陸 奥 国 見 山 廃 寺

陸奥国見山廃寺(門岡廃寺・史跡)・陸奥極楽寺ニ層塔

この絵は国見山廃寺に何の関係もありません

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国見山廃寺(門岡廃寺・極楽寺):史跡 概要

堂塔坊舎跡などが、国見山(244m)の南麓尾根上及びその東の平地(内門岡)に点在する。
発掘調査の成果などから、当廃寺は9世紀中頃に創建されたと推定され、創建時の建物は掘立柱建物であり、それは現在の国見山神社附近で発掘される。
その後、10世紀後半〜11世紀中期には寺院規模が拡大され、南側(八幡山・ホドヤマ)東側(極楽寺山)にも堂宇が建立され、創建期の柱穴式建物は礎石建物郡に変更される。 これ等の寺院の発展隆盛をもたらした檀越はやはり安倍氏(清原氏)と考えるべきであろうと云う。

現在、多くの遺構が発掘されるも、主要堂塔跡としては以下が知られる。

 木造層塔跡[下図の塔跡](方三間、一辺4.5m、SB001)、方三間堂跡1[下図の方三間堂跡1](多宝塔の可能性あり とも云う:一辺4.9m、SB003)、方三間堂跡(一辺4.5m、SB010)、礎石建物跡(方三間堂跡、一辺5.3m、SB012)、七間堂(奧壁中央に須弥壇、SB011、この地下に長堂跡)、長堂跡(七間堂の先行建物:桁行五間・梁間二間、13.7m×6.3m、SB120)、
 ※以下の堂宇の位置は情報不足で現状は判然としない。
鎮守社跡(桁行4間・梁間2間の住吉造社殿、4.7m×3.9m、SB043)、仏堂跡(前面に庭儀空間と考えられる広場がある:桁行3間梁間2間、4.7m×4.1m、SB125)、推定阿弥陀堂跡(正面5間の方三間堂跡、一辺10m、SB135)、極楽寺の境内礎石建物跡(SB025)など

現地解説板:国見山廃寺遺構図:下記全体図

 しかし、12世紀には山地伽藍はほとんど退転していたと推定され、これは平泉が隆盛を向える時期と重なると考察される。
現在は国見山神社(毘沙門堂、明治の神仏分離で延喜式内偵岡神社と捏造される)、如意輪寺、極楽寺、薬師堂を残す。
また古の古跡として経蔵跡、五智如来堂跡、阿弥陀堂跡、伝釈迦堂跡、伝座主坊、伝別当坊、伝中畑坊、伝大井坊などあるいは字?として八幡堂、大日堂、ホド(宝塔)山、十王堂、伊勢堂、天王社別当、大坊、学頭坊、北の坊、上別当、下別当、窪の坊、仁坊?、東の坊などが附近に散在する。
なお、当廃寺は天安元年(857)定額寺とされた陸奥国極楽寺(「文徳天皇実録」)であろうとの推測があるが、確証を欠く。

現地説明板:国見山廃寺遺構概要図
現地説明板:国見山廃寺遺構図2

2013/09/05:
「北上市国見山廃寺跡」杉本良(「佛教藝術」Vol.315、2011 所収)
 地元研究者の司東真雄は「文徳実録」天安元年(857)記事「在陸奥国極楽寺 預定額寺 ・・・」の極楽寺が当廃寺と強く主張する。
しかし、現在に至るもこれを証明する資料は発見されていない。
 現在までに、平安期礎石建物跡は10棟確認されている。
SB001、003、010、011、120、012、043、146、125、137である。
 国見山廃寺遺構図:下に掲載の平安期主要建物跡分布とほぼ同一である。
9世紀中葉に中心堂と想定される場所に最初の掘立柱建物が建立される。この建物は数回建替えられ、10世紀中葉にはこの中心堂及びその周囲の堂が瀬石建物に建替えられると同時に、広い範囲で塔をはじめとする堂塔が礎石建物として造営される。
そして12世紀にはこれら山麓部の堂塔は消滅し、僧坊群があったと推定される内門岡の平坦地に移り、ここには小規模の堂宇跡が確認されている。

