アマチュアエコノミストの
やぶにらみ経済時評

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b です 好奇心と遊び心をもって浮世の世事全般を経済学します           If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30才前に社会主義者でない者は、ハートがない。30才過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

 われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利益にたいするかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心(セルフ・ラブ)にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてである。
個人の利益をめざす投資が、見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合も、見えざる手(Invisible hand) に導かれて、自分では意図しなかった一目的を促進することになる。  (アダム・スミス『国富論』から)
 われわれは、すべての「公平無私なる見物人(attentive well-informed impartial spectator)」がわれわれ自身の行為を検討するに違いないと想像せられるような方法でもって、自分自身の行為を検討すべく努力しなければならない。 もしも、自分自身を「公平無私なる見物人」の立場に置いてみて、我々がわれわれ自身の行為を支配したあらゆる情感や動機に徹底的に移入するならば、われわれはこの想像上の公平なる裁判官の是認に同情することによって、自分自身の行為を是認する もしもそうでなければ、われわれはこの公平なる裁判官の否認に移入して、自分の行為を断罪する。(「道徳情操論」から)

アマチュアエコノミストの やぶにらみ経済時評
米安諸色高にどう対処するか 徳川吉宗は堂島米会所、インタゲ派は予定通り? ( 2007年12月17日 )
財政・金融政策の限界効用逓減法則 発展途上から、ゆたかな社会の経済学へ ( 2007年12月10日 )
バイオエタノールの普及が日本の農業を変える 食料以外の農作物へのシフト ( 2007年5月21日 )
「まとめて買えば安くなる」は違法なのか? NOVA訴訟の資本主義的な判決 ( 2007年4月9日 )
ほりえもんモルモットへの第2楽章 挑戦者たちのノブレス・オブリージュ ( 2006年2月13日 )
リベラルとコンサバティブのコアビタシオン 社会不安が雇用促進になる? ( 2005年4月25日 )
ほりえもんモルモット論 出資者よりもその金を使う者の方が偉いのか? ( 2005年3月1日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

米安諸色高にどう対処するか
徳川吉宗は堂島米会所、インタゲ派は予定通り?
<江戸時代の「米安諸色高」の将軍吉宗の取った対策=大坂堂島米会所>  江戸時代に武士の給料は米で支払われていた。武士はこれを売りに出し、現金を手にした。 従って米の値段が高くなると実質的な給料が高くなる。逆に米が安くなると、貰った米を売ってもあまり高くならないので、実質的な給料は安くなる。
 享保年間、8代将軍徳川吉宗の時代、初めは米が高かったが、途中から米が安くなり、それでいながら諸物価は高くなるという「米安諸色高」の現象が起きた。 南町奉行大岡越前守大岡忠相は物価高騰に対して神経を使い、諸物価の値上げを抑えようとした。しかし、米安に対しては対策が打てなかった。
 江戸時代は金・銀・銅の「三貨制度」と言われているが、実際は米も貨幣の役割を果たしていた。さて、その米、戦国時代は領主は年貢として集め、「城を造る。人足として作業に参加すれば米を与える」として、領主の城建設の資金として利用していた。 江戸時代に入り、戦国領主同士の戦いはなくなり、世の中は平和になった。領主が集めた米は、城建設には使われなくなった。 そこで、米は大坂に集められ、ここで米市場が開かれるようになった。この米の取引所を主宰したのが淀屋一門で、ここでは現物取引だけでなく、現代で言うところの「デリバティブ」である帳合い取引も行われていた。 しかし、帳合い取引を主宰した淀屋は贅沢三昧をしたために幕府に睨まれ財産を没収されたと伝えられている(淀屋の闕所)。 ▲<淀屋辰五郎>▲
 この大坂堂島での米帳合い取引は、現代の先物取引、日経225の取引の原型をなす、商品取引の形態としたは非常に進んだものだったが、将軍吉宗や大岡忠相はよく理解できてなかったようだ。 初めのうち、吉宗は帳合い取引が米を価格を引き上げるとして、淀屋を追放してから後、取引所設立を許可しなかったが、米が安くなると、ここを利用して米安状態を改善しようと考えた。
 1730(享保15)年に堂島米会所設立を許可してから、幕府は度々市場に介入し、取引業者を通じて米買い占めを支持している。こうしたことにより米価格を上げられると考えていた。 自由な市場取引に介入して、商品価格を上下できる、と考えるのは市場の仕組みを十分理解できていないからなのだが、この誤りは現代でもある。平成不況のころ、年度末の株価が低いと銀行の含み資産が低くなるので、政府が介入して株価を上げるべきだ、と主張した国会議員がいた。 これを「PKO=Price Keepinng Operation」と呼んだ。
 「米将軍」と言われた8代将軍徳川吉宗は、経済にそれほど明るかったわけではないが、それでもなんとかしようと努力したことは間違いない。 そして、その結果、大坂堂島米会所という世界に誇れる先物取引市場ができたのだから、それなりに高く評価しても良いだろう。 大岡忠相は江戸の諸物価対策に手を尽くし、結果はともかく庶民には「大岡忠相さまは物価対策に知恵を絞っている」と評判は良かった。これが、江戸時代の「米安諸色高」に対する対策であった。
<現代の「米安諸色高」対策はどうなっているのか?>   日本の食料自給率は、供給熱量ベース総合食料自給率40%であったが、この40%を割ることになった。 この問題を扱うマスコミは、「大変だ、大変だ」と言いながら、ではどうするかと言うと、「大規模農業にして米を安く生産しよう」という処へ結論を持っていこうとする。 しかし、食料自給率のうち、米は現在100%だ。このことは報道しない。今後いくら米を増産しても食料自給率向上には貢献しない。
 農業問題は「自給率」「米安」「後継者不足」「遺伝子組み換え農作物」などの問題がごちゃごちゃになって議論されている。 「米安」に関して言えば、消費者の米離れが進んでいるのだから、今までと同じ生産量であれば、総需要不足、供給過多なのだから価格は低下するのが当然だ。 「減反」に対して政府の対策を批判する向きもあるが、基本的に米あまりなのだから、減反しなければ米は安くなる。これは当然のことだ。できることは、政府が備蓄米を必要以上に購入し、価格低下に歯止めかけることぐらいだ。 農水省はもっぱら自給率低下対策と地産地消推進に主力を注いでいるように見える。
 吉宗は、経済問題をハッキリとは理解できていなかったにも拘わらず、それでも何とかしようと努力はした。現代の米安諸色高に対して政府はどのような対策を取るのだろうか?
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<吉宗、忠相がとった諸色高対策>  江戸時代、将軍吉宗と大岡忠相は「米安諸色高」に取り組んだ。どのような対策を取ったのか、当時の政策を振り返ってみよう。 ここでは、いくつかの文献から関係のありそうな部分を引用することにした。
吉宗以前の物価対策、豆腐屋への値下げ勧告
 宝永3年(1706)5月、江戸市中の豆腐が馬鹿高値をつづけ、市民の問題となった。 江戸町奉行所は市内の豆腐屋全員を呼びだし「ここ数年来米価が上昇をつづけ、それにつれて他の諸色値段もあがった。幸いに昨今米価がだんだん下落しているのに、諸色値段のほうは高値のままで、いっこうに下がる気配を見せない。 とくに豆腐にいたっては、原料である大豆が一昨年には1両で8斗5升しか買えなかったのが、今年は1石2斗も買えるというように大幅安となっているのに、今以ていっこうに値下がりしないのはどういうわけか」とその説明を求めたのである。 素菓子納得のゆく説明がなかったので、江戸町奉行は豆腐の大幅値下げを命じた。多くの豆腐屋はしぶしぶ値下げに応じたが、7軒の豆腐屋は、なおも原料の苦汁(にがり)や油糟の値段が高いなどの理由を申し立てて、値下げに応じようとしなかった。 怒った町奉行はこの7軒の豆腐屋に営業停止の処分を申しわたした。これで、”豆腐高値一件”はともかく落着するのだが、この事件はいままでにみられなかった新しい物価問題が歴史に登場したことを示している。 <『大岡越前守忠相』から>
米価政策の結果
 享保時代後半期の米価(引き上げ)政策は、かなり多彩なものであった。 たとえば、それまで米の実需用を増すといって、厳しい制限下においていた酒造を、今度は逆に奨励し、それまで設けていた酒の公定価格をやめて自由な価格で売れるようにし、酒屋で資金のないものは資本の融通をするから、酒造米を多量に買い取るよう勧めたりしている。
 そして買米令を出して、幕府自ら大量の米を買い入れるとともに(このため幕府は米の買入資金として、加賀藩から15万両の借金をしている)諸大名のもその用意を命じている。 また大名たちのみならず、商人たちにも、なかば強制的に米の買入れをさせている。幕府は享保4年11月、今後は一切金銀の貸借・売掛金などについての訴訟を受理しないという”相対済し令”を出したのち、商人たちの強い撤回要求をはねのけて、それを守り続けていたが、 ついに同14年12月、買米資金の融通をつける必要から、これを撤回している。
 さらに米価が安いのは、市場(大坂、江戸など)へ送り込まれる米の量が多すぎるためだとして、天領・私領ともに米を自領に留め置くようにという置米令を出すなどした。 享保の飢饉で一時急上昇して、それなりの解決をみるかにみえた米価も、それがすぎると、また安値に落ち込んで、享保20年(1735)10月には米の最低価格を設けて、なんとしても米価の下落を防ぐかまえを見せたが、 それも効果なく万策尽きたかたちで、元文元年(1736)、金銀の吹き替えがあるからという理由で、米価政策を打ち切っている。 米価に関する限り、さすがの”米将軍”吉宗も振り回されっぱなしであった。 <『大岡越前守忠相』から>
米価政策の結果
 1723(享保8)年、幕府は江戸・大坂・京都の3奉行に対し、「米価が安くて、他の消費者物価が高いという状況を、どのように解決したらよいか」と諮問した。
 これに対し、江戸町奉行大岡越前守は、同役の諏訪美濃守(すわみののかみ)と連名で、大要つぎのような「物価引き下げに関する意見書」を出した。
 (イ) 近ごろ消費者物資が高値である原因の一つは、商人たちが少しでも多く利益を得ようと、いろいろ不正な操作をするためである。したがって、まずこのような不当な利潤を抑えれば良い。 それを実現する方法としては、取り扱い商品ごとに同業者の仲間組合を、それも問屋・小売といった流通の段階ごとにつくらせ、その仲間ごとに物価に対する責任をもたせて、たがいに監視させるようにする。
 (ロ) 消費者物価が高いいま一つの原因は、商人たちが少しでも多くの商品を手に入れようと、生産者に注文するときの値段を争って吊り上げるためである。 したがって注文の窓口を一つにして、値段を引き上げないようにすれば良い。それには、先にいった仲間組合を利用し、仲間が決めた値段以外では、一切買わないような仕組みにすれば良い。 そうすれば、生産者はまだ力が弱く、自分で生産物を消費者に売る力がないから、商品の値段は仲間が一方的に安く買いたたくことができる。
 (ハ) また、必要なときに適切な手が打てるよう、幕府は江戸と大坂の商品の動きや量を正確に知る必要がある。そのためには、全国で一番大きな市場である大坂での、商品荷物の移動調査をするとともに、江戸湾の入口の浦賀に番所をつくって、江戸に入る主な物資の調査をすべきである──。
 要するに、それまでは、儲かりそうであれば、どんな商品にでも手を出すといった雑貨屋的な商人が普通であったのを、ひとり一商品といった専門店的な商業の仕方に切り換え、しかも同一商品を扱う商人でも、問屋・仲買・小売といった商品流通の段階ごとに業務分担をさせ、そのおのおのに仲間組合をつくらせて、物価を安定させようというのである。
 この案は、一種の流通革命ともいうべき思い切った提案であったためか、「実施困難」という理由で、一度は却下された。 しかし他にこれといった名案もなかったらしく、結局幕府は、4か月のちの1724(享保9)年2月の「物価引き下げ令」に、この意見書を全面的に採用した。
 以後、商業の組織化と、商人の仲間化とはどんどん進み、問屋・仲買・小売という形に整理され、そのいうえ同業組合で、これをかためた商品流通の仕組みが急速につくられていった。 <『徳川吉宗と江戸の改革』から>
なりふりをかまわぬ「米将軍」
 江戸時代の米価が、前半期においてはたえず上昇を続けていたことは先に書いたが、経験的にこのことを知った商人が、これを見逃すはずはなかった。 買って持っておけば必ず儲かるのである。そのため、米が一番集まる大坂の商人たちも、ただ値上がりを待つためだけの買い置きに熱中するようになった。 このようにして出てきた仮需要は、また米価を引き上げる有力な原因となり、両者は悪循環を始めたのである。そこで幕府は、酒造量を減らすことで実需を減らすと共に、この仮需要をも減らそうとした。
 このような商売を、幕府は「米の不実商(ふじつあきない)」と呼んで、繰り返し取り締まった。しかしいっこうに効果はなく、五代将軍綱吉の時代には最後の手段として、闕所(けっしょ)といって全財産を没収したうえ、本人を追放するという処罰さえするようになった。 1696(元禄9)年に闕所になった網干屋善左衛門や、1705(宝永2)年に闕所処令を受けた淀屋辰五郎などは、その代表的な例である。
 吉宗が米価を引き上げるためにとったのは、ちょうどこれと反対の政策であった。1724(享保9)年、幕府は京・大坂の奉行に対して、「近頃米価が安すぎて、そのためかえって困っている人も多いので、従来米価引き下げ方策としてとってきた米の不実商の取り締まりを緩めるように」と命じた。
 仮需要を増やすことで、米価を引き上げようとしたのである。この方針は、さらに推し進められ、1728(享保13)年には、米の延取引(のべとりひき)を、黙認ではなく公認し、さらに同15年には大坂の堂島に米市場を設立して、ここで米の延取引を行わせた。 また仮需要と同時に、米の実需用も増やす必要があるというので、従来続けてきた酒造制限をやめ、酒の公定価格もなくして、資金の足らない者には幕府でそれを貸すから、どんどん酒を造るようにと勧めた。
 また幕府は、加賀藩から15万両の借金をして、みずから市中米を買い集めるとともに、諸大名にも、指示があれば米を買い入れられるよう用意することを命じた。 一方、商人たちに対しては、半ば強制的に米の買い入れをさせた。1729(享保14)年には相対済し令を撤廃したが、それも、商人たちに米を買わせる代償として、商人たちの希望も入れてやるというのが理由であった。
 しかし、いくらこのような手を打っても、市場へ入ってくる米が多すぎては効果は少ないというので、天領・私領いずれも、生産地に米を蓄えることを命じる(置米令=おきまいれい)とともに、最大の消費地である江戸・大坂・京都に対して米をまわすことを制限(廻米令=かいまいれい)し、 さらに1735(享保20)年にひゃ公定価格を設けて米価を引き上げようとまでした。
 このように米価引き上げのための吉宗の政策は、まったくなりふり構わずといったものであったので、世間ではかれのことを「米将軍」と呼ぶようになった。 <『徳川吉宗と江戸の改革』から>
<21世紀の政府は、米価引き上げのために何をするのか?>
 吉宗も忠相もその他の幕臣も、米価と諸物価対策に手を焼いていた。 まだ、経済学という学問もない時代、結果は芳しいものではなかったが、努力していたのは間違いない。21世紀の政府はどうなのだろう? 備蓄米を増やすことによって実需を増やすことぐらいしか報道されていない。何をやっても効果のないことが分かっているからかも知れない。 だとすると、「自生的秩序」という言葉をよく理解しているのかも知れない。けれども、当局は説明責任は果たさなければならない。
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<インタゲ派は物価上昇政策を主張した>  ほんの数年前に、まだデフレ・スパイラルと言われていた頃に、「インフレターゲット」と呼ばれる政策が声高に主張されていた。 どのような主張だったのか、以前に▲<経済学の神話に挑戦します 「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」という神話>▲ とのタイトルで書いたことがあるので、そこから一部引用して話を進めることにしよう。
伊藤隆敏著『インフレターゲッティング』
目次を見ると「インフレ・ターゲッティングとは何か」とあり、小見出しとして「金融政策の新しい枠組みである」「どこがすぐれているか」「インフレ・ターゲッティングの具体策」「海外先進国ではスタンダードな政策」 「インフレ・ターゲット政策はインフレ率引き上げにも有効か?」「数値目標はだれが決めるのか」「実体経済など諸要素を無視してよいわけではない」などが並ぶ。
 先ず「金融政策の新しい枠組みである」から一部引用しよう。この本は2000年11月20日初版発行。
 物価安定が目的 インフレ・ターゲッティングとは何でしょうか。簡単に言えば、年間の物価上昇率を「1パーセントから3パーセントの範囲内」といった数値目標として定め、中央銀行は、その目標を達成するように金融政策を行うと宣言することです。
 インフレ・ターゲッティングというネーミングがどうもよくないのではないかと言われます。「インフレ」という言葉には、オイルショックの時代に起きた「狂乱物価」など物の値段が暴騰するというようなマイナスのイメージがあるからです。後で詳しく説明しますが、インフレ・ターゲッティングとは、物価上昇率を「物価安定」と整合的な範囲内にコントロールすることであり、 物価を急上昇させる政策や、インフレ率が高ければよいという政策ではありません。ですから、本書では、無用の誤解を避けるためにもインフレ・ターゲッティングのことを「物価安定数値目標政策」と言い換えたいと思います。
 ただ、欧米の文献では、「インフレ・ターゲッティング」「インフレ・ターゲット」という言葉で一般化し、研究も進んでいます。ネーミングだけの問題ですので、本書では「インフレ・ターゲッティング」と「数値安定数値目標政策」の両方の言葉を使いますが、同じ意味であるということをご諒解ください。(中略)
 インフレ・ターゲッティングの具体策 それでは、日本銀行が実際に物価安定数値目標政策を導入することになったとしたら、どういう宣言が必要になるか、どういうことを発表していくかについて具体例をあげながら説明しましょう。 
 まず日本銀行が、たとえば「2年後に消費者物価指数(除く、生鮮食品)のインフレ率を1〜3パーセントの範囲にするということを目標に、金融政策を運営します」ということを宣言すれば、これは物価安定数値目標政策の発動ということになります。
 @この「消費者物価指数(除く、生鮮食品)」が目標として取り上げる適切な物価指数であるのかどうか、Aその数値を「1〜3パーセント」と設定するとはどういうことなのか、B期間を「2年後」とすることにどういう意味があるのかということについて、順に説明しましょう。
 次ぎに「インフレを起こすことはできるのか」から一部引用しよう。
インフレは必ず起こせる まず、「物価安定数値目標はたしかに好ましいし、デフレを止めるのもよいことだ。しかし、その手段がないじゃないか」という意見があります。すでに利子率(名目の利子率)はゼロになっていて、これ異常金利を下げられない状況です。そういうなかで、どうしたらデフレを止めることができるかという批判があるかもしれません。
 これに対する答えは、「インフレは必ず起こすことができる」ということです。(T注 「馬に水を飲ませることが出来る」と言っている。そうであるならば、「長期不況ということは今後起こらない」、「景気循環はなくなる」と言っているに等しい。)
 近代以降の日本、そして世界を見渡すと、これまでの政府や中央銀行にとっては、むしろインフレを止めることが非常に大きな課題でした。デフレを止めるということはほとんど経験がなかったわけですが、インフレは、金融政策を運営する限り必ず起こすことができます。むしろ、これまでのインフレの環境下では、やっていけないと言われていた、「不適切」と呼ばれるような政策を金融当局が行えばよいのです。 たとえば、大量の量的緩和や、長期債の買い切りオペの増額、さらに株式の購入などです。ただしアメリカの著名な経済学者であるポール・クルーグマンは、ある論文のなかで、このような政策のことを指して、日本銀行は、「無責任な政策」をとるべきだ、と言ったのですが、このような言い方は、世間に誤解を与えてしまったようです。
インフレをどうやって起こすのか 現在のマネーマーケットの状況をみると、いまは短期の名目利子率がゼロになっていて、しかも「積みの余剰」と呼ばれるダブついた資金が、日本銀行に預け戻されているという状況になっています。 そういった特殊な状況の中でデフレを阻止する、つまり日本銀行がこれ以上さらにお金を市場に供給するにはどうしたらいいかという、技術的な議論になってきます。
 私の提案では、日本銀行は、まず長期国債の買い増しをすべきです。これまでも日本銀行は長期国債を毎月ある一定額買ってきているわけですが、これの購入の額を増額する。よりたくさんの長期国債をマーケットから買っていくということが考えられます。 (T注 ではいくらにすればいいのか?具体的な数字がない。この本が出版された時点では、月額4,000億円の買い切りオペ、現在はその3倍の1兆2,000億円)
 この場合、注意が必要なのは、長期債を買うといった場合も、流通市場で買うのが原則で、財政法で禁じられている「国債をそのまま日本銀行に引受させる」ということは、好ましくないということです。これは、市場から買い入れることで、これを後に売却することも容易になります。 政府発行のものを「引き受ける」ということは、価格づけの考証から行わなくてはいけないので、政府が、財政規律を失わせる可能性があるからです。 (T注 「買い切りオペ」ではなく「買いオペ」を想定している。「買いオペ」=「テンポラリー供給オペ」とは短期買い現先オペ、レポオペ、手形買いオペ、CPオペなど期日が来る供給オペのこと。「買い切りオペ」=「アウトライトオペ」とは、短期国債買い切りオペか中長期債買い切りオペのこと。つまり将来日銀は国債の売りオペを行うと考えているようだ。将来売りオペを行えばマネーサプライが減少しデフレになる。)
 日本銀行が長期債を買い上げることによって多くの現金が市中に流れるわけですから、これまで長期国債を持っていた人たちが現金を手にすることになります。そうなると彼らは何か別のものを買うことになります。それは株式の購入に向かうかもしれないし、外貨預金に回るかもしれません。「今よりもう少しリスクをとっていいかな」というふうに考えるようになるだろうというのが、一つのロジックです。 株式を購入すれば、株価が上昇し資産効果によって景気はよくなります。外貨を購入すれば、円安となり輸出産業を中心に景気回復に向かいます。あるいは、消費財や投資財を買うかもしれない。その場合には直接、景気を狙撃することになります。どのようなチャンネルにしろ、景気がよくなり、デフレが止まります。 (T注 この説明は日銀の説明とまったく同じ。国債を売って儲けた人は、柳の下のドジョウを狙って、また国債を買う。これが賢い資金運用方法。) (『インフレターゲッティング』から)
岩田規久男編『まずデフレをとめよ』  岩田規久男編『まずデフレをとめよ』では多数のエコノミストが執筆している。それは次の人たち、岩田規久男・安達誠司・岡田靖・高橋洋一・野口旭・若田部昌澄。まえがきに次のようにある。
 本書は、分担執筆であり各章の最終的責任は各執筆者に属する。しかし、その内容は個々の執筆者の意見表明ではない(所属する機関の意見を反映したものでもまったくない)。 もとよりすべての論点で私たちの意見が同じわけではないが、本書は度重なる研究会や電子メールで頻繁に議論を交わした成果であり、他のメンバーの研究成果を相互に取り入れて執筆した、真の意味での協同作業の結果である。
 本の題名からしてインタゲ派であることが解る。では具体的に何を主張しているのか?TANAKAが読んで感じたポイントを引用しよう。この本は2003年2月10日初版発行。
 インフレ目標を設定せよ  ここ数年の物価下落率は、消費者物価でみて1%程度である。しかし、白塚によれば、消費者物価指数は実際よりも1%程度高くな性質があるから、実際の物価下落率は2%程度になると考えられる。
 最近10年ほどの世界各国の経験によれば、消費者物価指数の上方への偏りを除去する前の物価上昇率が、安定期に2〜3%の国は、経済パフォーマンスがきわめて良好である。この経験から判断すると、日本の物価上昇率は望ましい水準よりも3〜4%も低いことになる。つまり、望ましい物価上昇率がゼロであれば、1%のデフレはたいしたことはないと思われるかも知れないが、 2〜3%が望ましい上昇率であるとせれば、1%のデフレは経済が巡航速度で進ためには大きな障害になる。
 しかも、このデフレに激しい資産デフレが加わっている。資産デフレによって各経済主体のバランスシートが悪化すれば、各経済主体はバランスシートを改善しようとして、貯蓄に励み、リスクのある資産の獲得や設備投資を控えるようになる。そうした行動がさらにデフレを加速する。
 そこで、なんとしてもデフレから脱却することが不可欠になる。デフレからの脱却については、財政支出を民間投資誘発型にする政策も一定の効果を持つが、 (T注 ここでは財政政策の効果を認めている)根本的な政策ははじめに述べたような金融政策のレジーム転換である。
 そのようなレジーム転換を図るためには、まず、金融政策の目標としてインフレ目標を設定することが必要である。インフレ目標を採用している国は、1〜3%の間にインフレ目標を設定し、実際の物価上昇率を、2.5%程度に維持しながら、日本よりも高い2〜4%程度の実質経済成長を長期的に維持してきた。 この日本と比べた経験は、デフレ下では、すでに述べたような様々な解決困難な問題が発生し、産業構造調整も進まないが、マイルドなインフレであれば、そうした難問に遭遇することなく、産業構造調整もスムーズに進ことを示している。
 そこでまず、インフレ目標の下限を1%、上限を3%程度に設定する。しかし、インフレ目標を設定しても、いつまでに達成するかを明示しなくては、誰も金融政策を信用しない。過去の歴史的事例をみると、金融政策をはっきりとリフレ政策にレジーム転換すれば、1年以内にデフレから脱却できると考えられる。 したがって、日銀は1年以内(長くても2年以内)にインフレ目標を達成すると宣言し、そのためには、できることはなんでもやるという姿勢、すなわち、インフレ目標への強いコミットメントを鮮明にする必要がある。
 長期国債買いオペを大増額せよ  これまで日銀は、長期国債の買いオペ額は月額8000億円に制限するとか、日銀が保有する国債の残高を日銀見の発行残高に抑えるといった制限を設けてきた。そのような制約はすべて取り払うことが必要である。 長期国債を買っていく、あるいは、ドル建て債を同時に定期的に買うことも、早期に円安を誘導し、デフレを脱却する上で有効であり、考慮に値する。 (T注 制約を取り払っていくらにするのか?)
