参考文献:
「河内六寺あれこれ-智識寺を中心に-」高井晧(「古代摂河泉寺院論攷集 第2集」摂河泉寺院研究会、2005 所収)
★河内六寺(河内六大寺
)概要・・・・・三宅寺・大里寺・山下寺・智識寺・家原寺・鳥坂寺
◇河内六寺及び智識寺文献資料・・・六寺の中で智識寺1ヶ寺のみ文献資料が豊富である。
※2014/12/23内容追加;「河内の古代寺院物語」柏原市役所、平成13年(2001) より
「続日本紀」:
天平勝宝元年(749)聖武天皇、智識寺に行幸。
天平勝宝元年(749)八幡大神、東大寺に参拝。
天平勝宝8年(756)孝謙天皇、難波への行幸途中、智識寺の南の行宮に入る、翌日、智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂の六寺に参拝。
(己酉<25日>天皇(孝謙天皇/聖武天皇娘)知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂等、七寺に幸し、礼佛す。)
(庚戌<26日>内舎人を遣わし、六寺において経を誦え、襯施(ほどこし)を差(つか)わしあり。)
帰路も智識寺の行宮に至る。
※智識寺以外の5寺は上記の条が唯一の史料とされる。
など
◇河内六寺の位置及び想定地
河内六寺推定所在地:地図は明治44年大日本帝国陸地測量部(1/20000、古市)
※文献上の六寺は、北から三宅寺・大里寺・山下寺・智識寺・家原寺・鳥坂寺が想定されている。
一方、この地堅下地区には古代寺院跡が南北に点在し、それぞれの所在地から採った廃寺名が付けられていた。
そして、その後の研究や発掘調査の成果から次のように古代寺院跡と六寺が結び付けられるようになる。
即ち、
平野廃寺が三宅寺(未確定)、大県廃寺が大里寺(確定)、大県南廃寺が山下寺(ほぼ確定)、太平寺廃寺が知識寺(ほぼ確定)、
安堂廃寺が家原寺(ほぼ確定)、高井田廃寺が鳥坂寺(確定)である。
以上のうち、鳥坂寺・大里寺は寺名を墨書した土器が出土し確定される。
山下寺・智識寺・家原寺はほぼ間違いのない推定と思われる。
三宅寺のみは確定的物証がなく、平野廃寺が有力ではあるが、それ以外に数箇所の想定地がある。
★河内三宅寺跡(平野廃寺など)
柏原市教育委員会は現在「平野廃寺」を三宅廃寺と想定。しかしこの廃寺からは古代の明確な遺物の出土を見ないというのが現状である。
(他の5寺の位置間隔からこの平野廃寺の位置は妥当とは思われるも、考古学的裏付は皆無。)
※平野廃寺は平野若倭彦神社付近もしくはその北方100m付近という。
以上のように、平野廃寺であるとの決定的な証拠がなく、次の遺跡も三宅寺である候補とされる。
神宮寺:「平野廃寺」のさらに北の(元大県郡であった)高安郡の神宮寺
教興寺:さらに北方の教興寺(重弁蓮華紋文軒丸瓦を出土した)
「塔の本」:平野廃寺西の法善寺の「塔の本」の地籍附近
壺井寺:法善寺地区の壺井寺(白鳳期と思われる金銅仏を所蔵)・・・以上などが三宅寺の候補とされる。
★河内大里寺跡(大県廃寺)
「大県廃寺」と云われた遺跡内の石組みの井戸から「大里寺」と墨書した土師器(平安初頭)が出土、この地が大里寺跡と確定される。
2007/11/12追加:「河内六寺」平成7年度企画展、柏原市立歴史資料館編集、1995 より
「大里寺」墨書土師器
また大県の天理教会の坂下一帯の地籍「大竜寺(だいりょうじ)」は「大里寺」の転訛とも考えられると云う。
さらに附近の民家の庭石や石垣に多くの礎石の転用が見られると云う。
※今この内7個は柏原市歴史資料館庭に置かれる。
