能  登  赤  蔵  権  現

能登赤蔵山・赤蔵権現

能登赤蔵山・赤蔵権現概要

「赤蔵山縁起」「赤蔵山大権現本地仏縁起」などでは
天平2年(730)「聖武天皇東宮眼を患い給い、当山に祈願して癒え給うによって、五里の地を社領として定められた」と云う。
能登赤蔵山に大権現が鎮座との夢告により、聖武天皇中納言藤原諸末に祈願を命じ、諸末は大和多武峯・愚淵法師ほか約30人の僧侶を伴い能登赤蔵山に堂を建て祈願したところ、病気平癒と伝える。
「貞享二年由来記」では「推古天皇の御代の創建にして、別当寺院百二十坊、社領五里四方」とする。
中世には、吉見氏頼(足利尊氏与党)に組みし、結果的には多くの堂舎を焼失する。
さらに天正年間の上杉謙信の兵乱で、灰燼に帰すとも伝える。
 ※「能州赤蔵山縁起」は「田鶴浜町史(上)」に所収。
 ※しかし、中世以前の赤蔵権現の確かなことは不明とも云う。
 ※赤蔵神社に木造阿弥陀如来坐像(像高93cm)が伝来する。これは藤原期の仏の特徴を持ち、天正の兵火に遭うと伝える。
   木造阿弥陀如来坐像:2012/08/27追加:「田鶴浜町の歴史(上巻)」 より
近世、長連龍(畠山氏家臣→前田利家与党)が当地(鹿島半郡領)を領有し、赤蔵権現を祈願所として再興する。
「式内等旧社記」(承応2年・1653)では「赤蔵神社、三引保、赤蔵山鎮座、称赤蔵権現、或云赤蔵山本宮権現、祭神大己貴命」と云う。
寛文元年(1661)長連頼(前田家家老・連龍息)社領61石6斗を寄進、仁王門(現存)、講堂(現拝殿・万治2年1659)、奥の院(現本殿 ・寛文4年1664)、鐘楼(明暦2年1656)、白山社、神明社、天神社が再興される。仁王像には万治2年の墨書がある。
「赤蔵大権現由緒」(貞享2年1685)では、本社・拝殿・神明堂・白山社・講堂・鐘撞堂・天神堂・拝殿・仁王門・地蔵堂・榮春院・怡岩院があるとする。

「加賀藩内の寺社建築と神仏習合に関する研究」田中徳英<「日本建築学会北陸支部研究報告集 (45)」2002 所収>より転載
 明治の神仏 分離の処置で、赤蔵山(山号)上一本宮寺(寺号)は廃寺、大山津見神を主神とする改竄が行われ、赤蔵山大権現本地釈迦牟尼仏・講堂諸仏・仁王像・梵鐘などを、本地仏堂(新築)に移し、奥之院を本殿、講堂を拝殿とする。
明治41年一村一社令により、神明社、白山社、波仁屋社(はにやしゃ)、愛宕社、亀山天神社を廃し、五社を合祀する。亀山天神社は宝物堂とし、本地仏などを移安する。
 三重塔(塔屋敷)が現存する。:拝殿(講堂)から参道を50mほど歩くと、塔屋敷が残る。
享保2年(1717)奉納の「赤蔵山祭礼図絵馬」(祭礼額)には、三重塔の姿が描かれているという。しかし残念ながら礎石は残存せず、また建築などの記録も残存しないと云う。
現在、栄春院、怡岩院の2坊、寺坊跡、白山社跡(長氏建立・二間×二間瓦葺という、本尊十一面観音善女竜王)、神明社跡、石畳の参道、御手洗池、亀山には天神社、釣鐘堂が残る。
 能州赤蔵山之図・・・・・塔屋敷が描かれる。

能州赤蔵山之図:左図拡大図
 :江戸末期

山上の奥の院社殿に至る山腹に「塔屋敷」とある。
それは神明社の背後付近で、奥の院への参道からやや離れた山腹付近と思われる。
この図が描かれた頃には、かっては塔が建立され、その跡地があるとの伝承があったか
あるいは塔跡そのものが残存していたものと思われる。