 この政策では、銀行が発行市場や流通市場から長期国債を購入し、その国債を日銀が購入するということが、大量に繰り返される。銀行が市中から長期国債を買うときには、銀行は購入先の預金口座の預金を長期国債代金だけ増やすことによって支払うから、預金(マネー)が市場に大量に出回ることになる。
 日銀は、マネーはすでにじゃぶじゃぶだと主張してきたが、企業と家計はそうしたじゃぶじゃぶのマネーを飲み込んだ上で、なおも、現金や預金の保有を増やし続けている。それは、人々や企業の間にデフレ予想がすっかり根を下ろしてしまい、マネーを持っていればデフレ分だけ利子がつくと思っているからである。 このような状況で、デフレから脱却してマイルドなインフレに移行するには、まず、日銀がインフレ目標の実現に強くコミットした上で、大量のマネー需要を飲み込む以上に、マネーを供給し続けることが必要である。そのことによってはじめてデフレが終息し、インフレ予想も形成されるようになる。
 デフレは「貨幣的現象」であり「実物的現象」ではない  デフレーションとは、いうまでもなく、一般物価の下落である。逆にいえば、財貨サービスに対する貨幣の価値の上昇である。バブル崩壊後の日本経済では、消費者物価指数、卸売物価指数、GDPデフレーターの上昇率が低下し続け、卸売物価上昇率は91年末から、GDPデフレーターの上昇率は94年後半から、 消費者物価上昇率は98年後半から、ほぼ恒常的にマイナスに転じた。まさに、デフレである。 
 奇妙なことに、この日本のデフレーション=貨幣価値の上昇について、一部の論者は「実物的現象であって貨幣的な現象ではない」という主張を行っている。たとえば、元日銀副総裁の福井俊彦氏(T注 現日銀総裁)は、「いまのデフレは、単なる貨幣的な現象を超えた根深いものだ。 国債競争の激化により、物価は世界的に下がっており、円高が加わる日本では高コスト構造の是正や産業の整理が避けられない。だから金融政策だけでデフレが解消できると考えるのは間違いだ」と述べている。また、野口悠紀雄氏も、「物価下落が生じている基本的な原因は、中国の工業化などのリアルなものだ。こうした問題を金融政策で解決することはできない」と主張している。
 このような主張の当否を明らかにするためには、まず、名目と実質、あるいは貨幣と実物という区別の意味を明確にしておく必要がある。貨幣とは本来、経済循環を媒介する標章にすぎない。経済活動の実体=「実物」とは、生産や消費および投資の直接の対象である財貨や」サービスにある。 名目と実質、貨幣と実物という区分は、インフレやデフレのような貨幣的な変化を、財貨サービスの生産増大や相対価格変化のような実体経済そのものの変化と区別するためのものである。したがって、「実物的なデフレ」といったものは、そもそも概念として成立しないのである。
 にもかかわらず、一部の論者が「貨幣的な出樹売れ、実物的なデフレ」なる珍妙な区別を持ち出すのはなぜなのだろうか。それはおそらく、「貨幣の長期的中立性、短期的非中立性」という考え方を誤解しているためと思われる。つまり、なぜかこれを誤って「デフレは長期においては貨幣的現象だが、短期では実物的現象だ」というように考えてしまっているのである。 しかし、「貨幣の長期的中立性、短期的非中立性」が意味するのは、「貨幣は長期には実物経済に影響を与えないが、短期では影響を与える」ということである。つまりそれは、長期にせよ短期にせよ、「実物的なデフレ」なるものとは、まったく無関係なのである。 (『まずデフレをとめよ』から)(T注 これを簡単に言えば「インフレはいつ、いかなる場合も貨幣的現象である」となる。あるいはルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの喩えも分かりやすい)
<新保庄二著『新しい日本経済講義』効果低下と効果ゼロとは大違い──マネタリーベース増の効果  量的緩和の効果を巡っては意見が大きく分かれているのが実状です。過去においてはマネタリーベース増加率とマネーサプライ増加率の関係は密接でした。ところが、バブル崩壊後この関係が乱れてきています。
 90年代に入ってからマネーサプライ増加率がマネタリーベース増加率を下回る傾向が見られます。言い換えれば、貨幣乗数(=マネーサプライ/マネタリーベース)の低下傾向が見られるということです。とくに日銀は2001年春先から「量的緩和政策への転換」を表明し、現実にもマネタリーベースの増加率を大きく高めてきていますが、それに見合ってマネーサプライ増加率が高まっていません。
 このようにマネタリーベース増加率とマネーサプライ増加率の関係が変わってきたのは事実ですが、その程度をしっかり把握する必要があります。というのは、関係が全くなくなったのであれば、マネタリーベースを増やす政策をやる必要はありません。しかし、関係が弱くなっただけであれば、マネタリーベースを強力に増やす必要があるからです。その点を調べてみましょう。
 ここからは、ややめんどうな式や計算がでてきますが、決して難しいわけではありません。189ページまでは、実際に貨幣乗数が低下していることを理論的・実証的に確かめる作業です。(中略)
 このことは、近年においてもその影響力は小さくなったものの、依然マネタリーベースを増やせばマネーサプライが増えるという関係がが損さしているということを示しています。
 つまり、マネタリーベース増加率がマネーを増やす効果が小さくなったというのは事実ですが、ゼロになったということではないということです。このことは重要です。効果がゼロになったのなら、量的緩和という政策は取る意味がありません。しかし、底効果が小さくなったということであれば、全く話は別です。より思い切って量的緩和をすすめるべきだという結論になるからです。 (『新しい日本経済講義』から)(T注 上にも書いたが、銀行貸出が増加し(原因)、マネーサプライが増加したことによって、準備金が増加し、日本銀行当座預金残高が増加し(結果)、マネタリーベースが増加するのだが、この本の著者の論理では、「マネタリーベースが増加すると(原因)、マネーサプライが増加する(結果)」と因果関係が逆になってしまう。
 マネタリーベースは銀行貸出(信用創造)によって必要となった分だけ伸びてきた。それが量的緩和政策によって必要とする以上に積み上がってきた。この因果関係を理解すれば貨幣乗数の低下は簡単に理解できるはずだ。)
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<小宮隆太郎=インフレ・ターゲット論は日銀への”嫌がらせ”>  インフレ・ターゲット論を主張するエコノミストは多い。しかし、それを正面から批判する人は少ない。赤信号で横断歩道を渡っている人がいても、それが大勢だと「赤信号ですよ。危険ですよ」とは注意し難い。 そんな中で小宮隆太郎が実にハッキリ言っている。 こういうセンス、好きなのでここに引用することにした。
 日銀あるいは政府、あるいは両者が、ゼロ%よりも上のインフレ・ターゲットを設定すべきだと主張する人が多い。現状では要するに日銀に対する”嫌がらせ”のようなものである、と私にはみえる。 それは、現状では政府あるいは首相に、1%、あるいは2%以上の「経済成長率ターゲット」を設けよ、という主張と同じようなものである。 いずれもできそうもないからである。ターゲットを設けても守らなくても構わないのであれば何のことはないが、インフレ・ターゲット論者は、ターゲットを設けて「達成できなかったときには責任をとれ」と、身構えてターゲット論を主張しているわけである。
 金融政策に携わる人々は、インフレ率をゼロ以上にしたいと思い、政府の経済政策に携わる責任者達は成長率を少なくともプラスに、できれば2%か3%にしたいと思っているに違いない。 しかしそのための方法がないのが現状である。そういう現状でゼロ以上のインフレ・ターゲットを設定せよというのは、要するに金融政策を担当する日銀に対する”嫌がらせ”に過ぎない。 インフレ・ターゲットをゼロ以上にせよと言っている人が提案している金融政策の具体案も、説得力のあるものではない。 (『金融政策論議の争点』から)
 日銀にインフレ・ターゲットの設定を求める声が高いが、現在の日本では、それは総理大臣に「経済成長率ターゲット」の設定を求めるのと同様に、一種の「嫌がらせ」に過ぎない。 物価上昇率をプラスにすること、実質成長率をせめて2%くらいにすることが望ましいことは、誰も百も承知のことだが、そのための手段がなかなか見つからないのが現状である。 (『金融政策論議の争点』から)
<小宮隆太郎=量的緩和策は「隠れた補助金」>  日銀の中長期国際買入れオペに「札割れ」がなく、応札倍率が結構高いのは、応札したものが落札すれば一般の流通市場で国債を売却するよりも有利だからで、そこに応札者にとって「妙味」があるからではなかろうか。現先取引等について「札割れ」が頻発するのは、日銀が「量的緩和」政策で余剰のリザーブを遮二無二供給しようとするときに、現先取引のような短期資金の貸借取引には、そのような「妙味」がないからであろう。 そして短期国債の買い切りオペは、両者の中間なのであろう、と推測する。
 以上のことから私が理解したもう一つのことは、現在の日本の短期金融市場の仕組みでは、長期国債の買い切りオペの金融政策上のメリットは、それによって差し当たり確実にリザーブが供給できる、ということであろう。 つまり長期国債の買い切りオペは少なくともこれまでのところ、1回も「札割れ」を起こしていない。これに対して短期の現先等による資金供給(オペ)は、頻繁に「札割れ」を起こしている。また短期のオペでは、満期がすぐに到来するから繰り返し頻繁にオペを実施しなければならず、その事務量が多大になり、日銀側にとっても民間の銀行・証券会社の側にとっても煩雑である、という問題もあるらしい。ただし、後者の場合「札割れ」の頻発は、一つには前者によって民間銀行の必要とするリザーブが供給されてしまうからであろう。 そして日銀が目指す「超過準備」の額があまり大きくなると、やがては長期債オペについても「札割れ」が生じるようになるかもしれない。
 もしいま述べた推測が正しいとすれば、「量的緩和」政策のもとで巨額の「超過準備」の供給・維持は、前記の応札者にとっての「妙味」、つまり一種の「隠れた補助金」(implicit subsidies)によって支えられているものである、と解釈される。もしそうであれば、それは有意義な「補助金」なのか、ということが問われるだろう。 (『金融政策論議の争点』から)
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<現代の諸色高はインタゲ派が待ち望んだマイルドなインフレなのか?>  原油価格が上昇し、ガソリンスタンドでのレギュラー・ガソリンの価格が150円になろうとしている。 一般家庭は勿論、輸送業界が悲鳴を上げている。バイオエタノールの原料としてトウモロコシの価格が上昇し、アメリカの農家がダイズからトウモロコシに作付を変更した。 これによってダイズ価格が上昇し、その製品価格が上昇している。マヨネーズに影響が出て、植物油も影響を受ける。小麦の価格が上昇し、パンの値上げが始まった。
 デフレに慣れていて物価上昇にマスコミは驚いているようだ。けれども、インタゲ派の主張は「デフレは良くない、マイルドなインフレが望ましい」とのことだ。それならば、最近の諸色高はインタゲ派の主張する状況と言えそうだ。 その割にインタゲ派の声が聞こえて来ない。「われわれの主張するインフレ状況になった。これでデフレが解消し、経済が健全な状態になった」との声が聞こえてこない。
 インフレ・ターゲットを主張した人たちは「物価上昇は良いことです。これで日本は不況から脱したということです」と説明しなければならない。 日銀を批判するだけ批判して、自分たちの主張するインフレになったときに、何も説明責任を果たさない。これでは、単なる経済問題の野次馬でしかない。
 住専問題のときも、政府の住専処理策を批判した人たちがいた。TANAKAが▲<住専処理に税金投入は当然>▲を書いた当時、 日本のテレビ・新聞・雑誌などのマスコミは「住専処理に税金を使うな」との一大キャンペーン中でした。あのキャンペーンに参加したジャーナリスト・評論家・エコノミストはその後どうしているのでしょう?「農協の一つや二つ破綻してでも裁判で決めるべきだった」、「たとえ株主訴訟を起こされても、母体行が負担すべきだった」、「不良債権は増えるかもしれないが、ことを荒立たせないために問題を先送りすべきだった」と言っているのでしょうか? 解説者・評論家・予想屋・占師・傍観者に徹して自分の立場を明確にしなかった人はなんと言っているのでしょうか?
 同じように、日本がコメ不況で外国から米を輸入したとき ▲「タイ米を買うことは、タイに迷惑だ」▲と主張した人たち。 その後、どのように考えているのでしょうか?
 インフレ・ターゲット論者に関しては、次を参照のこと。 ▲<参考文献・引用文献>▲
<マイルドな物価上昇は健全な経済の証>  インフレターゲット論は日銀に対する”嫌がらせだ”と言い切った小宮隆太郎だが、 「物価上昇率をプラスにすること、実質成長率をせめて2%くらいにすることが望ましいことは、誰も百も承知のことだが、そのための手段がなかなか見つからないのが現状である」と言っている。
 原油高から始まった最近の物価上昇、それぞれいくつか原因は違うが、生活密着用品が値上げしている。幸いマスコミはヒステリックにはなっていない。 けれども経済学者は黙っている。「これは健全な経済状況です」と解説しなければならない学者が黙っている。
 普通に考えると、経済が成長し、それによって物価が上昇することは健全だと言える。今回のような状況、つまり、物価上昇から始まり経済が成長するようなる状況も容認すべきだと思う。 ただ、マイルドなインフレは価格を上げることのできる業界・企業とできない業界・企業で利益に差が生じる。結果平等主義者の批判する「格差」が生じることは認めなければならない。 格差が生じることによって、生産性の低い業界・企業が以上から撤退していくことによって、経済全体の生産性が向上する。
 冷たい言い方だが、「経済が成長すると言うことは、生産性の低い部門が撤退していくことでもある」と言える。
 「やぶにらみ経済時評」とのタイトルではじめたホームページ、あれだけ強力に「インフレ・ターゲット」を主張していた学者が黙っていると、かえってハッキリ言わなければならない、と思うようになった。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『大岡越前守忠相』                             大石慎三郎 岩波新書    1974. 4. 2
『徳川吉宗と江戸の改革』                          大石慎三郎 講談社学術文庫 1995. 9.10
『大岡忠相』                                  大石学 吉川弘文館   2006.12.20
『インフレ・ターゲッティング』物価安定数値目標政策              伊藤隆敏 日本経済新聞社 2000.11.20
『まずデフレをとめよ』 安達誠司・岡田靖・高橋洋一・野口旭・若田部昌澄著・岩田規久男編 日本経済新聞社 2003. 2.10
『新しい日本経済講義』社会人講座 エッセンスだけをわかりやすく        新保生二 日本経済新聞社 2004. 1. 5
『金融政策論議の争点』  小宮隆太郎・吉川洋・岩田一政・岩田規久男・香西泰・新保生二他 日本経済新聞社 2002. 7. 8
( 2007年12月17日 TANAKA1942b )
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財政・金融政策の限界効用逓減法則
発展途上から、ゆたかな社会の経済学へ
<ビールは最初の1杯目が1番美味しい、それでは財政政策はどうだ?>   経済学の教科書の初めの方で「限界効用逓減の法則」を学ぶ。その限界効用逓減を「ビールは最初の1杯目が1番美味しい」との表現で説明すると分かりやすい。 ではその「限界効用逓減の法則」が現実の経済ではどのような場面で登場するのだろうか。ここでは、財政政策について、「限界効用逓減の法則」が働いている、との話を進めることにする。
 景気が悪くなると産業界から財政政策を要望する声が大きくなる。具体的に何を要求しているかと言うと、「政府は国債を発行して、それを財源にして公共事業を行え」との要求だ。 その根拠とは「景気が悪いと言うことは、総需要が足りないのだから、政府は赤字国債を発行してでも政府支出を増やし、景気を刺激せよ」ということだ。
 こうした政策を「ケインズ政策」と言う。政府が財政支出を増やす方法は他にもある。国債を日銀引受とする方法。ただしこれは財政法第5条で禁じられている。 理由は、日銀がいったん国債の引受けによって政府への資金供与を始めると、その国の政府の財政節度を失わせ、ひいては中央銀行通貨の増発に歯止めが掛らなくなり、悪性のインフレーションを引き起こすおそれがあるからだ。 そうなると、日本の通貨や経済運営そのものに対する国内外からの信頼も失われてしまう。 これは長い歴史から得られた貴重な経験であり、わが国だけでなく先進各国で中央銀行による国債引受けが制度的に禁止されているのもこのためだ(これを「国債の市中消化の原則」と言う)。
 財政法第5条: すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない。
 この日銀引受よりも、もっと節度のないのは、政府が勝手に通貨を発行してしまうことだ。日銀引受でも、いずれは国債を償還しなければならない。ところがこの方法は国債を償還しない。 江戸時代の金貨改鋳がこれに当たる。
 さて、この国債の市中消化が本当に景気刺激策になるのだろうか?国債を発行するということは、国債を売って市中から通貨を減らすことになる。つまり通貨を民間が使うか?政府が使うか?の違い程度でしかないだろう、となる。 これに関しては▲「日本版財政赤字の政治経済学」▲で書いた。ここでは違った面から考えることにしよう。
<インフラが整備されると、経済が刺激される>  戦争直後、日本の道路は未舗装部分が多く、物流のトラックはガタガタ道を走らなければならなかった。 日本列島の主要道路である国道1号線でさえ未舗装であった。この未舗装の道路を、国債を発行したのを財源にして舗装すれば、物流システムは元気になる。トラック輸送が活発になれば経済を刺激する。 上下水道にしてもそうだ、自治体が債権を発行し、それを財源に上下水道を整備すれば、住宅地として高く売れる。宅地が造成されれば町が活性化する。
 東名道路が開通し、東海道新幹線が走り始めた頃に、公共事業の景気刺激効果が薄れてきた。日本のインフラがビールをいっぱい飲んで、有り難みが薄れ始めた頃だった。 これはマクロ経済的にみた公共事業であったが、財界には違った見方があった。貨幣を民間が使えば何に使うかは予想できない。政府が使えば、何に使うかを指定できる。 ゼネコンを窓口に通貨をばらまき、特定の業界を支援し、経済を刺激することができると考えた。つまり、市場に訴えずに需要を伸ばすことができる。レント・シーキングが始まった。 こうして、経済刺激効果は少なくなったが公共事業に対する期待は減らなかった。このため、国債を発行しての経済刺激効果についての否定的な経済学者の主張はあまり聞かれない。
<ゆたかになってビールがいっぱい飲めるようになった>  国債を発行して、それを財源に公共投資を行うと景気が刺激される。その効果が薄れてきたということは、日本がゆたかになってインフラ整備の限界効用が低下したわけだ。 これをビールに例えると、1杯飲んで、もう1杯飲んで、その内に十分飲んで、ビールのうま味効果が薄れていた、ということは、日本がそれだけゆたかになった、ということだ。 それに気が付かず、何時までも公共都市が景気刺激策であると錯覚していると、財政赤字が大きくなり、国債償還残が大きくなる。国の借金が膨らみ財政不安が高まる。 これは、日本がゆたかになったことに気がつかないからだ。
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<ビールは最初の1杯目が1番美味しい、それでは金融政策はどうだ?>  日本がゆたかになって、財政政策の経済刺激効果が減ってきた。では、金融政策はどうだろうか?
