ヨーロッパ 西も東も社会主義
戦後復興政策
ヨーロッパ 西も東も社会主義
▲ 妖怪が闊歩していたヨーロッパ 赤い30年代への序章 ( 2002年10月28日)
▲ コミュニスト・ファシスト・アナーキスト 混迷を極める政治情勢 ( 2002年11月4日)
▲ 人民戦線内閣の実験 興味をそそられるこの時代 ( 2002年11月11日)
▲ モネ・プランの実験 産業国有化政策 ( 2002年11月18日)
▲ 不確定性原理を社会現象に応用 北朝鮮でのインタビューを考える ( 2002年11月25日)
▲ 社会党ミッテラン大統領の登場 「大きな政府」の実験 ( 2002年12月2日)
▲ コアビタシオンの時代 シラク内閣成立 ( 2002年12月9日)
▲ ラスキの30年代 世界に広がる「地産地消」政策 ( 2002年12月16日)
▲ ゆりかごから墓場まで 雇用維持と通貨管理の選択 ( 2002年12月23日)
▲ イギリスでの産業国有化 二大政党間でもてあそばれる企業 ( 2002年12月30日)
▲ 社会主義よ、さようなら 労組の横暴が労働党の所得政策を破綻させた ( 2003年1月6日)
▲ ビスマルクからヒットラーへ 突き進む強国への道 ( 2003年2月10日)
▲ 社会的市場経済という経済思想 エアハルトの経済政策 ( 2003年2月17日)
▲ 日本株式会社と社会主義国=仏・英・独 社会主義信仰は生きている ( 2003年2月24日)
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趣味の経済学
アマチュアエコノミストのすすめ
Index
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2%インフレ目標政策失敗への途
量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
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FX、お客が損すりゃ業者は儲かる
仕組みの解明と適切な後始末を
(2011年11月1日)
妖怪が闊歩していたヨーロッパ
赤い30年代への序章
<「共産党宣言」 万国の労働者よ 団結せよ!>
一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している──共産主義という名の妖怪が。およそ古いヨーロッパのすべての権力が、この妖怪を祓い清めるという神聖な目的のために同盟を結んでいる。法皇とツァーリとが、メッテルニヒとギゾーとが、フランス急進派とドイツ官憲とが。
権力を握っている政敵から共産主義だと罵られなかった野党がどこにあるだろうか?野党にしても、より進歩的な反対派に対して、あるいは反動的な政権に対して、共産主義の烙印を押し、非難を投げ返さなかった野党がどこにあるだろうか?
この事実から2つのことが言える。
T 共産主義は、すでにヨーロッパの権力によって、1つの力として認められている、ということ。
U いまこそ、共産主義は、その考え方、その目的、その意向を全世界の前に公表し、共産主義の妖怪という迷信に党みずからの宣言を明示すべき時だ、ということが。
この目的のために、さまざまの国籍の共産主義者がロンドンに集まって、次の宣言を起草した。これは、英語、フランス語、ドイツ語、イタリー語、フランドル語、およびデンマーク語で発表される。
<社会正義に対する情熱は失っていませんか>
以前にこの文章を何度も読んだ人、60年安保当時国会前で朝まで座り込みをした人、大学を150日もロック・アウトさせた経験のある人、お茶の水駅周辺をカルチエ・ラタンに見立てて機動隊の催涙ガスに涙を流した人、新宿騒乱事件のとき駅周辺で歩道のガラ・煉瓦を持って逃げ回った人。正義感に燃えて行動していたあの頃、社会の変化に自己主張した人、少なくとも傍観者ではなかった人。今はどうしてますか?法人資本主義の資本の論理に従って、弱肉強食のマネーゲームのプレーヤーとして企業戦士振りを発揮していますか?社会の不正義に怒りをおぼえなくなったのですか?ソ連が崩壊したので社会主義はサヨナラですか?それでもアメリカ型市場経済は弱肉強食、日本型資本主義には合わないと思っていたり……。それならもう一度踏み込んで読んでみませんか?「共産党宣言」を。中途半端な「隠れコミュニスト」から脱却しましょうよ。筋金入りのコミュニストへ……。あるいは「転向」するのもヨシ……。声を出して読んでみましょう。
声に出して読みたい日本語、英語、ドイツ語、ロシア語。「共産党宣言」を。
ご安心ください。日本にはまだまだ「隠れコミュニスト」が大勢いますよ。
"The Communist Manifesto" を
"Manifest der Kommunistischen Partei" を
"МАНИФЕСТ КОММУНИСТИЧЕСКОЙ ПАРТИИ" を
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The Communist Manifesto
Workers of all countries, unite !
A spectre is haunting Europe ─ the spectre of communism. All the powers of old Europe have
entered into a holy alliance to exorcise this spectre: Pope and Tsar, Metternich
and Guizot, French Radicals and German police-spies.
Where is the party in opposition that has not been decried as communistic by its opponents in power ?
Where is the opposition that has not hurled back the branding reproach of
communism, against the more advanced opposition parties, as well as against its
reactionary adversaries?
Two things result from this fact:
I. Communism is already acknowledged by all European powers to be itself a power.
II. It is high time that Communists should openly, in the face of the whole world,
publish their views, their aims, their tendencies, and meet this nursery tale of
the spectre of communism with a manifesto of the party itself.
To this end, Communists of various nationalities have assembled in London and sketched the
following manifesto, to be published in the English, French, German, Italian,
Flemish and Danish languages.
Manifest der Kommunistischen Partei
Proletarier aller Lander, vereinigt euch !
Ein Gespenst geht um in Europa ─ das Gespenst des Kommunismus. Alle Mächte des alten Europa haben
sich zu einer heiligen Hetzjagd gegen dies Gespenst verbündet, der Papst und der
Zar, Metternich und Guizot, französische Radikale und deutsche Polizisten.
Wo ist die Oppositionspartei, die nicht von ihren regierenden Gegnern als
kommunistisch verschrien worden wäre, wo die Oppositionspartei, die den
fortgeschritteneren Oppositionsleuten sowohl wie ihren reaktionären Gegnern den
brandmarkenden Vorwurf des Kommunismus nicht zurückgeschleudert hätte ?
Zweierlei geht aus dieser Tatsache hervor.
Der Kommunismus wird bereits von allen europäischen Mächten als eine Macht anerkannt.
Es ist hohe Zeit, daß die Kommunisten ihre Anschauungsweise, ihre Zwecke,
ihre Tendenzen vor der ganzen Welt offen darlegen und dem Märchen vom Gespenst des Kommunismus ein
Manifest der Partei selbst entgegenstellen.
Zu diesem Zweck haben sich Kommunisten der verschiedensten Nationalität in London versammelt und das folgende Manifest entworfen,
das in englischer, französischer, deutscher,
italienischer, flämischer und dänischer Sprache veröffentlicht wird.
アイン ゲシュペンシュトゥ ゲート ウム イン オイローパ ダス ゲシュペンシュトゥ デス コミュニスムス。
アッレ メヒテ デス アルテン オイローパ ハーベン ジッヒ ツウ アイネル ハイリゲン ヘッツヤーグ ゲーゲン ディース ゲシュペンシュトゥ
フェルビュンデットゥ、デル パプストゥ ウントゥ デル ツァール、メッテルニッヒ ウントゥ ギゾー、フランツィェージッシェ ラディカーレ ウントゥ ドイッチェ ポリツィシュテン………
МАНИФЕСТ КОММУНИСТИЧЕСКОЙ ПАРТИИ
ПРОЛЕТАРИИ ВСЕХ СТРАН, СОЕДИНЯЙТЕСЬ !
