1)大御輪寺
★大和名所圖會 寛政3年(1791)刊に見る大御輪寺
記事:「三輪大宮・若宮の本地仏堂2宇、三重塔、護摩堂、蔵経堂等あり。慶円法師の開基。」
かって大御輪寺は平等寺と並ぶ三輪社の神宮寺であった。
2003/8/10追加:
「三輪流神道の研究 : 大神神社の神佛習合文化」 大神神社史料編修委員会編修. 大神神社社務所, 1983より
★大御輪寺三重塔
三重塔版木
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大御輪寺三重塔版木(右図拡大
図) 弘安8年(1285)叡尊が扉を開いて入仏供養をなすと云う。
叡尊「感心学匠記」弘安8年の条、
「参三輪大御輪寺」
「於御塔、修供養法。・・・」
2間半(4.55m)四方、惣高8丈3尺(25.15m)とあり
大型塔に属する塔婆であったと思われる。 |
2003/11/25追加
★「三輪山絵図」(
室町期)部分図・・・下の「三輪山絵図」の大三輪寺部分図
2007/01/02追加:「Y」氏ご提供
絵葉書「官幣大社大神神社古図」
:紙本彩色・文政13年のものとされ、おそらく、下の室町期「三輪山絵図」の構図を参考にしたものと思われる。
2007/01/02追加:
三輪山絵図(室町
期・大神神社蔵)・・・「大神神社史料 第2巻」
より
和州三輪大明神絵図:紙本彩色・・・「大神神社史料 第2巻」
より
2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
三輪山絵図2:桃山期、大神神社蔵、向かって右には平等寺が描かれる。
★大御輪寺現状(2002/2/28撮影)
明治の廃仏毀釈で堂塔の大部が廃絶する。
地上観察する限りでは、三重塔跡は明確ではない。
しかし大和名所圖會に描かれた本堂(重文、大直禰子神社として残る、奈良時代後期の用材も残ると云う。)および塔前の丸い池は残り、その位置関係からおおよその推定は可能で
ある。
現在推定地は写真のように草地として保護される。
上記以外では、寺門は鳥居に替り、他の堂宇も廃絶するも、門前の地蔵堂(庵室)は健在である。
なお現在桜井聖林寺安置の十一面観音(国宝、天平期)は本寺の本尊で、本地仏であったと伝える。
2003/4/22追加
明治2年棟札(大神神社蔵)の要約。
「弘安8年西大寺興正上人大神参詣の折、神勅によって若宮に住職、勅宣があり、大御輪寺と改める。」
明治元年2月御一新につき、別当青雲・定眼復飾。
同5月より堂塔仏像取除。同10月神先応直(定眼)若宮神主に任ず。同10月社頭修造。
明治2年10月正遷宮の式。
以上によると、明治元年三重塔などが破壊。
近世の版木資料(上に掲載)では、三重塔規模は「二間半四面(約4.5m)惣高サ8丈3尺(約25m)」とされる。
以上の規模とすると大型塔の部類に入る。
本堂は社殿に改装:内陣中央に神殿が設置され、鬼瓦は撤去、鳥衾瓦は獅子口に変更される。
2005/01/23追加:
「旧大御輪寺本堂と安置仏像の変遷考」鈴木喜博、佛教藝術232、1997より
大御輪寺本堂の変遷:
創建当時(奈良後期)では桁行5間梁間2間の後堂(正堂)と同規模の前堂(礼堂)の双堂であった。
平安後期には礼堂の解体・改造があった。
鎌倉初期に礼堂を解体・部材を転用し、礼堂は外陣とされる。(現在の本堂の内・外陣の形式となる)
鎌倉後期に内陣の切妻を廃し、建物全体が入母屋造、本瓦葺きに改められる。内陣の床は取り払われ、土間として版築の仏壇が設けられる。
室町期の改造;内陣の土間を改め、床を張り床を作る。江戸期にも修復が実施、プランの変更を伴うようなものはなかった。
慶応4年5月仏像取除き、同10月社頭が改修(内陣中央に神殿を設ける、鬼瓦は撤去、鳥衾瓦は獅子口に変更)
明治2年10月若宮が遷宮する。
明治14年;床張替、内外陣の柱間装置撤去、内陣の観音宝龕を撤去。
