文化文政年間リンク⇒ | 東北 | 関八州・江戸 | 東海・北陸・甲信 | 近畿 | 中国 | 四国 | 九州 | 洋上 | 前ページへ |
●文化元年(1804)
●文化2年(1805)
●文化4年(1807)
●文化5年(1808)
●文化6年(1809)
●文化7年(1810)
●文化14年(1817)
●文政2年(1819)
●文政4年(1821)
●文政6年(1823)
●文政9年(1826)
●文政10年(1829)
川越の名主中島孝昌、「武蔵三芳野名勝図絵」を刊行する。
御用金赦免を願い傘連判(からかされんぱん)に領主・大久保氏に門訴する。
幕府が治安維持を強化するため、関東取締出役(かんとうとりしまりでやく=八州回り)を設置する。
北野鞠塢(きくう)が寺島村に花屋敷(百花園)を開く。
6月13日−幕府が戸田川で大砲の船打を行う。
1月−江戸とその近隣諸国に50年来の大雪が降る。
8月23日−江戸と周辺が暴風雨に襲われ、大災害を受ける。
赤堀川の川幅を40間に切り広げる。
千住宿等6宿が、日光道中が衰微したので鬼怒川船運に制限を加えるよう道中奉行に訴える。
「新編武蔵風土記稿」の編纂が始まる(1828完成)。
都築郡中鉄(なかくろがね)・寺家(じけ)村総百姓、領主筧氏の苛政に対し血判傘起請文を差し出す。
秩父・男衾(おぶすま)・比企郡の紙漉村と江戸紙問屋の争論が和解する。
飯能の大河原亀文が「妙々奇談」を著わす。
川越藩、幕府から異国船来航時の浦賀の防御を命ぜられる。
干ばつのため川崎領20カ村と溝口(みぞのくち)村、二ケ領(にかりょう)用水の分水をめぐり騒動が
おこる。
忍藩主阿部正権(まさのり)転封、桑名から松平忠尭(ただたか)が入封。
武州の雛人形渡世仲間が江戸職人を召し抱え、江戸雛屋仲間から訴えられる。
9月28日−幕府が、関東の無宿人・農民・町人が長脇差を携帯することを禁止する。
小谷三志、二宮尊徳の請により下野国桜町の陣屋で、不二道を説く。
忍藩、芳川波山を儒者に迎える。
2月−幕府が改革組合村の結成を命じる(文政の改革)。
8月−川越藩、藩校博喩堂の授業を8月より開始。
文政の改革に伴い、関東取締出役が農間渡世の調査を始める。