Призрак бродит по Европе ─ призрак коммунизма. Все силы старой Европы объединились для
священной травли этого призрака: папа и царь, Меттерних и Гизо, французские
радикалы и немецкие полицейские.
Где та оппозиционная партия, которую ее противники, стоящие у власти, не ославили бы коммунистической? Где та
оппозиционная партия, которая в свою очередь не бросала бы клеймящего обвинения
в коммунизме как более передовым представителям оппозиции, так и своим
реакционным противникам ?
Два вывода вытекают из этого факта.
Коммунизм признается уже силой всеми европейскими силами.
Пора уже коммунистам перед
всем миром открыто изложить свои взгляды, свои цели, свои стремления и сказкам о
призраке коммунизма противопоставить манифест самой партии.
С этой целью в
Лондоне собрались коммунисты самых различных национальностей и составили
следующий "Манифест", который публикуется на английском, французском, немецком,
итальянском, фламандском и датском языках.
プリズラーク ブラジートゥ パ エフローペ。プリズラーク コミュニズマ。
プショウ シーリ スタロイ エフローピ オブエディニリシ ドゥリャー スビャーツェノイ トゥラブリ イェターガ プリズラーカ。
パパ イ ツァーリ、メッテルニッヒ イ ギゾー、フランツーズスキエ ラディカーリ イ ニェメッツキエ ポリツェイスキエ………
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<30年代に形作られた「妖怪への憧れ」>
ヨーロッパの戦後復興政策を振り返るとき、大戦間の政治経済の動きを無視すると理解出来ない。このシリーズ、まず大戦間の出来事、「赤い30年代」から話を始めることにしよう。
一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊していた1848年、100年近く後に妖怪がマス・インテリの憧れの対象として、ヨーロッパを闊歩していた。「共産主義国ソ連が誕生し、共産主義が現実のものとなった。一方資本主義国家はマルクスの予言通り大恐慌になった。武力革命を経ずに社会主義実現の可能性はないか?こうした情勢の中で、フランスでは人民戦線内閣が誕生する。
しかしこれに反対の勢力もある。ドイツでヒットラー政権が誕生すると、共産主義に対する勢力としたファシズムを認めようとする。これと反対にファシズムに対する勢力として共産主義を考えようとの動きも生まれる。こうしたからみもあって、フランス・イギリス政府はファシズムに対する態度が曖昧になり、スペインでフランコの勝利を許す事になる。悪の枢軸を力で押さえ込むことができない。第一次大戦の反省から、恒久的な平和を築くために国際連盟が創設されるが提唱国のアメリカは参加しない。それどころかモンロー主義をとってヨーロッパへの不干渉政策をとった。イギリスはブロック経済圏を作り保護貿易=自給自足政策を進め、これが世界不況を一層立ち直り困難なものにした。
こうした情勢を横目で見ながら後発植民地主義国=大日本帝国は自給自足を安定させるため、大東亜共栄圏との名目で自給自足の地域を広げること=植民地拡大を進めていた。こうした政治・経済の不安な時代に文化の面では多くの動きがあった。ドイツではバウハウスを拠点にノイエ・ザッハリッヒカイト(Neue Sachlichkeit)(機能的なものは美しい)、三文オペラなどのドイツ・ミュージカル、フランスでは、シュルレアリスム(Surréalisme 超現実主義)が生まれる。
ソ連へ行き、その宣伝係になった文化人、スペイン市民戦争に参加したG・オーウェルなどの文化人。フランコ批判をバネに活動するピカソ、カザルス。1930年代は燃えていた。
赤く燃えた1930年代。この時代をより深く理解するには、こちら側も赤く燃えるといい。かつて燃えた人たち、もう一度赤く燃えて30年代を検証してみよう。視野狭窄にならないために、主な出来事の年表から。そして次週から「赤い30年代」振り返って見ることにします。ご期待下さい。
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<大戦間の出来事>
1918.11.11 第1次世界大戦ドイツが降伏。4年の戦いに幕。ドイツと連合国が休戦協定に調印して終結した。
1919. 3. 2 モスクワで共産主義インターナショナル(コミンテルン)創立大会。レーニンがプロレタリア独裁の綱領を発表。
1919. ワイマールにバウハウス設立。1933年解散。
1920.11.15 国際連盟を創設。国際連盟の初めての集会がスイスのジュネーヴで開催された。総会には42か国が参加した。
1921. 7.29 アドルフ・ヒトラーがナチスの党首に選ばれる。
1921. ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
1923. 9. 1 関東大震災。午前11時58分関東一円を激震が襲い、火災・津波が加わり、死者9万1000人、行方不明者4万3400人。
1925. ハイゼンベルク「不確定性原理」
1927. 3.14 金融恐慌。衆議院での片岡直温蔵相の失言から東京渡辺銀行で取付がおき、それが引き金となり金融恐慌となる。
1928. 8. ブレヒトの「三文オペラ」ベルリンのシッツバウアー劇場で初演。
1928.10. 1 ソ連、第1次5カ年計画を開始。
1929.11.25 NY株価大暴落(暗黒の木曜日)世界大恐慌始まる
1931. 9.18 柳条湖事件(満州事変)。関東軍参謀らが奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破。
1931. 9.21 イギリス金本位制廃止。全世界に信用恐慌が波及。
1932. 3. 1 満州国建国を宣言。執政に清朝最後の皇帝薄儀を起き、年号を大同と定め、首都長春は新京と改名した。
1932. 5.15 5・15事件。海軍青年将校ら9人が首相官邸に乱入し、犬養首相を射殺した。
1933. 1.30 アドルフ・ヒットラー、首相に就任。
1934.10.15 毛沢東が率いる紅軍第1方面軍、大西遷(長征開始)。(〜36年10月)
1934.12. 1 スターリンの粛清始まる。キーロフらの暗殺。
1934. カール・ポパー「科学的発見の論理」(原題「探求の論理」)
