大江戸経済学 大坂堂島米会所


    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが江戸時代を経済学します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が江戸時代の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

大坂堂島米会所
(1)戦国は規制撤廃の時代  ( 2002年7月 1日)
(2)太閤検地から大坂登米  ( 2002年7月 8日)
(3)淀屋米市から始まる  ( 2002年7月15日)
(4)大岡越前守忠相公許 ( 2002年7月22日)
(5)米切手証券取引所の開設 ( 2002年7月29日)
(6)正米商内  ( 2002年8月 5日)
(7)帳合米商内  ( 2002年8月12日)
(8)虎市米相場  ( 2002年8月19日)
(9)世界の中の堂島  ( 2002年8月26日)
(10)消合場=クリアリング・ハウス  ( 2002年9月 2日)
(11)商業都市大坂の発展  ( 2002年9月 9日)
(12)識者はどのように評価したか?  ( 2002年10月 7日)
(13)21世紀の堂島  ( 2002年10月14日) ,br.,br.,br. (6)正米商内  ( 2002年8月 5日)
▲(7)帳合米商内  ( 2002年8月12日)
▲(8)虎市米相場  ( 2002年8月19日)
▲(9)世界の中の堂島  ( 2002年8月26日)
▲(10)消合場=クリアリング・ハウス  ( 2002年9月 2日)
▲(11)商業都市大坂の発展  ( 2002年9月 9日)
▲(12)識者はどのように評価したか?  ( 2002年10月 7日)
▲(13)21世紀の堂島  ( 2002年10月14日)

改革に燃えた幕臣経済官僚の夢
(1)荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度  ( 2002年2月11日 )
(2)田沼意次と、その協力者たち  ( 2002年2月18日 )
(3)冥加金・運上金など間接税重視の税制改革  ( 2002年2月25日 )
(4)鎖国中でも貿易赤字?  ( 2002年3月4日 )
(5)蝦夷地開発の志は文明開化によってやっと実現  ( 2002年3月11日 )
(6)まだまだあった田沼時代の改革  ( 2002年3月18日 )
(7)主役も、脇役も、観客まで燃えた改革ドラマ  ( 2002年3月25日 )
(8)幕府の財テクは年利1割の町人向け金融  ( 2002年6月3日 )

大江戸経済学
新春初夢、30年後の日本経済 江戸時代の先覚者に学び、封建制を捨てる農業  ( 2002年1月7日 )
江戸時代の百姓はけっこう豊かだった? 百姓が食べなかったら、収穫されたコメは誰が食べたのか?  ( 2002年3月25日 )
江戸町人の好奇心と遊び心 花卉園芸・元禄グルメ・西鶴  ( 2003年9月1日 )
稲の品種の使い分け 非情報化時代の情報網  ( 2003年9月8日 )
グローバリジェーションによって社会は進化する 幕末、金貨の大量流出  ( 2003年10月27日 )

大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済
趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、金融商品取引法に基づく合法のみ行為


大堂島米会所(1)
戦国は規制撤廃の時代
<戦国時代> 江戸時代大坂堂島にコメの取引所があって、先物取引まで行われていた。1730年の人口が約3,200万人。コメ消費者3,200万人時代に先物取引まで行われていた。1億2,000万人の現代は「自主流通米価格形成センター」で価格が決まっている。市場経済の時代にあってずいぶんとお粗末な価格形成制度でしかない。
 この先物取引はどのようにして制度化されたのだろうか?先ずコメを取り巻く当時の状況から検証してみよう。
大開墾・人口増 江戸時代のコメ問題を扱うとすれば、戦国時代から江戸時代初期の「大開墾・人口増」から扱うのが妥当なようだ。多くの文献はこの時代の用水土木工事の多いことから話を始めている。へそ曲がりのTANAKA1942bもこれに関しては定番の話の進め方をしよう。そこで先ず、大石慎三郎著「江戸時代」(中公新書 1977.8)から──
つくりかえられた沖積層平野 大土木工事の時代  ”天下分け目”といわれた関ヶ原の戦い(1600=慶長5年)を中心とし、その前後約60-70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から4代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を大きく変えた時代であった。ここで土木技術というのは広義のもので、それは大別して、
 (イ)鉱山開発技術──その結果日本は世界有数の金銀産出国となった。
 (ロ)築城技術──それは今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。
 (ハ)用水土木技術
の三分野に分けることができる。ここではこのなかで日本社会を変えるのにもっとも大きな役割をはたした用水土木技術について考えてみたい。
 いま土木学会で編集した「明治以前日本土木史」のなかから、古代から徳川時代の終りにあたる1867(慶応3)年までにわが国で行われた主要土木工事のなかで、用水土木関係工事を抜き出して年代別に表を作ってみると表1のようになる。
 全118件のうちで56件(47.46%)が戦国期から江戸時代初頭の約200年ほどのあいだに集中しており、なかんずく1596(慶長元)年から1672(寛文12)年まで徳川初頭77年間に42件(35.59%)とその集中度がとくに高い。つまりわが国における明治以前の用水土木工事は、戦国期から江戸時代初頭のあいだに、その半数が集中しているのである。
 しかもその内容をみると第一線級の大河川にたいする巨大土木工事がこの時期に集中しており、それまで洪水の氾濫原として放置されたままになっていた大河川下流の沖積層平野が、広大・肥沃な農耕地(主として水田)につくりかえられているのである。それはもしこれらのことがなければ、江戸時代ひいては明治移行のわが国の国土状況はないと言えるほどのものであった。
「明治以前日本土木史」 同じ「明治以前日本土木史」から集計したもので、別の表を引用してみよう。表2を見ると、河川工事は1601-1650に多く、溜池・用水路・新田開発はそれより50年後の、1651-1700に多いことが読みとれる。
表1 明治以前主要用水土木工事
年 代 この間 工事件数 百分率
-781(天応元) 781年 8件 6.78%
782(延暦元)-1191(建久2) 410年 8件 6.78%
1192(建久3)-1466(文正元) 275年 7件 5.93%
1467(応仁元)-1595(文禄4) 129年 14件 11.87%
1596(慶長元)-1672(寛文12) 77年 42件 35.59%
1673(延宝元)-1745(延享2) 73年 13件 11.02%
1746(延享3)-1867(慶応3) 122年 26件 22.03%
── ── 118件 100.0%
出典:「江戸時代」大石慎三郎 中公新書 1977年8月(23頁から引用) (土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成)
表2 耕地開発関係土木工事件数
時期(年) 河川工事 (%) 溜池 (%) 用水路 (%) 新田開発 (%)
1550年以前 25 (20.5) 46 (12.9) 24 ( 5.5) --
1551-1600 16 (13.1) 3 ( 0.8) 11 ( 2.5) 14 ( 1.4)
1601-1650 31 (25.4) 66 (18.5) 55 (12.5) 122 (12.2)
1651-1700 13 (10.7) 93 (26.1) 121 (27.9) 220 (22.1)
1701-1750 11 ( 9.0) 27 ( 7.6) 52 (12.0) 103 (10.3)
1751-1800 12 ( 9.8) 23 ( 6.4) 31 ( 7.2) 88 ( 8.8)
1801-1868 14 (11.5) 99 (27.7) 139 (32.2) 450 (45.2)
122 (100.0) 357 (100.0) 433 (100.0) 997 (100.0)
出典:「経済社会の成立―17〜18世紀」速水融、宮本又郎編著 岩波書店 1988年11月(45頁から引用)(土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成)
