戦後復興政策
ヨーロッパ 西も東も社会主義

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します 戦後復興政策  ヨーロッパ 西も東も社会主義       アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します       If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill  30才前に社会主義者でない者は、ハートがない。30才過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいです      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

戦後復興政策  ヨーロッパ 西も東も社会主義
 妖怪が闊歩していたヨーロッパ 赤い30年代への序章 ( 2002年10月28日)
 コミュニスト・ファシスト・アナーキスト 混迷を極める政治情勢 ( 2002年11月4日)
 人民戦線内閣の実験 興味をそそられるこの時代 ( 2002年11月11日)
 モネ・プランの実験 産業国有化政策 ( 2002年11月18日)
 不確定性原理を社会現象に応用 北朝鮮でのインタビューを考える ( 2002年11月25日)
 社会党ミッテラン大統領の登場 「大きな政府」の実験 ( 2002年12月2日)
 コアビタシオンの時代 シラク内閣成立 ( 2002年12月9日)
 ラスキの30年代 世界に広がる「地産地消」政策 ( 2002年12月16日)
 ゆりかごから墓場まで 雇用維持と通貨管理の選択 ( 2002年12月23日)
 イギリスでの産業国有化 二大政党間でもてあそばれる企業 ( 2002年12月30日)
 社会主義よ、さようなら 労組の横暴が労働党の所得政策を破綻させた ( 2003年1月6日)
 ビスマルクからヒットラーへ 突き進む強国への道 ( 2003年2月10日)
 社会的市場経済という経済思想 エアハルトの経済政策 ( 2003年2月17日)
 日本株式会社と社会主義国=仏・英・独 社会主義信仰は生きている ( 2003年2月24日)

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

妖怪が闊歩していたヨーロッパ  
赤い30年代への序章
<「共産党宣言」 万国の労働者よ 団結せよ!>  一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している──共産主義という妖怪が。およそ古いヨーロッパのすべての権力が、この妖怪を祓い清めるという神聖な目的のために同盟を結んでいる。法皇とツァーリとが、メッテルニヒとギゾーとが、フランス急進派とドイツ官憲とが。
権力を握っている政敵から共産主義だと罵られなかった野党がどこにあるだろうか?野党にしても、より進歩的な反対派に対して、あるいは反動的な政権に対して、共産主義の烙印を押し、非難を投げ返さなかった野党がどこにあるだろうか?
この事実から2つのことが言える。
T 共産主義は、すでにヨーロッパの権力によって、1つの力として認められている、ということ。
U いまこそ、共産主義は、その考え方、その目的、その意向を全世界の前に公表し、共産主義の妖怪という迷信に党みずからの宣言を明示すべき時だ、ということが。
この目的のために、さまざまの国籍の共産主義者がロンドンに集まって、次の宣言を起草した。これは、英語、フランス語、ドイツ語、イタリー語、フランドル語、およびデンマーク語で発表される。
<社会正義に対する情熱は失っていませんか> 以前にこの文章を何度も読んだ人、60年安保当時国会前で朝まで座り込みをした人、大学を150日もロック・アウトさせた経験のある人、お茶の水駅周辺をカルチエ・ラタンに見立てて機動隊の催涙ガスに涙を流した人、新宿騒乱事件のとき駅周辺で歩道のガラ・煉瓦を持って逃げ回った人。正義感に燃えて行動していたあの頃、社会の変化に自己主張した人、少なくとも傍観者ではなかった人。今はどうしてますか?法人資本主義の資本の論理に従って、弱肉強食のマネーゲームのプレーヤーとして企業戦士振りを発揮していますか?社会の不正義に怒りをおぼえなくなったのですか?ソ連が崩壊したので社会主義はサヨナラですか?それでもアメリカ型市場経済は弱肉強食、日本型資本主義には合わないと思っていたり……。それならもう一度踏み込んで読んでみませんか?「共産党宣言」を。中途半端な「隠れコミュニスト」から脱却しましょうよ。筋金入りのコミュニストへ……。あるいは「転向」するのもヨシ……。声を出して読んでみましょう。 声に出して読みたい日本語、英語、ドイツ語、ロシア語。「共産党宣言」を。
"The Communist Manifesto" を
"Manifest der Kommunistischen Partei" を
"МАНИФЕСТ КОММУНИСТИЧЕСКОЙ ПАРТИИ"  を
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The Communist Manifesto
Workers of all countries, unite !

A spectre is haunting Europe ─ the spectre of communism. All the powers of old Europe have entered into a holy alliance to exorcise this spectre: Pope and Tsar, Metternich and Guizot, French Radicals and German police-spies.
Where is the party in opposition that has not been decried as communistic by its opponents in power ? Where is the opposition that has not hurled back the branding reproach of communism, against the more advanced opposition parties, as well as against its reactionary adversaries?
Two things result from this fact:
I. Communism is already acknowledged by all European powers to be itself a power.
II. It is high time that Communists should openly, in the face of the whole world, publish their views, their aims, their tendencies, and meet this nursery tale of the spectre of communism with a manifesto of the party itself.
To this end, Communists of various nationalities have assembled in London and sketched the following manifesto, to be published in the English, French, German, Italian, Flemish and Danish languages.
Manifest der Kommunistischen Partei   
Proletarier aller Lander, vereinigt euch !

Ein Gespenst geht um in Europa ─ das Gespenst des Kommunismus. Alle Mächte des alten Europa haben sich zu einer heiligen Hetzjagd gegen dies Gespenst verbündet, der Papst und der Zar, Metternich und Guizot, französische Radikale und deutsche Polizisten.
Wo ist die Oppositionspartei, die nicht von ihren regierenden Gegnern als kommunistisch verschrien worden wäre, wo die Oppositionspartei, die den fortgeschritteneren Oppositionsleuten sowohl wie ihren reaktionären Gegnern den brandmarkenden Vorwurf des Kommunismus nicht zurückgeschleudert hätte ?
Zweierlei geht aus dieser Tatsache hervor.
Der Kommunismus wird bereits von allen europäischen Mächten als eine Macht anerkannt.
Es ist hohe Zeit, daß die Kommunisten ihre Anschauungsweise, ihre Zwecke, ihre Tendenzen vor der ganzen Welt offen darlegen und dem Märchen vom Gespenst des Kommunismus ein Manifest der Partei selbst entgegenstellen.
Zu diesem Zweck haben sich Kommunisten der verschiedensten Nationalität in London versammelt und das folgende Manifest entworfen, das in englischer, französischer, deutscher, italienischer, flämischer und dänischer Sprache veröffentlicht wird.
アイン ゲシュペンシュトゥ ゲート ウム イン オイローパ ダス ゲシュペンシュトゥ デス コミュニスムス。 アッレ メヒテ デス アルテン オイローパ ハーベン ジッヒ ツウ アイネル ハイリゲン ヘッツヤーグ ゲーゲン ディース ゲシュペンシュトゥ フェルビュンデットゥ、デル パプストゥ ウントゥ デル ツァール、メッテルニッヒ ウントゥ ギゾー、フランツィェージッシェ ラディカーレ ウントゥ ドイッチェ ポリツィシュテン………
МАНИФЕСТ КОММУНИСТИЧЕСКОЙ ПАРТИИ   
ПРОЛЕТАРИИ ВСЕХ СТРАН, СОЕДИНЯЙТЕСЬ !