◇発掘調査:狭い範囲の発掘であったが、上記の決定的な土師器を発掘という成果があった。
○2008/11/12追加:「柏原の古代寺院址」柏原市歴史資料館、1985
「大里寺」文字
○2009/08/18追加:「河内古代寺院巡礼」近つ飛鳥博物館、2007 より
大里寺礎石 土師器鍋(大里寺墨書) 大里寺墨書文字
○2014/12/13撮影:
柏原市歴史資料館学芸員談>天理教会下の駐車場が大県廃寺跡と考えられる。
河内大県廃寺跡地:天理教会の西下駐車場を撮影、この付近(大県天理教会下駐車場/市立堅下幼稚園南)が大県廃寺跡(大里寺跡)と想定されている。但し廃寺跡を偲ぶものは何も地上にはない。
なお、「附近の民家の庭石や石垣に多くの礎石の転用が見られる」というも、付近には旧家は見当たらず、ほぼ新興住宅地の様相を呈し、それらしい旧家やましてや庭石などや石垣などを短時間で発見することはできない。
大県天理教会手水:大県天理教会にある手水鉢である。かなりの巨石であり、大きさは心礎に相応しい大きさである。しかし単に大きさが相応しいと感じるだけであり、これが心礎である確証は全くなく、またそのような伝承を聞いているわけでもない。単なる夢想である。
以下は柏原市立歴史資料館展示資料である。
「大里寺」墨書土器 大県廃寺出土瓦
大県廃寺等礎石展示1 大県廃寺等礎石展示:左の2枚の写真中「安堂廃寺礎石」が1点あり、文字入れをしているのがそれである。
大県廃寺等礎石1 大県廃寺等礎石2 大県廃寺等礎石3 大県廃寺等礎石4 大県廃寺等礎石5
大県廃寺等礎石6 大県廃寺等礎石7
柏原市歴史資料館学芸員談>附近の民家では建替などが行われ、その時資料館に庭石などが寄贈されたケースもある。但し柱座や枘孔を持つもの以外は自然石か礎石かの区別はつかない。
★河内山下寺跡(大県南廃寺)
「大県南廃寺」で「山下瀬川」(ママ)の墨書土器が出土、間接的ながら「山下」の文字資料が出土し、この地が山下寺のあった地であろうとほぼ断定される。
◇発掘調査:
地籍「山下」では瓦が出土し、窯跡とも推定される。
一方谷奥の「皿池」の真下・地籍「堂の内」では瓦の出土と塔の四柱礎石2個が土地所有者(高井利造氏)邸の庭石として残る。
山下寺礎石(高井氏邸庭石)
※四柱礎石と断定する根拠は不明
昭和57年の緊急発掘では膨大な量の瓦、鴟尾片などが出土。昭和59年の緊急調査でも瓦類を発掘。
しかし建物規模や配置についてははっきりしていないのが現状である。
平成6年の発掘調査では「尾 山下背川」(ママ)の墨書土器を発掘。地籍「山下」以外の「山下」が確認された。
2014/12/13撮影:
皿池したの真下が字「堂の内」と思われる。近年までブドウ畑であったようであるが、現在は宅地開発され、住宅地に変貌している。
現地の地上には何の痕跡も残らない。
河内大県南廃寺跡:写真中央の住宅地付近が廃寺跡、皿池から撮影。
大県南廃寺出土瓦:柏原市歴史資料館展示
柏原市歴史資料館学芸員談>まず、高井氏邸にあるという「塔の四柱礎石2個」について、礎石が塔の四天柱礎というのは根拠がない。
それと、確かに高井氏邸に礎石が2個あったということなのであろうが、高井利造氏は既に他界され、この2点の礎石について高井家々人に聞いても分からない
というのが現状と思われる。高井邸の建替が行われ、推測するに、その時に所在が分からなくなったようである。現在はどこかに移動したのか、建物の下にでも紛れたのかよく分からない
状況である。
(高井利造氏邸は現地の大県4丁目付近ではなく、柏原市太平寺2-10-19にあると思われる。)
★河内智識寺跡(太平寺廃寺)
