大江戸経済学 大坂堂島米会所
    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが江戸時代を経済学します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が江戸時代の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

大坂堂島米会所
(1)戦国は規制撤廃の時代  ( 2002年7月 1日)
(2)太閤検地から大坂登米  ( 2002年7月 8日)
(3)淀屋米市から始まる  ( 2002年7月15日)
(4)大岡越前守忠相公許 ( 2002年7月22日)
(5)米切手証券取引所の開設 ( 2002年7月29日)
(6)正米商内  ( 2002年8月 5日)
(7)帳合米商内  ( 2002年8月12日)
(8)虎市米相場  ( 2002年8月19日)
(9)世界の中の堂島  ( 2002年8月26日)
(10)消合場=クリアリング・ハウス  ( 2002年9月 2日)
(11)商業都市大坂の発展  ( 2002年9月 9日)
(12)識者はどのように評価したか?  ( 2002年10月 7日)
(13)21世紀の堂島  ( 2002年10月14日)

改革に燃えた幕臣経済官僚の夢
(1)荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度  ( 2002年2月11日 )
(2)田沼意次と、その協力者たち  ( 2002年2月18日 )
(3)冥加金・運上金など間接税重視の税制改革  ( 2002年2月25日 )
(4)鎖国中でも貿易赤字?  ( 2002年3月4日 )
(5)蝦夷地開発の志は文明開化によってやっと実現  ( 2002年3月11日 )
(6)まだまだあった田沼時代の改革  ( 2002年3月18日 )
(7)主役も、脇役も、観客まで燃えた改革ドラマ  ( 2002年3月25日 )
(8)幕府の財テクは年利1割の町人向け金融  ( 2002年6月3日 )

大江戸経済学
新春初夢、30年後の日本経済 江戸時代の先覚者に学び、封建制を捨てる農業  ( 2002年1月7日 )
江戸時代の百姓はけっこう豊かだった? 百姓が食べなかったら、収穫されたコメは誰が食べたのか?  ( 2002年3月25日 )
江戸町人の好奇心と遊び心 花卉園芸・元禄グルメ・西鶴  ( 2003年9月1日 )
稲の品種の使い分け 非情報化時代の情報網  ( 2003年9月8日 )
グローバリジェーションによって社会は進化する 幕末、金貨の大量流出  ( 2003年10月27日 )

大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

大堂島米会所(1)
戦国は規制撤廃の時代
<戦国時代> 江戸時代大坂堂島にコメの取引所があって、先物取引まで行われていた。1730年の人口が約3,200万人。コメ消費者3,200万人時代に先物取引まで行われていた。1億2,000万人の現代は「自主流通米価格形成センター」で価格が決まっている。市場経済の時代にあってずいぶんとお粗末な価格形成制度でしかない。
 この先物取引はどのようにして制度化されたのだろうか?先ずコメを取り巻く当時の状況から検証してみよう。
大開墾・人口増 江戸時代のコメ問題を扱うとすれば、戦国時代から江戸時代初期の「大開墾・人口増」から扱うのが妥当なようだ。多くの文献はこの時代の用水土木工事の多いことから話を始めている。へそ曲がりのTANAKA1942bもこれに関しては定番の話の進め方をしよう。そこで先ず、大石慎三郎著「江戸時代」(中公新書 1977.8)から──
つくりかえられた沖積層平野 大土木工事の時代  ”天下分け目”といわれた関ヶ原の戦い(1600=慶長5年)を中心とし、その前後約60-70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から4代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を大きく変えた時代であった。ここで土木技術というのは広義のもので、それは大別して、
 (イ)鉱山開発技術──その結果日本は世界有数の金銀産出国となった。
 (ロ)築城技術──それは今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。
 (ハ)用水土木技術
の三分野に分けることができる。ここではこのなかで日本社会を変えるのにもっとも大きな役割をはたした用水土木技術について考えてみたい。
 いま土木学会で編集した「明治以前日本土木史」のなかから、古代から徳川時代の終りにあたる1867(慶応3)年までにわが国で行われた主要土木工事のなかで、用水土木関係工事を抜き出して年代別に表を作ってみると表1のようになる。
 全118件のうちで56件(47.46%)が戦国期から江戸時代初頭の約200年ほどのあいだに集中しており、なかんずく1596(慶長元)年から1672(寛文12)年まで徳川初頭77年間に42件(35.59%)とその集中度がとくに高い。つまりわが国における明治以前の用水土木工事は、戦国期から江戸時代初頭のあいだに、その半数が集中しているのである。
 しかもその内容をみると第一線級の大河川にたいする巨大土木工事がこの時期に集中しており、それまで洪水の氾濫原として放置されたままになっていた大河川下流の沖積層平野が、広大・肥沃な農耕地(主として水田)につくりかえられているのである。それはもしこれらのことがなければ、江戸時代ひいては明治移行のわが国の国土状況はないと言えるほどのものであった。
「明治以前日本土木史」 同じ「明治以前日本土木史」から集計したもので、別の表を引用してみよう。表2を見ると、河川工事は1601-1650に多く、溜池・用水路・新田開発はそれより50年後の、1651-1700に多いことが読みとれる。
表1 明治以前主要用水土木工事
年 代 この間 工事件数 百分率
-781(天応元) 781年 8件 6.78%
782(延暦元)-1191(建久2) 410年 8件 6.78%
1192(建久3)-1466(文正元) 275年 7件 5.93%
1467(応仁元)-1595(文禄4) 129年 14件 11.87%
1596(慶長元)-1672(寛文12) 77年 42件 35.59%
1673(延宝元)-1745(延享2) 73年 13件 11.02%
1746(延享3)-1867(慶応3) 122年 26件 22.03%
── ── 118件 100.0%
出典:「江戸時代」大石慎三郎 中公新書 1977年8月(23頁から引用) (土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成)
表2 耕地開発関係土木工事件数
時期(年) 河川工事 (%) 溜池 (%) 用水路 (%) 新田開発 (%)
1550年以前 25 (20.5) 46 (12.9) 24 ( 5.5) --
1551-1600 16 (13.1) 3 ( 0.8) 11 ( 2.5) 14 ( 1.4)
1601-1650 31 (25.4) 66 (18.5) 55 (12.5) 122 (12.2)
1651-1700 13 (10.7) 93 (26.1) 121 (27.9) 220 (22.1)
1701-1750 11 ( 9.0) 27 ( 7.6) 52 (12.0) 103 (10.3)
1751-1800 12 ( 9.8) 23 ( 6.4) 31 ( 7.2) 88 ( 8.8)
1801-1868 14 (11.5) 99 (27.7) 139 (32.2) 450 (45.2)
122 (100.0) 357 (100.0) 433 (100.0) 997 (100.0)
出典:「経済社会の成立―17〜18世紀」速水融、宮本又郎編著 岩波書店 1988年11月(45頁から引用)(土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成)
<軍事力の自由競争時代、そこでの経済的基盤> 室町幕府が崩壊し、戦国時代になると各地の武将が力を競い合う「自由競争時代」になる。武器、装備、戦略、陰謀、策略、人望などで競い合い、その基盤に経済力があった。その経済力とは、コメの生産力、金・銀鉱山、特産品、商業などであり、コメの増産には特に力が注がれた。戦国時代に新田開発が多くなったのは、軍事力の自由競争時代に勝ち抜くには、経済力増強そのためのコメ増産、そのための新田開発という強いインセンティブが働いていたためであり、大きな川を治め、沖積層平野を新田に作り替え、そこでのコメ増産という経済力を武器にする、それが戦国武将のサバイバル・ストラテジー(生き残り戦略)であった。
 戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。
 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。
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<高度成長を支えた、鉱山開発・楽市楽座・特産物> 戦国時代から江戸時代初期にかけては、日本鉱山史上画期的な時期にあたり、金銀の産出量と採掘・精錬技術の飛躍的な高まりが著しく、世界的にも有数な金銀産出国となった。戦国武将たちは城を中心に城下町を作り、そこでの商売の自由を保証し、領地内の特産物を奨励した。
 例えば武田信玄、釜無川治水=信玄堤に象徴される、なみなみならぬ耕地安定への努力、そしてそれに劣らず力を入れた金山開発。甲斐東山梨郡の黒川金山、西八代郡の駿河境に位置する中山金山、秩父山中南巨摩郡の芳山小沢金山などが知られている。また陸奥の伊達一族 は砂金という特産物によって抜群の財力を保つことが出来た。
 楽市楽座と言えば織田信長 の名が浮かぶが、この時代有力な武将は城を中心に町を作り、各種の優遇処置=規制緩和を行い、商業を奨励した。
 上杉謙信は1560(永禄3)年、春日山の城下である越後府内の町人たちに、諸役・鉄役を免除している。また1564(永禄7)年、越後柏崎に対しても、
当町へ諸商売に付(つき)て出入りの牛馬荷物等、近所所々に於いて新役停止(しんやくちょうじ)之事(近在で新役をかけてはならない) という制札をかかげて、町への自由出入りを保障し、その繁栄をはかった。北条氏の領内では、本城の小田原のほか、江戸・川越・松山・忍(おし)・岩付(槻)なども町場として発展し始めた。周防の大内氏や薩摩の島津氏は海外貿易により中国銭を大量に入手し中央に大きな発言力を持った。
 石見(いわみ)国大森の通称石見銀山はこの時代ゴールドラッシュのさきがけをなした鉱山として名高い。戦国時代にこの銀山のまわりには、山吹城と矢滝城が築かれ、その守りを固めていた。銀山というイメージとはおよそちぐはぐな、このものものしい装いは、当時この銀山がいかに諸大名たちの争奪の的になっていたかを物語っている。この銀山を手に入れようとして、 大内・尼子・毛利らが激しく争った歴史は、戦国時代の戦の複雑さをよく示している。
 灰吹法による銀の精錬が始まったのが1533(天文2)年のこと、この灰吹法が金の精錬にも応用され、これにより砂金採取に依存していた金の生産が鉱石からの採取に転換した。鉄の生産でも新しい技術が普及し、16世紀後半から良質の鉄鋼による鉄砲が生産され始めた。
 鉄砲とならんで、戦国の社会に大きな影響を与えたもう一つの外来品に木綿があった。絹のほか苧(お)・麻を繊維の主力としていた中世に対して、江戸時代は木綿の時代であり、その繊維革命が遂行されたのが16世紀の戦国時代であった。鉄砲と木綿、なんとも妙な取り合わせなのだが、この二つがほとんど平行して、導入・普及していった。それは軍事・経済・社会など広範な分野に革命的な衝撃を与えた。
 戦国時代とはそれまであった多くの規制が撤廃され、自由な競争が始まり、力のある武将・大名は大規模な公共事業に投資し、新しい産業が生まれ、新しい製品が普及し、それが軍事・経済・社会に大きな変革を起こした。それはちょうど市場経済での規制撤廃に似たものだった。この時代の規制撤廃から自由競争による社会の変革、それだけでHPのシリーズに取り上げたいテーマになりそうだ。と思いつつ、心残りであるがこの程度にして本来のテーマに戻ることにしよう。
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<治水が先か?利水が先か?> この時代大きな力を持った武将が、自由競争で勝ち抜くために大河川の治水工事を行い、新田を開発した。実際歴史に残るような用水工事をした武将がその後も生き残っている。この順序は、用水工事→治水工事→移住→利水工事→作付け、となる。これに対して、「そうではない、治水より利水の方が先だ」との説もある。
わが国水田の開発過程をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発が出来ない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民(あるいは士豪、小領主)による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果たすというのが普通であって、これが沖積低地開発の常道であった。この意味で利水は常に治水に先行する。それゆえ、大名による大規模な治水工事によって初めて沖積平野の開発が行われたということは、実状に合わないのである。 (速水融、宮本又郎編著『経済社会の成立―17〜18世紀』岩波書店 1988年11月 182頁から引用)
<赤米=インディカ米の導入>  今日私たち日本人が食べているのはジャポニカ米。インディカ米はチャーハンやカレーには適していると言われるが、市場で広く流通しているわけではない。ところが14世紀から19世紀にかけて、「とうぼし」(唐法師、唐干)あるいは「大唐米」「占城稲」という名の赤米種が広く作られていて、新田開発の過程で重要な役割を果たしていた。
 赤米が日本のどこで作付けされていたか?18世紀の状況では、
(1)九州・四国・紀伊半島の南部、つまり太平洋側が多かった。ここでは洪積層大地周辺の強湿田地帯で赤米が直播きされていた。農耕としてはかなり粗放的であり、しかも相当に後の時代まで(鹿児島の一部では昭和に入っても)存続する。
(2)八代、筑後、佐賀平野など干拓クリーク地帯、沖積平野の湿田や用水不足田。これらの地方では直播ではなく移植法による植え付けがなされていた。佐賀藩では1725年で、21%が赤米であった。それ以前17世紀ではこの比率はもっと高かったと思われる。
 日本で書かれた最初の農業技術書「清良記」(17世紀中頃の寛永から延宝の間に書かれたと推定される)によると、栽培される稲の品種は96あり、そのうち「太米」として次の8種が書かれている。

早太唐(はやたいとう) 白早太唐 唐法師 大唐餅 小唐餅 晩唐餅 唐稲青 野大唐

 当時「太米」は「太唐米(だいとうまい)」ともよばれ、総称として「唐法師」と言われたこともあった。これは米のなかでも、より野生に近く、したがって野生稲の色彩を保っていて、濃いあめ色の実がみのる。いわゆる「赤米」であった。
 この赤米は、米粒の細長いインディカ種で、炊きあげたのちの粘りけが少なく、食味としては日本では美味とされなかった。そのため値段は白米より安かった。ただし「清良記」は、赤米のまずさではなく、むしろ長所をあげている。「大唐餅」をのぞけば、痩せ地でもよく育つし、日照りにも強い。虫もつかない。風こぼれには弱いが、脱穀の手間がかからない。このように利点の多い稲で、おまけに飯に炊くと炊き増えする。
 農人の食して上々の稲なり。
というのが「清良記」の考えであった。
<赤米が新田開拓の先兵> さてこの赤米が戦国から江戸初期にかけて大きな意味をもつ。それは水田の面積拡大という方向に水稲生産の著しい伸長がみられた段階で、その主役を赤米が担っていたと考えられるからだ。新田は3年から5年くらいの鍬下年季の期間を決め、検地の猶予や無年貢・減免の処置にした。鍬下とは開墾途中との意味。水田は開墾してもすぐ収穫を期待できるわけではない。熟田と比べると劣悪な生産力しかなかった。そこで野生の強靱さを失っていない赤米は、この劣悪な水田で作られる主役であった。
 当時の開田は、平野部ではすでに熟田化していた丘陵寄りの部分から低湿地の河川近くの方向へ、また沿岸部干拓地では海岸近くの方へ順次工事が進められて来たと思われるので、それらの新田には多くの場合まず赤米種が作られ、その後になってその水田が漸次整備され熟田化するにつれて、従来の赤米が真米に代わり、さらにその先の低湿地の方に進んだ新開田地に赤米が作付けされるといった順序で、赤米→真米への転換が開田の順序に伴って繰り返されて来たのではないかと考えられる。すなわち、インディカ系の赤米は、沖積平野における新田開発の第1段階において「稲作のパイオニヤとしての役割」を果たしていた。
 戦国から江戸初期の新田開発は河川や河川の合流地に広く堆積した沖積地を水田化するようになる。これは大規模な工事で、しかもすぐに収穫が期待できるわけではなく、大変リスクの大きい事業であった。そう考えると、開発の順序<用水工事→注水工事→移住→利水工事→作付け>というのはリスクが大きく、すべての武将、大名がこの順序だったとは考えられない。そこで、<治水より利水の方が先だ>との説もそれなりの正当性があるようにも思えてくる。