<軍事力の自由競争時代、そこでの経済的基盤> 室町幕府が崩壊し、戦国時代になると各地の武将が力を競い合う「自由競争時代」になる。武器、装備、戦略、陰謀、策略、人望などで競い合い、その基盤に経済力があった。その経済力とは、コメの生産力、金・銀鉱山、特産品、商業などであり、コメの増産には特に力が注がれた。戦国時代に新田開発が多くなったのは、軍事力の自由競争時代に勝ち抜くには、経済力増強そのためのコメ増産、そのための新田開発という強いインセンティブが働いていたためであり、大きな川を治め、沖積層平野を新田に作り替え、そこでのコメ増産という経済力を武器にする、それが戦国武将のサバイバル・ストラテジー(生き残り戦略)であった。
 戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。
 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。
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<高度成長を支えた、鉱山開発・楽市楽座・特産物> 戦国時代から江戸時代初期にかけては、日本鉱山史上画期的な時期にあたり、金銀の産出量と採掘・精錬技術の飛躍的な高まりが著しく、世界的にも有数な金銀産出国となった。戦国武将たちは城を中心に城下町を作り、そこでの商売の自由を保証し、領地内の特産物を奨励した。
 例えば武田信玄、釜無川治水=信玄堤に象徴される、なみなみならぬ耕地安定への努力、そしてそれに劣らず力を入れた金山開発。甲斐東山梨郡の黒川金山、西八代郡の駿河境に位置する中山金山、秩父山中南巨摩郡の芳山小沢金山などが知られている。また陸奥の伊達一族 は砂金という特産物によって抜群の財力を保つことが出来た。
 楽市楽座と言えば織田信長 の名が浮かぶが、この時代有力な武将は城を中心に町を作り、各種の優遇処置=規制緩和を行い、商業を奨励した。
 上杉謙信は1560(永禄3)年、春日山の城下である越後府内の町人たちに、諸役・鉄役を免除している。また1564(永禄7)年、越後柏崎に対しても、
当町へ諸商売に付(つき)て出入りの牛馬荷物等、近所所々に於いて新役停止(しんやくちょうじ)之事(近在で新役をかけてはならない) という制札をかかげて、町への自由出入りを保障し、その繁栄をはかった。北条氏の領内では、本城の小田原のほか、江戸・川越・松山・忍(おし)・岩付(槻)なども町場として発展し始めた。周防の大内氏や薩摩の島津氏は海外貿易により中国銭を大量に入手し中央に大きな発言力を持った。
 石見(いわみ)国大森の通称石見銀山はこの時代ゴールドラッシュのさきがけをなした鉱山として名高い。戦国時代にこの銀山のまわりには、山吹城と矢滝城が築かれ、その守りを固めていた。銀山というイメージとはおよそちぐはぐな、このものものしい装いは、当時この銀山がいかに諸大名たちの争奪の的になっていたかを物語っている。この銀山を手に入れようとして、 大内・尼子・毛利らが激しく争った歴史は、戦国時代の戦の複雑さをよく示している。
 灰吹法による銀の精錬が始まったのが1533(天文2)年のこと、この灰吹法が金の精錬にも応用され、これにより砂金採取に依存していた金の生産が鉱石からの採取に転換した。鉄の生産でも新しい技術が普及し、16世紀後半から良質の鉄鋼による鉄砲が生産され始めた。
 鉄砲とならんで、戦国の社会に大きな影響を与えたもう一つの外来品に木綿があった。絹のほか苧(お)・麻を繊維の主力としていた中世に対して、江戸時代は木綿の時代であり、その繊維革命が遂行されたのが16世紀の戦国時代であった。鉄砲と木綿、なんとも妙な取り合わせなのだが、この二つがほとんど平行して、導入・普及していった。それは軍事・経済・社会など広範な分野に革命的な衝撃を与えた。
 戦国時代とはそれまであった多くの規制が撤廃され、自由な競争が始まり、力のある武将・大名は大規模な公共事業に投資し、新しい産業が生まれ、新しい製品が普及し、それが軍事・経済・社会に大きな変革を起こした。それはちょうど市場経済での規制撤廃に似たものだった。この時代の規制撤廃から自由競争による社会の変革、それだけでHPのシリーズに取り上げたいテーマになりそうだ。と思いつつ、心残りであるがこの程度にして本来のテーマに戻ることにしよう。
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<治水が先か?利水が先か?> この時代大きな力を持った武将が、自由競争で勝ち抜くために大河川の治水工事を行い、新田を開発した。実際歴史に残るような用水工事をした武将がその後も生き残っている。この順序は、用水工事→治水工事→移住→利水工事→作付け、となる。これに対して、「そうではない、治水より利水の方が先だ」との説もある。
わが国水田の開発過程をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発が出来ない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民(あるいは士豪、小領主)による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果たすというのが普通であって、これが沖積低地開発の常道であった。この意味で利水は常に治水に先行する。それゆえ、大名による大規模な治水工事によって初めて沖積平野の開発が行われたということは、実状に合わないのである。 (速水融、宮本又郎編著『経済社会の成立―17〜18世紀』岩波書店 1988年11月 182頁から引用)
<赤米=インディカ米の導入>  今日私たち日本人が食べているのはジャポニカ米。インディカ米はチャーハンやカレーには適していると言われるが、市場で広く流通しているわけではない。ところが14世紀から19世紀にかけて、「とうぼし」(唐法師、唐干)あるいは「大唐米」「占城稲」という名の赤米種が広く作られていて、新田開発の過程で重要な役割を果たしていた。
 赤米が日本のどこで作付けされていたか?18世紀の状況では、
(1)九州・四国・紀伊半島の南部、つまり太平洋側が多かった。ここでは洪積層大地周辺の強湿田地帯で赤米が直播きされていた。農耕としてはかなり粗放的であり、しかも相当に後の時代まで(鹿児島の一部では昭和に入っても)存続する。
(2)八代、筑後、佐賀平野など干拓クリーク地帯、沖積平野の湿田や用水不足田。これらの地方では直播ではなく移植法による植え付けがなされていた。佐賀藩では1725年で、21%が赤米であった。それ以前17世紀ではこの比率はもっと高かったと思われる。
 日本で書かれた最初の農業技術書「清良記」(17世紀中頃の寛永から延宝の間に書かれたと推定される)によると、栽培される稲の品種は96あり、そのうち「太米」として次の8種が書かれている。

早太唐(はやたいとう) 白早太唐 唐法師 大唐餅 小唐餅 晩唐餅 唐稲青 野大唐

 当時「太米」は「太唐米(だいとうまい)」ともよばれ、総称として「唐法師」と言われたこともあった。これは米のなかでも、より野生に近く、したがって野生稲の色彩を保っていて、濃いあめ色の実がみのる。いわゆる「赤米」であった。
 この赤米は、米粒の細長いインディカ種で、炊きあげたのちの粘りけが少なく、食味としては日本では美味とされなかった。そのため値段は白米より安かった。ただし「清良記」は、赤米のまずさではなく、むしろ長所をあげている。「大唐餅」をのぞけば、痩せ地でもよく育つし、日照りにも強い。虫もつかない。風こぼれには弱いが、脱穀の手間がかからない。このように利点の多い稲で、おまけに飯に炊くと炊き増えする。
 農人の食して上々の稲なり。
というのが「清良記」の考えであった。
<赤米が新田開拓の先兵> さてこの赤米が戦国から江戸初期にかけて大きな意味をもつ。それは水田の面積拡大という方向に水稲生産の著しい伸長がみられた段階で、その主役を赤米が担っていたと考えられるからだ。新田は3年から5年くらいの鍬下年季の期間を決め、検地の猶予や無年貢・減免の処置にした。鍬下とは開墾途中との意味。水田は開墾してもすぐ収穫を期待できるわけではない。熟田と比べると劣悪な生産力しかなかった。そこで野生の強靱さを失っていない赤米は、この劣悪な水田で作られる主役であった。
 当時の開田は、平野部ではすでに熟田化していた丘陵寄りの部分から低湿地の河川近くの方向へ、また沿岸部干拓地では海岸近くの方へ順次工事が進められて来たと思われるので、それらの新田には多くの場合まず赤米種が作られ、その後になってその水田が漸次整備され熟田化するにつれて、従来の赤米が真米に代わり、さらにその先の低湿地の方に進んだ新開田地に赤米が作付けされるといった順序で、赤米→真米への転換が開田の順序に伴って繰り返されて来たのではないかと考えられる。すなわち、インディカ系の赤米は、沖積平野における新田開発の第1段階において「稲作のパイオニヤとしての役割」を果たしていた。