 金融問題では、信用創造メカニズム(トランスミッション・メカニズム)を問題にしてみよう。
 銀行は企業や一般市民などから預金を受け入れ、その資金を誰かに貸し出す。 その過程で信用創造は発生する。そのプロセスは次の通り。
 A銀行は、X社から預金1000万円を預かる。
 A銀行は、1000万円のうち900万円をY社に貸し出す。
 Y社は、Z社に対して、900万円の支払いをする。
 Z社は、900万円をB銀行に預ける。
 この結果、預金の総額は1900万円となる。もともと1000万円しかなかった貨幣が1900万円になったのは、Y社が900万円の債務を負い返済を約束することで900万円分の信用貨幣が発生したことになるからだ。 この900万円の信用貨幣(預金)は返済によって消滅するまでは通貨(支払手段)としても機能する。このことはマネーサプライ(現金+預金)の増加を意味する。
 さらに、この後B銀行が貸出を行うことで、この仕組みが順次繰り返され、貨幣は増加していく。 このように、貸出と預金を行う銀行業務により、経済に存在する貨幣は増加する。(『ウィキペディア(Wikipedia)』から)
 これは1つのモデルとしては理解できるが、実際は違う。A銀行はX社から預金1000万円を預からなくても、900万円をY社に貸し出すことができる。 A銀行がX社から預金1000万円を預かることによる、日銀当預への準備金は1000万円の1.3%を翌月の15日までに入金することだ。 それも、1000万円が1か月ずうっと預金されていた場合のことで、X社が半月後に1000万円を引き出した場合は1.3%の半分、1000X0.013X0.5=13 つまり13万円でしかない。 銀行が預金を受け入れて、それに対する日銀への準備金とはこの程度でしかない。従って銀行は何時でも、いくらでも貸し出すことができる。現代では、貸出総額は銀行の預金高ではなくて、企業や住宅ローンなどの需要に左右される。
 セイの法則というのがあって、これは「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される経済学の法則だ。これは「消費量は生産量に影響される」と言い替えられる。 これに対してジョン・メイナード・ケインズによる有効需要の原理がある。これは「消費量は総需要に影響される」と表現される。
 信用創造メカニズムとは、セイの法則の考え方で、現実は、ケインズの考え方である「総需要に影響される」ということになっている。 銀行がいくら預金を集めても、企業に借り入れ意欲がなければ銀行貸出は増えない。「銀行貸出」と表現するから、銀行側の事情ばかりを問題にするが、「企業借り入れ」と表現すれば、このことは理解できるだろう。
 日銀は2001年3月19日から2006年3月9日まで量的緩和政策と呼ばれる金融政策を行っていた。これは、銀行に十分は資金を提供することによって、銀行貸出が増え景気が上向きになるだろうとの期待による政策だった。 しかし、結果はそうならなかった。日銀は買いオペを積極的に進め、ベースマネーは十分に増えたが、マネー・サプライは思い通りには増えなかった。 インタゲ派が期待したのは、日銀の買いオペによりベースマネーが増え、信用創造メカニズムにより銀行貸出が増加し、貨幣数量説通りに景気が上向くだろうとの期待だった。 このことに関しては▲<<「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」という神話>>▲を参照のこと。
<銀行に貸出資金が不足していた時代>  信用創造メカニズムとは1つのモデルとしては、銀行システムを理解するのに役立つが、実際は違っている。 銀行は十分な資金を持っている。企業なり住宅購入者が借りにくることを待っている。以前は銀行で新規口座を開設すると色々とノベルティーをくれた。 現在は少し違う。むしろ休日相談会で、ローンの相談に行った方がいっぱいもらえる。銀行としては預金獲得よりも、借りてくれるお客を大切にしようとしている。 なぜそうなのか?日本がゆたかな社会になったから。経済学の理論も「発展途上社会の経済学から、ゆたかな社会の経済学へ」変わらなくてはならない。時代の変化に敏感であるべき経済学者が案外、この点で鈍感のようだ。
 日本の銀行が貸し出しをしたいけれども資金がない、預金を沢山集めようと必死になっていたのは戦後しばらく間であった。 その当時の銀行の預金集めの苦労に関しては▲<<旺盛な借入意欲に対する資金不足>>▲を参照のこと。
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<政治の分野では、投票率の低下という現象が顕著になる>  敗戦直後の日本は、「資本主義か社会主義か」が問題になるほど日本の進路はハッキリしなかった。選挙の結果によっては社会主義経済体制をとっていたかも知れない。 政府の中でも「経済安定本部」という組織が1946(昭和21)年8月12日に発足し、1952(昭和27)年8月1日まで活動していた。 ここにはマルクス経済学の影響の濃いいエコノミストが集まった。具体的な政策としては「傾斜生産方式」を採用した。 1946年12月27日、第1次吉田内閣によって決定され実行された政策。 限られた資源と資金の配分を政策によって決定し、産業成長の速度を上げようという政策で、具体的には、石炭・鉄鋼を重点的に増産し、このことが他の産業に波及するように補助金などで支援し効果を狙った。さらに、食糧と肥料・電力、造船・海運など重点的な産業を指定し支援した。 片山内閣でもこの政策は引き継がれ、これらの効果により、戦後間もない日本経済は復興の目処を立てたが、金融の緩みから過剰な資金投入が行なわれインフレーションが加速した。
 このインフレを抑えるためにドッジ・ラインと呼ばれる政策が実行された。これはGHQ経済顧問として来日したデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジが立案・勧告したもので、傾斜生産方式によるインフレを抑える政策であった。 これにより、日本はマルクス経済学による、政府主導の経済政策から民間重視の市場経済に移行していった。これが1949年3月7日のこと。
 ジョゼフ・ドッジは日本経済建て直し、として知られているが、戦後復興経済に関してはドイツでも大きな仕事をしている。 ドッジは軍政長官ルシアス・クレイ将軍の経済顧問代理となり、デフレ的な通貨供給量削減を計画した。エアハルトは著書(『ドイツ経済の奇跡』有沢広巳訳 1954.2.15 時事通信社)でこの1948年の通貨改革を高く評価している。
 ドッジはその後マーシャル・プランの基金を扱う経済協力局(ECA)に対して財政・金融問題を諮問する委員会の委員にもなり、ヨーロッパ経済復興に貢献した。
<ドイツは「社会的市場経済」という社会主義を採用>  日本ではドジライン以後、経済安定本部というマルクス経済の牙城が崩れ、アメリカ流の市場経済を進めていくことになった。 これに対して、ドイツはエアハルトの主張する「社会的市場経済」」(soziale Marktwirtscaft, social marketeconomy)を採用することになった。社会主義でもなく、資本主義経済でもない、あるいは両者の良いところを取り入れた経済ということになろうか。 エアハルトの著書『ドイツ経済の奇跡』(有沢広巳訳 1954.2.15 時事通信社)や『社会的市場経済の勝利』(菅良訳 1960.2.10 時事通信社)を読むと、市場経済の良い点が強調されている。 ということは、ドイツでは日本で考えられるほど「市場経済の良さ」が理解されていなかったのだろう。エアハルトにより奇跡とも言われる程の経済成長を遂げたドイツではあったが、その後社会民主党が政権を取ったりしている。 ドイツ国民には市場経済に対する不信感があり、社会主義に好意をもっている人は多いということだろう。
 日本では、ドッジライン以後政府主導の経済成長から、子供が大人になく過程で経験するような「成長痛」を味わいながらも、資本主義的成長を遂げた。それは奇跡とも言われたドイツ経済に比べても遜色のない成長であった。 そして、その成長過程では「官に逆らった経営者」の存在を無視することができない。「日本株式会社」という表現とは違った経済成長のあり方であった。
<国民所得の年平均成長率>     単位%  
        1950〜59   1960〜73   1973〜79   1979〜85 
フランス 4.6 5.5 3.2 1.2
西ドイツ 8.6 4.8 2.6 1.3
アメリカ 3.5 3.9 3.0 1.8
イタリア 5.4 5.1 2.9 1.3
イギリス 3.0 3.2 1.8 1.0
日本 9.5 10.5 4.0 4.1

<エアハルトは「ドイツの奇跡」と表現した、では「日本」はどうだ>  上記表を見て頂きましょう。旧西ドイツの経済相であったルートヴィヒ・エアハルト(Ludwig Erhard)は『ドイツ経済の奇跡』という本を書いている。 その「ドイツ経済の奇跡」(Wirtschaftswunder)とは1950年にイギリスのタイム紙がこのように表現し、エアハルトも使った。 ドイツ経済が奇跡ならば、戦後の日本経済はどのように表現したら良いだろうか?
 ドイツ経済を少し知ると、日本経済に対する見方も少し変わってくる。日本経済は朝鮮動乱で大きく成長した。 日本はある意味で幸せだった、と。けれども、朝鮮動乱はドイツにも大きな影響を与えた。ドイツも朝鮮動乱で経済を活気づけることになった。
 日本でのドッジラインについては、賛否両論があるようだが、ドッジはドイツの通貨改革にも関係している。 ドイツは、1948年の通貨改革によりライヒスマルクがドイツマルクに変わったことにより、インフレを脱し、その後の経済成長を促した。 日本では、ドッジライン以後、経済安定本部が解散し、マルクス経済学の影響がなくなり、アメリカ流の市場経済になった。 ドイツは、通貨改革後もエアハルトの社会的市場経済が政策の中心となり、日本よりも社会主義的色彩の強い経済政策が実行されることになった。 つまり、ドッジの通貨改革により、日本ではマルクス経済学の影響が薄れ、ドイツでは新たな社会主義的経済思想が支配することになった。 これによって「戦後復興政策  ヨーロッパ 西も東も社会主義」ということになったのだった。
 旧西ドイツ経済相のエアハルトはその著書『社会市場経済の勝利』(L・エアハルト 菅良訳 時事通信社 S35.2.10)(54P)で次のように書き出し、朝鮮事変によりドイツ経済が立ち直った、と書いてる。
 第3章 朝鮮危機とその克服  朝鮮事変がもたらした不穏と不安は、いちじるしい需要増加を生んだ。消費者の反応は平静であろうという万一の希望は、偽わりであることがわかった。 それに対し、十分な資本市場が欠除していたために投資の大部分が高くつき過ぎたとはいえ、通貨改革以来比較的多くの投資が行われていたことは、プラスの要素であったといえるであろう。この事件の道徳的評価と国民経済的判断は、おそらく完全に相反したものとなろう。 しかしながら、朝鮮事変の最初の5か月間に起こった需要増加のため、生産指数は6月の107.6から1950年11月の133.3に上昇したことを想起すべきである。 同時にしかし、工業用基本資材の価格指数(1938年=100)は218から265に、工業生産者価格指数は178から195に上昇した。この嵐のような上昇傾向にもかかわらず、ドイツにおける価格上昇は生産の驚くべき弾力性のおかげで、他の西欧諸国よりも弱かった。(以下略)
<大きな争点がないから「どの政党が政権をとっても変わらない」と棄権する>  フランスもドイツもイギリスもイタリアも日本では考えられないほど社会主義が支持されている。 フランスの「混合経済」、ドイツの「社会的市場経済」、イギリスの、ベヴァリッジ・プラン(Beveridge Plan)「1942年社会保障報告」(Report on Social and Allied Services,1942)、どれも社会主義的色彩の強い政策だ。 選挙の結果次第では、市場経済から社会主義経済に変わるかもしれない、となれば投票に行く人は多いだろう。事実これらの国々では主要な産業が国有化されることが多かった。 イギリスでは鉄鋼業が政権の変わる度に、国営⇒民営⇒国営⇒民営と変わっている。ドイツではあのフォルクスワーゲンが国営であったし、フランスではルノーが国営であった。日本でトヨタや日産が国営になるなど想像もつかない。
 ゆたかになった日本ではこれから社会主義経済に移行するということは考えられない。民主党が政権をとっても経済システムはあまり変わらない、と国民は思っている。 アメリカとの関係が少し変わるかな、と思っても、これ以外に外交政策は考えられない。となれば、どの政党が政権を取っても日本の社会はあまり変わらないだろうと、国民は思っている。
 総選挙での投票率が低いことを嘆く人も多いが、このように考えていくと、それだけ日本の進路は安定している、ということになる。
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<小沢一郎と小泉改革路線の類似性>  ここに小沢一郎著『日本改造計画』という本がある。その「まえがき」を読むと、小泉改革路線を思わせる文章にハッとする。 自己責任を全面に押しだし、日本を改造しようと提案している。自民党の小泉改革路線と民主党の小沢一郎・自己責任重視路線が同じ考えであり、自民党の族議員と民主党の組合代弁議員とが同じ路線と思われる。 構造改革とか規制緩和に関して言えば、自民党か民主党かではなく、改革派か既得権者保護派かという区別になる。
 日米安保路線か社会主義国との友好重視路線か、と言った論争は過去のものとなった。経済政策も高度成長か安定成長かと言う論争も起きないだろう。格差問題も自民党が意識的に格差拡大路線を主張しているわけではない。 有権者にとって政策の違いは小さく、分かりにくくなっている。総選挙で自分の1票がどれほど日本の将来を変えるか、となると、「あまり変わらないだろう」と思うことになる。 そのようなことを考えながら、小沢一郎著『日本改造計画』のまえがき、の部分を読んで頂きましょう。
<グランド・キャニオンの転落防止柵>   米国アリゾナ州北部に有名なグランド・キャニオンがある。コロラド川がコロラド高原を刻んでつくった大峡谷で、深さは1200メートルである。 日本で最も高いビル、横浜のランドマークタワーは、70階、296メートルだから、その4つ分の高さに相当する。
 ある日、私は現地へ行ってみた。そして、驚いた。
 国立公演の観光地で、多くの人々が訪れるにもかかわらず、転落を防ぐ柵が見当たらないのである。しかも、大きく突きだした岩の先端には若い男女がすわり、戯れている。 私はあたりを見回してみた。注意をうながす人がいないばかりか、立札すら見当たらない。日本だったら柵が施され、「立入禁止」などの立札があちらこちらに立てられているはずであり、公園の管理人がとんできて注意するだろう。
 私は想像してみた。
 もし日本の観光地がこのような状態で、事故が起きたとそたら、どうなるだろうか。おそらく、その観光地の管理責任者は、新聞やテレビで囂々たる非難を浴びるだろう。 観光客が来るのに、なぜ柵をつくらなかったか、なぜ管理人を置かないのか、なぜ立札を立てないのか──。だから日本の公園管理当局は、前もって、ありとあらゆる事故防止策を講ずる。 いってみれば、行動規制である。観光客は、その規制に従ってさえいれば安全だというわけである。
 大の大人が、レジャーという最も私的で自由な行動についてさえ、当局に安全を守ってもらい、それを当然視している。 これに対して、アメリカでは、自分の安全は自分の責任で守っているわけである。
 この状況は事故防止の話だけではない。社会全体にいえる。
 たとえば、バブル経済の時代、「経済一流、政治二流」ということばが流行語になった。政治の世界に籍を置く者として、内心忸怩(じくじ)たるものがあった。 確かに、日本企業が世界に破竹の勢いで進出していた半面、政界はリーダーシップが不在で、混迷していたからだ。
 しかし、バブル経済が弾けたいまはどうか。一流のはずの経済が、三流のはずの政治に、救いを求めてきている。
 戦後の日本企業は、正確にいえば明治時代からだが、護送船団方式に象徴される政府の保護・管理政策によって成長してきた。 互いに競争することはあっても、それは、自由競争ではなく、制限された土俵内での競い合いにすぎなかった。そこには、自己責任の原則は貫かれていない。 「一流の経済」が自分ではバブルの後始末もできず、「三流の政治」に救済を求める理由は、そこにある。しかも、その救済策は保護・管理の拡大にほかならない。
 なぜ、日本の社会は、このように規制を求める社会なのか。
 断っておくが、私は、規制を求める社会が間違っている、というのではない。社会のあり方の問題としては、正しいとか間違いとかいうものはない。 日本には日本の歴史と伝統に基づく社会のあり方がある。日本人が規制を求めるのは、日本社会の特性に原因がある。
 日本の社会は、多数決ではなく全会一致を尊ぶ社会である。全員が賛成して事が決まる。逆にいえば、1人でも反対があれば、事が決まらない。
 こういう社会であくまでも自分の意見を主張するとどうなるか。事が決められず、社会は混乱してしまう。社会の混乱を防ぐには、個人の意見は差し控え、全体の空気に同調しなければならない。 同調しない者は村八分にして抑えつけられる。その代わり、個人の生活や安全はムラ全体が保障する。社会は個人を規制し、規制に従う個人は生活と安全が保証される、という関係だった。
 個人は、集団への自己埋没の代償として、生活と安全を集団から保証されてきたといえる。それが、いわば、日本型民主主義の社会なのである。 そこには、自己責任の考え方は成立する余地がなかった。日本で社会と個人のこういう関係が成り立ってきたのは、一部の例外を除いて外部との交渉の歴史を持たない同質社会だったからだ。
 その社会を変革しようとしたのが明治時代だった。この時代には、日本は初めて海外に門戸を開いた。欧米型の民主主義の理念も初めて導入した。
 しかし、大正から昭和に入るや、政党政治の終焉と軍部の台頭という流れの中で、日本は再び同質社会特有の独善的な発想に陥った。この傾向は敗戦後も、冷戦構造の下で温存され、今日に至った。
 しかし、いまや時代は変わった。日本型民主主義では内外の変化に対応できなくなった。いまさら鎖国はできない以上、政治、経済、社会のあり方や国民の意識を変革し、世界に通用するものにしなけでばならない。
 その理由の第1は、冷戦構造のように、自国の経済発展のみに腐心していられなくなった。政治は、経済発展のもたらした財の分け前だけを考えていれば良い時代ではない。 世界全体の経済や平和を視野に入れながら、激変する自体に機敏に対応しなければならない。世界の経済大国になってしまったわが国の責任は、日本人が考えている以上に大きい。
 第2は、日本社会そのものが国際社会化しつつある。多くの日本人が国際社会に進出し、多くの外国人が日本社会に入って来ている。 もはや、日本社会は、日本型民主主義の前提である同質社会ではなくなりつつある。
 どのように変革するか。
 第1に、政治のリーダーシップを確立することである。それにより、政策決定の過程を明確にし、誰が責任を持ち、何を考え、どういう方向を目指してしるのかを国内外に示す義務がある。
 第2に、地方分権である。国家全体として必要不可欠な権限以外はすべて地方に移し、地方の自主性を尊重する。
 第3に、規制の撤廃である。経済活動や社会活動は最低限度のルールを設けるにとどめ、基本的に自由にする。
 これら3つの改革の根底にある、究極の目標は、個人の自立である。すなわち真の民主主義の確立である。
 個人の自立がなければ、真に自由な民主主義社会は生まれない。国家として自立することもできないのである。
 人々はいまだ「グランド・キャニオン」周辺に柵をつくり、立入禁止の立て札を立てるよう当局に要求する。自ら規制を求め、自由を放棄する。そして、地方は国に依存し、国は責任を持ってリードする者がいない。
 真に自由で民主的な社会を形成し、国家として自立するには、個人の自立をはからなければならない。その意味では、国民の”意識改革”こそげ、現在の日本にとって最も重要な課題といえる。
 そのためには、まず「グランドキャニオン」から柵を取り払い、個人に自己責任の自覚を求めることである。また、地方に権限を移すことによって、地方の自立をうながすことである。 さらに、政治のリーダーシップを確立することで、政治家に政治に対する責任を求め、中央の役人には、日常の細かな許認可事務から解放することで、より創造的な、国家レベルの行政を求める。
 これらによってはじめて、個人は組織の駒としてではなく、自由な個人として自己を確立していく。自己の確立、民主主義の確立が進めば、さらに改革は進であろう。
 本書は、そういう祈りにも似た気持ちで書き下ろした。
 本書をまとめるにあたっては、大勢の各方面の専門家のい方々から2年間にわたって協力をいただいた。混迷する現在の政治状況において、改革の指針となれば、この上もない喜びである。
   平成5年5月   小沢一郎
 <『日本改造計画』まえがき から >
(T注)小沢一郎  平成2年2月〜平成3年4月 自民党幹事長。 平成5年6月〜平成6年11月 新生党代表幹事
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<「発展途上社会」の経済学から、「ゆたかな社会」の経済学へ>   ▲《「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」という神話》▲ を書いているときに、経済学の教科書を沢山調べてみて気が付いた、 「日本の経済学者は現実を見ていない」と。ほとんどの経済学の教科書が、 準備預金制度における準備率を10%として話を進めている。実際は1.3%で日銀のホームページを見ればすぐ分かることだ。 そんな簡単なこともアメリカの教科書の丸写しで済ましている。アメリカでは8〜14%だから、例えば10%として話を進めても問題はないが、日本では1%とか2%として話を進めなければならない。 因みに中国では2007年12月に14.5%になった。 そうした教科書が「トランスミッションメカニズム」にこだわって説明している。現代の銀行は、預け入れられた預金によって信用創造が行われるのではなく、「資金を借りたい」という企業や住宅購入者などの需要の多さによって銀行貸出、企業借り入れが決まってくる。 ゆたかな社会になって、銀行は貸し出すための資金に不足はない。発展途上時代とは違っている。終戦直後の状況とは違っている。こうした社会の変化に鈍感になっているのが現在の経済学教科書の著者なのだ。
 「ベースマネーの増減が原因で、マネーサプライが増減する」との神話に基づいて書かれている書籍は ▲<主な参考文献>▲ を参照のこと。
 「準備預金制度における準備率」を10%として説明している教科書は ▲<主な参考文献・引用文献>▲ を参照のこと。
 これからの経済を考えるとき、今までの理論を見直すとき、「発展途上社会の経済学から、ゆたかな社会の経済学へ」という捉え方が必要だと思う。ここでは、財政政策・金融政策について考えてみた。 経済成長とか規制緩和とかを考える場合も「発展途上社会の経済学から、ゆたかな社会の経済学へ」という見方が必要になるだろうと思う。
 それは、生産量が消費量を決めるという「セイの法則」から、総需要が消費量を決めるという「ケインズの有効需要の原理」への発想の転換が必要なのだと思う。 そして、経済学の教科書の初めの方に出てくる「限界効用」との発想も忘れてはならない。
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<偏狭な国際主義=『サッチャー 私の半生』から>  戦後ヨーロッパの偉大な指導者の1人であったエアハルトの著書から一部引用した。そこで、エアハルトとは違った意味でヨーロッパの政治・経済に大きな影響を与えたマーガレット・サッチャーの著書からも一部引用してみよう。 書かれているのは、EU・ヨーロッパ連邦主義に対する懸念だ。その中でジョージ・オーウェルの『1984年』を引き合いに出しているのが印象的だったので、今週のテーマとは少し違うがここで引用することにした。 政治家はともかく、日本では経済学者でもヨーロッパ連邦主義をこれほど鋭く批判した人は見当たらない。経済学教育業界では突然変異は居心地が悪いのだろう。自家不和合性が心配だ。
◎ ある政治家の一般イメージがマスコミによっていったんつくられてしまうと、それを拭い去るのはほとんど不可能である。 経歴のあらゆる段階で、そのイメージが彼と一般国民の間に介在し、人々は実際の彼自身を見たり彼の言うことを聞いたりするのではなく、つくられた人格だけしか見たり聞いたりしないのだ。
 私の一般イメージは、おしなべて悪いものではなかった。「鉄の女」「戦うマギー」「めんどりアッティラ」[アッティラは5世紀のヨーロッパに侵入したフン族の王]などなど。 これらは総じて、私がたやすく負けない人間であるという印象を政敵に与えたから、このような呼び名を奉られたことは喜ばしかった。 本当の人間がこんなにタフ一方であることはほとんどないのだが。だが、困った面もあった。ヨーロッパ問題が話題にばると必ず、私は狭量な、昔を懐かしむナショナリストとして描写されたのだ。 ヨーロッパの合理的な近代性の太陽が光を投げかけているときに、イギリスの旧体制の封建的な虚飾がハヴィシャム嬢のウェディングケーキのようにほこりの中に崩れるのを見るに耐えられないナショナリストだというのだ。 私は、”孤立化し””後ろ向きで””過去に根ざしており””難破した帝国にしがみついており””主権に関する時代遅れの認識に執着している”などと言われた。 そして、ヨーロッパに関する私の言説はすべて、このような光を当てられて読まれたのである。
 実際のところ、ヨーロッパ連邦主義に関して私が抱く懐疑には3つの基本的な理由があるが、もっとも重要な理由は、欧州連合(EU)は実のある国際主義にとって障害であるということだ (後の2つのうちの1つは、イギリスはしっかりした、”満ち足りた”ナショナリズムが国際協力の最善の基礎であることを示したこと、最後の1つは、この章の別のところで論じるように、言語の多様性が民主的論議と民主的責任をたんなるスローガンにしてしまう連邦制超国家では、 民主主義は機能し得ないということである)。