塔屋敷以外には、本社・拝殿・神明社・白山社・鳥居・講堂・釣鐘堂・宝蔵・榮春院・怡岩院・鳥居・仁王門・亀山天神本社・拝殿・鳥居などが描かれる。

2010/10/23追加:
『能登・赤倉神社所蔵の「赤蔵権現祭礼図絵馬』について」戸澗幹夫(「石川県立歴史博物館紀要(16)」2004.3 所収) より

赤蔵権現祭礼図絵馬:この祭礼絵馬は今も講堂の長押に掲げられていると云う。

赤蔵権現祭礼図絵馬:左図拡大図
132×164cm。裏面に「享保2年(1717)・・造営之 能州鹿嶋郡赤蔵山 氏子」とある。
この図で目を引くのは三重塔が描かれていることである。
享保年中前後に塔が存在していたのであろうか。
赤蔵山には近世の文書が豊富に残るが、その豊富な文書中で三重塔の存在に触れたものは皆無である。 ※「新修七尾市史 8 社寺編」を参照せよ。
これだけ豊富な文書の中に塔の存在を示すものがただの1行もないから、近世には三重塔の造立は無かったとせざるを得ないであろう。
但し、
能州赤蔵山之図(上掲)及び能登国鹿島郡赤蔵山ノ図(下掲)では
「塔屋敷」として絵図に示されるから、近世以前に三重塔があり、その伝承は少なくとも幕末までは伝えられていたのであろう。
享保の頃、この(中世に造立されたであろう)三重塔の伝承もあり、絵馬には「往古の伽藍を偲ぶ」ような意味で、三重塔を描いたのであろう。
なおこの絵馬の三重塔は奇妙に小さく描かれる。あたかも塔は非存在であるかのようである。
この絵馬の三重塔は木造塔ではなく石造塔であったのであろうか。(かと云っても、石造塔の記録も大量に残る近世の文書中には無い。)
しかし、この三重塔の屋根は他の堂宇と同じく茶色に彩色され、屋根は茅葺の表現であり、各重には勾欄様の描写も見え、この塔は明らかに木造塔であろう。
小さく遠慮勝ちに描かれるのは、当時存在しなかった為ではなかろうか。
さらに跡地が「塔屋敷」と後世に伝承されたのであれば、そこには木造塔が建立されていたことを示すものであろう。

赤蔵権現祭礼図絵馬(模写)

赤蔵権現祭礼図絵馬(模写):左図拡大図
赤倉神社宮司・小柳正美模写、昭和22年、原本の現状は剥落が多い。
この絵馬には赤蔵山堂塔として<番号は□囲みの番号>
4:冠木門、5:怡岩院、6:乗蔵坊(退転)、7:千手院(退転)、8:榮春院、9;成福院(退転)、3:中ノ鳥居、2:仁王門、3:講堂、12;釣鐘堂、11;御神土蔵か、13:白山社、14:神明社、15:三重塔、17:御手洗池、18:奥の院本殿・拝殿、19:天神社(下段は祭礼の行列)
を描く。
なお、坊舎中現存坊舎と退転坊舎とは屋根の形が違うということで、書き分けられていることに注意。

 ※11:御神土蔵は寛文12年(1672)文書:赤蔵山堂数・社領・田所・寺社領等書上に「御神土蔵(9尺2間)」とある。

2012/08/27追加:「田鶴浜町の歴史(上巻)」 より
赤蔵山祭事現状絵図額:複写

能登国鹿島郡赤蔵山ノ図

能登国鹿島郡赤蔵山ノ図: 左図拡大図
明治元年、石川県立図書館「森田文庫目録」第412番資料

上掲・能州赤蔵山之図とは別の絵図であろうが、基本的には同一の構図の絵図である。

塔屋敷が図示される。
上掲の「能州赤蔵山之図」の位置は神明社の背後のように見えるが。
この図では白山社の背後かむしろ講堂に近い位置にあるようにも見える。

2010/10/19追加:2010/10/12撮影
赤蔵山・赤倉権現現況
赤蔵山概要図

赤蔵山には北側から
亀山天神(宝物殿・鐘楼)、
怡岩院、榮春院、坊舎跡平坦地、
仁王門、講堂、
三重塔跡、中の鳥居、
白山社跡、明神社跡、
御手洗池、本社
などが点在する。