 開発の順序、このように初めに百姓が動き、その後大名が大規模治水工事を開始した、という説。歴史というのは見方によっていろんな説が考えられる。武将・大名主導の開発というのが定説のようだが、赤米がこの時代多く生産されていた、ということに注目すると、百姓主導の新田開発説もそれらしく思えてくる。赤米のことを長々と取り上げたのは、歴史にはいろんな見方がある、ということを言いたかったからのこと。「素人歴史家は楽天的である」ということは「悲観的・自虐的な歴史観には眼を瞑っている場合もある」、との自覚をもってこのシリーズを続けて行くつもりです。 
( 2002年7月1日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(2)
太閤検地から大坂登米
<太閤検地> 「大坂堂島米会所」第2回は太閤検地から話を進めることにしよう。
 豊臣秀吉がまだ羽柴姓を名乗っていた1580(天正8)年、織田信長の奉行人として播磨検地の実務を担当した。その2年後の1582(天正10)年、秀吉が明智光秀を山崎に破った直後、山崎の寺社から土地台帳を徴収し、土地の所有関係の確認を行ったことに始まる。
 太閤検地によって、田畑を実際に耕作している百姓が特定された。これにより百姓の耕作権が保証され、それと同時に年貢納入の義務が生じた。百姓は耕作を放棄したり、商工業者などに転ずることは許されなかった。これは一地一作人(いっちいっさくにん)の原則と呼ばれる。検地帳に記載された百姓は土地に緊縛され住み替えの自由も、職業選択の自由もなくなるが、年貢は領主にだけ納め、中間搾取はなくなる。このように中間搾取のなくなることを作合(つくりあい)否定の原則と言う。
<室町→戦国→江戸>太閤検地がこの時代の転換点として大きな意味を持っている。室町時代、守護大名は 大田文(おおたぶみ)に登録された面積、つまり「公田」(こうでん)の面積しか守護段銭(しゅごだんせん)をかけることが出来なかった。長い間に開発された新田を繰り入れて段銭などの賦課対象にすることは出来なかった。その「新田」が「公田」を上回る事もあったにしてもだった。このため荘園領主や守護に掌握されない非公田部分の増加が、在地の国人や村々の小領主層を生み出す温床となっていた。太閤検地により、百姓を大名が直接支配する体制が確立した。
 検地とは領国の土地を郷村ごとに確実に把握するため、つまり 「貫高」(かんだか)の確定であった。この「貫高」は2つの側面を持っていた。(1)家臣たちが大名に対して負担する軍役の基準数値。(2)郷村の負担すべき年貢高・役高。このように大名が領主として領地を支配するための基礎資料であった。太閤検地は豊臣秀吉が全国規模で行ったものであったが、それ以前にも有力大名が検地を行っている。
 今川義元は1541(天文10)年に遠江の見附(静岡県磐田市見付)で検地を行っている。この時、本年貢100貫に対して増分50貫、つまり検地により「増分踏出」(ぞうぶんふみだし) が行われた。北条氏は1567(永禄10)年に武蔵国宮寺郷志村で検地を行い、ほぼ100%の踏出増分を検出している。武田領国の検地も、踏出増分が本年貢を上まわるほどきびく行われている。しかし太閤検地以前では作合が否定されたり、されなかったりだった。百姓身分のなかで中間的な地代収取である「名主加持子」(みょうしゅかじし) (地主の小作料的取り分)あるいは 「百姓内徳」(ひゃくしょうないとく)(百姓の手許に内々残される取り分)の部分を極力圧縮して、年貢を増徴しようとした。
<七公三民> 江戸時代の年貢率は「七公三民」と言われている。これは「年貢率で領主と百姓の意見があわなければ、刈り取った稲を3つに分けて、その2つを領主に、1つを百姓が取る、とすべし」という基準を1596(文禄5)年に石田三成が、その領地近江で公布している。このように年貢取立を毛見(実地検査)の上で、3分の2を「給人」(領主)、3分の1を「百姓」が取る、という基準は1584(天正12)年の資料でも知りうる。 (年貢米については、「必ずしも七公三民ではなかった」との説もある)
  其方知行分水際之事、検見上を以、三分一百姓遣之、三分の二可有収納候。〇不可有相違之状如件。
  天正12(1584)年7月24日     秀吉(花押)
  山崎源太左衛門殿

 太閤検地で決定した全国の総石高は約1850万石。そのうち領主が 2/3を取り上げるとしたら、1230万石あまりが年貢として取り立てられる事になる。ではその米は誰が食べたのだろうか?領主が取立て、武士が消費しただけでは余ってしまう。大坂堂島淀屋の庭先での「淀屋米市」は未だ始まっていない。秀吉の時代には米市場が整っていなかったので、年貢米を貨幣に替えることは難しかった。
 そんなに取り立ててどうしたのか?その答えは「戦国時代だった」。つまり戦時体制であちこちに、短期間のうちにいくつもの城を築いた。各地でふだんは百姓でもパートの築城工事人足が必要になる。「コメを腹一杯食べたければ、築城工事に出てこい」と号令をかける。百姓のうち領主の行う「公共事業」に参加する者はコメを十分食べられた。
 なお「太閤検地の歴史的意味」や「封建制」「feudalism」の解釈などでなにやら専門家の間で論争があるようだが、アマチュア・エコノミストの肌には合わない論争のようなので、ここでは無視するとしよう。
<炭坑労働者にコメ6合> コメを公共事業に参加する労働者への給料として使うのは、ずっと後の時代、終戦直後に例がある。1947年初めから石炭、鉄鋼への資材・資金・労働力の傾斜的配分が強化される。1947年度には3,000万トンの石炭確保が至上命令とされた。炭坑労働者には6合、その家族には3合のお米が配給され、NHKは木曜日午後8時からの今でいうゴールデンアワーに「炭坑に送る夕」を放送した。
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<初期の大坂登米> 戦国時代が終わりに近づき築城ラッシュは終わる。領主・大名はコメを公共投資の原資として使うことがなくなる。百姓に築城工事の報酬としてのコメは、しかしそれだけであり、他の目的のためには金・銀・銭などの貨幣に替える必要が生じた。年貢米を貨幣に替えるために、領地内で民間の商人を使って処分し始めた。この場合は市場での取引と言うよりも、相対取引であった。相場が立っているわけでもなく、すぐに現金化出来るわけでもなかった。そこで各藩は年貢米現金に替える場所として大坂を選ぶことになる。
 各藩がどのようにして大坂登米を始めたか、いくつかの例を引いてみよう。
(1) 大坂登米として古いものとしては、1614(慶長19)年に加藤肥後守忠広、黒田筑前守長政、浅野但馬守長晟、福島左衛門大夫政則などの米が8万石あった、との記録があるがこれは販売用ではなくて、大坂冬の陣に備え大坂籠城のためであったらしい。大坂に米を備蓄していただけでなく、むしろ買い入れている事からも、兵糧米であったと考えられる。 
(2)長州藩では1609(慶長14)年4月2日付の輝元書状に「年内何とぞ米大坂へ大分上せ度事」とあるように、大坂へ登米を行っていた。当時長州藩は大坂に蔵屋敷をおいていて、登米高は4万石もあったと思われるが、1697(元禄10)年には8万石にのぼっていることから、恒常的な廻米態勢が整えられたわけではなかった。
(3)細川藩では1623(元和9)年大坂登米が行われ、その量は3500-3700石前後であったらしい。これは大坂で売却されているが、当時海上運送が整備されず、運賃や損米が大きかった時代なので経済的に成り立つとは考えられない。試験的なものであったろう。
(4)佐賀藩では1605(慶長10)年に大坂に蔵屋敷を持ち、大坂登米の記録があるが、米の渡し方や蔵出しに付いての規定だけで、売却仕方や代銀処理に付いては何の定めもなかったと言われる。
 これらのことから慶長・元和期に16万石ないし4,50万石の西南諸国の領主米が大坂へ廻送されたとしても、恒常的な商品流通としてのものではなかったと考えられる。「全国市場としての大坂米市場」の成立はもう少し後の事になる。
<西国諸藩の大坂登米>少し時代が下がって、寛永中期以降の状況を見てみよう。
(1)細川藩は1629(寛永6)年に大坂払米は1万石近くになっている。この時「もみ小米ぬかましり」が入らぬよう国中に触れを出している。これは米が商品として意識され始めたためだろう。1632(寛永9)年細川氏は熊本に転封され、大坂廻米は小倉時代より地理的に不利になったが、外港の整備など廻米態勢を整え、1634(寛永11)年には4万1千石の大坂廻米の輸送能力を持ち、元禄期には3-4万石、元禄末期には8万石の大坂廻米を行うようになった。
(2)岡山藩では1669(寛文9)年に2万8千石の大坂登米を行っている。
(3)萩藩では1615(元和元)年に1万7千石、1643(寛永20)年に1万9千石、それが1653(承応2)年には5万石、元禄末には6-7万石になる。
 これらのことから、西国諸藩は寛永中期から寛文期にかけて大坂廻米を増加、定量・恒常化し、それに適合する制度や設備を整えていった。そしてこのように大坂はまず西国諸藩の領主米市場として成立しくことになる。
<北国諸藩の大坂登米>西国諸藩に比べて北国諸藩の大坂登米は少しあとになってからだった。それには河村瑞軒の西回り航路の整備も関係してくる。
(1)加賀藩では1638(寛永15)年に試験的に1千石を、1644(寛永21)年に1万石を大坂に直送している。1647(正保4)年には初めて上方船が加賀へ来航し、1691(元禄4)年には20万石を送っている。
(2)越後における西廻り海運の開始は明暦期ごろで、大坂廻米開始は高田藩が1656(明暦2)年、庄内藩は1674(延宝2)年、そして1668(寛文8)年に村上藩が江戸藩邸に送った払米代金の62%は大坂での払米代金であったというから、大坂登米が藩財政の根幹をなすようになったと言えるだろう。
(3)弘前藩の大坂登米開始は1672(寛文12)年からで、全上方廻米4万石を大坂着とするようになったのは1687(貞享4)からであると言われている。
<江戸への廻米> 江戸へ各地方から米が集まって来るようになった初めは、伊達の仙台藩からのものであった。仙台藩は東北地方有数の米生産藩であり、江戸に近いという有利な条件もあったので、百姓から年貢米以外の米を買い上げて江戸で売却する「買米仕法」を行った。このように仙台藩から江戸へ廻米されるのはほぼ1626(寛永3)年ごろと考えられる。美味な仙台米は江戸市場で大いに注目されたが、このほかに江戸には、東北、関東、中部などからも集まってきた。南部・仙台・会津・福島(越後の一部)・関八州・甲州・信州・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・美濃・伊勢などの地域が、享保期に江戸市場圏に属したと考えられている。
 大坂こそ「天下の台所」とみる考えと、江戸もそれに劣らず大きな商圏であった、との考えがある。
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<町人蔵元制> 諸藩の米が大坂に集まり始めた。未だ米市場は整っていない。諸藩は大坂登米をどのように管理し、現銀貨(大坂は銀が主要通貨)していたのだろうか? 17世紀中頃から、西国諸藩を中心に、そして少し遅れて北国諸藩が積極的に大坂登米を行うようになる。各藩により多少違うが、七公三民の年貢はそれを現銀化(現金化)しなければ武士・町人階級だけでは食べ切れない。各藩共に登米量が多くなるに従って、輸送・管理・処分方法が変わってくる。
 各藩とも大坂登米を始めた頃は、中世以来の問・問丸・座商人あるいは朱印船貿易に関係していた豪商にすべてを依頼していた。遠距離輸送手段として船、保管手段としての倉庫、士豪として船仲間・水主を支配し、各地の経済情報に明るく、商取引の方法を熟知していて、さらに相応の武力を有するなど、当時隔地間流通を担える唯一の勢力であった。しかしこれは領主の管理が行き届かず、トラブルも多く、効率も悪かった。このため領内から最終消費地までの年貢米の輸送・保管・販売を自己の計算で行うために、領内では港湾や輸送ルートの整備、コメの品質・俵こしらえの管理などを行い、大坂では水運や商取引の便の良いところに蔵屋敷を設置し、専門の官吏を派遣し、大坂で成長してきた輸送・商品取引・金融の専門業者を蔵屋敷関係商人に登用したのであった。
<江戸時代の藩主と現代の百姓> 初期には豪商に一括依頼、次に藩が独自で管理販売に当たり、さらに専門業者に委託、アウト・ソーシングと変化していった。これを現代風に喩えればこうなる。コメを市場で売却して現金にしたい。しかし方法が分からない。そこで何でも分かっている業者にすべてを任せる。当時は豪商、現代は農協。どこで、誰に、いくらで売るか、すべてお任せ。当時は豪商から現銀を回収出来ないこともあった。現代では農協に任せていればそういう心配はない。しかし出荷したものがいくらで売れたのか、いつ入金になるのか直ぐには分からない。
 そこで藩主は考えた。「なるべく自前で対処しよう」と。そこで藩の役人が運送業者、保管人、販売業者をいくつか選び、使い分けようとする。現代の百姓は集荷業者をいくつか選び競争させる。どこの市場で売却すると有利か、あるいはネットを使った産直がいいか、生協などの会員制業者がメリットあるか、など研究する。
 すべてを藩の役人が指示していたが今ひとつスムーズにいかない。「餅は餅屋に任せろ」でそれぞれ専門業者を利用する。業者はブローカーからトレーダーへと変化する。つまり売買差益で利潤を上げるのではなく、口銭で儲けるようになる。現代ではどうなるだろうか?現代では集荷業者も輸送業者も競争するほど数がない。コメは自由な市場さえ整っていないし、「整えるべきだ」との主張も聞かれない。
 農協の考えは
「今後、わが国で農産物先物取引が進展していくかどうかについては、まず第一が商品の価格変動が激しいこと、第二が簡単に買い占め等ができない、ある一定程度以上の市場規模があることが先物取引が成立し得る要件となる。まさに市場原理の徹底に伴い、先物取引が必要とされるような価格変動を余儀なくされる情勢へと変化しているわけではあるが、大きな内外格差の存在等による輸入農産物の増大、コメ等の消費減退などによって農産物価格は低迷しており、。農業経営はきわめて厳しく、わが国農業の再生確保、農業の存在自体が脅かされているのであって、まずは所得安定政策が求められているのが現状である。
 すなわち、直接支払いによる所得確保対策が優先して求められているのであり、、これがあってこそ価格安定対策が生き、現在の危機を乗り越えていく展望も開けようというものである」
 「当初、農産物の先物取引の調査を始めたとき、生産者側からみて、リスク管理の一環として先物取引が利用される可能性があるのかという問題意識をもっていた。その後、調査を進める過程で、農産物の生産・流通機構・価格決定方式、農家の零細性等から判断して、現状では生産者のリスク管理のための先物取引の役割は限定されるという認識に至った」  「国内農産物の先物取引」 農林中金総合研究所編  家の光協会 2001年4月 から引用)
( 2002年7月8日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(3)
淀屋米市から始まる
 幕府公認の米会所設立が1730(享保15)年、それ以前北浜に「淀屋米市」と呼ばれる米市場があった。米会所はこれからの伝統を受け継ぎ、さらに発展させたものだった。その淀屋米市について江戸時代に書かれたものを引用しよう。
<芦政秘録から> 大坂米市場の儀は、往古同所富豪の町人淀屋辰五郎、三代以前淀屋与衛門と申す者、諸家大坂廻米一手に引受け、日々売出候につき、右居宅近辺土佐堀川筋、淀屋橋南詰へ所々米商人大勢寄り集り、米売買仕来候事の由、是れ今の正米相場の始なり。 右の古風を以て、当時にても、毎年正月初市の節、堂島米仲買ども、淀屋橋浜へ寄り集り、市立致し候由、然るに前書辰五郎に至って、宝永年中公裁に依り、同人家名断絶に及び候につき、右浜へ寄り集り候米商人ども今の堂嶋の地へ引移り、其後も相変らず、米相場連綿相続致し候に随ひ、正米商内のみにては、土地に有る物、際限もこれ有り、売繁、買繁の見込出来難く、売買片寄り、自然取引手狭に相成り、諸国普通の米直段相立申さず候については、堂嶋米商人の内、柴屋七衛門外壱人(編者注、備前屋権兵衛)発意にて、建物米と申すものを定め、切月限日を極め、右日限迄の内、空米を以て延売買の仕方工風致し候、是れ流相場帳合商ひの始めなり。
 右延売買相始め候より、諸国の人気弥増宜しく、市場繁昌致し候につき、延売買取引数口に相成候故、混乱これ無きため、支配人を拵え、歩銀と唱え、銀壱貫につき、何程づつと賃銀を差す遣はし、取扱はせ候事の由、是れ米方両替屋の始めなり。 (芦政秘録 米市場起立之事 から引用)
<難波の春から> 昔は、大坂に諸大名の蔵屋敷などといふものもなく、米問屋少しばかりありて、其者共方へ、諸家より、米を積登せ、売払ひ様子にて、其中に、淀屋辰五郎といふは、富豪の者故、多くは、此者方へ積み送り、次第に商売手広になり、終に、諸国の米を辰五郎の門口にて、市をなし売買せしとぞ。 これ堂嶋米相場の起りといふ。今の米市の株、御免になりしは、寛永度、御上洛の時の頃なるよし。其後、淀屋の身上潰れ、追々諸家の蔵屋敷出来て、当時のごとくなりし事ぞ。今も正米仲買株の内にて、古株と唱ふるものは、初発の米問屋の子孫なるよし。初め、淀屋辰五郎方にて、始まりし米市故、今も正月の初相場、四日五日の両日は、其旧跡淀屋橋南詰東へ入る所にて、夜八ツ時頃より明くなるまで、市始めをするを吉例とするとぞ。 (難波の春 堂嶋米市基立並米市仕方の事 から引用)