 ヨーロッパ連邦主義者は、実際は、”偏狭な国際主義””小さなヨーロッパ人”であり、より大きな国際共同体よりも欧州共同体の利益を一貫して優先させる人たちである。 EUはGATT(関税貿易一般協定)をボイコットする一歩手前までいった。大西洋越に一連の貿易紛争を引き起こした。幼稚な輸出産業を保護するために、ばかげた高関税を維持することにより、中・東欧の不安定性を長引かせた。 「ヨーロッパの柱」あるいは「ヨーロッパ防衛の主体性」を確立するという、時期尚早で軍事的に理解不能の計画で北大西洋条約機構(NATO)を分裂させそうになっている。 そして、こうした問題のある行動のほとんどは、それぞれ個別に見ていても意味をなさない。それらは、”ヨーロッパ”が自らの国旗、国家、議会、政府、通貨、そして最終的な想定として国民をもつ、本格的な国家になる日を早めようという目的のためにのみ展開されているのである。
 これがアメリカと日本の双方に、同じように保護貿易主義的な帝国を築くことによって自分自身を守ろうとさせかねないことを警告したのは、私だけではなかった。 そうなれば、世界はオーウェル流の[イギリスの作家ジョージ・オーウェルの『1984年』に出てくる]未来──オセアニア、ユーレイシア(ユーラシア)、イースティシア(イースタシア)という互いに対立を深める3つの重商主義的世界帝国──に向かって漂流し始めるかも知れない。 そのような流れの中では、有益な役割を果たしてきたNATOやGATTのような戦後の国際組織は弱体化し、脇に追いやられ、ついには意味を失ってしまうだろう。 こうした見通しはまだ消えておらず、われわれに懸念を起こさせている。
 しかし、もっと遠い21世紀の終わりにまで目をやると、(もっと不安定であるがゆえに)もっと驚くべき未来が手の中にある。 現在、自由経済革命の端緒につこうとしている世界の多数の中位国、大国のことを考えてほしい。インド、中国、ブラジル、そしてたぶんロシアなどである。 これに現在の経済大国であるアメリカ、日本、欧州連合(あるいは、仏独の”高速路線”同盟というシナリオに若干の修正を施したもの)を付け加えてみてほしい。 おそらく2095年に出現している状況は、6つ以上の”大国”が存在し、それぞれが従属国をもち、それぞれが自分1人では危なっかしいが、適切な同盟を形成すれば自分の力と影響力を増大させることができ、いやおうなしにそれぞれが自らの相対的位置を向上させようと絶えず外向的な行動に出るという不安定な世界であろう。 別の言い方をすれば、2095年は、1914年[第1次世界大戦の始まった年]がもうすこし大きな舞台で再現されるようなものと見えるかも知れない。
 オーウェル流の戦利品の3者分割か、それとも1914年の再来というこの想定か、どちらの悪夢にしても、それを回避するカギは同じである。 根本的には、アメリカを支配的な力とし、自分の長期的利益のために総じてアメリカの指導に従う同盟国に囲まれている大西洋同盟が維持されるなら、どちらの悪夢も起こらなくて済むだろう。 人口、資源、技術、資本の現実をふまえれば、統一された西側世界でアメリカが支配的な力をもち続ける限り、西側世界は世界全体における支配的なちからとして続くことが可能だろう。 そして、集団安全保障は、最後に頼りになる超大国がいてはじめて本当の意味でもたらされるのであるから、世界各国は(「無法国家」やテロリスト集団を除けば)、一般的にこのような国際政治構造を支持するだろうし、少なくとも黙認するだろう。
 私が思うに、このような構造におけるイギリスの役割は、国力に不相応な大きい影響力をもつものだろう。しかし、私がこの構造を支持するのは、それが理由ではない。それは、そのような世界こそが国際平和と集団的繁栄を達成するのに必要な事項をもっともよく満たすからなのである。 それは、政治的、経済的、そして文化的に自由な世界であり、アジアあるいはユーラシア・ブロック──歴史を通じて、あるいは近年のその業績がすばらしいものであるにしても──に支配されるよりも、はるかに自由度が高いだろう。
 しかし、再度強調したいのは、アメリカが軍事的、経済的にヨーロッパにおける支配的な力として留まる気がなければ、こうしたことは実現しないだろうということである。 ということは、われわれはアメリカ軍が当面の間ヨーロッパに留まることを確実にしなければならない。予算の制約によりアメリカが撤退を考える誘惑が高まるここ数年が特に重要である。 こうした状況のもとでは、EU内に忍び寄っている、自分たちを別個の”第3の力”として確立したいという傾向は、アメリカを遠ざけ、アメリカ軍を本国に帰還させてしまう危険をともなう。その賭け金は大きい。 そして7つか8つの独立した超大国のなかの1つとして、ヨーロッパの地位が少しばかり上がるかも知れないということのために、西側世界を分裂させ、世界の永続的な不安定に向かうのは、もっとも有害で、無責任な形のナショナリズムのように私には思える。
(『サッチャー 私の半生』から)
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<大日本帝国が目指したブロック経済=大東亜共栄圏>  1929年アメリカから始まった世界恐慌、各国は対策に知恵をしぼり、自給自足のためのブロック経済圏ができあがった。 アメリカ、カナダは広い国土をもち、フランス、イギリス、オランダは植民地をもっていた。新興工業国であった、日本、ドイツ、イタリアは新たな植民地=自給地、資源供給地、商品売込地=を開拓し始めた。 日本は、台湾、朝鮮半島、満州国(中国東北部)からインドシナ半島へと、自給自足のために支配地を拡げていった。イタリアは、エチオピア、アルバニアを併合し、ドイツはポーランドから東ヨーロッパへ勢力を拡げた。
 フランスやイギリス、アメリカは「とにかく戦争はイヤだ」と、これらの暴走をけん制せず、日独伊はそれを良いことに、「鬼の居ぬ間に洗濯」とばかり、軍事力により独自の経済ブロックを作っていった。これが第2次世界大戦勃発のきっかけになった。
▲日本の安全保障  軍事不介入の政治経済学
▲自給自足の神話  それは文明発祥と同時に神話になった
▲日本を大東亜戦争に追い込んだ保護貿易  自給自足を目指す ブロック経済 と呼ばれる地産地消
 こうした反省からGATTができ、自由貿易を保証する制度ができあがった。サッチャーはEUが経済ブロックを強化することによって、こうしたブロック間の勢力争いを引き起こす、と警告している。 それは、ジョージ・オーウェルが『1984年』で警告している、と指摘している。
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<主な参考文献・引用文献>
『ドイツ経済の奇跡』                    エアハルト 有沢広巳訳 時事通信社     1954. 2.15
『社会的市場経済の勝利』                  エアハルト 有沢広巳訳 時事通信社     1960. 2.10 
『日本改造計画』                             小沢一郎 講談社       1993. 5.20
『サッチャー私の半生』(下)         マーガレット・サッチャー 石塚雅彦訳 日本経済新聞社   1995. 8. 1 
『1984年』世界SF全集10             G・オーウェル 新庄哲夫訳 早川書房      1968.10.31
( 2007年12月10日 TANAKA1942b )
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バイオエタノールの普及が日本の農業を変える  
食料以外の農作物へのシフト
「トウモロコシの価格が2倍になったの。このチャンスを逃すわけにはいかないわ」  最近、テレビのニュース・報道特集でバイオエタノールを取り上げることが多い。アメリカではトウモロコシを原料にバイオエタノールが作られる。 このため需要が増大して、生産者価格が上昇し、農家は大豆の替わりにトウモロコシを生産するようになった。大豆の生産が減少したので、価格が上昇し、日本ではキューピーがマヨネーズの小売価格を値上げした。 この生産者価格の変化はその他の農産物の価格にも影響してくるだろう。
 2007年5月8日のTVで、アメリカ、アイオワの農家が言っていた「トウモロコシの価格が2倍になったの。こんなの初めてよ。このチャンスを逃すわけにはいかないわ」と。昨年まで大豆を作っていた畑の、3割をトウモロコシに変えた、という。
 バイオエタノール(エチルアルコール)の原料はアメリカではトウモロコシであり、ブラジルではサトウキビを原料に、このバイオエタノールで走る車が全体の15%にものぼるという。
 平成16年度大豆の自給率は概算で3%。トウモロコシは0%。
▲自給自足の神話  それは文明発祥と同時に神話になった ▲
▲食料自給率40%の内訳は?   米・麦・大豆などの自給率UP政策は? ▲
▲食料自給率を上げる方法は?  コメ自給率は現在100%▲

 2007年5月15日、NHK・TV「クローズアップ現代」では、日本で休耕田を利用してバイオエタノール用のコメを栽培する農家を取り上げて扱っていた。まだコストが高いので、政府の補助金に頼ることになる。
 日本では、この他にサトウキビを原料にした研究が進んでいる。二酸化炭素排出権取引の関係もあり、いつまでも輸入に頼っているわけには行かないだろう。沖縄でバイオエタノール用のサトウキビが栽培されるようになると、食用サトウキビの生産が減る。 こうした生産作物の変化が食料品の価格変動に影響してくるだろう。こうした食料以外の農作物の価格変動が日本の農業にどのような影響を与えるのか?農水省、農協などの対策はどうなっているのか?そして、それ以上に一般農かはどうなのか? バイオエタノールはコストが高いため政府の補助金に頼ることになる。ということは、農家が生産して、採算がとれるかどうかは、政府からの補助金次第ということになる。 農家が、生産を続けるかどうかは、農家が政治家に政治献金し、政治家が予算を獲得し、役所に働きかけ、農家に補助金が十分いくようになってこそ、農家がバイオエタノール用の農作物を栽培し、 国産バイオエタノールが普及することになる。こうしたレントシーキング構造では、贈収賄が起こる可能性が高くなる。コストダウンを図って市場価格で供給できるようにしないと普及は難しい。
 テレビでは積極的な農家が取り上げられるが一般農家はどうなのだろうか?
 @アメリカのように「儲かりさえすればいい」、との考えで作付を変えるようなことはしない。政府、農協、取引業者、補助金などの関係を変えることは難しい。A需要が増えたのだから生産を拡大するのは当然だ。 B将来は予想し難いので、周りの動きに惑わされることなく、今まで通り自分の信念に基づいた生産活動をする。C政府の方針を待ってそれに従う。 Dどうせ考えても分からないだろうから、考えないことにする。
「農家もビジネスマンなのです。常にどうすれば利益が上がるか考えています」  前述とは別のテレビ番組でアメリカの農家が話していた。「農家もビジネスマンなのです。常にどうすれば利益が上がるか考えています。遺伝子組み換えであれ、非遺伝子組み換えであれ、利益が確保されることが大切なのです」 遺伝子組み換えトウモロコシにすることによって収穫量が10%アップすると言う。食用のトウモロコシも普及しているアメリカは、バイオエタノール用に遺伝子組み換えトウモロコシの栽培に、関係者や市民運動家の反対運動はない。
 アメリカでは農家が大学や研究所と共同で、品種改良をはじめとする農業改革に積極的に取り組んでいる。「農業も産業であり、産学協同も当然」というのがアメリカの農業の現状のようだ。これからも産業としての農業改革が進むだろう。 アメリカ農業の強さは、広大な農地の広さだけではなく、こうした利益追求を当然のこととして取り組んでいることだ。日本やEUでは「農業は産業である」とは考えていない。 EUでは、欧州委員会農業総局前副局長=ディビット・ロバーツ氏がNHKテレビの取材に応えて 「農業は地域の活性化を維持する役割を果たしています。私たちは地域政策の中で農業を効率化しすぎないように、細心の注意を払わなければなりません。農業の効率化によって、地方に住む人が減ってしまうことになってしまえば、基本的な地方行政を維持していくうえでの人口が保てなくなるために、その地方は衰退していかざるを得ないからです。 我々は地域に雇用機会を様々なかたちで保証し、農村を活性化しようとしているのです」▲NHKTVで見るEUの農業保護政策▲ と語っている。
「土の匂いのしない者の意見は聞かない」  マスコミはアメリカでの動きや、他の農作物の価格上昇について報道するが、日本の農家の反応は鈍い。 テレビでは休耕田を利用してバイオエタノール用のコメ栽培を始めた農家を取り上げていたが、こうした積極的な農家は少ないだろう。 これを機会に農業が変わる可能性があるのだが、実際の農家が変わるか、と考えるとどうも変わりそうもないように思われる。農業関係者の多くは「土の匂いのしない者の意見は聞かない」とか「鍬を持つ汗の匂いがしない者の意見は聞く必要はない」、という傾向がある。 「現場を知らない者が何を言うのか?」と、部外者の意見、知識・知恵を無視する傾向にある。
 バイオエタノール用のコメならば、遺伝子組み換えでも問題はないはずだ。これを機会に遺伝子組み換えの技術が進歩するといいのだが、「花粉が飛んで交雑する」と研究飼育にも反対するかも知れない。 農水省は数年前に、花粉症アレルギーの体質改善に効果のある遺伝子組み換えコメの開発に成功し、近々市場に提供するようなことを表明していたが、その後何も関連ニュースは聞かれない。 たとえ、アレルギー体質改善に効果のあるコメであっても、遺伝子組み換えには反対する農業関係者やその周りの市民運動家などが、圧力をかけるのは想像に難くない。
遺伝子組み換えによるインディカ米からのバイオエタノール  日本では減反政策で休耕田が増えている。農業関係者は水田の環境保全への貢献を主張する。けれども休耕田では、単なる空き地でしかない。 折角だから、ここでコメを作るといい。バイオエタノールならば味は関係ない。テレビでの農家は、飼料用のコメ品種として「べこあおば」を採用していた。普通の食用コメの2倍の大きさだと言う。これで収穫増を狙う。 こうした積極的な取り組み態度からは日本人の得意な品種改良や農業経営改革画を進めて「農業は先進国型産業である」▲品種改良にみる農業先進国型産業論▲を実証する可能性が高いと思う。
 抵抗勢力が強いので実現へは紆余曲折があるだろうが、日本でバイオエタノールを生産するには、@ジャポニカではなく、インディカ米の改良品種を栽培。例えば、「緑の革命」(green revolution)での主役、奇跡の米(ミラクル・ライス)と呼ばれた新多収短稈稲品種IR−8やIR-5の改良型。 A品種改良には遺伝子組み換え技術を使う。B補助金は出さず、市場で価格競争をさせる。C品種改良されたものには特許を与え、民間の種子会社をはじめバイオ技術を持った会社にインセンティブを与える。 D種子、栽培されたコメ・トウモロコシなどの取引市場を完備し、先物取引も行う。
*                      *                      *
<京都議定書> 1997年12月11日に京都市で開かれた地球温暖化防止京都会議(第3回気候変動枠組条約締約国会議、で議決した議定書。 正式名称は、「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書(英 Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate Change)」。略称は<京都議定書(Kyoto Protocol)>。 先進国の温室効果ガス排出量について、法的拘束力のある数値目標を各国毎に設定。国際的に協調して、目標を達成するための仕組みを導入する(排出量取引、クリーン開発メカニズム、共同実施など)。 途上国に対しては、数値目標などの新たな義務は導入しない。
 この京都議定書に基づき、二酸化炭素の排出量を削減するため、排出権取引が始まり、車の燃料としてバイオエタノールが注目されている。
<バイオエタノール> トウモロコシ、サトウキビ、コメ、木材など植物を原料に、エタノール(エチルアルコール)を作り、ガソリンに混ぜて自動車の燃料とする。 エンジンに使えば二酸化炭素が排出されるが、原料である植物が二酸化炭素を光合成で吸収するので、総合的に判断してプラス、マイナスゼロと勘定する。バイオマスエタノール(バイオエタノール、Bioethanol)。
<緑の革命> 1962年フィリピンのマニラ近郊ロスバニオスの政府提供の土地に国際稲研究所(International Rice Research Institute)(IRRI)が開設され、 1965年に奇跡の米(ミラクル・ライス)と呼ばれた新多収短稈稲品種IR−8、 その翌年に同じくIR-5を公表した。これら新品種は、これまでの在来種に対し、きわめて優れた特徴をもっていた。
@在来種の3倍以上という多収であること。
A在来種が180cmに対し100cm内外という短稈になった。もっともこれは深水地帯への導入を阻害する要因になった。
B草型が光合成に都合のよいように葉が直立して短く、下葉まで日光がよく通り、水切りが早いこと。
C生育日数が在来種で180日程度のものが、IR-8では125−135日と短くなり、台風期を避けることができる性質をもっている。
D季節的な日長の変化に感じない非感光性となり、時期や緯度を選ばず、いつでもどこでも播種できるという性質を持っている。
E多収となるための性質として肥料の吸収利用効果の高い耐肥性という特別の性質をもっている。
F比較的病虫害にも強い性質をもったが、白葉枯病などまだ弱点を完全には取り去っていなかった。
 このような特徴をもっていたが、水利、農薬、肥料などの管理が大変で、十分に良さを発揮できなかった。このため「失敗だった」との評価もあるが、不十分ではあってもコメの増産に貢献したことは確かで、これによりアジア諸国の食料自給が可能になった。 ▲緑の革命とEU農業政策▲
<二酸化炭素排出権取引> 京都議定書によって各国の二酸化炭素排出量の上限が決められた。各国は国内でその排出量を企業や自治体などの割り当てる。 限度を超えた事業体(企業や自治体)は余裕のある事業体から排出権を買う。ここでの売買プレーヤーは、企業自治体、国。対策技術が進むと売り手が多くなり、取引単価は下がる。 逆に対策が進まず排出量が多くなると買い手が増え、取引単価はあがる。売り手には、対策の進んだ事業体や、植林などで二酸化炭素を減らす事業体や国がなる。 バイオエタノールはガソリンに混ぜて使えば二酸化炭素を出すが、原料となる、トウモロコシ、サトウキビ、コメなどのの植物が成育中に二酸化炭素を吸収するので、総合的に判断して、排出量はゼロとする。
 公害対策に従来とは違った、市場のメカニズムを生かした手法として注目されている。排出量取引 (Emission Trading) 。
( 2007年5月21日 TANAKA1942b )
▲top
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(T注)上記文章をアップロードした次の日、2007年5月22日、朝日新聞朝刊1面に次のような記事が掲載された。 「遺伝子組み換え作物開発 食用以外の栽培先行 農水省検討、食用に狙い」と題されて、次のように記事は進む。「消費者の不安が根強く国内での利用が進まない遺伝子組み換え農作物の実用化に向けた研究開発について、 農水省はバイオ燃料の原料作物や観賞用の花といった非食用分野を先行させるなど新たな推進策を検討する。分野を絞ることで商業利用が進めば、組み換え技術に対する国民の理解が得られ、食用分野の実用化にも道を開く可能性があり、今後、議論を呼びそうだ。…… 遺伝子組み換え農作物には消費者が抵抗感をもっているほか、組み換え技術を応用した花粉症緩和米が農作物でなく医薬品として取り扱われるなど実用化には大きな壁が立ちはだかる。…… 今秋から組み換え農作物の危険性や安全性に関する国民との意見交換会も開く予定だ」
( 2007年5月22日 TANAKA1942b )
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<「バイオ燃料が環境破壊、食料危機を引き起こしつつある」との主張>  地球温暖化の原因である二酸化炭素の排出量を押さえるために、車の燃料にバイオエタノールを混合させ、二酸化炭素排出権取引によって、排出制限のインセンティブを与えようとの、京都議定書に基づく市場のメカニズムを利用した対策が動き出した。 これによって、バイオエタノールの原料になるトウモロコシやサトウキビの生産者価格が上昇した。これに対してレスターブラウン氏は 「「環境にやさしい」はずのバイオ燃料が環境破壊、食料危機を引き起こしつつある」と警告を発している。平成19(2007)年5月23日、東京でのシンポジウムでもこの主張を繰り返している。 農林水産省も後援しているシンポジウムなので、大きな影響力を持っていると考えられる。しかし、経済の面から見ると全く別の見方もできる。臍曲がりのアマチュアエコノミストはここで全く別の見方を展開することにする。
アフリカのキャッサバが高く売れる  バイオエタノールはアメリカではトウモロコシから、ブラジルではサトウキビから、フランスではワインで、タイではキャッサバから、作られている。そのキャッサバ、タピオカの原料として知られるキャッサバはタイやブラジルからヨーロッパに輸出されているが、アフリカでも生産されている。 キャッサバは栽培が簡単で、農業技術の専門家がいなくても栽培できる。その面では先進国型産業ではない。アフリカでは主食として生産され、一部がタピオカの原料としていヨーロッパに輸出されている。 農作物の生産者価格上昇に伴って、キャッサバも価格上昇すれば、アフリカでの生産者にとって輸出価格が上昇することなので、所得上昇が期待できる。
 レスターブラウン氏の発想は、「小売価格の上昇は消費者にとって困ることだ」、という面から見ている。これを生産者から見ると、生産者価格の上昇は喜ばしいことになる。 レスターブラウン氏は経済の一面からだけ見て、批判している。もっとも二酸化炭素排出量を制限しようとの動きに対して、誰を批判しているのかはハッキリしない。
 価格の上昇は生産者のインセンティブを刺激し、生産増に結び付く。それは、トップに書いた、アメリカの農業経営者の発言を見れば明らかだ。経済が自生的秩序を保っていると考えると、価格上昇が新たな秩序を生み出すと考えられる。
 自分の責任に関係ない機関に対しての批判は楽だが、それだけに熟慮しない発言が出やすくなる。 バイオエタノールの普及に関しては、「インセンティブ」をキーワードに今後の動きを見て行きたいと思う。
( 2007年5月28日 TANAKA1942b )
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<遺伝子組み換えワクチン米>   2007年6月12日、朝日新聞朝刊2面に次のような記事が掲載された。
食べて免疫 ワクチン米 冷蔵いらず まずは対コレラ 東大医科研開発 東京大学医科学研究所の野地智法研究員、清野宏教授らのグループが、コレラワクチン入りの米を遺伝子組み換え技術で開発し、動物で効果を確認した。 米科学カデミー紀要電子版に今週発表する。冷蔵や注射を必要としない「次世代ワクチン」が米を利用して登場しそうだ。
 グループは、腸の粘膜からワクチンを吸収させて、免疫を獲得させる方法を探っていた。
 今回、ワクチンとなるコレラ毒素の一部をつくる遺伝子をイネに組み込み、ワクチン入りの米をつくった。この米を粉末にして与えたマウスでは、コレラ毒素を与えても下痢になるなどの症状が出ず、ワクチン効果を確認できた。
 やはり遺伝子組み換え技術でワクチン入りバナナなどをつくる試みもあるが、バナナは長期間の保存が難しい。粉末にして医薬品として使うことが想定されるワクチン米は、1年半、常温で保存した後でも効果を保つ特徴がある。 清野教授は「米を使うと、ワクチンが消化されずに腸まで届く。他の遺伝子と組み合わせて、さまざまなワクチンを開発することも可能だ」と話している。
 バイオエタノールから遺伝子組み換え農作物が話題になり、これをキッカケとして、雪解けが始まるように、農業界の古い体質にひびが入り始めた。 それでも「儲かるからといって簡単に作付を変更する、アメリカの農家の真似をしても、ろくなことは無い」とか「日本では、遺伝子組み換えは野外での栽培試験さえ出来ない現状なので、日本ではまだムリだ」 「唯一効果があると思われるのは、米に対する思い入れの強い人の鬱憤晴らし程度か?」といった感覚もある。 あるいは農業従事者以外の意見は「土の匂いがしない」「鍬を持つ汗の匂いがしない」「学者の戯言」とか「理論のための理論」などと言って聞く耳を持たない人もいるので、 これから抵抗勢力も動くかも知れない。けれどもそうした一部の抵抗勢力があっても大きな流れは止められないだろう。いずれ「あれは現代のラダイト運動だった」と言われる日が来るに違いない。
( 2007年6月18日 TANAKA1942b )
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<JA全農新潟農協の取り組み>   先日テレビ東京WBSでJA全農新潟農協での取り組みを報道していた。今年は1.8haの田圃でバイオエタノール用のコメをつくると言っていた。 環境保護に対する熱意からか、あるいは好奇心と遊び心からか、いずれにしても前向きに取り組んでいる人たちがいる。一方で、 傍観者として冷ややかに眺めている農家もある。 2007年7月に政府の生産者に対する補助金額が決まる、と報道されていた。
( 2007年6月25日 TANAKA1942b )

「まとめて買えば安くなる」は違法なのか?