1936. 2.26 2・26事件。青年将校21人と下士官・兵士約1400人が首相官邸、警視庁を襲撃し、蔵相高橋是清らを殺害した。
1936. 6. 4 フランスで人民戦線内閣誕生。首相は社会党のレオン=ブルム。(共産党は閣外協力)
1936. 7.17 スペイン内乱始まる。
1936.11.25 日独防共協定を締結。
1936. ケインズ「雇用・利子・および貨幣の一般理論」
1937. 7. 7 蘆溝橋事件。蘆溝橋で日中両軍が衝突した。(支那事変)
1937. 8.26 ゲルニカ爆撃。反乱軍のフランコ将軍を支援するドイツ空軍43機がスペイン北部の古都ゲルニカを爆撃。死傷者多数。
1938.11. 9 ナチスの組織的ユダヤ人迫害起こる(水晶の夜事件)
1939. 4. 1 フランコ軍がマドリッドに入る。スペイン内乱終わる。
1939. 7.26 米が日米通商条約廃棄を通告。
1939. 8.23 独ソ不可侵条約
1939. 9. 1 第2次世界大戦勃発。独空陸軍がポーランドに侵攻を開始し、3日イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
1939. シュンペーター「景気循環論」
1940. 6.22 フランス、ドイツと休戦協定に調印。国土の5分の3がドイツの占領下に。
1941. 6.22 独軍がソ連を奇襲。独ソ戦開始。
1941.12. 7 (日本時間8日)太平洋戦争始まる。アジア・太平洋戦争が始まり、第2次世界大戦は地球的規模に拡大した。
1942. シュンペーター「資本主義・社会主義・民主主義」
1944. 8.25 パリ解放。4年間に及んだドイツ軍の占領が終わる。
1944. ハイエク「隷従への道」
1945. 5. 7 ドイツ、連合軍に無条件降伏。
1945. 8.15 日本無条件降伏(終戦)。昭和天皇は15日正午にラジオ放送で終戦の声明をした。
( 2002年10月28日 TANAKA1942b )
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コミュニスト・ファシスト・アナーキスト
混迷を極める政治情勢
<スターリン(1879-1953)のソ連>
第一次大戦中の1917年10月7日、ロシアでレーニン(1870-1924)指導のボルシェビイキが革命で権力を握る。ドイツとは即時停戦となったが、国内で内乱が起きさらに日本など諸外国が出兵しこの革命に干渉した。内戦に勝ち抜いた1921年には国土の荒廃に加え、100万人以上の死者を出す飢饉に見舞われた。しかし1919年に生まれたコミンテルを通じて、ヨーロッパとアジアへの革命への理解を深め、諸国の共産主義者にとって理想の社会と見られるようになった。
レーニン政権は当初、全工業の国有化と穀物の国家管理をその基本的な経済政策としていたが、農民の不満が大きくなったため、1921年から穀物の徴発制に代えて現物納税制度を採用し、さらに商業の自由を認める「ネップ」(新経済政策)体制に移行した。
レーニンは1923年に発作を起こし廃人となり、翌1924年死去した。この間にスターリンはジノビエフ、カーメネフと協力しトロツキー派を押さえ込むことに成功し、次にはブハーリンと組んで今度はジノビエフ、カーメネフを失脚させた。
1928年から始まった第1次5カ年計画は、(1)工業発展5ヶ年計画、(2)生産の全面的集団化、(3)階級闘争としての文化革命、であった。農業の集団化には多くの抵抗があったが、都市部から労働者党員を送り込み、抵抗する農民を追放した。個人農家はなくなり準国家機関的な農業生産共同組合コルホーズに組織された。こうした政策により権力の集中化が進んだ。生産部門だけでなく学術・文化の面でも共産党=スターリンの意向が強く反映し、これに対する批判は国家に対する批判とみなされた。1932-33年の飢饉は深刻であったがこの実状は国外には正しく報道されなかった。1934年の第17回党大会は社会主義の勝利を宣言した。1935年のコミンテル第7回大会は反ファシズム人民戦線の結成を呼びかけた。
1936年12月に新憲法が公布され、この頃からスターリンの政敵に対する粛正が激しくなる。ジノビエフ、カーメネフら旧反対派の幹部がゲシュタボの手先として死刑を宣告される公開裁判が始められた。さらに党・政府・軍・企業の幹部がドイツや日本のスパイとして処刑された。こうした粛正やテロの実相は国外に伝わらず、公開裁判は反ファシズムへのソ連国家の決意を印象づける事になった。
スターリンは1939年8月23日、独ソ不可侵条約を結ぶ。しかしヒトラーは1941年6月22日、ソ連を奇襲しここに独ソ戦が開始される。そのスターリンは日本に対しては1941年4月13日に日ソ中立条約を調印しながら、1945年8月8日、すでに広島に原爆が落とされ、敗戦間近となった日本に参戦してきた。中国東北部(満州国)に進入したソ連軍は、降伏した日本軍人(関東軍)を捕虜とし、シベリアでの強制労働に従事させた。その数57万5000人、内民間人1万2000人。1950年ソ連は引揚げ完了を宣言。帰国者は約53万人、抑留者名簿が不備で行方不明者も多い。
1855年2月7日(安政1年12月21日)日露和親条約によって日本領が認められた歯舞、色丹、国後、択捉の4島を含む千島全島に対して、極東軍司令官ワシレフスキーは8月15日、千島の占領命令を発し、9月3日までに4島を占領した。その後ソ連は指導者は替われども日本に返還する意思は無く、思わせぶりな態度を示しながら日本からの経済協力を引き出す外交交渉カードに使っている。
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<ヒトラー(1889-1945)のドイツ>
1918年11月11日、ドイツの降伏により第1次世界大戦が終結。第1次世界大戦の末期、キールの水兵反乱に端を発したドイツ革命は、1918年12月の第1回全国労兵レーテ大会を開く。これが基礎となり1919年1月19日の選挙の結果としてワイマールに召集された国民議会は、エーベルトを大統領に選出するとともに、社会民主党・中央党・民主党のいわいるワイマール連合内閣を成立させ、1919年7月31日に「世界で最も民主的」と言われたワイマール憲法を採択した。
ワイマール共和国は民主主義の理想を高々と掲げたのだが、現実の政治経済は厳しいものだった。ドイツの降伏を取り決めたベルサイユ条約は、ドイツから全海外領土と本国の13%を奪い、軍備制限とラインラントの占領・非軍事化を行い、さらに莫大な賠償金を課するものであり、その賠償金は1320億マルクにのぼるものであった。このため各地で一揆・反乱・革命が勃発し、経済はハイパー・インフレに襲われ、1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆が起きる。こうした時期に外相シュトレーゼマンは国際協調外交を展開し、ドイツ経済の再建と国際的地位の回復に努めた。産業界はドーズ案体制のもとでアメリカから資本を導入し、合理化運動を進めた。
ドーズ案とはアメリカの銀行家 Charles G. Dawes (1865-1951)を長とする賠償委員会が作成した賠償支払計画案。ドーズ委員会はドイツ通貨の安定と財政均衡をはかり、賠償方式を緩和させる一方、ドイツの鉄道、工業施設を担保に、アメリカの資金を導入しドイツ工業の復興をはかる収拾案を作成し、1924年7-8月のロンドン賠償会議で採択調印された。以後、ドイツ経済は立ち直りのきざしが見えた。1925年ドーズはノーベル平和賞を受けた。