<大坂の三大市場> 「天下の台所」大坂には食糧関係の大きな市場が3つあった。それは本題「堂島米会所」と天満(てんま)の青物市と雑喉場(ざこば)の魚市場であった。
 天満の青物市場は、はじめ京橋にあったものが1616(元和2)年に再開され、その後移転して1653(承応2)年天神橋に移っている。「大坂天満の青物市場、大根揃えて船に積む」というようなことが言われたほどの発展ぶりであった。
 雑喉場の魚市場は、はじめ1597(慶長2)年に靱町に置かれたが、1618(元和4)年に上魚町に移ったのを機に大坂で唯一の魚市場となって独占権を得ている。井原西鶴は「日本永代蔵」で、 又とたぐいなきは雑喉場の朝市、取りわけ春は魚島の肴、早船五手の櫓に汗玉を乱して、問屋の岸に着く。 と書いている。
<名代・蔵元・掛屋> 淀屋の米市が開かれる迄に諸藩の大坂での対応はどのように変わっていったのか、<名代・蔵元・掛屋>を中心にみてみよう。各藩が大坂登米を始めた頃、その流通を担っていたのは前の時代から各地で活躍していた士豪的商人であった。一度年貢米として集めた米を丸投げして商人に任せていた。こうしたブローカーに任せるのは経済的にメリットが少ないし、信頼も置けなかった。そこで藩が流通をコントロールしようとする。そして大坂に蔵屋敷を設置し、新しい商人から蔵元、掛屋を登用する(幕府により大名の大坂での屋敷所有は禁じられていた。そこで名義は町人の、実質は各藩のものであった)。初めの内は蔵屋敷を設置してもその運営に当たる蔵元は藩の役人が担当していた。1644(寛永21)年頃から各藩とも徐々に町人蔵元へと替わっていく。廻米量が多くなり、蔵屋敷での仕事量が多くなると商売に疎い藩役人では効率が悪くなる。そこで取引に明るい町人が起用されるようになったわけだ。
名代大坂で屋敷を持つことを禁じられた大名が自己の蔵屋敷の名義人として指名した町人が名代であった。 蔵元とは蔵物の管理・出納にあたる者。 掛屋は蔵物代金の受領・保管・送金を担当する者であった。現代風に言えば、名代=社長、蔵元=営業部長、掛屋=財務部長とでもなるのだろうか。ただしこの構成は藩によって違い、一人三役だったり、誰かが欠けていたり、と様々だった。 さて、この営業部長に当たる町人蔵元は以前の士豪的商人と違ってブローカーではなく、トレーダーであった。ブローカーは一度藩から米を買い、自己才覚により売却しその差益を利益とする。これに対してトレーダーは売り手と買い手の間に入り売買口銭を利益とする。このように町人蔵元は、蔵米の管理・入札仲買の選定・入札立会がその主な業務となった。
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「1枚の手形、1日の内に10人の手に渡り」 1654(承応3)年、大坂町奉行所は触れを布告して、「米中買候もの、蔵元之米を買、三分一程の代銀を出し、勿論日切之約束ハ雖有之、其日限を延し、手形を順々に売候ニ付きて、米之直段高値に成候、此売買先年ハ無之候」「一枚之手形一日之内に十人之手に渡り」と、蔵屋敷で売却された米について3分の1の代銀が支払われれば、手形が発行され、これが転々と売買されるようになっていることを指摘し、これを禁止している。同じような触れは1660(万治3)年にも、1663(寛文3)年にも出している。このことから米手形の売買、米市が広く行われていたことを示している。
<米市での取引> 蔵屋敷では藩もとから米が来ると、入札の公告をし、蔵屋敷で入札を行う。落札した業者は代金(大坂なので代銀)3分の1を入れ、蔵屋敷発行の代銀受取証である米手形を受け取る。30日以内に米手形と残銀を持参して、蔵屋敷から米を受け取る。これが初期の取引形態であった。
 この取引が時代と共に少しずつ変わっていく。先ず大坂奉行所の触れにもあるように、米手形が転売されていく。そうすると、米手形の売買は米現物の需給に関係なく、投機の対象となっていく。幕府が禁止したのは、米手形が投機の対象になり、このため米の価格が騰貴していると考えたからだった。さらに米の蔵出し期限の30日が無制限に延長されていく。これは蔵元にとっても手形所有者にとっても期限はない方が良かった。さらに取引が多くなるに連れて、米手形は大坂未着米についても発行されるようになった。奉行所でもそれに気づいていて、触れの中で次のように言っている「蔵元ニ無之米を先手形を売渡し、三分一敷銀を取、連々ニ米を差のほセられ候旁も有之様」このように取引きが変化していくと、青物市場や魚市場のような現物取引の市場(いちば)から、先物取引の市場(しじょう)に性格が変化していく。それも誰か特別な人間がリードしたのではなく、市場取引に参加する商人たち、つまりマネー・ゲームのプレーヤーたちの知恵が市場での取引を進化させていったのだった。しかし奉行には理解出来なかった。だからこのような触れが何度も出されたのだったし、後に米市を禁止し、その後公認するのも、この仕組みとその利点を理解していなかったからだった。 将軍吉宗も大岡越前守忠相もこのメカニズムは理解していなかった。そうして現代でも関係者の中に理解できない人たちが多くいる。日本の農業発展のためにとても残念なことだ。
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<淀屋辰五郎>淀屋の米市について、「大阪市の歴史」から引用しよう。
 大坂の豪商として淀屋辰五郎の名前は有名である。大変な金持ちで豪奢な生活ぶりが幕府のにらむところとなり、五代目辰五郎(三郎右衛門)のとき財産を没収されたと伝えられている(淀屋の闕所)。この淀屋は山城の岡本荘出身で、岡本氏を名乗っていた。豊臣時代に初代の常安が材木商を大坂十三人町(十三軒町ともいう、のち大川町)で始め、大坂の陣では徳川家康の陣小屋を作ったとされ、その褒美として山城国八幡に土地をもらい、大坂に入る干鰯(ほしか)の運上銀を与えられたという。常安は開発町人の一人で、中之島を開発し、常安町・常安橋はその名残である。二代目三郎右衛門言当(ことまさ)は个庵(こあん)ともいい、京橋青物市場の開設や葭島(よしじま)の開発、 糸割符(いとわっぷ)の配分にも尽力した。しかし个庵の事跡として著名なものは米市である。淀屋は諸国から大坂に上がってくる諸藩の米を売りさばくことを請負う蔵元を務めていたが、北浜の店先で市を開き、これが米市場の始めとなった。この市に讃歌する人々の便宜ため私費で土佐堀川に架けたのが淀屋橋である。淀屋の米市は北浜の米市とも呼ばれ、多くの米問屋が集住していた。この北浜の米市は元禄10(1697)年ころに新たに開発された堂島新地に移り、堂島米市場として賑わうようになった。 (「大阪市の歴史」大阪市史編纂所 創元社 1999年4月 から引用)
「両人手打ちして後は、少しもこれに相違なかりき」
淀屋米市がどんなであったか?これもまた江戸時代の文を引用しよう。1688(貞享5・元禄元)年に書かれた井原西鶴の「日本永代蔵」、その中の巻1「波風静かに神通丸」からを、暉峻康隆の現代語訳で紹介しよう
 いったい北浜の米市は、大坂が日本一の港だからこそ、 ちょっとのまに五万貫目の立会い商い(現物なしの取引 差金取引)もできるのである。その米は蔵々に山と積みかさね、商人(あきんど)たちは夕べの嵐につけ朝(あした)の雨につけ、日和(ひより)に気をくばり、雲の立ち方を考え、前夜の思惑で売る人もあり、買う人もある。一石についてのわずかな相場の上がり下がりをあらそい、山のように群衆し、たがいに顔を見知った人には、千石万石の米をも売買するのだが、いったん契約の手打ちをした後は、すこしもそれに違反することがない。世間では金銀の貸し借りをするには、借用証書に保証人の印判をおし「何時なりとも御用次第に相渡し申すべく候」などど定めたことでさえ、その約束をのばし、訴訟沙汰になることが多い。それなのにこの米市では、あてにもならぬ雲行きをあてにして契約をたがえず、約束の日限どおりに損得かまわず取引をすますのは、日本第一の大商人の太っ腹をしめすもので、またそれだけ派手な暮らしをしているのである。
 難波橋(なにわばし 下流に中之島・北浜の河岸が見渡せる)から西を見渡した風景はさまざまで、数千軒の問屋が棟をならべ、白壁は雪の曙になさり、杉なり(三角形のこと)に積み上げた俵は、 あたかも山がそのまま動くように人馬につけて送ると、大道がとどろき、地雷が破裂したかのようである。上荷船(うわにぶね 20石積み)や茶船(10石積みの川船)がかぎりなく川波にうかんでいるさまは、秋の柳の枯葉がちらばっているようである。先を争って米刺(こめざし 俵米の品質を調べるため、俵に突き刺し米を取り出す七寸余の竹筒)をふりまわす若い者の勢いは、虎臥す竹の林と見え、大福帳は雲のようにひるがえり、算盤をはじく音は霰がたばしるようである。天秤の針口をたたく(針の動きを調節するため、天秤中央上部の針口=針の平均を示す所を小槌でたたく)音は、昼夜十二時を告げる鐘の響きにまさり、家々の威勢に暖簾もひるがえっている。 (井原西鶴 「日本永代蔵」1688(貞享5)年1月刊  暉峻康隆訳 小学館 1992年4月 巻1「波風静かに神通丸」から引用) 
( 2002年7月15日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(4)
大岡越前守忠相公許
<淀屋の闕所> 井原西鶴が「日本永代蔵」の中で「両人手打ちして後は、少しもこれに相違なかりき」と表現した、「淀屋の米市」も淀屋五代目広当(ひろまさ)で終わる。このあたりの事情を「大阪市の歴史」(大阪市史編纂所 創元社 1999年4月発行)から引用しよう。
 淀屋は初代常安、二代目个庵(こあん)の時期に日本一の豪商に成長した。それは、諸大名蔵米・蔵物販売や大名貸(がし)を行ったことによっている。淀屋が驕奢(きょうしゃ)として知られているのは、四代重当(しげまさ)のこととされるが、その有様を当時の「元正間記(げんしょうかんき)」は、
  家作の美麗たとへて言へき様なし、大書院・小書院きん張付、金ふすま、(中略)ひいとろの障子を立、天井も同しひいとろにて張詰め、清水をたたへて金魚・銀魚を放し
と記している。建物は金を張り詰めて金のふすまを立て、夏にはビードロ(ガラス)の障子をめぐらせ、天井にもガラスを張ってそのなかに金魚・銀魚を泳がせたというのである。誇張もかなりあると思われるが、いかに豪奢な生活ぶりかがわかる。四代目の重当は経営にはまったく関与しなかったといわれている。そのため、大名からの返金もしだいに滞るようになり、経営が悪化した。
 淀屋の闕所として知られているのは、1705(宝永2)年、五代目広当(ひろまさ)が新町遊郭に通い、吾妻大夫(あずまだゆう)を身請けしたが、その2,000両という金を工面するため、淀屋の手代が第三者の印判を偽造し、天王寺屋を信用させて金を借りたが、これがのちに発覚し、手代は逐電したため当主の広当が捕らえられ、吟味の結果、印判偽造(謀判)は死罪であるが、減刑されて闕所・所払いになったというものである。 広当は19歳とも22歳とも伝えられている。身請けの金策かどうかは断定できないが、手代が今でいう私文書偽造を行い、偽印を使用したことで処罰されたのである。普通辰五郎とされるが、辰五郎を名乗ったのは二代言当と四代重当目であり、通常辰五郎といわれているのは四代と五代を混同してのことと考えられる。
<江戸町人の米会所>淀屋の米市から1730(享保15)年までの間にも米会所開設が試みられる。その状況を「大坂府史」(大坂府史編集専門委員会編 大阪府発行 1977年3月)から引用しよう。
 堂島米市場は1697(元禄10)年のころ開設されたが、幕府は米価統制の目的をもって、1716(正徳末・享保元)年から、大坂での米市場設立を江戸町人に公認する方針をとった。その結果、1725(享保10)年12月、江戸町人の紀伊国屋源兵衛・大坂屋利右衛門・野村屋甚兵衛の3人に大坂御為替御用会所の設立が認められた。 これはさきに正徳5年ー享保元年のころ開設された米座御為替御用会所が1722(享保7)年に閉鎖となっていたので、その後をうけて米価調節のための機関としての役割が期待されたからである。
 この御為替米御用会所では正米取引を建前としたが、会所の外では投機取引の一面を持つ延売買も行われており、建前と実際とは違っていた。ところが、この会所もさきの米座御為替御用会所と同じように、会所における取引は繁栄せず、1年後の1726(享保11)年12月には廃止となった。
 翌1727(享保12)年3月、幕府は江戸の中川清三郎・川口茂右衛門・久保田孫兵衛の3名に堂島永来町御用会所の開設を公認した。この会所は堂島永来町(明治5年堂島裏2丁目と堂島舟大工町の一部となり、のちに北区堂島1丁目となる)の町年寄であった塩谷庄次郎の屋敷に設けられた。この処置に対し、翌1728(享保13)年6月、大坂の米仲買604人は河内屋儀兵衛・福島屋久右衛門・田辺善左衛門・境屋善衛門・加島屋清兵衛の5名を惣代に選び、江戸に派遣して御用会所の廃止と延売買の公認を勘定奉行に願い出た。こうした動きに対し、勘定奉行から大坂町奉行に問い合わせた結果、御用会所が開設されても米仲買は悪影響を受けていないという報告があって、出願は却下されたが、その後も米仲買惣代は執拗に運動を続け、老中水野忠之に直訴するなど、御用会所設立後における大坂米仲買および米小売商の窮状を説いたので、幕府当局もその実状を認め、江戸町奉行大岡忠相の裁断により、 1728(享保13)年2月1日をもって御用会所は廃止となった。このとき延売買の公認については取り上げず、それまで大坂米商人仲間が非合法におこなってきた延売買の商習慣をそばらく黙認するかたちとなった。
 このような地元大坂町人の強い繁多にもかかわらず、幕府は1730(享保15)年5月には江戸商人の冬木善太郎・杉田新兵衛・伊勢屋万右衛門・枌木平四郎・冬木彦六の5名の出願を認め、北浜冬木が開設されることになった。同会所は北浜1丁目の天王寺屋平助方に設けられ、他所においては蔵米の取引は禁止された。度重なる幕府の処置に対して、大坂米仲買は田辺屋藤左衛門・加島屋清兵衛・尾崎屋藤兵衛の3名を惣代に選び、冬木会所の廃止と延売買の公認を願い出で、その結果、幕府は大岡忠相の裁断により、冬木会所の廃止と大坂における帳合取引の完全実施が認められた。このようにして、1730(享保15)年8月に堂島の帳合米市場が成立した。 (「大阪府史」 大阪府史編纂専門委員会編 大阪府発行 1977年3月 から引用)
<触書>1730(享保15)年8月、ここに「堂島米会所」が開かれることになった。この事情を江戸時代に書かれた「芦政秘録」から引用しよう。 近来米相場の儀につき、願ひ出これ有るによって、米商人ども、覚束なく存じ、相場の障りに相なり候と相聞え候間、向後、右の願更に取り上げざる筈に候。大坂米売買の儀は、古来より致し来り候仕方を以て、流相場商ひ、諸国商人、大坂仲買、勝手次第に致すべく候。両替屋の儀も、在り来たりの五十軒の者取り計ひ、敷銀其外相場差引勘定等の儀、前々の通りに致し、商ひ障りになり申さざるよう仕るべく候。尤、冬木善太郎米会所の儀は相止め候。取組古来より有り来たりの儀はこれ無く、若し古来よりこれ無き儀を新規に拵え出し、古法と紛はしき儀これ有らば、詮議の上、急度曲事に申付くべく候。米商ひについては、公事訴訟在り来たりの通り取り上げず候。然る上は在り来たりの外においては格別に候。惣じて、仲買自分の趣意を以て、猥りに騒がしき儀これ無きやう致すべく候。
右の通り江戸表より仰せ下され候間、三郷町中洩れざるやう相触るべきものなり。
   享保十五戌年八月十三日
 右の通り町触これ有り、一統御仁徳有り難く仰ぎ奉り、前々の通り、正米帳合米とも、手広に売買致し候については、日々市場は勿論、其外とも繁昌弥増し候折節、同十六亥年(1731)十月、江戸表より御内意これ有り、米仲買老分、加嶋屋久右衛門外四人を、大阪町奉行所へ召し呼ばせられ、近来米値段格外下値にて諸向差支へ候につき、程よき値段に相成るべき見込みこれ無きやと内密に糺しこれ有り候処、米仲買人数を極め、無冥加にた株に仰付けられ、右の者どもに限り、諸家払米入札を以て買請候やう相成り候はば、自然値段締まり、上下の御引き立てに相成るべき旨、久右衛門外四人の者申上候につき、其の趣、江戸表へ御伺ひの上、同十二月堂嶋米仲買の儀、無冥加にて株札相渡され、諸家払米入札を以て買請候筈に仰せ渡され候処、果して右五人申立ての通り、上下差支これ無き程の米値段に相成り候につき、其規模を以て、久右衛門外四人を、米方年寄に仰付られ候。是れ米方年行司の始なり。其節米方両替屋も同様仲間に相成り候事。 (島本得一編「堂嶋米会所文献集」所書店 1970年9月発行 の中の「芦政秘録」米市場起立之事 から引用)
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<幕府・吉宗・忠相の思惑>淀屋米市から堂島米会所までの流れを見てきた。歴史の事実関係は上記が主要な出来事で、大きな漏れはないと思うが、少し解説を加えた方がいいようだ。
淀屋闕所の真相1705(宝永2)年、五代目広当(ひろまさ)の不始末により淀屋もその輝かしい歴史を終えることになった。 「大阪市の歴史」ではこの間の事情に詳しいが、他の文献ではあまり触れられていない。 今ひとつ不透明な感じがする。これは淀屋の不始末だけでなく、何か幕府の思惑があったのではないだろうか?