NOVA訴訟の資本主義的な判決
 2007年4月3日、最高裁第3小法廷は、NOVA受講料訴訟について「精算規定は違法」との判決を示した。 このニュース、アマチュアエコノミストの目から見ると、資本主義的な判決と見える。それは「まとめて買えば安くなる」は資本主義社会での常識だし、消費者利益にもつながり、決して大企業の利益優先で行われている商習慣ではない。 最高裁第3小法廷の那須弘平裁判長は、資本主義的な判決を示した、と言いたいのだが、特定商取引法というのがあり、この法律に従えば「NOVAの精算規定は違法」となるのが正しいようだ。 そうすると、この「特定商取引法」そのものが資本主義的な法律だ、ということになる。
 久しぶりに「アマチュアエコノミストのやぶにらみ経済時評」で扱うテーマが見つかったようなので、今週は急遽これを取り上げることにした。 まずは、この訴訟はどのようなことだったのか?ニュース報道をウェブサイトから引用することにしよう。
exciteニュース <NOVA>受講料訴訟 「精算規定は違法」最高裁判断
[ 04月03日 11時44分 ] 毎日新聞
 英会話学校最大手「NOVA」(大阪市)に600回分の受講料(ポイント)を前払いして入校し、途中解約した男性が「ポイントの未使用分を返さないのは違法」と返金を求めた訴訟で、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は3日、NOVAの上告を棄却した。NOVAは中途解約時に、利用済みポイントの単価を前払い時より高くすることで返還額を抑える精算規定を取っていたが、判決は「中途解約の際は前払い時の単価を使って精算すべきだ」との初判断を示し、この規定を特定商取引法(特商法)に反して無効とした。同種のトラブルや訴訟で消費者に有利な影響を与えそうだ。
 1、2審判決によると、男性は01年に600回のレッスンを受講できるポイントを75万円(1回当たり1200円、税別)で購入するなどして入校。386回のレッスンを受けて04年に解約した。NOVA側は精算規定に基づき、利用済みポイントの単価が約1700円となると主張し、男性は前払い時の単価で計算すれば約30万円が返還されると訴えた。
 特商法は「事業者は提供済みサービスの対価を超える額を中途解約者に請求できない」とだけ規定し、対価の算定方法を明記していないが、第3小法廷は「中途解約時に高額な対価を定める精算規定は、受講者の解除権行使を制約するものと言わざるを得ない」と判断し、1、2審同様に請求額全額の支払いを命じた。NOVAの敗訴が確定した。【木戸哲】
 ◇解説◇ 消費者保護、鮮明に 
 NOVAを巡る3日の最高裁判決は、消費者利益の保護という特定商取引法(特商法)の趣旨を重視し、同社の精算規定を無効と結論付けた。業者側に有利な法解釈の余地を一切認めておらず、消費者保護の流れを鮮明にした判断といえる。
 特商法は76年、訪問販売やマルチ商法から消費者を守るために制定され、99年以降は、語学教室やエステティックサロンのように、継続的にサービスを提供して高額な対価を得る6業種が規制対象に加わった。これらの業者が、代金を払った後で消費者がサービスに不満を持った場合でも、解約を拒むようなトラブルが多発したためだ。
 NOVA側は「精算規定は経済産業省と協議して決めたもので、東京都の業界への指導にも反していない。監督官庁が認めているので問題はない」と主張した。
 しかし最高裁は「契約時に異なったサービス対価が定められているわけではない」と指摘。「合理的理由もないのに前払い時と異なる単価を用いることは許されない」とした1、2審よりも、さらに厳格な姿勢を示した。
 こうした判断は、入学辞退者に授業料を返還しない私立大の対応を、消費者契約法に基づき無効とした最高裁判決(昨年11月)と同様に、法整備があったからこそ初めて導き出された。多様化する消費者トラブル解決のため、立法の重要性を改めて示す判決となったと言える。【木戸哲】
 ◇「常識が認められた」原告側弁護士
 「常識が当たり前に認められた」。NOVAの中途解約を巡る3日の最高裁判決を受けて会見した原告側の杉浦幸彦弁護士らは、同社の精算規定を無効とした判断を評価した。
 原告側によると、NOVAは「まとめ買いすれば安い」と宣伝して大量のポイントを購入させ、多くの受講生を集めて業績を伸ばしてきた。だが「希望の時間に予約が取れない」などの苦情も続出した。中途解約すると、前払い時より単価が割高となる精算規定に対し、複数の消費者団体は「脱法的だ」と批判し改善を申し入れていた。 斎藤雅弘弁護士は「NOVAのやり方が判決で正面から否定された。教育の質で競争するのが語学学校本来のあり方ではないか」と批判した。
 NOVAは81年に創業し、96年に株式を店頭公開した。「駅前留学」のCMで知られ、受講者数は約48万人で業界最多。国民生活センターによると、NOVAの契約や解約を巡っては、96年から今年3月下旬までに7600件を超える苦情や問い合わせがあり、件数は年々増加傾向にある。経済産業省と東京都も今年2月、特商法違反の疑いなどで立ち入り検査している。【高倉友彰】
(T注) 競争するのは、教育の質・料金・通学の便利さ・生徒数の多さ等々、どれを優先させるかは受講者が決めるのであって、評論家は参考意見を言うだけ。それが本来のあり方だと思う。
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<精算は購入時の単価によるのが法の趣旨にかなう──東京高裁の判決文から> 判決のポイントになる部分を、平成17年7月20日の東京高裁の判決文から引用することにしよう。
 特定商取引法には、「提供された特定継続的役務の対価に相当する額」につき、購入時の単価と異なる単価で精算することを認める規定はないが、 購入時の単価によるのが法の趣旨にかなう。特に、控訴人は、価格表記に当たり、レッスンポイント購入数に応じた1ポイント当たりの単価のみを表示しているところ、 このようにポイント単価を強調してレッスンポイントを販売した以上、受講者において中途解約に際しても購入時の単価で精算をしてもらえると信じるのは当然のことである。 特定商取引法は、事業者が中途解約における精算に際して控除する金額を限定しようとしているものであるところ、上記のようにポイント単価のみをことさら強調している本件にあっては、少なくとも購入時の単価よりも受講者に不利なポイント単価を使用することは、法の趣旨に沿わない。 したがって、本件消化済受講料精算規定は、特定商取引法49条2項1号の脱法的規定として無効である。
 ちなみに、控訴人都合(廃校)の中途解約の場合や受講拒絶の場合の損害賠償に比すれば、本件消化済受講精算規定が無効であることは一層明らかである。
(T注) 特定商取引法は、サービス提供期間の長い外国語会話教室、エステティックサービス、家庭教師派遣、学習塾、パソコン教室、結婚相手紹介の6業種の中途解約について、「事業者は実際に提供したサービスの額と、解約損害金の合計しか請求できない」と規定している。
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<NOVAは今後受講料を値上げする> この判決によって、今後受講者は多くのポイントを前払いするようになる。たとえあまり長く受講するつもりはなくても、取り敢えず多くのポイントを購入すれば安くなるので多くのポイントを購入する。 そして、途中解約する。初めに予定していたポイントを購入するよりも得になるからだ。
 こうなるとこまるので、NOVAは「まとめて買えば安くなる」とのシステムをやめて、受講者が安く受講できる制度をやめる。こうして、この判決の結果、受講者が安く受講できるシステムはなくなることになる。 受講者を守ろう、との趣旨が結果として、受講者が安く受講出来るシステムを成り立たなくしてしまったのだった。
 ポイント数と料金との関係は次のようになっている。
 契約ポイント数600ポイントの場合 1ポイント当たり1200円
 契約ポイント数500ポイントの場合 1ポイント当たり1350円
 契約ポイント数400ポイントの場合 1ポイント当たり1550円
 契約ポイント数300ポイントの場合 1ポイント当たり1750円
 契約ポイント数250ポイントの場合 1ポイント当たり1850円
 契約ポイント数200ポイントの場合 1ポイント当たり1950円
 契約ポイント数150ポイントの場合 1ポイント当たり2050円
 契約ポイント数110ポイントの場合 1ポイント当たり2100円
 契約ポイント数 80ポイントの場合 1ポイント当たり2300円
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<「まとめて買えば安くなる」「前もって買えば安くなる」これ資本主義の常識> 電車やバスの回数券は切符10枚分の値段で11枚買うことができる。1000円のテレホンカードは1050円分使える。JRのグリーン券は車内で買うより窓口で買った方が安い。映画・演劇の前売り券は当日売りよりも安い。 近所のスーパーで、新潟産コシヒカリ2Kgが1100円で、10Kgが4680円。まとめて買っても安くならないならば、10Kgで5500円。 私たちの日常生活でこのような差別価格は数多く見られる。こうしたことを「資本主義の悪い例だ」という人はいない。消費者にとっても利益のある制度だと言える。 英会話の受講券に関しても、「1回1回買うよりも、まとめて10回分買えば安くなる」システムは受講者にとってメリットがあるはずだ。しかし、この判決はそれが「違法」だとしている。
 なぜこのような差別価格が多くの分野で普及したのか、と言えば、それは消費者にも販売業者にとっても利益があるからだ。メーカー・販売業者が消費者の利益を無視して一方的に展開しているのなら、これほど多くの分野で普及することはなかった。 そして、それは「違法性」も認められなかったから普及したと考えてよい。
 「まとめて買えば安くなる」「前もって買えば安くなる」を経済学的な見方から、「どういうことなのか?」「なぜ普及したのか?」を考えてみよう。
 これを考えるときのポイントは「金利」ということだ。「まとめて買えば安くなる」もよく見ると「前もって買えば安くなる」の要素が多いことに気づくだろう。11回の回数券も使い切るのは買ってから後のことになる。 コシヒカリ10kgを買っても使い切るのは後のことだ。切符もコシヒカリも必要なときに買えば、現金を必要とするのはまとめて買うときよりも後になる。つまり必要とするときよりも前に現金を支払う。 必要とするときまで預金しておけば金利が付く。販売者にしてみれば、回数券の場合サービスを提供するときよりも前に現金が入金される。サービスを提供するまでの間預金しておけば金利収入が見込める。
 「まとめて買えば安くなる」はもしかすると、必要とする以上に購入するかも知れない。ということは販売者にしてみれば、消費者が必要とする以上に買ってくれれば、売上げが伸びて嬉しいことだ。
 「まとめて買えば安くなる」の多くが実は「前もって買えば安くなる」ならば、当然金利を考えなくてはならない。金利が高くなれば割引率を高くしてもいいはずだ。 逆に金利がうんと安ければ、販売業者は前もって買ってもらっても安くするメリットが少ない。地域通貨を推進する人たちは、「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」と主張する。
 地域通貨の世界では「まとめて買えば安くなる」「前もって買えば安くなる」は通用しないことになる。NOVA裁判の判決は地域通貨の世界であるようだ。
<それでも「金利ナシの世界」を主張する人はいる>
地域通貨を提唱するひとは「金利ナシ」を主張する。そうでない人も理屈を付けることはできる。「金利はお金をイッパイ持っている人にはいいが、そうではない貧乏人には、金利はない方がいい」と考えもあるに違いない。 現代社規で金利のない社会は想像もできないので、「金利ナシ」は主張しにくい。そこで「汗を流さず、金を貸して儲けるのはよくない」とか「実業ではなくて虚業だ」と言う。こうした、トマス・モアの『ユートピア』の世界や、シルビオ・ゲゼル著『自然的経済秩序』 ▲<ヴェルグルの労働証明書>▲ やロバート・オーウェンの世界に憧れる「隠れコミュニスト」は後を絶たない。
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<「特定商取引法」は消費者を弱者として保護しようとの法律> 「特商法は76年、訪問販売やマルチ商法から消費者を守るために制定され、99年以降は、語学教室やエステティックサロンのように、継続的にサービスを提供して高額な対価を得る6業種が規制対象に加わった」 ということだ。消費者を弱者と見立てて、その弱者を守ろうとして、消費者がサービスを安く手に入れる手段を封じてしまった。市場のメカニズムに委ねておけば、消費者が悪徳業者に騙される。そのために 市場での価格の形成を需要と供給のバランスに委ねずに、中央のコントロールセンターが価格介入に介入する、という社会主義的な法律になっている。 つまり「消費者を悪徳業者から守るために、消費者が安く手に入れることを犠牲にしてしまった」というわけだ。
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<弱者保護を優先するのは、ジョン・ロールズの『正義論』> 社会の構成員が考える「もし、自分がこの社会で1番の弱者になったらどうしよう。その時のために1番の弱者をまもるルールをこの社会の基本としよう」と。 ▲「正義論」とはどんな本? ▲
 これが『正義論』の基本的な考え方だ。現在の日本ではちょっと違う。「1番の弱者」利益を重視するのではなくて、「最大多数者」の利益を重視する。それが社会全体として利益が最大になるからだ。 では、弱者はどうするか?それは基本法ではなくて特例法で対処しようとする。受講料の例で言うならば、「まとめて買えば安くなる」の商取引を認める。それが消費者全体の利益拡大になるからだ。 弱者対策はどうするかと言えば、サービス提供者は「料金システムを十分説明することを義務とする」と決める。このように消費者全体の利益を重視して、「まとめて買えば安くなる」が結局消費者の利益になるということが常識となっていない人には、サービス提供者 =販売業者は十分な説明=教育をすることを義務付ける。これが日本でのあり方だ。これには、「消費者は賢くて、「まとめて買えば安くなる」という資本主義社会の価格形成を理解している」との認識が基本になっている。 従って、「消費者はそれほど賢くはない」との認識であれば、消費者全体の利益を犠牲にしてまでも、弱者を守るために「まとめて買えば安くなる」という資本主義社会の原則を採用しない、ということになる。 ここで、2つの考え方の違いがハッキリする。@「消費者は賢い。だから<まとめて買えば安くなる>を基本とし、消費者利益を増大させることを目標とする」。A「消費者はそれほど賢くはない。だから<まとめて買えば安くなる>を犠牲にしてでも、弱い消費者を守るべきだ」
 「自己責任」とか「市場経済」とか「統制経済」「社会主義経済」などの言葉を使うと、この違いがイメージできるだろう。
<消費者は本当に賢いのか?>
上記考えを進めていくと、どこまで規制緩和を進めて市場のメカニズムを生かすか、どこまで政府は市場に介入し市場をコントロールするか、の違いは、「消費者は本当に賢いのか?」という点になってくることがわかる。
 けれども「消費者はそれほど賢くはない」と言う人も、実は「自分は十分理解しているが、一般庶民は理解できていない」との思い上がりのある場合もある。そうした人は「何でも多数決で決めるのは良くない」との主張にもなってくる。 民主制度では多数決を原則とする。この場合「理解できていないような有権者には投票権を与えない」とはしない。このため「愚衆政治」と呼ばれるようなことも起こるかも知れない。それでも、この「多数決を基本とした民主制度に勝る制度は考えられない」
<NOVAの反省点──自信を持って解約規定を説明すべきであった>
高裁の判決文に「このようにポイント単価を強調してレッスンポイントを販売した以上」とある。 ホームページを見ても契約ポイント数と1ポイント当たりの受講単価の関係は分からない。NOVAは、「まとめて買えば安くなる」は常識であるのも関わらず、中途解約の規定は受講者に受け入れられないだろう、と不安になってハッキリ説明することを逃げてしまった。 ハッキリ説明せずに、曖昧にしておいたために敗訴になってしまった。受講券購入時に鋭い質問が出るにしても、ハッキリ説明しておけばこのようなトラブルは起きなかっただろう。
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<裁判所も違法とは言えない「まとめて買えば安くなる」受講料設定> 中途解約で受講料を払い戻すときに、「支払ったときと違う料金設定は違法である」との裁判所の判決だ。 それならば、最初に支払った料金設定で中途解約の払い戻しをすればいい。そういう料金設定にしておけば裁判所も文句は言えない。そんな料金設定があるのか?そこで経済学の登場。経済学とは「損得勘定を科学する学問」なのだから、NOVAの受講料システムを、損得勘定を科学して裁判所も文句の言えない料金システムを設定すればいい。 では、それはどういう料金設定か?
 「入会金」と「受講料」の2本立てにする。1つの例として、入会金80,000円、1講座1,200円とする。
契約ポイント数 入会金(円) 1,200円Xポイント数 合計(円) 1ポイント当たりの単価
80  80,000 96,000 176,000 2,200円
100  80,000 120,000 200,000 2,000円
200  80,000 240,000 320,000 1,600円
400  80,000 480,000 560,000 1,400円
600  80,000 720,000 800,000 1,333円
800  80,000 960,000 1,040,000 1,300円

 例えば、600ポイントを契約して、400回受けて中途解約するとこうなる。80万円支払って、200回分(1,200円X200)=24万円戻しがあることになる。 この場合、400回受講して、80万円─24万円=56万円払ったのだから、1講座当たりの単価は1,400円になる。結局、最初から400講座を払うのと同じ料金になる。 これなら、受講者も裁判所も特定商取引法も文句は言えない。もしも、この受講者が予定通り600回受講していたら、1行座当たりの単価は1,333円になる。 確かに「まとめて買えば安くなる」料金システムと言える。
 こうした料金システムは、ディズニーランドなどのテーマパークの料金設定がこうなっている。つまり、入園料とアトラクション料が別になっていて、いっぱい遊べば単価が安くなるようになっている。 この入園料とアトラクション料とのバランスが、テーマパークの営業方針になり、この善し悪しが営業成績に影響する。
 経済学の入門講座、ミクロ経済学の初めの方で「価格はどのように決まるか?」という項目がある。ここでは、このような二重価格や、映画などの学生割引があって何故サラリーマン割引がないのか?などを扱う。 ということで、NOVAの受講料を「まとめて買えば安くなる」の原則を生かすシステムは、二重価格で解決できる。ちなみに「入会金」と「受講料」を色々変えてみて計算してみてください。
 経済学の入門書は、ミクロ経済から入るのが分かりやすいと思う。サミュエルソンの教科書も最近はマクロではなくミクロから始まっている。「価格はどのように決まるか?」「需要と供給の関係で決まる」から始まって、 少し前へ進むと、▲「首都高速道路の料金は2000円に値上げを」▲のような問題や、「最低賃金の引き上げは雇用を減少させる」などの問題に発展していく。 けれども、こうした経済学初歩の勉強をおろそかにしておくと、「格差是正のために、最低賃金をアップさせ労働意欲を高めよ」などというピント外れな主張になってしまう。
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<格差は是正すべきなのか?──望ましい格差もある> 「まとめて買えば安くなる、は資本主義社会の常識だ」、と書いた。けれども「まとめて買うためのお金がない」と言う人もいるだろう。 バブルがはじけて借金を抱え、日常の買い物も「パンはA商店から、牛乳はBスーパーから、卵はC商店から」という買い方をして、価格が変動すると「パンと牛乳はBスーパーから、卵はD商店から」という具合に変わったりする。こういう人にとって「まとめて買えば安くなる」は他人のルールと思えるかも知れない。
 それでも、自己責任でこうなった人は文句を言わない。むしろ、格差とは関係のない、生活不安のない人が「格差」という言葉を使っているのではないかと思う。 現実には「格差社会」という言葉が流行っていて、この言葉が一人歩きを始めているのではないかと思われる。そして、 非難の対象となっているこの「格差」、しかし必ずしも是正すべきものとは言えない場合もある。
 今週の「アマチュアエコノミストのやぶにらみ経済時評」「「まとめて買えば安くなる」は違法なのか?──NOVA訴訟の資本主義的な判決」、「格差」に関してこのような考え方もあるとして<嫉妬は平等を求める>と題された文章を最後の締めくくりとして引用することにしよう。
<嫉妬は平等を求める> 今、3人の人間 A B C からなる社会を考えてみよう。3人が獲得する所得(又は富)は、それぞれ3 2 1 であったとする。これが変化して、4 2 1 となったとすれば、これは状態が「改善」されたことになるのか?それとも悪くなったと言うべきだろうか?