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2009/12/02追加:(写真は2008/04/04撮影画像)-----------
「国見山廃寺跡 北上市埋蔵文化財調査報告第55集」北上市教育委員会、2003 より
 2013/06/ 追加:△印の記事は「北上市国見山廃寺跡」による

○付近の屋敷名や畑地の通称として以下が残る。
仁坊(ニボ)、窪坊、東之坊、座主坊、釈迦堂、中畑坊、上別当(ウワベットウ)、下別当(シタ・・)、北坊、学頭坊、大井坊(ダイイボウ)、導師田、宝塔(ホド※)山、大日堂、八幡堂(※※)、ドウザカ、阿弥陀堂、東谷、西谷、北谷、十王堂
 ※ホドヤマは宝塔山、宝刀山、宝当山など記す。
 ※※八幡堂:昭和初期まで八幡堂があり、現在は礎石を残す。

○「江刺郡絵図」(元禄10年)
  江刺郡絵図     江刺郡絵図トレース図
極楽寺(現存)、如意輪寺(現存)、「ビシャ門」(現存・国見山神社社殿)、「明神」(現在では位置不明)、 「クハンヲン」(昭和39年まで大悲閣・現在展望台)、「八マン」(SB009か)、「ヤクシ」(現存・薬師堂)、「シャカ」(SB004か)が描かれる。
なお
その他の近世資料などから、国見山廃寺は嘉祥3年(850)慈覚大師の開基で、当初は金福山偵岳寺と号し、後に真言宗に転じ、国見山極楽寺と号するということなどが散見される。

○遺跡内平場分布図
  遺跡内平場分布図
平場は毘沙門堂(国見山神社)地区に集中し、ホド山地区は散在する。薬師堂山地区の谷筋には緩斜面の平場が多く見られる。
 (緩斜面の平場は寺院施設ではなく、古代の竪穴住居跡や掘立柱建築と考えられる。)
内門岡地区は民家建築や圃場整備で開発され、顕著な形跡は残らない。

○毘沙門堂地区調査区
現在5棟(SB010、011、012、043、120)の建物が確認されている。
東側丘陵部では礎石建物跡(SB003)を発掘。SB003は方3間の礎石建物で、一辺は4.9m(中央間は2.0m、両脇間1.4m)の規模である。礎石15個が検出される。但し東側柱礎北第2列は礎石を置かず、露出している凝灰角礫岩塊をそのまま礎石とする。

平安期主要建物跡分布

平安期主要建物跡分布:四角で囲った遺跡番号が礎石建物、他は掘立式建物

 国見山遺跡の位置:遺跡伝承などを記載した図

木造層塔跡【SB001】:礎石完存
木造層塔跡は国見神社南東約300mの丘陵(ホド【宝塔】山)頂部にある。2002年に塔跡を再調査する。
宝当山、宝刀山とも表記する。
  ○国見山廃寺塔跡発掘図1     ○国見山廃寺塔跡発掘図2     ○国見山廃寺塔跡発掘写真

塔一辺は4.5m・等間、発掘された土師器から10世紀後半の創建とされる。
なお瓦は出土せず、屋根は檜皮葺もしくは杮葺と推定される。
国見山廃寺塔跡発掘:心礎を含む17個の礎石が残り、礎石は全て自然石を用いる。
 ※2013/09/04画像入替

国見山廃寺宝塔(ホド)山:この山の頂上に塔跡がある。
国見山廃寺塔跡1
国見山廃寺塔跡2
国見山廃寺塔跡3
塔跡心礎・四天柱礎1:当廃寺の礎石は基本的に礫岩を使用する。
塔跡心礎・四天柱礎2:中央下が心礎、中央左右が四天柱礎
塔跡心礎・四天柱礎3
塔跡心礎・四天柱礎4:左図拡大図
塔跡心礎・四天柱礎5:中央縦に四天柱礎