Призрак бродит по Европе ─ призрак коммунизма. Все силы старой Европы объединились для священной травли этого призрака: папа и царь, Меттерних и Гизо, французские радикалы и немецкие полицейские.
Где та оппозиционная партия, которую ее противники, стоящие у власти, не ославили бы коммунистической? Где та оппозиционная партия, которая в свою очередь не бросала бы клеймящего обвинения в коммунизме как более передовым представителям оппозиции, так и своим реакционным противникам ?
Два вывода вытекают из этого факта.
Коммунизм признается уже силой всеми европейскими силами.
Пора уже коммунистам перед всем миром открыто изложить свои взгляды, свои цели, свои стремления и сказкам о призраке коммунизма противопоставить манифест самой партии.
С этой целью в Лондоне собрались коммунисты самых различных национальностей и составили следующий "Манифест", который публикуется на английском, французском, немецком, итальянском, фламандском и датском языках.
プリズラーク ブラジートゥ パ エフローペ。プリズラーク コミュニズマ。 プショウ シーリ スタロイ エフローピ オブエディニリシ ドゥリャー スビャーツェノイ トゥラブリ イェターガ プリズラーカ。 パパ イ ツァーリ、メッテルニッヒ イ ギゾー、フランツーズスキエ ラディカーリ イ ニェメッツキエ ポリツェイスキエ………
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<30年代に形作られた「妖怪への憧れ」> ヨーロッパの戦後復興政策を振り返るとき、大戦間の政治経済の動きを無視すると理解出来ない。このシリーズ、まず大戦間の出来事、「赤い30年代」から話を始めることにしよう。
 一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊していた1848年、100年近く後に妖怪がマス・インテリの憧れの対象として、ヨーロッパを闊歩していた。「共産主義国ソ連が誕生し、共産主義が現実のものとなった。一方資本主義国家はマルクスの予言通り大恐慌になった。武力革命を経ずに社会主義実現の可能性はないか?こうした情勢の中で、フランスでは人民戦線内閣が誕生する。
 しかしこれに反対の勢力もある。ドイツでヒットラー政権が誕生すると、共産主義に対する勢力としたファシズムを認めようとする。これと反対にファシズムに対する勢力として共産主義を考えようとの動きも生まれる。こうしたからみもあって、フランス・イギリス政府はファシズムに対する態度が曖昧になり、スペインでフランコの勝利を許す事になる。悪の枢軸を力で押さえ込むことができない。第一次大戦の反省から、恒久的な平和を築くために国際連盟が創設されるが提唱国のアメリカは参加しない。それどころかモンロー主義をとってヨーロッパへの不干渉政策をとった。イギリスはブロック経済圏を作り保護貿易=自給自足政策を進め、これが世界不況を一層立ち直り困難なものにした。 こうした情勢を横目で見ながら後発植民地主義国=大日本帝国は自給自足を安定させるため、大東亜共栄圏との名目で自給自足の地域を広げること=植民地拡大を進めていた。こうした政治・経済の不安な時代に文化の面では多くの動きがあった。ドイツではバウハウスを拠点にノイエ・ザッハリッヒカイト(Neue Sachlichkeit)(機能的なものは美しい)、三文オペラなどのドイツ・ミュージカル、フランスでは、シュルレアリスム(Surréalisme 超現実主義)が生まれる。 ソ連へ行き、その宣伝係になった文化人、スペイン市民戦争に参加したG・オーウェルなどの文化人。フランコ批判をバネに活動するピカソ、カザルス。1930年代は燃えていた。
 赤く燃えた1930年代。この時代をより深く理解するには、こちら側も赤く燃えるといい。かつて燃えた人たち、もう一度赤く燃えて30年代を検証してみよう。視野狭窄にならないために、主な出来事の年表から。そして次週から「赤い30年代」振り返って見ることにします。ご期待下さい。
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<大戦間の出来事>
1918.11.11 第1次世界大戦ドイツが降伏。4年の戦いに幕。ドイツと連合国が休戦協定に調印して終結した。
1919. 3. 2 モスクワで共産主義インターナショナル(コミンテルン)創立大会。レーニンがプロレタリア独裁の綱領を発表。
1919.     ワイマールにバウハウス設立。1933年解散。
1920.11.15 国際連盟を創設。国際連盟の初めての集会がスイスのジュネーヴで開催された。総会には42か国が参加した。
1921. 7.29 アドルフ・ヒトラーがナチスの党首に選ばれる。
1921.     ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
1923. 9. 1 関東大震災。午前11時58分関東一円を激震が襲い、火災・津波が加わり、死者9万1000人、行方不明者4万3400人。
1925.     ハイゼンベルク「不確定性原理」
1927. 3.14 金融恐慌。衆議院での片岡直温蔵相の失言から東京渡辺銀行で取付がおき、それが引き金となり金融恐慌となる。
1928. 8.   ブレヒトの「三文オペラ」ベルリンのシッツバウアー劇場で初演。
1928.10. 1 ソ連、第1次5カ年計画を開始。
1929.11.25 NY株価大暴落(暗黒の木曜日)世界大恐慌始まる
1931. 9.18 柳条湖事件(満州事変)。関東軍参謀らが奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破。
1931. 9.21 イギリス金本位制廃止。全世界に信用恐慌が波及。
1932. 3. 1 満州国建国を宣言。執政に清朝最後の皇帝薄儀を起き、年号を大同と定め、首都長春は新京と改名した。
1932. 5.15 5・15事件。海軍青年将校ら9人が首相官邸に乱入し、犬養首相を射殺した。
1933. 1.30 アドルフ・ヒットラー、首相に就任。
1934.10.15 毛沢東が率いる紅軍第1方面軍、大西遷(長征開始)。(〜36年10月)
1934.12. 1 スターリンの粛清始まる。キーロフらの暗殺。
1934.     カール・ポパー「科学的発見の論理」(原題「探求の論理」)
1936. 2.26 2・26事件。青年将校21人と下士官・兵士約1400人が首相官邸、警視庁を襲撃し、蔵相高橋是清らを殺害した。
1936. 6. 4 フランスで人民戦線内閣誕生。首相は社会党のレオン=ブルム。(共産党は閣外協力)
1936. 7.17 スペイン内乱始まる。
1936.11.25 日独防共協定を締結。
1936.     ケインズ「雇用・利子・および貨幣の一般理論」 
1937. 7. 7 蘆溝橋事件。蘆溝橋で日中両軍が衝突した。(支那事変)
1937. 8.26 ゲルニカ爆撃。反乱軍のフランコ将軍を支援するドイツ空軍43機がスペイン北部の古都ゲルニカを爆撃。死傷者多数。
1938.11. 9 ナチスの組織的ユダヤ人迫害起こる(水晶の夜事件)
1939. 4. 1 フランコ軍がマドリッドに入る。スペイン内乱終わる。
1939. 7.26 米が日米通商条約廃棄を通告。
1939. 8.23 独ソ不可侵条約
1939. 9. 1 第2次世界大戦勃発。独空陸軍がポーランドに侵攻を開始し、3日イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
1939.     シュンペーター「景気循環論」 
1940. 6.22 フランス、ドイツと休戦協定に調印。国土の5分の3がドイツの占領下に。
1941. 6.22 独軍がソ連を奇襲。独ソ戦開始。
1941.12. 7 (日本時間8日)太平洋戦争始まる。アジア・太平洋戦争が始まり、第2次世界大戦は地球的規模に拡大した。
1942.     シュンペーター「資本主義・社会主義・民主主義」 
1944. 8.25 パリ解放。4年間に及んだドイツ軍の占領が終わる。
1944.     ハイエク「隷従への道」 
1945. 5. 7 ドイツ、連合軍に無条件降伏。
1945. 8.15 日本無条件降伏(終戦)。昭和天皇は15日正午にラジオ放送で終戦の声明をした。
( 2002年10月28日 TANAKA1942b )
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コミュニスト・ファシスト・アナーキスト 
混迷を極める政治情勢
<スターリン(1879-1953)のソ連> 第一次大戦中の1917年10月7日、ロシアでレーニン(1870-1924)指導のボルシェビイキが革命で権力を握る。ドイツとは即時停戦となったが、国内で内乱が起きさらに日本など諸外国が出兵しこの革命に干渉した。内戦に勝ち抜いた1921年には国土の荒廃に加え、100万人以上の死者を出す飢饉に見舞われた。しかし1919年に生まれたコミンテルを通じて、ヨーロッパとアジアへの革命への理解を深め、諸国の共産主義者にとって理想の社会と見られるようになった。
 レーニン政権は当初、全工業の国有化と穀物の国家管理をその基本的な経済政策としていたが、農民の不満が大きくなったため、1921年から穀物の徴発制に代えて現物納税制度を採用し、さらに商業の自由を認める「ネップ」(新経済政策)体制に移行した。
 レーニンは1923年に発作を起こし廃人となり、翌1924年死去した。この間にスターリンはジノビエフ、カーメネフと協力しトロツキー派を押さえ込むことに成功し、次にはブハーリンと組んで今度はジノビエフ、カーメネフを失脚させた。
 1928年から始まった第1次5カ年計画は、(1)工業発展5ヶ年計画、(2)生産の全面的集団化、(3)階級闘争としての文化革命、であった。農業の集団化には多くの抵抗があったが、都市部から労働者党員を送り込み、抵抗する農民を追放した。個人農家はなくなり準国家機関的な農業生産共同組合コルホーズに組織された。こうした政策により権力の集中化が進んだ。生産部門だけでなく学術・文化の面でも共産党=スターリンの意向が強く反映し、これに対する批判は国家に対する批判とみなされた。1932-33年の飢饉は深刻であったがこの実状は国外には正しく報道されなかった。1934年の第17回党大会は社会主義の勝利を宣言した。1935年のコミンテル第7回大会は反ファシズム人民戦線の結成を呼びかけた。
 1936年12月に新憲法が公布され、この頃からスターリンの政敵に対する粛正が激しくなる。ジノビエフ、カーメネフら旧反対派の幹部がゲシュタボの手先として死刑を宣告される公開裁判が始められた。さらに党・政府・軍・企業の幹部がドイツや日本のスパイとして処刑された。こうした粛正やテロの実相は国外に伝わらず、公開裁判は反ファシズムへのソ連国家の決意を印象づける事になった。
 スターリンは1939年8月23日、独ソ不可侵条約を結ぶ。しかしヒトラーは1941年6月22日、ソ連を奇襲しここに独ソ戦が開始される。そのスターリンは日本に対しては1941年4月13日に日ソ中立条約を調印しながら、1945年8月8日、すでに広島に原爆が落とされ、敗戦間近となった日本に参戦してきた。中国東北部(満州国)に進入したソ連軍は、降伏した日本軍人(関東軍)を捕虜とし、シベリアでの強制労働に従事させた。その数57万5000人、内民間人1万2000人。1950年ソ連は引揚げ完了を宣言。帰国者は約53万人、抑留者名簿が不備で行方不明者も多い。
 1855年2月7日(安政1年12月21日)日露和親条約によって日本領が認められた歯舞、色丹、国後、択捉の4島を含む千島全島に対して、極東軍司令官ワシレフスキーは8月15日、千島の占領命令を発し、9月3日までに4島を占領した。その後ソ連は指導者は替われども日本に返還する意思は無く、思わせぶりな態度を示しながら日本からの経済協力を引き出す外交交渉カードに使っている。
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<ヒトラー(1889-1945)のドイツ> 1918年11月11日、ドイツの降伏により第1次世界大戦が終結。第1次世界大戦の末期、キールの水兵反乱に端を発したドイツ革命は、1918年12月の第1回全国労兵レーテ大会を開く。これが基礎となり1919年1月19日の選挙の結果としてワイマールに召集された国民議会は、エーベルトを大統領に選出するとともに、社会民主党・中央党・民主党のいわいるワイマール連合内閣を成立させ、1919年7月31日に「世界で最も民主的」と言われたワイマール憲法を採択した。
 ワイマール共和国は民主主義の理想を高々と掲げたのだが、現実の政治経済は厳しいものだった。ドイツの降伏を取り決めたベルサイユ条約は、ドイツから全海外領土と本国の13%を奪い、軍備制限とラインラントの占領・非軍事化を行い、さらに莫大な賠償金を課するものであり、その賠償金は1320億マルクにのぼるものであった。このため各地で一揆・反乱・革命が勃発し、経済はハイパー・インフレに襲われ、1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆が起きる。こうした時期に外相シュトレーゼマンは国際協調外交を展開し、ドイツ経済の再建と国際的地位の回復に努めた。産業界はドーズ案体制のもとでアメリカから資本を導入し、合理化運動を進めた。
 ドーズ案とはアメリカの銀行家 Charles G. Dawes (1865-1951)を長とする賠償委員会が作成した賠償支払計画案。ドーズ委員会はドイツ通貨の安定と財政均衡をはかり、賠償方式を緩和させる一方、ドイツの鉄道、工業施設を担保に、アメリカの資金を導入しドイツ工業の復興をはかる収拾案を作成し、1924年7-8月のロンドン賠償会議で採択調印された。以後、ドイツ経済は立ち直りのきざしが見えた。1925年ドーズはノーベル平和賞を受けた。
 この時代はアバンギャルドとかモダニズムと呼ばれる新しい文化とそれまであった伝統的文化の衝突の時代であった。時代を切り開くワイマール文化を支持する都市部とそれに反発する農村部と亀裂は大きくなった。1929年の世界恐慌はドイツにも及んだ。大量失業・恐慌の不安・不満を和らげるため、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーのナチスと手を結ぶ。1933年1月30日ヒトラー内閣が成立する。1933年3月5日の選挙でナチスは647議席のうち288議席を獲得し同年3月23日の授権法により議会5月以降、政党、労働組合の解散を強行し、8月ヒンデンブルグ大統領の死に伴い総統ヒトラーの独裁を確立する。
 ヒトラーは元ライヒスバンク総裁シャハトに経済政策の全権を与え失業の解消と再軍備を進める。1938年、軍拡景気の局面にはいり、4ヶ年計画が発足し、重化学工業への資本と労働力の集中は一層進む。1938年オーストリア、ズデーデン地方の併合、翌39年3月チェコスロバキア占領といった軍事拡大政策もその成功のため国民からは高い支持を受ける。アウトバーンを疾走するフォルクスワーゲンは国民の夢を膨らませ、生活の不満はユダヤ民族への差別によって解消させる。(もっとも戦時中はVWも軍需産業に集中し、ビートルが国民車として普及するのは戦後になってから)
 ヒトラーは国内の安定を基盤に軍事拡大を押し進める。1939年8月23日独ソ不可侵条約締結後、9月ポーランドへ侵攻、1940年6月フランスを征服、1941年6月22日ソ連と開戦し、ウクライナの広大な穀倉地を占領し、食糧自給自足の要件は確保した。しかし1943年2月スターリングラード攻防戦、5月北アフリカ戦線での敗北後、戦況は悪化。1945年4月29日ソ連包囲下のベルリンでエバ・ブラウンと結婚、翌30日ともに自殺。1945年5月7日、ドイツは連合軍に無条件降伏。
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<ムッソリーニ(1883-1945)のイタリア> ムッソリーニは第1次大戦後の1919年3月「戦闘ファッシ」を結成してファシズム運動を開始し、1921年5月下院議員に当選する。 1922年10月ファシストのローマ進軍の圧力によって、国王から組閣令を引き出し、39歳で首相となる。 ムッソリーニを支えたファシズムとは、サンディカリスト・ファシズム、ナショナリスト・ファシズム、テクノクラート・ファシズム、農村ファシズム、保守的ファシズムなどいくつかの潮流があり、これらを巧みに操りながらムッソリーニは権力を拡大していった。
 第2次大戦で敗色が濃くなると政・財・軍各界からの批判が高まり、1943年7月24日ファシズム大評議会で不信任の動議を突きつけられた。翌日国王に逮捕され、グラン・サッソの山中に幽閉されたが、9月ドイツ軍の救出をうけ、新たにイタリア社会共和国(サロ共和国)を樹立した。 1945年4月レジスタンスの勢いが強まり、ドイツ軍に混じってスイスに逃れようとしたが、コモ湖畔でパルチザンにとらえられ、銃殺刑に処せられた。
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<フランコ(1892-1975)のスペイン> スペインの政治情勢で他の西欧諸国と違うのは、アナーキストの影響力の大きさだろう。コミュニスト、ファシスト、リベラリストなど多くの主義者がいて、混迷を極めていたヨーロッパにあってスペインではアナーキストの存在が大きかった。 そこでここスペインではファシスト=フランコとアナーキストを軸に大戦間の政治情勢を振り返ってみよう。
 1910年にアナーキスト系労働組合「全国労働連合」(CNT)が結成され、1917年には加盟者が70万人にもなった。しかしアナーキズムは19世紀末から1920年代にかけて、テロも辞さない過激な路線を歩んだため、一般世論からは不評をかっていた。 社会党は穏健路線をとり、議会主義の道を歩み始めていた。1920年には都市工場労働者を中心に党員が20万人に達した。社会党の勢いに比例して、社会党系労働組合「労働者総同盟」(UGT)も都市部から地方へと勢力を拡大していった。
 1917年のロシア革命の影響で左派勢力は勢いづき、運動は暴力化した。1921年首都で保守党のダト首相が殺された。次いで1923年には教会に対する暴力行為がピークに達し、サラゴサ枢機卿が暗殺された。 続発するテロとストライキ、収拾がつかない議会、モロッコ戦争の失敗の責任をめぐる政府と軍部の対立など、スペイン社会は混乱していた。
 1923年9月12日早朝から翌13日にかけて、当時カタルニャ方面軍総司令のプリモ・デ・リベラ将軍が祖国救済をスローガンにクーデターを起こし、国王アルフォンソ13世に全閣僚の罷免と憲法の停止を求めた。 国王は将軍の要求を受け入れ、首相は辞任し、閣僚はピレネーの国境を越えてフランスへ亡命した。プリモ・デ・リベラ将軍はあらゆる国家機能を手中にし、国家を統率することになった。ブルジョア階級はこのクーデターを歓迎し、ここに文民政治家は沈黙した。
 プリモ・デ・リベラはムッソリーニのイタリアを理想として諸政党、諸政治グループの大同団結を意図し、社会党、UGTとも協力関係を結んだ。プリモ・デ・リベラは現実にはファシズムに組みしなかったし、できる状況でもなかった。 しかしアナーキストは反発しCNTは非合法団体として地下活動を進め、過激なイデオロギー・グループであるイベリア・アナーキスト連合(FAI)の指導下におかれ、つねに公共秩序を乱す主因となった。
 本来暫定的な政権として誕生したプリモ・デ・リベラであったが、長期政権を狙う傾向が見え出し、国民の支持を失い、1930年1月末アルフォンソ13世から引退を迫られパリへ去った。
 1931年4月14日第二共和国が誕生した。同年12年9月に第二共和国憲法が発効し初代大統領にアルカラ・サモラが、首相にはM.アサーニャが就任した。CNTはストライキ戦術と街頭でのテロ活動に激しさを加えていった。1933年11月の総選挙では右派勢力が勝利した。 1934年2月には他のファシストグループと合併しファランヘ党が右派陣営の一角に重要な位置を占めるようになった。1936年2月16日の総選挙では左派の人民戦線が勝利した。しかし議会は正常に機能しなかった。 政党関係の建物、教会への襲撃・放火、ストライキなど社会情勢は混乱していた。こうしたなかで7月17日スペイン領モロッコにおいてスペイン内乱の火の手があがったのだった。
<スペイン市民戦争(1936.7.17-1939.4.1)> スペイン領モロッコで反乱が勃発し、スペイン全土に拡大し、スペイン第二共和政が崩壊し、フランコ独裁が確立した。その過程でコミュニスト、ファシスト、アナーキストたちが燃えた。 フランコとそれを支援したヒットラーのナチスドイツとムッソリーニのイタリア、共産党とそれを支援したソ連軍、アナーキストとその部隊で闘った外人義勇軍、共産党と同一行動をとったラルゴ・カバリェロ率いる社会党過激派。 このように分類はしたが支持者はそれぞれ入り乱れていた。このように混迷を極めたスペイン国内情勢、それに加えて諸外国の態度も曖昧だった。
 1936年6月4日、フランスでは社会党のレオン=ブルムを首相に、人民戦線内閣が誕生する。共産党も閣外協力する内閣、しかしスペインで共産党がファシストと闘っているときに、人民戦線内閣はなにも出来なかった。それどころか隣国ドイツが軍事拡大と侵略政策を進めていることにも、何も出来なかった。
 イギリスもスペインのファシストには手を出さなかった。世界恐慌の深刻な不況と大量失業により、金本位制の離脱、(1931),イギリス連邦特恵関税や輸入関税法(1932)にみられるように自由貿易政策の放棄、そしてこうした政策を取ることによって、ヨーロッパ大陸情勢に不干渉になっていった。
 アメリカもナチスドイツの侵略が拡大するまでは、大陸への不干渉主義であった。このように各国が保護貿易・他国への不干渉政策をとったため、それに乗じてヒットラーは領土拡大政策を押し進め、ムッソリーニ、フランコが権力を握る事になった。
 こうしたファシズムに対抗する勢力としてコミュニスト、アナーキストがいたのだがスペインではモスクワの指令を受けたコミュニストがアナーキストを反フランコ戦線から排除し始めた。アナーキストは前面にフランコ、背面にコミュニストの脅威を受けることになった。
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<毛沢東(1893-1976)の中国> 混迷を極めるヨーロッパ情勢、同じ頃アジアで、眠れる獅子中国で大きなうねりが起きていた。しかしこのうねりは1937年にエドガー・スノーが「中国の赤い星」(中国語版「西行漫記」)を出版するまでは国外では理解されていなかった。 いや中国国内でさえよく理解されていなかった。それは「都市部ではなく、農村部から革命を起こす」というそれまでの共産主義革命理論からは考えられない発想と行動だった。
 1920年8月に陳独秀などは中国初のマルクス主義組織である共産主義グループを結成。1921年7月には中国共産党第一次全国代表大会を開催、陳独秀が中央局書記に選出され、 1927年まで、中共のトップとしてこれを指導していくことになる。しかし都市労働者に基盤を置く中国共産党はモスクワの支持を受けながらも、蒋介石の国民党に潰される。
 1927年7月湖南で武装蜂起に失敗した毛沢東は、10月には井岡山に入り、ここを革命拠点地とした。1928年朱徳の軍と合流して「工農紅軍第4軍」を編成。1929年には瑞金に移り、1931年11月ここに「中華ソビエト共和国臨時政府」を設立する。 しかし李立三、王明など指導者の失敗により、この地を棄てて過酷な長征に出る。その途中、遵義会議で周恩来の支持を受け、毛沢東が事実上の指導者になる。張国Zの誤った作戦のため多くの兵を失うが、1935年10月長征を終え、延安を拠点に抗日戦争を指導する この地に毛沢東・朱徳・周恩来・林彪・彭徳懐・葉剣英・徐向前・賀竜・劉伯承・聶栄臻・張聞天などがいる「中国国民革命八路軍」(通称八路軍)を置き、他に劉少奇・ケ小平・陳毅などが指導する「新四軍」があった。
 1936年12月12日朝6時に全事件は完了した。張学良の東北軍と楊虎城の西北軍が西安を占領した。眠りを覚まされた藍衣社の連中は武装を解除されて逮捕された。 実際に蒋介石参謀部の全員が西安招待所の宿舎で包囲を受け監禁されてしまった。邵力子主席と省公安局長もとらわれた。西安の警察は叛軍に投降し、50機の中央軍爆撃機とその搭乗員も、飛行場で逮捕された。 蒋介石はというと、不本意ながら楊虎城および張学良の客人となった。張学良の主張は国民党と共産党が一致団結して抗日戦線を作ることだった。共産党側から周恩来・葉剣英・博古が来て交渉し、ここに統一抗日戦線が形成された。この西安事件がアジアでの歴史転換点になった。
 大日本帝国がポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏してから、共産党と国民党との内戦が続いた。蒋介石の国民党は敗北し台湾へ逃げ、大陸が共産党の支配するところとなり、1949年10月1日、北平(現在の北京)の天安門楼上で中国共産党主席毛沢東は、中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。
( 2002年11月4日 TANAKA1942b )
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人民戦線内閣の実験 
興味をそそられるこの時代
<「日本株式会社」と呼ばれる「妖怪」>  言語明瞭、意味不明の言葉がマスコミ界をうろついている。──「日本株式会社」という言葉が──。 戦後日本経済が立ち直ったのはこの「日本株式会社」のおかげあるとか、しかしこれからはこの「日本株式会社」が発展のネックになるとか、改革を主張する過激派も,穏健派も、政官業のトライアングルの活躍に期待する族議員圧力団体派も、隠れコミュニストも、党派・立場を越えてこの言葉「日本株式会社」を使う。 そこでこの言葉「日本株式会社」の意味するところは何なのか?実際の経済はどのような歩みだったのか?アマチュアエコノミストがプロ(ビジネスで発言する人たち)とは違った、ニッチ産業的(隙間産業的)な視点から検証してみようと思い立った。先ずこの言葉がどのように使われているか?その例を引用することから話を始めることにしよう。
 このような書き出しで官に逆らった経営者たち▲を書いた。書きながら気づいたのは、同じ時期ヨーロッパは社会主義をやっていた、そしてそれは大戦の間、「赤い30年代」と言われた1930年代にその原型とも言える社会情勢があった、ということ。 そこで「ヨーロッパ西も東も社会主義」は「赤い30年代」から話を始めることにした。
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<フランス政治の混乱> 第1次世界大戦が始まった1914年の人口4千万人のうち850万人が動員され、139万人が死に、74万人が不具となった。大戦中徴兵年齢に達した世代では男子の半数以上が大戦で生命を失ったとされる。フランスにとって大戦は勝利したとはいえ幻滅以外の何ものでもなかった。 フランス人は徹底的に戦争を嫌がっていた。30年代の対独宥和論者、ヴィシー内閣の協力者たちは第1次大戦での愚行から、「とにかく戦争だけはイヤだ。たとえナチスとでも戦争はしたくない」という気持ちだった。 そしてその気持ちをはっきりと行動に表す点では、日本の空想平和論者とは違っていた。戦争を嫌い、それをはっきり行動で示す。こうしたフランス人を理解した上で、政治情勢を見てみよう。
 1929年に始まった世界恐慌、フランスへ波及するのに時間がかかった。1932年頃までは本格的に波及せず、むしろ逆にポンド、ドルの下落を恐れた外資がフランスに大量に流入し、表面的には国際収支は大幅黒字となり、フランスは世界的不景気のなかの「繁栄の小島」と称された時期さえあった。 しかし1932年以降生産は大幅に低下し、失業者は増加し、税収入不足から緊縮財政になり、これに対して官公吏を中心とする抵抗が強まった。それに対して政府は有効な政策を打てなかった。 悪い政府より無能な政府の方が国民にとって我慢がならないという場合がある。当時のフランス人にとって周囲には「ダイナミック」な独裁国家の発展を見せつけられていただけに苛立ちはなおさら大きかった。
 左からの変革を願うものは当然社会主義、共産主義に目を向けた。当時、恐慌に苦しむ資本主義諸国と対照的に5ヶ年計画により経済建設を着々とおし進めるソ連の姿は、ソ連と共産主義の威信を大衆の目に、またとりわけ当時普及し始めたマスコミに登場する、<マス・インテリ>の目に大きく映らずにおかなかった。(大粛清はまだ始まっていなかった)
 ロマン・ロラン(Romain Rolland,1866-1944)やアンリ・バルビュス(Henri Barbusse,1873-1935)のように1930年代以前から共産主義に接近し、あるいは入党していた人たちを別にしても、アンドレ・ジッド(André Gide,1869-1951)、アンドレ・マルロー(André Malraux,1901-1976)をはじめとしてこの時期に共産主義とソ連に近づいたフランスの知識人=マス・インテリは多い。
 他方、右からの現状打破を目指す動きも少なくなかった。
 当時のフランス左翼諸政党は次の通り。急進党(急進社会党)=左翼の中で最も右寄り。プチブル(小企業主、農民、自由職業人など)政党で、地方名士の集合。社会党=党首レオン・ブルム(Léon Blum,1872-1950)で知識人が多く、イデオロギーは社会民主主義に近かった。共産党=ソ連共産党、コミンテルの影響を強く受けていた。
 1934年2月6日、コンコルド広場で極右諸団体やそれを支持する群衆と警察隊との間に死者十数名を数える一大騒擾事件が発生した。偶発的な事件なのか極右のクーデター未遂事件なのか、真相は今でも不明。以後デモ、ストライキ、ゼネストが続発する。隣国ドイツのナチ化に対応する余裕はない。