 1654(承応3)年以降幕府は大阪での米取引に対して、米切手の転売を禁じている。再三禁じているということは、禁じても禁じてもなくならない、幕府の威信が低下する。一方淀屋は豪奢な生活をしている。コメは諸物価に比べ高い。米切手が転売される毎に高くなっていく。米市場の延べ売買がコメ高値の原因と見ていたのだろう。「憎き淀屋」との意識が有ったに違いない。 とすると、淀屋はスケープゴートのされたのかも知れない。全くの冤罪でないにしても、見せしめ、との意識があったと思われる。
米市禁止から許可へ
幕府は再三米市を禁止している。これは米市が、特に立会い商い(現物なしの取引 延べ売買)が米高を招いていると考えていた。米将軍と言われた吉宗は米価格の安定を主要な政策目標にしていた。 そこで米高の時には米市を禁止したが、米安諸色高になると、今度は米市を利用しようと考えた。そこで米市禁止から容認へ政策変更する。 それは<触書>の後半にあるように、米会所で買い支え米高を目論んでいることからもそれが分かる。つまり江戸時代のPKO(プライス・キーピング・オペレーション)だ。 「市場の値動きをコントロールしようなどど、無謀なことを考えたものだ」などど言わないこと。現代でも政府・自民党の実力者が同じ様なこと「株価が安い。3月決算で銀行の自己資本立が低くなる。株価を高めよう」との考えは、江戸時代の将軍吉宗と大岡忠相程度の経済学知識の発想だ。堂島の大坂米仲買よりもレベルが低い。
何故江戸町人に許可したか?
大阪の米会所を何故江戸町人に許可したのか?理由は2つ、幕府側の事情と、町人側の理由が有ったと思う。幕府・吉宗・忠相は米価を上げたかった。「そのために米会所が役立ちそうだ」と考えた。 「しかし大阪商人は御しにくい。江戸商人なら言うことを聞くだろう」このように考えて、江戸商人に許可したのだろう。 江戸商人は淀屋の様な豪奢な生活を夢見たのかも知れない。
 江戸商人が失敗したのは、大阪の米仲買商人が協力しなかったからで、制度を作ってもそこで活躍するブローカー、トレーダーがいなくては機能しない。
 大阪商人の米会所に懸けるエネルギーはすごい。江戸までの往復だって大変なことだったろう。田辺屋藤左衛門・加島屋清兵衛・尾崎屋藤兵衛の3名を惣代に選んだということは、それを支持・支援する商人が沢山いたわけだ。 今日本の農業関係者にこれだけのエネルギーは有るだろうか。食管法時代の米価引き上げに懸けるエネルギーはどこへ行ったのか?まして米市場などにはまるで関心がないようだ。米会所でリスクをヘッジするのではなく、兼業農家というスタイルでリスクをヘッジしている。 ロバート・オーウェン時代のロッジデール地方ならともかく、日本の農業収入安定には市場のメカニズムを十分活用する必要がある。それが農業システムとしてのリスク管理。そして個人的には兼業農家というスタイルの管理手法。こうしたことを理解すれば、「専業の農家が減り、兼業農家が増えている、困ったことだ」と非難したり、悲観するのはナンセンス。むしろ政府・農協の無策に対し知恵を絞った結果だと評価すべきことなのだ。
 現代日本ではどこが主体になって取引所が出来るだろうか?生産者に近い農協は「いかにして政府の保護を多く引き出すか?」しか頭にないようだし、大証が大阪に作ればいいのだが、農家・農協・族議員の圧力を恐れてものが言えないのかもしれない。
 =4=農水省事務方の苦悩▲ その悲痛なメッセージを代弁する ( 2001年7月2日 )で書いたことは農業関係者すべてに当てはまるに違いない。
( 2002年7月22日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(5)
米切手証券取引所の開設
<寄場・会所・消合場> 1730(享保15)年8月13日、大坂の堂島米会所の設立が幕府によって認められた。場所は北区堂島浜1丁目、大阪全日空ビルと新ダイビルのあたり。堂島川に沿ってこちら側と対岸、いまの日銀と大阪市役所あたりには諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。
 ここは寄場(立会場)、会所(事務所)、消合場(精算所)の3つから成り立っていた。寄場は狭い小屋建てで、東の方が正米取引寄場、中央が帳合米寄場、西の方が石建米商いの場、となっていた。この小屋は事務所の様なもので、実際の取引は堂島川に沿った浜通りの道を占拠して行われていた。かつての淀屋米市でも取引に伴う雑踏・騒音が幕府から注意を受けていた。
 この寄り場から二筋ほど北の船大工町に会所(事務所)と消合場(精算所)があり、そこを中心に五百件を超える米商人が軒を連ねていた。ここは現代の大阪ではちょうど北の繁華街、曾根崎新地あたり一帯であった。
<組織と運営>
会所の役員には米方年行司・同月行司・加役・戎講・水方などがあった。このうち米方年行司は現代風に言えば、取引所の理事に、株式会社の役員に相当する役職で、毎日会所へ出勤して市場秩序の維持、売買取引事務の総轄、仲買株札の管理などにあたるとともに、町奉行からの触れの伝達、町奉行への届出、訴えなどにおいて浜方(堂島)を代表して折衝にあたった。第一回目の米方年行司は津軽屋彦兵衛・加島屋久右衛門・俵屋喜兵衛・升屋平右衛門・久宝屋太兵衛の五名であった。
 「難波の春」では次のように言っている。
米方年行司は、堂嶋米仲買株の者の内より、人物よき年功の者を、仲間一統にて選み出す事にて、明きのある時は、仲間内、入札して、札の多き者を定め、奉行所へ訴え出で、聞済みを受けて、年行司になる事にて、尤、これは、古株の正米商ひをするものの内より、選み出す事とぞ。四人にて順々年番を勤む。外に加役三人あり、人数は時に寄り、不同もあれど加役とも、六七人に限るよし。仲買一統より、袴摺料、世話料を出す事なり。米方の事は、年行司とても、自儘の取計ひならず、何事も仲間一統示談の上、取計らふ様に、取極はよく立てたる物とぞ。
 会所の運営は建物米となった蔵屋敷と米方両替からの寄付銀によって賄われていた。建物米とは名目的な建米を設けて、それを基準に米価を決めていくためのもので、この場合多く四蔵と言われる中国米・広島米・肥後米・筑前米が建物米となり、この建物米を貯蔵した蔵屋敷から仲買に銀500枚を贈与することになっていた。この四蔵のほか加賀米も夏建物であったが、これらとは他のものと異なって、その費用の贈与はなかった。これはかつて米仲買惣代らが江戸に滞在したとき金銭上の援助を受けたことに報いるためと言われている。一度受けた恩義は長く大切にする、大坂商人のよき習いと言えよう。
<堂島米仲買株>
1731(享保16)年12月、堂島米仲買株が幕府により公認され、享保17年4月および20年7月にも第二次、第三次の公認が行われた。株数については諸説あり、「浜方記録」は第1回と第2回それぞれ500枚、第3回300枚、合計1300枚としているが、「米商旧記」は第1回451枚、第2回538枚、第3回362枚、合計1351枚としている。1732(享保17)年2月には米方両替株50枚が公許された。このように享保末年(1736)頃までに堂島米会所の組織は次第に整うようになった。株数1300枚ということはトレーダーだけでなく、ローカルズも多くいたわけで、この点は現代日本の取引所よりもシカゴのそれに近いシステムだ。
 米仲買株について「難波の春」から引用しよう。
帳合米相場は、享保17年(1732)壬子二月、正米直段下直過ぐるに付、相場引立のため、株数千軒御免になり、同十九寅年、三百軒之有り、仕法は、年中口の上の相対のみにて、米百石に付き、敷銀凡金二歩か三歩程出せば、米を売付、買付する姿にて、勝負商ひする事なり。此敷銀は、米値段高下ありて、素人の方に損のある時、差引すべき積りにて、取りて置く証拠銀なり。此売買の度毎に、口銭百石に付、二匁五分づつ、出入にて五匁づつ、仲買へ請う取る事の由。
 次のような文もある。米仲買株は、前に云ふごとくにて、むかしは千三百軒なれども、追々減じて、文化の頃、堂島に八百九十軒程、江戸堀に五十軒、道頓堀に三十軒あるよし。其内堂島仲買も四組に分かれる。其一は正米商ひ、二は帳合延商ひ、三は虎市、四はこそ市、右四組へ道頓堀、江戸堀は別格なれども、是を一組として、都合五組なり。株札の表は、皆株仲買にて、名目は同様なれども、商売の仕方は、前にあるごとく、皆同じからず。此五組にて、正米相場の株を重とす。堂島四組は、冥加運上等の事なし。外一組は、前に記すごとし。都て、大坂へ積み廻はす諸国の産物、皆問屋仲買小売等の次第あれども、米に限り、しかと取り締りたる問屋のなきは、蔵屋敷を問屋の姿とせしものにもあるべきかと云ひし。
 このように株数が減ったということは、新規参入が保証されていたということだ。1980年代、株式相場が右肩上がりを続けていた頃、、東京証券取引所では外国会社の枠が少ない、と問題になっていた。新規参入が厳しかったわけだ。ということは、江戸時代の大坂は「日本株式会社」よりも自由な市場経済だったということになる。
<入替両替>
 米会所で米切手担保に資金融資する入替両替となると大坂でも相当な資金力のあった者に限られた。この入替両替(証券担保の金融機関)としては、鴻池屋庄兵衛・加島屋作次郎・加島屋作五郎・米屋伊太郎・天王寺屋弥七・島屋利右衛門の6人であったことが知られている。なかでも鴻池屋庄兵衛と加島屋作五郎はこのうちでも大手として知られている。
 会所の運営は建物米となった蔵屋敷と米方両替からの寄付銀によって賄われていた。建物米とは名目的な建米を設けて、それを基準に米価を決めていくためのもので、この場合多く四蔵と言われる中国米・広島米・肥後米・筑前米が建物米となり、この建物米を貯蔵した蔵屋敷から仲買に銀500枚を贈与することになっていた。この四蔵のほか加賀米も夏建物であったが、これらとは他のものと異なって、その費用の贈与はなかった。これはかつて米仲買惣代らが江戸に滞在したとき金銭上の援助を受けたことに報いるためと言われている。一度受けた恩義は長く大切にする、大坂商人のよき習いと言えよう。
<現代の市場参加社数>
この仲買株数1,300とは多いのだろうか?少ないのだろうか?オランダやイギリスの先物取引の詳しい事が分からないので比べようがない。そこで現代日本の市場を見ると次のようになる。東京証券取引所、総合取引参加者=113社。国際先物等取引参加者=87社。東京穀物商品取引所、農産物市場及び砂糖市場参加者=43社。農産物市場参加者=34社。 参加者が多ければいいってもんじゃあないけれど、人口1億2千万人の現代、人口3千万人程度の江戸時代、大坂商人のコメに賭けるエネルギーのすぐさに驚かされる。官に逆らいながら米会所は開設された。現代ではどうだろう?空売り規制だとか、PKOだとか、市場関係者からの抵抗はなかったのだろうか?この業界では「官に逆らった経営者」はいなかったのだろうか?