方三間堂1跡【SB003】:礎石完存(15個残存):多宝塔跡との見解もある。
一辺は4,9m、中央間2.0m両脇間1.4m。
  ○方三間堂1発掘図     ○方三間堂1発掘写真

方三間堂跡、礎石がほぼ完存する。礎石は全て自然石を用いる。外側礎石より内側礎石は一回り大きな礎石を使用する。
瓦は出土せず、従って檜皮葺もしくは杮葺と推定される。
阿弥陀堂跡と伝承する。
多宝塔跡との見解もあるが、その根拠は礎石配列のみと思われる。
△遺構は等間ではなく、中央間が広く四天柱礎が大きいため、多宝塔であった可能性が高い。△

方三間堂1跡・礎石1:左図拡大図
  同     ・礎石2:礎石は礫岩を使用する。
  同     ・礎石3:礎石はビニール布で包まれて、埋め戻されている。
  同   ・発掘遺構
  同    ・礎石図:側柱礎の一部は露出岩盤で代用する。

△以下中心堂付近の堂宇である。△
七間堂跡【SB011】
桁行7間(9尺等間)梁間1間(18尺)の身舎に南1間(9尺)の庇を付設する。
 国見山廃寺七間堂跡:講堂跡あるいは五智如来堂跡とも伝える。
   同  七間堂発掘:7間堂礎石、SB011
   同   長堂発掘:七間堂地下の七間堂先行建物、SB013、人の立っている場所がその礎石。
△中心堂と想定される。
第1層の掘立柱建物から7間1面の礎石建物として順次規模を拡大しながら、造替されたものと推定される。この意味で国見山廃寺の根本中堂的な堂宇と思われる。
SB011は5層にわたる最上層の遺構で、11世紀の礎石建物として建立されたものと思われる。
身舎の梁間は1間であり、正面のみに廂に付く7間1面堂である。
その下の第4層は礎石建物であり、5間1面堂【SB120】の規模である。
その下の1〜3層は掘立柱建物が順次に造営されたものと推定される。△

方三間堂2跡【SB010】
経蔵跡とも伝える。一辺4.5mで柱間は等間である。
礎石7個、根石7箇所、消滅2箇所であった。
 ○方三間堂2発掘図
 国見山廃寺方三間堂2跡:ビニールシート が被せてあるのは現在発掘継続中?
△鬼瓦を含む多くの瓦が出土し、唯一の瓦葺建物と思われる。中尊寺建立供養願文では経蔵が唯一の瓦葺建物となっているので、経蔵の可能性が考えられる。△

方三間堂3跡【SB012】
一辺6.3m、柱間は2.1mの等間。礎石5個残存、根石3箇所、その他の8箇所は削平される。付近に移動した礎石3個あり。
礫岩で風化は著しい。
 国見山廃寺方三間堂3跡1:SB012
  同     方三間堂3跡2:礎石は(脆い)礫岩を使用と思われる。
△近くに江戸期の大日堂跡があるので、大日堂であるかも知れない。

△以下中心堂北側・丘陵頂部の堂宇である。国見山南尾根の高所であり、平坦地を造成する。
住吉造の堂跡【SB043】
桁行4間(4.7m)梁間2間(3.9m)で南側梁間は1間であり、これは南側に入口のある妻入の礎石建物と推定(つまり住吉造の堂宇)される。
地主神を祀った鎮守であろうか。なお遺構の下層にも住吉造と考えられる掘立柱建物が確認される。△

二間×二間堂【SB146】
【SB043】の北側にある。堂跡は環状に整形された広い平坦地の西端にある。規模は桁行2間(4.0m)梁間2間(3.0m)で、東桁行には柱がなく、東が正面であろう。恐らくは開山堂のような堂宇と推測される。△