 この変化を簡単に、@( 3 2 1 )⇒( 4 2 1 )で表すことにしよう。 この社会の外にいる「公平な観察者」(アダム・スミスのいう impartial spectator )なら、これをある種の改善と見るであろう。なぜかと言えば、 B C の状態が現状のままである時、少なくとも1人、この場合は A の状態だけは改善されているのだから、この社会の状態は第三者から見て明らかによくなっている。社会全体の所得(富)も以前より増えている。
 これに対して、平等を何よりも重視する立場を観察者なら、もっとも恵まれない C に同情し、A や B ではなく、まず C の状態が改善されることに関心を示す。この場合は C の状態は改善されず、もっとも恵まれていた A の状態がさらに改善されて、この社会の所得な格差、あるいは「不平等」は一段と拡大されたことになる。そたがって、このような変化は、この社会の改善ではなく改悪である、というふうに主張するであろう。また、C は(おそらく B も)このような意見に同調して、格差の拡大を非難するであろう。当事者のこの非難には、嫉妬の情が含まれている。金持ちの A がますます金持ちになることは我慢できない、というわけだ。「他人の不幸は自分の幸福」という嫉妬の原理からすれば、 A( 3 2 1 )⇒( 2 2 1 )のような変化こそ「改善」になる。B も C も、A が貧しくなったことを愉快とし、満足を覚え、したがって社会は「穏やかな気分」に満たされることであろう。社会の」全所得は 6 から 5 に減ったけれども、格差は縮まり、より平等化したのであるから、この方がよい、というわけなのだ。孔子の「寡(すく)なきを患えず、均しからざるを患う」という言葉も、このような「貧しくても平等な方がよい」という立場を表明したものと言える。
 しかし誰の肩ももたない「第三者的な」観察者は、このようなAのような変化を「改善」だと見るだろうか?嫉妬で足を引っ張り合う愚かな人々の「自己満足」を嗤うのではないだろうか。
 それでは、( 3 2 1 )という状態を、政府が強制的に修正して、B( 3 2 1 )⇒( 2 2 2 )と完全に平等化したとしよう。もとの状態が、能力、努力、運によって決まった「ゲーム」の成績であったとすると、政府が「再分配政策」によって結果を平等化したことになる。C はこのような平等化を歓迎する。A はもちろん不満を唱える。再分配は「ゼロサム・ゲーム」であるから、ある人が追加分をもらって喜ぶ反面、他の人は自分の取り分を削られて怒るという結果になる。現状のままに放置される B は、ここでは「優遇される」C を嫉妬するに違いない。このような平等化を「公平な観察者」はどう評価するだろうか?ややシニカルに、「それがあなたがたの総意なら、やむを得ないでしょう」と言うかもしれない。そしてさらに、 「それにしても、ゲームの結果をあとから政府の手で平等化するのでは、そもそもゲームをした意味はありませんね」という感想を付け加えるかもしれない。
 ところで、この社会の総意という点について、次のようなことが言える。
 今、社会が( 4 1 1 )のような状態になっているとしよう。この社会で「多数決による総意」を決めることにすれば、B と C が平等化に賛成し、A は反対して、結局「恵まれない多数」の言い分が通ることになる。つまり多数の貧者は少数の富者から奪うことによって、自らの状態を改善することができるのだからだ。
 このように、「多数決原理」を採用した再分配が何をもたらすかは、考えてみるとかなり恐ろしいことだ。それは論理的には「多数の貧者による少数の富者の収奪」という帰結をもたらすしかない。これを「民主主義の恐ろしさ」と見るか、それとも「民主主義こそ平等化をもたらす、民主主義万歳!」と自賛するか、これは立場と価値観の違いによって決まる。「公平な観察者」は多分、「このような平等化を追求する民主主義は、社会主義に行き着くほかない」というコメントを残すであろう。
 むしろ不思議なのは、現実の民主主義がこの平等化をそれほど徹底して追求するわけでもなく、「金持ちの収奪」を経て社会主義の道を歩むわけでもない、という事実の方だ。実はここに「民主主義の知恵」がある、と言うべきではないだろうか。民主主義は平等だけを追求して社会主義に至るとは限らず、人々が競争しながら自立して自由をできるだけ保障しようとしている。そして代表者を投票で選ぶ方式の民主主義そのものが、きわめて競争的なシステムと言える。民主主義は、結果をどこまでも平等化すべきだという思想だけに引き回されているわけではない。このように「差別原理」と呼ばれる考え方は必ずしも多くの国民に支持されているわけではない、ということだ。 (『経済倫理学のすすめ』から)
 中国では、@( 3 2 1 )⇒( 4 2 1 )の政策をとっている。それに対して、地上の楽園では( 3 2 1 )⇒( 2 1 1 )の政策、ポル・ポト支配のカンボジアでは( 3 2 1 )⇒( 1 1 1 )の政策。中国以外は、どちらも「寡なきを憂えず、均しからざるを憂う」という感情を尊重した政策でジニ係数は低下する。 「貧しくとも、周りの皆も同じように貧しいなら、それは平等、ということでとても良いことだ」という考えでこの政策を支持する人もいるようだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『経済倫理学のすすめ』            竹内靖雄 中公新書    1989.12.20
『正義論』       ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
( 2007年4月9日 TANAKA1942b )
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ほりえもんモルモットへの第2楽章
挑戦者たちのノブレス・オブリージュ
第2楽章 Adagio assai  葬送行進曲 Op.55
<ルール違反をすると結局は損する社会> TANAKAは2005年3月1日に 「ほりえもんモルモット論」▲ と題して書いた。それが第1楽章ならばこれは第2楽章になる。第2楽章は Adagio assai 葬送行進曲 (Marcia funebre) だ。 先ずはマスコミの報道から話を始めよう。マスコミはホリエモン逮捕について次のように報道している。
 ライブドア(東京都港区)グループによる証券取引法違反事件で、東京地検特捜部は1月23日、同社社長の堀江貴文容疑者(33)ら4人を同法違反(偽計、風説の流布)容疑で逮捕した。関連会社の株価をつり上げる目的で、会社買収発表などで虚偽事実を公表した疑い。特捜部は同日、堀江社長から初めて事情聴取し、虚偽事実の公表が堀江社長らの主導で行われたと判断。今後、グループの粉飾決算疑惑も追及する。株価や東京証券取引所のシステムに大きな影響を与えた事件を受け、堀江社長の辞任は避けられない情勢だ。  関係者によると、堀江社長はこの日の調べに対し、事実関係を認めながらも、違法性の認識については否定したという。ほかに逮捕されたのは財務担当取締役の宮内亮治(38)▽関連会社「ライブドアマーケティング」(LDM、港区)社長を兼ねる取締役の岡本文人(38)▽金融子会社「ライブドアファイナンス」(LDF、港区)社長を兼ねる執行役の中村長也(38)の各容疑者。
 学生の部活動、体育会系と文化部系では組織の意志決定が違っている。体育会系では学生以外の、先輩や教師が部長やコーチをつとめ、その指令は絶対的だ。これに対して文化部系では、部長は仲間の互選で決まり、部長は独裁者ではなく、単なるまとめ役に徹する。 事案が発生すると担当者が部長に「こうした状況なので、次のように対処したい」と言い、部長は「よく分からないが、君がそう言うならいいだろう」となる。
 ライブドアでの意志決定がどのようなものだったのか、単なる推測に過ぎないが、体育会系的ではなく文化部系的だったのだろうと思う。外部に向かっては堀江社長がワンマン的に対応したが、内情は各担当者が智恵を絞って堀江社長に提案し、堀江社長はそれらを積極的に採用したのだろうと思う。 そうだとすれば、担当者は社長に十分説明したつもりであり、社長は話は聞いたが担当者に任せた、と思っているに違いない。こうして堀江社長は話は聞いていたが、その違法性については十分に認識していなかった、と思われる。
 ここでこの問題について1つのポイントを指摘しておこう。
 日本では消費者を裏切ってヤバイことすると結局は損する社会になっている。TANAKAは今まで何回もこのホームページで書いてきた。企業・市場・法・そして消費者▲ では食肉偽装事件では、雪印・日本ハム・スターゼン・全農チキンフーズなどが小さな不法利益を得ようとして大きな損失を招いたことを指摘した。 接待汚職の経済学▲ では「機会費用」という言葉で倫理という感情問題を損得という勘定問題に置き換えることによって、問題を消却しようと試みた。
 ライブドアグループによる証券取引法違反事件がどのように決着するかは司法の判断になるのだが、現在報道されている状況では、ライブドアが不法な利益を得ようとして、結局は大きな損失を招いたのは間違いないようだ。たとえ発覚する確率が低いと思われても、損得勘定を計算すれば、「やらない方が得だ」と判断されたはずだ。 そうした機会費用ということが、犯罪を予防するインセンティブになっている、ということは <国家が人を殺さねばならぬとき>▲ 及び <合理性のない犯罪と死刑制度>▲ に書いたので、そちらを参照のこと。
<どちらが得かよく考えてみよう> 企業不祥事を企業倫理という言葉で説明しようとすると、なかなか良い解決策が見つからない。これを「損得勘定」で考えると、問題は案外簡単なことだと気づくはずだ。ライブドアでは「損得勘定」ができてなかったようだ。 ヤバイことをして信用を失うと、どんなに損なのか、それは企業の信用の大きさに関係してくる。失うほどの信用もない零細企業は一発勝負でヤバイ賭けにチャレンジする。社会的信用が増してくると、ヤバイことして失う信用は大きい。ライブドアは零細企業から社会から注目される大企業になったことに社員の誰もが気づかなかった。 ホリエモンはライブドアがどれほど大きくなり、社会的影響力が増したのか気づかなかった。それなりに社会的責任を果たさなければならないほどの大企業になったことに気づかなかった。これがポイントだと思う。松下電器産業は配達地域指定冊子小包で「松下電器より心からのお願いです」とFF式石油暖房機のリコールに多大の費用をかけている。
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<ムダを承知でコストに組み入れる「ノブレス・オブリージュ」> 「ノブレス・オブリージュ」(Noblesse Oblige)という言葉がある。「高貴な人はそれなりに社会的責任を果たすべきだ」といったような意味だ。学生の同好会のようなサークル活動で、外部社会にあまり影響を与えないならば、意識する必要はない。けれどもプロ野球球団を持とうという程度に大きくなると、社会的影響をも考えなければならない。 それは、たとえ利益追求の集団である企業でもその活動が社会に与える影響を考慮したり、あるいは必要以上に一般市民からの非難を受けないようにするためのコストがかかる場合もある。 よく言われるように「嫉妬心はしばしば正義という名の仮面を被りたがる」ものだ。納税申告にしても「あそこは脱税しているのではないか?」と疑われるくらいなら、税金を払いすぎた方が良い。その経費は有名税と考え、惜しみなく払うことにしましょう。
 企業のレベルで言えばこのようなこと。そして日本国民のレベルで言えば「消費税を10%にして、1%は国連を通して、重債務最貧国(HIPCs=Heavily Indebted Poorest Countries)や後発開発途上国(LLDC=Least Less Developed Countries)のインフラ整備に使って貰う」というようなことになる。 これに関しては 新春初夢、30年後の日本経済▲ に書いたので、そちらを参照のこと。
 そしてもっとハッキリと世界に貢献できるのは、コメの輸入を自由化することだ。アメリカ・タイ・オーストラリアを始めアジアの国の農民が「日本にコメを輸出して豊になろう!」と張り切るに違いない。さらにそれに倣ってヨーロッパ諸国が農産物の輸入自由化に踏み切れば、世界で多くの農民に希望を与えることになる。 先進諸国の人びとはノブレス・オブリージュを意識してもいいはずだ。これに関しては 関税率の工夫とノブレス・オブリージュ▲ に書いたので、そちらを参照のこと。 
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<トライ・アンド・エラーの米国でベンチャー・ビジネスが育つ> アメリカ経済の強さの秘密の1つにベンチャー・ビジネスの逞しさがある。その強さを「草の根市場主義」と名づけて書いた本がある。そこから幾つかの部分を引用することにしよう。
 小さな突起がついたブロックを組み合わせて家や乗物をつくる「レゴ」。日本でもおなじみのおもちゃだ。つくっているのはデンマークのレゴ社である。そのレゴ社がある時、大きなマーケットである米国とドイツで、市場調査の一環としてお客さんである子供たちがどういう風にレゴで遊ぶかを観察した。そこでおもしろいころを発見した。
 アメリカ人の子供たちは包みを破ってただちに思い思いのモノを作り始めた。大人の目には何を作ろうとしているのかわからない。ほとんどモノの形をなしてないものもある。しかし、目を輝かせながら自分たちの作品に熱中していることだけは間違いない。それを見て、親たちは「ファンタスティック」、「かっこいいね」と口々に子供たちを称賛する。 
 一方、ドイツの子供たちは、まず説明書を丹念に読んだ。その後でそこにモデルろして描かれているものを「作り方」と首っ引きで作業しながら完成させた。色や形はモデルとぴったりそのままだ。親は「正しくできたね」とほめた。
 アメリカ人の特質をマーケティングの担当者の目でまとめた著作 The Stuff Americans are made of に出てくるエピソードである。
 米国での様々な取材を通じて感じたのは、ここに出てくる子供たちと親たちがやったのと同じことを、国全体で進めたのが90年代の米国だったのではないかということだ。いろんな人や新しい組織が思い思いにレゴづくりをした。見たこともないような作品が生まれた。うまくいかないといって作り直す人たちもいた。そうした動きを社会が促し、応援した。
 米国では、こうしたトライアル・アンド・エラーを促す土壌を、1つの成長メカニズムにまで高めることによって経済を若返らせ、成熟国が直面する課題を乗り切ろうとしているのではないか。それは、世界経済が金融市場の混乱に見舞われ、そのあおりで、これまで好況を続けてきた米国景気が傾いても変わらず、むしろ強まるだろう。この本で書こうとしていることを簡潔に言えば、こういうことになる。(中略)
スモールプレーヤーが主役
意識して新しい小企業や組織、さらには組織を超えた個人の活動に目を配り、所在を深めるようにした。もちろん、ベンチャー企業の活躍が米国の特質であることは知っていた。しかし、取材を通して触れたスモールプレーヤーたちのストーリーは、想像をはるかに上回る力強さにあふれ、深い奥行きを持っていた。(中略)
 起業と切っても切れない失敗の増加という事態に対応し、それをうまく経済社会の中の包み込んでしまう仕組みも、たとえば企業再建を支援する新しい事業の誕生などを通じて生まれてる。それらは単純な競争のメカニズムとも違う。多様な生物が互いに助け合い、それぞれが「進化」していく生態系のメカニズムに近い。 (T注 「自生的秩序」に似た考えだ)
 米国での取材を重ねるうちに痛感したのは、市場メカニズムの本来の機能は、新しく優れた者を経済・社会に受け入れていくということにある、という単純な事実だ。スモールプレーヤーが既得権益者の掣肘を受けずに、活動を広げることができたことで、米国が若返った。 もちろんこの過程で、はじき出されるプレーヤーも出てくるが、スモールプレーヤーが大きく成長して果実をもたらすというプラス面が目の前で現出しているから、「市場メカニズムは、痛みを補ってあまりある恩恵を社会経済にもたらす」という確信が生まれる。
 これに対して日本では、市場メカニズムは一種の破壊者、暴力装置のような感覚で見られはじめている。大手の金融機関が市場から見放されて倒産したり、政府の経済政策に対して金融市場が「日本売り」で答えたりしていることが、そうした市場観を助長しているようにみえる。(中略)
 90年代の米国のもう1つの特徴は、失敗に対応するインフラをつくりあげたことにある。経営が悪い企業の再建を助けるビジネス・法制度に加え、そうした企業の社債や資産を買い取るハゲタカ投資家の増加など、再生や失敗の早期処理を可能にする仕組みが強化された。(中略)
「とにかく勘弁してほしい」。電話の相手はそう繰り返すばかりだった。
 日本で製造業の将来について取材をしていたとき、事業に失敗したある起業家の話を聞こうとしたことがある。起業に伴う様々な壁について知りたかったからだ。だが、その人は会って話すことは絶対にできないという。
 「名前は出さない」、「迷惑がかかる書き方はしない」いくら説得してもだめだった。
 「家を遠く離れたところで、また一からやり直そうとしている。その障害になるようなことをさせないでくれ」、「新聞なんかで言い訳めいた話をしたら、自分の事業に融資したおカネがパーになった債権者がどう思うか」。
 その人の家は神奈川県にあったが、近々そこを去るという。
 「ベンチャー企業をもっと育成しなければならない」、「資金をもっとベンチャーに」──。日本ではそうした掛け声はますますさかんになっている。しかし、それと裏腹の関係にある失敗を社会が受け入れようとはせず、リスクは極力避けようとする環境をどうにかしないと結局は何も変わらないのではないか。 世間をはばかるような起業家のくぐもった声を受話器の向こうに聞きながら、そんな印象を持った。
 そんな経験があったので、ベンチャー先進国と言われる米国が、失敗という問題にどう対応しているかについては、大きな関心があった。金融界のプロの間で読まれている金融誌『グランツ・インタレスト・オブザーバー』の編集長、ジェームズ・グランド氏はこう言った。
 「米国の強みは、失敗を包み込む要領の大きさにある。失敗を素早く認識し、それを食い止め、それを容赦することに優れている点にある」。バブル(膨張)、バスト(破裂)のサイクルは景気だけでなく、業界や企業にもあるが、そのバストの過程での対応が90年代はじめの不況期にうまかった。それが米国がほかの国に比べて一歩前に出られる主因だった、 という。失敗への対抗は90年代には1つの体系にまで高められており、その点で「今バブル的な動きがあり、それが崩壊しても、中長期的には楽観している」というのである。(中略)
イラン人起業家の再起
重苦しい因習の世界が残るイランから飛び出し、陽光の降り注ぐカリフォルニアに降り立ってから、思えば19年の月日がたっていた。1992年夏、カムラン・エラヒアン氏はシリコンバレーにある自宅をあとに世界放浪の旅に出た。
 当時37歳。きっかけは、その3年前の89年に創業したペン入力のパソコン会社「モーメンタ」の倒産。画期的な新製品として一時は業界の関心も集め、2年で売上高1億ドルという期待で始めたが、肝心の消費者がついてこず、売上げ不振に苦しんだあげくの結末だった。
 ベンチャーキャピタルなどの出資者は4000万ドルあまりをすべて失い、150人近くいた従業員も全員職を失った。成功したベンチャー経営者としてハーバード大学のビジネススクールに呼ばれて講義をしたり、業界誌でもてはやされたこともあった。が、そんな中で芽生えたプライドはずたずたになった。 エラヒアン氏は「旅行は、気分を転換し、失った自信を取り戻すために必要だった」と振り返る。
 フィジー島からトルクメニスタンまで、旅は10カ月に及んだ。「恨まれているのではないか。この街で再びやっていけるだろうか」。恐る恐る帰国した同氏を待っていたのは、大損をした当の出資者を含む投資家グループからの誘いの言葉だった。 「新しく立ち上がったばかりの会社の取締役になってくれないか。事業に失敗したという経験がきっと役立つはずだから」。その時ほど米国に来てよかったと思ったことはなかった、という。
 そこでしばらく過ごした後、昔の仲間と一緒に新型半導体チップの新会社「ネオマジック」を設立した。ベンチャーキャピタルからの資金集めは快調に進み、1100万ドルの出資資金を調達した。そして、97年3月にはついにナスダック(店頭公開)市場での新規株式公開(IPO)にこぎつけた。
 18歳で米国に渡ったエラヒアン氏は、ヒューレット・パッカードで働きながら、同社の援助をうけてスタンフォード大学でシステム工学を学んだ。27歳の時に会社を離れ、ベンチャー企業を設立して以来は一貫して起業家暮らし。84年には今では有名企業になっているシラスロジックを知人たちと共同で創業した。 そんな実績が評価されていたからこそ、失敗してもカムバックできた面はある。しかしエラヒアン氏は「倒産のときはいろんな人たちに迷惑をかけた。シリコンバレーでなければ、同じ場所で何ごともなかったかのように再起することができたかどうか」という。
 インテルなどハイテク企業が並ぶシリコンバレー南部の町、サンタクララ。この一角にあるネオマジック社の本社でエラヒアン氏に会ったのは、同社がちょうど株式を公開する3日前だった。鼻の下に蓄えた分厚いひげに、はげ上がった頭。そしてどっしりした体つきから、一見、年よりも老けてみえるが、底抜けに陽気な性格で、笑顔を絶やさない。「心はまるで少年のよう」と中国系の広報担当者が評する。
 職場は、中国系、インド系など様々な人種の従業員が歩き回り、ドアが開いた部屋に座るエラヒアン氏に気軽に声をかけていく。「国連みたいでしょ」とエラヒアン氏が笑う。
 エラヒアン氏は「モーメンタで学んだのは市場、技術、ヒトの3つともリスクがあると、事業は失敗するということだった」と言う。 しかしこれからもリスクを避ける気はさらさらないようだ。壁には「すべてのすばらしいものは、危険と紙一重のところにあり、戦いとらなけてばならないものだ」という格言が額に入れられて、飾られていた。
 米国の企業家の間ではエラヒアン氏のように何度も企業を創業する人が多い。企業を成長させるよりも新しいことを始めたがるタイプで、「シアリアル・キラー(連続殺人犯)」をもじって「シアリアル・アントレプレナー(連続起業家)」とも言われる。そうした人たちと失敗とは切っても切れない縁のようだ。
 ゲーム機器のアタリの創業者の一人で、30社に及ぶ企業を興したノーラン・ブシュネル氏はベンチャーキャピタリストの一部ではひそかに「4割バッター」と呼ばれる。家庭用ロボット開発会社「アンドロボット」、ビデオゲームを売り物にしたピザ屋チェーン「ピザ・タイム」……。 独自のアイデアで創業、一時は喝采を集めながらも結局は、倒産に終わった例が多いからだ。しかし4割の成功が失敗を補って余りある富と名声をもたらした。最近もニューヨークを拠点にインターネットを使った娯楽サービスの会社を始め、全米を走り回るなど創業意欲は衰えない。 (『米国 草の根市場主義』から)
*               *                *
<ほりえもんモルモットのリターンマッチへの第3楽章> アメリカの素晴らしいところは、一度負け組になっても再度挑戦する機会があるということ。そして、失敗という貴重な経験を生かして欲しいとの期待から、一度失敗した者にチャンスが多く訪れるということだ。 ホリエモン、今度はノブレス・オブリージュを意識して、旧体制にドップリ浸かっている人にもアピールする経営を目指すだろう。 
 ほりえもんモルモットのリターンマッチへの第3楽章は Allegro vivace スケルツオで、第4楽章 Allegro molto 終曲は短い動機を繰り返す、古い形式であるパッサカリア、これが始まるのはまだまだ先のことだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『米国草の根市場主義』スモールプレーヤーが生むダイナミズム      実哲也 日本経済新聞社 1998.11. 4
( 2006年2月13日 TANAKA1942b )
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リベラルとコンサバティブのコアビタシオン
社会不安が雇用促進になる?