 1934年5月、それまでの政策を変更してコミンテルとフランス共産党が反ファシズム戦線のために社会党とも手を結ぶ、となった。1934年7月27日社会党と共産党は統一行動協定を結ぶ。「人民戦線=フロン・ポピュレール(Front populaire)」という言葉はこの年の10月にフランス共産党機関誌「リュマニテ」に使われた。
<人民戦線内閣の誕生> 1936年4-5月の選挙で選挙協力が実を結び、共産党、社会党が躍進した。第一党となった社会党のレオン・ブルムが政権を担当することとなった。内閣は社会党と急進党の連立で、共産党は閣外協力。1936年6月4日夜、ブルムはルブラン大統領に閣僚名簿を提出し、翌5日正午にラジオで国民に呼びかけた。 情勢は緊迫していた。デモ、ストライキが続発していた。左翼連合の内閣が成立したにもかかわらず、6月2日から座り込みストライキの波は金属加工工業から、建築、化学、繊維、食品、など諸工業、さらにデパート、ホテル、カフェ、レストランなどに、地域的にもパリ近辺から地方にと、爆発的に拡大した。ストライキ件数は総計12,142件、そのうち工場占拠を伴ったもの8,941件で、大部分が座り込みストライキであった。スト参加者は200万人に及んだと言われる。鉄道、郵便、公益企業が参加しなかったことがせめてもの幸いだった。労働者の要求は、組合承認、賃上げ、有給休暇などを含むのが通例であったが、工場占拠ののち要求が提出されるケースが多く、ストライキの目的は混乱していた。「至る所で人々がストライキをしている。だからここでもやろう」と言った感じ。 ストライキの形態は似ていて、工場の門は閉ざされ、食事や毛布などは家族から差し入れられ、全国組合や好意的地方自治体からアコーディオン、蓄音機などの楽器が提供され、工場内ではダンスなどが行われ、祭典的雰囲気であったと言われる。7月になるとストライキの参加者は減った。この事態に対して、工場占拠運動とそこから生じた事態を革命的状況とみなし、人民戦線内閣はそれを沈静化した、と見る見方もあった。トロッキーは6月9日に「フランス大革命が開始された」と書いた。
 内閣は「有給休暇制」「団体協約制」「週40時間労働制」を定め、「フランス銀行の改組」「兵器工場の国有化」「ファシスト諸団体の解散」を進めた。内閣提出の法案は順調に成立した。少なくともそれまでのフランス議会では考えられないほどの成立率だった。それに比べ財政問題は困難な問題だった。イギリスは1931年9月21日から金本位制を廃止したが、フランスはまだ金本位制を維持していた。この場合の財政赤字とは現代の「管理通貨制度」「変動相場制」の場合の財政赤字とは違う。6月19日にフランス銀行との間に財政再建のための協定が結ばれる。これにより一時的に安定したかに見えた。1936年7月14日のバスティーユ記念日のデモは左翼にとって勝利を祝う喜びの大祭典となった。前年と異なり左翼のデモだけが許可された。盛会であった前年をさらに上回る何十万とも知れぬ大群衆が赤旗、三色旗、プラカードを先頭にナシオン広場を中心に集まり、「インターナショナル」「ラ・マルセイエーズ」の絶え間ない歌声と「ブルムばんざい」「人民戦線ばんざい」の叫びが交錯した。
 就任以来目覚ましい成果をおさめてきたブルム内閣にとって最初のつまずきとなったのが7月17日に突発したスペイン内乱であった。ブルムは共和国側を援助しようとする。閣内の反対を押し切り決定しようとするが、イギリスは中立を保つ。イーデン外相は「それはあなたの自由だ。だが私は唯一の事をお願いする。どうか慎重であってほしい」と。 これは助言しているにすぎない。しかし、英仏協調の必要性、独裁者への反感から文学的趣味にいたるめで多くの点でイーデンと共鳴していたブルムにとってイーデンの一言はずしりと重く感じられた。ブルム内閣の方針は決まらない。結局「スペインには各国が干渉しないように」と呼びかける線に後退する。一方ドイツとイタリアはフランコへの武器援助を継続する。それに対してモスクワは援助を拡大する。これによりスペインでは代理戦争の様相になり、アナーキストは主役から外される。ブルム内閣もその優柔不断な政策に失望する国民が出てくる。
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<平価切り下げ> 6月の社会的激動のショックに新たにスペイン内乱をめぐる国内対立の激化が加わり、有産階級の不安と警戒は高まった。政府に対する信頼は低下し、資金の国外流出と国内退蔵のためフランス銀行の金保有高は9月23日には国防上の必要最低限といわれる500億フランに減少し、国債の売れ行きも悪化した。ついに9月26日、政府は銀行券の自由兌換を停止し、実質的なフラン切り下げを発表した。しかしこの決定はあまりにも遅く、切り下げ幅も不十分で、賃上げ、労働時間短縮の影響もあり、短時間に切り下げの利益は失われ、あとには政府の信用失墜と与党各派の相互非難とインフレを残すばかりとなった。
 政府が期待した本格的経済回復はおこらず、予算赤字の増大の見込みと再軍備費の重圧は再び通貨不安を引き起こした。フラン投機の再熱により為替平衡基金の100億フランは1月末にはすっかり底をついていた。なんらかの処置が必要であった。
 1937年2月13日、物価上昇に対応して賃上げを要求していた公務員に対してラジオ演説でブルムは「休止=ポーズ」を声明した。
 しかしこの「ポーズ」は全く別のところで動きを休止させた。それは5月1日に店開きする万国博覧会の準備だった。「芸術と技術の博覧会」の成功がブルム内閣に残された唯一の希望であった。それ以前から工事の遅れがあったが、40時間労働の影響もあり、雇用問題などの紛争には事欠かなかった。夜になると労働者代表が積まれた煉瓦の数を数えてノルマを超過した煉瓦を取り除いているとの噂もあり、建物の竣工後の失業を現場労働者が恐れていたことが工事の遅れの一因であることは当時の労組役員も認めていた。5月1日の開場予定は延期され、5月24日に開場となった。この日、ルブラン大統領は建築中の現場を避け、また労働者のデモを避けるために、セーヌ川の遊覧船の上から開場の説明を受けることになった。前年のベルリン・オリンピックの大成功に比べ、なんともみっともないイベントになった。
 ブルム内閣がその成立1周年を祝った6月6日には、もはやかつての熱狂は見られず、この日の人民戦線派指導者たちの発言も、いまや各党派を隔てる距離がどれほど大きなものになったかを示していた。
 政府は6月13日、7月31日までの期限付きで財政危機に対処するために必要なあらゆる手段を制令により実施する「財政全権」を議会に要求することを決定した。投機者たち、「フランスの脱走兵たち」に対する峻厳な処置が取られることがうたわれていた。政府案は下院で承認、上院で否決であった。再度下院は修正政府案を可決したが上院では政府の行動を制限する委員会案が可決された。閣議はもめた。議会の解散も話題になったが、反対もあり決まらない。ながい閣議の後6月22日午前2時すぎ、ブルムはルブラン大統領に内閣の総辞職を告げた。こうして第1次ブルム内閣は在任1年あまりで倒れた。
<人民戦線内閣の終わり>
1937年6月22日、急進党のカミーユ・ショータンを首相に新内閣が成立した。ブルムは副首相として入閣。財政危機は解決せず1938年1月15日信任投票を待つことなく総辞職した。ショータン退陣後ルブラン大統領はあちこちに組閣を依頼するが失敗に終わり、結局ショータンが再度組閣を依頼され1月21日承認された。社会党は閣外協力。
 国際収支は悪化し続けた。3月初旬に政府は財政特別権限を要求することを決めたが社会党は反対した。やる気をなくしたショータンは下院の信任投票を待つこともなく突如議場を退席し、3月10日総辞職した。翌11日、ヒトラーがオーストリア併合を決行したとき、フランスにはまたもや政府が存在しなかった。3月12日再びブルムが急進党と共和社会同盟の参加を得て、人民戦線派に基礎を置く第2次ブルム内閣を樹立した。しかし再度提出された財政全権要求案は下院で可決されたが、上院で否決された。4月8日ブルム内閣は総辞職した。その後は急進党のダラディエが組閣したが、もはや人民戦線内閣とは言えない政府になっていた。
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<荻原重秀のように出目を稼げばよかった> ブルム内閣がフラン切り下げを実施したのが、1936年9月26日。対外交換率は29%の切り下げ。アメリカのローズベルト大統領は1933年4月金本位制を停止。40%の実質的ドル切り下げ。イギリスは1931年9月21日金本位制を廃止、約40%の切り下げ。フランスの平価切り下げはもっと早い時期に、もっと大幅な切り下げを実施すべきであった。人民戦線内閣の最大の課題は景気回復であった。人民戦線内閣という実験をを成功させるためにも、もしブルムが早い内に手を打っていたら……… 
 荻原重秀が貨幣改鋳を実施したのが1695(元禄8)年。切り下げ率は約35%。これにより幕府財政を立て直した。フランスは財政再建に加え、開放経済なので、輸出増によるGDP増も期待できる。こうした金融問題をどこまで理解していたか?それに対して党利・党略がどれほど邪魔したのか?それにしても改革に燃えた幕臣経済官僚、けっこう知恵があった。荻原重秀だけでなく、大岡越前守忠相、田沼意次、川井久敬も試行錯誤を重ねる内に学んでいったようだ。
 ところでこれは過去の歴史。今日の日本の状況はどうか?デフレ・スパイラルに苦しんでいる。少しくらいのインフレなら、3%程度のインフレなら容認出来る。となれば、「インフレは何時、いかなる場合も貨幣的現象である」との常識に従って、通貨流通量を増やすこと。300年前の荻原重秀に見習うこと。21世紀、金本位制ではなく管理通貨制度の金融政策として具体的には、日銀の「量的緩和」、つまり買いオペを増やすこと、となる。銀行の不良債権が減ってもマネーサプライが増加する保証はない。
<妖怪が微笑むとき> 社会党と共産党は統一行動協定を結び、「人民戦線=フロン・ポピュレール(Front populaire)」という言葉が使われるようになってから、1935年6月にパリで後に「第1回文化擁護国際作家大会」と呼ばれる、インテリの集会が開かれた。コミンテルと各国共産党が主催で、ロマン・ロラン、アンリ・バルビュス、アンドレ・マルローなど地元フランスの作家、芸術家、さらには世界14ヶ国から選ばれ、平和と文化に期待をつなぐ有名・無名の作家・芸術家がうだるような暑さのパリに集まった。大会の目的は、ファシズムに抵抗して、表現の自由、文化の独立を擁護するところにあると宣言された。もちろんソ連はプロレタリア独裁であってもファシズムではない。したがってソ連における、体制批判・中立派の作家や芸術家に対する検閲や抑圧、さらには監禁問題は、大会の論じる問題とはなりえない。これが会場をを支配した暗黙の合意で、アンドレ・ブルトンら、一部非共産党左翼のソ連批判にもかかわらず、 大会は大筋で沈黙を演出することに成功した。
 ソ連からは当初、マキシム・ゴーリキーの出席が予定されていた。しかし直前になって出席取りやめが判明し(ゴーリキーの病気は事実らしいが、スターリンとの関係が険悪になっていたのが真因という観測もある)、大会の主催者であるマルローは、親ソ派作家としてソ連でも評判の高いアンドレ・ジッドを通して、ゴーリキーに代わる大物作家の派遣をソ連当局に依頼した。これに応じたスターリンは、直接で電話で詩人ボリス・パステルナークを呼び出し、パリ出張を命じた。パステルナークはとるものもとりあえずパリに急行するが、会場に溢れる数千人が耳にした言葉は、マルローやバルビュスら大会の筋書きを書いた政治的脚本家たちには意外だったかもしれない。パステルナークの回想を信じるなら、
「私はあなたがたにただ一つのことだけを申し上げたい。それは組織化してはならないということです。組織化は芸術の死であり、個人の独立だけが大切なのです。1789年、1848年、1917年と、いずれの場合も、作家が何かに対抗して組織化されることはありませんでした。どうか心からお願いします。組織化はやらないでくださ」 と語ったと言われる。
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<発展する量子力学>  この時代量子力学の発展が見逃せない。マイケルソン、モーリーの実験に続き、プランク、ボルン、ボーア、ド・ブロイ、ハイゼンベルグ、ディラックと続き量子力学は発展した。そしてこれとは別の流れとしてアインシュタインが一人で、光量子仮説、特殊相対性理論、一般相対性理論と展開させた。ここでは主要な研究者の名前だけを列挙してみよう。
アインシュタイン(A.Einstein,1879-1955)光量子仮説、ブラウン運動の理論、特殊相対性理論(1905)、一般相対性理論(1915)、
マイケルソン(A.A.Michelson,1852-1931)、モーリー(E.W.Morley,1838-1923)1887年の「光速度一定」に関するマイケルソン・モーリーの実験。
ローレンツ(H.A.Lorentz,1853-1928)マイケルソン・モーリーの実験結果を説明する、その解答。あらゆる物体はその進行方向にそって、一定の収縮(ローレンツ収縮)をする。その収縮の割合は物体の種類によらず、ただその速度だけで決まるとしなければならない。さらに、長さの収縮のみならず時計の進みも、速度とおかれた位置に応じて変化をうけることを承認しなければならないことが判明した。
プランク(M.Planck,1858-1947)1900年に新輻射論。
レーナルト(P.E.A.Lenard,1862-1947)1902年に光電効果の定量的分析を通じて、照射される光の強さ、振動数と放出される電子線の強度、エネルギーとの相関にきわだった法則性を見出した。
ボーア(N.Bohr,1885-1962)1913年に画期的な原子模型の理論。
ド・ブロイ(L.de Broglie,1892-1987)1923年波動性に関するアイディアを発表。
シュレディンガー(E.Schrödinger,1887-1961)ド・ブロイの波動性に関するアイディアを展開させた。
デヴィッスン(C.J.Davisson,1881-1958)、ジャーマー(L.H.Germer,1896-)ド・ブロイのアイディアを、電子線の示す、波動に特徴的な干渉現象の確認によって裏付けた。
ハウトシュミット(S.A.Goudsmit,1902-)、ウーレンベック(G.E.Uhlenbeck,1900-)1925年に電子の運動にスピンと呼ぶ固有角運動量を持つ、という仮定を持ち込んだ。
ハイゼンベルク(W.K.Heisenberg,1901-1976)1927年「不確定性原理」提唱。
パウリ(W.Pauli,1900-1958)1929年にハイゼンベルクと共同で量子電子力学(波動場の量子論)を建設。
ディラック(P.A.M.Dirac,1902-1984)1928年「相対論的電子理論」。
パウリ(W.Pauli,1900-1958)1929年ハイゼンベルグとともに「場の量子論」の原型を作る。
アンダーソン(C.D.Anderson,1905-)1932年宇宙線のなかに、陰、陽の電荷をもつ2種の電子の存在を確認。
チャドウィック(James Chadwick,1891-1974)1932年に中性子を発見。
ラザフォード(E.L.N.Rutherford,1871-1937)キャンディッシュ研究所の所長。
フェルミ(E.Fermi,1901-1954)1934年ベータ崩壊の理論を完成。
湯川秀樹(1907-1981)1934年に中間子の存在を予言。
アンダーソン(C.D.Anderson)、ネッダーメーヤー(S.H.Neddermeyer)1937年に湯川秀樹が予言した質量を持つ新粒子を発見。
ボルン(M.Born,1882-1970)多くの物理学者を育てた。
坂田昌一(1911-1970)1942年に「二中間子論」を提唱。
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<写真>ライカ、イコンタ、ローライフレックス、コンタックス、コダクロームなど機材の発展と共に、著名なカメラマンが活躍した。思い付くままに名前を書き出してみよう。
 後にバウハウスの学長になる
モホリ=ナギ、ソラリゼーションで知られるマン・レイ(実際は撮影時に過大露光を与えるソラリゼーションではなく、普通に撮影しフィルム現像時に光を当てるサバティエだった)、 キャンディット・フォトを始めたエーリッヒ・ザロモン、戦争報道写真家ロバート・キャパ、パリの何気ない一角を切り取るアンリ・カルティエ・ブレッソン、 8X10や、F64に絞り込んだ写真で知られるエドワード・ウェストン、アンセル・アダムス,ライフ創刊号の表紙をTVAダムの写真で飾ったマーガレット・バーク・ホワイト、アメリカ大恐慌の悲惨な庶民を撮った ドロシー・ラング、カール・マイダンス、パリを撮り続けたブラッサイ、華やかなファッション写真の世界を切り開いたマーティン・ムンカッティ……
<学術・芸術>この分野でも大きな進化があった。 ウィトゲンシュタイン(Ludowig Wittgenstein 1889-1951)、カール・ポパー(Karl R.Popper,1902-1994)などの哲学者。反フランコの姿勢を貫いたカザルス(Pablo Casals,1876-1973)、ピカソ(Pablo R.Picasso,1881-1973)。 1919年、ワイマールにバウハウス設立。1933年の解散までに工芸・検知器・写真などの分野に大きな影響を与えた。(新即物主義=Neue Sachlichkeit)(機能的なものは美しい) 1920年代の始めにフランスの詩人ブルトン(André Breton,1896-1966)らによって文学・芸術上の運動=シュルレアリスム(Surréalisme 超現実主義)が始まった。 1936年にケインズ(John Maynard Keynes,1883-1946)の「雇用・利子・および貨幣の一般理論」が発表された。当時はフランスなど金本位制を守っていた国も多く、現在の通貨管理制度、変動相場制とは違っていた。従って、「政府の財政支出」も現在と当時ではその意味・影響が違うことに留意する必要がある。大戦の末期1994年にハイエク(Friedrich August von Hayek,1899-1992)の「隷従への道」(The Road to Serfdom)、ポランニー(Karl Polanyi,1886-1964)の「大転換」(Great Transformation)が出版された。
<興味をそそられるこの時代> 今週の予定はフランスの人民戦線内閣と、ハロルド・ラスキを中心とした親ソ連マス・インテリを取り上げるつもりだったのが、量子力学と写真や学術・芸術へと取りとめもなく広まってしまった。大戦間のせいぜい20年ほどにいろんなことがあった。各分野の歴史的流を見る縦割り、ではなくて、あらゆる分野を総括的に見ると面白そうだ。図書館で調べてもこうした見方の書物は見当たらない。アマチュア・エコノミストが狙うのは隙間産業、「生活のためにエコノミストをやっている人には出来ない事をする」との趣旨からもいずれ取り上げようと思う。と言うことで、来週から「戦後復興政策 ヨーロッパ西も東も社会主義」本題に入ります。ご期待下さい。
( 2002年11月11日 TANAKA1942b )
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モネ・プランの実験  
産業国有化政策
<パリ解放から戦後は始まった> 1944年8月25日の夕方、ドゴールはパリ市の南からオルレアン通りに入り、陸軍省に居を構えた後、市庁舎のバルコニーから「フランスの偉大さ」のための団結を呼びかけた。翌26日には、凱旋門下の無名戦士の碑に献花した後、CNR(全国レジスタンス評議会)の議長であるジョルジュ・ビドーとともに、シャンゼリゼ通りを歓呼の声に迎えられながら、群衆の先頭に立ってゆっくりとその大きな体躯を運んだ。ここに国内レジスタンス(ジョルジュ・ビドー)と国外レジスタンス(ドゴール)が肩を並べて戦後のフランスを指導していくことが内外に示された。
 1944年6月3日、それまでのフランス国民解放委員会(CFLN)に代わって、フランス共和国臨時政府がアルジェでドゴール首班の下に発足した。一方、国内レジスタンスを担ったのは、ドゴール将軍の意向を受けて1943年5月に設立された全国レジスタンス評議会(CNR)と種々のレジスタンス運動であった。CNRを結成して国内レジスタンスの統一に尽力したのは、拷問の末惨殺されたレジスタンスの英雄ジャン・ムーラン(Jean Moulin 1899-1943)であった。
 新たな臨時政府が9月に成立した。ドゴールを首班に、ジョルジュ・ビドー(外相)、急進社会党のマンデス・フランス(国民経済相)、マイエール(運輸・公共事業相)、ルネ・カピタン(国民教育相)、ルネ・プレヴァン(植民地相)、その他社会党と共産党出身の閣僚がそれぞれ3名と2名という陣容だった。文字通り挙国一致内閣であった。
 ドゴールが押さえたのは中央政府。フランスは地方の力が強く、特に戦争中に設立された県解放委員会(CDL)が大きな影響力をもっていた。パリの中央政府の権威は地方まで及ばず、事実上半独立的な権力を振るっていた。ドゴールは地方の動きを抑えるため、新たな県知事と一種の地方長官として17名の共和国監査官を指名し、1944年9月から10月にかけて、全国を回って彼らを激励し、人心を把握しようと努めた。その結果、ドゴールと臨時政府の権威は急速に回復されていった。
<頻繁な政権交代>  終戦から1958年9月28日に国民投票で、第5共和制憲法を承認するまで、頻繁な政権交代が行われた。臨時政府のドゴールから、それに続く首相の名前を列挙してみよう。フェリックス・グーアン、ジョルジュ・ビドー、レオン・ブルム、ポール・ラマディ、ロベール・シューマン、クイユ、ジョルジュ・ビドー、クイユ、ルネ・プレヴァン、クイユ、ルネ・プレヴァン、エドガーフォール、アントワーヌ・ピネ、ルネ・マイエル、ジョセフ・ラニエル、マンデス・フランス、エドガー・フォール、ギ・モレ、モーリス・ブルジェ・モーヌリ、フェリックス・ガイヤール、フリムラン、そしてドゴール(1958.6.1)。
 フランス現代史を考える場合こうした政変劇が重要な鍵になってくるだろう。しかしここでは突っ込まないことにする。一つ、経済問題より政治中心になってしまう。このテーマ「ヨーロッパ西も東も社会主義」は「日本株式会社」論への批判であるので、政治中心に話を進めると論点がボケてしまう。もう一つ、日本人とフランス人との政治経済に対するセンスの違い。フロン・ポピュレールの時代から、ドゴール大統領の第5共和制までこれほどまでに頻繁な政権交代、実に不安定な政情、しかしそれは有権者の意思表示の結果だった。そんな有権者=国民の政治意識、日本とは違う。根本的なセンスの違いがあるようだ。このフランス人のセンスが分からないと、フランス現代史は論じられない、そう思いここでは経済政策に話を絞ることにした。
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<産業の国有化> フランスの戦後復興政策を特徴づける一つが「産業の国有化」だ。1938年を100とした工業生産の指数は、44年にはわずか38、45年でも50にとどまり、19世紀末の水準になっていた。こうした産業を復興させる、その政策の一つが産業の国有化と考えられた。戦後の経済政策は戦時中のレジスタンスの考えが強く反映している。そのレジスタンスの中心に共産党の影響があった。ソ連やドイツのように政府が経済をコントロールすべきだ、との考えは強かった。それともう一つ、占領中にドイツに協力した企業への制裁、という意味も国有化にはあった。
 どのような産業が国有化されたか、列挙してみよう。エネルギー部門から、北部およびパ・ド・カレ地方の全国石炭公社(44年12月)はフランス石炭公社(46年3月)に再編成され、 46年4月にはフランス電力会社(EDF)、フランスガス会社(GDF)が設立された。鉄道部門は37年に国有化されていたが、航空部門で45年6月に エール・フランスが国有化された。金融部門では45年12月の法律でフランス銀行 と四大預金銀行 クレディ・リヨネ、ソシエテ・ジェネラル、全国割引銀行、全国商工銀行そして後者の2行は66年に合併してパリ国立銀行となる。 46年4月に主要な保険会社が国有化され、45年1月にはルノー公社、45年5月に航空機エンジン開発製造公社(SNECMA)が国有化された。
 産業国有化は30年代の人民戦線(フロン・ポピュレール)時代に試みられたし、共産党、社会党、人民共和派などの政策に沿ったもので、国民には抵抗なく受け入れられた。
<モネ・プラン> 戦時中、戦後に予想される自由貿易体制への対応を検討した国外レジスタンス勢力の一部は、国際競争力が弱く、戦争によって疲れ切った経済にとり、ただちに国境を開放することは無謀であると考えた。 ジャン・モネ(1888-1979)を中心とするこのグループは、近代化による競争力強化を自由貿易への参加の前提条件とみなし、保護主義的な過渡期を確保し、かつ西欧関税同盟の結成によって地域主義的「大市場」の枠内で近代化を遂行するという、「時間的・空間的に漸進的な貿易自由化の路線」を構想した。
 戦後フランスの指導者はヨーロッパにおいてドイツに代わる工業国となることを戦後改革の基本構想として抱いていた。フランスの重工業がドイツより強力になるには、ルール地方の石炭・コークス資源の確保の重要性を連合国に合理的に説明することが要求される。こうした観点から、1945年末、モネはドゴールの支持を得て「計画庁」を設置し、経済計画の策定にとりかかった。
 モネ・プランは、限定された資金・資源の有効な配分によって、石炭・電力・鉄鋼・運輸・セメント・農業機械の6つの「基礎的部門」の優先的発展をめざす一種の「傾斜生産方式」を採用した。計画は1950年までに戦前の最高水準(1929年)を25%上回る工業生産量の達成を目標とし、そのために設備投資の大幅な増加を行うことを提案した。 この戦後の計画経済の出発点となるモネ・プラン「近代化=設備計画」(1947-51)に対する評価は分かれている。
 国有化と経済計画を通じた国家主導の再建政策によって、経済復興は順調に進んだ。国有企業は計画期間中国内設備投資の約半分を占め、近代化の推進主体となった。復興の進行につれて輸出も順調に回復し、貿易収支も徐々に改善された。しかしこの過程はしだいに弱点を露呈した。特に国家支出の拡大にともないインフレ傾向が顕在化したこと、また強力な国家介入政策が西欧世界の自由主義的政策と対立したことが重要であった。
 このようにモネ・プランを評価する見方がある一方で計画通りにはいかなかった、という見方もある。
 「ブルム=バーンズ協定」(1946年5月)は期待された援助をもたらさず、モネが考えた復興・近代化の実現は当初の予想を越えて長期化していった。一方、仏独関係についても、ルール地方の資源の優先的確保によってドイツに代わる重工業国家の位置を占めようとした構想は、米英の反対によって期待通りは進行しなかった。
<マーシャル・プラン> ソ連の勢力拡大を防ぎ、西側諸国の発展を目指した、アメリカからの経済援助。 1948年4月から52年1月にかけて行われ、総額120億ドルに達したと言われている。そのうちイギリスへの配分が24.5%で最も多く、その次にフランスが24%であった。 これらの支援は、1947年1月にブルム内閣の下で発足したジャン・モネによる「近代化と整備計画」、すなわち第1次復興計画(モネ・プラン)の資金・材の半分を支えた。
 モネ・プランとマーシャル・プランは次のように表現される。モネ・プランは現実には電力以外の部門では目標を達成することはできなかった。物不足とインフレ、外貨危機の中ではそれは当然のことであり、多額の投資が不可欠だった。 マーシャル・プランは、破綻寸前のこのモネ・プランを救い、53年までその計画を延長させたが、53年には工業生産は29年水準を8.2%上回る実績をあげた。電力・石炭・鉄・セメント・運輸・農業機械の6つの部門と石油・窒素肥料の部門は目標を達成し、労働生産性も上昇した。モネ・プランはフランスの基礎産業の復興に成功したのである。
<欧州石炭鉄鋼共同体50年、今は補助金頼り> モネは1950年5月、フランスとドイツの国境にあり、常に領土紛争のタネになった、アルザス・ロレーヌ地方とザール地方及びオランダ国境に近いドイツ領のルール地方をドイツとの共同で開発する案を時のフランス外相シューマンに提出した。 フランスは戦後ルール地方のフランスの管理下に置き、石炭・鉄鋼などの資源を獲得して、ドイツに代わるヨーロッパ一の大工業国になることを狙っていた。しかし冷戦激化とともにアメリカがドイツの経済復興を優先したことで、フランスの目論見は外れた。こうしてドイツが急速な経済復興を遂げてフランスの安全保障にとって脅威となった結果、 ドイツ封じ込めの政治的・軍事的目的がドイツのの石炭・コークスに対する必要と重なり、この案が採択された。フランス、ドイツを中心にイタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの6ヶ国が参加する、石炭・鉄鋼の共同管理体制として「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)が発足した。
 モネは、マーシャル・プラン実行のために進められていた、欧州諸国の協力強化案に対して、「政府間協力の域を一歩も出ていない根本的欠陥がある」と批判。そして条約交渉で、各国の世論や政治的思惑に振り回されない超国家機関である「最高機関」の創設を提案。このアイディアが欧州経済共同体(EEC)、EUへと発展する。
 1952年7月23日に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)条約が発効。今年7月23日発効から50年経ち、その歴史的使命を終え失効した。第2次大戦後、破壊状態にあった鉄鋼と石炭産業は、関税障害の撤廃を定めた同条約によって再建の道をたどった。しかし、60年代以降の産業構造の変革には対応しきれなかった。転・廃業や合理化を迫られる各企業には条約が定める早期退職や教育訓練手当が払われたが、十分ではなく、近年は失業対策目的などのEUの「構造基金」からの補助金を頼りにせざるを得なくなっていた。今年2002年7月の新聞では上記のように伝え、最後を次のように結んでいる。
 プロディ欧州委員長は、今月23日の条約失効を前にした声明で、「条約は人類史上に重要な一歩をしるした、偉業をなした戦後世代の着想を学び取ろう」と訴えた。
<国民所得の年平均成長率>     単位%  
        1950〜59   1960〜73   1973〜79   1979〜85 
フランス 4.6 5.5 3.2 1.2
西ドイツ 8.6 4.8 2.6 1.3
アメリカ 3.5 3.9 3.0 1.8
イタリア 5.4 5.1 2.9 1.3
イギリス 3.0 3.2 1.8 1.0
日本 9.5 10.5 4.0 4.1
( 2002年11月18日 TANAKA1942b )
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不確定性原理を社会現象に応用  
北朝鮮でのインタビューを考える