但し三重塔跡と田鶴浜町三引区が
示す位置は疑念がある。

石敷と石階から成る参道は
榮春院付近から中の鳥居、
白山社・神明社跡を経て、西行し、
本社まで続く。

赤蔵山本宮寺塔屋敷:
現地案内板 では
「塔屋敷と伝えられています。享保2年(1717)に奉納された赤蔵山祭礼の額に三重の塔が描かれていますが、基礎石や建築の記録はありません。 田鶴浜町三引区」とある。
 赤蔵山伝塔屋敷1:中の鳥居の建つ直前右にある。写真中央やや右下に「三重の塔跡」の説明板 (写真に写る)がある。
 赤蔵山伝塔屋敷2:この場所はブッシュに蔽われ、表面観察は困難であるが、土壇などの明確な遺構が見られる訳ではない。
 赤蔵山伝塔屋敷3:塔屋敷としても、現状はやや面積的にも小さく、塔退転後、土石流とか水による侵食を受けたような地形である。

但し、以上の田鶴浜町三引区の案内板が示す塔跡には疑念がある。
まず
第1に、上にも記載したように、現実の地形はとうてい「塔跡・塔屋敷」とは思えない地形である。土石流とか水の浸食で地形が一変したので なければ、考えられない地形であろう。
第2に、鳥居直下・鳥居と軒を接するような位置に塔を建立したのであろうか。
第3に、以下の絵図と比較しても、不合理である。
 ※能州赤蔵山之図(上掲、南方が上に描かれている)では、鳥居・白山社を経て、神明社の背後(西)付近が塔屋敷として描かれる。
  <能登国鹿島郡赤蔵山ノ図(上掲)も同一である。>
この位置は明らかに、鳥居のすぐ下の参道に接する位置を三重塔跡とする「案内板」とは相違している。
そもそもこの「赤蔵山の図」はどれほど正確性に於いて信頼できるのであろうか。
 まず、図の下方の惣門跡に坊舎があり、石階を上がり、仁王門・講堂への分岐に至る、図の左の鳥居から仁王門手前の分離を経て中の鳥居に至る。以上は問題なく正確に描かれている。
問題はこの後にあるが、図では鳥居→白山社→御手洗池への分岐→神明社→奥の院と描かれるが、実際は鳥居→白山社→神明社→御手洗池への分岐→奥の院であり、分岐の位置の正確性には疑問がある。
図の描かれた当時、神明社は御手洗池への分岐を過ぎたところにあった可能性もあるが、それは良く分からない。
勿論、神明社は小宇であったので、狭小な斜面であっても建立は可能と思われるが、現地で見た限り地形的には無理と思われるし、今の跡地 として残る白山社・神明社そして御手洗池分岐の位置関係が自然ではあろう。
  <事実、赤蔵山絵図(下掲)では白山・神明・御手洗池分岐の位置関係として描かれる。>
 以上のように御手洗池への分岐の位置には、正確性に多少疑問があるが、全体として信頼の置ける絵図と評価できるであろう。
であるならば、図に示される「塔屋敷」が、塔跡が遺存していた(塔跡が当時遺存していたかどうかは不明ではある)か、または塔屋敷と伝承されていた平坦地があったことは間違いないであろうと判断される。
 繰り返しになるが、
「塔屋敷」として図に示される位置は、神明社(もしくは白山社)の背後であり、かつ奥の院への参道から離れた位置である。
そしてこの図が正確性に於いてほぼ信頼できるものである以上、「塔跡」は田鶴浜町三引区の案内板が示す位置では有り得ないであろう。

現在、図の示す塔屋敷つまり神明社の背後付近は山林であり、地形的にはやや急な斜面の山腹が迫る場所である。
果たしてここに、塔屋敷が現存するかどうかは探索していないので、それは分からない。
 (探索したとしても、ブッシュに蔽われた山林の中を、個人のしかも素手での探索は無理であろうと思われる。)
とはいうものの、「赤蔵山之図」のように、神明社背後付近の山林中に「塔屋敷」と呼ぶのに相応しい平坦地が残されている可能性は大いにあるものと 期待される。

赤蔵山中の鳥居:
講堂もしくは仁王門から本殿(旧奥の院)に向かう参道の途中にある。木造朱塗・権現造。高さは4.5m、幅は3.6m。
現在の鳥居は平成元年造替、33年毎に造替されると云う。
 赤蔵山中の鳥居:鳥居の背後、左の柱の右に写る立札が白山社跡の説明板である。その左すぐに神明社跡がある。

赤倉権現仁王門

赤蔵権現講堂

赤蔵権現奥の院

赤蔵山本宮寺仁王門:
寛文4年(1664)建立、宝暦11年(1761)再建、安政6年(1859)改築。欅材を用いる。屋根桟瓦葺。明治の神仏分離にも耐え、現地に残る。
仁王像には万治2年(1659)の胎内銘がある。
 赤蔵山仁王門1     赤蔵山仁王門2     赤蔵山仁王門3     赤蔵山仁王門4
 赤蔵山仁王像1     赤蔵山仁王像2

