに太政官(だいじょうかん)へ提出しました。朝廷は各国から提出された計帳を元に庸や調の量を算出し、予算組を行ったのです。

▼ 運脚

庸や調を都まで運ぶのにも、納税者の人夫(にんぷ)が使われ、これを運脚(うんきゃく)と呼びました。彼らは都との往復にかかる食費や旅費を自己負担でまかなわなければなりませんでした。従って、充分な食料を容易出来ない者も多く、帰路で餓死してしまう者も少なくありませんでした。

▼ 雇役

畿内(きない)の住人は庸を免除、調を減額されましたが、平城京の住人でも書きましたが、これはこの地域の住人が優遇されていたという訳ではなく、畿内と呼ばれた地域が都に近いという事から、平城京の工事に狩り出されていたからなのです。これは雇役(こえき)と呼ばれる、労働で支払う税の一種でした。
雇役とは、新しい都を建築する際などに朝廷が徴収する強制労働ですが、歳役とは異なり食料と報酬が出されました。労働力が必要な部署が太政官に申告し、太政官は民部省に属する主計寮(かぞえのつかさ)に指示して手配させました。労働する期間は農閑期(十月から翌年二月まで)は50日以内、農繁期(三月から九月まで)は30日以内とされました。しかし、食料と報酬が出る労働なので、農民によっては決められた期間よりも長く働きたいという者もおり、その際は期間を越えての労働も許可されました。
労働者の招集は国司が行いますが、比較的豊かな戸、働き口が多い戸から優先的に招集しました。仕事は土木作業ですので、雨が降って仕事が休みになった時や、本人が病気で休んだ時などは食料の配給量は減らされ、報酬はその労働者の労働期間終了後に一括で支払われました。またこの報酬は、朝廷が税として全国から徴収した庸(よう)から現物支給するよう定められていましたが、実際には貨幣(銭貨)で支払われたようです。
畿内の住人は、雇役に従事する代わりに庸を免除、調は半分に減額されていたのです。

▼ 匠丁

また、飛騨国の住人が庸・調の両方を免除されているのもこの国が優遇されている訳ではなく、その代わりとして、里(さと/50戸で一里とされた最末端の行政区分・のち「郷」)ごとに、匠丁(しょうてい/たくみのよほろ)を10人選出し、平城京での工事や建築にあたらせたのです。
匠丁は一年交替で選出され、匠丁に選出された者以外からは都で働く匠丁の食料として、米を徴収しました。

▼ 歳役

歳役(さいえき)とは労働で支払う税のひとつです。新しい都の建設時などに諸国から招集され、1年に10日、土木工事などに従事するというものです。この10日間の食料は自弁(じべん/自分もち)で、当然無報酬でした。しかし実際に労働する代わりに、庸(よう)として布を一日当たり二尺六寸、10日分で二丈六尺で代納できました。また次丁は正丁の半分、中男、畿内の住人は歳役は免除されました。
なお、決められた10日間以上の労役に就く事を留役(るえき)と呼び、その越えた日数に応じて租や調が減免され、正規の10日間と留役を合わせて40日間を限度とされました。

▼ 雑徭

雑徭(ぞうよう)とは、朝廷が徴収する歳役とは異なり、国司(こくし/県知事)京職(きょうしき/平城京の長官)が徴収するもので、年間に正丁で60日、老丁・次丁で30日、中男で15日を限度として、各国の公共工事などに十時させるものです。
徴収は計帳を元に行われましたが、天平五年(733年)の右京計帳には、銭で代納させた事が記されています。正丁で120文、次丁で60文、中男で30文とあり、それぞれの労働日数×2文で徴収していた事が分かります。
雑徭は後には期間が半減されましたが、国司が私的な労働に従事させる事が多く、農民が逃亡する一因となりました。

▼ 仕丁

仕丁(しちょう/じちょう)は、3年間の労役です。「つかえのよほろ」とも読み、「よほろ」は人足(にんそく)の意味です。朝廷内で実際に労働に従事する直丁(じきちょう)と、直丁の食事の世話などをする廝(かしわで)を二人一組とし、これらの人達の食料とともに地方から徴収するというものです。はじめは30戸から一組を出させていたのを、大化改新の詔によって50郷戸(ごうこ)から一組に改められました。
仕丁を出す50郷戸からは、仕丁の生活費として一郷戸あたり布を一丈二尺、米を五斗(50升=500合)徴収しましたが、仕丁を出した郷戸はその代わりに雑徭を免除されました。
仕丁のうち、役所の一般的な雑用に従事した直丁に対し、山野の現場の作業に従事した者は駈使丁(くしちょう)と呼ばれました。また仕丁は基本的には男性ですが、裁縫など女性の方がふさわしい仕事には女性が徴収され、仕女(しじょ)、女丁(にょてい)、仕女丁などと呼ばれ、縫殿寮大炊寮などに配属されました。
仕女は大国から4名、上国から3名、中国から2名、下国から1名が徴収されました。
仕丁や雇役によって招集された農民達は、都の建設や寺社の造営などの労働力として働かされました。