<波動性と不確定性> 「戦後復興政策 ヨーロッパ西も東も社会主義」を書き始めて、1920-30年代を調べていく内に、この時代量子力学が発達したことに興味を持った。その量子力学、1925年ハイゼンベルク(W.K.Heisenberg,1901-1976)の不確定性原理(uncertainty principle)、ここから今週の話は始まる。
 原子核は中心に陽子があり、その周りを電子が回っている。光が波動性と同時に量子の性質を持ったように、電子自身も波動性をもつ可能性のあることを、ド・ブロイ(L.de Broglie,1892-1987)によって着想され、シュレディンガー(E.Schrödinger,1887-1961)によって具体的に展開された。1923年の秋、フランス科学アカデミーに報告されたこのド・ブロイの斬新なアイディアは間もなく、デヴィッスン(C.J.Davisson,1881-1958)とジャーマー(L.H.Germer)によって電子線の示す、波動に特徴的な干渉現象の確認によって裏付けされることになった。
 陽子の周りを回っている電子が、真円でも楕円でもなく、フラフラと波のように回っているとしたら、電子の位置を測定したくなる。小さい物を見るときは顕微鏡を使う。測定する物に可視光線を当て、レンズで拡大して見る。更に小さい物を見るときは電子顕微鏡を使う。電子の位置測定のために、波長の短い光――ガンマ線を電子に当て、その散乱光をガンマ線顕微鏡のレンズに集めて電子の像を結ばせる。ところがあまりにも小さい電子はガンマ線を浴びると動いてしまう。小さい電子にガンマ線があたると、電子が突き飛ばされる。測定された電子の位置は、測定時にあった場所ではなくて、突き飛ばされて止まった位置なのだ。つまり測定しようとすると、そのことによって実体が影響され変化してしまう。このことを難しく言うとこうなる。 位置測定が有意義に遂行される過程では、対象とその位置観測装置との間に、必然的に制御しえない運動量のやりとりが行われる。互いに相補的な関係にある2組の物理量A、Bの測定にさいして、一方のAの観測装置を対象に適用するとき、両者のあいだに制御できない形で、他の組Bの物理量のやり取りが必然的に生じ、Bの物理量の測定値の攪乱をなくすようそれを制御しようとすれば、Aの観測を遂行することができないような構造になっている。
 ハイゼンベルクの不確定性原理は、このように「電子の位置は正確に確定する事は不可能で、確率論的にしか言えない」と主張した。そしてこうした理論確立の過程でアインシュタイン(A.Einstein,1879-1955)の光量子仮説が役に立っている。「光が波であり、同時に粒子である」という、ニュートン力学から脱皮した理論が展開されたのが20世紀前半の事だった。コミュニズム、ファシズム、アナーキズムに人々が燃えていた時代、物理学=量子力学が大きく発展したのだった。
<測定することによって、実体が変化する>
小中学校の授業参観を頭に描いてみよう。父兄の見守る授業時間、先生は学級運営がうまくいっている、と認めさせようとする。前もって生徒にはくどいくらいに注意しておく。「授業参観の時間だけは騒がないで、静かに授業を受け、いい子でいて欲しい」と。授業は丁寧に、質問は頭のいい、いい答えが出来そうな生徒を指名する。普段とは全く違う完璧な学級運営が出来る。父兄を呼んでの授業参観、という方法で学級運営を観測しようとすると、そのことによって授業の実体が変化する。
 それではしょっちゅう授業参観日にしたらどうだろうか?毎日授業参観日にしたら?生徒の父兄にかぎらず、来年入学する生徒の父兄、近所の人、教育関係者など誰でも、何時でも授業参観出来るとしたらどうなるか?先生も生徒も毎日緊張の連続では疲れる。そのうち本音の授業になる。「でも参観日での授業もよかった。これからも真面目な授業にしよう」との盛り上がりが教師・生徒の間に生まれるかも知れない。それともう一つ、いろんな先生に登場して貰うこと。地域の有力者、先輩の有名人、地元の経営者、学習塾の教師など……。閉鎖的な学校に新しい風が吹き込む。今、東京都では都立高校の学区を廃止する事になった。このため高等学校間の生徒獲得競争が始まった。消費者=お客様=神様、の消費社会と同じように、教育のサプライ・サイドが、生徒・父兄=ディマンド・サイドに気に入られるにはどうしたらいいか、研究し始めた。教育がサービス産業とし意識され始め、教育界の構造改革がさらに加速する。こうして、「でも・しか教師」にはさらに居心地の悪い職場になる。
 街頭でテレビ・インタビューを受けると、カッコーイイ答えをしようとする。政治・経済・社会問題など、日頃余り考えたことのない問題でも、カメラの前では分かった風な答を言ってしまう。後日、家族、友人、同僚にはインタビューでの答に、言動が制約される。例えば「年末にかけて忘年会などでの、酔っぱらいが多くなって困りますね」と答えたら、同僚を「仕事が終わったら、いっぱいやろうよ」と誘いづらくなる。
<北朝鮮でのインタビューが言動を変化させ、以後の行動を規制する>
街頭でのテレビ・インタビューでも実体に影響を与える。それならば、北朝鮮でのテレビ、雑誌のインタビューはどうだろうか?この場合は北朝鮮政府、公安当局に監視されていることは承知の事実。もしも「このインタビューは北朝鮮政府には報告しません。またあなたが許可するまで発表しません。たとえ、5年10年でもです」と言って、その言葉を信頼したとしたら、インタビューの内容は変わっていただろう。(もっともそんなインタビューはしないだろうし、そう言ってもその言葉を信頼する事はないだろうが。)
 目を瞑って原子核の模型を頭に描いてみよう。中心に陽子がある。その周りを小さな電子が回っている。太陽系のようだ。そこへ大きな星が飛んできた。ガンマ線という巨大星。ガンマ線は強力な電波で、強い波でありながら、粒子でもある不思議な性質を持っている。ガンマ線の粒子があたった電子は突き飛ばされる。どっちの方向へ飛ばされるのか予測できない。週刊金曜日は突き飛ばされた電子を報道して「これが電子の位置です」「私たちは真実を報道します」と言う。しかしそれは「突き飛ばされた電子の位置であって、本来ある位置ではない」「ジェンキンスさんの本当の気持ちではなく、どのように言ったら自分の身の安全が保たれるか?」の答であった。そしてジェンキンスさんはしばらくの間、このインタビューの発言に言動が制約されるかも知れない。
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<田中耕一さんおめでとう> 明るい話題です。田中さん、素晴らしいですね。ところで田中さんの功績とはどういうことでしょうか?ノーベル化学賞…化学の分野の…タンパク質の…検査しようとすると…4つの偶然が重なって…結果に影響を与えない検査方法を開発した…。ハイゼンベルクは「測定することによって、実体が変化する」と言って1932年にノーベル物理学賞を受けた。田中さんは、「実体を変化させない測定方法」を開発してノーベル化学賞を受けた。
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<カール・ポパーの「反証可能性」> 1925年ハイゼンベルクの「不確定性原理」、ここから今週の話は始まった。1920-30年代、忘れてならない人がもう一人、カール・ポパー(Karl Raimund Popper)。1934年にウィーンで「探究の論理」(Logik der Forschung)を出版。1959年にアメリカで「科学的発見の論理」(The Logic of Scientific Discovery)として出版。「科学的な理論とは反証可能なものでなければならない」で知られる、カール・ポパー、今週のHP最後にカール・ポパーの文を引用して終わることにしよう。
 ある体系が経験によってテストできる場合にだけ、それを経験的または科学的なものとはっきり認めることにしよう。この考えは、体系の実証可能性(verifiability:Verifizierbarkeit)ではなくて、反証可能性(falsifiability:Falsifiziebarkait)が境界設定の基準として採用されるべきである、と提案するものである。言いかえれば、私は科学的体系がポジティブな意味で一挙に選別できるものでなければならない、とは要求しない。そうではなくて、私は科学体系というものは、経験的テストの手段によってネガティブな意味で選別されうるような論理形式をそなえるべきだ、と要求する。
 すなわち、経験的科学体系にとっては、反駁されうるということが可能でなければならないのである。 (カール・R・ポパー「科学的発見の論理」大内義一・森博訳 恒星社厚生閣 1971年7月25日初版 から)
 今週も、例によってアマチュア・エコノミストTANAKA1942bの遊び心から生まれた、反証不可能な非科学的こじつけ論法になりました。
( 2002年11月25日 TANAKA1942b )
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社会党ミッテラン大統領の登場  
「大きな政府」の実験
<フランス型国有化>  1945-46年エネルギー、公益、金融分野で多くに企業が国有化された。フランスでの国有化とは、国民が企業の所有や経営に参加するもので、国家による企業取得や企業経営とは違う。国有企業への国民の参加度を基準にすると、大体3つのパターンに分類できる。
T 国有企業への国民各層、特に労働組合の参加度の高い国有化。フランス石炭公社、フランス電気公社、フランス・ガス公社などのエネルギー産業部門の国有企業では、労働組合の経営参加が積極的に行われている。
U 国有企業の管理が、国家官僚と国民各層の代表のどちらからも中立であり、むしろ経営のエキスパートに経営権が委ねられているケース。銀行・保険業の国有企業がこれに該当する。
V 国家が直接経営するケース。ルノー公団がその代表例。ルノー公団の国有化は、ドイツ占領かのルイ・ルノーの対独協力に対する懲罰の意味もあったので、懲罰的国有化ともよばれている。この他航空機用エンジンを製造するグノーム・エ・ローヌ社。
<新設された国有企業> 経済・産業基盤整備を目的として、多数の国有企業が新設された。フランス・プレス社AFP、フランス貿易銀行、フランス貿易保険会社CFACE、再保険中央金庫CCR、石油探査局BRP、航空研究調査公団ONERA、原子力庁CEA、余剰生産物販売会社SNVS、パリ空港、フランス空輸整備会社SFEN。
 1957年7月1日現在で、フランス公企業の数は166、その内訳は、公的事業機関44、国家所有株式会社48、国家会社19、過半数公的出資の子会社55で、これに少数出資の子会社220が加わる。公的セクターのフランス経済にしめる地位は、1956年段階で、工業と運輸部門の労働者数778万人中13%、総活動人口1992万人中5.3%を占めるという状況であった。
<ミッテラン政権の産業国有化政策> 1981年5月10日、フランス第五共和制第四代大統領に社会党のフランソワ・ミッテランが決定した(ミッテラン51.75%、ジスカール・デスタン48.24%)。ミッテランはシャンゼリゼ通りを群衆とともにゆっくりと歩き、赤い薔薇一輪、祖国フランスの偉人たちを祭ったパンテオン(万神殿)に厳かに献花して、23年ぶりの左翼政権誕生という現代史の「偉業」を内外に誇示した。花開くこの季節、パリは希望に満ちていた。
 ミッテランが大統領に就任した当時、増大するインフレ(14%)と失業(160万人以上)が、フランス経済にとって深刻な問題となっていた。対外債務も1300億フランと財政危機でもあった。ミッテランの経済政策は経済成長を回復させ、税収増大を計り、その配当で雇用政策を優先とする一連の社会政策によって社会的不平等是正を達成しようとするものだった。そのために、大規模な国有化政策を中心に生産構造の再編成を計画した。当時、イギリスやアメリカで隆盛だったサッチャリズムやレーガノミクスと呼ばれた「小さな政府」とは対照的な、いわば「大きな政府」の実験だった。
 購買力向上のため、最低賃金・社会手当(老齢年金・家族手当・住宅手当など)の引上げ、金利引下げなどの処置がとられ、1982年公共部門の支出は27.6%増となった。他方で財政赤字額を抑えるために課税対象額を設定するため家族指数の修正や、富裕税の導入が行われた。ミッテランは雇用・労働政策として、1983年までに21万人の公務員増加、若年層の職業教育促進、新規雇用創出を目的とする退職奨励のための連帯契約、週39時間労働(1981年当時40時間)、年間5週間の有給休暇(当時4週間)、60歳定年制の導入などの処置がとられた。 
 1982年2月23日成立の「国有化法」は、5大企業グループ(CGE<電気公社>、サン・ゴバン社、ペンネ社、ローヌ・プーラン社、トムソン・プラント社)、金融2行(パリ・オランダ銀行、スエズ銀行)および36の事業銀行(全国の預金の95%)などの国有化を定め、またマトラ社、ダッソー社、サシノール=ユジノール社、ルーセル=ユクラ、CIIハネウェル=ブル社、ITT子会社などに対する規定も決定された。国有化による収入の見込みは510億フランに上った。
 労使関係の改革は1982年成立のオルー法により労働者の表現の自由の権利と企業レベルでの団体交渉の義務化が定められた。具体的には@労働者の権利拡大、A労働集団の再構築、B労働代表機関の強化、Cだんたい交渉の刷新という4つの一連のプログラムであった。
 さらに、フランス社会の近代化・自由化のためとして、多くの社会主義的政策がとられた。死刑制度の廃止、国家公安法院の廃止、安全と自由法廃止、刑務所制度の緩和、借家人優遇処置、高級官吏登用門戸拡大とENA(国立行政学院)の解放、病院内私営部門の廃止、ホモセクシュアル合法化、自主的妊娠中絶費用還付社会保障制度、常設軍事裁判制度廃止、地方の民営化ラジオ放送の許可、ラジオ・テレビ独立と機能向上のための高等評議会の設立、などが矢継ぎ早に決定された。次第に数を増やしてきた外国人・移民問題に関しても社会主義の標榜する「弱者」のための処置がとられた。しかしそれには限界があった。
<揺らぐミッテランへの支持> 1983年前半にミッテランの支持率は不支持率を下回り、1984年秋以降支持率は30%台を記録した。その後1986年まで支持率が不支持率を上回ることはなかった。ミッテラン政策の要ともいうべき失業問題は悪化し続け(1983年には200万人へ増加)、物価上昇(1981年14%)、貿易収支赤字(1981年496億フラン、1982年933億フラン)、3度に及ぶフラン切り下げ(1981,82,83)など事態は好転しなかった。
 フランス産業近代化=産業構造再編成も大きな問題であった。企業合理化=余剰労働力の削減については、@構造不況産業(製鉄・造船・石炭)、A成熟産業(自動車・電話)などの部門が目標となった。しかしこの政策には労働者が激しく反抗した。1984年初には自動車会社プジョー・タルボ社製造部門のポワシー工場の労働争議は警官隊導入にまで発展した。社共の産業政策の対立を反映して社会党系フランス民主労働連盟(CFDT)と共産党系労働総同盟(CGT)の2大労組の衝突も激化した。これは、その前年経営者側が2905人の懐古を求めたのに対して、政府がその3分の2の懐古を認めたことを直接の原因とした。翌年8月には、政府はシトロエン社の約2000人の解雇も認めた。
 鉄鋼部門でも1984年4月にはロレーヌ製鉄所の5000人解雇に抗議した大デモがもとんどの労組によって組織された。社会党支部の建物が破壊され、ミッテラン大統領の肖像写真機メーカー、クルーゾワール社の倒産を宣告した。
 1983年10月のブルガンブレス市での社会党大会は、前回の81年バランスの「勝利者の大会」と違って、経済路線をめぐって激しい議論が戦わされた大会となった。ジョスパン書記長、ドロール蔵相ら緊縮政策を支持する主流派に対して前産業・開発相シュベーヌマンら左派(CERES派)は、政府の国内消費・購買力抑制政策に強い反発を示した。
 1984年6月の選挙でミッテランの基盤政党である社会党と共産党は議席を減らした。7月にファビウス内閣が成立する。
 ファビウス内閣の経済政策は緊縮財政と、企業活性化を狙いとした「小さな政府」の試みであった。そしてこれ以降社会党は経済政策で社会主義的側面を出せなくなっていった。ミッテラン政権での社会党内閣は、インフレ抑止には成功したが、雇用および経済成長の面では失敗した。1986年3月16日総選挙が行われ、結果は保守の勝利だった。
<フランス経済 略年表>
1944. 6. 6 連合軍、ノルマンディー上陸
1944. 8.25 パリ解放
1944. 9. 9 ドゴール臨時政府成立
1945. 5. 7 ドイツ降伏
1945.11.13 ドゴールを首班とする「人民共和運動」(MRP)・社会党・共産党の連立内閣成立
1945.12. 2 フランス銀行と4大預金銀行国有化
1945.12.21 「プラン(近代化と経済整備計画)委員会」成立
1946. 1.20 ドゴール、議会と対立し辞任
1946.10.13 憲法草案、国民投票で可決、「第四共和制」正式発足(〜58年)
1947. 1.28 ラマディエ挙国一致内閣成立、「モネ・プラン」(経済再建計画)実施
1948. 6.24 ベルリン封鎖
1949. 4. 4 「北大西洋条約機構」(NATO)成立
1950. 5. 9 「シューマン・プラン」(欧州石炭鉄鋼共同体)提案 (1951.4.18設立条約調印、52.1発効)
1954. 6.17 急進社会党のマンデス・フランス内閣成立
1954.10.23 パリ協定調印、西独主権回復再軍備、NATO加盟、「西欧同盟」(WEU)成立
1956. 7.26 エジプトのナセル首相、スエズ運河を国有化。
1958. 6. 1 国民議会、ドゴールを信任(ドゴール内閣成立)
1960. 2.13 サハラでフランス初の原爆実験成功
1962. 7. 1 アルジェリア独立宣言
1963. 1.22 「仏独協力条約」(パリ条約)締結
1963. 2. 4 「仏ソ通商協定」調印
1966. 7. 1 NATO軍事機構から脱退
1968. 5. 3 学生と警官の衝突、五月危機
1969. 4.27 ドゴール、上院・地方制度改革のための国民投票に敗北(翌日、大統領辞任)
1969. 6.15 ポンピドゥー大統領選出
1970.11. 9 ドゴール死去
1972. 6.26 社共共同政府綱領成立
1974. 4. 2 ポンピドゥー死去
1974. 5.19 ジスカール・デスタン大統領選出
1976. 2. 4 共産党第22回大会で「プロレタリア独裁」放棄を決定
1978.12. 4 「ヨーロッパ通貨制度」(EMS)発足
1981. 5.10 社会党のミッテラン大統領選出
1982. 2.13 「国有化法」成立
1986. 3.16 総選挙、保守派勝利、シラク内閣成立(第一次コアビタシオン)
1986. 8. 7 「民営化法」成立
1987.10. 9 金融恐慌(暗黒の月曜日)
1992. 9.20 国民投票によってEU条約批准
( 2002年12月2日 TANAKA1942b )
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コアビタシオンの時代  
シラク内閣成立
<産業民営化の流れ>  1983年前半にミッテランの支持率は不支持率を下回り、1984年秋以降支持率は30%台を記録した。その後1986年まで支持率が不支持率を上回ることはなかった。ミッテラン政策の要ともいうべき失業問題は悪化し続け(1983年には200万人へ増加)、物価上昇(1981年14%)、貿易収支赤字(1981年496億フラン、1982年933億フラン)、3度に及ぶフラン切り下げ(1981,82,83)など事態は好転しなかった。 1986年3月16日総選挙が行われ、結果は保守の勝利だった。 選挙の翌日の午後8時、テレビ各局がニュースを始める時間にミッテランが突然ブラウン管に現れ、全国民の前で短い声明を発表した。ミッテランは「新たな多数派は脆弱であるが、憲法8条を尊重して多数派の代表(シラク)に首相を指名する」と国民の前であえて声明した。シラクは自派の有力者を中心とする組閣を行った。ここに、大統領と首相が左右異なった勢力によって占められる、「コアビタシオン(保革共存)(cohabitation)」が始まった。そしてこれ以降「大統領は国家の最高責任者であると同時に下級の際の仲裁者として捉えられ、大統領は軍事・外交を、首相は内政を主に担当する」というのがコアビタシオンの原則となった。
 自由競争原理をその政策の基本とするシラク政府にとって、65件にのぼる国有化企業の民営化は中心的かつ急務の課題であった。民営化そのものは(1)国有化企業70社の売却、(2)経営参加証券という形態での国有企業の株式市場での資金調達、(3)国有企業の子会社株の公開売却などによって、すでに1983年から86年にかけて行われていた。シラク政府はそれを公然と大規模に実行しようとしたのだった。こうしたシラク政府の企業民営化に対して、ミッテラン大統領は「フランスの資産を外国に渡し」(海外からの資本導入)、「国家の独立」を犯す民営化に反対した。首相と大統領の確執があったが、1986年8月7日に「民営化法」は成立した。
<広範囲な国有化>
民営化対象の企業は広範囲にわたっていた。1982年に社会党政権が国有化したBNP(パリ国立銀行)、ソシエテ・ジェネラル、クレディ・リヨネ以下42の銀行、パリバ、スエズの2大金融機関、CGE(カンパーニュウ・ジェネラル・デエレクトリシテ=電気)、サンゴバン、ペシネ、ローヌ・プラン、トムソン、ブル、マトラ、エルフ・アキテーヌ、CGCT(カンパーニュ・ジェネラル・ド・コンストラクシオン・テレフォニーク=電話総業)の9大企業グループなどにとどまらず、1940年の法律で国有化された企業にまで遡った。1986年10月、エルフ・アキテーヌ(石油化学)の株の一部(11%)売却を皮切りに、11月にはサンゴバン(ガラス・金属メーカー)の株3000万株が証券取引所で売却され、買い注文が殺到し、政府予定の売却価格を上回る高値が付けられた。1月に売却された銀行パリバも公表で高値をつけ、売却は1人4株までと規制されるほどで、浮浪者まで株を買ったとまことしやかに噂された。3月には、ソジェナル(SOGENAL)、BTP(建設・土木銀行)、BIMP(個人工業勧業銀行)などの小銀行の民営化が行われ、4月からはCCF(クレディ・コメルシアル・ド・フランス、商業銀行)の株式売却が始まった。 その後、CGE、アバス(情報)、1945年(81年社会党政権以前)に国有化されたソシエテ・ジェネラルなどの大型の民営化も予定された。1986年から87年末にかけての民営化による国庫収入は400億フランと見込まれ、予想以上に民営化政策はうまくいった。
<民営化という天下り先企業> 民営化された株式は高値がつき、財政収入にもプラスになった。このようにうまくいった民営化、しかし、民営化企業の株式数の2,3割は政府系の大企業を含む「安定株主」による保有株であり、シラクの民営化で誕生した小口株主の台布王意見は形式的なものにとどまった。イギリスのサッチャーによる大衆資本主義はフランスでは育成されなかった。また、売却株の価格決定を初めとする民営化処置はバラデュール蔵相個人のイニシアティブで行われ、民営化企業の代表にはしばしば政府関係者筋の人間が就任した。一種の天下り先企業の育成でもあった。外国企業の保有株数は1割程度に制限され、さまざまな規制が設けられていた。このように、表向きの民営化とは裏腹に、実体としてはフランスの伝統であるディリジスム(国家管理主義)は払拭されえなかった。
<国有企業の比重> 国有企業が産業界でどの程度の比重を占めていたか、いくつかの数字を拾って見よう。
 1981年6月誕生したミッテラン大統領の第1次社会党政権は、公共部門の拡大をテコとした産業再編と活性化を基本的理念に掲げ「金融機関および11企業グループの国有化」の実現をめざした。この結果、フランスの製造業の総売上高(1980年実績)に占める国有企業の比重は、従来の18%から32%に増大し、雇用人数は11%から22%に、投資額は44%から52%にそれぞれ増えた。一方、金融部門における国家の占有率は預金高の90%、信用供与の85%となった。
 鉄鋼業について見ると、1981年ミッテラン社会党政権によって国有化された、サシロール社とユジノール社の2大グループの生産高が1981年に1,570万トンで、全国生産の74%を占めている。なお生産性に関しては、労働者一人あたりの鉄鋼生産高は1977年において、西ドイツ190トン、アメリカ249トン、日本327トン、フランス149トンとなっている。
 1983年、フランス企業の売り上げ上位20社の内13社が国有企業であった。
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<反資本主義と非資本主義> 1982年にシェヴェヌモン産業省大臣(当時)は「フランス人と産業を和解させなければならない」と国民に訴え、次のような現状批判を展開した。「われわれフランス人は今日においても数世紀にわたる反産業的伝統の影響のもとにある。利益と金銭を非難するカトリシズムの伝統、貴族主義的価値観、反技術的および産業投資を嫌い、不労所得と定収入に安住するブルジョワジー、多すぎる官僚に対して少なすぎる企業家、土地に執着する古い国民の反産業的感覚━━これらのフランス的思想はフランス人の骨肉になっており、不平等と階級対立を生み出した」
 「フランスの経営者が企業経営の問題を自らの責任において解決しようとする自律的、自助的、自己責任的態度を欠く」という非難はしばしばなされる。アンドレ・モロアが皮肉的に書いているように、「フランスの経営者は利益を出しているときは自由主義経済を主張するが、苦境に陥ると政府の支援、介入を要求する」
 かつてドロール蔵相は経営者の政府依存の態度を次のように批判した。「あなたがた経営者は国家にすべてを期待することを止める練習をすべきです。あなたと労働組合との交渉の席に私が介入すると期待するのは間違いです。それは経営者としてのあなたがたの職分です」 。フランスでは西山弥太郎のような「官に逆らった経営者」は出なかった。
 1966年、国威発揚に執念を燃やすドブレ首相は、鉄鋼産業の急速な近代化を実現するために国家的施策として大規模な財政支援を行うことを決定した。フランス鉄鋼産業の衰退はこのとき以来始まったと言える。巨額の政府融資、助成金の交付と引替に、経営者は経営戦略の重要な意思決定権を政府に譲ってしまった。さらに、経営者は雇用、価格決定についても経営能力を失った。政府は人員合理化に反対し、価格の凍結が長期にわたり施行された。この結果、ユジノール、サシロールの2大鉄鋼企業は経営危機に瀕し、両者は1977年の「フォーチュン」誌の企業格付けにおいて世界最大の赤字企業という不名誉な記録を作ることになった。
 1978年、ジロー産業省大臣に呼ばれたある鉄鋼企業社長は、財務諸表の提出を求められた際「当社の財務諸表については大蔵省主計局長に聞いてください」と答えたという。結局、産業省のストファエスが書いているように、フランスでは鉄鋼を作る主体が国家なのか経営者なのかわからなくなっている。
 経営者と企業の社会的地位の低さに反比例して、フランスの官僚は高い威信を享受する、と言われてきた。これに関するフランス人の強調することに従えば、フランスにおける官僚の地位の高さは日本はもとよりすべての先進国とは比較にならないほどと考えられる。その背景としてフランスにおいて国家の権力が極めて大きいことと、官僚が超エリート校を通じてフランス社会の最高の知力を吸収してきたことをあげることができる。すなわち、官僚は社会的昇進の手段であり、安定と権力をかちとるための王道であると言われている。
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<ダニエル・ヤーギンの「市場対国家」から> 「『戦後の日本経済は官僚主導の計画経済で、日本株式会社と言うべきものだった』と言う日本のエコノミストの分析は間違っている」というのがTANAKA1942bの主張で、「第2次大戦後の復興政策、ヨーロッパ各国は社会主義政策をとっていた」「それと比較すれば、日本は比較的自由主義経済であった」「そうした自由な経済環境であったために戦災国の中でも力強く経済が立ち直った」というのがTANAKA1942bの主張だ。
 そうした観点からフランス経済を見てきた。最後に、ダニエル・ヤーギン、ジョゼフ・スタニスロー著「市場対国家」(山岡洋一訳 日本経済新聞社 1998年11月18日)から一部引用しよう。