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<蔵米の流通>堂島米会所ができたことによって蔵米の流通機構が整った。ここで全体の流を見ておこう。
(1)年貢米(2)大坂蔵屋敷に入り蔵米(3)蔵屋敷にて入札・落札、米仲買は敷銀・代銀を掛屋に納め、銀手形を受け取る(4)蔵屋敷で米切手と引き替える(5) 米仲買は米切手を堂島米会所で他の米仲買に売却するか
(6)直接、蔵米問屋に売却する(7)米切手を購入した米仲買・蔵米問屋は蔵屋敷に米切手を持参し米の引渡を受ける(この受渡に蔵元がたずさわる。この段階で蔵米は現物として商人の手に渡る)(8)蔵米問屋から米穀仲買・上問屋・上積問屋米などの仲介業者と駄売屋・搗米屋などの小売商をの手を経て(9)消費者の手許へ
 蔵米販売代銀の流れとしては、
(1)米仲買 (2)掛屋 (3)一部は蔵屋敷から藩の大坂での費用や国元への送金(残りは両替商を兼ねることが多い掛屋によって、為替取組みを利用して、江戸藩邸へ送金)
 江戸での流通は米会所がなかった点が大きな違いになっている。
幕府米(旗本・御家人米) →札差   →
米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
幕府米(払米・貯蔵払米) →用達商人 →米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
藩米(関東・奥羽)  →江戸蔵屋敷  →米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
藩米(西日本)→大坂蔵屋敷→堂島米仲買→米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
商人米(上方米)   →下り米問屋  →米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
商人米(関東米) →関東米穀三組問屋 →米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
商人米(奥羽米)   →地廻り米穀問屋→米仲買→脇店八ヶ所米屋→春米屋→江戸の消費者
<入札>西日本諸藩および出雲米子の米は8〜10月に売却され、北陸諸藩の米は9〜10月に、日本海沿岸北部諸藩の米は翌年3〜5月に売り払われる。筑前・肥後・中国・広島のいわゆる「四蔵」は、10月17日を初市(初入札)として、それ以降隔日に売り払った。四蔵のうち、筑前・肥後・中国の米は例年「春売」を行い、1月17日に払米するが、原則的にこれを最終期限とし、それ以降は払米をすることはなかった。その他の蔵では年中払米をしていた。
 北国米のうち、米子米は西国米と同じ売出時期であるが、越前・秋田・新発田・庄内・加賀蔵は春売、加賀蔵の場合、4月中に初入札を行い、その後5月まで3〜4度の入札を実施し、5月7日から10月8日までにすべての米を売り払ったといわれる。商品米として大坂廻米がなされる以上、各藩とも、他藩との競争は避け難く、できるだけ有利な時期に払米できるよう、蔵米到着時期を調整していた。
 入札に関しては、入札の時期について調査していた。「米相場聞合役」とか「蔭聞役」などの役職を置き、毎日の市場を調査していた。
 入札が決定すると、札触れ・懸札によって公示する。蔵役人の聞番・目付・上米代支配役から堂島の米方役へ、入札に付すべき赤米・白米の俵数が通達され、その翌日に仲仕頭が堂島浜に入札の札触れを行い、渡辺橋北詰めの番所および蔵屋敷門前に払米看板を掲げた。渡辺橋北詰は諸藩の入札予定および落札結果を公示する場所で、米仲買は情報を得るために毎日ここに出向いたと言われる。
 一方、入札に参加できるのは「切手蔵屋敷より素人へ直売してはならぬ法なり。何れにも正米仲買株の者共、入札を以て買取、夫より外々へ売出すなり」とあるように、正米株を所有する者に限られていた。
 米仲買が蔵米の入札を行い米切手を買い入れようとするのは、(1)蔵米問屋・搗米屋・駄売屋などからの注文による場合と、(2)米仲買が自らの計算で行う場合がある。あらかじめ転売先を有していて、その上で蔵屋敷払米に応札したり、堂島米会所で米切手を購入する米仲買は「問屋」と呼ばれた。他方、自己の思惑で蔵屋敷の入札に参加したり、堂島米会所で米切手を買い、後に他社に転売する米仲買を「おも入仕」「おもわく仕」と言った。
 入札方法は次の通り。入札は堂島米会所における正米取引の引方、すなわち、九ツ時(正午)から始まり、米仲買は入札書を封に入れ、蔵方に持参し、入札番号を聞いて帰ることになっていた。入札順番を確認するのは、同一入札価格の時、若い番号の者に落札する定めになっていたからだった。入札日に蔵屋敷では、蔵役人・蔵元が立ち会い、入札書を持参した米仲買は「仲間合印帳」により「蔵名前」の有無を調べた。 一般の入札に先立ち「初入札」が行われることがあったが、これは見本を公示するという目的と、入札価格の目安を知らしめるという意味があった。
<開札・落札>
入札後八ツ時(午後2時)から「札披」「開札」となる。「開札」は蔵役人が蔵屋敷の会所で行う。加賀蔵では改作奉行2人・御徒横目・箪笥役御算用者・浜役御算用者の計5人が立ち会い、佐賀蔵では聞番(留守居)・目付・上米代支配役・米方役・雑務目付その他がこれを行った。開札が終わり、落札者が決まると、名前が公示される。落札は一律の値段ではなく、入札の際に公示される俵数になるまで、最高値から順次落札者を決定する。
 落札が公示されると、蔵元・掛屋の手代が集まり、落札の俵数・値段・名前を控え、米代銀受取り、銀切手振り出しの手はずを整えた。落札者は印形持参の上、俵数および落札値段を記入した蔵屋敷の帳簿に捺印して、買い受けを確認し、翌日敷銀を納めた。
<敷銀>落札が決定し、「判書」捺印が終わると、落札者は翌日、敷銀を掛屋に納める。これは保証銀であり、手付銀であった。掛屋に敷銀を納める時、落札者は米10石につき(米切手1枚につき)、手数料として銀2分を掛屋に支払った。
 落札者は残りの代銀を落札の当日から10日以内に掛屋へ納めなければならなかった。この期限を「切れ日」と言う。ところで敷銀納入後「切れ日」までに落札の権利を転売する米仲買も多かった。この「切れ日」前の権利転売には「差紙」と言われる証書が用いられた。これは落札者が残銀支払義務つきの入札米を第三者に転売したことを掛屋に通知したもので、第三者は代銀を添えてこの差紙を掛屋に提出した。
<銀切手と米切手>落札して蔵屋敷所定の期日である7日または10日限に掛屋に代銀を納めると、掛屋から蔵方あてに代銀受取り済みの証書、銀切手振り出される。銀切手を受け取った買い主はそれを蔵元へ持参して、米を直接受け取ることもできるが、通常は銀切手と引き換えに蔵元から米切手を受け取る。
 この米切手が堂島米会所の正米取引で取引された。この米切手は記載されたコメの数量を、引き換えに交付するという約束手形であるから、有価証券であり、従ってこれを取り引きした堂島米会所は、「商品市場」ではなく、「証券市場」であった。つまり「堂島米会所」とは「堂島米切手会所」であり、「米切手証券取引所」というのが実体であった。
( 2002年7月29日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(6)
正米商内
<取引の仕組み> 正米商内とは1年を春(1月8日〜4月28日)、夏(5月7日〜10月9日)、冬(10月17日〜12月28日)の3期に分けて、蔵屋敷が発行する米切手を米仲買間で取引するもので、毎日午前10時から正午まで開かれた。建物米には肥前・肥後・中国・筑前・広島・加賀米が米仲買の入札により選定されることになっていたが、夏には北国米の加賀米が選ばれるのを通例とした。正米取引に参加できる者は公認の米仲買株を有する者に限られ、正米方と呼ばれた。売買は切手1枚、すなわち10石を単位とし、100石以上を「丸物」商内、100石未満を「端物」と言った。代銀・米切手の授受はもともと即日受渡しを原則としたが、寛政以降4日以内となった。このように正米商内は米切手の実物取引であり、実需取引・投機取引双方に利用されるものであった。つまり、米問屋の買(売)注文を受けた米仲買が正米商内で米切手を売買する場合と、仲買の投機目的で売買する場合とがあった。米仲買を通じて正米商内に参加するものは口銭を払うことになっていた。「芦政秘録」では丸物商内で100石につき銀10匁、端物商内で10石につき銀1匁5分としているが、「八木のはなし」では100石につき銀2匁5分としている。この違いは時代によって変化したと考えられる。
 淀屋米市では蔵屋敷に代銀の3分の1だけ支払えば、米手形を手にし、これを売買することができた。堂島米会所では全額となり、会所での米切手・代銀の授受期限は4日以内と短かったので、資金を持たずに投機目的で米切手を購入することは難しかった。そこで、こうした投機家に米切手を担保にとって、現銀を融通する信用機関として生まれたのが入替両替であった。この入替両替は大きな資金を必要とし、十人につぐ大両替であった。入替両替は100石につき銀300匁ないし500匁の敷銀を預かり、さらに貸付銀には利子が付いた。利率は3月1日から10月末までは銀1貫目につき日歩1分2〜7厘、11月から翌年2月末までは銀1貫目につき日歩2分5厘であったという。冬季に利率が高かったのは新米の出回り期にあたり、米購入のための資金需要が高まるためであった。米価が高くなれば入替両替に担保に入れてある米切手を場右客し、それによって借銀を返済する借り手もあったし、また米価が下落した時には質物の米切手を流してしまう借り手があり、この場合には入替両替は質にとった米切手を市場で売却し、それによって元利の決済を行った。また「八木のはなし」には、米価高値のとき質物米切手を売却し、利益を得ようとする入替両替もあったらしい。かつて日本の市場でも、客からの預かり証券を無断で売却する、という不正があったが、あれは江戸時代の米取引を勉強した成果なのだろうか? 取引状況をもう少し詳しく見てみよう。堂島川に沿った浜通りの道を占拠して、朝の8時から帳合流商内が始まっている。2時間の間に今日の相場が形作られつつる。その流れに沿って正米商内でも価格が提示される。2時間の間米仲買の競り合う声がやかましい。事情を知らない者が見たら仲買たちが喧嘩しているように見えるだろう。正午にその日の取引が終わると、消合場での手続きが待っている。ここで米仲買は今日の取引を報告し、必要なら入替で資金を借りる。米切手と代銀との受け渡しは4日以内と決まっていた。さて米取引はここだけではなかった。江戸堀、道頓堀でも取引が行われていた。堂島での取引内容が即刻伝えられ、その相場を元に取引が行われた。競馬、競輪に喩えると解りやすい。つまり江戸堀や道頓堀に場外馬券・車券売場があったわけだ。JRA職員も堂島米会所を研究し、その仕組みを現代に生かしていた訳だ。このように堂島米会所は時代をワープして大きな影響力を発揮しているようだ。
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<正米相場の事 難波の春から> 正米商内については江戸時代に書かれたものがいくつかある。ここではその中から「難波の春」から引用しよう。大江戸経済学も回を重ねて、江戸時代の文献からの引用も多くなった。現代文と違って初めは読みづらかったけれど、少し慣れてきたと思う。前々回井原西鶴の日本永代蔵を暉峻康隆訳で紹介したが、こうした名訳はあまりない。まして文学ならともかく、経済問題では期待できない。少しずつ解りやすい文章で慣れていくより他はない。と言うことで、「難波の春」から「正米相場の事 入替両替の事」を掲載するとしよう。
正米相場の事 入替両替の事
〇正米相場は、名目の通り、全く現米の商売にて、其内に、市中飯米に売り出す注文と、正米をもって勝負をする商ひの注文との、二通りあり。飯米に売り出す分を、切手にて、米仲買より買ひ取る者は、百石に付、銀弐匁五分づつ、口銭遣はし、代銀は、四日目毎に払う定めなり。(相対を以て現銀にて買ふをじゃんと唱ふとぞ)此切手を、勝手次第蔵屋敷へ持ち行きて、正米を受取る事とぞ。又正米を以て勝負商ひをする者は、米切手を仲買より買ひ取るばかりにこれ無く、勝手よければ、又仲買へ売り渡しもすることにて、是も四日限に勘定をなす。かく勝負商ひをするものは、元手銀多くなければ、出来ぬ姿なれども、それには、入替両替といふ事ありて、其両替より元手を借り出し、いか程も米を買ふ事なり。尤、入替両替にて金を借るには、米切手を質物に入れ、米代銀だけの銀子を借り受け、米切手を買ひては、また質物に入る故、少しの元手にても、大勝負の出来る事なり。
〇入替両替といふは、小手前の者には、中々出来ぬ事にて、鴻池屋善衛門、辰巳屋久左衛門等のたぐひ、格別富豪の者のすることとぞ。さて、米仲買ども、右の切手を、段々と質物に入れおもわく次第、いか程も買ふ事なれども、米切手は、蔵米の有高だけのもの故、凡の数も知れべき訳なれども、譬へば、有米拾万石の米切手、市場にては、百万にも二百万にほ成る訳は、右の入替両替へ、質物に取り置きし切ってを、銘々のおもわく次第にて、米市場に持ち出し、売り払ひ、置主より受戻しに来れば、市場にて、切手を買ひ取りて戻すよし。此扱方にて、入替両替多分の利徳を得る事とぞ。故に、封印附の切手は、質にとらざる極のよし。
 右の通りにては、正米相場の勝負商ひは、米仲買と入替両替の外は、自由に出来ぬ様に聞ゆれども、さにあらず、素人も、仲買を相手になし、定めの敷銀・口銭・利息を出せば、正米の勝負商ひも出来る事なり、一体、正米の方は、仕法は替れども、趣意は、帳合米の空相対と、同様のものながら、正米の方は、敷銀だけにても、相応の元手銀がなければ、出来ぬ事故、する者少なき事のよし。正米を以て売買する姿の物ゆえ、相場が潰れても構ひなく、竪替に、是非とも勘定せねばならぬと云ふ事もなく、何程入り組みたる算用にて、徳分がありて、人が渡さざる時は、奉行所へ願ひ出でても、取り上げになり、渡方の申付あることにて、此三ヶ条だけが帳合米より手堅さもののよし。
〇正米株の者は、古き株ゆへ、帳合の方をも、兼ねてする事も出来るなり。帳合米の株は、新しきもの故、正米の方を兼ねてする事は、ならぬ定めのよし。
〇正米を以て、勝負商ひするものは、何れの国の米にても、出来る姿のものなれども、多分、堅米の米切手を以て、売買する事とぞ、是れ則、堅米の相場の引立にて、何にても、余国の米より直段よく、其上、切手多くありて、取廻しの都合よさ事のよし。
〇切手を質に入る時、百石に付、五百目か三百目程、敷銀を入れるなり。利息も、時により高下あれども、大体、銀壱貫目に付、一日分利息七分五厘より八分位、高き時は九分する事もあり。此日廻し利息壱ヶ月にて、凡そ百両に付、弐両壱歩弐朱程に当たるとぞ。此外に、日廻し利息にせず、年内より春二月中迄、利息何程と相対して、借り受くる者もあり。尤、春になれば、又皆、日廻し利息になる事と云う。
〇正米は下直なれば、米多く出で、高値にては、入用だけの金子少しにても、商ひの出来る事故、米の出方少なしと云う。
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<米切手のいろいろ> 米切手は形式上「出切手」と「坊主切手」とに分けられる。「出切手」「出米切手」は切手面に数量・入札期日・落札者氏名・記番号がある切手。これに対し、「坊主切手」は入札期日・落札者の記載のないもので、蔵屋敷から借銀の担保として証書に添えて債権者に交付されることが多い。
 こういう分け方のは別に、機能上では「落札切手」と「先納切手」とに分けることができる。「落札切手」は入札・落札の過程を経て落札者に代銀完納と引き替えに交付される切手。そして「先納切手」とは未着米について、落札によらず、あらかじめ代銀を納めた者に対して交付される切手だ。「先納切手」は借銀の担保として振り出されることが多かったから、実際にはこれによって米は引き換えられずに、借銀の返済によって回収された。「先納切手」はさらに債権者によって区別することができ、浜方(堂島)関係者が債権者となっているものを「浜方先納」、浜方以外の富豪が債権者となっているものを「内証先納」と言った。