この時代はアバンギャルドとかモダニズムと呼ばれる新しい文化とそれまであった伝統的文化の衝突の時代であった。時代を切り開くワイマール文化を支持する都市部とそれに反発する農村部と亀裂は大きくなった。1929年の世界恐慌はドイツにも及んだ。大量失業・恐慌の不安・不満を和らげるため、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーのナチスと手を結ぶ。1933年1月30日ヒトラー内閣が成立する。1933年3月5日の選挙でナチスは647議席のうち288議席を獲得し同年3月23日の授権法により議会5月以降、政党、労働組合の解散を強行し、8月ヒンデンブルグ大統領の死に伴い総統ヒトラーの独裁を確立する。
ヒトラーは元ライヒスバンク総裁シャハトに経済政策の全権を与え失業の解消と再軍備を進める。1938年、軍拡景気の局面にはいり、4ヶ年計画が発足し、重化学工業への資本と労働力の集中は一層進む。1938年オーストリア、ズデーデン地方の併合、翌39年3月チェコスロバキア占領といった軍事拡大政策もその成功のため国民からは高い支持を受ける。アウトバーンを疾走するフォルクスワーゲンは国民の夢を膨らませ、生活の不満はユダヤ民族への差別によって解消させる。(もっとも戦時中はVWも軍需産業に集中し、ビートルが国民車として普及するのは戦後になってから)
ヒトラーは国内の安定を基盤に軍事拡大を押し進める。1939年8月23日独ソ不可侵条約締結後、9月ポーランドへ侵攻、1940年6月フランスを征服、1941年6月22日ソ連と開戦し、ウクライナの広大な穀倉地を占領し、食糧自給自足の要件は確保した。しかし1943年2月スターリングラード攻防戦、5月北アフリカ戦線での敗北後、戦況は悪化。1945年4月29日ソ連包囲下のベルリンでエバ・ブラウンと結婚、翌30日ともに自殺。1945年5月7日、ドイツは連合軍に無条件降伏。
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<ムッソリーニ(1883-1945)のイタリア>
ムッソリーニは第1次大戦後の1919年3月「戦闘ファッシ」を結成してファシズム運動を開始し、1921年5月下院議員に当選する。
1922年10月ファシストのローマ進軍の圧力によって、国王から組閣令を引き出し、39歳で首相となる。
ムッソリーニを支えたファシズムとは、サンディカリスト・ファシズム、ナショナリスト・ファシズム、テクノクラート・ファシズム、農村ファシズム、保守的ファシズムなどいくつかの潮流があり、これらを巧みに操りながらムッソリーニは権力を拡大していった。
第2次大戦で敗色が濃くなると政・財・軍各界からの批判が高まり、1943年7月24日ファシズム大評議会で不信任の動議を突きつけられた。翌日国王に逮捕され、グラン・サッソの山中に幽閉されたが、9月ドイツ軍の救出をうけ、新たにイタリア社会共和国(サロ共和国)を樹立した。
1945年4月レジスタンスの勢いが強まり、ドイツ軍に混じってスイスに逃れようとしたが、コモ湖畔でパルチザンにとらえられ、銃殺刑に処せられた。
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<フランコ(1892-1975)のスペイン>
スペインの政治情勢で他の西欧諸国と違うのは、アナーキストの影響力の大きさだろう。コミュニスト、ファシスト、リベラリストなど多くの主義者がいて、混迷を極めていたヨーロッパにあってスペインではアナーキストの存在が大きかった。
そこでここスペインではファシスト=フランコとアナーキストを軸に大戦間の政治情勢を振り返ってみよう。
1910年にアナーキスト系労働組合「全国労働連合」(CNT)が結成され、1917年には加盟者が70万人にもなった。しかしアナーキズムは19世紀末から1920年代にかけて、テロも辞さない過激な路線を歩んだため、一般世論からは不評をかっていた。
社会党は穏健路線をとり、議会主義の道を歩み始めていた。1920年には都市工場労働者を中心に党員が20万人に達した。社会党の勢いに比例して、社会党系労働組合「労働者総同盟」(UGT)も都市部から地方へと勢力を拡大していった。
1917年のロシア革命の影響で左派勢力は勢いづき、運動は暴力化した。1921年首都で保守党のダト首相が殺された。次いで1923年には教会に対する暴力行為がピークに達し、サラゴサ枢機卿が暗殺された。
続発するテロとストライキ、収拾がつかない議会、モロッコ戦争の失敗の責任をめぐる政府と軍部の対立など、スペイン社会は混乱していた。
1923年9月12日早朝から翌13日にかけて、当時カタルニャ方面軍総司令のプリモ・デ・リベラ将軍が祖国救済をスローガンにクーデターを起こし、国王アルフォンソ13世に全閣僚の罷免と憲法の停止を求めた。
国王は将軍の要求を受け入れ、首相は辞任し、閣僚はピレネーの国境を越えてフランスへ亡命した。プリモ・デ・リベラ将軍はあらゆる国家機能を手中にし、国家を統率することになった。ブルジョア階級はこのクーデターを歓迎し、ここに文民政治家は沈黙した。
プリモ・デ・リベラはムッソリーニのイタリアを理想として諸政党、諸政治グループの大同団結を意図し、社会党、UGTとも協力関係を結んだ。プリモ・デ・リベラは現実にはファシズムに組みしなかったし、できる状況でもなかった。
しかしアナーキストは反発しCNTは非合法団体として地下活動を進め、過激なイデオロギー・グループであるイベリア・アナーキスト連合(FAI)の指導下におかれ、つねに公共秩序を乱す主因となった。
本来暫定的な政権として誕生したプリモ・デ・リベラであったが、長期政権を狙う傾向が見え出し、国民の支持を失い、1930年1月末アルフォンソ13世から引退を迫られパリへ去った。
1931年4月14日第二共和国が誕生した。同年12年9月に第二共和国憲法が発効し初代大統領にアルカラ・サモラが、首相にはM.アサーニャが就任した。CNTはストライキ戦術と街頭でのテロ活動に激しさを加えていった。1933年11月の総選挙では右派勢力が勝利した。
1934年2月には他のファシストグループと合併しファランヘ党が右派陣営の一角に重要な位置を占めるようになった。1936年2月16日の総選挙では左派の人民戦線が勝利した。しかし議会は正常に機能しなかった。
政党関係の建物、教会への襲撃・放火、ストライキなど社会情勢は混乱していた。こうしたなかで7月17日スペイン領モロッコにおいてスペイン内乱の火の手があがったのだった。
<スペイン市民戦争(1936.7.17-1939.4.1)>
スペイン領モロッコで反乱が勃発し、スペイン全土に拡大し、スペイン第二共和政が崩壊し、フランコ独裁が確立した。その過程でコミュニスト、ファシスト、アナーキストたちが燃えた。
フランコとそれを支援したヒットラーのナチスドイツとムッソリーニのイタリア、共産党とそれを支援したソ連軍、アナーキストとその部隊で闘った外人義勇軍、共産党と同一行動をとったラルゴ・カバリェロ率いる社会党過激派。
このように分類はしたが支持者はそれぞれ入り乱れていた。このように混迷を極めたスペイン国内情勢、それに加えて諸外国の態度も曖昧だった。
1936年6月4日、フランスでは社会党のレオン=ブルムを首相に、人民戦線内閣が誕生する。共産党も閣外協力する内閣、しかしスペインで共産党がファシストと闘っているときに、人民戦線内閣はなにも出来なかった。それどころか隣国ドイツが軍事拡大と侵略政策を進めていることにも、何も出来なかった。
