コメを公共事業に参加する労働者への給料として使うのは、ずっと後の時代、終戦直後に例がある。1947年初めから石炭、鉄鋼への資材・資金・労働力の傾斜的配分が強化される。1947年度には3,000万トンの石炭確保が至上命令とされた。炭坑労働者には6合、その家族には3合のお米が配給され、NHKは木曜日午後8時からの今でいうゴールデンアワーに「炭坑に送る夕」を放送した。
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<初期の大坂登米>
戦国時代が終わりに近づき築城ラッシュは終わる。領主・大名はコメを公共投資の原資として使うことがなくなる。百姓に築城工事の報酬としてのコメは、しかしそれだけであり、他の目的のためには金・銀・銭などの貨幣に替える必要が生じた。年貢米を貨幣に替えるために、領地内で民間の商人を使って処分し始めた。この場合は市場での取引と言うよりも、相対取引であった。相場が立っているわけでもなく、すぐに現金化出来るわけでもなかった。そこで各藩は年貢米現金に替える場所として大坂を選ぶことになる。
各藩がどのようにして大坂登米を始めたか、いくつかの例を引いてみよう。
(1) 大坂登米として古いものとしては、1614(慶長19)年に加藤肥後守忠広、黒田筑前守長政、浅野但馬守長晟、福島左衛門大夫政則などの米が8万石あった、との記録があるがこれは販売用ではなくて、大坂冬の陣に備え大坂籠城のためであったらしい。大坂に米を備蓄していただけでなく、むしろ買い入れている事からも、兵糧米であったと考えられる。
(2)長州藩では1609(慶長14)年4月2日付の輝元書状に「年内何とぞ米大坂へ大分上せ度事」とあるように、大坂へ登米を行っていた。当時長州藩は大坂に蔵屋敷をおいていて、登米高は4万石もあったと思われるが、1697(元禄10)年には8万石にのぼっていることから、恒常的な廻米態勢が整えられたわけではなかった。
(3)細川藩では1623(元和9)年大坂登米が行われ、その量は3500-3700石前後であったらしい。これは大坂で売却されているが、当時海上運送が整備されず、運賃や損米が大きかった時代なので経済的に成り立つとは考えられない。試験的なものであったろう。
(4)佐賀藩では1605(慶長10)年に大坂に蔵屋敷を持ち、大坂登米の記録があるが、米の渡し方や蔵出しに付いての規定だけで、売却仕方や代銀処理に付いては何の定めもなかったと言われる。
これらのことから慶長・元和期に16万石ないし4,50万石の西南諸国の領主米が大坂へ廻送されたとしても、恒常的な商品流通としてのものではなかったと考えられる。「全国市場としての大坂米市場」の成立はもう少し後の事になる。
<西国諸藩の大坂登米>少し時代が下がって、寛永中期以降の状況を見てみよう。
(1)細川藩は1629(寛永6)年に大坂払米は1万石近くになっている。この時「もみ小米ぬかましり」が入らぬよう国中に触れを出している。これは米が商品として意識され始めたためだろう。1632(寛永9)年細川氏は熊本に転封され、大坂廻米は小倉時代より地理的に不利になったが、外港の整備など廻米態勢を整え、1634(寛永11)年には4万1千石の大坂廻米の輸送能力を持ち、元禄期には3-4万石、元禄末期には8万石の大坂廻米を行うようになった。
(2)岡山藩では1669(寛文9)年に2万8千石の大坂登米を行っている。
(3)萩藩では1615(元和元)年に1万7千石、1643(寛永20)年に1万9千石、それが1653(承応2)年には5万石、元禄末には6-7万石になる。
これらのことから、西国諸藩は寛永中期から寛文期にかけて大坂廻米を増加、定量・恒常化し、それに適合する制度や設備を整えていった。そしてこのように大坂はまず西国諸藩の領主米市場として成立しくことになる。
<北国諸藩の大坂登米>西国諸藩に比べて北国諸藩の大坂登米は少しあとになってからだった。それには河村瑞軒の西回り航路の整備も関係してくる。
(1)加賀藩では1638(寛永15)年に試験的に1千石を、1644(寛永21)年に1万石を大坂に直送している。1647(正保4)年には初めて上方船が加賀へ来航し、1691(元禄4)年には20万石を送っている。
(2)越後における西廻り海運の開始は明暦期ごろで、大坂廻米開始は高田藩が1656(明暦2)年、庄内藩は1674(延宝2)年、そして1668(寛文8)年に村上藩が江戸藩邸に送った払米代金の62%は大坂での払米代金であったというから、大坂登米が藩財政の根幹をなすようになったと言えるだろう。
(3)弘前藩の大坂登米開始は1672(寛文12)年からで、全上方廻米4万石を大坂着とするようになったのは1687(貞享4)からであると言われている。
<江戸への廻米>
江戸へ各地方から米が集まって来るようになった初めは、伊達の仙台藩からのものであった。仙台藩は東北地方有数の米生産藩であり、江戸に近いという有利な条件もあったので、百姓から年貢米以外の米を買い上げて江戸で売却する「買米仕法」を行った。このように仙台藩から江戸へ廻米されるのはほぼ1626(寛永3)年ごろと考えられる。美味な仙台米は江戸市場で大いに注目されたが、このほかに江戸には、東北、関東、中部などからも集まってきた。南部・仙台・会津・福島(越後の一部)・関八州・甲州・信州・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・美濃・伊勢などの地域が、享保期に江戸市場圏に属したと考えられている。
大坂こそ「天下の台所」とみる考えと、江戸もそれに劣らず大きな商圏であった、との考えがある。