 一般的には落札切手=出切手、先納切手=坊主切手と言えるが、この対応関係はすべてについては必ずしも当てはまらない。落札切手はすべて出切手の形式をとり、坊主切手はすべて先納切手であるとみてもいいが、逆に出切手の形式であっても実際には先納切手であることもあった。
 「落札切手」が実物の米の請求権そのものであり、本来の米切手であり、堂島米会所において売買されたのはこれであった。これに対して、「先納坊主切手」は名目上米切手の形をとっているが、借銀担保としての米切手であり、本来商品市場において流通するものではなかった。しかし、出切手の形式をとる先納切手の場合には、落札出切手との区別が表面上容易ではなかったから、堂島米会所において流通していた。
 このことから2つの見方ができる。(1)このために近世後期においてしばしば過米切手・空切手事件を生じさせることになった、とのマイナス面を見る捉え方。(2)米という実物のない、借銀という権利を売買していた、マネー・ゲームの先端を行く取引をしていたことに注目。現代人でさえ理解できない人が多いほどの、高度な先物取引、デリバティブをやっていた、との驚き。この2つの見方ができる。もっとも多くの識者は(1)の方で、(2)はTANAKA1942bの独断と偏見に基づいた考えかも知れないが・・・
( 2002年8月5日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(7)
帳合米商内
<取引の仕組み> >帳合米商内とは1年を春(1月8日〜4月27日)、夏(5月7日〜10月8日)、冬(10月17日〜12月23日)の3期にわけて、各期に筑前・広島・中国・加賀米などのうちから1つを建物に定めて売買するものだが、個々の取引毎に米切手・現米・代銀などの授受は行わず、売方・買方が期限(限市)までに最初の売買と反対の売買を行って、売玉・買玉を相殺し(売埋・買埋)、限市に売値段と買値段の差金の決済だけを行うことを原則とする取引だった。帳合米という名称は、個々の取引毎に代銀と現物の授受を行わず、それを帳簿上で行ったところから名付けられたものであった。(限市が3回とは、SQが3回と考えればいい)
 現代の証券市場での「日経平均」と同じ様なものであり、受渡決済ではなく現物の授受を伴わない差金決済であった。
<売買繋商内> 世界に先駆けた先物取引、堂島米会所の「帳合米取引」、どのようにして採用されたのか?その経過を見てみよう。
 幕府の方針は当初、米市、米会所は米価高騰の原因と考えていた。そのため淀屋を闕所させた。その後「米安諸色高」になると、将軍吉宗と大岡越前守忠相は米会所により米高を実現させようとした。そのため大阪商人よりコントロールしやすい江戸商人に米会所設立を許可する。その会所は下記の通り。 

 公認年月    出願人                          廃止年月    場所 

 正徳・享保の頃 江戸 三谷三左衛門 中島蔵之助 冬木彦六         享保6年8月   堂島新在所
 享保10年12月  江戸 紀伊国屋源兵衛 大坂屋利左衛門 野村屋甚兵衛    享保11年12月  不明
 享保12年2月   江戸 中川清三郎 川口茂右衛門 久保田孫兵衛       享保13年12月  堂島永来町 塩屋庄次郎方
 享保15年5月   江戸 冬木善太郎 杉田新兵衛 伊勢屋万右衛門 冬木彦六  享保15年8月   北浜1丁目 天王寺屋平助方
 これらは皆江戸商人からの申請によっている。それは大坂の米市で慣行的に行われていた延売買に対して不信感を持っていたからで、江戸商人に現物取引のみを許可していた。大坂の米仲買で行われていた未着米の先物取引は投機的、博打のように理解していたと考えられる。これは大岡越前守忠相もそのように理解していただろう。
 では大岡忠相が懸念した米の延売買とは実際はどのような仕組みだったのだろう。正徳・享保の頃、公認された「米座御為替御用会所」では米切手の現物取引だけが許可された。しかし、未着米の米切手の発行や米切手の転々売買の結果、米切手発行から蔵出しまでの期間が長くなると、米商人の米価変動リスクは大きくなり、取引は萎縮する。米切手を買って置いても、将来現米を受け取った時に米価が値下がりしていれば、買い受け人の損失になる。このため米価が下落するを予想される時は、売り手は多くなるが、買い手はいなくなる。逆に米価高騰が予想されると、買い手は多くなるが、売り手がいなくなる。このように米価変動が激しい時、それが予想される時、取引は激減する。つまりちょっとした乱高下の予想だけで取引が停滞してしまう。
 そこで、こうした不便を解決するために、米座御為替御用会所公認後まもなく、大坂の備前屋権兵衛・柴屋長左衛門の2人が「売買繋商内」の仕組みを考え出した。この仕組みは、「建物米」という標準米を設定し、その建物について同業者が一定の敷銀を納めて、一定の期限内の先物取引を行い、期日に売買差金の決済を行うというものだった。当初、差金決済は当事者間で行われていたが、漸次この取引が繁盛し、売手と買手の関係が複雑になるに従い、遣来両替という専門の清算機関がこれを担当するようになった。これがのちの「帳合米商内」のおこりであり、またわが国における標準物定期取引の蒿矢とされている。当時は会所に米切手と現銀の取引しか認めていなかった幕府をはばかって、表面上は取引ごとに米切手と現銀の授受が行われたように遣来両替の帳簿に記載されていた。
 米座御為替御用会所でのこの延売買は繁盛したが、1721(享保6)年に米価が著しく高騰すると、幕府はこれを会所で行われている「不実商内」、つまりこの延売買によるものとして、関係の米仲買を逮捕した。この時年長者である64歳の紙屋治兵衛と66歳の高田屋作右衛門の2人が呼び出されて「米相場」の実状についていろいろ尋ねられたので、「私たちの行っている商売は決して不実と言われるようなものではありません。これは正道の商売であります」という内容の返答をしている。しかしこの時点では「正米売買の義は格別、以来延商内の義は停止に申付候」として延商内=後の帳合米商内は禁止される。以後江戸商人による米会所ではすべて禁止され、1731(享保15)年8月13日大坂堂島米会所設立で正式に幕府から公認される。
 備前屋権兵衛・柴屋長左衛門の2人が考案した「売買繋商内」は「米商旧記」によると次のようであった。
 諸蔵米切手売も現金銀之売買ニ而、自然切手計ニ而、正米国元より延着有之時は、商人共も迷惑ニ付、右延着之節は、売買繋商内無之而は、諸家大数之米之事故、手狭ニ而融通も難出来とて、其比大坂に備前屋権兵衛・柴屋長左衛門ト云米商人有、手狭ニ無之売買振ひ之為トして、建物米与云名目を立置、米商之者相談之上、限日を相極、右延着日限迄之延売・延買ト云ふ事を相始ム」
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<帳合米商内大意の事 芦政秘録から> 帳合米商内については江戸時代に書かれたものがいくつかある。ここではその中から「芦政秘録」から引用しよう。大江戸経済学も回を重ねて、江戸時代の文献からの引用も多くなった。現代文と違って初めは読みづらかったけれど、少し慣れてきたと思う。以前井原西鶴の日本永代蔵を暉峻康隆訳で紹介したが、こうした名訳はあまりない。まして文学ならともかく、経済問題では期待できない。少しずつ解りやすい文章で慣れていくより他はない。と言うことで、「芦政秘録」から「帳合米相場大意の事」を掲載するとしよう。
「帳合米相場大意の事」
一、帳合米の儀は元来空虚の品に候へども、正米と違ひ土地に有る物の多少、其外等に拘はり申さず、銘々見込十分に、売買取組出来候儀につき、〆売・〆買等のために、直段相狂ひ候事先はこれ無く、全く人気の集まる所を以て、相場生み出し候儀故、自ら天然の米直段相顕はれ、正米相場よりは直段において却て正しき方にこれある由。国々豊凶都ての模様も此の直段に心をつけ候はば、居ながらにして、諸国の動静相分り、格別意味深重なるものにて、軽易に心得、卒忽の取扱仕るまじき由の事。(後略)
一、帳合米の儀は前条の通り空虚の商ひにつき、浜方三季の限市には立埋と唱へ、たとえば正月相場より売買取組の分は四月限市までに、売人は残らず買い戻し、買人は残らず売り戻し、浜方に帳合米壱粒もこれ無きやう買埋め、売埋め致し、相場仕廻ひ、猶又五月相場より新たに売買取組み、十月・十二月両度の限も、先繰り右の通り取計らひ候由の事。
一、帳合米直段の儀、正米相場より高値の時は上鞘と唱へ、正米より下値の時は下鞘と唱へ候儀にて、元来商帳両相場の儀は一体これあるべき処、両条の振合を以て直段高下致し候につき、自然上鞘下鞘に相成り候へども、三季限市に至り、正米帳合米とも正しき方に落ち合ひ、同直段に相成り、正銀正米に候由の事。(後略)
一、帳合米相場仕様の儀、正米同様日々相場所へ寄りつき、米仲買ども見込みを以て、銘々力次第売買致し候上は、其の石数に応じ、敷銀と唱へ、米百石につき何程宛と兼て差し定めこれあり、右敷銀の外に歩銀と唱へ、両替屋支配賃銀これ又定めの通り売人買人双方より、右弐口の銀子相添へ、銘々売買の空米を両替屋に差入れ、相場高下に応じ、互の損徳、敷銀を以て勘定の儀、両替屋に相任せ置き候儀にて、日々相場高下により、右敷銀切れ候儀に至り時は先繰り跡敷銀差入れ、互いに売繋ぎ買繋ぎ致し、三季に決算取致し候由の事。
一、右帳合米売買の義、たとえば売方の者壱石代銀六拾匁相場を以て売付け置候処、其の後相場引上げ候節は追て其の時々の相場を以て、買戻し候儀につき数日売付け置候ては損銀弥増す、両替屋敷銀切れ候につき、格別損銀相高まざる内、手早やに買戻し候儀もこれあり、又は何れにも引下ぐべき相場と見居り時は、跡敷銀差入れ売繋ぎ置候儀もこれある由。買人とても右同様の振合にて、最初帳合米買付け置候砌より、相場引下げ候はば追て売戻の損銀を存じ量り、是又手早に売戻し、或は見込これあり、跡敷銀差入れ買繋置候儀もこれあり、所詮の処見込み次第の儀にて、右売買の義米仲買一同幾口となく取組入り混りこれある儀につき、三季限市に至らず候ても、日々相場高下に応じ、損徳を争ひ売戻し買戻し候者少なからず、それ故帳合米相場の儀、正米よりは日々の直段自然と正しき道理にこれある由の事。(中略)
一、正米の儀は米切手にて売買取引き候へども其の蔵々には現米相備へこれあり、空米にはこれ無く候につき、縦令如何様の異議これあり候とも、相場潰れ候事これ無く候。帳合商ひは空米にて全く人気の寄るところを以て相場立ち候儀につき、少々の事にても相響き兎角相場潰れ易きものにこれあり候。右につき日々帳合相場取続き候時は浜方穏か故の儀、人気平準と知るべき由の事。
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<火縄値段> 帳合米の取引時間は午前8時から午後2時までであった。立ち会い開始は前日の終値から始まった。正米商内の開始が午前10時。それまでの帳合米商内の値動きが正米商内の値付けとなった。つまり帳合米商内が正米商内をリードする役目を果たしていたわけだ。取引終了は午後2時。この時間になると一寸余りの火縄が点火され、その火が消えるとその日の立会の終了となった。火縄に点火されてから消えるまでの間の値段が「火縄値段」で当日の仕舞相場=終値であった。時には、その後にも残って取引を続けるものがあり、その時には約1時間毎に水方が水をまいて退散を促したが、二番水の時の値段を「桶伏値段」とか「桶値段」といい、これが米方両替における帳入値段となった。帳合米取引では一定期間に同量の売買を行って売買量を相殺することになっていたが、同日中に等量の売りと買いを行い、売買を相殺することを「日計り」「日仕舞い」「一杯」と言い、数日を経過したのち転売・買戻しをするものを「立米」「夜越米」と言った。立米の場合も、限市までには反対売買によって、売り埋め・買い埋めされねばならず、そのため、限市の前3日間は「仕舞寄商内」といって、売り埋め・買い埋めの取引のみが行われることになっていた。
 さて取引の終了は火縄が消えた時で、火縄が燃えている間に成立した値段がその日の「火縄値段」となるのだが、もしもその間に取引がなかったらどうなるか?もしもそうなるとその日の帳合米取引はすべて無効となり、前日の火縄値段で決裁される仕組みだった。火縄に点火されてから、取引が成立しない内に火縄が消えると「立用(るいよう)」と叫び、その日の取引がすべて無効となった。このためその日の取引に不満がある者は、火縄を消して「立用」にしようとする。一方今日の取引を成立させたい者は、そうはさせまいと火縄を守る。お互いが実力行使する場面もあった。つまり火縄を消そうと、水をかけたり火縄を奪い取ろうとしたりする者、そうはさせまいと火縄を守ろうとする者。取引所の職員には体力勝負の職場でもあった。
 火縄値段が決まり、その日の取引が終了すると、米仲買はその日売買した帳合米の数量・値段および相手方の氏名を書面に書いて清算機関(消合場、古米場)(クリアリング・ハウスに相当)に提出し、消合場では米方両替が毎月3回ほど消合日(決算日)にそれぞれの仲買の売買を突き合わせて、仲買ごとに売買の差金を計算し、差損勘定の仲買から損金を納入させ、差益勘定の仲買には益金を支払った。米仲買で帳合米商内の取引に参加する者は所定の敷銀を納めることになっていた。これは売買証拠金であるが、「八木のはなし」では100石につき金2〜3分とあり、きわめて少額であった。これが投機取引を促進することになった。もっとも相場の変動によっては追加敷銀が要求されることもあった。この他には売買にあたって売方・買方ともに米方両替に口銭を支払うことになっていた。消合場での立米の清算は売買日の桶伏値段によってなされた。桶伏値段と現実の売買値段との差額については、当事者間で差金が授受されることになっていた。立用の場合は前日の火縄値段で決済することになっていた。
<株仲間組織が市場秩序を守る> 淀屋米市について井原西鶴は「両人手打ちして後は、少しもこれに相違なかりき」 と、交換の正義が守られている状況を書いている。正米商内にしても帳合米商内にしても、消合場できちんと清算が行われていた、ということは株仲間組織が市場秩序維持に役立っていたと言えよう。江戸時代しっかりした法律も、まして商法などない時代、幕府の方針は「金銭の争い事は当事者間で解決するように」だった。金銭債権に関する訴訟を裁判機関(普通は町奉行所)が受理しないとした、「相対済令(あいたいすましれい)」は17世紀半ばから19世紀半ばまでの約180年にの間に10回出ている。そうした時代にあって株仲間組織が、不正を行った株仲間を以後取引停止にするという処置により市場秩序を維持させていた。そのため「天保の改革」と称される、水野忠邦の「株仲間解散令」により江戸時代の経済秩序は崩れる。堂島米会所も機能を発揮出来なくなる。現代の経済で考えると、青物市場、魚市場、東京証券取引所などの立会場に素人が参加した状況を想像すればいい。天保の改革とはこうした混乱を引き起こしただけであった。「江戸時代の三大改革」と言われるものの内、少なくとも松平定信の「寛政の改革」と水野忠邦の「天保の改革」は、経済を混乱させた「失政」と言い換えるべきだと思う。
<お薦め本> 江戸時代の文章読むのも疲れますね。ずばり面白くて、それでいて堂島米会所のことがよく分かる本を紹介しましょう。TVドラマにもなった小説です。島実蔵著「大坂堂島米会所物語」 時事通信社刊 1994年7月初版。 1998年にTV大阪で制作され「米将軍・吉宗に挑んだ男」として放映されています。片岡鶴太郎、南野陽子、永島敏行、織本順吉などが出演しています。著者は大坂の市場関係者とのことで、取引所の仕組みが素人にも分かるように書いてあり、はらはらどきどきしながら読んでいく内に、大坂堂島米会所のことがバッチリ分かる、という小説です。