 戦後復興という課題に対応した動きは、経済に対する国の力を別の形で拡大する政策にもみられる。「計画化」の政策がそれであり、国家経済計画の実行は戦後フランスのトレードマークになった。経済の焦点を定め、優先順位を規定し、方向性を示すフランスの計画経済は、誘導的計画と呼ばれ、強制的で硬直的なソ連型の中央計画との違いが協調された。自由市場経済と社会主義の中間の道を強く意識したものである。
 中間の道としての計画という性格にふさわしく、それをうち立てたのは資本主義者の銀行家であり、社会党を支持する人物であった。この人物はジャン・モネであり、閣僚になったことはないが、戦後の時代を通じて、影響力がとりわけ強かったといえる。現在では「ヨーロッパの父」と呼ばれることが多く、現在の欧州連合(EU)の前身を提唱し、創設に尽くしたことで知られる。しかし、モネはそれ以前に、フランス経済の停滞をうち破り、現代にふさわしいものに飛躍させた経済改革の父になっている。(中略)
 「現代化か頽廃か」。モネはその計画で、フランスにどちらの道を選ぶのか、選択を迫った。フランスが現代化の道を選ぶように、経済で果たす政府の役割を拡大し、この役割に関して、計画に関して、信頼性の高いモデルを作り出した。モネの伝記に記されているように、この計画は「いわゆる『混合経済』……を支える合意が、フランスだけでなく、欧州全体で形成される一助になった」
( 2002年12月9日 TANAKA1942b )
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ラスキの30年代  
世界に広がる「地産地消」政策
<レフト・ブック・クラブと円本>  1930年代フランスではフロン・ポピュレールの時代であった。そしてその流れが戦後にも続き、戦後復興政策が社会主義政策となった。 イギリスでは社会主義は大衆運動とはならなかったが、しかし知識人・政治家には社会主義思想が広く浸透し、その影響が戦後へと続いていった。 ここではハロルド・ラスキを中心に1930年代イギリスのマス・インテリの知的流行を振り返ってみることにしよう。
 1930年代イギリス知識人の精神的風土を振り返るのに、レフト・ブック・クラブから始めるのが便利なようだ。当時活躍したイギリス左翼の文化人、文筆家の多くがこの出版運動に関係し、さまざまな記録や回想録を残しているという利点がひとつ。それとこの叢書自体、さらにはこのクラブに加わった多くの人々が、戦後日本の学会と論壇にめざましい影響を与えたという事情がある。
 クラブは戦争前の1936年、日本では2.26事件の起きた昭和11年に始まり、戦後になってからも細々と3年ほど維持された後、1948年(昭和23年)に11年の活動の幕を閉じた。このクラブは会員制のクラブで、入会金はいらない代わりに、クラブが選定した本を必ず月に1冊、最低6ヶ月継続して購入するのが義務であった。もちろんどの本も一般より安く、通常価格の3分の1以下であった。 月刊図書選定にはハロルド・ラスキ、ジョン・ストレーチ、出版元ゴランツ社社長ヴィクター・ゴランツの3人があたった。
 オーウェルの「ウィガン・ピアへの道」をはじめ,数々の名作を生んだこの読書クラブ、日本の新聞で次のような評がある。「これは書物による人民戦線であり,イギリスの自由と民主に精神がいきづいている。今なおアクチュアリティをもつ見事な実験」。 これはイギリスでのこと、日本では昭和の初め頃、1920年代後半に「円本」が登場し、普及した。円本とは1920年代後半(昭和初期)に、多くの出版社から刊行された文学全集本の総称で、1冊1円の廉価だったため、「円本」とよばれたもの。改造社の『現代日本文学全集』は26万人ものの予約購読者を獲得した。昭和初年における全集・講座類の刊行は、関東大震災後の蔵書志向にものって二百数十種を数えた。遠く離れたイギリスと日本、1920-30年代ほぼ同じ頃、国民の読書欲が盛んになり、市場ではそれに応える商品が開発された。この時代にマスコミを職場とする知識人(アンテレクチュエル)=マス・インテリが登場する。
 クラブから出版された本には次のようなものがあった。フランス共産党の指導者モーリス・トレーズ著「今日のフランスと人民戦線」、共産党員ウォル・ハニントン著「不況地帯の問題」、エミール・バーンズ編「マルクス主義読本」、スローン著「ソヴィエト・デモクラシー」、ケストラー著「スペインの遺書」、ストレーチ著「社会主義の理論と実践」、同「来るべき権力闘争」、ステッィーブン・スペンサー著「自由からの前進」、ジョージ・オーウェル著「ウィガン・ピアへの道」、エドガー・スノー著「中国の赤い星」、レオ・ヒューバーマン著「社会主義入門」、オルダス・ハクスリー著「すばらしい新世界」、H・J・ティンパリー著「戦争の意味するもの─中国における日本の恐怖」(「南京大虐殺の『まぼろし』論争」の際に、いわゆる進歩派学者や評論家が、大虐殺の実在を雄弁に主張するとき、好んで引用された資料の一つ)………。
 ストレーチの「来るべき権力闘争」は、左翼知識人や学生の間で大評判になり、競って読まれるか、少なくとも盛んに話題にのぼった。この本の出版から間もなくケンブリッジ大学に留学してきた、ハーバート・ノーマンの証言もある。父親の在日宣教師時代に日本で生まれ育ったノーマンは、近代日本研究者として、戦後日本の学界と論壇に大きな足跡を残すことになる。そのノーマンがトリニティ学寮入学直後の1933年10月、カナダに書き送った手紙によれば、ストレーチの「来るべき権力闘争」を読んだうえで誉めれば、それで進歩的の仲間と公認されるに十分だったらしい。オーウェルはかつて、流行作家とは30歳以下の人間に賞賛される物書きのことだといったこともある。昭和40年代初頭の大学紛争と羽仁五郎「都市の論理」のばかげた売れ行きを覚えている中年日本人なら、オーウェルのこんな観察に、ともかく賛意を示したい気分に駆られないでもない。 (水谷三公著「ラスキとその仲間」──「赤い三○年代」の知識人 中公叢書 1994年4月20日)から
<マス・インテリの活躍>ハロルド・ラスキ(Harold Joseph Laski,1893-1950)は1926年ロンドン大学政治学教授となり、同年フェビアン協会に入り、イギリス労働党に入った。その後党左派の理論家として、党執行委員として、そしてレフト・ブック・クラブでの出版を通じてマス・インテリとして大きな影響力を発揮した。この時代ラスキの周辺にいて、右左に揺れる政治・経済情勢に影響を与えた人のあげると次のようになる。マルクス経済学者のジョン・ストレーチ、カナダ人の外交官・学者のハーバート・ノーマン(1950年代アメリカで吹き荒れた「赤狩り」の嵐のなかで自殺した)、フェビアン協会を率いて進歩的論壇を支配し、ソ連賛美の「ソヴィエト・コミュニズム」の改訂版を出したビアトリス・ウェッブ、その義理の甥であるマガリッジ(1933年ロシア南部農村部で進行していた大規模な飢餓・餓死や軍事抑圧の実体を現地調査に基づいて記事にし、ソ連当局の検閲を避けて「ガーディアン」に送った。この連載記事が載るのが1933年3月下旬)、コール夫妻、ストレーチ、マーカム・マガリッジ、フェビアン協会の設立にも参加したバーナード・ショー。ケインズが取り仕切った知識集団、ブルムズベリー・グループのメンバーからもコミュニズムに接近していった若者がいた。
 作家ヴァージニア・ウルフの夫レナード・ウルフは独ソ協定直後の1939年11月に「城門に迫る蛮族」をクラブから発表した。ドイツやイタリアのファシズムを、ヨーロッパ文明という城に迫るバーバリアンとして批判した。しかし返す刀で、ソ連のいうプロレタリア独裁もまた、蛮族化への道を歩んでいると批判の目を向けた。
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<世界に広がる「地産地消」政策> アメリカから始まった大恐慌、ヨーロッパへも広がり、1931年8月25日に成立したマクドナルド挙国一致内閣は年9月21日に金本位制を廃止した。1932年7月21日から8月21日、カナダのオタワでイギリス帝国経済会議を開き、オタワ協定を締結した。(会議に参加したのはイギリス本国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの各自治領、インド、南ローデシアの植民地) これはイギリス連邦を世界恐慌から救出する方策として、イギリス連邦以外の国の製品に対して高い関税を賦課し、連邦諸国内の製品の関税は低くするという特恵制度をより完備・徹底したのもだった。「イギリス連邦の皆さんは、イギリス連邦で生産されたものを買いましょう」「連邦内の顔の見える生産者のものを買いましょう」「東洋には『地産地消』とか『身土不二』という言葉があります。これを見習いましょう」という事だった。
 イギリス連邦ほどの広さなら自給自足も可能であったが、日本列島だけでは無理だった。朝鮮半島、満州帝国を含めて自給自足体制を作ろうとしたが、エネルギー源としての石油が足りなかった。このため仏領インドシナを制圧し、さらに南方へ自給地を広げようとして「大東亜共栄圏」なる幻想を設計した。大日本帝国があの時代に知恵を絞った挙げ句の「自給自足」政策であり、「地産地消」政策でもあった。もしも大東亜共栄圏ができていたら、石油は大日本帝国南アジア自治領から自給し、畜産業の飼料としてのグレーンソルガム(コウリャン)は同盟国の満州帝国の顔の見える生産者から買えばいいことになっていただろう。イタリアは1935年にエチオピアに侵略しここを自給地とし、1939年にはアルバニアを占領する。 ドイツは1938年 3月13日オーストリア併合 を皮切りに、1939年9月1日に、ドイツ軍(兵員150万人、戦車2000両、航空機1600機)はポーランドへ侵攻し、 東ヨーロッパへ自給地を広げていった。この時代「地産地消」「身土不二」を徹底するには自国の領土を広げることが政策となった。特にイギリス、フランスは植民地という自給地を持っていたし、アメリカは自国だけで自給自足ができた。後発先進国のドイツ、イタリア、日本は先輩先進国のいじめに遭いながら手付かずの自給地を作らなければならなかった。
<ベヴァリッジ報告> 1940年5月10日チャーチル内閣が成立すると、ベヴィン労働大臣は「戦時体制は、われわれの社会主義のテストである」として、事実上の労使間トップ交渉を行う「合同協議委員会」を設置した。戦時労働供給の確保のために労使関係を大切にし、賃金統制は行わず、労働組合機能を温存し、労働組合の生産問題への発言権を強化しようとした。こうした政策で労働組合の信頼を得て、労働争議を最小限にすることに成功し、1940年7月に「政令1305号」(「雇用条件および全国仲裁令)というストライキとロック・アウト禁止宣言を出した。
 1941年6月に独ソ戦が始まり、同年7月に英ソ軍事協定が結ばれると、共産党はそれまでの方針を転換し、非公式ストライキに反対し、生産増強を積極的に唱えるようになる。しかし、戦争後半になると、とくに1943年以降、炭坑などで非公式ストライキが多発した。労働大臣ベヴィンがシェルフィードで「空襲よりもひどく一国の産業に損害を与える」と語ったのは、この種の非公式ストに対してであった。こうした戦時体制下において、戦争終結後を見通した政策として、すでに1942年に「ベヴァリッジ・プラン」(Beveridge Plan)を作成し、「揺りかごから墓場まで」のキャッチフレーズを持った、福祉国家と呼ばれるイギリス型社会主義国家の設計図を準備していたのだった。
( 2002年12月16日 TANAKA1942b )
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ゆりかごから墓場まで  
雇用維持と通貨管理の選択
<アメリカ主導によるヨーロッパ再建>  戦争が終わった1945年、ヨーロッパ経済は疲れ切っていた。フランスはドイツに占領されていらし、敗戦国ドイツは東西に分割占領され、東側はソ連に占領されていた。イギリス経済も戦争で疲れ切っていた。こうした塚切った戦後経済にあって、アメリカだけが元気だった。そのアメリカは1947-48年には世界の工業生産の約半分、同じく輸出の3分の1、金保有高の4分の3弱、海外投資額の4分の3を占めていた。アメリカの1人あたり国内総生産は、イギリスの1.5倍、ドイツの3倍、フランスの2倍に達するほどであった。
 圧倒的な軍事力と経済力を持ったアメリカは戦後、世界のリーダーとして動き出した。モンロー主義などと言って引きこもってはいられなかった。世界恐慌、保護貿易主義、第二次大戦、ソ連圏の拡大と共産主義の脅威、こうした問題を前にアメリカは覇権国としての立場を明確にした。国際連合設立と広範な軍事同盟ネットワークの形成、世界恐慌期にできた保護貿易を目的とした経済ブロックの解体、それに代わる多角的自由貿易体制の構築、安定的な国際通貨体制。ここにアメリカ主導の自由主義国家の枠組み、パックス・アメリカーナが構築されていった。
 国際経済体制は2つの制度が柱になっていた。
(1)国家間の関税引き下げとそれを他国に無差別に適用させる「関税と貿易に関する一般協定」。通称ガット(GATT,1948年発効)の制度。ガットは輸入制限など関税以外の貿易制限処置を撤廃・軽減させ、あるいはそれらを関税に移行させて、その関税を引き下げることを目標とした。ガットそれ自体では、これを制度化するための枠組みでしかないが、この枠組みのもとで輸入数量制限の撤廃・関税化が大々的に進められ、協定締結国すべてが参加する一括関税引き下げ交渉が何度かもたれ、その結果1960年代末までには、自由世界全体で関税が大幅に引き下げられた。
(2)ブレトンウッズ体制。世界恐慌以後、世界各国は金本位制を脱離した。そこで、アメリカドルを金と交換可能な基軸通貨として、そのドルと各国の為替相場平価を固定する「金ドル本位制」をしき、一時的な国際収支赤字に対しては、国際通貨基金(通称IMF,1947年発足)からの借り入れで対処出来るようにする制度だ。さらに、復興と開発のための長期金融を担当する世界銀行が設立された。ドルを基軸通貨とする固定為替相場制度は、通貨を安定させ為替リスクを軽減するものなので、国際的な貿易・投資・金融促進には不可欠であった。しかも戦後設定された為替レートの平価は、アメリカ以外の国にとって、それ以前に下落していたレベルで固定されたので輸出には相対的に有利であった。
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<ケインズの経済政策> 戦後のイギリス経済政策はサッチャー政権誕生までジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)の「雇用、利子および貨幣の一般理論」に基礎を置くものであった。したがって、イギリスの政策においては、資本主義経済は、放置すれば資本の限界効率の変動によって不安定化し、民間部門の事前的な投資と、完全雇用水準の所得における貯蓄との間に食い違い(需要不足)が生じるため、「非自発的」失業が起こり勝ちになるという考え方が前提となっていた。言い換えれば、労働力を完全に雇用した場合に生産可能となる生産物が、需要不足のために、すべては吸収できないとなる。
 それだけではなく、政策担当者はケインズ自身の考えを受け入れて、労働市場や生産物市場の自由な働きに任せているだけでは、少なくとも短期においては、完全雇用に見合う生産水準を達成できない。したがって景気変動や不平等などを是正するようなマクロ経済政策が必要と考えていた。その意味で、ケインジアンの所得・支出モデルが政策決定においても主導的な役割を果たしていた。
 このモデルがイギリスの政策決定に使われたとき、少なくとも1970年代までは、貨幣はこのモデルの中でほとんど重要な役割を果たしていなかった。貨幣に対する需要は利子弾力的であり、しかも財貨・サービスに対する需要の利子弾力性は低いと見られていたので、利子率変化の支出への影響は小さいと考えられていた。こうして金融政策は経済活動をコントロールする手段としては有効でないとみられていた。政府支出の水準や、支出と税収の差額──すなわち財政収支を捜査する財政政策こそがマクロ経済政策の中心的な手段だと考えられていた。
 「インフレは何時いかなる場合も、貨幣的現象である」という現代での常識は、この時代のイギリスでは常識とはなっていなかった。インフレは主にコスト・プッシュによると考えられていた。こうした財政政策重視、金融政策軽視のために、インフレとそれを抑えるための不景気の循環、そして為替管理政策不在のためのポンド切り下げ、といった不手際が続くことになる。1967年11月ポンド切り下げに追い込まれる。それまで国際準備通貨としてのポンドの役割を傷つけるとして為替切り下げに反対であった。それはちょうど1930年代甫のフランスに似ている。自国の通貨切り下げは国の威信を傷つける、との考えが支配的であったからだ。ポンド切り下げ後もその傾向は改まらず、1970年6月に政権の座に着いたヒース率いる保守党政権も、1972年6月に深刻な通過危機のために変動相場制に追い込まれる。以後の経済政策でも、変動相場制の意味を十分には理解していなかったため、十分な金融政策を打つことができなかった。こうした点が改まり、ごく当たり前の金融政策が打たれるのは、サッチャー政権の登場を待たなければならなかった。
<福祉国家への道> 終戦後の労働党アトリー内閣は、完全雇用の達成と福祉国家を目指した。戦後の福祉国家を目標とするベヴァリッジ・プラン(Beveridge Plan)「1942年社会保障報告」(Report on Social and Allied Services,1942)として具体化され、広範な社会政策を示した。それは被保険者、雇用主、国家の三者協力によって、退職年金、疾病、事故、失業、寡婦、その他の手当を供給する社会保障の包括的システムであった。その場合、完全雇用、家族手当、保険サービスの導入が前提とされ、とくに失業の望ましくない水準を防ぐことが第一義的に必要であると強調された。
 政府はこの提案の大部分を受け入れて、1945年から48年ににかけて一連の法律として具体化された。1944年には国民保健省(Ministry of National Insurance)が設置され、全計画は1948年に開始された。1944年白書で提案された国民保険サービス(National Health Service)もまた1948年に計画が開始され、これには全人口が含まれ、保健省(Ministry of Health)が病院の運営と計画の大部分の管理に責任を負うものとして設置された。
 戦後イギリス政府の経済政策で最も成功したのが「完全雇用達成のための政策」であった。1920年代、30年代の失業状況は年間100万人以上、最悪期には250万人以上に達していた。ベヴァリッジ・プランの目標は、完全失業率3%以下であった。この目標は、両大戦間の平均失業率が14%であったことを考えれば、夢のような目標であった。その夢のような目標は、戦争直後の圧力により、3%以の水準を実現させた。同じ頃アメリカの失業率は平均5%であったことを考えれば、その数字の重みがわかる。 イギリスの失業率は1960年代に1〜2%台を維持し、73年時点でもまだ2.2%の低水準であった。イギリスの社会主義的福祉政策もこの点に関しては大成功であった。
<基幹産業の国有化> アトリー政権はイングランド銀行からその国有化政策を開始した。1945年末に石炭産業国有化法案を出し、1946年石炭産業国有化法(Coal Industry Nationalisation Act)として成立、1947年1月から実施された。これにより全国石炭庁(National Coal Board)が設置され、政府に任命された9人のメンバーが石炭産業の経営と再編成の責任を負うことになった。全国石炭庁は極めて広範な権限を与えられ、石炭産業再編成のために1億5000万ポンドの新規資金が与えられた。
 1946年秋には、鉄道、運輸、ロンドン運輸の国有化法案が提出され、これは1947年運輸法(Transport Act,1947)として成立し、1948年1月から実施された。鉄道執行部(Railway Executive)が鉄道を運営し、道路執行部(Road Executive)が道路運輸を運営するものとされ、さらに運輸委員会(Transport Commission)が全業務に責任を負うことになった。イギリス国内で運輸委員会が実質的に責任を負わない運輸はもとんどないことになり、その組織は異常な大きさとなり、、組織の単位も大規模になった。鉄道執行部は以前の最大の鉄道会社の3倍の大きさになり、競争はほとんどなくなった。
 1946年末の電力業国有化の法案は1947年電気法(Electricity Act,1947)として成立し、1948年4月から実施された。既存の中央電気局(Central Electricity Board)は高圧送電線を所有するものであって、発電所や配電組織を所有するものではなかった。1947年電気法のもとにすべての都市企業と民間企業は国有化され、発電所と高圧送電線はイギリス電気庁(British Electricity Authority)が、配電組織は14の地域局(Area Board)が担当することになった。ただし、北スコットランド地域だけは1943年に設立された北スコットランド水力電気局(North of Scotland Hydro-Electric Board)が担当した。この場合にも、補償は証券取引所の価格ベースで行われた。電力業における規模の経済の拡大の必要が十分に理解されていたことに加えれ、運輸業国有化提案の後に行われたこともあって、電力業の国有化は世論も冷静に受け入れたから、極めて円滑に実施された。
 ガス供給業の国有化は1948年ガス法(Gass Act,1948)によって行われ、1949年5月に実施された。ガス供給の主要責任機関は12の地域ガス局(Area Gas Board)であり、中央に勧告的機関としてのガス評議会(Gas Council)が置かれた。これは、地域の事情に適応できるような地方分権的組織が適当と考えられたためであった。しかしこれによって、非能率工場の閉鎖、ガス本管の全国的拡大と連結が行われ、ガス供給業の近代化が達成されることになった。
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<イギリスの国際収支推移>   (単位:100万ポンド)
 