 戦国から江戸初期の新田開発は河川や河川の合流地に広く堆積した沖積地を水田化するようになる。これは大規模な工事で、しかもすぐに収穫が期待できるわけではなく、大変リスクの大きい事業であった。そう考えると、開発の順序<用水工事→注水工事→移住→利水工事→作付け>というのはリスクが大きく、すべての武将、大名がこの順序だったとは考えられない。そこで、<治水より利水の方が先だ>との説もそれなりの正当性があるようにも思えてくる。
 開発の順序、このように初めに百姓が動き、その後大名が大規模治水工事を開始した、という説。歴史というのは見方によっていろんな説が考えられる。武将・大名主導の開発というのが定説のようだが、赤米がこの時代多く生産されていた、ということに注目すると、百姓主導の新田開発説もそれらしく思えてくる。赤米のことを長々と取り上げたのは、歴史にはいろんな見方がある、ということを言いたかったからのこと。「素人歴史家は楽天的である」ということは「悲観的・自虐的な歴史観には眼を瞑っている場合もある」、との自覚をもってこのシリーズを続けて行くつもりです。 
( 2002年7月1日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(2)
太閤検地から大坂登米
<太閤検地> 「大坂堂島米会所」第2回は太閤検地から話を進めることにしよう。
 豊臣秀吉がまだ羽柴姓を名乗っていた1580(天正8)年、織田信長の奉行人として播磨検地の実務を担当した。その2年後の1582(天正10)年、秀吉が明智光秀を山崎に破った直後、山崎の寺社から土地台帳を徴収し、土地の所有関係の確認を行ったことに始まる。
 太閤検地によって、田畑を実際に耕作している百姓が特定された。これにより百姓の耕作権が保証され、それと同時に年貢納入の義務が生じた。百姓は耕作を放棄したり、商工業者などに転ずることは許されなかった。これは一地一作人(いっちいっさくにん)の原則と呼ばれる。検地帳に記載された百姓は土地に緊縛され住み替えの自由も、職業選択の自由もなくなるが、年貢は領主にだけ納め、中間搾取はなくなる。このように中間搾取のなくなることを作合(つくりあい)否定の原則と言う。
<室町→戦国→江戸>太閤検地がこの時代の転換点として大きな意味を持っている。室町時代、守護大名は 大田文(おおたぶみ)に登録された面積、つまり「公田」(こうでん)の面積しか守護段銭(しゅごだんせん)をかけることが出来なかった。長い間に開発された新田を繰り入れて段銭などの賦課対象にすることは出来なかった。その「新田」が「公田」を上回る事もあったにしてもだった。このため荘園領主や守護に掌握されない非公田部分の増加が、在地の国人や村々の小領主層を生み出す温床となっていた。太閤検地により、百姓を大名が直接支配する体制が確立した。
 検地とは領国の土地を郷村ごとに確実に把握するため、つまり 「貫高」(かんだか)の確定であった。この「貫高」は2つの側面を持っていた。(1)家臣たちが大名に対して負担する軍役の基準数値。(2)郷村の負担すべき年貢高・役高。このように大名が領主として領地を支配するための基礎資料であった。太閤検地は豊臣秀吉が全国規模で行ったものであったが、それ以前にも有力大名が検地を行っている。
 今川義元は1541(天文10)年に遠江の見附(静岡県磐田市見付)で検地を行っている。この時、本年貢100貫に対して増分50貫、つまり検地により「増分踏出」(ぞうぶんふみだし) が行われた。北条氏は1567(永禄10)年に武蔵国宮寺郷志村で検地を行い、ほぼ100%の踏出増分を検出している。武田領国の検地も、踏出増分が本年貢を上まわるほどきびく行われている。しかし太閤検地以前では作合が否定されたり、されなかったりだった。百姓身分のなかで中間的な地代収取である「名主加持子」(みょうしゅかじし) (地主の小作料的取り分)あるいは 「百姓内徳」(ひゃくしょうないとく)(百姓の手許に内々残される取り分)の部分を極力圧縮して、年貢を増徴しようとした。
<七公三民> 江戸時代の年貢率は「七公三民」と言われている。これは「年貢率で領主と百姓の意見があわなければ、刈り取った稲を3つに分けて、その2つを領主に、1つを百姓が取る、とすべし」という基準を1596(文禄5)年に石田三成が、その領地近江で公布している。このように年貢取立を毛見(実地検査)の上で、3分の2を「給人」(領主)、3分の1を「百姓」が取る、という基準は1584(天正12)年の資料でも知りうる。 (年貢米については、「必ずしも七公三民ではなかった」との説もある)
  其方知行分水際之事、検見上を以、三分一百姓遣之、三分の二可有収納候。〇不可有相違之状如件。
  天正12(1584)年7月24日     秀吉(花押)
  山崎源太左衛門殿

 太閤検地で決定した全国の総石高は約1850万石。そのうち領主が 2/3を取り上げるとしたら、1230万石あまりが年貢として取り立てられる事になる。ではその米は誰が食べたのだろうか?領主が取立て、武士が消費しただけでは余ってしまう。大坂堂島淀屋の庭先での「淀屋米市」は未だ始まっていない。秀吉の時代には米市場が整っていなかったので、年貢米を貨幣に替えることは難しかった。
 そんなに取り立ててどうしたのか?その答えは「戦国時代だった」。つまり戦時体制であちこちに、短期間のうちにいくつもの城を築いた。各地でふだんは百姓でもパートの築城工事人足が必要になる。「コメを腹一杯食べたければ、築城工事に出てこい」と号令をかける。百姓のうち領主の行う「公共事業」に参加する者はコメを十分食べられた。
 なお「太閤検地の歴史的意味」や「封建制」「feudalism」の解釈などでなにやら専門家の間で論争があるようだが、アマチュア・エコノミストの肌には合わない論争のようなので、ここでは無視するとしよう。
<炭坑労働者にコメ6合> コメを公共事業に参加する労働者への給料として使うのは、ずっと後の時代、終戦直後に例がある。1947年初めから石炭、鉄鋼への資材・資金・労働力の傾斜的配分が強化される。1947年度には3,000万トンの石炭確保が至上命令とされた。炭坑労働者には6合、その家族には3合のお米が配給され、NHKは木曜日午後8時からの今でいうゴールデンアワーに「炭坑に送る夕」を放送した。
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<初期の大坂登米> 戦国時代が終わりに近づき築城ラッシュは終わる。領主・大名はコメを公共投資の原資として使うことがなくなる。百姓に築城工事の報酬としてのコメは、しかしそれだけであり、他の目的のためには金・銀・銭などの貨幣に替える必要が生じた。年貢米を貨幣に替えるために、領地内で民間の商人を使って処分し始めた。この場合は市場での取引と言うよりも、相対取引であった。相場が立っているわけでもなく、すぐに現金化出来るわけでもなかった。そこで各藩は年貢米現金に替える場所として大坂を選ぶことになる。
 各藩がどのようにして大坂登米を始めたか、いくつかの例を引いてみよう。
(1) 大坂登米として古いものとしては、1614(慶長19)年に加藤肥後守忠広、黒田筑前守長政、浅野但馬守長晟、福島左衛門大夫政則などの米が8万石あった、との記録があるがこれは販売用ではなくて、大坂冬の陣に備え大坂籠城のためであったらしい。大坂に米を備蓄していただけでなく、むしろ買い入れている事からも、兵糧米であったと考えられる。 
(2)長州藩では1609(慶長14)年4月2日付の輝元書状に「年内何とぞ米大坂へ大分上せ度事」とあるように、大坂へ登米を行っていた。当時長州藩は大坂に蔵屋敷をおいていて、登米高は4万石もあったと思われるが、1697(元禄10)年には8万石にのぼっていることから、恒常的な廻米態勢が整えられたわけではなかった。
(3)細川藩では1623(元和9)年大坂登米が行われ、その量は3500-3700石前後であったらしい。これは大坂で売却されているが、当時海上運送が整備されず、運賃や損米が大きかった時代なので経済的に成り立つとは考えられない。試験的なものであったろう。
(4)佐賀藩では1605(慶長10)年に大坂に蔵屋敷を持ち、大坂登米の記録があるが、米の渡し方や蔵出しに付いての規定だけで、売却仕方や代銀処理に付いては何の定めもなかったと言われる。
 これらのことから慶長・元和期に16万石ないし4,50万石の西南諸国の領主米が大坂へ廻送されたとしても、恒常的な商品流通としてのものではなかったと考えられる。「全国市場としての大坂米市場」の成立はもう少し後の事になる。
<西国諸藩の大坂登米>少し時代が下がって、寛永中期以降の状況を見てみよう。
