淡 路 竜 宝 院 二 重 宝 塔 ・ 淡 路 蓮 光 寺 二 層 塔

淡路龍宝院二重宝塔・淡路蓮光寺二層塔

淡路國名所圖會(嘉永4年(1851)述作・明治27年刊):巻之2

・八幡社(洲本城辺にあり。・・・)
縁起によれば、藤原成家の創建で、八幡大菩薩を祀り、本社・拝殿・舞殿・長床・鐘楼・御供所・そこばくの伴社を建立し、
松林山常楽寺を建てたという。
竜宝院(八幡宮の傍にあり。松林山と号す。旧名常楽寺。本尊阿弥陀、仏立像、定朝作と云ふ。二重宝塔・弁財天社・地蔵堂あり。真言宗)
神宮寺(同所にあり。大悲山慈眼院と云ふ。・・・往古は当寺も八幡宮の社務を司どりしといふ。真言宗)
→以上によれば、
  竜宝院にかって二重宝塔が存在した。(ただし挿絵はありません)
  また、洲本八幡社創建時、松林山常楽寺が建立され、近世末には龍宝院と号し八幡宮の傍にあった。神宮寺も八幡宮の別当であった。
なお以下に記事が上記の記事中に混在するが、八幡社には直接の関係はない。
・洲本明神社(・・・祭るところ諏訪明神なり。・・・修験南学院に社務を司らしむ。・・鐘楼・・・金毘羅・役小角堂・・・)
南学院(・・・洲本明神の別当職なり。・・・)

竜宝院:
八幡社の北側に龍宝院という寺院があった。庚午事変による負傷者の司療処に当てられたとされる。
  庚午事変:徳島藩蜂須賀氏は、淡路島統治のため、稲田氏を洲本城代家老(1万4千石)としていたが、
  明治維新の時に様々な確執から分藩運動が起こり、遂に明治3年5月蜂須賀氏が洲本及び阿波脇町に稲田氏を襲うという
  「事変」が発生した。
  この事件を「庚午事変」と云い、これが契機で淡路は明治9年に、兵庫県に編入されたと云われる。
   (これが淡路の兵庫県編入の全ての理由なのかどうかは寡聞にして知らず)
その後、龍宝院は、神仏分離で廃寺となり、その跡には、国瑞彦神社(蜂須賀家の祖霊を祀る)が建立されたと云う。
神仏分離:
明治4年1月5日 
廃寺:洲本神宮寺、加茂宝泉寺、洲本龍宝院、下加茂宝林寺、榎列真応寺、生穂栄玄寺、鮎原延長寺、鳥飼宝樹寺、広田神宮寺、福良神宮寺、賀集神宮寺、阿万神宮寺、諭鶴羽神仙寺、阿万本願坊、上大日寺、修験三宝院当山派快楽院(午頭天王別当・宮寺)分離廃寺ほか多数の修験が廃寺。
祇園社(牛頭天王社)を八坂神社 金毘羅大権現を金毘羅神社、秋葉大権現(地蔵)を秋葉神社 妙見菩薩を妙見神社に夫々改宗改名。
「塔をゆく 第3巻」國見辰雄著:
  「この二重宝塔は明和八年(1771年)建立。洲本八幡宮隣の別当寺、竜宝院に所在。
  神仏分離によって、竜宝院は廃寺、明治五年蓮光寺住職一道和尚が蓮光寺に移築、大正11年、平成元年に大修理」
   (この情報の出処は蓮光寺住職の談であるとされる。)
 ※竜宝院二重宝塔は神仏分離で明治5年蓮光寺に移築され、蓮光寺二層塔(現状は二層堂)として現存する。

2008/05/08追加:
「淡路之城下絵図」江戸期(48×62p)より
 八幡宮常楽寺神宮寺1:部分図、洲本城北西に八幡宮があり、北に常楽寺、西に神宮寺がある。
 八幡宮常樂寺神宮寺2:上記拡大図、八幡宮と常楽寺(龍宝院)との間に門があり、その左に堂形の良く分からない堂宇がある。
    縁を巡らせた円堂のようにも見えるし、相輪をあげている訳でもないが、あるいはこれが二重宝塔を示すとも考えられなくはない。
    しかし、いずれにしろ、形態が良く分からず、その実態は不明とするほかはない。