イギリスもスペインのファシストには手を出さなかった。世界恐慌の深刻な不況と大量失業により、金本位制の離脱、(1931),イギリス連邦特恵関税や輸入関税法(1932)にみられるように自由貿易政策の放棄、そしてこうした政策を取ることによって、ヨーロッパ大陸情勢に不干渉になっていった。
アメリカもナチスドイツの侵略が拡大するまでは、大陸への不干渉主義であった。このように各国が保護貿易・他国への不干渉政策をとったため、それに乗じてヒットラーは領土拡大政策を押し進め、ムッソリーニ、フランコが権力を握る事になった。
こうしたファシズムに対抗する勢力としてコミュニスト、アナーキストがいたのだがスペインではモスクワの指令を受けたコミュニストがアナーキストを反フランコ戦線から排除し始めた。アナーキストは前面にフランコ、背面にコミュニストの脅威を受けることになった。
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<毛沢東(1893-1976)の中国>
混迷を極めるヨーロッパ情勢、同じ頃アジアで、眠れる獅子中国で大きなうねりが起きていた。しかしこのうねりは1937年にエドガー・スノーが「中国の赤い星」(中国語版「西行漫記」)を出版するまでは国外では理解されていなかった。
いや中国国内でさえよく理解されていなかった。それは「都市部ではなく、農村部から革命を起こす」というそれまでの共産主義革命理論からは考えられない発想と行動だった。
1920年8月に陳独秀などは中国初のマルクス主義組織である共産主義グループを結成。1921年7月には中国共産党第一次全国代表大会を開催、陳独秀が中央局書記に選出され、
1927年まで、中共のトップとしてこれを指導していくことになる。しかし都市労働者に基盤を置く中国共産党はモスクワの支持を受けながらも、蒋介石の国民党に潰される。
1927年7月湖南で武装蜂起に失敗した毛沢東は、10月には井岡山に入り、ここを革命拠点地とした。1928年朱徳の軍と合流して「工農紅軍第4軍」を編成。1929年には瑞金に移り、1931年11月ここに「中華ソビエト共和国臨時政府」を設立する。
しかし李立三、王明など指導者の失敗により、この地を棄てて過酷な長征に出る。その途中、遵義会議で周恩来の支持を受け、毛沢東が事実上の指導者になる。張国Zの誤った作戦のため多くの兵を失うが、1935年10月長征を終え、延安を拠点に抗日戦争を指導する
この地に毛沢東・朱徳・周恩来・林彪・彭徳懐・葉剣英・徐向前・賀竜・劉伯承・聶栄臻・張聞天などがいる「中国国民革命八路軍」(通称八路軍)を置き、他に劉少奇・ケ小平・陳毅などが指導する「新四軍」があった。
1936年12月12日朝6時に全事件は完了した。張学良の東北軍と楊虎城の西北軍が西安を占領した。眠りを覚まされた藍衣社の連中は武装を解除されて逮捕された。
実際に蒋介石参謀部の全員が西安招待所の宿舎で包囲を受け監禁されてしまった。邵力子主席と省公安局長もとらわれた。西安の警察は叛軍に投降し、50機の中央軍爆撃機とその搭乗員も、飛行場で逮捕された。
蒋介石はというと、不本意ながら楊虎城および張学良の客人となった。張学良の主張は国民党と共産党が一致団結して抗日戦線を作ることだった。共産党側から周恩来・葉剣英・博古が来て交渉し、ここに統一抗日戦線が形成された。この西安事件がアジアでの歴史転換点になった。
大日本帝国がポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏してから、共産党と国民党との内戦が続いた。蒋介石の国民党は敗北し台湾へ逃げ、大陸が共産党の支配するところとなり、1949年10月1日、北平(現在の北京)の天安門楼上で中国共産党主席毛沢東は、中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。
( 2002年11月4日 TANAKA1942b )
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人民戦線内閣の実験
興味をそそられるこの時代
<「日本株式会社」と呼ばれる「妖怪」>
言語明瞭、意味不明の言葉がマスコミ界をうろついている。──「日本株式会社」という言葉が──。
戦後日本経済が立ち直ったのはこの「日本株式会社」のおかげあるとか、しかしこれからはこの「日本株式会社」が発展のネックになるとか、改革を主張する過激派も,穏健派も、政官業のトライアングルの活躍に期待する族議員圧力団体派も、隠れコミュニストも、党派・立場を越えてこの言葉「日本株式会社」を使う。
そこでこの言葉「日本株式会社」の意味するところは何なのか?実際の経済はどのような歩みだったのか?アマチュアエコノミストがプロ(ビジネスで発言する人たち)とは違った、ニッチ産業的(隙間産業的)な視点から検証してみようと思い立った。先ずこの言葉がどのように使われているか?その例を引用することから話を始めることにしよう。
このような書き出しで官に逆らった経営者たち▲を書いた。書きながら気づいたのは、同じ時期ヨーロッパは社会主義をやっていた、そしてそれは大戦の間、「赤い30年代」と言われた1930年代にその原型とも言える社会情勢があった、ということ。
そこで「ヨーロッパ西も東も社会主義」は「赤い30年代」から話を始めることにした。
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<フランス政治の混乱>
第1次世界大戦が始まった1914年の人口4千万人のうち850万人が動員され、139万人が死に、74万人が不具となった。大戦中徴兵年齢に達した世代では男子の半数以上が大戦で生命を失ったとされる。フランスにとって大戦は勝利したとはいえ幻滅以外の何ものでもなかった。
フランス人は徹底的に戦争を嫌がっていた。30年代の対独宥和論者、ヴィシー内閣の協力者たちは第1次大戦での愚行から、「とにかく戦争だけはイヤだ。たとえナチスとでも戦争はしたくない」という気持ちだった。
そしてその気持ちをはっきりと行動に表す点では、日本の空想平和論者とは違っていた。戦争を嫌い、それをはっきり行動で示す。こうしたフランス人を理解した上で、政治情勢を見てみよう。
1929年に始まった世界恐慌、フランスへ波及するのに時間がかかった。1932年頃までは本格的に波及せず、むしろ逆にポンド、ドルの下落を恐れた外資がフランスに大量に流入し、表面的には国際収支は大幅黒字となり、フランスは世界的不景気のなかの「繁栄の小島」と称された時期さえあった。
しかし1932年以降生産は大幅に低下し、失業者は増加し、税収入不足から緊縮財政になり、これに対して官公吏を中心とする抵抗が強まった。それに対して政府は有効な政策を打てなかった。
悪い政府より無能な政府の方が国民にとって我慢がならないという場合がある。当時のフランス人にとって周囲には「ダイナミック」な独裁国家の発展を見せつけられていただけに苛立ちはなおさら大きかった。
左からの変革を願うものは当然社会主義、共産主義に目を向けた。当時、恐慌に苦しむ資本主義諸国と対照的に5ヶ年計画により経済建設を着々とおし進めるソ連の姿は、ソ連と共産主義の威信を大衆の目に、またとりわけ当時普及し始めたマスコミに登場する、<マス・インテリ>の目に大きく映らずにおかなかった。(大粛清はまだ始まっていなかった)