駐禁取締事務の民間警備会社移管 
小学校の民間警備会社への保安確保委託
<何が経済を成長させるのか?>  マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムが資本主義発展の本質である」と言い、ウェルナー・ゾンバルトは「恋愛と贅沢が資本主義を発展させた」と言い、TANAKAは江戸時代には「趣味の贅沢が経済を成長させた」とこじつける。 ところが最近の出来事を見ていると「社会不安が景気を刺激する」と思えてくる。この「社会不安」と「贅沢」とは全く性格が違うにもかかわらずある面で共通の要素がある。それは「本来なくてもいいもの」「不要なもの」「ない方がいいもの」ということだ。 今回の「やぶにらみ経済時評」は民間警備会社の仕事が増えたことを話のとっかかりとして、景気刺激策、外部不経済、 そして「リベラルとコンサバティブのコアビタシオン」といったことに話を進めることにした。
<民間警備員が駐車禁止取締事務を扱う>  2007年6月までに、民間警備会社のガードマンが駐車禁止取締事務(放置車両確認等)を行うことになった。これに伴って、今までは駐車違反の車があると、タイやと地面に印を付け、暫くしてから書類を作成していたが、 これからは、その場で直ぐに駐車違反の書類を作成することになった。今までは印を付けられたら車を移動させれば良かったが、これからはそういうことは通用しない。問答濡用の処置になる。
 そうした実際の違反切符作成よりも、ここでは警察の仕事を民間の警備会社が代行する点に注目する。こうした制度が導入されるのは、犯罪が多く、警察官が不足で、駐車違反までに手が回らなくなったため、と説明されている。 警察官の人員増強は行政改革の動きとは逆行するので難しい。そこで民間警備会社にお声がかかったわけだ。
 この制度導入による変化のポイントは次ぎの2つ。
@民間警備員に特別の権限が与えられたかのようになる。
A雇用が促進される。
@民間警備会社の働きを規制する法律として「警備業法」があり、それには次のように定められている。
 警備業法(警備業務実施の基本原則)第8条 警備業者及び警備員は、警備業務を行なうにあたつては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない。
これからは警備員が「交通誘導」ではなく「交通整理」を行うことになるだろう。つまり「特別な権限が与えられているかのように」業務を遂行することになる。
A駐禁事務から交通整理が加わり、地域の安全確保のための巡回まで業務が広がっていけば、間違いなく雇用促進になるだろう。このことをよく考えると「社会不安が広がると、雇用が促進される」となる。 社会が安全で、皆がルールを守っていれば、駐禁事務も交通整理も地域巡回も、それに多くの人員を配備する必要がない。かつてイザヤベンダサンは言った「日本では水と空気と安全はタダと考えられている」と。 水も空気もタダでないことは理解されてきた。今回のことで安全がタダでないことがはっきりし、これで日本の普通の国になる。デファクト・スタンダードを受け入れ、グローバリゼーションの波に乗ることになる。
(=_=)                     (=_=)                      (=_=)
<渋谷区の小学校を民間警備員が守る>  渋谷区の小学校が民間の警備会社と契約し、職員・児童の安全確保のために警備員を配置することになった。今年の4月から実施され、警備員は07:30から16:00までの勤務、1号警備としては結構きつい仕事だ(今日4月25日のテレビによると「港区と北区でも実施された」と報道された)。この仕事、社会がもっと安全なら必要のない仕事だ。 過去に起きた事件を振り返って、「警備員を配置したら、警備員は犯人逮捕に貢献したか?」と問われれば、何と答えるか?特別武道の心得があるわけではない。特別危険手当が支給されるわけでもない。それでも配置する意味があるのは、「抑止力」という点だ。
 最近の社会治安の不安から民間警備員の導入を検討している自治体は多い。ネックは経費が掛かること。ということは、公共事業と同じ雇用促進効果、景気刺激効果があるということだ。駐禁取締事務を扱うことと相まって、民間警備会社の仕事が増え、警備員の雇用促進になり、景気刺激効果が期待される。
(=_=)                     (=_=)                      (=_=)
 警備員の仕事が増えて景気刺激になる、ということはどういう意味があるのだろうか?「そのようなことが雇用対策、景気浮揚策になるとはアマチュアエコノミストのこじつけにしか過ぎない」と言いたい人もいるかも知れない。 失業とか経済成長とか国民総生産などということについて、真面目に考えてみよう、ということで、専門家の意見を取り上げてみることにした。まず引用するのは都留重人の『経済の常識と非常識』、ここにはアマチュアエコノミストと同じ発想がある。
<蚊を繁殖させる国>
 ここに甲と乙の2つの社会があるとする。それは別々の共同体であるが、ありとあらゆる条件がすべて同じだと前提する。 実際にはそういうことはないだろうが、仮定の話だから、人口も、面積も、資源も、生産されるものも、教育程度もぜんぶ同じで、両方とも、労働人口の2,3%の人が、仕事に就きたいけれども職がなくて困っているという状況も同じ、とにかく瓜二つという社会があると仮定する。
 そこで、甲も乙もたとえば百人ずつ失業者があるとする。甲のほうの失業者は、なんとか生業を得ようとして、職業紹介所に行ったり、新しい技術の訓練を受けたり努力するのだが、まだ職につけないである。 一方、甲のほうの社会の百人の失業者は、相計らって、おれたちの仕事はなんとかおれたちで作ろうじゃないか、人に頼っていてもしょうがない、と考えたとする。 なかに知恵者が一人いて、こんなことを言い出した。「おれたちの社会では誰も経験したことがないが、夏になると蚊というものが出てくる国がある南の方にあるそうだ。その蚊を取りに行って来よう。そうして養殖して、国中に広げる。 そうすれば必ずわが国民は、蚊取り線香が欲しい、蚊帳が欲しい、と言うにちがいない。そこで、おれたちの半分は、どこか蚊のいる国から蚊を輸入するために、その国に出張して、蚊を籠かなんかに入れて持って帰る。あとの半分は、香取線香や蚊帳を作ることに携わる。 これは必ず成り立つ商売に違いない。どうだ、やろうじゃないか」ということで、仕事にとりかかったとする。もともと甲でも乙でも蚊というものは存在しなかったのである。
 かくして乙の国では、失業者の半分が、南の国から蚊を持ち込んで来て、夏にはパッと蚊を繁殖させた。そうなると、乙の国民はかなわない。何か防衛手段はないかとお店に行くと、すでに香取線香や蚊帳が売られている。これらの品は、同じ失業者同士があらかじめはからって製造してあったのだが、それがどんどん売れる。
 その結果、乙の国では、失業者はなくなり、国民所得は、甲の国のそれよりも高くなった。失業率が3%であったとすれば、そこに3%の国民所得格差が生じたわけである。しかし、誰しも、経済的福祉が乙の国においてそれだけ高くなったとは言わないだろう。
 これは、たしかに作り話には違いないが、非常に示唆に富んでいるのだ。現実の社会には、これに似た仕組みで国民に国民の払わされる費用が増え、したがってその国の国民所得(そしてまた、その国の1人当たり所得)が増える事例が、案外多い。その最たるものは、現代における「国防費」と呼ばれるものの果たす役割である。
 一方で冷戦を激化させ、仮想敵国をこしらえて危険意識をあおり、国民がそれでは「戸締まり」を厳重にしなければと思いこむ状況を作っておいたうえで、他方、軍事目的の施設や器具に資金をつぎ込むことは、まさに蚊のいなかったところに蚊を繁殖させて香取線香や蚊帳を市民に売りつけるのと同じではないだろうか。 少なくとも蚊の場合には、蚊に刺される不愉快感が肉体的に現実のものであるだけに、対応策の適否は、効能の有無と直接に対比して判断されうるが、冷戦と国防費との関係は、そうではない。どこかの国が攻めて来そうだという「仮想敵」論は、現実に攻めて来る前の話だから、確実なことは、まだ何も言えない。 従って、危険意識が心理的なものであるだけに、対応策の適否を効能の有無で検証することができず、最大限主義の対応策が提案されても、これを客観的に反論することは難しい。 (「経済の常識と非常識」から)
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<GNPやGDPは国民総費用か?>  『経済の常識と非常識』ではさらに話を進めて、「自動車文明の反福祉面」「GNP指標の水増しと片手落ち」とのタイトルで、現代社会を批判している。 「自動車文明の反福祉面」については<自動車の社会的費用>から引用しているので、ここではGNP(現在ではGDPを使う)について話題にすれば、「GNPとは国民総生産と言うよりも、国民総費用と表現した方がいいのではないか?」との主張になる。 つまり警備のために金を使うということは、それは「生産」と言うよりも「費用」と言った方が適切だ、ということだ。こうして「成長イデオロギーを糾す」との意見になる。
 ところで現在の失業率はどのような数字になっているのか?総務省統計局の統計データから引用しよう。
 平成17年3月29日公表の平成17年2月の失業率
 完全失業者数 308万人 失業率4.7%  男5.0% 女4.3%。
 求職理由 万人 定年等30  勤め先理由74 自己理由115 学卒未就職13 新たに収入が必要41 その他29。
 諸外国の失業率 韓国3.5% アメリカ5.5% カナダ7.2% イギリス2.8% ドイツ10.5% フランス9.9%
 経済成長率はどうか?財務省のホームページから 2003暦年実績
 日本2.5% アメリカ3.0% EU0.6% OECD加盟国2.2% アジア7.2% 途上国6.1% 
 日本では自分から進んで失業者になった人が115万人もいるのだ。ときどきテレビなどで、仕事がなくて長く失業している人を取り上げて、日本の不況を報道しているが、 本当に仕事をしなければ生活出来ないのなら、民間の警備員になればこれからも仕事が増えるかもしれない。
 GDPと国内総費用との関係はどうなのか?失業率の実体は本当に悲惨なのか?先進諸国から指摘されるほど日本経済は不振なのか?こうした問題、今まで当たり前に思っていた経済のいいこと、悪いこと、 その実状について考え直す必要がありそうだ。
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  『経済の常識と非常識』で「自動車文明の反福祉面」として扱われている問題は、宇沢弘文が<自動車の社会的費用>として取り上げた問題だ。そこで言い出しっぺの宇沢弘文は何と言っているのか?引用してみよう。 ただしいくつかの論文があり、適当にまとめると著者の意図と違う場合もありそうなので、その<まえがき>から引用することにした。関心を持たれた方は全文を読んで、著者の言いたいことを理解して頂きましょう。
<自動車の社会的費用>  わたしは十数年間外国にいて、数年前に帰国したが、そのとき受けたショックからまだ立ち直ることができない。はじめて東京の街を歩いたときに、わたしたちのすぐ近くを疾走する自動車、 トラックの風圧を受けながら、足がすくんでしまったことがある。東京の生活になれるにつれて、その恐怖感は少しずつうすれていったが、いまでも道を歩いているとき、自動車が近くを追い越したりすると、そのときの恐怖感がよみがえってくる。 子どもたちはじきになれてしまって、あまり苦にしなくなったようであるが、毎日学校から帰ってくるまで、交通事故にあわないかと心配することが現在までつづいている。
 けれはわたしがとくに臆病だということよりは、日本における自動車通行のあり方が、世界のどのような国に比べても、歩行者にとって危険なものとなっているからである。日本で、とくに大都市で育って生活している人たちにとっては、いつの間にか現在のような自動車通行のあり方は当然と思われるようになっているかもしれない。 しかし、このように歩行者がたえず自動車に押しのけられながら、注意しながら歩かなければならない、というのはまさに異常な現象であって、この点にかんして、日本ほど歩行者の権利が侵害されている国は、文明国といわれる国々にまず見当たらないといってよい。
 このような印象を受けるのは、わたしだけではない。久しぶりに帰国する人々はほとんどみな、わたしと同じような経験をいたであろう。また、日本を訪れる外国人がまず最初に感ずるのも、日本において自動車通行がいかに歩行者の権利を侵害しているか、ということであり、また、このような自動車通行を許している日本社会に対する不可解な感じであろう。 かつてポール・サミュエルソン教授が日本を訪れたときに、自動車のことにふれ、「まともなアメリカ人だったら、東京の街で1カ月生活していたら完全に頭がおかしくなる」という発言をした。 このサミュエルソン教授の言葉に、他の外国人のおそらく共感を覚えるにちがいない。ただ、サミュエルソン教授のように遠慮のない発言をしないだけであろう。
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 日本における自動車通行の特徴を一言にいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである。 ところが、自動車通行にかぎらず、すべての経済活動は多かれ少なかれ、他の人の市民的権利になんらかの意味で抵触せざるをえないのが現状である。このことは、産業公害の例を出すまでもないことであろう。むしろ、経済活動にともなって派生する社会的費用を十分に内部化することなく、 第三者、とくに低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのが、戦後日本経済成長の過程の一つの特徴であるということができる。そして、自動車な、まさにそのもっとも象徴的な例である。
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 もっと一般的に言えば、社会的費用の発生は資本主義経済のもとにおける経済発展のプロセスに必ずみられる現象である。ところが、経済学の分野で、社会的費用あるいは外部不経済という問題が整合的な理論体系のなかで論究されたことはなかったといってよい。 もちろん、外部不経済に関してはセシル・ピグーの古典的貢献をあげることができるし、またソースティン・ヴェブレンもこの点に関して基本的な考え方を提供している。しかし、ピグーやヴェブレンたちの貢献は必ずしも経済理論のなかに整合的なかたちで組み込まれてこなかった。 外部不経済あるいは社会的費用の問題は例外的な現象として捉えられ、依然として正統的な経済理論の枠外に位置している。
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 戦後日本経済の高度成長のプロセス、あるいは自動車の社会的費用というような問題を分析しようとするとき、どうしても正統的な経済理論の限界に突き当たらざるをえなくなる。 ここで正統的な経済理論というときには、日本でいう近代経済学の理論的支柱を形づくっている新古典派理論を指すが、この正統的な経済理論はたんに日本社会に特有なこれらの問題を十分解明することができないだけではない。 世界の多くの先進工業諸国で現在起こりつつあるさまざまな経済的現象は、もはやこの正統派理論の枠組みのなかで分析することができなくなってきた。 ジョーン・ロビンソン教授は、経済学が現在直面しているこの状況をいみじくも「経済学の第2の危機」と呼んだのであるが、ケインズ経済学を生みだした1930年代の「経済学の第1の危機」とまさに匹敵するような意味を、現在の状況はもっているといってよい。
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 わたし自身、この数年にわたって、公害、環境破壊、都市問題、インフレーションなどの現代的問題を取り扱うとき、新古典派の理論体系にはどのような問題点が存在し、どのような限界があるか、ということを考えるとともに、代替的な理論体系の構築を試みるという困難な作業をつづけてきた。 本書では自動車の社会的費用をどのように考えたらよいか、という問題に焦点を当てながら、これまでの作業に一端を紹介することにした。 自らの試行錯誤のプロセスをこのようなかたちで発表することに対してわたし自身強い抵抗を感じないわけにはゆかない。とくに、自動車の社会的費用に関する研究と新古典派経済学に対する理論的見当と2つの作業をほぼ同時に進めながら、しかも両方とも未完成の段階で発表することについて大いに躊躇せざるをwなかった。 しかし、自動車の社会的費用は現在多くの人々が強く関心をもっている問題であり、わたしのこれまでの思考の過程がなんらかの意味で参考になれば、という気持ちから、あえて本書を上梓することにした。読者からわたくしの考え方の不備・誤謬を指摘していただければ幸いである。
  1974年5月13日
(「宇沢弘文著作集第T巻」から)
 外部不経済の関しては多くのエコノミストが論じるようになった。物事のマイナスの面を指摘するのはアマチュアでもやりやすいので、反自動車論は取っつき易いテーマと言える。ただ、救急車という自動車によってどれほどの命が救われたか?消防車という自動車によってどれほど火災の被害が少なくなったか? パトカーという自動車によってどれほど治安が維持されているか?といったことは議論されることがない。
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 「自動車の社会的費用」を考えると、「外部不経済」という言葉にぶつかる。その外部不経済の代表的な問題は「公害問題」と言えるだろう。 その公害問題を取り上げるとき、その基本的な問題の著書として「サイレント・スプリング=沈黙の春」を忘れてはならない。この書もこのHPで短くまとめるには余りにも多くの・大きな問題を提起しているので、ここでは最後の部分から引用することにしよう。 最初の部分は<沈黙の春=Silent Spring >▲で引用したので、そちらを参照のこと。
<『沈黙の春』終わりの部分から>  私たちの住んでいる地球は自分たち人間だけのものではない──この考えから出発する新しい、夢豊かな、創造的な努力には、<<自分タチノ扱ッテイル相手ハ、生命アルモノナノダ>>ろいう認識が終始光り輝いている。 生きている集団、押したり押し戻したりする力関係、波のうねりのような高まりと引き──このような世界を私たちは相手にしている。昆虫と私らち人間の世界が納得し合い若いするのを望むならば、さまざまの生命力を無視することなく、うまく導いて、私たち人間にさからわないようにするほかない。
 人におくれをとるものかと、やたらに、毒薬をふりまいたあげく、現代人は根源的なものに思いをひそめることができなくなってしまった。こん棒をやたらと振り回した洞穴時代の人間に比べて少しも進歩せず、近代人は化学薬品を雨あられと生命あるものに浴びせかけた。 精密でもろい生命も、また奇跡的に少しのことではへこたれず、もり返してきて、思いもよらぬ逆襲を試みる。生命にひそむ、この不思議な力など、化学薬品をふりまく人間は考えてもみない。<<高キニ心ヲ向ケルコトナク自己満足ニオチイリ>>、巨大な自然の力にへりくだることなく、 盲蛇におじず、ただ自然をもて遊んでいる。
 <<自然の征服>>──これは、人間が得意になって考え出した勝手な文句にすぎない。生物学、哲学のいわゆるネアンデルタール時代にできた言葉だ。自然は、人間の生活に役立つために存在する、などと思い上がっていたのだ。 応用昆虫学者のものの考え方ややり方をみると、まるで科学の石器時代を思わせる。およそ学問とも呼べないような単純な科学が最新に武器を手にして化ってなことをしているとは、何とそら怖ろしいことか。 怖ろしい武器を考え出してはその鉾先を昆虫に向けていたが、それがほかならぬ和つぃたち人間の住む地球そのものにむけられていたのだ。 (「生と死の妙薬」から)
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 日本でも公害問題に精力的に取り組んだ人がいた。東京大学の助手、宇井純だった。 東大本郷で自主講座が開かれた。アフターファイブ、大急ぎで駆けつけ講義に聴き入ったその「自主講座・公害原論」、その「開講のことば」をここで紹介しよう。多くの人が本郷に集まった。その人たちの熱いハートを感じて頂きましょう。
<公害原論>  公害の被害者と語るときしばしば問われるものは、現在の科学技術の対する普請であり、憎悪である。 衛生工学の研究者としてこの問いを受けるたびにえあれえあれが学んで来た科学技術が、企業の側からは生産と利潤のためであり、学生にとっては立身出世のためのものにすぎないことを痛感した。 その結果として、自然を利潤のため分断・利用する技術必然的に公害が出てきた場合、われわれが用意できるものは同じように自然の分断・利用の一種であいかない対策技術しかなかった。 しかもその適用は、公害という複雑な社会現象に対して、常に事後の対策そしてしかなかった。それだけではない。個々の公害において、大学および大学卒業生はもとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。 その典型が東京大学である。かつて公害の原因と責任の糾明に東京大学が何等かの寄与をなした例といえば足利鉱毒事件をのぞいて皆無であった。
 建物と費用を国家から与えられ、国家有用の人材を教育すべく設立された国立大学が、国家を支える民衆を抑圧・差別する道具となって来た典型が東京大学であるとすれば、その対極には、 抵抗の拠点としてひそかにたえず建設されたワルシャワ大学がある。そこでは学ことは命がけの行為であり、何等特権をもたらすものではなかった。
 立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する。この学問を潜在的被害者であるわれわれが共有する一つの方法として、たまたま空いている教室を利用し、公開自主講座を開くこととした。 この講座は、教師と学生の間に本質的な区別はない。終了による特権もない。あるものな、自由な相互批判と、学問の原型への模索のみである。この目標のもとに、多数の参加を呼びかける。 (「公害原論」開講のことば から)
 宇井純に啓発されて公害問題に関心をもったのは20才代のこと。そして、60年安保闘争のとき、国会前に座り込み夜を明かしたのは10代のこと。間違いなくLiberal であった。
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<「消費者リポート」発刊のことば>  現代の消費社会を一言で言うと「お客様は神様です」となる、というのがTANAKAの考え方だ。これは昔から言われていたわけではなく、竹内直一の「日本消費者連盟」の努力に負うところが大きい。 多くの市民運動の中にあって、社会に大きな影響を与えた運動として特記すべき運動であったと思う。そこで、その運動の機関紙であり運動の歴史である「消費者リポート」から引用しよう。第1号に先立つこと、「創刊準備号」があったのだが、今手元に見当たらないので、創刊号である第1号から引用することにした。
消費者は守られているか 最近の消費者生活の実態をみますのに、これほどわたしたち消費者の権利が踏みにじられていることは、他の先進諸国にも例のないことです。
 「消費者を守れ」という声が起こってからすでに10年の年月が流れ、昨年「消費者保護基本法」がつくられました。ところが従来、わが国の行政は産業助長的色彩が強く、消費者の方を向いておりません。 業者側もこれをよいことにして、企業の社会的責任を果たす努力をしていないのです。、
 このようないわゆる「消費者不在の正治行政、企業の姿勢」を改めさせ、名実ともに「消費者主権」を確立し、失われている「人間らしい生活」をとりもどすためには多数の消費者の証言と主張を大きく結集し、これを具体的政策に十分反映させることが必要なのです。 ところが残念ながら今のところ「消費者は王様」などとおだてられてもその実は「裸の王様」でしかないといわれているのです。
連盟構想のあらまし  連盟はたてまえとして政治的に中立の立場をとり、また街頭デモ等の集団行動に訴えるような方法ではなく、お互いの経験に基づく証言を集めてあくまで実証的に問題を追求していくという地道な活動によって目的を達するという方針で運営します。 また、構成を期するために財政的にも特定の正治団体や事業者等によりかかることをせず、個人会員の拠出による回避や事業収入を主たる財源とします。
 われわれは前述の目的を達成するため、種々の事業を計画していますが、そのなかでも中心的な役割をはたすのがこの「消費者リポート」なのです。