(1)細川藩は1629(寛永6)年に大坂払米は1万石近くになっている。この時「もみ小米ぬかましり」が入らぬよう国中に触れを出している。これは米が商品として意識され始めたためだろう。1632(寛永9)年細川氏は熊本に転封され、大坂廻米は小倉時代より地理的に不利になったが、外港の整備など廻米態勢を整え、1634(寛永11)年には4万1千石の大坂廻米の輸送能力を持ち、元禄期には3-4万石、元禄末期には8万石の大坂廻米を行うようになった。
(2)岡山藩では1669(寛文9)年に2万8千石の大坂登米を行っている。
(3)萩藩では1615(元和元)年に1万7千石、1643(寛永20)年に1万9千石、それが1653(承応2)年には5万石、元禄末には6-7万石になる。
 これらのことから、西国諸藩は寛永中期から寛文期にかけて大坂廻米を増加、定量・恒常化し、それに適合する制度や設備を整えていった。そしてこのように大坂はまず西国諸藩の領主米市場として成立しくことになる。
<北国諸藩の大坂登米>西国諸藩に比べて北国諸藩の大坂登米は少しあとになってからだった。それには河村瑞軒の西回り航路の整備も関係してくる。
(1)加賀藩では1638(寛永15)年に試験的に1千石を、1644(寛永21)年に1万石を大坂に直送している。1647(正保4)年には初めて上方船が加賀へ来航し、1691(元禄4)年には20万石を送っている。
(2)越後における西廻り海運の開始は明暦期ごろで、大坂廻米開始は高田藩が1656(明暦2)年、庄内藩は1674(延宝2)年、そして1668(寛文8)年に村上藩が江戸藩邸に送った払米代金の62%は大坂での払米代金であったというから、大坂登米が藩財政の根幹をなすようになったと言えるだろう。
(3)弘前藩の大坂登米開始は1672(寛文12)年からで、全上方廻米4万石を大坂着とするようになったのは1687(貞享4)からであると言われている。
<江戸への廻米> 江戸へ各地方から米が集まって来るようになった初めは、伊達の仙台藩からのものであった。仙台藩は東北地方有数の米生産藩であり、江戸に近いという有利な条件もあったので、百姓から年貢米以外の米を買い上げて江戸で売却する「買米仕法」を行った。このように仙台藩から江戸へ廻米されるのはほぼ1626(寛永3)年ごろと考えられる。美味な仙台米は江戸市場で大いに注目されたが、このほかに江戸には、東北、関東、中部などからも集まってきた。南部・仙台・会津・福島(越後の一部)・関八州・甲州・信州・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・美濃・伊勢などの地域が、享保期に江戸市場圏に属したと考えられている。
 大坂こそ「天下の台所」とみる考えと、江戸もそれに劣らず大きな商圏であった、との考えがある。
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<町人蔵元制> 諸藩の米が大坂に集まり始めた。未だ米市場は整っていない。諸藩は大坂登米をどのように管理し、現銀貨(大坂は銀が主要通貨)していたのだろうか? 17世紀中頃から、西国諸藩を中心に、そして少し遅れて北国諸藩が積極的に大坂登米を行うようになる。各藩により多少違うが、七公三民の年貢はそれを現銀化(現金化)しなければ武士・町人階級だけでは食べ切れない。各藩共に登米量が多くなるに従って、輸送・管理・処分方法が変わってくる。
 各藩とも大坂登米を始めた頃は、中世以来の問・問丸・座商人あるいは朱印船貿易に関係していた豪商にすべてを依頼していた。遠距離輸送手段として船、保管手段としての倉庫、士豪として船仲間・水主を支配し、各地の経済情報に明るく、商取引の方法を熟知していて、さらに相応の武力を有するなど、当時隔地間流通を担える唯一の勢力であった。しかしこれは領主の管理が行き届かず、トラブルも多く、効率も悪かった。このため領内から最終消費地までの年貢米の輸送・保管・販売を自己の計算で行うために、領内では港湾や輸送ルートの整備、コメの品質・俵こしらえの管理などを行い、大坂では水運や商取引の便の良いところに蔵屋敷を設置し、専門の官吏を派遣し、大坂で成長してきた輸送・商品取引・金融の専門業者を蔵屋敷関係商人に登用したのであった。
<江戸時代の藩主と現代の百姓> 初期には豪商に一括依頼、次に藩が独自で管理販売に当たり、さらに専門業者に委託、アウト・ソーシングと変化していった。これを現代風に喩えればこうなる。コメを市場で売却して現金にしたい。しかし方法が分からない。そこで何でも分かっている業者にすべてを任せる。当時は豪商、現代は農協。どこで、誰に、いくらで売るか、すべてお任せ。当時は豪商から現銀を回収出来ないこともあった。現代では農協に任せていればそういう心配はない。しかし出荷したものがいくらで売れたのか、いつ入金になるのか直ぐには分からない。
 そこで藩主は考えた。「なるべく自前で対処しよう」と。そこで藩の役人が運送業者、保管人、販売業者をいくつか選び、使い分けようとする。現代の百姓は集荷業者をいくつか選び競争させる。どこの市場で売却すると有利か、あるいはネットを使った産直がいいか、生協などの会員制業者がメリットあるか、など研究する。
 すべてを藩の役人が指示していたが今ひとつスムーズにいかない。「餅は餅屋に任せろ」でそれぞれ専門業者を利用する。業者はブローカーからトレーダーへと変化する。つまり売買差益で利潤を上げるのではなく、口銭で儲けるようになる。現代ではどうなるだろうか?現代では集荷業者も輸送業者も競争するほど数がない。コメは自由な市場さえ整っていないし、「整えるべきだ」との主張も聞かれない。
 農協の考えは
「今後、わが国で農産物先物取引が進展していくかどうかについては、まず第一が商品の価格変動が激しいこと、第二が簡単に買い占め等ができない、ある一定程度以上の市場規模があることが先物取引が成立し得る要件となる。まさに市場原理の徹底に伴い、先物取引が必要とされるような価格変動を余儀なくされる情勢へと変化しているわけではあるが、大きな内外格差の存在等による輸入農産物の増大、コメ等の消費減退などによって農産物価格は低迷しており、。農業経営はきわめて厳しく、わが国農業の再生確保、農業の存在自体が脅かされているのであって、まずは所得安定政策が求められているのが現状である。
 すなわち、直接支払いによる所得確保対策が優先して求められているのであり、、これがあってこそ価格安定対策が生き、現在の危機を乗り越えていく展望も開けようというものである」
 「当初、農産物の先物取引の調査を始めたとき、生産者側からみて、リスク管理の一環として先物取引が利用される可能性があるのかという問題意識をもっていた。その後、調査を進める過程で、農産物の生産・流通機構・価格決定方式、農家の零細性等から判断して、現状では生産者のリスク管理のための先物取引の役割は限定されるという認識に至った」  「国内農産物の先物取引」 農林中金総合研究所編  家の光協会 2001年4月 から引用)
( 2002年7月8日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(3)
淀屋米市から始まる
 幕府公認の米会所設立が1730(享保15)年、それ以前北浜に「淀屋米市」と呼ばれる米市場があった。米会所はこれからの伝統を受け継ぎ、さらに発展させたものだった。その淀屋米市について江戸時代に書かれたものを引用しよう。
<芦政秘録から> 大坂米市場の儀は、往古同所富豪の町人淀屋辰五郎、三代以前淀屋与衛門と申す者、諸家大坂廻米一手に引受け、日々売出候につき、右居宅近辺土佐堀川筋、淀屋橋南詰へ所々米商人大勢寄り集り、米売買仕来候事の由、是れ今の正米相場の始なり。 右の古風を以て、当時にても、毎年正月初市の節、堂島米仲買ども、淀屋橋浜へ寄り集り、市立致し候由、然るに前書辰五郎に至って、宝永年中公裁に依り、同人家名断絶に及び候につき、右浜へ寄り集り候米商人ども今の堂嶋の地へ引移り、其後も相変らず、米相場連綿相続致し候に随ひ、正米商内のみにては、土地に有る物、際限もこれ有り、売繁、買繁の見込出来難く、売買片寄り、自然取引手狭に相成り、諸国普通の米直段相立申さず候については、堂嶋米商人の内、柴屋七衛門外壱人(編者注、備前屋権兵衛)発意にて、建物米と申すものを定め、切月限日を極め、右日限迄の内、空米を以て延売買の仕方工風致し候、是れ流相場帳合商ひの始めなり。
 右延売買相始め候より、諸国の人気弥増宜しく、市場繁昌致し候につき、延売買取引数口に相成候故、混乱これ無きため、支配人を拵え、歩銀と唱え、銀壱貫につき、何程づつと賃銀を差す遣はし、取扱はせ候事の由、是れ米方両替屋の始めなり。 (芦政秘録 米市場起立之事 から引用)