( 2002年8月12日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(8)
虎市米相場
<帳合米商内の機能> 戦国時代が終わり江戸時代になり、諸藩は天下の台所、大坂でコメを現銀に替えるようになった。各藩とも大坂登米を始めた頃は、中世以来の問・問丸・座商人あるいは朱印船貿易に関係していた豪商にすべてを依頼していた。豪商は客を捜し相対取引をしていた。諸藩は大坂に蔵を用意し、米手形を発行し、淀屋米市で米仲買が取引きするようになった。相対取引から現代の青果市場のようなものが出来た。淀屋米市から堂島米会所になる過程で、先渡し取引や先物取引に発展し、さらに、大坂の備前屋権兵衛・柴屋長左衛門の2人が「売買繋商内」の仕組みを考え出した。これはいままでの取引とは違って、現実にコメを取引の対象とするのではなく、売買差益を清算する「差金取引」であった。このように大坂でのコメ取引は市場のメカニズムを十分活かすように進化していった。ではこのように進化した差金取引「帳合米取引」を今日の経済学ではどのように評価できるだろうか?ここでは、「近世日本の市場経済」宮本又郎著を参考に考えてみよう。
 先物取引が行われる商品取引所とは、(1)継続的市場の成立、(2)安全かつ大量取引の実現、(3)適正かつ合理的な価格形成、(4)空間的・時間的な価格平準化機能、(5)ヘッジ取引による価格保険機能などにあると考えられる。(1)と(2)は物流機能、(3)(4)(5)は価格形成機能でこの両者は相互作用的なもの。つまり継続的、大量の取引が行われるからこそ、(3)以下の価格形成機能が果たされるし、また逆に価格形成が発揮される場において(1)(2)が而つぃげんされるとも言える。堂島米会所では正米商内に物流機能が、帳合米商内に価格形成機能があったと考えられる。
 帳合米商内が適正かつ合理的な価格形成、空間的・時間的な価格平準化機能を果たすものであったことは、多くの文献が力説している。「天然の米直段相顕はれ」「帳合米相場の儀、正米よりは日々の直段自然と正しき道理にこれある由」(芦政秘録)、「一体帳合相場は(中略)日本国中の人気の寄て立相場故、姦曲の交らさる時は、天然の相対にて、正しき物故、正米相場の目当てにも成、諸物価の基本とも成ことなり」(八木のはなし)、「帳合米商内は国々米直段を平均する基本とも、国々紙乳母の亀鑑ともいふなり」(米商秘説)などの表現がある。
 1788(天明8)年堂島米方年行司が町奉行に「帳合米一件書上候事」で帳合米の由来と機能を説明している。それは、米の需給には時間的かつ空間的に不均衡があり、米価が乱高下しやすい、このため円滑な流通が阻害される。ことに大坂のように諸国に米が集散する土地ではそうである。先物取引を導入すれば、この弊害が住居される。帳合米商内とはこうした異議をもつものである、と説明している。
 これらは価格形成機能の説明。もう一つの機能、「買繋ぎ」「売繋ぎ」「掛繋ぎ」などヘッジ機能、つまり価格変動による被害を最小にしようとする機能、については次の例が「米商秘説」にある。
帳合米商内は正米懸繋の為御免許なりたるものといふ謂は、正米を買請たるものが帳合米を売事を繋とも、懸ともいふ、諸蔵米落札仕たるものが、帳合米売事も繋とも懸ともいふ、或は正米を売て、帳合米を買事を逆懸といふ。此事を懸繋とも懸商内とも云。
<ヘッジ機能の例> ヘッジ(掛繋ぎ)として帳合米が売買される例を考えてみよう。
 ある問屋が将来の需要に備えて正米取引で米切手を買ったとしよう。この場合米切手を持っている間に米価が下落すると、問屋は損をすることになる。「こんなに安くなるのなら、慌てて買うことは無かった。待っていれば良かった」となる。そこで次からはこのようにする。この米問屋は米切手を買った時に、同じ量の帳合米を売っておく。将来この米問屋は買持中の込めきったを転売したときに、同時に、さきに売っておいた帳合米を買い戻す。この場合、正米の価格が最初に米切手を購入したときよりも下落していれば、この米問屋は米切手の現物取引では損をするが、帳合米価格は正米価格と連動して動くはずだから、帳合米取引の法では、高く売って安く買い戻したことになり、得することになる。結局この米問屋は正米取引の損失分を帳合米取引でカバーするので、価格変動のリスクから解放されたことになる。これは「売繋」と呼ばれるヘッジ取引の例である。 
 「買繋ぎ」と呼ばれるヘッジ取引もある。ある米仲買が現在米切手を所持していないにもかかわらず、将来の一定期日に引き渡すことを約束して、米問屋に一定量の米切手を売却したとする。この場合、この米仲買は引渡しの期日までに、米切手をいずれからか購入しなければならないが、折り悪しく、売却の日以降、米価が上昇を続けると、損失を被ることになる。そこで、この米仲買は最初に米問屋に売約をした時に、同量の帳合米を買っておく。そして米切手引渡し時に、米切手を正米取引で購入して米問屋にそれを手渡し、同時に帳合米を売り埋める。そうすれば、米切手引渡し時に、米価が上昇していて、米切手の現物取引で損をしても、その損失は帳合米の値上がりによる利益で埋め合わされ、この場合にも米問屋は米価変動のリスクから免れることが可能となる。
 帳合米取引では、現米や代銀総額を用意する必要がなく、わずかな敷銀と手数料(分銀)を納めるだけで、取引に参加できたから、ヘッジ(掛繋ぎ)取引を目的とするものには適いていた。一般に農産物の価格変動は激しいから、それの大量取引を継続的に行う市場が成立するためには、卸業者のような大量取引をしようとする人々を価格変動リスクから解放することが重要な条件となる。先物取引と実物取引を併設する商品取引の積極的な意義はこの点にある。このように考えてくると、江戸時代にあって堂島米会所が帳合米商内(先物取引)と正米商内(実物取引)の両取引制度を持っていたことは、江戸商人たちの市場のメカニズムに対して素晴らしいセンスを持っていた、と言えるだろう。現代日本の農業関係者もこうしたセンスを持ち合わせていれば、コメ作りも産業として育っていったろう。
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<現代のリスク・ヘッジ> 先渡し取引は、将来の価格変動に対するヘッジ機能はあまりない。秋に収穫・販売される予定のコメを春の時点で売却予約をする「先渡し取引」、これに将来の価格変動に対するヘッジ機能はあまり期待できない。春に予測された価格から大きく変動した価格になると、秋に売り手か買い手か、どちらかが「儲け損ねた」思う状況になる。せいぜい超乱高下で、「収穫量が多すぎて誰も買ってくれない」とか「全くの不作で誰も売ってくれない」といったリスクはヘッジされるかも知れない程度だ。
 そこで「先物取引」となる。この場合の先物取引とは、「差金取引」つまり「帳合取引」になる。あるいは株式市場で広く行われている「空売り」「空買い」だ。さらに価格ヘッジを考えるなら「オプション取引」「デリバティブ取引」になる。
 では21世紀、日本の米市場での価格変動リスクはどのようにヘッジされているのだろうか?農家=米の生産者、は農協に米を売るのではなく,売ることを委託している。4月の作付け時期に,生産者と単位農協は,米穀の売渡委託契約を交わす。さらに農協は,経済連に売渡を委託する。経済連は生産者に代わり,米を販売することでスケールメリットを生かし,価格的に有利に販売できると考えている。では,なぜ農協は生産者から,米を買い取りせずに,販売の委託をうけるのだろうか?それは価格リスクを避けるための方策。 買い取りをすると経済連の販売価格は,買取価格を下回るわけにはいかない。赤字を出すわけにはいかないからだ。委託販売であれば,経済連の会計で赤字がでることはない。販売価格の下落した分は,生産者に転換できる。このため,収穫時において,生産者に支払われる米代金を「仮渡金」と呼ぶ。 しかし,米の流通制度が大きく変わり農協以外の集荷業者と取引出来るようになった現在、売渡委託制度は,生産者にとってメリットはなくなりつつある。 農家に対し収穫時に支払われる「仮渡金」は、販売可能な最低価格から流通経費を差し引いた額となる。実際はそれを上回る価格で販売されるので,その差額が翌年の春以降(販売が終了した時点)に支払われる。生産者からすれば,分割して米代金を受け取ることになる。 それに対して計画外流通米は,業者が生産者から米を買い取るため,農家にはまとまった金が入ることになる。さらに集荷業者は、他社との競争に勝つため流通経路を単純化するなど、取引コスト低減を計っている。このため集荷業者は農協の「仮渡金」と比べて高い額を支払うことが可能になる。農家にとっては,計画外米・農協以外の集荷業者の方がメリットが大きくなる。
 つまりこういうことなのだ。農協は価格変動リスクを生産農家に転嫁しているのだ。仮渡金制度が続く限り、農協は価格変動リスクに対するヘッジをしなくてのいいのだ。米会所をつくり、帳合米取引という差金取引を行う必要は生じない。 だから農協系のシンク・タンクは次のように主張する。
「今後、わが国で農産物先物取引が進展していくかどうかについては、まず第一が商品の価格変動が激しいこと、第二が簡単に買い占め等ができない、ある一定程度以上の市場規模があることが先物取引が成立し得る要件となる。まさに市場原理の徹底に伴い、先物取引が必要とされるような価格変動を余儀なくされる情勢へと変化しているわけではあるが、大きな内外格差の存在等による輸入農産物の増大、コメ等の消費減退などによって農産物価格は低迷しており、。農業経営はきわめて厳しく、わが国農業の再生確保、農業の存在自体が脅かされているのであって、まずは所得安定政策が求められているのが現状である。
 すなわち、直接支払いによる所得確保対策が優先して求められているのであり、、これがあってこそ価格安定対策が生き、現在の危機を乗り越えていく展望も開けようというものである」
 「当初、農産物の先物取引の調査を始めたとき、生産者側からみて、リスク管理の一環として先物取引が利用される可能性があるのかという問題意識をもっていた。その後、調査を進める過程で、農産物の生産・流通機構・価格決定方式、農家の零細性等から判断して、現状では生産者のリスク管理のための先物取引の役割は限定されるという認識に至った」
(農林中金総合研究所編 「国内農産物の先物取引」 家の光協会 2001年4月 から引用)
 しかし集荷業者業界で農協の独占はいずれ崩れる。生産農家はいずれこのからくりに気づく。国や農協に頼り切っていた農業から、自分で考え責任を取る「自己責任」を自覚し「儲かる農業」を模索し始めれば、「農協よりも他の集荷業者の方が良さそうだ」ということに気づくはずだ。
 価格変動リスクを生産農家に転嫁せず、先物市場において回避できれば,経済連の集荷競争力は高まるだろう。さらに,売渡委託制度に拠らず,買取制度に移行することもできる。そうすることによって,はじめてJAの系統組織は計画外業者と対抗できる。既存の制度に甘えず、将来の経営戦略を練るならば、「農協も現代の「米会所」設立へ向けて積極的に動き出すべきだ」というのがTANAKA1942bの考えです。
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<虎市米相場の事> 堂島米会所で行われていた取引は、正米商内、帳合米商内、それと「虎市」。ではその虎市がどのような取引だったのか、難波の春から引用しよう。
虎市米相場の事 附り こそ株 しらみ 江戸堀 道頓堀米相場の事
◯虎市株と云ふ米相場は、商ひの仕法は、帳合と替はる事なく、これも、口の上の空相対なり。其内に、違ふ所は、帳合は、百石以下の商ひな、せぬ法なれども、虎市は、十石より取引商ひをすることなり。帳合は正米相場直段引立てのため、御免の株なれども、虎市は少なき商ひ故、なくとも済むべき様の物ながら、正米株御免以前より、名目のある古き相場にて、石数の段取りも替はる故、此相場も建たせある事とぞ。名目は、さだかならぬことながら、むかし、淀屋辰五郎の門口にて、正米市をなせし頃、堂島新地の辺、人家もなき藪の中にて、相場を好むもの集まり、 正米の相場をうつし勝負をなせしが、起こりにて、藪の中を走り廻りし縁によりて、虎市と名付けしことと、云い伝へるとぞ。
◯帳合米仲買株の内に、こそ株と唱ふる株あり。是も商ひの仕方は、帳合と同様なれども、こそ株は、昼二時頃、火縄に火の付く時分より、夜中へかけて、翌日、外相場の寄付後迄の勝負にて、正米の言合相場の、出づる時を限りとして、算用するなり。此市は、多く六七月の頃、天災にて、相場の大高下する時節を、専らとする相場にて、多分、正米帳合の商人ども、繋ぎにする相場なるよし。この繋ぐという、たとえば、今日天気よく明日の相場下がるべしと云ふおもわくにて、正米にても、帳合にても、壱万石売るべき約束に、極め置く処、帳合相場は、夕方にて終わるゆえ、其後、夜に入りと、俄に天気替わり、大雨大風杯になり、明日下らんと云ふおもわく違いて、上り景気に替わるなり。されども、売るべき約束の米は、明日ならでは、算用することならず、其儘に置いては、過分の損になる事なれば、此こそ株の者と相対して、又改めて壱万石買ふべき約束を極めるなり。かくして置けば、其翌日の相場、おもい入れより上りても双方の損徳を平均せば、過分の損にならずして済むなり。 都てかかる商ひの仕方を、米市場にて、繋商ひと唱ふるよし。此こそ株は、一名内証株ともいふとぞ。
◯堂島に、しらみと唱ふる商ひあり。これは株もなく、市もならず、帳面もまく、只其日其日の、帳合相場の直段をうつし取りて、売買の約束をなし、勝負することなり。銭壱貫文を、銀弐拾匁と定めし仕方なり。是は、勝負の大きくならぬ為の仕方なるよし。米仲買の妻子下女杯が、互いに思ひ入れをつけて、勝負する事とぞ。他にはなく、堂島に限りし事と云ふ。
◯江戸堀、道頓堀の、帳合米現銀相場といふあり。市はなさず、堂島帳合相場の直段を移して勝負する商ひにて、仕法は帳合と同じ。只、虎市相場の姿にて、米弐拾石を、金弐朱宛の敷銀にて、取引をなし、元手少なの者にても、なしよき様に工夫せしものなるよし。江戸堀は天明の始め頃、同所に相模屋又市といふ者ありて、土地繁昌を申し立て、弐拾年の年限にて、冥加金四百両納めたき願にて、差免しになり、年限になれば、又継願をなす事とぞ。道頓堀の方は元高津新地に於て、願人ありて、差免しになり、一旦中絶して、文化の始め、菊屋町北国屋仁兵衛といふもの、此株を、道頓堀へ引き移したき願にて、差免しになりし事と云ふ。
<ミニ株・素人投機家> 藪の中を走り廻っていたから「虎市米相場」と名付けた、とは愉快な話だ。ところでこの虎市とは現代の「ミニ株」のことになる。1995年10月、大和証券がこのミニ株取引を最初に始めた。推測するに、ちょうどこの頃大和証券の誰かが、TANAKA1942bと同じ様に大坂堂島米会所に興味を持ち、藪の中を走り廻っていた「虎市米相場」を現代に生かそうと思い付いたに違いない。いっそのこと現代版米会所の試案でも作るといいと思うのだが・・・証券会社が穀物市場の試案など出すと、「俺たちの縄張りに入り込むな」という声が上がるのかな?なんてのは考えすぎでもっとオープンは業界だ、となるといいのだが。
 江戸堀、道頓堀の、帳合米現銀相場とは場外馬券売場のようなもの。あるいは黙認されたノミ屋、となるのかな。いろいろと現代社会へのヒントが読みとれる。
 「しらみと唱ふる商ひあり。米仲買の妻子下女杯が、互いに思ひ入れをつけて、勝負する事とぞ。他にはなく、堂島に限りし事と云ふ」。これほど多くの人たちが米相場で勝負していたのだ。1980年代後半、日本では主婦が株投機にはしり、サラリーマンがゴルフ会員権を買い求めていた。もっと前1920年代にはニューヨークではシューシャイン・ボーイが株価速報に一喜一憂していた。幸い大坂堂島米会所でバブルがはじけた、という話はないようだ。米仲買の妻子下女杯にまで普及していた「コメの投機取引」、現代では「コメを投機の対象とするな」が尊農攘夷派の主張のようだ。米仲買の妻子下女杯が聞いたら、何と言うのかな?