天平12年(740)聖武天皇、盧遮那仏拝観(これは天皇の東大寺大仏造立の発願に繫がった一つ契機とも推測される。)。
※特に近年では東大寺大佛建立の原動力として「智識」といういわば組織論に重点が置かれて解説される傾向があると思われる。
2014/12/25追加;
◇「柏原市文化財ガイドシリーズ8 河内国分寺」柏原市教委、1999 及び
◇「河内の古代寺院物語」柏原市役所、平成13年(2001) より
続日本紀:「河内の國、大縣郡の智識寺に坐します盧舎那仏を礼(オガ)み奉りりて、すなわち朕も造り奉らんと欲し・・・」とあり、知識寺大仏(河内大仏)は聖武天皇東大寺建立の直接的要因であったように語られる。
なお、太平寺(泰平寺)は「聖徳太子伝私記・亦名古今目録抄」では推古天皇の勅願で聖徳太子建立という。
さらに「拾芥抄(拾芥略要抄)」(鎌倉期)では「河内國知識寺大縣郡にあり、太平寺と号す」とあるという。
また「知識寺中門天冠山観音寺縁起」では源頼朝が大平寺と知識寺の2寺を合併して1寺となすという。
太平寺と知識寺との関係の仮説
1)太平寺が聖徳太子によって創建されるも、太子一族の滅亡によって大平寺も荒廃、その跡地もしくは一隅に知識によって新しい寺院が建立される。これが知識寺である。この知識寺は聖武天皇東大寺建立発願の契機となる。
2)考古学的考察では知識寺が先であり、太平寺の方は中世以降の存在である。出土瓦・遺物などからは以上の結論となる。知識寺は平安期には倒壊し、その跡地に建立されたのが太平寺である。中世以降の太平寺は奈良期の知識寺の再興と強く意識されていたのかもしれない。
また、この地は聖徳太子の来訪が推定される地であり、古今目録抄は以上のことを意識して太平寺(知識寺)を記載したのかも知れない。
→ 聖徳太子建立46院/河内太平寺
2024/07/17追加: ○サイト:柏原市>文化財課>智識寺 のページより
◇智識寺 ◇知識と呼ばれる人々:
知識(智識)とは、仏教を篤く信仰し、寺や仏像を造るために私財や労働力を提供した人々のことという。
智識寺は、有力氏族が建てる氏寺とは異なり、おそらく大県郡を中心とする地元の知識によって、7世紀中ごろから後半あたりに建立されたと推測される。知識には一般民衆から有力者までさまざまな階層の人々が含まれ、孝謙天皇の行幸の際に、その邸宅を宿舎(行宮)に提供した茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)のような女性もその一人と考えられる。
◇聖武、孝謙天皇と智識寺 聖武天皇とつながりが深い寺院であった。 ・天平12年(740)
「続日本紀」では、難波宮行幸の際に智識寺にあった盧舎那仏を礼拝し、東大寺の盧舎那仏の造立を思い立ったという。
知識集団や民衆によって建立・運営された智識寺の在り方は、聖武天皇の心の中に深く刻まれ、東大寺建立にも反映されたと考えられる。 →【聖武の理想と暗闘/聖武の娘・孝謙天皇(称徳天皇)と僧道鏡/国家神としての八幡大菩薩】
・天平勝宝元年(749) 聖武から娘の孝謙に天皇位が譲位され、4月に大仏の鋳造が完成する。
10月孝謙天皇は茨田宿禰弓束女の宅を行宮として、智識寺に行幸し、大県郡や周辺の志紀郡、安宿郡の人民に、また河内国の66カ所の寺院の尼僧などに施し物などを授与。この行幸の目的は、大仏鋳造の報告、お礼の意味があったと推定される。
・天平勝宝8歳(756)2月 「万葉集」では、孝謙天皇は聖武太上天皇・光明皇太后とともに難波宮へ行幸し、河内六寺にも立ち寄るという。
この前後には、聖武太上天皇の病が重いという記事がしばしばみられ、事実、平城宮に戻ってすぐ崩御。 ◇智識寺の仏像:
「扶桑略記」では「応徳3年(1086)6月に、智識寺が顛倒し、6丈の捻像(塑像)の観音立像が粉々に砕けた」とある。
6丈という高さ(18m)はあまりに大きく、周尺6丈で12.6m程度とする説が妥当と考えられる。一方「続日本紀」では、東大寺大仏の手本となった智識寺の仏像は「盧舎那仏」となっている。
なお、大仏について、平安時代から鎌倉時代にかけての史料「口遊」や「二中歴」「拾芥抄※」には、「和太 河二 近三」などと記載され、「大和の太郎」が東大寺大仏、「河内の二郎」が智識寺大仏、「近江の三郎」が関寺の大仏とされている。
◇その後:
貞観年中(860年代)には智識寺に修理料を与え、河内守であった菅野豊持を智識寺仏像修理の別当に任命するなど、官寺としての扱いを受けていた時期もあったようである。その後も、藤原頼道が参詣するなどの記録がみえるが、「扶桑略記」に、応徳3年(1086)智識寺が顛倒し、観音立像が崩壊したとあり、それ以後智識寺に関する記録はみられなくなる。
◇「続日本紀」(上掲載)以外の文献資料
「日本三代実録」:
貞観5年(863)諸大寺に修理料を施入。
(諸大寺:東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺、延暦寺・新薬師寺、豊浦寺・本元興寺・招提寺・天王寺・崇福寺・智識寺、
梵釈寺・比叡西塔・東寺・西寺)
貞観8年(866)河内守菅野豊持が修理智識寺別当に任命される。
「扶桑略記」:
応徳3年(1086)河内国智識寺顚倒す、捻像大仏砕けて微塵如し云々、長六丈観音立像なり。
※諸大寺に列せられる智識寺も平安後期には衰退し退転していく様を描くものと推定される。
その他、「聖徳太子伝暦」「七大寺年表」「太子伝玉林抄」「口遊(くちすさみ)」「ニ中歴」「拾芥抄」などに智識寺の記事がある。
「河内国智識寺像 在大県郡」「智識寺号太平寺」などと知れる。
◇近世の太平寺村
寛政2年の村絵図が残る。
|
※左図は上が北になるように回転(加工)している、
地籍「堂庭」が東塔跡地で、ここから掘り出した心礎が石神社境内にあると云う。
またこの図のガラン石は中門の位置にあるとも思われる。
地籍「西塔」が西塔跡地で、ガラン石が残り、土壇と礎石がほぼ完存していたように見える。
西塔の心礎は伝承などにより、限りなく100%に近い確率で、京都清流亭に現存すると思われる。
→下掲載2)西塔心礎の項
太平寺村絵地図:
左図部分図を含む絵図部分図
<寛政2年(1790)・太平寺山本重利氏蔵>
※この絵図の方位:上が東、左が北、熊野権現は現在の石神社(現在の祭神は石長姫命、熊野権現で、石長姫命とは明治の復古神道の押し付けの類であろう)、東の地籍「堂庭」が東塔の位置、西に地籍「西塔」がある。 |
なお
太平寺村観音寺(曹洞宗)に「天冠山智識寺中門観音寺縁起」宝暦5年(1755)及び伝世の経机(「拾筒之内智識寺什ぶつ(禾偏に勿)」の墨書がある)を有し、
智識寺の後身とも思われる。※(禾偏に勿)の字は「物」の異字体という。
◇発掘調査:
昭和55年、心礎出土地点(地籍「堂庭」)を緊急発掘調査、寺院基壇と思われる4つの基壇面を検出、第4基壇面では基壇・雨落溝・石敷遺構が検出された。この面を意図的に尺で換算すると、建物規模は18尺×18尺(5.45m)、基壇は一辺56尺(16.8m)、雨落溝までは一辺70尺(21m)と考えられる。(数字はママ、巨大な塔基壇と思われる。)
平成7年、東限近くを緊急発掘、軒丸瓦3点(複弁八葉蓮華文)、基壇材と思われる凝灰岩などが出土。(中世の整地の折の遺棄地か?)