<難波の春から> 昔は、大坂に諸大名の蔵屋敷などといふものもなく、米問屋少しばかりありて、其者共方へ、諸家より、米を積登せ、売払ひ様子にて、其中に、淀屋辰五郎といふは、富豪の者故、多くは、此者方へ積み送り、次第に商売手広になり、終に、諸国の米を辰五郎の門口にて、市をなし売買せしとぞ。 これ堂嶋米相場の起りといふ。今の米市の株、御免になりしは、寛永度、御上洛の時の頃なるよし。其後、淀屋の身上潰れ、追々諸家の蔵屋敷出来て、当時のごとくなりし事ぞ。今も正米仲買株の内にて、古株と唱ふるものは、初発の米問屋の子孫なるよし。初め、淀屋辰五郎方にて、始まりし米市故、今も正月の初相場、四日五日の両日は、其旧跡淀屋橋南詰東へ入る所にて、夜八ツ時頃より明くなるまで、市始めをするを吉例とするとぞ。 (難波の春 堂嶋米市基立並米市仕方の事 から引用)
<大坂の三大市場> 「天下の台所」大坂には食糧関係の大きな市場が3つあった。それは本題「堂島米会所」と天満(てんま)の青物市と雑喉場(ざこば)の魚市場であった。
 天満の青物市場は、はじめ京橋にあったものが1616(元和2)年に再開され、その後移転して1653(承応2)年天神橋に移っている。「大坂天満の青物市場、大根揃えて船に積む」というようなことが言われたほどの発展ぶりであった。
 雑喉場の魚市場は、はじめ1597(慶長2)年に靱町に置かれたが、1618(元和4)年に上魚町に移ったのを機に大坂で唯一の魚市場となって独占権を得ている。井原西鶴は「日本永代蔵」で、 又とたぐいなきは雑喉場の朝市、取りわけ春は魚島の肴、早船五手の櫓に汗玉を乱して、問屋の岸に着く。 と書いている。
<名代・蔵元・掛屋> 淀屋の米市が開かれる迄に諸藩の大坂での対応はどのように変わっていったのか、<名代・蔵元・掛屋>を中心にみてみよう。各藩が大坂登米を始めた頃、その流通を担っていたのは前の時代から各地で活躍していた士豪的商人であった。一度年貢米として集めた米を丸投げして商人に任せていた。こうしたブローカーに任せるのは経済的にメリットが少ないし、信頼も置けなかった。そこで藩が流通をコントロールしようとする。そして大坂に蔵屋敷を設置し、新しい商人から蔵元、掛屋を登用する(幕府により大名の大坂での屋敷所有は禁じられていた。そこで名義は町人の、実質は各藩のものであった)。初めの内は蔵屋敷を設置してもその運営に当たる蔵元は藩の役人が担当していた。1644(寛永21)年頃から各藩とも徐々に町人蔵元へと替わっていく。廻米量が多くなり、蔵屋敷での仕事量が多くなると商売に疎い藩役人では効率が悪くなる。そこで取引に明るい町人が起用されるようになったわけだ。
名代大坂で屋敷を持つことを禁じられた大名が自己の蔵屋敷の名義人として指名した町人が名代であった。 蔵元とは蔵物の管理・出納にあたる者。 掛屋は蔵物代金の受領・保管・送金を担当する者であった。現代風に言えば、名代=社長、蔵元=営業部長、掛屋=財務部長とでもなるのだろうか。ただしこの構成は藩によって違い、一人三役だったり、誰かが欠けていたり、と様々だった。 さて、この営業部長に当たる町人蔵元は以前の士豪的商人と違ってブローカーではなく、トレーダーであった。ブローカーは一度藩から米を買い、自己才覚により売却しその差益を利益とする。これに対してトレーダーは売り手と買い手の間に入り売買口銭を利益とする。このように町人蔵元は、蔵米の管理・入札仲買の選定・入札立会がその主な業務となった。
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「1枚の手形、1日の内に10人の手に渡り」 1654(承応3)年、大坂町奉行所は触れを布告して、「米中買候もの、蔵元之米を買、三分一程の代銀を出し、勿論日切之約束ハ雖有之、其日限を延し、手形を順々に売候ニ付きて、米之直段高値に成候、此売買先年ハ無之候」「一枚之手形一日之内に十人之手に渡り」と、蔵屋敷で売却された米について3分の1の代銀が支払われれば、手形が発行され、これが転々と売買されるようになっていることを指摘し、これを禁止している。同じような触れは1660(万治3)年にも、1663(寛文3)年にも出している。このことから米手形の売買、米市が広く行われていたことを示している。
<米市での取引> 蔵屋敷では藩もとから米が来ると、入札の公告をし、蔵屋敷で入札を行う。落札した業者は代金(大坂なので代銀)3分の1を入れ、蔵屋敷発行の代銀受取証である米手形を受け取る。30日以内に米手形と残銀を持参して、蔵屋敷から米を受け取る。これが初期の取引形態であった。
 この取引が時代と共に少しずつ変わっていく。先ず大坂奉行所の触れにもあるように、米手形が転売されていく。そうすると、米手形の売買は米現物の需給に関係なく、投機の対象となっていく。幕府が禁止したのは、米手形が投機の対象になり、このため米の価格が騰貴していると考えたからだった。さらに米の蔵出し期限の30日が無制限に延長されていく。これは蔵元にとっても手形所有者にとっても期限はない方が良かった。さらに取引が多くなるに連れて、米手形は大坂未着米についても発行されるようになった。奉行所でもそれに気づいていて、触れの中で次のように言っている「蔵元ニ無之米を先手形を売渡し、三分一敷銀を取、連々ニ米を差のほセられ候旁も有之様」このように取引きが変化していくと、青物市場や魚市場のような現物取引の市場(いちば)から、先物取引の市場(しじょう)に性格が変化していく。それも誰か特別な人間がリードしたのではなく、市場取引に参加する商人たち、つまりマネー・ゲームのプレーヤーたちの知恵が市場での取引を進化させていったのだった。しかし奉行には理解出来なかった。だからこのような触れが何度も出されたのだったし、後に米市を禁止し、その後公認するのも、この仕組みとその利点を理解していなかったからだった。 将軍吉宗も大岡越前守忠相もこのメカニズムは理解していなかった。そうして現代でも関係者の中に理解できない人たちが多くいる。日本の農業発展のためにとても残念なことだ。
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<淀屋辰五郎>淀屋の米市について、「大阪市の歴史」から引用しよう。
 大坂の豪商として淀屋辰五郎の名前は有名である。大変な金持ちで豪奢な生活ぶりが幕府のにらむところとなり、五代目辰五郎(三郎右衛門)のとき財産を没収されたと伝えられている(淀屋の闕所)。この淀屋は山城の岡本荘出身で、岡本氏を名乗っていた。豊臣時代に初代の常安が材木商を大坂十三人町(十三軒町ともいう、のち大川町)で始め、大坂の陣では徳川家康の陣小屋を作ったとされ、その褒美として山城国八幡に土地をもらい、大坂に入る干鰯(ほしか)の運上銀を与えられたという。常安は開発町人の一人で、中之島を開発し、常安町・常安橋はその名残である。二代目三郎右衛門言当(ことまさ)は个庵(こあん)ともいい、京橋青物市場の開設や葭島(よしじま)の開発、 糸割符(いとわっぷ)の配分にも尽力した。しかし个庵の事跡として著名なものは米市である。淀屋は諸国から大坂に上がってくる諸藩の米を売りさばくことを請負う蔵元を務めていたが、北浜の店先で市を開き、これが米市場の始めとなった。この市に讃歌する人々の便宜ため私費で土佐堀川に架けたのが淀屋橋である。淀屋の米市は北浜の米市とも呼ばれ、多くの米問屋が集住していた。この北浜の米市は元禄10(1697)年ころに新たに開発された堂島新地に移り、堂島米市場として賑わうようになった。 (「大阪市の歴史」大阪市史編纂所 創元社 1999年4月 から引用)
「両人手打ちして後は、少しもこれに相違なかりき」
淀屋米市がどんなであったか?これもまた江戸時代の文を引用しよう。1688(貞享5・元禄元)年に書かれた井原西鶴の「日本永代蔵」、その中の巻1「波風静かに神通丸」からを、暉峻康隆の現代語訳で紹介しよう
 いったい北浜の米市は、大坂が日本一の港だからこそ、 ちょっとのまに五万貫目の立会い商い(現物なしの取引 差金取引)もできるのである。その米は蔵々に山と積みかさね、商人(あきんど)たちは夕べの嵐につけ朝(あした)の雨につけ、日和(ひより)に気をくばり、雲の立ち方を考え、前夜の思惑で売る人もあり、買う人もある。一石についてのわずかな相場の上がり下がりをあらそい、山のように群衆し、たがいに顔を見知った人には、千石万石の米をも売買するのだが、いったん契約の手打ちをした後は、すこしもそれに違反することがない。世間では金銀の貸し借りをするには、借用証書に保証人の印判をおし「何時なりとも御用次第に相渡し申すべく候」などど定めたことでさえ、その約束をのばし、訴訟沙汰になることが多い。それなのにこの米市では、あてにもならぬ雲行きをあてにして契約をたがえず、約束の日限どおりに損得かまわず取引をすますのは、日本第一の大商人の太っ腹をしめすもので、またそれだけ派手な暮らしをしているのである。