2005/01/03撮影:
大和大御輪寺本堂(外観)
同 本堂(組物)
同 本堂(内部1)
同 本堂(内部2)
※大御輪寺本堂が神仏分離の破壊を免れたのは、本堂内陣の脇の間に若宮を祭祀していたため、神殿とも見做された
あるいは、本堂まで破壊すると若宮を祭祀する社殿が無くなって不都合であるとの事情もあったのではないかと推測される。
大和聖林寺十一面観音立像(国宝・天平)は大御輪寺本尊であった。
覚<聖林寺蔵>
秘仏8尺余
1.本尊十一面観世音
2.前立十一面観世音
御丈8尺
1.脇立地蔵尊・・・→明治6年大和法隆寺に移す。(国宝・平安中期)
・・・
右御一新に付、当分拙寺江慥(たしかに)預り置候、・・・・・
慶応4年5月 下村聖林寺(印)
三輪大御輪寺
大和玄賓庵不動明王(重文)、菩提山正暦寺の等身の菩薩立像2躯も大御輪寺伝来と伝える。
2007/06/26追加:
「正暦寺一千年の歴史」、1992 より
慶応4年、菩提山正暦寺、三輪大明神若宮から仏像・仏具などを受入(菩提山から三輪明神若宮へ55両さらに42両を奉納)
日光・月光菩薩像:三輪大御輪寺安置像
2003/8/10追加:
「三輪流神道の研究 : 大神神社の神佛習合文化」 大神神社史料編修委員会編修. 大神神社社務所, 1983より
★三輪明神の神仏分離
大御輪寺は本社北西に、平等寺は南に、浄願寺(尼寺)は平等寺の西に存在した。
□大御輪寺
大和聖林寺大桂和尚(兼東大寺戒壇院住職)の弟子に大心(聖林寺住)、一源(法隆寺北室院住)、廊道(大御輪寺住)がいた。かかる師弟関係で大御輪寺本尊・仏像・什物は聖林寺に移すことになった。
(本尊とは乾漆十一面観世音菩薩立像<国宝・天平>を指す。)
仁王門は安倍文殊院、四天王像(護摩堂安置)は長岳寺、地蔵菩薩像は法隆寺へ遷す。
大般若経蔵は取除かれ、大般若経600巻(元治3年11120−応安3年1370まで)は本願寺(橿原市)に遷される。
(昭和39年大神神社宝庫に保管すろことになる。)
地蔵菩薩立像(弘仁)は法隆寺北室、不動明王坐像(平安・重文)は玄賓庵、増長・多聞二天像(平安・重文)は長岳寺、半鐘(江戸)は宇陀郡円光寺、建造物の一部(元の堂名知らず)は安倍文殊院庫裏として移建(明治4-6年)という。
※安倍文殊院庫裏は大御輪寺客殿という。
□平等寺
明治維新前は本堂(南面・本尊十一面観音)、楼門、開山御影堂、慶円上人廟、鐘楼堂、護摩堂(本尊不動明王)、春日社と拝殿、東西の御供所、一切経堂(本尊聖徳太子)、大師堂(弘法大師)があった。
伽藍西方に寺門があり、参道が続き、参道北側手前から桂林院、中之坊、観音院、吉祥院、大門坊があり、大門坊南に惣門があった。西南に宝生院、多楽院、北の裏道に中院、伽藍西に堂僧篭屋、大智院があった。
慶応4年大智院(藤井覚信)、宝生院(高石覚真)、中之坊(上野光乗)は還俗復飾する。
□「三輪山
絵図・・室町期・部分図」・・・平等寺「絵葉書」より
明治元年:鐘楼堂(ニ重塔)、護摩堂などが取り壊されるという。
明治2年:平等寺仏像・経典・仏器類は近隣の寺院・民家に散逸する。
本尊阿弥陀大像、四天王4体、厨子入聖徳太子、聖徳太子7歳馬上像、同 立像、厨子入不動尊、聖観音像などは極楽寺へ、
十一面観音像、護摩壇、聖徳太子馬上御姿・童子三体(一切経堂安置)、弘法大師小像は個人宅へ、
吉祥院吉祥天、同大日如来、同金仏歓喜天、同地蔵菩薩、愛染明王、役行者、理源大師は長谷寺金蓮院へ
伽藍所本尊中尊不動明王、左久利加不動尊、大不動明王、大不動尊、弘法大師、小不動尊、役行者、理源大師などと不動尊・童子左右二座は釜口山(長岳寺)へ
吉祥院毘沙門天は個人宅預け、聖観音、大般若経600巻、大般若本尊は本願寺へ、その後聖観音は下馬先上人堂に座す、
弘法大師、金仏阿弥陀如来は個人宅預け、慶円上人像、阿弥陀如来、地蔵尊、大智院文殊菩薩などなどは個人宅預け。