△以下中心堂南方堂宇△
八幡堂跡【SB125など】
近世の八幡堂跡の背後に2時期4棟の建物跡が検出される。昭和初期まで八幡堂があったと伝える。

方三間堂4跡【SB137】
一辺約12mの土壇様高まりがあり、その上に正面(南)5間・背面及び両脇面3間の変則な堂跡が検出される。
礎石18個が残存する。
△柱間は等間であるが、四天柱礎は広く設定されているため、側柱のどの柱間とも一致しない。6間堂でこのような例は京都法界寺阿弥陀堂が知られる。また、両側面・背面の3間の中央間を広げ四天柱の間に合わせれば、方3間の堂(平泉中尊寺金色堂、白水阿弥陀堂、高蔵寺阿弥陀堂)となる。中央は0.5mの土盛があり、須彌檀を支える土盛であろう。これも京都法界寺阿弥陀堂の例がある。
以上から、須彌壇には丈六阿弥陀佛が安置されていたことも考えられ、そうであれば、この堂は阿弥陀堂であったとも考えられる。
 SB137遺構発掘写真

△その他の堂宇△
大日堂跡【SB122】
小規模な建物である。建物の性格は良く分からない。昭和初期まで大日堂があったと伝える。

伝釈迦堂跡【SB004】
方三間堂で廻縁が付く。一辺5.9m。

薬師堂【SB005】
【SB005】はかって存在した薬師堂跡礎石と云う。昭和40年の発掘調査時は既に薬師堂はなく、その後如意輪寺にあった観音堂の建築材を使って現在の観音堂を再興し たと云う。(再興時期は不明)

国見山極楽寺:諸史料では、新義真言宗、元は天台宗で金福山偵岳寺と号すると記録される。

観音堂(国見大悲閣):近世、別当は真言宗極楽寺、記録では南向3間四面の懸造と伝える。
明治4年、観音堂は三峰神社と改竄、極楽寺から分離される。
大正7年中腹の吹越神社(毘沙門堂)と合祠され、国見山神社(毘沙門堂)と再び捏造される。
昭和39年出火・焼失、跡地には現在RC造の展望台が建立される。

毘沙門堂:堂は3間四面と記録される。
明治4年吹越神社として捏造される。大正7年山頂の三峰神社(観音堂)と合祠され、国見山神社と改称する。
(地元民は今も毘沙門堂と呼ぶと云う。)
 毘沙門堂(国見山神社拝殿)
社伝によると
延喜式内社として、陸奥国江刺郡偵岡神社があると云う。祭神は倉稲魂命とも大物忌神とも稲荷(農業神)とも云い、偵岡神と云われた。
中世以降「世移り度々の野火で廃れ」る。明治になって国見山神社と改称する。
 ※社伝の素性が不明であるが、延喜式のころは偵岡神というのがあったのであろう。そして中世以降「廃れ」たというのが実態であろう。
そして、間違いなく、明治の神仏分離の処置で国学者・復古神道家などの輩が、なんとしても延喜式内偵岡神社を捏造するため、極楽寺毘沙門堂に眼を着け、延喜式内偵岡神社と強弁した のであろうと推測される。-----------

その他

 国見山廃寺景観1:下別当跡、如意輪寺方面を撮影
   同    景観2:如意輪寺、中畑坊跡方面を撮影
   同    景観3:中央林叢が座主坊跡

その他の什宝として、極楽寺北谷毘沙門堂(立花毘沙門堂)に毘沙門天・増長天・持国天(重文・平安)、
極楽寺に青銅龍頭・錫条杖頭(重文・平安)、如意輪寺に釈迦・文殊・普賢三尊(鎌倉初期)を残す。
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陸奥極楽寺二層塔

この塔についての情報は皆無(建築年代・規模など不明)。
木造塔と思われる。初重方3間、上重方1間のニ層塔形式を採る。組物は平三ツ斗を用いる、軒は二重平行垂木、屋根銅板葺。
形式上特異なことは、初重上に亀腹を設けることで、このため純然たる二層塔でもなく、多宝塔でもなく、上重方形の多宝塔とでも云うべき形式を呈する。
この塔には無量寿堂の扁額を掲げる。
  陸奥極楽寺二層塔1     同        2     同        3     同        4
    同        5     同        6     同        7     同        8


2008/04/23作成:2013/09/05更新:ホームページ日本の塔婆