 難波橋(なにわばし 下流に中之島・北浜の河岸が見渡せる)から西を見渡した風景はさまざまで、数千軒の問屋が棟をならべ、白壁は雪の曙になさり、杉なり(三角形のこと)に積み上げた俵は、 あたかも山がそのまま動くように人馬につけて送ると、大道がとどろき、地雷が破裂したかのようである。上荷船(うわにぶね 20石積み)や茶船(10石積みの川船)がかぎりなく川波にうかんでいるさまは、秋の柳の枯葉がちらばっているようである。先を争って米刺(こめざし 俵米の品質を調べるため、俵に突き刺し米を取り出す七寸余の竹筒)をふりまわす若い者の勢いは、虎臥す竹の林と見え、大福帳は雲のようにひるがえり、算盤をはじく音は霰がたばしるようである。天秤の針口をたたく(針の動きを調節するため、天秤中央上部の針口=針の平均を示す所を小槌でたたく)音は、昼夜十二時を告げる鐘の響きにまさり、家々の威勢に暖簾もひるがえっている。 (井原西鶴 「日本永代蔵」1688(貞享5)年1月刊  暉峻康隆訳 小学館 1992年4月 巻1「波風静かに神通丸」から引用) 
( 2002年7月15日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(4)
大岡越前守忠相公許
<淀屋の闕所> 井原西鶴が「日本永代蔵」の中で「両人手打ちして後は、少しもこれに相違なかりき」と表現した、「淀屋の米市」も淀屋五代目広当(ひろまさ)で終わる。このあたりの事情を「大阪市の歴史」(大阪市史編纂所 創元社 1999年4月発行)から引用しよう。
 淀屋は初代常安、二代目个庵(こあん)の時期に日本一の豪商に成長した。それは、諸大名蔵米・蔵物販売や大名貸(がし)を行ったことによっている。淀屋が驕奢(きょうしゃ)として知られているのは、四代重当(しげまさ)のこととされるが、その有様を当時の「元正間記(げんしょうかんき)」は、
  家作の美麗たとへて言へき様なし、大書院・小書院きん張付、金ふすま、(中略)ひいとろの障子を立、天井も同しひいとろにて張詰め、清水をたたへて金魚・銀魚を放し
と記している。建物は金を張り詰めて金のふすまを立て、夏にはビードロ(ガラス)の障子をめぐらせ、天井にもガラスを張ってそのなかに金魚・銀魚を泳がせたというのである。誇張もかなりあると思われるが、いかに豪奢な生活ぶりかがわかる。四代目の重当は経営にはまったく関与しなかったといわれている。そのため、大名からの返金もしだいに滞るようになり、経営が悪化した。
 淀屋の闕所として知られているのは、1705(宝永2)年、五代目広当(ひろまさ)が新町遊郭に通い、吾妻大夫(あずまだゆう)を身請けしたが、その2,000両という金を工面するため、淀屋の手代が第三者の印判を偽造し、天王寺屋を信用させて金を借りたが、これがのちに発覚し、手代は逐電したため当主の広当が捕らえられ、吟味の結果、印判偽造(謀判)は死罪であるが、減刑されて闕所・所払いになったというものである。 広当は19歳とも22歳とも伝えられている。身請けの金策かどうかは断定できないが、手代が今でいう私文書偽造を行い、偽印を使用したことで処罰されたのである。普通辰五郎とされるが、辰五郎を名乗ったのは二代言当と四代重当目であり、通常辰五郎といわれているのは四代と五代を混同してのことと考えられる。
<江戸町人の米会所>淀屋の米市から1730(享保15)年までの間にも米会所開設が試みられる。その状況を「大坂府史」(大坂府史編集専門委員会編 大阪府発行 1977年3月)から引用しよう。
 堂島米市場は1697(元禄10)年のころ開設されたが、幕府は米価統制の目的をもって、1716(正徳末・享保元)年から、大坂での米市場設立を江戸町人に公認する方針をとった。その結果、1725(享保10)年12月、江戸町人の紀伊国屋源兵衛・大坂屋利右衛門・野村屋甚兵衛の3人に大坂御為替御用会所の設立が認められた。 これはさきに正徳5年ー享保元年のころ開設された米座御為替御用会所が1722(享保7)年に閉鎖となっていたので、その後をうけて米価調節のための機関としての役割が期待されたからである。
 この御為替米御用会所では正米取引を建前としたが、会所の外では投機取引の一面を持つ延売買も行われており、建前と実際とは違っていた。ところが、この会所もさきの米座御為替御用会所と同じように、会所における取引は繁栄せず、1年後の1726(享保11)年12月には廃止となった。
 翌1727(享保12)年3月、幕府は江戸の中川清三郎・川口茂右衛門・久保田孫兵衛の3名に堂島永来町御用会所の開設を公認した。この会所は堂島永来町(明治5年堂島裏2丁目と堂島舟大工町の一部となり、のちに北区堂島1丁目となる)の町年寄であった塩谷庄次郎の屋敷に設けられた。この処置に対し、翌1728(享保13)年6月、大坂の米仲買604人は河内屋儀兵衛・福島屋久右衛門・田辺善左衛門・境屋善衛門・加島屋清兵衛の5名を惣代に選び、江戸に派遣して御用会所の廃止と延売買の公認を勘定奉行に願い出た。こうした動きに対し、勘定奉行から大坂町奉行に問い合わせた結果、御用会所が開設されても米仲買は悪影響を受けていないという報告があって、出願は却下されたが、その後も米仲買惣代は執拗に運動を続け、老中水野忠之に直訴するなど、御用会所設立後における大坂米仲買および米小売商の窮状を説いたので、幕府当局もその実状を認め、江戸町奉行大岡忠相の裁断により、 1728(享保13)年2月1日をもって御用会所は廃止となった。このとき延売買の公認については取り上げず、それまで大坂米商人仲間が非合法におこなってきた延売買の商習慣をそばらく黙認するかたちとなった。
 このような地元大坂町人の強い繁多にもかかわらず、幕府は1730(享保15)年5月には江戸商人の冬木善太郎・杉田新兵衛・伊勢屋万右衛門・枌木平四郎・冬木彦六の5名の出願を認め、北浜冬木が開設されることになった。同会所は北浜1丁目の天王寺屋平助方に設けられ、他所においては蔵米の取引は禁止された。度重なる幕府の処置に対して、大坂米仲買は田辺屋藤左衛門・加島屋清兵衛・尾崎屋藤兵衛の3名を惣代に選び、冬木会所の廃止と延売買の公認を願い出で、その結果、幕府は大岡忠相の裁断により、冬木会所の廃止と大坂における帳合取引の完全実施が認められた。このようにして、1730(享保15)年8月に堂島の帳合米市場が成立した。 (「大阪府史」 大阪府史編纂専門委員会編 大阪府発行 1977年3月 から引用)
<触書>1730(享保15)年8月、ここに「堂島米会所」が開かれることになった。この事情を江戸時代に書かれた「芦政秘録」から引用しよう。 近来米相場の儀につき、願ひ出これ有るによって、米商人ども、覚束なく存じ、相場の障りに相なり候と相聞え候間、向後、右の願更に取り上げざる筈に候。大坂米売買の儀は、古来より致し来り候仕方を以て、流相場商ひ、諸国商人、大坂仲買、勝手次第に致すべく候。両替屋の儀も、在り来たりの五十軒の者取り計ひ、敷銀其外相場差引勘定等の儀、前々の通りに致し、商ひ障りになり申さざるよう仕るべく候。尤、冬木善太郎米会所の儀は相止め候。取組古来より有り来たりの儀はこれ無く、若し古来よりこれ無き儀を新規に拵え出し、古法と紛はしき儀これ有らば、詮議の上、急度曲事に申付くべく候。米商ひについては、公事訴訟在り来たりの通り取り上げず候。然る上は在り来たりの外においては格別に候。惣じて、仲買自分の趣意を以て、猥りに騒がしき儀これ無きやう致すべく候。
右の通り江戸表より仰せ下され候間、三郷町中洩れざるやう相触るべきものなり。
   享保十五戌年八月十三日
 右の通り町触これ有り、一統御仁徳有り難く仰ぎ奉り、前々の通り、正米帳合米とも、手広に売買致し候については、日々市場は勿論、其外とも繁昌弥増し候折節、同十六亥年(1731)十月、江戸表より御内意これ有り、米仲買老分、加嶋屋久右衛門外四人を、大阪町奉行所へ召し呼ばせられ、近来米値段格外下値にて諸向差支へ候につき、程よき値段に相成るべき見込みこれ無きやと内密に糺しこれ有り候処、米仲買人数を極め、無冥加にた株に仰付けられ、右の者どもに限り、諸家払米入札を以て買請候やう相成り候はば、自然値段締まり、上下の御引き立てに相成るべき旨、久右衛門外四人の者申上候につき、其の趣、江戸表へ御伺ひの上、同十二月堂嶋米仲買の儀、無冥加にて株札相渡され、諸家払米入札を以て買請候筈に仰せ渡され候処、果して右五人申立ての通り、上下差支これ無き程の米値段に相成り候につき、其規模を以て、久右衛門外四人を、米方年寄に仰付られ候。是れ米方年行司の始なり。其節米方両替屋も同様仲間に相成り候事。 (島本得一編「堂嶋米会所文献集」所書店 1970年9月発行 の中の「芦政秘録」米市場起立之事 から引用)
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<幕府・吉宗・忠相の思惑>淀屋米市から堂島米会所までの流れを見てきた。歴史の事実関係は上記が主要な出来事で、大きな漏れはないと思うが、少し解説を加えた方がいいようだ。
淀屋闕所の真相1705(宝永2)年、五代目広当(ひろまさ)の不始末により淀屋もその輝かしい歴史を終えることになった。 「大阪市の歴史」ではこの間の事情に詳しいが、他の文献ではあまり触れられていない。 今ひとつ不透明な感じがする。これは淀屋の不始末だけでなく、何か幕府の思惑があったのではないだろうか?