1952〜62 1963〜67 1968〜72 1973〜79
経常収支 111 -77 459 -904
 貿易収支 -158 -326 -303 -3,190    
 貿易外収支 269 249 762 2,286    
資本収支 -145 35 -89 611
 直接投資 -145 -136 -99 -154
 証券投資    171 10 765
調整項目 58 15 -65 1,121    
総合収支 24 -27 305 828

( 2002年12月23日 TANAKA1942b )
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イギリスでの産業国有化  
二大政党間でもてあそばれる企業
<ヨーロッパ連合への取組姿勢>  1951年欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を創設するパリ条約が調印され、1952年7月23日発効した。参加したのはフランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの6ヶ国。イギリスは参加しなかった。イギリスは参加を要請されたが、参加国政府の上に「最高機関」を置く、というジャン・モネの考えが、イギリスの主権を制約する転を忌避し、参加を取りやめた。北欧諸国は国是である中立主義を損なうとの判断から、やはり参加しなかった。イギリスと欧州連合との関係はその後も、近づいたり離れたりすることになる。
 1961年8月、イギリスはそれまでの方針を変更して、EEC加盟を申請した。加盟交渉でイギリスは英連邦諸国の特別扱いなどを要求したため、交渉は長引いた。さらにイギリスは「トロイの木馬」であるとの疑念がEECで高まった。アメリカは戦後、ソ連圏との対抗のためヨーロッパ統合を後押ししてきたが、EECの台頭に警戒心を抱いていた。アメリカ議会は1962年通称拡大法において、アメリカとEEcを合計して世界輸出の80%以上を占める品目の関税をお互いにゼロとする権限を大統領に賦与した。イギリスがEECに加盟すると、多くの主要品目がこの関税ゼロ品目に該当する。そこでイギリスの加盟はEEC関税同盟を無効化するためにアメリカが仕掛けた罠とみられたのである。 そこでフランスののドゴール大統領は拒否権を発動し、加盟交渉は1963年早々に挫折した。2度目の申請もフランスの拒否権発動で潰され、3度目の申請によりイギリスはようやく1973年にデンマーク、アイルランドとともに加盟した。英連邦は特別扱いは認められなかった。
 イギリスは独・仏とは違い各国政府の上に立つヨーロッパ連合には反対の姿勢をとり続けた。シュツットガルトでの理事会の後、「ヨーロッパ同盟に関する厳粛なる声明」が発表されたが、下院でこの宣言について質問されたサッチャー首相は次のように答えている。