▼ 公出拳

農民に課せられた税はこれだけではありません。公出拳(くすいこ)というものもありました。これはもともと田植えの前に稲を貸し出すという農民を助ける為の制度だったのですが、後には無理やり貸し付けて、秋の収穫時に利息(5割)を付けて無理やり回収するという悪どい制度になっていきました。それに加え、兵士として徴兵される兵役(へいえき)もありました。
租は比較的軽い税でしたが、庸・調は非常に重い負担でした。また男子には雑徭や上記のような様々な労役、兵役なども課せられたため、税を逃れるために農村から逃亡する者が絶えませんでした。そして逃亡者が多発したため、耕作されずに放置される口分田が増大していきました。
こうした逃亡農民に対し、朝廷は当初その農民を捕らえると故郷へ戻すことにしていましたが、後には浮浪人帳という物を作成し、そこに捕らえた者を浪人として登録し、浪人として庸・調を徴収するようになります。そして本当に行方が分からない者を逃亡と呼ぶようになります。
こうした重税に対し、税金逃れとして戸籍を偽るというものが多発しました。男子には様々な税が課せられましたが、女子には租以外の税は課せられませんでしたので、男の子がうまれても、女の子として戸籍に登録したのです。当然、こういった行為は農民だけで行えるものではなく、役人も加担していたのでしょう。
また私度僧(しどそう)というものもありました。これは勝手にお坊さんになるというものです。当時お坊さんになるには国家試験に合格し、国家の承認を受けなければなりませんでした。そしてお坊さんは税金を免除され、兵役も免除されたのです。従って、お坊さんになれば税金を払わなくてよいということで、勝手に頭を丸めて、ろくに修業もせずにお坊さんと称する農民が多発し、大きな問題となりました。
なお、貴族の収入でも書きましたが、六位以下の下級官人には口分田が支給され、貴族と呼ばれる五位以上の者にはその位階や官職によって位田職分田といった田地が支給されました。しかし、貴族や官人であってもこれらの田地にかかる租は免除されず、庸・調は免除されました。

= 和同開珎 =

和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)は、日本初の流通貨幣と言われ、平城京遷都直前の708年(和銅元年)に鋳造(ちゅうぞう/型に溶かした金属を流し込んで形造る事)が始まりました。武蔵国(むさしのくに/東京都・神奈川県川崎市、横浜市・埼玉県)の秩父郡(埼玉県秩父市)から和銅(わどう)が発見され、朝廷に献上された事から、それを記念して年号を「和銅」と改元し、まず銀銭が、続いて銅銭が鋳造されましたが、銀銭は1年程で廃止されました。
なお、和銅とは精錬(せいれん/不純物を取り除き純度を上げる作業)の必要がない純度の高い銅のことです。