赤蔵山本宮寺講堂:
万治2年(1659)長連頼の建立、7間(12.7m)、奥行7間半(13.6m)の大建築である。
明治の神仏分離で赤倉神社が捏造され、その拝殿となる。
明治2年本地釈迦如来像は新築した本地仏堂に移される。同時に仁王像、講堂諸仏、梵鐘なども本地仏堂に移される。
さらに明治42年亀山天神社は廃社、その折に宝物殿となし、本地仏堂諸仏を宝物殿に遷す。その時、仁王像は仁王門戻される。
 赤蔵山講堂1      赤蔵山講堂2      赤蔵山講堂3      赤蔵山講堂4

赤蔵山白山社跡:
堂は長氏建立で、2間×2間(実寸)、屋根瓦葺。本尊十一面観音、将軍地蔵、善女竜王を安置と云う。
日露戦役後である明治39年、勅令第220号「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲渡ニ関スル件」が発せられ、この勅令に基づき各地で神社の統廃合が進められ、具体的目標として「一村一社」を目指す蠕動があった。
この一村一社の蠕動によって、明治41年廃社・赤倉神社に合祀される。
 赤蔵山白山社跡:参動脇には基壇もしくは石階と思われる石積が残る。礎石は などブッシュに蔽われ観察不能。

赤蔵山神明社跡:
長氏建立による、9尺×2間、屋根茅葺。
明治39年の勅令220号による神社統廃合(一村一社の蠕動)によって、明治41年廃社・赤倉神社に合祀される。
 赤蔵山神明社跡:土壇と思われる平坦地が残る。

赤蔵山参道:
榮春院付近から奥の院(現本殿)まで約600mにわたり、石畳の参道が続く。近世のものと云われる。
 赤蔵山参道1      赤蔵山参道2

赤蔵山本社(奥の院):
寛文4年(1664)長連頼の建立、現在は神社本社と云うも、元は本宮寺奥の院であった。
三間社流造、屋根杮葺。建物の実寸は3間×2間。本社前には元の拝殿跡礎石(2間×4間)を残す。
覆屋は大正9年の建築と云う。
 赤蔵山本社遠望:本社は覆屋に覆われる、手前に拝殿礎石が残る。
 赤蔵山本社1     赤蔵山本社2     赤蔵山本社3     赤蔵山本社4     赤蔵山本社5     赤蔵山本社6

赤蔵山影連堂:
天明4年(1784)建立、元は宝蔵であった。現在は木造長谷部影連坐像(高さ90cm)を安置する。
この坐像は鳳至郡山田村(現・能都町瑞穂)霊山寺から遷座と云うも、経緯は不明。なお長谷部影連とは不詳。
 赤蔵山影連堂

御手洗池

赤蔵山怡岩院:
高野山真言宗、天正年中焼失、長連龍により、石動山大聖坊祐栄が大聖院として再興、長家の祈願所となる。
正保2年、吉祥院と改号、承応2年(1653)怡岩院と再度改号する。
 赤蔵山怡岩院1     赤蔵山怡岩院2     赤蔵山怡岩院3

赤蔵山榮春院:
高野山真言宗、天正年中焼失、石動山の勝栄が玉陽坊として再興、後に不動院と改号する。その後、榮春院殿花渓樹盛大姉(長連龍母親)の菩提寺となり、承応2年(1653)榮春院と改号する。
 赤蔵山榮春院1     赤蔵山榮春院2     赤蔵山榮春院3     赤蔵山榮春院4