◇出土瓦:
就中、智識寺出土のN6241形式の軒丸瓦は難波宮出土瓦と同范という。
なおN6241形式瓦は四天王寺、長岡京、叡福寺(西方寺蔵)からも出土という。
智識寺のみ(他の5寺とは区別された)特別な存在であったことを示唆するものとも思われる。
◇大般若経:
五来重氏の調査によれば、かっては知識寺の智識がその名を残した大般若経600巻が高野山花園村にあった。
しかし、この大般若経は昭和28年の水害で、お経を収納した堂が流失し経も失われ、現在では、高野山霊宝館に預けていた2帙20巻のみが現存する。 (従って、現在では、五来重氏の記録でしか確認のしようが無いと云う。)
◇2011/10/15追加:
「柏原市史 第4巻 史料編(T)」柏原市役所、1975 より・・・昭和55年の塔阯発掘調査前の記述である。
河内智識寺跡実測図:図中の複線点は大和薬師寺の東西塔規模を示す。
寛政2年の太平寺村絵図(上に掲載)を現在の地図に置いたものである。
東塔跡:山本義一氏邸東南部・土蔵の建つ一画が東塔跡であることは疑いない。石神社に運ばれた心礎出土の伝承も確かであり、瓦の堆積や礎石の遺存もあると思われる。
中門跡:絵図から山本末広・奥野伊三五郎両氏邸にまたがるようである。現状は8個の礎石も土壇などの痕跡も存在しないという。
西塔跡:真野政徳氏邸がこれに当る。両塔間の距離は約50mとなる。この距離は大和薬師寺の両塔間距離より凡そ15m短い。
2014/12/13撮影:
現在、上掲の「河内智識寺跡実測図」山本ヨネ邸の入口・向かって右に新しい「現地説明板」が設置されている。そこには知識寺伽藍配置図と伽藍想像図の掲示がある。
山下邸門前入口 知識寺伽藍配置図 知識寺伽藍想像図
東塔跡は山本儀一氏邸にあるということであるが、今山本儀一氏邸は建替えられ住民が替っているようである。
知識寺東塔跡1 知識寺東塔跡2
西塔跡は真野政徳氏邸が該当するとういうことであるが、今真野政徳氏邸も建替えられ住民は新しい人のようである。
知識寺西塔跡1 知識寺西塔跡2
金堂跡は山下邸の南部分に想定される。写真中央付近が金堂跡
知識寺金堂跡
知識寺址石碑は昭和7年設置で、その位置は金堂と両塔の間を通る東西道路の一つ北側の東西道路にあり、それは講堂北辺の位置である。
知識寺石碑
◇太平寺廃寺(知識寺)心礎:
1)太平寺廃寺東塔心礎
現在は石神社境内に置かれる。(手水石として転用か。)
太平寺廃寺の伽藍は東西両塔を備える薬師寺式と云われ、この心礎は東塔心礎とされる。
東塔跡と推定される(地籍「堂庭」)太平寺2丁目山本義一氏宅地東南角の土蔵付近から出土し、現在地(石神社境内)に移したという。
2001/06/24撮影:
河内智識寺東塔心礎1 同 2 河内智識寺跡石碑
2014/12/13撮影:
太平寺廃寺東塔心礎11 太平寺廃寺東塔心礎12 太平寺廃寺東塔心礎13 太平寺廃寺東塔心礎14
太平寺廃寺東塔心礎15 太平寺廃寺東塔心礎16 太平寺廃寺東塔心礎17 太平寺廃寺東塔心礎18
太平寺廃寺東塔心礎19 太平寺廃寺有枘孔礎石1 太平寺廃寺有枘孔礎石2
太平寺廃寺出土瓦:柏原市歴史資料館展示
2個の四柱礎とともにあるというが、何を根拠に四天柱礎とするのかは不明。
なお、矢立穴は心礎を掘り出すときに割ったと云われるのは既述のとおり。
2014/12/27追加;
○「柏原市文化財概報1984-5」柏原市教委、1985 より
知識寺東塔心礎・礎石実測図
2)太平寺廃寺西塔心礎
この心礎は京都清流亭入口「寄附」にあり、十三重石塔の前に据えられている。
→京都清流亭
智識寺西塔心礎
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実測図(下に掲載)によれば
大きさは231cm以上×240cm(対角では244cm以上)厚さは57〜45cmで、径約153cmの円形に表面を削平し、その中央に径81〜84cm、深さ5cmの柱穴を彫る。