■ 和同開珎の価値

当時はまだ米などを介した物々交換が主で、和同開珎は畿内とその周辺諸国でしか貨幣として流通せず、地方では非常に珍しい宝物として富や権力の象徴とされました。
和同開珎1枚は、律令(りつりょう)で決められた通貨単位の1文(もん)として通用しました。711年に定められた交換レートによると、1文で籾(もみ)6升(しょう)でした。
当時と現在では升(ます)の大きさが違います。当時の1升は現在で言うと0.4升となりますので、当時の6升は現在の2.4升(24合)となります。籾殻(もみがら)付きのお米1合は約110グラムあり、籾殻を取り除いて玄米にすると約80グラムの玄米になります。つまり約30グラムは籾殻という訳です。当時は主として玄米を食べていましたので、24合では1,920グラムの玄米になります。つまり当時は和同開珎1枚で現在で言う約2キロのお米(玄米)が買えたという事になります。
当時食事は朝晩2回でした。1合のお米(玄米)は大人1人の1回分の量と言われますので、朝晩で2合を食べたとすると24合は12日分のお米の量となります。しかし農民にとってお米は大変貴重な物で、収穫してもほとんど自分達の口には入りませんでした。お米をお腹いっぱい食べるというような事はできず、粟(あわ)や稗(ひえ)などと混ぜて食べていました。従って24合ものお米があれば12回分どころではなく、1ヶ月位、あるいはもっと食いつなげたかもしれませんので、和同開珎1枚は、農民などにとってはまさしくお宝だったのではないでしょうか。
和銅五年(712年)には、税の一つである調を銭で納めてもよいことになりました。そしてその際のレートは、布一常(きだ)=銭五文と定められました。一常は二分の一反で、庸、調ともに正丁一人につき一反納める事になっていますので、これを和同開珎で納める場合はそれぞれ10分必要という事になります。
注) 1反=幅二尺四寸(約72センチ)、長さ二丈六尺(約7.9メートル
また、年に60日の労働を行う雑用(ぞうよう)も、銭で納める事が出来たようです。この場合は一日二文換算で、60日分として120文を納めた記録が残っています。このように物や労働で納める税を銭で代納させ、銭の流通を図ろうとしたのですが、自らが作っているにも関わらず、その米をほとんど口にできなかった農民にとって、一文で米が2キロも買えた銭は貧しい農民にとっては高嶺の花だったと思われ、朝廷が思ったほど銭での納税は進みませんでした。
そこで養老六年(722年)、播磨国(はりまのくに/神戸市の一部除く兵庫県南部)、伊賀国(いがのくに/三重県北西部)、伊勢国(いせのくに/三重県東部)、丹後国(たんごのくに/京都府北部)、紀伊国(きいのくに/和歌山県・三重県南部)、近江国(おうみのくに/滋賀県)、尾張国(おわりのくに/愛知県西半分)、越前国(えちぜんのくに/福井県北部)の8国に、調を銭で納めさせる命令を出しています。これらは畿内周辺の国々ですので、和同開珎が畿内を中心に流通したと言われるのは、こういった事があったからだと考えられています。

■ 蓄銭叙位令と偽ガネ作り

和同開珎の鋳造が始まると、朝廷は銭の流通を図るために様々な施策をとっています。鋳造開始の翌年の和銅二年(709年)には、日常雑貨の取り引きには四文以上は銀銭を、三文以下は銅銭を用いるよう定め、和銅四年(711年)には蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)が出されました。これは一定以上の銭を蓄えて政府に納めた者に位階を与えるというもので、無位(位階を与えられていない)の者でも一定の銭を蓄えれば、位階が与えられました。
大初位(だい しょい)までは、五貫(5,000文)を蓄えれば位階が1ランク上がり、従八位下(じゅ はちいの げ)から従六位までは十貫で1ランク、二十貫で2ランク位階が上がり、正六位(しょう ろくい)以上で十貫以上蓄えた者は、臨時に詔(みことのり/天皇の命令)を聞くと定められていました。『続日本紀』によると、一千貫(100万文)の銭を納めて従五位という、貴族の位階が与えられた例が記されています。
朝廷は、これら以外にも銭の普及を図る施策をとっています。旅行者は銭を持って歩くよう定めたり、地方の郡司についてはどれほど優秀で才能がある者であっても、六貫以上の銭を蓄えていなければこの官職に就けないと定めたりしました。
しかし、このような朝廷の施策は多くの私鋳銭(しちゅうせん)を産みました。私鋳銭とは偽ガネ作りのことです。平城京の貴族の屋敷跡と思われる所から、和同開珎の鋳型(いがた)など、鋳銭に関する遺物が発見されています。お金を作る鋳銭司(じゅせんし)は都にはありませんでしたので、ここでは偽ガネを作っていたのでしょう。
平安時代の逸話集である『日本現報善悪霊異記(にほんげんほうぜんあくりょういき)』には、以下のような逸話が掲載されています。
聖武天皇の世に、尼寺にあった十二体の観音像のうち六体が盗まれました。探し回っていると、池に投げ捨ててあるのが見つかりました。私鋳銭を作ろうとして盗み出したがかなわず、困って捨てたのだろうと噂されたというのです。当時偽ガネ作りが横行していたことを物語るものだと言われます。
和同開珎が鋳造され三年もたたない和銅二年(709年)正月に、銀銭の私鋳禁止令が出されています。そこには、「犯人は没官(もっかん/土地や家財を没収)、その財産は密告者に与え、その行為の目にあまる者は杖打ち200回を加え懲役とする。情を知り、官に告げない者も同罪とする」とあります。
それが和銅四年十月にはさらに厳しくなり、「犯人は律の極刑の斬罪、従者は没官、家族は流罪、五保(五人組)でこれを知りながら告げない者は同罪とし、情を知らない場合は五等を減じて罪する。私鋳銭使用後自首した場合は斬を一等減じて絞刑とし、使用前に自首すれば罪を免ずる」という法律ができましたが、いっこうに私鋳銭はなくならなかったようです。