消費者のためにリポートを  「消費者リポート」は連盟自体の活動のありのままの報告であると同時に、リポート読者の直接参加によって紙面を構成し、消費者が何もものも邪魔されずに真実を知らせ合い、きびしい主張をぶつけるための武器とします。 そのためにはあらゆる外部の圧力や誘惑に超然としていなければなりません。「消費者リポート」がいっさいの広告を掲載しないのはそのためです。読者の購読料だけに支えられたリポートの発行は決して安易な道ではありませんが、読者のご協力によってこの困難をのり越えていく決意であります。
リポートをきずなに地域の消費者活動を  リポートの読者はそれぞれの地域で「消費者リポート読者会」を結成してください。5人でも10人でも。読者会は地域単位で自主的に活動していただきます。連盟は消費者会の運営費の一部として購読料の一部を還付するなど地域ごとの消費者グループの自発的な活動を支援します。
 ようするに連盟の役割は地域ごとの消費者の蚊つぃどうをお手伝いすることにあり、主役はあくまでも地域の消費者グループなのです。その関係はたとえて言うなら盆踊りに集う人々のようなものでしょう。事務局はいわばヤグラの上のはやし方で、地域の消費者グループが踊り手なのです。 踊り手は自由に輪の中に入りすきなだけ踊り、はやし方は踊り手の注文に応じてはやします。そこにはスターもいなければ識者もいない。自由な意思を持って個人が共通の目的を持って自発的に参加するものであるわけです。
 以上のような種子でこの「社費者リポート」は発刊されました。
 この企てを皆様の手でもり立ててくださるようお願いします。(「消費者リポート」第1号 から)
消費者は「王様」か?「暴君」か?「消費者は王様、しかし裸の王様」は竹内直一氏の言葉、今はこのように言う人もいるだろう。
 ひろしです「消費者は王様です。でも、ときどき、消費者は暴君です、と言いたくなることがあるとです」。
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<市場経済に不信感を持つリベラル>  市場のメカニズムを活用することによって経済が活性化し、人々が豊かになる資本主義社会、しかし、この市場のメカニズムに不信感を持ち、これを修正したり、変革すべきだ、と考える人がいる。 そうした中で、反市場経済の書物、リベラルと言われる考え方の書物として、つぎのようなものがある。
 『スモールイズビューティフル』
 『スモールイズビューティフル再論』
 『ユートピア』
 『居酒屋社会の経済学』
 『ゆたかな社会』
 『有閑階級の理論』
 それぞれ一読をお奨めします。
 社会不安が雇用を促進する現実、そしてそれに基づいたGDPによって国の豊かさを評価しているような現実、GDPに代わる指標が見出せない現実、こうした現実の社会を批判する意見が多く発表される。 その主張は「こうした社会では良くない。よりよい社会を作ろう」と、社会を設計しようとする。社会を「べきである」と捉えるか「である」と捉えるかで現実の社会に対する姿勢が違ってくる。 「べきである」と捉えると、『正義論』のような主張になり、全く反対の主張であるかのような『アナーキー・国家・ユートピア』も結局は、「社会はこうあるべきだ」との「べき論」になる。 若いときにはこのような「社会はこうあるべきである」との考え方が心を捉えることになる。
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<30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない>  駐禁取締事務の民間警備会社移管が始まる。東京都渋谷区では小学校の民間警備会社への保安確保委託が始まった。こうして社会不安が雇用を促進し、国内総生産を押し上げる。長く失業保険で暮らしている人に新しい就職先が確保され、失業率が下がる。 こうした状況で表現される経済成長率は、実際の豊かさを伴わないバブルであると主張する人が出てくる。こうした問題に対して、正義感に満ちた若者が上記諸著作を読めば、社会の歪みに憤り、理想を求め、資本主義体制を批判し「社会主義者」になる。そうでなく、何に対しても怒らず、現状を肯定するだけであれば、その人は「ハートがない」となる。 これはチャーチルの表現を借用してのこと。そのチャーチルは次のように言っている。
If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill ==30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。 30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。(日本語訳・『裸の経済学』青木栄一訳から借用) 。
 「30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない」について、今回は取り扱わず、いずれ改めて扱うことにし、 それでも一言付け加えて置きます。「30歳過ぎて Conservative になっても Liberal であったときの熱いハートは失いたくない」と。
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<追補──イラクで日本人警備員が拘束される>  報道によると「警備会社ハートセキュリティー社でコンサルタントを務める斎藤昭彦さんがイラク西部で襲われ、行方不明になった。イラクのイスラム教スンニ派の武装勢力「アンサール・アルスンナ」が2005年5月9日、イラク西部ヒートで日本人を拘束したとする犯行声明をインターネットで流した」
 「社会不安が雇用促進になる」は日本だけでなく、世界的な傾向なのかも知れない。しかし、雇用促進にならなくてもいいから、世界は平和であってほしい。(2005年5月10日)
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<主な参考文献・引用文献>
『経済の常識と非常識』                          都留重人 岩波書店     1987. 3.13
『宇沢弘文著作集』第T巻 社会的共通資本と社会的費用 自動車の社会的費用 宇沢弘文 岩波書店     1994. 5.10
『生と死の妙薬』(原題・Silent Spring)        レーチェル・カーソン 青樹簗一訳 新潮社      1964. 6.22
『公害原論T』                               宇井純 亜紀書房     1971. 3. 1
『消費者リポート』 第1号                      日本消費者連盟創立委員会    1969. 6. 7
『スモールイズビューティフル』     E.F.シューマッハー 小島慶三・酒井懋訳 講談社学術文庫  1986. 4.10
『スモールイズビューティフル再論』   E.F.シューマッハー 酒井懋(つとむ)訳 講談社学術文庫  2000. 4.10 
『ユートピア』                      トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫     1978.11.10
『経済学入門』                              都留重人 講談社文庫    1976. 6.30
『ゆたかな社会』                    ガルブレイス 鈴木哲太郎訳 岩波書店     1990. 3. 9
『居酒屋社会の経済学』              レオポルド・コール 藤原新一郎訳 ダイヤモンド社  1980. 1.10
『有閑階級の理論』              ソースティン・ヴェブレン 小原敬士訳 岩波文庫     1961. 5.25  
『正義論』                     ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店   1979. 8.31
『アナーキー・国家・ユートピア』          ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社      1992. 8. 6
『裸の経済学』                 チャールズ・ウェーラン 青木栄一訳 日本経済新聞社  2003. 4.23
( 2005年4月25日 TANAKA1942b )
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ほりえもんモルモット論

出資者よりもその金を使う者の方が偉いのか?
 趣味の経済学に新しいページを追加した。題して「アマチュアエコノミストのやぶにらみ経済時評」。ホームページを立ち上げて約4年、大きな企画物が中心になって、時の流れから少し離れてしまったようなので、単発物を随時書いていくことにした。初回はライブドア堀江貴文社長のニッポン放送株取得問題。 毎日のように状況が変化しているので、少し長いスパンで考えてみる。
 「日本株式会社」という言葉があって、「日本は社会主義をやっている」との考えもあるようだ。たしかに「資本主義は市場のメカニズムに任すべきなのに、日本では政府・官僚がマネーゲームのプレーヤーとして参加し、市場の ▲自生的秩序▲ が保たれていない」との批判も一理ある。 そしてこうした考えから「戦後の日本経済は官民協調の成果だ」と主張したい気持ちも理解できる。しかし目をヨーロッパ向けてみると、戦後復興政策、仏・英・独が社会主義をやっていたことに気づくはずだ。これらの国からすれば「日本はアメリカに次ぐ自由放任経済=レッセ・フェールだ」となる。 官民一体を強調したい人は、「行政指導」という言葉を持ち出すが、それ以上に忘れてならないのは ▲「官に逆らった経営者」▲ がいたということだ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
 @ 川崎製鉄の社長西山弥太郎が1950(昭和25)年、「千葉に製鉄所を造る」と発表したとき、当時の日本銀行総裁、一万田尚登が「川崎製鉄が千葉工場建設を強行するならば、ペンペン草を生やしてみせる」と言ったと伝えられている。 その川鉄が世界銀行の融資を受けて銑鋼一貫会社を目指したことによって他社も追従し、日本は鉄鋼王国になった。戦争によって古い設備が使えなくなった、という点は仏・英・独どこも同じ。しかし日本以外には西山のような「官に逆らった経営者」は出なかった。
 A 「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」と通産省の役人から、東通工(現ソニー)がトランジスタの特許を買おうとした時に言われた。そして1年間待たされて、トランジスタラジオの第1号はアメリカの会社に奪われた。 そのソニーがトランジスタラジオで注目され始めた1960年代、週刊朝日の「日本の企業」に東芝を取り上げ執筆した中で、大宅壮一が「ソニー・モルモット論」を展開した。 「トランジスタでは、ソニーがトップメーカーだったが、現在ではここでも東芝がトップに立ち、生産高はソニーの2倍半近くに達している。つまり、儲かるとわかれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強みがあるわけで、何のことはない、ソニーは、東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」
 こういう言われ方は、ソニーにとって残念なことだった。たしかに東芝はトランジスタのために13億円もの大金を投じて工場を建てているし、生産高も多い。設立当時19万円だったソニーの資本金は12年経って、2億円に増えたが、東芝など戦前からの歴史を持つ大会社に比べれば、まだ駆け出し企業でしかなかった。
 しかし後年、井深は「ソニー・モルモット論」に対し、以下のように語っている。
「私共の電子工業では常に新しいことを、どう製品に結びつけていくかということが、一つの大きな仕事であり、常に変化していくものを追いかけていくということは、当たり前である。決まった仕事を、決まったようにやるということは、時代遅れと考えなくてはならない。ゼロから出発して、産業と成りうるものが、いくらでも転がっているのだ。これはつまり商品化に対するモルモット精神を上手に活かしていけば、いくらでの新しい仕事ができてくるということだ。トランジスタについても、アメリカをはじめヨーロッパ各国が、消費者用のラジオなど見向きもしなかった時に、ソニーを先頭に、日本の製造業者全部がこのラジオの製造に乗り出した。これが今日、日本のラジオが世界に幅をきかせている一番大きな原因である。これが即ち、消費者に対する種々の商品をこしらえるモルモット精神の勝利である。
 トランジスタの使い道は、まだまだ我々の生活の周りにたくさん残っているのではないか。それを一つひとつ開拓して商品にしていくのがモルモット精神だとすると、モルモット精神もまた良きかなと言わざるを得ないのではないか」
 B 政府が産業育成に積極的にかかわった例として、「傾斜生産方式」と並んで「特定産業振興法」(特振法)をあげる。この法案は将来、輸入自由化・資本自由化に備え日本企業の国際競争力を強化を目的としている。国際競争力強化の必要がある産業として、自動車産業・石油化学・特殊鋼などを指定している。これらの産業に税制や金融面での恩恵を与えると共に、合理化を進め、企業の合併や集中を図ろうとするものであった。通産省が特振法で目指したのは、政府(官僚)が先頭に立って、自由化に対抗する日本型官民協調態勢を築くことと理解された。つまり官僚が産業政策を立案し、業界を指導し、天下り先を確保し、日本型社会主義経済を築こうとするものであった。しかし官僚たちは日本のためであり、自己利益などの意識はない。損得勘定ではなく、正義感からの立案ではあった。 通産省は1961(昭和36)年に資本の自由化に対処するために、自動車業界を量産車メーカー、特殊車メーカー、ミニカー・メーカーの3グループに再編成する構想を発表した。1964年に特定産業振興臨時措置法案(特振法)として国会に上程した。それによると、特定産業については重電機、石油化学などが予定されていたが、とくに乗用車については、メーカーの新規参入を禁止する内容が含まれていた。四輪メーカーの乱立を防ぎ、国内の過当競争を阻止しない限り、日本車はアメリカ製に太刀打ちできないとされた。
 これに反対した本田宗一郎は通産省で佐橋滋事務次官とけんかした。宗一郎は1983年のテレビインタビューで、佐橋滋と会った時を振り返り、次のように語っている。 「どうにも納得できないということで、僕は暴れたわけで、特振法とは何事だ。おれはやる(自動車を作る)権利がある。既存のメーカーだけが自動車を作って、われわれがやってはいけないという法律をつくるとは何事だ。自由である。大きな物を、永久に大きいとだれが断言できる。歴史を見なさい。新興勢力が伸びるにに決まっている。そんなに合同(合併)させたかったら、通産省が株主になって、株主総会でものを言え!と怒ったのです。うちは株式会社であり、政府の命令で、おれは動かない」(1995年2月5日、NHKテレビ「戦後経済を築いた男たち」から)。
 C クロネコヤマトの宅急便の「官に逆らった経営者」=ヤマト運輸社長・小倉昌男の戦いによって、日本の流通システムは大きく進歩した。郵政民営化が言われるのも宅急便の普及があってのことだ。
郵便法第5条(事業の独占)
何人も、郵便の業務を業とし、又、国の行う郵便の業務に従事する場合を除いて、郵便の業務に従事してはならない。ただし、総務大臣が、法律の定めるところに従い、契約により総務省のため郵便の業務の一部を行わせることを妨げない。
2 何人も、他人の信書の送達を業としてはならない。2以上の人又は法人に雇用され、これらの人又は法人の信書の送達を継続して行う者は、他人の信書の送達を業とする者とみなす。
3 運送営業者、その代表者又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならない。但し、貨物に添附する無封の添状又は送状は、この限りでない。
 この法律が改定され、民間業者が信書を扱えるようになれば、小口消費者物流が大きく変わり消費者に便利なシステムがさらに普及するだろう。
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 このような戦後日本の経済政策に対してヨーロッパは ▲「戦後復興政策 ヨーロッパ西も東も社会主義」▲ と言える。
 @ フランス 「戦争で疲れ切ったフランス経済は、自由市場経済ではやっていけない、国家が管理し育成しなければならない」。こうしたジャン・モネの提言による「モネ・プラン」によって戦後のフランス経済は出発した。 それは国家の市場に対する影響を大きくする、という資本主義と社会主義とを掛け合わせた「混合経済」と呼ばれるものであった。この方針により多くの企業が国営化された。政治面では左翼政党が政権を握ることもあり、戦前の ▲人民戦線内閣の誕生▲ の復活のようでもあった。 大統領と首相、この地位を保守党と左翼政党とで分け合う ▲「コアビタシオン」▲ (保革共存)(cohabitation)も度々あった。
 A イギリス 終戦後の労働党アトリー内閣は、完全雇用の達成と福祉国家を目指し、福祉国家を目標とするベヴァリッジ・プラン(Beveridge Plan)「1942年社会保障報告」として具体化され、広範な社会主義的政策を示した。フランス同様多くの企業が国有化され、British Steel は国営⇒民営⇒国営⇒民営と政権交代毎にもてあそばれた。 石炭はアーサー・スカーギルが率いる全国鉱山労組(NUM)が支配する、という、いわば ▲アナルコ・サンディカリズム▲ をやっていた。 保守党と労働党との政権交代劇が度々あり、その度に経済政策は資本主義⇔社会主義と大きく変わった。現在は労働党が政権を握っている。
 B ドイツ 戦後の西ドイツは独立国家ではあったが、アメリカをはじめとする西側諸国の政策の枠からはみ出ることはできず、経営者の自主性は重んじられていなかった。 先進諸国の戦後復興を引っ張っていたのが、石炭・鉄鋼。ドイツでは──ジャン・モネの考えによるシューマン・プランによる、フランス、ドイツを中心にイタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの6ヶ国が参加する、石炭・鉄鋼の共同管理体制として「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)が機能していた。そしてその資金はアメリカのマーシャル・プランに頼っていた。「非社会主義経済体制」と言っても石炭・鉄鋼はアメリカとヨーロッパ諸国との共同事業であり、「官に逆らう経営者」が出る環境にはなかった。 経済政策の基本はエアハルトの ▲社会的市場経済▲ だった。そして両ドイツが一緒になって、1990年7月1日に発効された「両ドイツ通貨・経済・社会同盟創設に関する国家条約」は、この条約の基礎を「双方に共通の経済秩序としての社会的市場経済である」と明記している。つまり、旧西ドイツが建国以来、一貫して標榜してきた「社会的市場経済」(soziale Marktwirtscaft, social marketeconomy)と呼ばれる独特の経済体制だ。それは日本やアメリカのような市場経済に社会主義の要素を取り入れたもので、フランスの「混合経済」やイギリスの「ゆりかごから墓場まで」の社会福祉政策と似た考え方のものだ。そして現在は社会民主党を中心とした左翼陣営が政権を握っている。
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 上に紹介した4人の「官に逆らった経営者たち」、今振り返ってみても大胆なことをしたものだ、と思う。こうしたハイリスク・ハイリターンは民間の経営者だからできるのであって、前例を尊重する官僚にはできない。仏・英・独の経営者には望むべきもない。「ハッキリしたビジョンを」と批判する人もいるが、こういう考えも尊重したい ▲「開発は先の見えない夜行列車。智恵と度胸をもって走り続けなさい」▲ 。 夜行列車、夜が明けてみたら予想外の景色だったとき、あるいは、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」が、その雪国で予想以上に積雪量が多かった場合、そうした予想外の出来事に対処するには、ビジョンとか計画だけでなく「智恵と度胸」が必要だ。「ボクの前に道はない。ボクの後に道はできる」という生き方には智恵と度胸が必要だ。そしてなのよりも「モルモットの精神」が必要になる。 戦後日本経済を切り開いてきたのはこうした「官に逆らった経営者たち」「モルモット」たちがいたからだ。日本の長い不況を打ち破るのはかつてのソニーに代わるモルモットの出現なのだと思う。常識的に考えればとてつもなく、大胆で無謀で型破りで、ハイリスク・ハイリターンを狙う戦略。規制に守られ、新規参入を制限し、既得権に甘えている前世代の経営者には理解できない怖ろしい存在なのかもしれない。 しかし戦後の日本が仏・英・独以上の経済成長を遂げたのはこうした「官に逆らった経営者たち」「モルモットたち」がいたからで、そのモルモットのおかげで 規制に守られた社会=プロ野球業界も少し変わろうとしている。同じように規制に守られているマスコミ業界はどうなるだろう? 今はハイリスクを承知で参入しようとしているほりえもんモルモットの活躍に期待しよう。 ほりえもんから発せられる ▲「利己的な文化遺伝子ミーム」▲ が、あたかもウィルスが繁殖するように経済界に広まり、各業界に新規参入が増え、緊張感に満ちた経済成長が促進されれば、「それぞれの人が自分の利益を追求することによって、だれも意識していなかった日本の経済成長が促進される」ことになる。 つまり ▲アダム・スミス▲ の表現を借りれば「誰も日本経済の成長のため、と思って行動する訳ではないし、自分がそれに対してどれほど貢献しているかも知らない。ただ自分の利益を追求しているだけなのだが、他の場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる」ということだ。
 今話題になっている「ニッポン放送株取得問題」でもう一つのポイントは、「金を出した出資者と、それを使う経営者と、どちらが偉いのだ?」ということ。ニッポン放送とフジテレビの経営者は「株主よりも経営者の方が偉い」と思っているようだ。これでは「株主優待」などということは思いつかないだろう。 多くの企業で「株主を大切にしよう」と株主優待を実施している。自分たちの事業に金を出してくれる人たちは大切すべきだと思う。それが日本人でも外国人であっても、あるいは他業種の人であってもだ。それは資本主義社会での常識だと思う。
 外国資本を怖れるのは、かつて ▲第二の黒船来襲▲ と怖れられた資本の自由化の時、1960年代の世界経済の捉え方だと思う。つまり、功なり名遂げた人が学生として経済学を学んだ時代のことだ。それから世界は進化している。経済学も深化している。ポール・クルグマンも言っている「経済学は進歩している。今一線で活躍している経営者も、今更経済学の初歩から勉強はしていない。こうして経営者の常識と経済学の知識とが食い違ってくる」と。
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 市場経済という競争社会では「大きな物を、永久に大きいとだれが断言できる。歴史を見なさい。新興勢力が伸びるにに決まっている」▲(本田宗一郎)▲となる。その緊張感が生産性向上へのインセンティブになる。あの ▲ビル・ゲイツ▲ でさえ「われわれの次の競争相手が、どこからともなく現れて、ほとんど一夜にしてわれわれを業界から追い出すかもしれない」 という恐怖心をもっている。そして経営者とは異質な株主・社外重役が参加することによって、 一代雑種=F1ハイブリッドが生まれ、 ▲自家不和合性▲ を防ぐことができ、雑種強勢が期待できる。経営者が「今まで通りの仲間とやっていきたい」と言うのは、心情的には同情できても企業経営としてな適切な戦略とは言えない。 気の合った者とやっていきたい、というのは異端者を入れないこと、つまり多数決では全員一致でものごとが決まるような組織でありたい、との気持ちだ。しかし ▲全会一致の怖ろしさ▲ ということを考えると、経営手法としては不適切だと思う。
 「ニッポン放送株取得問題」は司法の場に舞台を移すことになったが、これは経済問題なので経済学の立場から見る必要がある。そして経済学の見方でも決して視野狭窄にならないように、多方面から見ることが大切だ。自分の頭のなかで雑種交配をやり、一代雑種を作り出すことだ。それには頭の中で新規参入を促進すること。 そうしたことにとって大切なのが「好奇心」と「遊び心」を失わないこと、そのように思っています。
( 2005年3月1日 TANAKA1942b )