柱穴中央に方形の舎利孔を持つ。舎利孔は一辺16cm×17.5cm、深さ4cmの受蓋孔と一辺12cm(あるいは9×11cm)深さ12cmの舎利孔本体とでなる。
京都清流亭心礎:左図拡大図:河内智識寺西塔心礎(ほぼ確実)
京都清流亭心礎実測図:河内智識寺西塔心礎 |
2007/11/12追加:
・「石と水の意匠」尼崎博正著、田畑みなお撮影、淡交社、1992.より
☆参考地:智識寺南宮
太平寺廃寺と安堂廃寺の中間に「名口(なぐち)」という広い地籍が広がる。この地名は「南宮の地」(なんぐうのち)の転訛とも推測される。
またこの地から、「荷札木簡」や「掘立柱列」の出土を見る。
以上から、この地は「智識寺南宮」の跡地と推定される。
※孝謙天皇の河内六寺巡拝はこの「智識寺南宮」から始まる。
太平寺安堂地域の地籍:図中央に地籍「名口」があり、この「名口」の広さが眼を引く。
図上方の地籍「西塔」「堂庭」「中門」(「角堂」「柿添」)は智識寺の地籍、「宮ノ下」は熊野権現の地籍、
図下方の「堂の前」(「垣添」など)は家原寺の地籍。
★河内家原寺跡(安堂廃寺)
かって、塔心礎が出土する。地下2mから出土とされ、地下式心礎と推定される。
また地籍図や家屋の下に露出する礎石があったとされる。
◇発掘調査:
昭和59年塔心礎の出土地の発掘調査を実施、その結果、この周囲は近世に池が造られその石垣に礎石が転用されているのが確認される。
瓦や凝灰岩の切石も出土し、寺院跡であることは確実であるが、寺名の確定の決定的証拠は得られていない。
※礎石は1点で、現在は柏原市歴史資料館の庭に移設していると云う。
2007/11/12追加:「河内六寺」平成7年度企画展、柏原市立歴史資料館編集、1995 より
河内家原寺跡礎石:昭和59年出土
2008/11/12追加:「柏原の古代寺院址」柏原市歴史資料館、1985
家原寺跡礎石出土状態:左端が礎石 河内家原寺跡礎石2
なお
「河内国大県郡家原」と明記された荷札木簡が平城京域で出土、「家原」郷の存在は実証される。
(「和名抄」には河内国大県郡には「家原」は存在しない。)
つまり、この平城京時代には「家原」郷の存在が実証され、家原寺とは郷名寺院であったと推測されることとなる。
◇2011/10/15追加:
「柏原市史 第4巻 史料編(T)」柏原市役所、1975 より・・・昭和59年の発掘調査前の記述である。
以前に小型礎石の礎石の出土した場所が門跡であろう。塔心礎の出土した葡萄畑が塔阯で、現在も地下50cm足らずに基壇面が残る。
塔阯の西側に金堂跡が想定されるが、その基壇は完全に削平されている。この東西に並ぶ堂塔の北に講堂跡がある。現在も礎石の幾つかが住宅の床下に原位置のまま残されている。
河内家原寺跡実測図 河内家原寺塔跡金堂跡:東から撮影、中央の葡萄畑が塔跡、左端の二階家が金堂跡
2014/12/13撮影;
現状現地に於いて、寺院跡の遺構を地上に見ることはない。
河内安堂廃寺塔跡1:上に掲載の河内家原寺塔跡金堂跡と同一アングルである。向かって右手のかってのブドウ畑jは今安堂会館となる。受電ポールが建つ付近が心礎出土地と想定される。左手に写る二階建建物は昔の写真と同じ佇まいである。
なお、道路を隔て安堂会館に対面する邸宅はかなりの旧家で山下氏の表札を掲げる。
河内安堂廃寺塔跡2:向かって右の建物が安堂j会館でかってはブドウ畑であった、受電ポールが建つ付近が心礎出土地と想定される。
安堂池跡:今は埋め立てられ道路兼用広場の様相を呈する、中央奥の山門が正休寺である。
真宗大谷派正休寺:下に記載のように、大正初め彫り出された心礎は正休寺前に一時置かれたという。
安堂廃寺礎石1個及び出土瓦が柏原市歴史資料館に展示される。
河内安堂廃寺礎石1 河内安堂廃寺礎石2 安堂廃寺出土瓦1 安堂廃寺出土瓦2