※慶円上人木像は明治23年翠松庵に返納される。
聖徳太子馬上御姿・童子三体は昭和57年本堂再興を機に返還される。
なおこれ等仏像・什宝は移管先々で大切に保管されていると云う。
※2012/02/24追加:
上記釜口山(長岳寺)へ遷された諸仏の中で、木造不動明王坐像(平安後期・重文)は明治8年大和長谷寺普門院不動堂に遷されると云う。
上記記事には多くの不動明王像があり、普門院の遷されたのはどの像かははっきりとはしない。
明治3年:観音堂(3間×3間・向拝1間)取払、本尊十一面観音、大師堂(3間)
観音講は開山堂再興を企図するも、成就せず。上記復飾社僧3名は社家に列する。
明治4年:上地令 2021/04/28追加 ○「廃寺のみ仏たちは、今」小倉つき子 より 大御輪寺客殿が明治の神仏分離で、大和安倍文殊院(>参考:安倍文殊院)に移建され、文殊院旧庫裡として現存する。
覚信大和尚、覚真、光乗和尚などは吉祥院を移築し仮本堂となし、本尊十一面観音、三輪不動明王、阿弥陀如来、役行者、理源大師、慶円上人像などを守る。
明治11年摂津住吉の万平寺翠松庵の寺号を借りて移す。
昭和52年平等寺の寺号に復する。
□浄願寺
明治2年、屋敷・建物はそのままにして、稲田稲荷社を勧請、その他適当に神々を勧請合祀し、明治39年鳥居を建て、昭和41年には大神神社末社となる。
2)大和平等寺復興ニ重塔
★復興ニ重塔
寺伝では聖徳太子建立と伝え、大三輪寺と称したという。
鎌倉期慶円上人により再興、平等寺と改称し、多くの伽藍が建立される。
「三輪山絵図・・室町期・部分図」
(・・・平等寺「絵葉書」より)によると、本堂・鐘楼(二層塔に描かれています)等のほか参道付近に20坊に近い坊舎(今も坊舎跡の地形は明瞭に残る)があった。
堂塔は本堂、塔、鐘楼、慶円上人廟、御影堂、行者堂、不動堂、愛染堂などがあり、坊舎は多楽院、宝生院、大門坊、吉祥院、観音院、中之坊、桂林院などがあった
。
近年、復古調の本堂が再建される。
さらに2004年は慶円上人中興800年記念にあたり、二重塔(釈迦堂)再建の発願をする。
完成予定図から推察すれば、平等寺古図でいう鐘楼に似た姿である。
2005/01/03撮影:
室町期の平等寺境内絵図中のニ重塔から設計・復元したという。
設計施工は瀧川寺社建築と思われる。(大和岡寺三重塔・丹後成相寺五重塔も瀧川寺社建築の施工)
再興は2004年、初重3間、上層2間とする。
2005/01/03撮影:
大和平等寺ニ重塔1
大和平等寺ニ重塔2
大和平等寺ニ重塔3
大和平等寺ニ重塔4
大和平等寺ニ重塔5
大和平等寺ニ重塔6
大和平等寺ニ重塔7
大和平等寺ニ重塔8
大和平等寺ニ重塔9
大和平等寺ニ重塔10
大和平等寺本堂
3)三輪明神浄願寺
4)三輪明神
2022/09/19追加:
明治の神仏分離の処置で、三輪明神は大神神社と適当に改号される。
三輪明神には、聖徳太子の開基という平等寺と大御輪寺の他、大御輪寺配下浄願寺(尼寺)の3神宮寺があり、三輪明神を構成した。
また平等寺には多くの寺坊が付属したが、これらは3神宮寺を含め、明治の神仏分離で全て廃寺となる。
○「神社とは何か」新谷尚紀、講談社現代新書、2021 より
三輪山はその山麓の祭祀遺跡が4世紀後半からの磐座祭祀、そして6世紀後半からの禁足地祭祀へと変遷する貴重な遺跡である。
この三輪明神の創始は、記紀神話に出雲の大己貴の国造りに際して海原を照らして寄り来たった神霊を大和の三輪山に皇孫の守りとして祀ったことと伝える。
その神霊を「紀」では幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)といい、「出雲国造神賀詞」では和魂(にぎみたま)という。
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