「私は、いかなる形でもヨーロッパ連邦というものを信じないことをはっきり申し上げます。この文書もそのようなことを言っているわれではありません」マースリヒト条約のような方法による、中央集権化されたヨーロッパへの権力の移行は、この宣言にはうたわれていなかった。しかし、高々と掲げられた宣言の言葉は、その後の発展によってなじみ深いものになった。 後に制度という肉付けが十分にされ得る言語的骨組みは、シュツットガルトでその片鱗を見せていた。
<鉄鋼産業の国有化> 鉄鋼産業は労働党と保守党との間で、国有化ー民営化ー国有化ー民営化ともてあそばれた。1949年、労働党クレメント・アトリー内閣で鉄鋼国有化法(Iron and Steel Act,1949)が成立し、イギリス鉄鋼公社(Iron and Corporation of Great Britain)が設立され、さらに1951年の鉄鋼国有化法で所有権が国家に移転された。しかしチャーチルが率いる保守党が政権につくと、1953年に鉄鋼国有化解除法案(denationalisation of Iron and Steel Corporation)が提案され、鉄鋼局(Iron and Steel Board)があらたに設立され、また株式の売却が行われた。しかし、1967年に労働党のウィルソン政権下で鉄鋼法(Ireon and Steel Act,1967)が通過し、鉄鋼はイギリス鉄鋼公社(British Steel bCorporation)として再度国有化された。このBSCはイギリス粗鋼生産の80%以上を占めていた。しかし1970年に、エドワード・ヒースの保守党が再び政権につくと国有企業の見直しが行われ、国有企業のいくつかが部分的民営化された。しかし、その一方で国際競争力を失った企業に対しては積極的に資金供給を行った。 たとえば、1971年に破綻したロールス・ロイス(Rolls-Royce Ltd)に対して政府は資金援助を行って社の再生を図ろうとした。
<自動車産業の衰退> 007ジェームス・ボンドが愛用したアストンマーチンやロールス・ロイスはもう生産されていない。BL有限会社は最後のイギリス系大自動車メーカーであったが、トラック・メーカーのレイランドとブリティッシュ・モーター・ホールディングが合同してできたものだった。 1968年に行われた合併は、結局困窮した財政状態を救う手だてにはならなかった。採算のとれない乗用車組立事業のため、1975年に国有化されたBL有限会社は国庫補助に頼らざるを得なかった。その後、ローバー・グループとなり、ホンダの援助を受けたが、1994年にBMWの傘下にはいった。
 もう一つのイギリスのコンツェルンである、ルーツ・グループは、すでに1960年代にクライスラー・コーポレーション・UK有限会社の所有となったが、この有限会社は1978年にプジョーに吸収された。以前のルーツ工場の老朽化した生産設備のため、プジョーは工場閉鎖と解雇を計画したが、現在はプジョーの1工場として生産活動を続けている。
 イギリスの自動車産業は戦後日本の先生であった。日産自動車は1953(昭和28)年、英国オースチン社と技術提携し、オースチンA40型の生産を開始。 1956(昭和31)年に全部品を国産化。1960(昭和35)年2月セドリックの発売と同時に生産終了となった。つまりセドリックを開発するまで、オースチンが日産の主力車種であった。 いすゞ自動車1953(昭和28)年英国ヒルマン社と技術提携しノックダウン生産開始。1957(32昭和)年全部品国産化。1964(昭和39)年6月まで生産された。 ちなみに日野自動車は1953(昭和28)年2月、フランスのルノー社と技術提携に調印。同年4月からルノー4CVをノックダウンを開始。 1958(昭和33)年8月完全国産化。1963(昭和38)まで生産された。日野は1961(昭和36)年にルノー4CVの改良型、コンテッサを1964(昭和39)年から生産を始めた。このように日本自動車産業の師であった英国は、日本では後発メーカーであったホンダ(本田技研工業)の支援を受けたが、結局BMWの傘下に入った。 こうした日本の自動車メーカーのなかでトヨタ自動車は外国メーカーとは提携せず、自力で1955(昭和30)年にクラウンを開発した。
 英国の指導を受けた日本の自動車産業、大きく成長し、環境にやさしい自動車造りで世界をリードしている。2002年12月2日のニュースを日経新聞から引用しよう。 「世界で初めての燃料電池車の市販車の納車式が2日午前、首相官邸で開かれ、小泉純一郎首相が奥田碩トヨタ自動車会長と吉野浩行ホンダ社長からカギを受け取り、両社の車にそれぞれ試乗した。首相は「意外と静かで、乗っていて軽い感じがする。スピードも十分」と絶賛した」
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<ポンド切り下げ> 1945年8月、アメリカのレンド・リース(武器貸与)が突然に終了を発表されたときに、イギリスは直ちに外貨危機に陥った。輸入の大きさに対して輸出はとるに足らないものになっていた。1946年7月にドル貸付協定が調印されたが、それでも先行きは不安であった。1947年春の石炭危機は状況を一層悪化させた。協定調印後1年たった、1947年7月には、ポンドの交換性回復が実施されたが、1ヶ月も維持できないで、交換性は再び停止されなければならなかった。ポンド残高の保有者は出来るだけ早く、ポンドをドルに替えようとしたから、交換性の回復は悪い状況を一層悪くした。
 ポンド切り下げが予想されるなかで、労働党アトリー内閣は1948年には切り下げの代わりに厳しい輸入制限を実施した。輸出ドライブは強化され、輸入は出来るだけ非ドル資源に切り代えられた。同年春にはマーシャル・プランがアメリカ議会で承認され、アメリカの消費ブームにも恵まれて、秋までにはイギリスの対外経済関係には改善が見られた。しかし、経常収支が改善されても、余剰を海外へ投資する圧力が大きかったので、結局外貨準備を強化するには不十分であり、ドル不足の不安は依然として変わらなかった。
 1949年におけるアメリカの景気リセッションはゆるやかなものであったが、ドル市場への売り込み競争は激化し、イギリス商品の高コストが指摘され、切り下げによる調整の必要が言われるようになった。1949年上半期の間にドル不足は2倍になり、アトリー内閣は9月にようやくポンド切り下げに踏み切った。1947年の交換性回復の失敗に次いで、切り下げのタイミングを誤ったことは、切り下げが為替政策失敗の告白であると受け取られることになった。
 1950年6月挑戦戦争が勃発すると、世界的に商品価格が上昇し、一時金ドル準備が上昇したが、高コストのイギリスの貿易条件は悪化し、1950年3億ポンドの余剰から1951年4億ポンドの不足に変わった。金ドル準備は1951年末には23億ドルに低下した。
 1954年にはポンドの交換可能地域はかなり拡大され、自由金市場も再開され、ロンドンは主要国際金融センターとしての役割を取り戻し始め、金ドル準備は1954年6月末には30億ドルを超えるまでに回復した。しかし、この回復も一時的なもので、同年半ば以降、金ドル準備は再び減少し始め、結局、1957年9月末には18億ドルに落ち込み、公定歩合は7%まで引き上げられることになった。
 1960年代に入って、イギリス経済の好況、国際収支の危機、そして不況というパターンは慢性的なものとなり、1950年代と同様に危機は繰り返し起こった。そして、イギリス経済の方向は変わらないとうことがはっきりしてきた。ポンドが圧力に耐える能力は依然として小さかったから、50年代より一層厳しいものとなった。1958年から60年代半ばまで経常収支は平均してバランスしていたから、経常収支はこの間、長期資本輸出の金融に役立たなかった。結局、1964年半ばの金外貨準備は10億ポンド以下に過ぎなかった。
 1966年7月の為替危機は労働党政府の経済政策を転換させるものとなった。もはや完全雇用と国際収支の均衡を両立させることは困難であり、ポンドを切り下げるか、あるいは厳しいデフレ処置により完全雇用を断念するかの選択が不可避になった。5月のデフレ予算に加えて、7月には最も厳しい需要抑制処置がとられ、公共部門投資も削減された。とくに賃金、配当、価格の凍結処置が導入されたことはかつてない危機的処置であったが、当然、社会のあらゆる部門に不人気な政策であり、労働組合の反発を招くことになった。 こうした厳しいデフレ処置と在庫調整により1967年下半期には国際収支はやや改善されたので、67年予算は「変化のない予算」(No chage budget)によって、ややリフルに転じた。しかし、世界貿易の鈍化により輸出は低調で、輸入コストは増加したため貿易収支は再び悪化し、リフル処置に」よる公共部門不足の拡大に加えて、秋には港湾ストライキがかさなり、遂に11月にはポンド切り下げ(対ドル2.8ドルから2.4ドルへ、14.3%の切り下げ)に踏み切ることになった。
 ポンド切り下げが1964年の時点で行われていたら、結果は違っただろうが、不人気な処置を遂行できる政治状況にはなかったし、イングランド銀行も大蔵省もポンドの特別の役割のために切り下げには反対だった。政府は1966年7月まではデフレ政策で対処し、需要インフレの防止には所得政策が用いられたが、国内需要は高止まりで、国際収支は悪化していった。1966年7月以降は財政政策は厳しいデフレを創出したが、国際収支の改善は期待されたほどのはすすまず、とくに政府の輸出入見通しの誤りは、結局、追い込まれた状況でのポンド切り下げを不可避としてしまったのだった。
( 2002年12月30日 TANAKA1942b )
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社会主義よ、さようなら  
労組の横暴が労働党の所得政策を破綻させた
<「鉄のカーテン」演説>  1946年3月5日、チャーチルはアメリカのフルトンで演説した。要旨は次の通り。
「バルト海のステッチンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが下りています。その線の後ろに中欧、東欧の古くからの国のすべての首都が存在します。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブタペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な都市および周辺の人々は、ソビエト圏と呼ばねばならぬ所にいるのです。そしてすべては、いかなる形であれ、ソビエトの影響下にあるだけでなく、モスクワからきわめて高度なコントロールの下にあるのです」
<労組が政策決定する英国> 1970年までは失業率の低さから見れば、イギリス経済は健全かのように見えた。「ストップ・アンド・ゴー」や、為替管理の不手際からのポンド引き下げ、など問題もあったが、1970年になると更に問題を抱えることになった。 完全雇用を維持するのも、インフレを抑えるにも、産業の生産性の向上がなければならない。1970年代に入ると先進国のなかでイギリスの生産性向上の遅れが経済に反映し始めた。
 ケインズは「非自発的な失業」の状況を非常に注意深く定義している。彼によれば、それは労働の限界生産性(原稿の実質賃金に等しい)が労働の供給価格(つまり、それだけの労働力が自発的に供給される実質賃金)を上回った水準に雇用が固定されてしまう時に生じるのだ。こうした状況は、貨幣需要の利子弾力性がきわめて高いため利子の低下が妨げられ、完全雇用水準の貯蓄に見合う投資が実現しない場合に生じる。 こうした状況下では、たとえ短期的に財政赤字が拡大するとしても政府は公共事業費を増加させるべきであると、ケインズは主張している。
 しかし、失業の原因が、労働がその限界生産性よりも高い価格を要求していることにある場合は、ケインズは「非自発的」とは呼ばないであろう。1970年代初頭から増加したイギリスの失業がケインズが一般理論で論じた非自発的なタイプではなく、自発的な(賃金が高すぎるために生じた)タイプのものであることはほぼ間違いがない。すなわち、当時の失業は最初は資本の価格と比較して労働の価格が徐々に高まったことにより、後には製造業の公益条件が悪化したにもかかわらず、製品価格で測った実質賃金が低下しなかったために生じたのであった。 別の言い方をすれば「生産性の向上以上に、賃金が上がった」と言える。
 1970年代に特徴的に見られるのは無秩序な労使関係と言える。労働組合の国内経済情勢を無視した強気の賃上げ要求が原因であった。 選挙で選ばれた国会議員に代わって、労働組合幹部がイギリスの政策決定権を持っているとの幻想がイギリス産業の重要部門、たとえば自動車産業をほとんどダメにした。そして保守党政権だけでなく労働党政権をも悩ませ、実際キャラハン労働党政権を倒す大きな原因を作ることになった。
 1978年キャラハン内閣は労組と交渉して賃上げを抑制する所得政策を推進しようとした。政府は賃上げの上限を5%に抑えることを提案したが、運輸一般労働組合の新しい書記長モス・エバンズに一蹴された。5%案はTUC(労働組合会議)でも労働党大会でも拒否されてしまった。しかし、政府は5%案に固執、運輸一般労働組合をはじめ他の労組はこれを拒否し続けた。このため、冬になるとストが続発した。フォード自動車の労組が賃上げを求めてストに入り、ついでトラック運転手、石油タンカー操縦士などが、運輸一般労働組合の支援のもとにストを行った。 当時の経済状況から見れば5%が限度であったが、労働組合は納得しなかった。キャラハンは後に労組の横暴ぶりを嘆きながらこう書いた。「最も悪名高かったストは、リバプールの墓堀人たちが死者の埋葬を拒否したことである。これによって会葬者が墓地から追われてしまう映像がテレビ流され、人々をぞっとさせた」 
 今やどの組合も波状攻撃的にストを打ち、どこでストがあり、どんな状況になっているか、マスコミがいちいち報道したため、国中ストで覆われている印象を与えた。「不満の冬」と言われたが、労組も政府も国民も、この状況に不満をもった。政府のケインズ的所得政策は完全に失敗に終わった。と同時に、労働党政権に対する支持率は急速に落ちていくのだった。1979年3月28日野党保守党がキャラハン不信任案を提出。311票対310票とわずか1票の差で不信任案が可決された。議会は解散され、5月3日に総選挙が行われ、キャラハン個人はサッチャーより人気が高かったにもかかわらず、労働党に対する不信から保守党が勝利、初の女性首相誕生となったのだった。 結果は保守党339議席、労働党268議席、自由党11議席、スコットランド民族党2議席、ウェールズ民族党2議席、その他13議席と、保守党の圧勝だった。
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<労働組合に対するサッチャーの考え> 労働組合に対するサッチャーの考えを、「サッチャー回顧録」から引用しよう。このようなはっきりした政治姿勢、日本では反感を覚える識者もいるかもしれない。しかし「社会主義イギリス」を「普通の資本主義国」に戻した「サッチャーリズム」を理解するために、ここに引用することにした。
 イギリスの民主社会主義勢力は1983年の総選挙で、かつて経験がないほどの惨敗を喫した。党声明に、社会主義者としての目標を真正面に打ち出したあげくの敗北である。それだけに国内の左派は、大規模な産業国有化、莫大な公共支出、労働組合の権力強化、核兵器の一方的廃棄を柱とした政策で、国民に支持を誇ることは以後二度とできなくなった。しかし、イギリスには非民主的な社会主義を奉じる一派もおり、彼らもまた打破すべき相手であった。極左翼の真の目的が何であるかは、疑う余地がなかった。イギリスにマルクス主義の制度を押しつけることを目指し、そのために手段を選ばず、いかなる犠牲もものともしない革命家、それが彼らの真の姿だ。メンバーの多くは、その意図を隠そうともしなかった。彼らにとっては、民主主義の諸制度は、マルクス主義の理想郷までの長い道中に横たわるやっかいな障害物にすぎない。一派は選挙戦の最中こそ、穏健派の支持を得る必要のために言動を制約されていたが、敗北の余波のなかで鎖を解かれ、今度は自分たちの流儀で戦いをしようと、虎視眈々と機会を窺っていた。
 極左翼は、労働党、地方自治体、労働組合という三つの組織に地盤を築いており、それらを土台に、再度政権を委ねられたわれわれに挑戦しようとしていた。突撃隊として戦いの口火を切るのは、マルクス主義者のアーサー・スカーギルが率いる全国鉱山労組(NUM)と見られていた。彼らの意図は明白で、83年の総選挙が終わってまだ1ヶ月もしないうちから、「この政府を今後4年間も押しつけられるのはごめんこうむる」と、スカーギル氏は公言してはばからなかった。政府に対して直接攻撃をするばかりか、誰であろうと何であろうと、自分たちを邪魔するものは叩きつぶす、たとえ仲間の炭坑労働者やその家族だろうと例外ではなく、警察、裁判所、法律、それに議会といえども、相手とすることを辞さないというのであった。
 私は1970年から74年にかけての保守党政権の歴史から推測して、炭坑ストに対処すべき時が来ることをほとんど疑っていなかった。1981年にスカーギル氏がNUMの指導者に選ばれた時点で、それを確信したといってよい。炭坑ストはおよそ望ましくなかった。経済的に何の合理的理由もないからである。石炭公社(NUB)、政府、それに鉱山労働者の大半は、石炭産業が繁栄し、競争力のある産業に育つことを望んでいた。ところが神話と絡み合った歴史は、イギリスの石炭産業を特殊な社会に仕立て上げてしまったらしい。道理が単純に通る世界でなくなっていた。 (「サッチャー回顧録」マーガレット・サッチャー著 石塚雅彦訳 日本経済新聞社 1993年11月11日 から)
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<イギリス経済略年表>
1940. 5.10 チャーチル首相就任。労働党も入閣して挙国一致内閣。
1942.12. 1 福祉国家の青写真となった「ベヴァリッジ報告書」発表。
1944. 6. 6 ノルマンディ上陸作戦成功。
1945. 2. 4 ヤルタ会談(〜2.11)
1945. 4.12 ローズヴェルト死去。トルーマン大統領就任
1945. 5. 8 ドイツ第三帝国、無条件降伏
1945. 7.27 労働党アトリー内閣発足
1945. 7.31 ブレトン・ウッズ協定法成立、NCA設立
1945.10.24 国際連合発足
1946. 1. 1 イングランド銀行国有化される
1946. 3. 1 基幹産業国有化開始(〜49.5)
1946. 3. 5 チャーチル、アメリカで「鉄のカーテン」演説
1946. 8. 1 国民保健法制定
1946.11. 6 国民医療制度法制定
1948. 6.23 ベルリン封鎖
1949. 9. 7 ドイツ連邦共和国発足(9.15アデナウアー首相就任)
1951. 2.15 鉄鋼国有化される
1951.    保守党チャーチル政権発足
1953. 5.14 鉄鋼民営化法制定
1955. 4.  保守党イーデン政権発足
1956.10.31 英・仏軍エジプト攻撃、スエズ戦争開始
1957. 1.10 保守党マクミラン内閣成立
1963.10.  保守党ヒューム政権発足
1964.10.11 ポンド危機
1964.10.16 労働党ウィルソン政権発足
1967.11.18 ポンド切り下げ断行
1970. 6.19 保守党ヒース政権発足
1973. 1. 1 ECに正式加盟
1974. 2.  労働党ウィルソン政権発足
1976. 4. 5 労働党キャラハン政権発足
1979. 5. 4 保守党サッチャー政権発足
1982. 4. 2 フォークランド諸島にアルゼンチン軍上陸
1984. 3.12 全国の石炭労組ストに突入
1984.12.19 香港返還協定調印
1990.11.22 サッチャー辞任決意を表明
( 2003年1月6日 TANAKA1942b )
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ビスマルクからヒットラーへ  
突き進む強国への道
<ヴィルヘルム1世とビスマルク>  1871(明治4)年1月18日プロイセン王ヴィルヘルム1世の戴冠式が挙行され、ここにドイツ帝国の帝位に即いた。 19世紀ヨーロッパの国際秩序を維持する原理はイギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアの国際的均衡システムであり、国際政治はこの5大列強相互間のチェックとバランスによって安定を保っていた。その中でもヨーロッパの東西両端に位置するイギリスとロシアの影響力が大きかった。
 ビスマルクによるドイツ帝国の事業はウィーン会議以来安定していたヨーロッパの勢力均衡を覆す行動であり、軍事力を行使して実現したプロイセン中心による小ドイツ主義による国家統一であった。とりわけ、ビスマルクによる統一運動の成功は「ヨーロッパの外でロシアとイギリスが張り合っていた結果達成できたのであった。この両国が一致協力してドイツに対抗していたら、ビスマルクの偉業は不可能であったろう」と言われている。ドイツ帝国の成立とともに、おなじ頃同様に国家統一を完了し強国として処遇されることを期待するイタリア王国も出現し、ここにヨーロッパに新しい勢力均衡が誕生した。それは明治維新を達成し、日本が西洋諸国と付き合い始めた時期でもあった。
 ビスマルクは鉄血政策を推進し、普仏戦争の先勝に伴うアルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリング)のドイツ領編入など、従来のヨーロッパの勢力均衡を破壊したが、しかし、ビスマルクはかつてナポレオンがめざしたようなヨーロッパ制覇を目論んだのではなかった。統一後の帝国宰相ビスマルクは1871年に樹立された現状に満足していることを協調し、他国に脅威を与えるような振る舞いに出ることを慎んだのだった。
 しかし、そうしたビスマルクの政策も、列強の植民地主義的躍進に伴う海外進出競争が激烈さを加えるにおよび、その政策変更を迫られた。1890(明治23)年3月18日、ビスマルクが帝国宰相を辞任し、皇帝ヴィルヘルム2世の親政時代が始まったのは、その反映であった。ヴィルヘルム2世は露独再保障条約の更新を打ち切り、オーストリアとの関係を一層深めるという決断をした。さらに、世界政策の旗印を掲げ海外進出を積極化した。なかでも会場帝国イギリスをもっとも刺激したのは艦隊拡張であった。皇帝はティルピッツ海相の精力的な助力を得て、1898(明治31)年と1900(明治33)年に矢継ぎ早に艦隊法を制定し、海軍拡張を急いだ。
 こうしたドイツの政策は周辺国に大きな脅威感を与えた。なかでもイギリスは1898年、1899年、1901年の3回にわたり、ドイツとの同盟を期待して折衝したが、もっと有利な条件で締結出来るときまで静観するというドイツの態度に失望して対独同盟交渉を断念し、まず1902(明治35)年1月30日に英独同盟交渉の副産物というべき日英同盟を締結した。ついで日露戦争勃発直後の1904年4月8日に英仏協商が成立し、さらに日露戦争の終結とともにこれまでの英露対立が解消すると、1907年8月31日に英露協商が締結され、三国協商ができあがった。こうしてドイツは国際的孤立感を一層深めていった。そうした一方で、日本は日清戦争、日露戦争とで世界にその存在を示すと同時に、イギリスの良きパートナーとして軍事強国(植民地帝国主義国)への仲間入りを果たしていったのだった。
<ドイツの第一次大戦> ドイツのティルピッツの戦略は決して世界制覇を目指したものではなかったが、イギリスを先頭とする国々を刺激し、その包囲網の中に閉じ込められることになった。そこでドイツは同盟国オーストリアとの結束を重視したが、これがドイツの政策にとってその選択肢をますます狭めていくという悪循環におちいった。
 1914年6月28日、サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)でオーストリア・ハンガリーの皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビアの青年プリンチップに暗殺された。暗殺者はブローニング拳銃を手に持ち大公の車のタラップに乗りいきなり二発発射した。一発は大公に命中し、二発目は大公妃にあたり即死させた。オーストリアは7月28日にセルビアに宣戦を布告、ロシアは翌日、軍を動員した。ドイツは東部国境が危険にさらされることを恐れ、8月1日にロシアに宣戦布告し、さらに3日にはフランスとも戦端を開いた。イギリスは4日にドイツに宣戦布告し、日本は同盟国イギリスの側についた。しだいに多くの国々がまきこまれ、戦争は拡大し、史上最大の戦争が、3つの大陸で荒れ狂うことになった。 ドイツの政策は、モルトケ参謀総長の予防線総論(ロシア、フランスなどが戦力を充実させる前に叩いておこう、との戦略)だった。これがベートマン・ホルヴェーク帝国宰相やヤーゴ外相の対外政策の決定に影響を与えていた。こうした情勢でドイツは戦線を拡大していった。
 1918(大正7)年3月頃、大戦の最中にあったアメリカ軍の兵営で発生したのが、通称スペイン風邪と呼ばれるパンデミー(世界的規模でひろがる感染症)であった。 発生するとすぐに、西部戦線の両軍兵士の間で蔓延した。この風邪がインフルエンザであることは明らかだが、非常に症状が重かったことが特色で、全世界で2,000万人から6,000万人が死亡した。ちなみに当時の世界総人口は12億人にすぎない。アメリカでは約85万人が死亡した。わが国でのスペイン風邪の感染者は2,380万人で、当時の全人口の3分の1に達し、死者も38万人にのぼり、東京の火葬場では遺体を焼ききれないところも出たと言われている。
 第1次世界大戦は、11月11日、ドイツと連合国が休戦協定に調印して終結した。同盟国軍が崩壊したのは、400万人のアメリカ軍が新規に参入したためばかりではなかった。夏になると、戦場では両軍とも疲労の極に達し、物資もいちじるしく不足してきた。それでも連合国側は、ソ連が戦線を離脱したほかは団結しており国内も安定していた。同盟国側では、国内の対立が激しくなっていった。
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<その頃大日本帝国では> プロイセン王ヴィルヘルム1世の戴冠式が挙行され、ここにドイツ帝国の近代化が始まった。これが1871(明治4)年。日本が江戸時代の諸制度を改め、近代的西洋の諸制度を取り入れるのに懸命であった時期とほぼ同じ。 江戸時代鎖国をしていたのだが、明治維新をきっかけに近代化を始めたのはドイツとほぼ同じ。ではドイツが第一次世界大戦に向けて突き進んで行った時期、大日本帝国はどの道を進んで行ったのか?少し参考のために見てみよう。
1871(明治4)年4月20日に日本で初めての切手(竜切手) が発行された。5月10日には新貨幣制度が制定され1両が1円に改められた。7月14日には廃藩置県が行われ、藩による封建制が消滅。
1894(明治27)年7月25日、朝鮮半島の豊島沖で日本艦隊と清国の軍艦が交戦したのをきっかけに日清両国の戦闘が始まった。 8月1日、日本と清国は互いに宣戦を布告した。 この年12月にフランスではドレフェス事件が起きている。
1904(明治37)年2月4日、政府首脳が出席して御前会議が開かれ、ロシアとの交渉打ち切り、対露開戦を決定した。2月8日、日本、旅順港のロシア海軍基地を奇襲。2月10日にロシアに宣戦布告した。
1906(明治39)年に日本は、清の満州南部にある長春・旅順間の鉄道とその支線、付属地や炭鉱などの利権をロシアから譲り受けていた。 それにともない、6月に南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立の勅令が公布され、11月26日に設立された。満鉄の事業内容は、鉄道経営のほか、炭鉱、水運、電気などの関連事業に加えて、鉄道沿線付属地の行政と経営など多岐にわたった。そして、投資を拡大して、撫順炭鉱・鞍山製鉄所を拠点とする重化学工業化を図り、「富国強兵」と「自力更正」・「自給自足」政策を推し進めていった。
1910(明治43)年8月22日、韓国のと併合条約が結ばれた。条約調印後、統監府と韓国の政府諸機関を統合して朝鮮総督府が10月に創設された。その後35年にわたる植民地支配が続いた。
1914(大正3)年、第一次世界大戦が始まった年、日本ではこんな歌が流行っていた。
カチューシャの唄 ♪ カチューシャかわいや わかれのつらさ 。
朧月夜 ♪ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし 春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて におい淡し 。
故郷 ♪ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷 。
マックロ節 ♪ 箱根山 昔ゃ背で越す駕籠で越す 今じゃ夢の間 汽車で越す 煙でドンネルは マックロケノケ。
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<第三帝国時代の生活充実>第一次大戦後ドイツの政治体制は、ワイマール共和国から第三帝国へと大きく変わった。その変化に比べるとドイツ国民の生活の変化はそれほどドラスティックではなかった。 1929年からの世界大恐慌、ドイツもその影響は受けたがフランスなどに比べると第三帝国(ナチス・ドイツ)の復興は早かった。ヒトラー独裁の第三帝国では国民は自由を奪われ生活苦に喘ぎ、悲惨な生活をしていたかのように思われるが、国民の消費生活は着実に向上していた。少なくとも敗戦の色濃くなるまでは消費生活は充実していた。ここでは余り取り上げられない面に触れてみよう。「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」のスローガンの国とは違う。
[生活用品の充実] 第三帝国ではそれ以前のワイマール共和国時代よりも社会的に上層階級へ上昇できる可能性が大きかった。それが労働者へのインセンティブとして働き、労働者層は地位が安定し、昇進のチャンスにも恵まれ、失業がなくなり好景気がおとずれ、繁栄を喜ぶ空気が上下にみなぎっていた。ドイツを取り巻く政情不安とは無関係のように国民の消費生活は充実していた。ラジオ、カメラからすでにテレビ放送もあり(1935年テレビ放送開始)、台所用品、化粧品などの新製品購入に熱中した。 
[フォルクスワーゲン] ポルシェ博士設計のカブトムシ、フォルクスワーゲンはナチスが1940年に10万台以上を市場に売り出す、と約束した。その結果1940年11月までに30万人の購入希望者が現れて、購入のための積み立て証書を手に入れた。フォルクスワーゲン工場の起工式は1938年5月に行われた。この車の見本車はミュンヘンとウィーンで秋の展示会に展示されたあとで、縦隊を組んで多くの大都市をねりまわった。この時代にドイツの自動車保有者はイギリスよりも急速に増加し、自動車による田園へのピクニックは当時もっとも好まれた休日の楽しみ方であった。
[持ち家政策] ヒトラーが力を入れたのは各人に独立の家屋をもたせる政策で、集団住宅の建設と平行して個人の持ち家建築が奨励された。1万マルクから2万4000マルク、比較的若いサラリーマンの2-3年間の収入で割安に建てられる建築プランが建築雑誌で宣伝された。
[余暇利用] 若い労働者はヒトラー・ユーゲントによる余暇利用の機会を利用した。多くの若者は、この機会に生まれて始めての休暇旅行を楽しんだ。それは故郷から離れた地域でのテント生活が多かった。ヒトラー・ユーゲントによる集団生活は、若者たちの伝統的権威からの脱出のチャンスで、かれらは教師や牧師や父母の監督から抜け出して生活を楽しんだ。
[コカコーラ] 1929年にエッセンにドイツのコカコーラ工場が建築されて、軍需景気のなかで売れ行きが爆発的に増大した。その瓶詰め工場は1934年にドイツ国内で5、1939年には50に達した。戦後の西ドイツでは1979年に105であった。コカコーラの卸売商会は1934年に120、1939年には2,000と増大している。
( 2003年2月10日 TANAKA1942b )
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社会的市場経済という経済思想  
エアハルトの経済政策
<第三帝国の崩壊>  1945年5月8日にドイツ国防軍がベルリンで無条件降伏に関する文書に調印したとき、ドイツ国土の荒廃と混乱は極限に達していた。4月30日にベルリンで自殺する直前、ヒトラーが後継者に指名したのは海軍提督デーニッツであった。デーニッツは、蔵相クロージックに実務的な内閣を組織させようと考えたが、そのデーニッツも5月23日に英軍の一戦車旅団長によって逮捕されてしまう。チャーチルが8月16日にイギリス下院で述べたように、「頭のないドイツが征服者の手中に帰した」のであった。そして、6月5日にはベルリンで、米英仏ソ4国がドイツを直接統治する旨の宣言が発表された。
 ドイツ国土の荒廃ぶりはすさまじかった。4月に病死したアメリカ大統領ローズヴェルトの側近であったポプキンズは、5月末にベルリンの廃墟を視察して、「これは第2のカルタゴだ」と、古代ローマの将軍小スキピオばりの感想をもらした。当時のドイツをおおっていたコンクリートの残骸は4億立方メートルと見積もられた。ライン川にかかっていた22の鉄橋はすべて破壊されていた。5月9日にベルリン入りをしたソ連の政治家ミコヤンは、破壊された家や地下室や防空壕に住んでいるドイツ人は、照明も水も下水も、そして食糧もなしに暮らしており、至るところで赤軍兵士にパンを求めてつきまとっている、と「プラウダ」紙上で報告している。
 荒廃した国土のなかへ、ポーランド、チェコスロバキアおよびハンガリーから追放されたおびただしい数のドイツ人が流れ込んできた。ポツダム宣言は、米英ソの3国政府が、東欧3国からのドイツへの移送が秩序をもってかつ人道的に行われなければならない、ということで意見が一致している、と述べた。しかし、これは、すでに以前から開始されていた、無秩序で、人道的とはいえないドイツ人の東ヨーロッパ諸国からの駆逐について、表面を美化して述べたものにすぎない。ドイツ人追い立ては、以上の3国だけでなく、ユーゴスラヴィアにおいても、パルチザンによって実行されていたが、特に問題となるのは、ポーランドとドイツとの旧国境と、オーデル、西ナイセの2つの川とのあいだの旧ドイツ領からのドイツ人追い立てであった。ポツダム会談で、スターリンはいまやポーランドによって占領されている、この地域に住んでいたドイツ人は、退却するドイツ軍について西へ逃げてしまった、と主張した。 しかし、実際には、強制的な追放が行われていた。こうして、1,300万人に及ぶ難民が、オーデル=ナイセ線以西のドイツに溢れかえった。作家のユンガーは、5月9日、「今もなお何百万人という彷徨える人々、すなわち、想像もできない民族大移動の悲惨さによって、街路はあふれている」と、自分の日記に書き留めている。
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<社会的市場経済体制という理念> 1990年7月1日に発効された「両ドイツ通貨・経済・社会同盟創設に関する国家条約」は、この条約の基礎を「双方に共通の経済秩序としての社会的市場経済である」と明記している。すなわち、旧西ドイツが建国以来、一貫して標榜してきた「社会的市場経済」(soziale Marktwirtscaft, social marketeconomy)と呼ばれる独特の経済体制だ。これはアメリカのような自由経済ではなく、かといって仏・英ほどの社会主義でもない、そんな経済体制。
 終戦直後の西ドイツでは「政府主導の計画的」な経済体制を描く意見が多かった。フランスもイギリスも今考えれば社会主義と思えるほどの計画経済を、保守系の政治家でも考えていた。当然ドイツでも計画経済を政策とする政党が多かった。SPD(社会民主党)もCDU(キリスト教民主同盟)も、労働組合も政府による経済の計画的な誘導と、基幹産業の国家管理を提案した。これに対して生産手段の私有制を堅持し、企業の自由な活動を保障する経済秩序を主張したのはFDP(自由民主党)のみであった。このようなときに国家の介入と誘導とをできるだけ少なくした経済秩序を目指し、実行したのがエアハルトであった。CDUに属していて、アデナウアー政権で経済相となったエアハルトと、その片腕となったミュラー=アルマックは、第2次大戦前からオイケンの率いる、いわゆる「フライブルク学派」の系統をひく理論家であった。ミュラー=アルマックが名付けた、「社会的市場経済」はその後の西ドイツの経済体制として長く続く事になった。
<福祉国家に対するエアハルトの考え>経済学者レプケ教授の強い影響を受けた西ドイツのエアハルト首相はその著書「社会市場経済の勝利」のなかで福祉に対して次のように書いている。イギリスの「揺りかごから墓場まで」の福祉政策とは違う。「私の生活は私が責任を持つ」という自己責任の確立だ。
 扶養福祉国家に向かうこの盲目さと知的怠惰とは、われわれに災厄をもたらすだけである。こうした欲求は他のなにものにも増して、真の人間的徳行、すなわち責任感、隣人愛、自己主張熱、自己扶養の用意等々多くの善きものを徐々に死滅させるに適している。そして究極においてはおそらく階級なき社会ではなく、魂のない機械化された社会が生まれることになろう。・・・・・・・・ 私がえがいている理想は、個々人が次のように言えるその強さにある。「私は自分を自力で維持したい。私は生活の危険を自分で負担し、私の運命について自分で責任を持ちたい。国家は私がそのようにできるよう配慮してほしい」。その声は「国家よ助けてほしい。保護し、援助せよ」というのであってはならない。その反対に、「国家よ、私のことはかまわないでもらいたい。そうではなくて、私が私と私の家族の生存、運命を自分で担うことができるだけの自由を私に与え、私の労働の成果からそれだけのものを私に残してほしい」というのであるべきである。 (L・エアハルト著「社会市場経済の勝利」原題 LUDWIG ERHARD= WOHLSTAND FÜR ALLE 「万人のための繁栄」 菅良訳 時事通信社 1960年2月10日 から引用)
<石炭・鉄鋼・自動車・家電>フランス、イギリスとは違い、「社会的市場経済」と呼ばれる「非社会主義」経済体制を進めた西ドイツ、しかしそれでも戦後の日本に比べると「社会主義的」であった。「鉄は国家である」に代表されるように、戦後先進諸国は鉄と石炭の生産を重点政策とした。日本では1947年初めから石炭、鉄鋼への資材・資金・労働力の傾斜的配分が強化された。1947年度には3,000万トンの石炭確保が至上命令とされ、炭坑労働者には6合、その家族には3合のお米が配給され、NHKは木曜日午後8時からの今でいうゴールデンアワーに「炭坑に送る夕」を放送した。しかしそれでも石炭産業も、鉄鋼産業も民間企業であった。そして鉄鋼では西山弥太郎や住友金属の日向芳斉のように官に逆らう経営者がいた。ドイツでは──ジャン・モネの考えによるシューマン・プランによる、フランス、ドイツを中心にイタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの6ヶ国が参加する、石炭・鉄鋼の共同管理体制として「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)が機能していた。 そしてその資金はアメリカのマーシャル・プランに頼っていた。「非社会主義経済体制」と言っても石炭・鉄鋼はアメリカとヨーロッパ諸国との共同事業であった。「官に逆らう経営者」が出る機会はなかった。
 石炭・鉄鋼に続く経済成長を引っ張る主要産業は自動車産業であった。別表の通りドイツ自動車産業は著しい成長を見せた。しかしドイツ自動車産業は日本と違って企業間の競争がカルテル的、談合的であった。日本ではクラウン⇔セドリック、コロナ⇔ブルーバード、カローラ⇔サニーのトヨタ・日産を中心にその他各社が競い合っていた。それに比べてドイツでは、ベンツ、ポルシェ、BMW、オペル、VWはそれぞれ競合車種を持たず、市場を棲み分けていた。「共生」という表現がいいのか、カルテル的、談合的と言うべきか、少なくとも競争的マーケットではなかった。ドイツ経済を理解するには「カルテル」がキーワードになるようだ。フォルクスワーゲン社は戦後再建時その株の20%を連邦政府、20%を地方政府が出資した。日本の自動車業界とは違っていた。
 市場を棲み分け、同業他社との競争を避けていれば経営は安定かのように思えるが、業界全体の技術革新が遅れる危険性もある。ドイツの家電業がこれにあたる。「トランジスタ技術を導入して補聴器でも作るつもりですか?」と言われながら導入した技術、「トランジスタのセールスマン」と総理大臣が揶揄されながらも、半導体生産技術は日本が世界のトップを走っている。
 ドイツの電機産業と言えばジーメンス。ヨーロッパ企業の売り上げでは、(1)ロイヤル・ダッチ・シェル、(2)ブリティッシュ・ペトロリューム、(3)ダイムラー・ベンツ、(4)フォルクスワーゲン、(5)ユニレバー、(6)ジーメンス、の順になる。 しかしこのジーメンス、OECD報告にみられるようにマイクロ・エレクトロニクス(ME)技術革新の立ち後れが問題になっている。東ドイツ、東ヨーロッパ、共産圏との前線基地国として政府、西ヨーロッパ諸国、アメリカなどの意向に企業は逆らうことが出来なかった。それが長く続き保守的な経営になり、デジタルICの重要性を過小評価し、機械工学に対する固執と過大評価の企業行動をとった。こうして1970年代前半にLSI-超LSI世代の開発に立ち遅れ、技術開発力の停滞が半ば構造化する。現在ジーメンスは高速化・大容量化がいっそう進むDRAMの自力開発が困難であり、しかも半導体売上高が国際競争に耐えうる臨界点にあるとさえ言われている。戦前からの伝統ある企業も時代の変化を感じ取る経営者が現れないと、新規参入のベンチャー企業・モルモット企業の後塵を拝することになる。 この業界についても、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
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<1938-1980年の乗用車生産台数>
年\国 アメリカ ドイツ フランス イギリス 日本 イタリア
1938 2,000,985 276,592 189,691 341,028 8,500 58,966
1950 6,665,863 214,489 257,292 522,515 2,296 101,310
1960 6,703,108 1,816,779 1,175,301 1,352,728 165,094 595,923
1970 6,550,150 3,375,822 2,225,699 1,650,000 3,130,000 1,696,120
1979 8,485,826 3,930,154 3,162,276 1,029,036 6,288,330 1,559,146
1980 6,428,310 3,533,153 2,879,566 936,948 7,040,000 1,580,941