ロマン・ロラン(Romain Rolland,1866-1944)やアンリ・バルビュス(Henri Barbusse,1873-1935)のように1930年代以前から共産主義に接近し、あるいは入党していた人たちを別にしても、アンドレ・ジッド(André Gide,1869-1951)、アンドレ・マルロー(André Malraux,1901-1976)をはじめとしてこの時期に共産主義とソ連に近づいたフランスの知識人=マス・インテリは多い。
他方、右からの現状打破を目指す動きも少なくなかった。
当時のフランス左翼諸政党は次の通り。急進党(急進社会党)=左翼の中で最も右寄り。プチブル(小企業主、農民、自由職業人など)政党で、地方名士の集合。社会党=党首レオン・ブルム(Léon Blum,1872-1950)で知識人が多く、イデオロギーは社会民主主義に近かった。共産党=ソ連共産党、コミンテルの影響を強く受けていた。
1934年2月6日、コンコルド広場で極右諸団体やそれを支持する群衆と警察隊との間に死者十数名を数える一大騒擾事件が発生した。偶発的な事件なのか極右のクーデター未遂事件なのか、真相は今でも不明。以後デモ、ストライキ、ゼネストが続発する。隣国ドイツのナチ化に対応する余裕はない。
1934年5月、それまでの政策を変更してコミンテルとフランス共産党が反ファシズム戦線のために社会党とも手を結ぶ、となった。1934年7月27日社会党と共産党は統一行動協定を結ぶ。「人民戦線=フロン・ポピュレール(Front populaire)」という言葉はこの年の10月にフランス共産党機関誌「リュマニテ」に使われた。
<人民戦線内閣の誕生>
1936年4-5月の選挙で選挙協力が実を結び、共産党、社会党が躍進した。第一党となった社会党のレオン・ブルムが政権を担当することとなった。内閣は社会党と急進党の連立で、共産党は閣外協力。1936年6月4日夜、ブルムはルブラン大統領に閣僚名簿を提出し、翌5日正午にラジオで国民に呼びかけた。
情勢は緊迫していた。デモ、ストライキが続発していた。左翼連合の内閣が成立したにもかかわらず、6月2日から座り込みストライキの波は金属加工工業から、建築、化学、繊維、食品、など諸工業、さらにデパート、ホテル、カフェ、レストランなどに、地域的にもパリ近辺から地方にと、爆発的に拡大した。ストライキ件数は総計12,142件、そのうち工場占拠を伴ったもの8,941件で、大部分が座り込みストライキであった。スト参加者は200万人に及んだと言われる。鉄道、郵便、公益企業が参加しなかったことがせめてもの幸いだった。労働者の要求は、組合承認、賃上げ、有給休暇などを含むのが通例であったが、工場占拠ののち要求が提出されるケースが多く、ストライキの目的は混乱していた。「至る所で人々がストライキをしている。だからここでもやろう」と言った感じ。
ストライキの形態は似ていて、工場の門は閉ざされ、食事や毛布などは家族から差し入れられ、全国組合や好意的地方自治体からアコーディオン、蓄音機などの楽器が提供され、工場内ではダンスなどが行われ、祭典的雰囲気であったと言われる。7月になるとストライキの参加者は減った。この事態に対して、工場占拠運動とそこから生じた事態を革命的状況とみなし、人民戦線内閣はそれを沈静化した、と見る見方もあった。トロッキーは6月9日に「フランス大革命が開始された」と書いた。
内閣は「有給休暇制」「団体協約制」「週40時間労働制」を定め、「フランス銀行の改組」「兵器工場の国有化」「ファシスト諸団体の解散」を進めた。内閣提出の法案は順調に成立した。少なくともそれまでのフランス議会では考えられないほどの成立率だった。それに比べ財政問題は困難な問題だった。イギリスは1931年9月21日から金本位制を廃止したが、フランスはまだ金本位制を維持していた。この場合の財政赤字とは現代の「管理通貨制度」「変動相場制」の場合の財政赤字とは違う。6月19日にフランス銀行との間に財政再建のための協定が結ばれる。これにより一時的に安定したかに見えた。1936年7月14日のバスティーユ記念日のデモは左翼にとって勝利を祝う喜びの大祭典となった。前年と異なり左翼のデモだけが許可された。盛会であった前年をさらに上回る何十万とも知れぬ大群衆が赤旗、三色旗、プラカードを先頭にナシオン広場を中心に集まり、「インターナショナル」「ラ・マルセイエーズ」の絶え間ない歌声と「ブルムばんざい」「人民戦線ばんざい」の叫びが交錯した。
就任以来目覚ましい成果をおさめてきたブルム内閣にとって最初のつまずきとなったのが7月17日に突発したスペイン内乱であった。ブルムは共和国側を援助しようとする。閣内の反対を押し切り決定しようとするが、イギリスは中立を保つ。イーデン外相は「それはあなたの自由だ。だが私は唯一の事をお願いする。どうか慎重であってほしい」と。
これは助言しているにすぎない。しかし、英仏協調の必要性、独裁者への反感から文学的趣味にいたるめで多くの点でイーデンと共鳴していたブルムにとってイーデンの一言はずしりと重く感じられた。ブルム内閣の方針は決まらない。結局「スペインには各国が干渉しないように」と呼びかける線に後退する。一方ドイツとイタリアはフランコへの武器援助を継続する。それに対してモスクワは援助を拡大する。これによりスペインでは代理戦争の様相になり、アナーキストは主役から外される。ブルム内閣もその優柔不断な政策に失望する国民が出てくる。
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<平価切り下げ>
6月の社会的激動のショックに新たにスペイン内乱をめぐる国内対立の激化が加わり、有産階級の不安と警戒は高まった。政府に対する信頼は低下し、資金の国外流出と国内退蔵のためフランス銀行の金保有高は9月23日には国防上の必要最低限といわれる500億フランに減少し、国債の売れ行きも悪化した。ついに9月26日、政府は銀行券の自由兌換を停止し、実質的なフラン切り下げを発表した。しかしこの決定はあまりにも遅く、切り下げ幅も不十分で、賃上げ、労働時間短縮の影響もあり、短時間に切り下げの利益は失われ、あとには政府の信用失墜と与党各派の相互非難とインフレを残すばかりとなった。
政府が期待した本格的経済回復はおこらず、予算赤字の増大の見込みと再軍備費の重圧は再び通貨不安を引き起こした。フラン投機の再熱により為替平衡基金の100億フランは1月末にはすっかり底をついていた。なんらかの処置が必要であった。
1937年2月13日、物価上昇に対応して賃上げを要求していた公務員に対してラジオ演説でブルムは「休止=ポーズ」を声明した。
しかしこの「ポーズ」は全く別のところで動きを休止させた。それは5月1日に店開きする万国博覧会の準備だった。「芸術と技術の博覧会」の成功がブルム内閣に残された唯一の希望であった。それ以前から工事の遅れがあったが、40時間労働の影響もあり、雇用問題などの紛争には事欠かなかった。夜になると労働者代表が積まれた煉瓦の数を数えてノルマを超過した煉瓦を取り除いているとの噂もあり、建物の竣工後の失業を現場労働者が恐れていたことが工事の遅れの一因であることは当時の労組役員も認めていた。5月1日の開場予定は延期され、5月24日に開場となった。この日、ルブラン大統領は建築中の現場を避け、また労働者のデモを避けるために、セーヌ川の遊覧船の上から開場の説明を受けることになった。前年のベルリン・オリンピックの大成功に比べ、なんともみっともないイベントになった。
ブルム内閣がその成立1周年を祝った6月6日には、もはやかつての熱狂は見られず、この日の人民戦線派指導者たちの発言も、いまや各党派を隔てる距離がどれほど大きなものになったかを示していた。