2009/10/11追加:
淡路蓮光寺(淡路88所第2番札所)現住(蓮光寺貫主・権大僧正)から以下の寄贈を受ける。
 「蓮光寺の二重塔」奥總昭、平成19年 及び 「庚午事変」奥總昭、平成19年
蓮光寺二重塔は明和8年(1771)創建、初層は擬宝珠勾欄つきの縁をめぐらしその下には一辺に各6個の木鼻が付き、斗栱は三手先で龍の彫刻がある。軒は二重繁垂木、正面と両脇面の中央間は桟唐、背面は板張。脇間は四面と盲連子窓とする。四隅の尾垂木は天邪鬼が支える。
内部には聖徳太子と四天王が祀られる。天井は合天井。
上層は方形で組勾欄をめぐらし、斗栱は三手先。屋根本瓦葺。
 ○蓮光寺の二重塔:蓮光寺様ご提供
庚午事変:淡路洲本城代家老稲田氏は阿波蜂須賀藩の筆頭家老として、1万4千5百石を領有する。
幕末の頃、蜂須賀家14代斉裕は徳川11代家斉の子であり、一方稲田家当主の正室は公卿の出であった。
明治2年版籍奉還、これに伴う禄制改革で藩士を士族と卒族にニ階級に分離、稲田家家臣は陪臣であるため、全て卒族に区分される。
また思想的に本家は朱子学が主流で稲田家は勤皇であった。
明治3年5月13日蜂須賀本藩は洲本の稲田屋敷及び卒族屋敷を襲撃、稲田家側は即死15、自決2、重軽傷20の犠牲者を出す。
(襲撃は銃士100余名、農兵800名、大砲4門で実施)
この負傷者は龍宝院に運ばれ、ここで手当てされたが、これを契機に龍宝院の病院は一般人も対象に明治5年まで継続される。
明治3年10月太政官より稲田邦稙及び家臣に北海道入植が下達される。
明治4年廃藩置県、淡路北半分(津名郡と洲本市の一部)は兵庫県に、南半分(三原郡)は徳島県に編入、同11月には全島が名東県(徳島県が改称)に編入、明治9年淡路全島が兵庫県に編入される。

蓮光寺ニ重宝塔

上記によると明和8年(1771)建立とされる。
一辺6m、高さ約12m。聖徳太子像及び四天王像を祀るようです。
組物は唐様の三手先、柱間:中央間は桟唐戸・脇間連子窓、上下層とも高覧を載せ塔風の意匠も残す。
 ※しかし、古の龍宝院二重宝塔の形式は、現在のところ、史料もなく、不明。(「二重塔」であったのかどうかは分からない。)
現状は相輪は載せず、また正面に不釣合いな唐破風の向拝を造り、塔であったとすれば、その外観を損ねる。
古は「二重塔」であったとするならば、明治五年の移築、あるいは大正及び平成の大修理などで相輪が撤去された可能性も考えられる。
また向拝についても、移築や修理の折、附加された可能性もあるだろう。部材の代替も相当あったものとも推測される。

◆蓮光寺ニ層塔

蓮光寺二層堂1:下図拡大図

蓮光寺二層堂2:下図拡大図

蓮光寺二層堂3:下図拡大図

  □蓮光寺二層塔4  □ 同       5

2023/07/25撮影:
 蓮光寺二層塔11     蓮光寺二層塔12     蓮光寺二層塔13     蓮光寺二層塔14     蓮光寺二層塔15
 蓮光寺二層塔16     蓮光寺二層塔17     蓮光寺二層塔18     蓮光寺二層塔19     蓮光寺二層塔20
 蓮光寺二層塔21     蓮光寺二層塔22     蓮光寺二層塔23     蓮光寺二層塔24     蓮光寺二層塔25
 蓮光寺二層塔26     蓮光寺二層塔27     蓮光寺二層塔28     蓮光寺二層塔29     蓮光寺二層塔30
 蓮光寺二層塔31     蓮光寺二層塔32     蓮光寺二層塔33
 蓮光寺本堂        蓮光寺庫裡
 

蓮光寺は高野山真言宗。四国淡路第2番札所。
淡路國名所圖會では
「八幡宮(上内膳村の中央にあり。即ち岩屋街道の傍なり。鶴が岡といふ)
本殿・応神天皇、末社 住吉社・荒神祀(本社の左傍にあり)管神祀(本社の右傍にあり)」
「蓮光寺(八幡宮石段の下にあり。社僧なり。西北山遍明院と云ふ。本尊十一面観世音、坐像、長1尺6寸ばかり。古製の半鐘あり)」とあり。
鶴が丘八幡宮の社僧(神宮寺)であった。
また、記事中の「半鐘」と推定される、寺蔵の梵鐘には「文亀元年(1501)、淡州上内膳八幡宮」と追銘という。

  □淡路鶴が岡八幡宮(参道左手に旧社僧蓮光寺がある。)

「神仏習合をとおしてみた日本人の宗教的世界 2 淡路島の調査を中心として」元興寺文化財研究所、1991 より
 賀茂郷 上内膳村 八幡祠 別当蓮光寺 寛文13年の宮紀では宮坊とする。


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