赤蔵山推定坊舎跡
榮春院から講堂に至る参道(石階)の左右にはそれぞれ2、3個の坊舎跡と思われる平坦地を残す。
 赤蔵 山推定坊舎跡1     赤蔵山推定坊舎跡2

赤蔵山亀山天神及び鐘楼・・・未見
明治28年焼失、翌29年再建、明治41年国家神道化の政策で神社の統廃合が進められ、廃社となり赤倉神社に合祀される。
廃社となった時点で、本来であれば社殿は取壊されるべきものであったが宝物殿として今に存続する。
宝物殿には以下の諸仏が奉安される。
 赤蔵山大権現本地釈迦牟尼仏像:木造立像、丈1尺2寸、秘仏(17年毎に開帳)
 白山社本尊木造十一面観音像、同脇士将軍地蔵・善女竜王像
 木造虚空蔵菩薩像、木造不動明王像、木造多聞天像、木造持国天像、木造弁財天坐像、木造阿弥陀如来坐像
 阿弥陀如来像(浦野孫右衛門信秀寄進)、木造仁王尊像(頭部のみ)
亀山天神(宝物殿)右に鐘楼が残る。鐘楼の建立は万治2年(1659)で当初は講堂右手にあった。明治元年社務所付近に移建、更に明治42年神社統廃合の際に現在地に移る。但し現存鐘楼は平成14年の建立か。
 梵鐘は明暦2年(1656)長連龍の寄進(鐘銘)と云う。
2012/08/27追加:
亀山天神社殿および鐘楼は柴田真次の経筑と云う情報mのある。
 →能登市姫神社えびす堂

赤蔵山の記録

「新修七尾市史 8 社寺編」七尾市史編さん専門委員会、2003 より
 ※この市史の巻8に近世<承応2年(1653)から明治年まで)の赤蔵山史料が数多く掲載される。
 以下ごく一部を抜粋。

赤蔵山絵図:左図拡大図
年不詳、長昭連氏蔵、穴水町歴史民俗資料館保管

年不詳とするも、坊舎の状況から江戸中期頃か。
現地と照合すれば、かなり正確な絵図(地図)であると評価できる。

なお、当図には「塔屋敷」の記載はない。
この当時はっきりとした「塔屋敷」が残っていたならば、絵図に記載されても不思議はないが、
記載が無いということは、はっきりとした「塔屋敷」の遺構は既になかったのかも知れない。

○承応2年(1653)文書:文禄元年(1592)検地水帳(写)
院主分(院主は成福寺):91石余、乗蔵坊分;8石余、大聖坊分;19石余、怡岩院分;19石余、玉陽坊分;9石余、泉従坊分;5石余、地蔵坊分;7石余 ・・・・・
地蔵院;慶安(1648-)之末逐電、それより退転、怡岩院;承応年中(1652-)火災、追院退転・・・・・
不動院を榮春院に御改名、怡岩院屋敷御寄附なされ候、吉祥院を怡岩院に御改名・・・
 ※その他、深昌坊、千手院、常蔵坊などの名が見える。
 ※この頃には7坊があり、直近まで少なくとも7坊以外に3坊の存在が知られる。

○万治2年(1659)文書;講堂造立奉行人・諸役人之記(写)
赤蔵山衆徒中
成福寺阿闍梨法師(ママ)印宥遍、乗蔵院阿闍梨弘盛、千手院阿闍梨法印宥雄、怡岩院権大僧都養伝、榮春院権大僧都法印栄遍
 ※貞享2年(1685)文書に見られるように、檀越であった当九郎左衛門(長尚連)知行所替まで 成福寺、榮春院、怡岩院、千手院、乗蔵坊の5坊が存続する。

○寛文元年(1661)文書:赤蔵山上一本宮寺社領田高并物成覚
社領田:院主、榮春院、怡岩院、千手院、乗蔵坊
 ※5坊が存続する。

○寛文12年(1672)文書:赤蔵山堂数・社領・田所・寺社領等書上
赤蔵山堂数;奥院本社(三間社)、拝殿(2間四面)、神明堂(9尺四面)、白山堂(2間四面)、講堂(7間7間半)、御神土蔵(9尺2間)、鐘撞堂(9尺四面)、仁王門(2間3間)、辻堂(2間四面)、牛鼻観音堂(2間半3間)、同所御神堂(9尺2間)、天神本社(2間2間半、新宮近年建立・・)、同拝殿(3間四面)以上堂数13
寺社領、成福寺(29石余)、千手院(6石余)、榮春院(13石余)、怡岩院(12石余)、乗蔵坊6石余)、千手院は無住。
 ※堂宇は近世を通じて良く維持される。5坊が維持される。

○延宝6年(1678)文書:堂社寺庵大破に付社領拝領願
寺庵付之覚;成福寺 無住・赤蔵山座主・延宝3年(1675)病死、千手院 無住・寛文12年病死、榮春院 老体にして一人在、怡岩院 同断、乗蔵坊 同断・・・