政府は6月13日、7月31日までの期限付きで財政危機に対処するために必要なあらゆる手段を制令により実施する「財政全権」を議会に要求することを決定した。投機者たち、「フランスの脱走兵たち」に対する峻厳な処置が取られることがうたわれていた。政府案は下院で承認、上院で否決であった。再度下院は修正政府案を可決したが上院では政府の行動を制限する委員会案が可決された。閣議はもめた。議会の解散も話題になったが、反対もあり決まらない。ながい閣議の後6月22日午前2時すぎ、ブルムはルブラン大統領に内閣の総辞職を告げた。こうして第1次ブルム内閣は在任1年あまりで倒れた。
<人民戦線内閣の終わり>
1937年6月22日、急進党のカミーユ・ショータンを首相に新内閣が成立した。ブルムは副首相として入閣。財政危機は解決せず1938年1月15日信任投票を待つことなく総辞職した。ショータン退陣後ルブラン大統領はあちこちに組閣を依頼するが失敗に終わり、結局ショータンが再度組閣を依頼され1月21日承認された。社会党は閣外協力。
国際収支は悪化し続けた。3月初旬に政府は財政特別権限を要求することを決めたが社会党は反対した。やる気をなくしたショータンは下院の信任投票を待つこともなく突如議場を退席し、3月10日総辞職した。翌11日、ヒトラーがオーストリア併合を決行したとき、フランスにはまたもや政府が存在しなかった。3月12日再びブルムが急進党と共和社会同盟の参加を得て、人民戦線派に基礎を置く第2次ブルム内閣を樹立した。しかし再度提出された財政全権要求案は下院で可決されたが、上院で否決された。4月8日ブルム内閣は総辞職した。その後は急進党のダラディエが組閣したが、もはや人民戦線内閣とは言えない政府になっていた。
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<荻原重秀のように出目を稼げばよかった>
ブルム内閣がフラン切り下げを実施したのが、1936年9月26日。対外交換率は29%の切り下げ。アメリカのローズベルト大統領は1933年4月金本位制を停止。40%の実質的ドル切り下げ。イギリスは1931年9月21日金本位制を廃止、約40%の切り下げ。フランスの平価切り下げはもっと早い時期に、もっと大幅な切り下げを実施すべきであった。人民戦線内閣の最大の課題は景気回復であった。人民戦線内閣という実験をを成功させるためにも、もしブルムが早い内に手を打っていたら………
荻原重秀が貨幣改鋳を実施したのが1695(元禄8)年。切り下げ率は約35%。これにより幕府財政を立て直した。フランスは財政再建に加え、開放経済なので、輸出増によるGDP増も期待できる。こうした金融問題をどこまで理解していたか?それに対して党利・党略がどれほど邪魔したのか?それにしても改革に燃えた幕臣経済官僚、けっこう知恵があった。荻原重秀だけでなく、大岡越前守忠相、田沼意次、川井久敬も試行錯誤を重ねる内に学んでいったようだ。
ところでこれは過去の歴史。今日の日本の状況はどうか?デフレ・スパイラルに苦しんでいる。少しくらいのインフレなら、3%程度のインフレなら容認出来る。となれば、「インフレは何時、いかなる場合も貨幣的現象である」との常識に従って、通貨流通量を増やすこと。300年前の荻原重秀に見習うこと。21世紀、金本位制ではなく管理通貨制度の金融政策として具体的には、日銀の「量的緩和」、つまり買いオペを増やすこと、となる。銀行の不良債権が減ってもマネーサプライが増加する保証はない。
<妖怪が微笑むとき>
社会党と共産党は統一行動協定を結び、「人民戦線=フロン・ポピュレール(Front populaire)」という言葉が使われるようになってから、1935年6月にパリで後に「第1回文化擁護国際作家大会」と呼ばれる、インテリの集会が開かれた。コミンテルと各国共産党が主催で、ロマン・ロラン、アンリ・バルビュス、アンドレ・マルローなど地元フランスの作家、芸術家、さらには世界14ヶ国から選ばれ、平和と文化に期待をつなぐ有名・無名の作家・芸術家がうだるような暑さのパリに集まった。大会の目的は、ファシズムに抵抗して、表現の自由、文化の独立を擁護するところにあると宣言された。もちろんソ連はプロレタリア独裁であってもファシズムではない。したがってソ連における、体制批判・中立派の作家や芸術家に対する検閲や抑圧、さらには監禁問題は、大会の論じる問題とはなりえない。これが会場をを支配した暗黙の合意で、アンドレ・ブルトンら、一部非共産党左翼のソ連批判にもかかわらず、
大会は大筋で沈黙を演出することに成功した。
ソ連からは当初、マキシム・ゴーリキーの出席が予定されていた。しかし直前になって出席取りやめが判明し(ゴーリキーの病気は事実らしいが、スターリンとの関係が険悪になっていたのが真因という観測もある)、大会の主催者であるマルローは、親ソ派作家としてソ連でも評判の高いアンドレ・ジッドを通して、ゴーリキーに代わる大物作家の派遣をソ連当局に依頼した。これに応じたスターリンは、直接で電話で詩人ボリス・パステルナークを呼び出し、パリ出張を命じた。パステルナークはとるものもとりあえずパリに急行するが、会場に溢れる数千人が耳にした言葉は、マルローやバルビュスら大会の筋書きを書いた政治的脚本家たちには意外だったかもしれない。パステルナークの回想を信じるなら、「私はあなたがたにただ一つのことだけを申し上げたい。それは組織化してはならないということです。組織化は芸術の死であり、個人の独立だけが大切なのです。1789年、1848年、1917年と、いずれの場合も、作家が何かに対抗して組織化されることはありませんでした。どうか心からお願いします。組織化はやらないでくださ」
と語ったと言われる。
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<発展する量子力学>
この時代量子力学の発展が見逃せない。マイケルソン、モーリーの実験に続き、プランク、ボルン、ボーア、ド・ブロイ、ハイゼンベルグ、ディラックと続き量子力学は発展した。そしてこれとは別の流れとしてアインシュタインが一人で、光量子仮説、特殊相対性理論、一般相対性理論と展開させた。ここでは主要な研究者の名前だけを列挙してみよう。
アインシュタイン(A.Einstein,1879-1955)光量子仮説、ブラウン運動の理論、特殊相対性理論(1905)、一般相対性理論(1915)、
マイケルソン(A.A.Michelson,1852-1931)、モーリー(E.W.Morley,1838-1923)1887年の「光速度一定」に関するマイケルソン・モーリーの実験。
ローレンツ(H.A.Lorentz,1853-1928)マイケルソン・モーリーの実験結果を説明する、その解答。あらゆる物体はその進行方向にそって、一定の収縮(ローレンツ収縮)をする。その収縮の割合は物体の種類によらず、ただその速度だけで決まるとしなければならない。さらに、長さの収縮のみならず時計の進みも、速度とおかれた位置に応じて変化をうけることを承認しなければならないことが判明した。
プランク(M.Planck,1858-1947)1900年に新輻射論。
レーナルト(P.E.A.Lenard,1862-1947)1902年に光電効果の定量的分析を通じて、照射される光の強さ、振動数と放出される電子線の強度、エネルギーとの相関にきわだった法則性を見出した。
ボーア(N.Bohr,1885-1962)1913年に画期的な原子模型の理論。
ド・ブロイ(L.de Broglie,1892-1987)1923年波動性に関するアイディアを発表。
シュレディンガー(E.Schrödinger,1887-1961)ド・ブロイの波動性に関するアイディアを展開させた。