 1654(承応3)年以降幕府は大阪での米取引に対して、米切手の転売を禁じている。再三禁じているということは、禁じても禁じてもなくならない、幕府の威信が低下する。一方淀屋は豪奢な生活をしている。コメは諸物価に比べ高い。米切手が転売される毎に高くなっていく。米市場の延べ売買がコメ高値の原因と見ていたのだろう。「憎き淀屋」との意識が有ったに違いない。 とすると、淀屋はスケープゴートのされたのかも知れない。全くの冤罪でないにしても、見せしめ、との意識があったと思われる。
米市禁止から許可へ
幕府は再三米市を禁止している。これは米市が、特に立会い商い(現物なしの取引 延べ売買)が米高を招いていると考えていた。米将軍と言われた吉宗は米価格の安定を主要な政策目標にしていた。 そこで米高の時には米市を禁止したが、米安諸色高になると、今度は米市を利用しようと考えた。そこで米市禁止から容認へ政策変更する。 それは<触書>の後半にあるように、米会所で買い支え米高を目論んでいることからもそれが分かる。つまり江戸時代のPKO(プライス・キーピング・オペレーション)だ。 「市場の値動きをコントロールしようなどど、無謀なことを考えたものだ」などど言わないこと。現代でも政府・自民党の実力者が同じ様なこと「株価が安い。3月決算で銀行の自己資本立が低くなる。株価を高めよう」との考えは、江戸時代の将軍吉宗と大岡忠相程度の経済学知識の発想だ。堂島の大坂米仲買よりもレベルが低い。
何故江戸町人に許可したか?
大阪の米会所を何故江戸町人に許可したのか?理由は2つ、幕府側の事情と、町人側の理由が有ったと思う。幕府・吉宗・忠相は米価を上げたかった。「そのために米会所が役立ちそうだ」と考えた。 「しかし大阪商人は御しにくい。江戸商人なら言うことを聞くだろう」このように考えて、江戸商人に許可したのだろう。 江戸商人は淀屋の様な豪奢な生活を夢見たのかも知れない。
 江戸商人が失敗したのは、大阪の米仲買商人が協力しなかったからで、制度を作ってもそこで活躍するブローカー、トレーダーがいなくては機能しない。
 大阪商人の米会所に懸けるエネルギーはすごい。江戸までの往復だって大変なことだったろう。田辺屋藤左衛門・加島屋清兵衛・尾崎屋藤兵衛の3名を惣代に選んだということは、それを支持・支援する商人が沢山いたわけだ。 今日本の農業関係者にこれだけのエネルギーは有るだろうか。食管法時代の米価引き上げに懸けるエネルギーはどこへ行ったのか?まして米市場などにはまるで関心がないようだ。米会所でリスクをヘッジするのではなく、兼業農家というスタイルでリスクをヘッジしている。 ロバート・オーウェン時代のロッジデール地方ならともかく、日本の農業収入安定には市場のメカニズムを十分活用する必要がある。それが農業システムとしてのリスク管理。そして個人的には兼業農家というスタイルの管理手法。こうしたことを理解すれば、「専業の農家が減り、兼業農家が増えている、困ったことだ」と非難したり、悲観するのはナンセンス。むしろ政府・農協の無策に対し知恵を絞った結果だと評価すべきことなのだ。
 現代日本ではどこが主体になって取引所が出来るだろうか?生産者に近い農協は「いかにして政府の保護を多く引き出すか?」しか頭にないようだし、大証が大阪に作ればいいのだが、農家・農協・族議員の圧力を恐れてものが言えないのかもしれない。
 =4=農水省事務方の苦悩▲ その悲痛なメッセージを代弁する ( 2001年7月2日 )で書いたことは農業関係者すべてに当てはまるに違いない。
( 2002年7月22日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(5)
米切手証券取引所の開設
<寄場・会所・消合場> 1730(享保15)年8月13日、大坂の堂島米会所の設立が幕府によって認められた。場所は北区堂島浜1丁目、大阪全日空ビルと新ダイビルのあたり。堂島川に沿ってこちら側と対岸、いまの日銀と大阪市役所あたりには諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。
 ここは寄場(立会場)、会所(事務所)、消合場(精算所)の3つから成り立っていた。寄場は狭い小屋建てで、東の方が正米取引寄場、中央が帳合米寄場、西の方が石建米商いの場、となっていた。この小屋は事務所の様なもので、実際の取引は堂島川に沿った浜通りの道を占拠して行われていた。かつての淀屋米市でも取引に伴う雑踏・騒音が幕府から注意を受けていた。
 この寄り場から二筋ほど北の船大工町に会所(事務所)と消合場(精算所)があり、そこを中心に五百件を超える米商人が軒を連ねていた。ここは現代の大阪ではちょうど北の繁華街、曾根崎新地あたり一帯であった。
<組織と運営>
会所の役員には米方年行司・同月行司・加役・戎講・水方などがあった。このうち米方年行司は現代風に言えば、取引所の理事に、株式会社の役員に相当する役職で、毎日会所へ出勤して市場秩序の維持、売買取引事務の総轄、仲買株札の管理などにあたるとともに、町奉行からの触れの伝達、町奉行への届出、訴えなどにおいて浜方(堂島)を代表して折衝にあたった。第一回目の米方年行司は津軽屋彦兵衛・加島屋久右衛門・俵屋喜兵衛・升屋平右衛門・久宝屋太兵衛の五名であった。
 「難波の春」では次のように言っている。
米方年行司は、堂嶋米仲買株の者の内より、人物よき年功の者を、仲間一統にて選み出す事にて、明きのある時は、仲間内、入札して、札の多き者を定め、奉行所へ訴え出で、聞済みを受けて、年行司になる事にて、尤、これは、古株の正米商ひをするものの内より、選み出す事とぞ。四人にて順々年番を勤む。外に加役三人あり、人数は時に寄り、不同もあれど加役とも、六七人に限るよし。仲買一統より、袴摺料、世話料を出す事なり。米方の事は、年行司とても、自儘の取計ひならず、何事も仲間一統示談の上、取計らふ様に、取極はよく立てたる物とぞ。
 会所の運営は建物米となった蔵屋敷と米方両替からの寄付銀によって賄われていた。建物米とは名目的な建米を設けて、それを基準に米価を決めていくためのもので、この場合多く四蔵と言われる中国米・広島米・肥後米・筑前米が建物米となり、この建物米を貯蔵した蔵屋敷から仲買に銀500枚を贈与することになっていた。この四蔵のほか加賀米も夏建物であったが、これらとは他のものと異なって、その費用の贈与はなかった。これはかつて米仲買惣代らが江戸に滞在したとき金銭上の援助を受けたことに報いるためと言われている。一度受けた恩義は長く大切にする、大坂商人のよき習いと言えよう。
<堂島米仲買株>
1731(享保16)年12月、堂島米仲買株が幕府により公認され、享保17年4月および20年7月にも第二次、第三次の公認が行われた。株数については諸説あり、「浜方記録」は第1回と第2回それぞれ500枚、第3回300枚、合計1300枚としているが、「米商旧記」は第1回451枚、第2回538枚、第3回362枚、合計1351枚としている。1732(享保17)年2月には米方両替株50枚が公許された。このように享保末年(1736)頃までに堂島米会所の組織は次第に整うようになった。株数1300枚ということはトレーダーだけでなく、ローカルズも多くいたわけで、この点は現代日本の取引所よりもシカゴのそれに近いシステムだ。
 米仲買株について「難波の春」から引用しよう。
帳合米相場は、享保17年(1732)壬子二月、正米直段下直過ぐるに付、相場引立のため、株数千軒御免になり、同十九寅年、三百軒之有り、仕法は、年中口の上の相対のみにて、米百石に付き、敷銀凡金二歩か三歩程出せば、米を売付、買付する姿にて、勝負商ひする事なり。此敷銀は、米値段高下ありて、素人の方に損のある時、差引すべき積りにて、取りて置く証拠銀なり。此売買の度毎に、口銭百石に付、二匁五分づつ、出入にて五匁づつ、仲買へ請う取る事の由。
 次のような文もある。米仲買株は、前に云ふごとくにて、むかしは千三百軒なれども、追々減じて、文化の頃、堂島に八百九十軒程、江戸堀に五十軒、道頓堀に三十軒あるよし。其内堂島仲買も四組に分かれる。其一は正米商ひ、二は帳合延商ひ、三は虎市、四はこそ市、右四組へ道頓堀、江戸堀は別格なれども、是を一組として、都合五組なり。株札の表は、皆株仲買にて、名目は同様なれども、商売の仕方は、前にあるごとく、皆同じからず。此五組にて、正米相場の株を重とす。堂島四組は、冥加運上等の事なし。外一組は、前に記すごとし。都て、大坂へ積み廻はす諸国の産物、皆問屋仲買小売等の次第あれども、米に限り、しかと取り締りたる問屋のなきは、蔵屋敷を問屋の姿とせしものにもあるべきかと云ひし。
 このように株数が減ったということは、新規参入が保証されていたということだ。1980年代、株式相場が右肩上がりを続けていた頃、、東京証券取引所では外国会社の枠が少ない、と問題になっていた。新規参入が厳しかったわけだ。ということは、江戸時代の大坂は「日本株式会社」よりも自由な市場経済だったということになる。
<入替両替>
 米会所で米切手担保に資金融資する入替両替となると大坂でも相当な資金力のあった者に限られた。この入替両替(証券担保の金融機関)としては、鴻池屋庄兵衛・加島屋作次郎・加島屋作五郎・米屋伊太郎・天王寺屋弥七・島屋利右衛門の6人であったことが知られている。なかでも鴻池屋庄兵衛と加島屋作五郎はこのうちでも大手として知られている。
 会所の運営は建物米となった蔵屋敷と米方両替からの寄付銀によって賄われていた。建物米とは名目的な建米を設けて、それを基準に米価を決めていくためのもので、この場合多く四蔵と言われる中国米・広島米・肥後米・筑前米が建物米となり、この建物米を貯蔵した蔵屋敷から仲買に銀500枚を贈与することになっていた。この四蔵のほか加賀米も夏建物であったが、これらとは他のものと異なって、その費用の贈与はなかった。これはかつて米仲買惣代らが江戸に滞在したとき金銭上の援助を受けたことに報いるためと言われている。一度受けた恩義は長く大切にする、大坂商人のよき習いと言えよう。
<現代の市場参加社数>
この仲買株数1,300とは多いのだろうか?少ないのだろうか?オランダやイギリスの先物取引の詳しい事が分からないので比べようがない。そこで現代日本の市場を見ると次のようになる。東京証券取引所、総合取引参加者=113社。国際先物等取引参加者=87社。東京穀物商品取引所、農産物市場及び砂糖市場参加者=43社。農産物市場参加者=34社。 参加者が多ければいいってもんじゃあないけれど、人口1億2千万人の現代、人口3千万人程度の江戸時代、大坂商人のコメに賭けるエネルギーのすぐさに驚かされる。官に逆らいながら米会所は開設された。現代ではどうだろう?空売り規制だとか、PKOだとか、市場関係者からの抵抗はなかったのだろうか?この業界では「官に逆らった経営者」はいなかったのだろうか?