○天和3年(1683)文書:赤蔵山権体御尋に付返答書
・・・歴代の社領分離、今僅かに残る二ヶ寺・・・

○貞享2年(1685)文書:赤蔵山由来書上案
当山開基推古天皇御建立赤蔵権現本社神事之殿堂并供僧之寺院120坊有之・・・当九郎左衛門(長尚連)知行所替之節、右之社領御蔵入に罷成、供僧住山難成、3ヶ寺無住只今拙僧共二ヶ寺罷在候・・・
 ※「当九郎左衛門(長尚連)知行所替」の影響は大きく、天和3年(1683)文書にもあるように、5坊の維持は困難にない、以降は榮春院・怡岩院で一山を維持する。

※江戸中期には多くの堂宇修営記録などがある。
 ※堂宇の消長には変化なし、榮春院・怡岩院の両院が赤蔵山を一貫して保持する。

○安永6年(1777)文書:赤蔵山大権現交割帳
表紙に榮春院、怡岩院の名称
赤蔵山大権現御本社三間社本地釈迦如来・・・拝殿有、神明堂(9尺2間之社)、白山堂(2間四方之社)本尊十一面観音・・・、鐘楼堂(9尺四方)鐘大きさ3尺・・・、講堂(7尺<ママ>半ニ7間)本尊不動尊・・・・、宝蔵(9尺2間<ママ>)、今損シ居申候・・・、仁王門(3間ニ2間半)・・・、中之鳥居・・・、外之鳥居・・・、怡岩院無住・・・・・
・・・・
赤蔵山之御山はなれ三引村之内へ入堂社分
五社宮 本尊虚空蔵・・、隅之堂・・・、大塚般若堂・・・、牛ヶ鼻はセの観音堂・・・
 ※堂舎は良く維持される。

○慶応4年(1868)5月文書:赤蔵山大権現御神体仏像等取除方ニ付指図願(金沢波着寺宛)
赤蔵山大権現神体釈迦如来、末社神明宮、同白山宮神体十一面観音、同五社宮神体虚空蔵、大講堂本尊不動明王、仁王門仁王、仏具類、大鐘、鰐口等・・・取除方暫く寺院へ取置申候・・・速ニ御指図受申度・・・
 ※慶応4年3月中旬に神仏分離令が布達されるが、早くも同年5月にこの能登にも伝えられ、仏体・仏具・鰐口などの処置が問題となった様が窺える。

明治2年文書:王政御一新御布令之趣ニ付寺経由を以嘆願書(写)
 <怡岩院、榮春院より、本寺波着寺経由(添書付加)、寺社奉行所宛嘆願>
今般神仏混淆不相成様王政御一新御布令之趣ニ付・・・・拙寺共内壱ヶ寺は復飾神勤致べし旨御裁判仰渡せられ敬承り候、右に付両寺示談仕、(復飾神勤すべきところであるが)、幾重ニも示談方相整不申、当惑至極閉口・・・・(縷々赤蔵権現の由緒を記載)・・・・・
何卒拙寺共僧形にて是迄之姿に為され置き下され度旨、寺社奉行所へ幾重ニも・・・偏ニ奉懇願之候
 ※赤蔵権現の由緒など取調の上、両寺のうち一寺の「復飾神勤」が命じられ、それに抵抗する様が良く分かる。この嘆願に対する処置の文書を今眼にすることはできないが、結果は榮春院・怡岩院とも寺院として存続したのであろうか。
 ※復古神道(後の国家神道)は赤蔵権現を赤倉神社とし、赤蔵権現奥の院は赤倉神社本社、講堂は拝殿、仁王門は神社門と処置し、仏像と鐘などは全て取除かれる(現在は亀山天神の地にある)。その後国家神道によって山内諸神は赤倉神社に合祀される。
 赤蔵山亀山天神

2012/08/27追加:
「田鶴浜町の歴史(上巻)」田鶴浜町史編さん委員会編、田鶴浜町、1994 より
社歴については以下のように記載し、国家神道丸出しの社歴を述べないところが斬新である。
「・・古い神社であるが、延喜式内社の中に神社の名はのっていない」
「アカクラのクラは神のいますところとかまた谷と云う意味である」
「現在の神様であるオオヤマツミはイザナギとイザナミの子どもで、山の神として近代になって中央からまぬかれた神様で、古くから地元で信仰されていた氏神様ではない」
「当時の人たちには神社というよりも神仏習合の寺院として信仰されていたものと思われる」
承応2年(1653)頃は赤蔵山本宮寺と号すも、寛文元年(1661)には赤蔵山上一本宮寺と称する。
当時は院主(成福寺)、榮春院、怡岩院、千手院、乗蔵院の5坊から成る。


2010/10/19作成:2012/08/27更新:ホームページ日本の塔婆