デヴィッスン(C.J.Davisson,1881-1958)、ジャーマー(L.H.Germer,1896-)ド・ブロイのアイディアを、電子線の示す、波動に特徴的な干渉現象の確認によって裏付けた。
ハウトシュミット(S.A.Goudsmit,1902-)、ウーレンベック(G.E.Uhlenbeck,1900-)1925年に電子の運動にスピンと呼ぶ固有角運動量を持つ、という仮定を持ち込んだ。
ハイゼンベルク(W.K.Heisenberg,1901-1976)1927年「不確定性原理」提唱。
パウリ(W.Pauli,1900-1958)1929年にハイゼンベルクと共同で量子電子力学(波動場の量子論)を建設。
ディラック(P.A.M.Dirac,1902-1984)1928年「相対論的電子理論」。
パウリ(W.Pauli,1900-1958)1929年ハイゼンベルグとともに「場の量子論」の原型を作る。
アンダーソン(C.D.Anderson,1905-)1932年宇宙線のなかに、陰、陽の電荷をもつ2種の電子の存在を確認。
チャドウィック(James Chadwick,1891-1974)1932年に中性子を発見。
ラザフォード(E.L.N.Rutherford,1871-1937)キャンディッシュ研究所の所長。
フェルミ(E.Fermi,1901-1954)1934年ベータ崩壊の理論を完成。
湯川秀樹(1907-1981)1934年に中間子の存在を予言。
アンダーソン(C.D.Anderson)、ネッダーメーヤー(S.H.Neddermeyer)1937年に湯川秀樹が予言した質量を持つ新粒子を発見。
ボルン(M.Born,1882-1970)多くの物理学者を育てた。
坂田昌一(1911-1970)1942年に「二中間子論」を提唱。
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<写真>
ライカ、イコンタ、ローライフレックス、コンタックス、コダクロームなど機材の発展と共に、著名なカメラマンが活躍した。思い付くままに名前を書き出してみよう。
後にバウハウスの学長になるモホリ=ナギ、ソラリゼーションで知られるマン・レイ(実際は撮影時に過大露光を与えるソラリゼーションではなく、普通に撮影しフィルム現像時に光を当てるサバティエだった)、
キャンディット・フォトを始めたエーリッヒ・ザロモン、戦争報道写真家ロバート・キャパ、パリの何気ない一角を切り取るアンリ・カルティエ・ブレッソン、 8X10や、F64に絞り込んだ写真で知られるエドワード・ウェストン、アンセル・アダムス,ライフ創刊号の表紙をTVAダムの写真で飾った
マーガレット・バーク・ホワイト、アメリカ大恐慌の悲惨な庶民を撮った
ドロシー・ラング、カール・マイダンス、パリを撮り続けたブラッサイ、華やかなファッション写真の世界を切り開いたマーティン・ムンカッティ……
<学術・芸術>
この分野でも大きな進化があった。 ウィトゲンシュタイン(Ludowig Wittgenstein 1889-1951)、カール・ポパー(Karl R.Popper,1902-1994)などの哲学者。反フランコの姿勢を貫いたカザルス(Pablo Casals,1876-1973)、ピカソ(Pablo R.Picasso,1881-1973)。 1919年、ワイマールにバウハウス設立。1933年の解散までに工芸・検知器・写真などの分野に大きな影響を与えた。(新即物主義=Neue Sachlichkeit)(機能的なものは美しい)
1920年代の始めにフランスの詩人ブルトン(André Breton,1896-1966)らによって文学・芸術上の運動=シュルレアリスム(Surréalisme 超現実主義)が始まった。 1936年にケインズ(John Maynard Keynes,1883-1946)の「雇用・利子・および貨幣の一般理論」が発表された。当時はフランスなど金本位制を守っていた国も多く、現在の通貨管理制度、変動相場制とは違っていた。従って、「政府の財政支出」も現在と当時ではその意味・影響が違うことに留意する必要がある。大戦の末期1994年にハイエク(Friedrich August von Hayek,1899-1992)
の「隷従への道」(The Road to Serfdom)、ポランニー(Karl Polanyi,1886-1964)の「大転換」(Great Transformation)が出版された。
<興味をそそられるこの時代>
今週の予定はフランスの人民戦線内閣と、ハロルド・ラスキを中心とした親ソ連マス・インテリを取り上げるつもりだったのが、量子力学と写真や学術・芸術へと取りとめもなく広まってしまった。大戦間のせいぜい20年ほどにいろんなことがあった。各分野の歴史的流を見る縦割り、ではなくて、あらゆる分野を総括的に見ると面白そうだ。図書館で調べてもこうした見方の書物は見当たらない。アマチュア・エコノミストが狙うのは隙間産業、「生活のためにエコノミストをやっている人には出来ない事をする」との趣旨からもいずれ取り上げようと思う。と言うことで、来週から「戦後復興政策 ヨーロッパ西も東も社会主義」本題に入ります。ご期待下さい。
( 2002年11月11日 TANAKA1942b )
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モネ・プランの実験
産業国有化政策
<パリ解放から戦後は始まった>
1944年8月25日の夕方、ドゴールはパリ市の南からオルレアン通りに入り、陸軍省に居を構えた後、市庁舎のバルコニーから「フランスの偉大さ」のための団結を呼びかけた。翌26日には、凱旋門下の無名戦士の碑に献花した後、CNR(全国レジスタンス評議会)の議長であるジョルジュ・ビドーとともに、シャンゼリゼ通りを歓呼の声に迎えられながら、群衆の先頭に立ってゆっくりとその大きな体躯を運んだ。ここに国内レジスタンス(ジョルジュ・ビドー)と国外レジスタンス(ドゴール)が肩を並べて戦後のフランスを指導していくことが内外に示された。
1944年6月3日、それまでのフランス国民解放委員会(CFLN)に代わって、フランス共和国臨時政府がアルジェでドゴール首班の下に発足した。一方、国内レジスタンスを担ったのは、ドゴール将軍の意向を受けて1943年5月に設立された全国レジスタンス評議会(CNR)と種々のレジスタンス運動であった。CNRを結成して国内レジスタンスの統一に尽力したのは、拷問の末惨殺されたレジスタンスの英雄ジャン・ムーラン(Jean Moulin 1899-1943)であった。
新たな臨時政府が9月に成立した。ドゴールを首班に、ジョルジュ・ビドー(外相)、急進社会党のマンデス・フランス(国民経済相)、マイエール(運輸・公共事業相)、ルネ・カピタン(国民教育相)、ルネ・プレヴァン(植民地相)、その他社会党と共産党出身の閣僚がそれぞれ3名と2名という陣容だった。文字通り挙国一致内閣であった。
ドゴールが押さえたのは中央政府。フランスは地方の力が強く、特に戦争中に設立された県解放委員会(CDL)が大きな影響力をもっていた。パリの中央政府の権威は地方まで及ばず、事実上半独立的な権力を振るっていた。ドゴールは地方の動きを抑えるため、新たな県知事と一種の地方長官として17名の共和国監査官を指名し、1944年9月から10月にかけて、全国を回って彼らを激励し、人心を把握しようと努めた。その結果、ドゴールと臨時政府の権威は急速に回復されていった。