<自動車産業の生産性>    労働者1人当たり(1年間)の生産台数
国 \ 年 1950年 1955年 1959年 1965年 1973年
イギリス 3.3 4.2 5.2 5.8 5.1
フランス 3.2 3.6 5.7 5.8 5.1
西ドイツ 2.2 3.9 5.6 7.1 7.3
イタリア    3.0    7.4 6.8
アメリカ 10.0 11.1 10.3 13.9 14.9
日本    1.2    4.4 12.2
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<西ドイツ経済略年表>
1945. 5. 8 ドイツ無条件降伏
1945. 7.17 ポツダム会議(〜8.2)
1947. 6. 5 マーシャル・プラン発表
1948. 6.20 西側占領区で通貨改革
1948. 6.24 ベルリン封鎖開始
1949. 4. 4 北大西洋条約機構(NATO)成立
1949. 5.10 西独議会評議会、ボンを暫定首都に定める
1949. 9.15 西独、アデナウアー、初代首相に選出(CDU/CSU,FDP)
1949.10. 1 東独、ドイツ民主共和国憲法発布。グローテヴォール初代首相に
1950. 5. 9 シューマン・プラン発表
1950. 6.25 朝鮮戦争勃発(〜1953.7.27)
1951. 4.18 ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体条約に調印
1952. 8. 2 IMFに加盟
1953. 6.17 東ベルリンでの民衆暴動が各地に波及
1955. 5. 5 パリ条約発効。西独、主権獲得、西欧同盟とNATOに加盟し、占領状態が終結
1958. 1. 1 ローマ条約発効、ヨーロッパ経済共同体・原子力共同体成立
1961. 8.13 東独、ベルリンの壁建設開始
1963.10.16 エアハルト内閣成立(CDU/CSU,FDP)
1966.12. 1 キージンガー大連立政権成立(CDU/CSU,SPD)
1967. 6.14 西独、SPDのシラーらによるケインズ主義的な「経済安定成長法」発効
1967. 7. 1 ヨーロッパ共同体(EC)結成、西独も参加
1968. 4.11 西独、学生運動指導者ドゥチュケ暗殺未遂事件
1968. 8.20 東独軍、ワルシャワ条約機構軍として「プラハの春」に介入
1969.10.22 ブラントの社会・自由連立政権発足(SPD.FDP)。東側との関係改善を目指す「東方政策」始まる
1969.10.24 西独、マルク8.5%切り上げ
1970.12. 8 西独、外国人労働者が200万人を突破
1971. 3. 2 西独、外国人労働者のための労働許可証制度導入
1971. 8.10 米大統領ニクソン、ドルと金との交換を停止
1971.10.20 ブラント西独首相がノーベル平和賞受賞
1972. 8.26 ミュンヘン・オリンピック開幕
1973. 3.19 西独、マルク3%切り上げ
1973. 6.29 西独、マルクの他の欧州通貨に対し5.5%の切り上げ(61年以降5回目の切り上げ)
1973. 9.18 両独国連同時加盟
1974. 5.17 シュミット連立政権(SPD.FDP)誕生
1978. 1.19 フォルクスワーゲン社のかぶとむし生産終了
1982.10. 1 コール政権成立(CDU/CSU.FDP)
1989.11. 9 ベルリンの壁開放、東独国民の国外移住自由化
1990.10. 3 ドイツ統一
1993. 1. 1 ヨーロッパ域内市場統合
1993.11. 1 マーストリヒト条約発効 
1998. 9.27 SPD.緑の党によるシュレーダー政権誕生
( 2003年2月17日 TANAKA1942b )
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日本株式会社と社会主義経済=仏・英・独  
社会主義信仰は生きている
<仏=人民戦線、コアビタシオン>  フランス経済を特徴づけるキーワードは、戦前の「人民戦線=フロン・ポピュレール (Front populaire)」と戦後の「保革共存=コアビタシオン (cohabitation)」、それに加えて「社会参加=アンガージュマン(engagement)」。1936年フランスで社会党と共産党が共同戦線を組んだことによりレオン・ブルム政権が誕生した。国民の期待は大きかった。失敗は経済政策にあった。早い時期に、大胆な平価切り下げが行われていたら人民戦線内閣の寿命はもっと延びたに違いない。 戦後のフランス社会のキーワードは「社会参加=アンガージュマン(engagement)」(これは契約、約束、関与の意味で、政治的態度表明に基づく社会参加の意味として、サルトルが好んで使った左翼用語)。「政・官・業のトライアングル」はいい意味では使われない。しかし政・官・業は専門家ではある。「アンガージュマン」は作家・芸術家などの社会問題に対する発言、そして社会参加、具体的にはデモも含めた参加を意図している。つまり芸術家が社会・政治。経済の問題を評論し、世論に訴えて政治を動かしていくのがフランスだった。 レオン・ブルム政権の、平価切り下げの遅れから不況脱出の遅れに繋がり有権者の支持を失った、このような素人政治が戦後も続いたのだと見ることも出来る。
 そして現代フランスの政治を特徴づけるキーワードは「保革共存=コアビタシオン (cohabitation)」。 1986年3月の総選挙の結果、保守派が勝利し、社会党ミッテラン大統領と保守系のシラク内閣成立(1988−88年)。ミッテランとバラデュール首相(保)とのコンビ(93−95年)。これを「第一次コアビタシオン」と呼ぶ。さらに シラク大統領と左翼連合のジョスパン内閣という保革コアビタシオン政権が、1997年6月に成立した。これを「第2次コアビタシオン」と呼ぶ。
 赤い30年代から、フランスの有権者は社会主義と資本主義を比べながら、その時に応じてどちらかを選んでいた。戦後復興政策は社会主義であったし、今でも社会主義経済政策を選ぶ可能性はある。現に農業政策では社会主義政策が行われている。この社会主義政策についてはいずれテーマを定めて取り上げるつもりです。
<英=揺りかごから墓場まで> イギリス経済を特徴づけるキーワードは「揺りかごから墓場まで (From a cradle to a graveyard)」の福祉政策。 完全雇用達成のための福祉政策=ベヴァリッジ・プラン(Beveridge Plan)は完全雇用を目指し、イギリスの失業率は1960年代に1〜2%台、73年時点でもまだ2.2%の低水準であった。イギリスの社会主義的福祉政策もこの点に関しては大成功であった。しかしそれは同時に「イギリス病」の原因にもなっていた。 これに対して1979年に登場したマーガレット・サッチャーはイギリスの福祉政策を変えた。それはエアハルトの「国家は私に、自分の運命を自分で担うことができるだけの自由を与えてほしい」との考え、「社会的市場経済」の考えと同じになった。そしてサッチャーの政策はエアハルトのそれよりもずっと自由主義であった。
 そのイギリスで現在はベヴァリッジ・プランを採用した労働党が政権を担っている。サッチャーによってイギリス病を克服したイギリスで、その後有権者は労働党政権を誕生させた。イギリスでの社会主義信奉はいまだに大きなものだ。
<独=社会的市場経済> ドイツ経済を特徴づけるキーワードは「社会的市場経済 (Soziale Marktwirtschaf)」。
 戦後のドイツは奇跡的とも言われる経済成長を遂げた。それはエアハルトの「社会的市場経済」の政策によるものだった。そのドイツで社会民主党は支持を失っていない。ドイツがEUの主導権を取るほどの復興したにも拘わらず、「政府主導の計画的」な経済体制を描く社会民主党が政権をとっている。ドイツの有権者の社会主義信奉は日本とは比べものにならない位強い、と言えるようだ。

 ドイツの政権

 49〜57年 CDU/CSUとFDP(アデナウアー首相(CDU))
 57〜61年 CDU/CSUとドイツ党(アデナウアー首相(CDU))
 61〜66年 CDU/CSUとFDP(アデナウアー首相(CDU)/エアハルト首相(CDU))
 66〜69年 CDU/CSUとSPDの大連立(キージンガー首相(CDU))
 69〜82年 SPDとFDP(ブラント首相(SPD)/シュミット首相(SPD))
 82〜98年 CDU/CSUとFDP(コール首相(CDU))
 98〜現在 SPDと緑の党(シュレーダー首相(SPD))
<日=官に逆らった経営者たち> 日本経済を特徴づけるキーワードは「官に逆らった経営者たち」の存在。それは「日本株式会社」や「政・官・業のトライアングル」よりも日本経済を動かしたと言える。
 いまや世界一の黒字大国・債権大国にのしあがった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活実感は乏しい。それどころか海外から閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか?──その答えは、「日本株式会社」とよばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する。そうした経済構造事態を問い直し、改革する事が、もはや国民的合意となっている。
 昭和の時代を通して官民総ぐるみで協調して形成された日本型経済システムが、東西の冷戦終結と55年体制の崩壊という内外の激動を受けて、その大手術に向け動きはじめたのである。これは日本経済の根底に関わり、痛みも伴う巨大なリストラ(再構築)を意味する。

 こうした「自虐的な感想が読者を引きつける」と考えるマスコミの姿勢も日本的と言えるだろう。戦後東京のあちこちに闇市が立ち、小学校では給食の脱脂粉乳と肝油ドロップと鯨の肉で栄養を取った。しばらく後に「あげパン」が人気になった。近所には21世紀のホームレスの宿よりちょっといい程度の住宅=バラックがいっぱいあった。若い人には想像もつかない貧しい生活だった。それでも著者は「世界一の黒字大国・債権大国にのしあがった日本。そのような生活実感は乏しい」と言う。 「閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国」と言われたら反論すればいい。「日本が貿易黒字ということは、資本収支が赤字。つまり日本は諸外国に投資しているのです。日本からの投資は迷惑なのですか?」と。経済問題・経済学に関心ある人ならこのように反論すればいい。そう「経済史の教訓」を学ぶべきなのだ。
 それでもこのように自虐的な感想を書いたり、民主的に選んだ政府を批判するのが「正義」と考えているマスコミの姿勢こそが「日本的」と言うべきだろう。
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<なぜ「日本株式会社」が不況なのか?>戦後復興政策、フランス、イギリス、ドイツと見てきた。日本の戦後復興政策はこれらの国々に比べれば「自由主義経済」だった。北欧諸国や東欧諸国も見ればさらに「自由主義経済国日本」が見えてくる。それが見えないのは「視野狭窄」と言うべきであろう。政府がマネーゲームのレフェリーとしてだけでなく、プレーヤーとして登場してくると競争的市場から共生的(談合的)市場になる。比較的政府の関与が少なかったのが日本。建前は「社会的市場経済」と称していたが、実際は結構政府の関与が多くマーケットを棲み分けて共生的(談合的)だったのがドイツ。さらにソ連とは違う社会主義を目指したのがフランス、イギリス。そしてこの順序が経済成長率の順序でもあった。つまり比較的民間企業主体で政府の関与が少なかった日本が成長率でトップ。ついで社会的市場経済を目指しながらも周辺諸国、東西冷戦、企業のカルテル的体質などで日本ほどは競争的市場でなかったドイツが日本に続く。フランス、イギリスは工業国としては日本、ドイツに抜かれることになった。
 戦後日本経済は驚異的な成長を遂げた。(1)戦時中の国家統制がなくなり、国家社会主義から普通の資本主義に近づいたこと。(2)パージにより若い経営者が誕生し、過去に捕らわれない大胆な経営を行ったこと。(3)戦争の被害を大きく受けた国の中では、最も政府の関与が少なかったこと。
 こうして高度成長を遂げた日本がデフレ・スパイラルに悩んでいる。何故だろう?「制度疲労だ」と言う人もいる。では何故制度疲労なのか?説得力がない。こういう事なのだろうと思う。戦後復興期、日本は民間企業主体で成長を遂げた。そのリーダーは石炭・鉄鋼・自動車であった。さらに繊維・造船・石油化学も牽引者であった。製造業がリーダーであった時代日本はトップを走っていた。産業構造が変化して第3次産業が成長のリーダーになってくると日本の出番が少なくなった。「イギリス病」とまで言われた国も、サッチャーの改革によって金融業は生き返った。護送船団方式をとっていた日本の金融業界は共生的(談合的)体質のため、成長のリーダーにはなれず、むしろ足を引っ張っている。銀行と証券の壁、デリバティブ、などで規制が競争を制限している。リテール部門より利益率の高い部門へ特化しないと足を引っ張っている不良債権を処理するにも時間がかかることになる。子育てに喩えるとこうなる。かわいい子供、大切に大切に育てて、世間の冷たい風に当てないようにと過剰な保護をしてきた。その結果大人の自己責任が尊重される社会で、一人前の責任を取ることが出来ず、 ノイローゼになっている状態と思えばいい。こういう言い方もできる。「先に豊かになれる業界から豊かになる。その他の業界は少し遅れて豊かになる」しかし、先に豊かになれる「金融業界」が豊かにならなければ、後に続く業界は前が詰まって先に進ことができない。これが日本経済の現状なのだと思う。
<社会主義信仰は生きている> 「日本株式会社」という表現に疑問を持って始めた「官に逆らった経営者」。その原稿作成中に「ヨーロッパはどうだったのか?」と思い調べ始めた結果が「戦後復興政策 ヨーロッパ西も東も社会主義」になった。ソ連・東欧の社会主義とは違って、「暴力革命」「プロレタリア独裁」は否定するが、目指すところは「農業・基幹産業の国家管理」「労働組合の経営参加」「働く意欲をなくすほど完璧な社会保障」となると、これはもう立派な「社会主義」。「福祉国家」「民主社会主義」「混合経済」などという曖昧な表現では不適当。その戦後復興政策がある程度の成果をあげ豊かになった現在、再び社会主義信仰が息を吹き返している。 最後にこのシリーズをまとめるとこうなる。
「戦後復興政策 ヨーロッパ 西も東も社会主義」であった。そうして現在でも「社会主義信仰は生きている」
( 2003年2月24日 TANAKA1942b )