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<蔵米の流通>堂島米会所ができたことによって蔵米の流通機構が整った。ここで全体の流を見ておこう。
(1)年貢米(2)大坂蔵屋敷に入り蔵米(3)蔵屋敷にて入札・落札、米仲買は敷銀・代銀を掛屋に納め、銀手形を受け取る(4)蔵屋敷で米切手と引き替える(5) 米仲買は米切手を堂島米会所で他の米仲買に売却するか
(6)直接、蔵米問屋に売却する(7)米切手を購入した米仲買・蔵米問屋は蔵屋敷に米切手を持参し米の引渡を受ける(この受渡に蔵元がたずさわる。この段階で蔵米は現物として商人の手に渡る)(8)蔵米問屋から米穀仲買・上問屋・上積問屋米などの仲介業者と駄売屋・搗米屋などの小売商をの手を経て(9)消費者の手許へ
 蔵米販売代銀の流れとしては、
(1)米仲買 (2)掛屋 (3)一部は蔵屋敷から藩の大坂での費用や国元への送金(残りは両替商を兼ねることが多い掛屋によって、為替取組みを利用して、江戸藩邸へ送金)
 江戸での流通は米会所がなかった点が大きな違いになっている。
幕府米(旗本・御家人米) →札差   →
米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
幕府米(払米・貯蔵払米) →用達商人 →米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
藩米(関東・奥羽)  →江戸蔵屋敷  →米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
藩米(西日本)→大坂蔵屋敷→堂島米仲買→米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
商人米(上方米)   →下り米問屋  →米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
商人米(関東米) →関東米穀三組問屋 →米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
商人米(奥羽米)   →地廻り米穀問屋→米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
<入札>西日本諸藩および出雲米子の米は8〜10月に売却され、北陸諸藩の米は9〜10月に、日本海沿岸北部諸藩の米は翌年3〜5月に売り払われる。筑前・肥後・中国・広島のいわゆる「四蔵」は、10月17日を初市(初入札)として、それ以降隔日に売り払った。四蔵のうち、筑前・肥後・中国の米は例年「春売」を行い、1月17日に払米するが、原則的にこれを最終期限とし、それ以降は払米をすることはなかった。その他の蔵では年中払米をしていた。
 北国米のうち、米子米は西国米と同じ売出時期であるが、越前・秋田・新発田・庄内・加賀蔵は春売、加賀蔵の場合、4月中に初入札を行い、その後5月まで3〜4度の入札を実施し、5月7日から10月8日までにすべての米を売り払ったといわれる。商品米として大坂廻米がなされる以上、各藩とも、他藩との競争は避け難く、できるだけ有利な時期に払米できるよう、蔵米到着時期を調整していた。
 入札に関しては、入札の時期について調査していた。「米相場聞合役」とか「蔭聞役」などの役職を置き、毎日の市場を調査していた。
 入札が決定すると、札触れ・懸札によって公示する。蔵役人の聞番・目付・上米代支配役から堂島の米方役へ、入札に付すべき赤米・白米の俵数が通達され、その翌日に仲仕頭が堂島浜に入札の札触れを行い、渡辺橋北詰めの番所および蔵屋敷門前に払米看板を掲げた。渡辺橋北詰は諸藩の入札予定および落札結果を公示する場所で、米仲買は情報を得るために毎日ここに出向いたと言われる。
 一方、入札に参加できるのは「切手蔵屋敷より素人へ直売してはならぬ法なり。何れにも正米仲買株の者共、入札を以て買取、夫より外々へ売出すなり」とあるように、正米株を所有する者に限られていた。
 米仲買が蔵米の入札を行い米切手を買い入れようとするのは、(1)蔵米問屋・搗米屋・駄売屋などからの注文による場合と、(2)米仲買が自らの計算で行う場合がある。あらかじめ転売先を有していて、その上で蔵屋敷払米に応札したり、堂島米会所で米切手を購入する米仲買は「問屋」と呼ばれた。他方、自己の思惑で蔵屋敷の入札に参加したり、堂島米会所で米切手を買い、後に他社に転売する米仲買を「おも入仕」「おもわく仕」と言った。
 入札方法は次の通り。入札は堂島米会所における正米取引の引方、すなわち、九ツ時(正午)から始まり、米仲買は入札書を封に入れ、蔵方に持参し、入札番号を聞いて帰ることになっていた。入札順番を確認するのは、同一入札価格の時、若い番号の者に落札する定めになっていたからだった。入札日に蔵屋敷では、蔵役人・蔵元が立ち会い、入札書を持参した米仲買は「仲間合印帳」により「蔵名前」の有無を調べた。 一般の入札に先立ち「初入札」が行われることがあったが、これは見本を公示するという目的と、入札価格の目安を知らしめるという意味があった。
<開札・落札>
入札後八ツ時(午後2時)から「札披」「開札」となる。「開札」は蔵役人が蔵屋敷の会所で行う。加賀蔵では改作奉行2人・御徒横目・箪笥役御算用者・浜役御算用者の計5人が立ち会い、佐賀蔵では聞番(留守居)・目付・上米代支配役・米方役・雑務目付その他がこれを行った。開札が終わり、落札者が決まると、名前が公示される。落札は一律の値段ではなく、入札の際に公示される俵数になるまで、最高値から順次落札者を決定する。
 落札が公示されると、蔵元・掛屋の手代が集まり、落札の俵数・値段・名前を控え、米代銀受取り、銀切手振り出しの手はずを整えた。落札者は印形持参の上、俵数および落札値段を記入した蔵屋敷の帳簿に捺印して、買い受けを確認し、翌日敷銀を納めた。
<敷銀>落札が決定し、「判書」捺印が終わると、落札者は翌日、敷銀を掛屋に納める。これは保証銀であり、手付銀であった。掛屋に敷銀を納める時、落札者は米10石につき(米切手1枚につき)、手数料として銀2分を掛屋に支払った。
 落札者は残りの代銀を落札の当日から10日以内に掛屋へ納めなければならなかった。この期限を「切れ日」と言う。ところで敷銀納入後「切れ日」までに落札の権利を転売する米仲買も多かった。この「切れ日」前の権利転売には「差紙」と言われる証書が用いられた。これは落札者が残銀支払義務つきの入札米を第三者に転売したことを掛屋に通知したもので、第三者は代銀を添えてこの差紙を掛屋に提出した。
<銀切手と米切手>落札して蔵屋敷所定の期日である7日または10日限に掛屋に代銀を納めると、掛屋から蔵方あてに代銀受取り済みの証書、銀切手振り出される。銀切手を受け取った買い主はそれを蔵元へ持参して、米を直接受け取ることもできるが、通常は銀切手と引き換えに蔵元から米切手を受け取る。
 この米切手が堂島米会所の正米取引で取引された。この米切手は記載されたコメの数量を、引き換えに交付するという約束手形であるから、有価証券であり、従ってこれを取り引きした堂島米会所は、「商品市場」ではなく、「証券市場」であった。つまり「堂島米会所」とは「堂島米切手会所」であり、「米切手証券取引所」というのが実体であった。
( 2002年7月29日 TANAKA1942b )
大坂堂島米会所
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趣味の経済学 Index
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