◇河内家原寺(安堂廃寺)心礎:
京都碧雲荘(現在京都左京区南禅寺)に現存する。
→京都壁雲荘
河内家原寺心礎
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河内家原寺心礎:左図拡大図 安堂に山下太一郎氏という人物が在住する。
山下氏は大正初めに既に安堂正休寺前に掘り出されていた心礎を柏原駅まで「ころ」で夜間、ニ三夜かけて運び汽車の乗せた経験がある。
また心礎の上で遊んだ経験もあると云う。
碧雲荘にある心礎の写真を、この山下氏に示し確認を求めたら、間違いなくこの特徴ある石の形は安堂にあった礎石であると証言されたと云う。
一方野村徳七氏(碧雲荘を造営)は大正6年にこの地を検分し、この時礎石を運んだといわれている。
さらに翌大正7年この地で「南遊紀念茶会」を営すと云う。このことは山下氏の経験と符合する。 |
2007/11/12追加:
・「石と水の意匠」尼崎博正著、田畑みなお撮影、淡交社、1992.より
河内家原寺心礎
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河内家原寺心礎2:左図拡大図 長方形の自然石手水鉢がある。
(著者には心礎としての認識が無いと思われる。)
長さは2m以上、奥行き約1m、高さは80cm余、材質は丹波石。
平な天場の右端あたりには径45cm余の水穴が楕円形に穿れている。
正面上方には六角形の燈籠がある。
※上述のように、この手水鉢が河内家原寺から掘り出された心礎で、現段階では心礎としての加工(柱座・舎利孔など)がどのようなものであったのかあるいは「水穴」が枘孔であるのかあるいは設置時の加工であるのかなどについては不明。 |
★河内鳥坂寺跡(高井田廃寺・普光寺跡)
「高井田廃寺」と呼ばれた遺跡内の井戸から「鳥坂寺」と墨書した土師器(平安初頭)が出土、この地が「鳥坂寺」跡と確定される。
◇2011/10/15追加:
「柏原市史 第4巻 史料編(T)」柏原市役所、1975 より
享保20年(1735)の「河内志」・大県郡古跡の条に
普光廃寺 在高井田村 一名井上寺、又名鳥阪寺 とある。
(柏原の高井田廃寺は普光廃寺であり、井上廃寺でありまた鳥阪廃寺でもあると云う。)
普光寺は正倉院文書、「続日本紀」などにその名が見られる。井上寺と云うことの真偽は別にして、普光寺は鳥坂郷の郷名を負った俗称である鳥阪寺でもあったことを示す。
そして普光寺即ち鳥坂(阪)寺は「古事記」「日本書記」「新撰姓氏録抄」などに見られる「鳥取氏」の氏寺であり、塔阯に現在は鎮座する天湯川田神社はその氏神であったことは容易に推測されるところである。鳥取氏の子孫は明治期までこの高井田の地に居を構え、天湯川田神社社家として連綿と続いて来たのである。
◇発掘調査:
天湯川田神社境内に鳥坂寺塔跡がある。
昭和36年、37年に発掘調査、塔跡が出土、塔跡北辺は天湯川田社拝殿に及ぶ、基壇周辺には板石溝(巾40cm、深さ5cm)とその内側に小石敷(巾90cm)があった。板石溝の外側からの距離は東西間で11.28mを測る。
塔基壇は一辺約9mとされる。
この塔は鳥取氏の祖先の古墳上に塔が建立され、さらにその跡に天湯川田社が営まれたと考えられる。
金堂は塔の東北に位置する(字戸坂・近鉄線北側)。基壇は壇上積基壇、檀上に10個の礎石が残存、柱座は造り出さず、円孔のある礎石も見られる。南北の石階遺構が良好に遺存。堂の規模は12.6m×9.4m。
講堂は金堂の北に位置する。基壇は著しく破壊、しかし礎石は29個が遺存・6個の抜取穴が確認された。平面規模は7×4間で、5×2間の身舎に廂が付いた5間四面堂であった。身舎には仏壇が検出され、凝灰岩製切石の地覆・羽目石・葛石が残っていた。
◇心礎
塔基壇中央約40cmの地下で心礎を発見、土層の状況は心柱を粘土で巻き、さらに木炭と小石混じり土で互層に構築しているものであった。
心礎は一辺1.2の方形に近い形状で、高さ63cmの花崗岩製、上下面とも平滑で、上面に径54.5cm・深さ14cnの円穴があり、円穴中央に径10.5×15.5cmの円形舎利孔が
ある。この舎利孔の形状は円錐形。舎利孔には遺物は既になかった。
○「日本の木造塔跡」:
上述と同一の記載
○「大阪府文化財調査報告書第19輯」 より:
高井田廃寺心礎実測図
高井田廃寺塔跡平面実測図
○2006/12/20撮影画像:
塔跡は埋め戻され、現地には一個の説明板があるのみで、地上には遺跡の痕跡は何もない。本殿横の小祠の基壇に柱座を持つ寺院礎石の転用を見るのみである。なを礎石と思われる石が散在するも不明。
河内鳥坂寺心礎:現地説明板 河内鳥坂寺塔跡:地上には何も
ない 河内鳥坂寺礎石
2007/11/12追加:
○「河内六寺」平成7年度企画展、柏原市立歴史資料館編集、1995 より
出土「鳥坂寺」墨書 河内鳥坂寺心礎2 河内鳥坂寺塔雨落溝
2008/11/12追加:
○「柏原の古代寺院址」柏原市歴史資料館、1985
出土「鳥坂寺」墨書土器
2011/10/15追加:
○「柏原市史 第4巻 史料編(T)」柏原市役所、1975 より
河内鳥坂寺地形実測図
塔跡:神社の前庭に地下式心礎を持つ塔阯がある。礎石、基壇盛土は完全に削平されるも、心礎・雨落溝・石敷犬走が遺存する。
基壇規模は方27尺5寸、雨落溝内側35尺4寸から、塔一辺は13〜14尺(一辺4m内外)と推定され、小規模塔であったと思われる。
河内鳥坂寺心礎3
金堂跡:凝灰岩切石の壇上積基壇が検出される。基壇規模は60尺×50尺で南北2面に凝灰岩製階段を持つ。
基壇上面は後世の耕作で攪乱され、礎石10個が残るも、原位置を動く。
講堂跡;北辺を除き全て破壊される。
2014/12/25追加:
○「柏原市文化財ガイドシリーズ9 鳥坂寺」柏原市教委、2000 より
鳥坂寺心礎
2014/12/13撮影:
○いずれも柏原市歴史資料館展示
鳥坂寺出土土器 鳥坂寺墨書 鳥坂寺出土瓦
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★河内高井田二層塔
この地は鳥取氏の祖先が古墳を築き、この古墳上に、鳥坂寺塔が建立され、さらにその跡に天湯川田社が営まれたものと思われる。
戦後明治100年紀念として、この天湯川田社の一画に下記のような「ニ層塔」(仏塔形式ではあるが仏塔ではない)が建立された。
昭和42年頃(明治100年記念)建立。
この「慰霊塔」は以下の主旨から云えば、仏塔ではないが、形態から云えば「ニ層塔」の部類であろう。RC製。
河内高井田二層塔1 河内高井田二層塔2
・この塔の建立の主旨は以下のように述べられている。
現地「顕彰碑?」の文面:「・・この慰霊塔は明治100年を記念し、明治初年以来幾多の事変・戦争に際し、奉国の誠を捧げ戦没された本市在籍・・の英霊をまつり・・其の霊を慰めるべく・・・この地に慰霊塔を建立す。 書柏原市長何某、文何某。」
この手のものは「靖国神社と称するいかさま」だけで十分ではないか。
「幾多の事変・戦争に」天皇あるいは国家の名において、市民を総動員し、「戦没された」のではなく「戦没させた」ことを恥じよ。
何の反省もなく、戦前の多くの市民を死に至らしめた国家神道と同じ発想の人物が、例えば柏原市長(当時)などという肩書きで生延び、さらにその系譜は今も「戦後保守」という肩書きで生延びているのが実態なのであろう。
このような発想の人物に「英霊」と云われ、勝手に「奉国の誠を捧げ」などと「でっち上げ」られ、「慰霊」などされる「謂れは無い」というのが正直なところであろう。
2007/10/27作成:2024/07/22更新:ホームページ、日本の塔婆
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