( 2002年8月19日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(9)
世界の中の堂島
<「日本株式会社」と呼ばれる得体の知れない「怪獣」>  言語明瞭、意味不明の言葉がマスコミ界をうろついている。──「日本株式会社」という言葉が──。戦後日本経済が立ち直ったのはこの「日本株式会社」のおかげであるとか、しかしこれからはこの「日本株式会社」が発展のネックになるとか、改革を主張する過激派も,穏健派も、政官業のトライアングルの活躍に期待する族議員圧力団体派も、隠れコミュニストも、党派・立場を越えてこの言葉「日本株式会社」を使う。そこでこの言葉「日本株式会社」の意味するところは何なのか?実際の経済はどのような歩みだったのか?アマチュアエコノミストがプロ(ビジネスで発言する人たち)とは違った、ニッチ産業的(隙間産業的)な視点から検証してみようと思い立った。先ずこの言葉がどのように使われているか?その例を引用することから話を始めることにしよう。
 「いまや世界一の黒字国・債権大国にのし上がった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活感は乏しい。それどころか海外からは閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか?───その答えは、「日本株式会社」と呼ばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する。そうした経済構造自体を問い直し、改革することが、もはや国民的合意となっている。
 昭和の時代を通して官民総ぐるみで協調して形成された日本型経済システムが、東西の冷戦終結と五五年体制の崩壊という内外の激動を受けて、その大手術に向けて動きはじめたのである。これは日本経済の根底に関わり、痛みも伴う巨大なリストラ(再構築)を意味する」
 この本の著者は豊かな日本で生活しながら、その豊かさを実感出来ないと言う。豊かな生活用品に囲まれながら、心が満たされていないらしい。そしてそれは「世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する」と言う。この源流が「半世紀も前の昭和初期、当時のいわゆる満州国でめばえていたことは、第一の発見であった」と続き、「そしてこのシステムは戦後、単なる統制でなく企業か精神も誘導する独特な官民協調システムとして完成し、ついに欧米キャッチアップの目標を達成した」となる。
 これからの日本経済成長のために、「自由な企業活動を阻害する規制は、一層の撤廃を進めるべきだ」には賛成するのだが、前半の「官民協調システム」には疑問符を投げかける。そうは言っても確かに「日本株式会社」論は日本のマスコミに多く登場する。そこで戦後日本経済は「官民協調システム」だったのか?経済再建に政府の役割が大きかったのか?政府主導の経済再建だったのか?こうした疑問に答えるために、「官に逆らった経営者たち」とのタイトルで TANAKA1942b 独特の論法を展開してみようと思う。「経済学の神話に挑戦」とまでは行かないが、従来からある安易な「日本株式会社」論に対する異論として展開する価値は十分にあると確信して論を進めることにしよう。 
<視野狭窄にならないように>
上記の文は「官に逆らった経営者たち」の序文。 「閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国」とはどんな国だろう?鎖国して黒字をかせぐ、としたらそれは「異質な国」だろう。オープン・エコノミーを少し学ぶと次の等式を理解する。諸外国に安くて良質な商品を提供する=貿易黒字=資本収支の赤字=諸外国へ資金提供する。黒字を出して諸外国へ資金提供して、なぜ非難されなければならないのか?なぜそれに反論しないのか?ごく一部の経済音痴に過剰反応し、自虐的な態度をとる。過去の出来事に対する自虐的態度と変わりはない。経済の分野で言えば、voodoo economics となる。 このシリーズでは西山弥太郎、井深大、本田宗一郎、小倉昌男とイギリス、フランス、ドイツのいくつかの産業を取り上げた。その結果、戦後の日本は戦災国としては異例とも言えるほどの自由主義経済であることが分かった。戦後日本経済が驚異的な成長を遂げたのは、(1)戦時中の国家統制がなくなり、国家社会主義から普通の資本主義に近づいたこと。(2)パージにより若い経営者が誕生し、過去に捕らわれない大胆な経営を行ったこと。(3)戦争の被害を大きく受けた国の中では、最も政府の関与が少なく、民間の活力が活かされたこと。
 イギリス、フランス、ドイツの経済政策を振り返って見ると、「戦後復興政策、ヨーロッパ西も東も社会主義」との表現がいいと思う。さらに詳しい事例は近いうちに、このタイトルでHPを作るつもり。請うご期待。
 一つのことを突っ込んで考えていく内に、周りが見えなくなっていく。日本の欠点ばかり探していく内に世界が見えなくなっていく。エコノミストとしての知識や経験ではなくて、これは「センス」の問題。視野狭窄はダサーイ、カッコー悪い、に対してTANAKA1942bはカッコーよく経済学しようと思う。「日本は、この業界は、自分たちは特別だ」と思いたがる人は多い。「日本独特の経営」、「コメは日本の文化、特別な生産活動で市場経済に馴染まない」、「世界貿易量も薄い特別の穀物なので、自由貿易に馴染まない。リカードの比較優位論も当てはまらない」、「規制緩和総論賛成。ただし、コメ、野菜、道路、郵政、ペイオフは特別なので、除外しよう」と利権代弁者は抵抗する。
 大坂堂島米会所、大坂商人を褒めちぎっているようだけれど、本当はどうだったのだろうか?視野狭窄にならないように、目を見開いて当時の世界を見渡して見よう。ということで、ここでは外国の例、アントウェルペン、ロンドン、シカゴの取引所を取り上げることにした。
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<アントウェルペンの取引所> 中世ヨーロッパは十字軍の遠征から近世の序幕を開くコロンブスやヴァスコ・ダ・ガマによる新大陸・新航海路などの発見により「商業の時代」を迎える。2世紀にわたる十字軍の遠征(1096〜1270)はヨーロッパの権力構造と経済秩序を大きく変えた。すなわち自給自足の荘園制を支配していた封建諸侯や騎士階級の没落と王権の強化をもたらした。遠隔地貿易が芽生え、都市が繁栄し、貨幣経済が広く浸透した。15世紀新大陸=メキシコからの銀流入によりヨーロッパ全域に価格革命が起きた。後には黄金の国=ジパングからの銀も価格革命を促進する。
 地中海沿岸にあった貿易港=商業都市は大西洋沿岸へと移動する。シャンパーニュ・ブリュー伯の領地、「シャンパーニュの大市」に多くの商人が集まり商業都市を形成する。12世紀後半から14世紀初頭まで繁栄し、その後はフランドルの首都ブリュージュが登場してくる。ここでは未着の貿易品も取引された。大坂での米市と同じように、現物取引から未着品取引へと進むようだ。
 このブリュージュもオランダ対ハンザ同盟の交戦(1437〜1441)によるハンザ同盟の敗北に加え、港の玄関口となっていたズイン湾の土砂の堆積で、船着場が機能しなくなり、歴史の舞台から消えていく。代わって登場するのがブリュージュより200キロ北東部にある港湾都市アントウェルペン(アントワープ)であった。英語=アントワープ Antwerp、フラマン語(オランダ語)=アントウェルペン Antwerpen。ベルギー北部、スヘルデ川の河口に臨む貿易港。、
 15世紀中頃までは人口2万人足らずの小都市であったが、ブリュージュに代わる商業都市となってから急激な発展を遂げ、16世紀中頃には全ヨーロッパの中心的な商業・金融都市となる。アントウェルペン発展のカギは3つあった。
 (1)大航海時代の到来。コロンブスの新大陸発見(1492)、ヴァスコ・ダ・ガマの新航路の発見(1498)、マゼランの世界一周(1519〜1522)等によりそれまで地中海経由の東方貿易でしか入手できなかったものが、直接産地のインドの一部やモルッカ諸島から入手できるようになった。このため胡椒やナツメグなどがここアントウェルペンで大量に取り引きされるようになった。ヨーロッパにおける胡椒は、ローマ時代から薬味や食肉の防腐剤として常用され、物品通貨としての役割も果たし、大変珍重されていた。そしてこの東方貿易は巨大な利益を生み出した。たとえば1498年のヴァスコ・ダ・ガマの例でみると、3隻のうち1隻と隊員の3分の2を失いながら、持ち帰った胡椒と宝石で、その損失を差し引いてもなお6000%の利益を上げたと言われている。
 (2)当時イギリスはハンザ同盟とは敵対関係にあったが、アントウェルペンは独りイギリスの毛織物を輸入し、イギリスと友好的に交易していた。ハンザ同盟衰退に伴いヨーロッパ大陸に輸出攻勢をかけてきたイギリス毛織物の販売拠点として栄えていく。
 (3)大量の胡椒がアントウェルペンに集荷されるようになる。一方でそれを購入するために必要な貨幣=銀は、新大陸からきわめて低廉なメキシコ銀が輸入されることになる。大量の商品が集散し、それに必要とされる十分な通貨が供給される。商業都市アントウェルペンが発展する条件は揃った。
 新しい時代の商業都市アントウェルペンでは市場を整備し、1531年、胡椒などを取引きするための建物「取引所」を建設する。この取引所の特徴は、他国のそれがほとんどイタリア商人によって牛耳られていたのに対して、世界各地からの商人を歓迎したことだった。これを誇示するかのように、この取引所の入り口には「国籍と言語のいかんを問わず、すべての商人のために」と彫り込んであった。日本では、上杉謙信が1564(永禄7)年、越後柏崎に対して、
当町へ諸商売に付(つき)て出入りの牛馬荷物等、近所所々に於いて新役停止(しんやくちょうじ)之事(近在で新役をかけてはならない) という制札をかかげて、町への自由出入りを保障し、その繁栄をはかった。奇しくも16世紀後半、日本とヨーロッパで商業発展のために都市が建設され、そこへの参加の自由を保証する政策が採られるようになる。日本と地球の反対側にあるヨーロッパとでほぼ同じ時代に同じ様な政策が採られている。この頃から「自由貿易こそが、国民を豊にする」ということが常識となった、と言えよう。 マンデヴィル(Bernard de Mandeville)(1670-1733)やアダム・スミス(Adam Smith)(1723-1790)の登場よりずっと以前のことであった。
 アントウェルペンの取引所では、為替や手形取引の他に、「未着の胡椒」「未刈の穀物」「未刈の羊毛」「未熟の果物」「未獲のにしん」など、「事前検品なし」の「到着渡し」の取引が行われた。また当時胡椒の独占権を持っていたポルトガル王が財政赤字穴埋めのため「公開中の積み荷の胡椒を特定商人に先売り」したので、この未着の胡椒をめぐり「先渡し取引(Forward)」が行われていた。大坂で未着の米切手が取引されていたのと同じ仕組みであった。
 アントウェルペンはその後、オランダ独立戦争の戦乱、とりわけ1585年のスペインへの降伏により多くの商人(とくにプロテスタント)はこの地を棄ててアムステルダムへ去り、独立したオランダに海への出口をふさがれ、最盛期10万人の人口は4万人に落ち、一内陸都市に転落していった。
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<トマス・グレシャムの取引所> 「悪貨は良貨を駆逐する」で知られるトマス・グレシャムがロンドンに「ザ・ブールス(The Bourse)」という取引所を設立したのが1568年のことだった。それより30年前の1538年、当時ロンドン市長をしていたトマス・グレシャムの父リチャード・グレシャムがロンドン取引所の設立を企画したが実現しなかった。当時のイギリス経済はエドワード三世の羊毛工業保護育成政策から1世紀を経て成長に向かってはいたが、国民産業と言えるまでには成長しておらず、生産された毛織物のほとんどはアントウェルペンの市場に輸出されていた。
 このような時期、トマス・グレシャムはエリザベス女王の代理人として1550年代の終わりから1574年までの十余年間アントウェルペンでイギリス王室の金融財政を担当する。この間の経験を基に自費でザ・ブールスと名付けた取引所を設立する。その後1571年にエリザベス女王の臨行を得て王立とされ、名前も王立取引所(Royal Exchahge)と変更される。設立当初には取引所としての性格は明確ではなかったが、後の時代になって、現物取引(直取引)、先渡し取引(延取引)、先物取引(清算取引)という取引が発生してくる。
<コーヒー・ハウスから取引所が生まれる>
イギリス経済が世界市場に登場してくるのはトマス・グレシャムが取引所を設立してから200年後の産業革命(1760〜1830)を迎えてからだった。この間イギリスは羊毛工業を基軸として着実に成長を遂げ、17世紀半ばには紡毛工業から梳毛工業に脱皮させ、1674年には、英蘭戦争でオランダから海上覇権を奪い掌中に納めるが、それでもイギリスの羊毛工業がオランダのそれを凌駕するのは1730年代に入ってからだった。
 以後イギリス経済は急速な成長を遂げる。清教徒革命(1642)、イギリス共和国の成立(1649)、名誉革命(1688)、大ブリテン王国の成立(1707)、イギリス産業革命(1760年以降)と続き、王政に代わる議会制市民社会が確立される。この時代ロンドンでは1650年に、酒房の向こうを張ってコーヒー・ハウスが誕生する。1665年9月のペストの大流行と、1666年の大火(ロンドン城壁内の80%が焼失)で一時疲弊するが「たった1ペニーであらゆる階層の人と語り合える安上がりのコーヒー・ハウス」は人気を呼び、1680年代には3000軒にのぼるコーヒー・ハウスが軒を連ねる。そこには「富と自由」と「情報と社交と人脈」を求めて大勢の人が集まってきた。
 情報の交換は取引を発生させ、商業と文化を育てることになった。ロイズ保険はEdwad Lloyd(1648ころ〜1713)の経営するコーヒー・ハウスが海運業者や海上保険引受人のたまり場なっていたことから始まった。ロンドン商品取引所、バルチック商業・海運取引所、ロンドン金属取引所(London Metal Exchage=LME)もロンドン・シティーのコーヒー・ハウスが発生母体となった。1700年代後半には「モーニング・クロニクル」紙(1770)や、「ポスト」紙(1773)、「ヘラルド」紙(1780)などの新聞もコーヒー・ハウス文化の中で育っていった。そうして産業革命期を迎えることになる。
 ロンドンはその背後に西ヨーロッパという大消費地を擁していたため、各種商品の世界的再配分の基地となり、国際市場を形成していくことになる。こうしてロンドンはそれまでの胡椒などに代わり、小麦、羊毛、綿花、コーヒー、ゴム、砂糖、煙草、銅などの非鉄金属など新しい商品の先物市場(正しくは先渡し市場)へと進化していく。そして現在では通貨や指数、オプションが主力商品になっている。
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植民地アメリカは基本的に自給自足の農業経済であった。それが1776年の独立を契機に、急激な人口増を伴いながら、経済は飛躍的に発展して行く。南部の綿花は1790年頃から輸出が始まる。一般農業も1803年の畜力の導入、1810〜20年にかけての鋳鉄プラウ(鍬)の開発、そして大鎌収穫法の開発普及で農業生産性が著しく向上した。その結果1810〜40年、もしくは南北戦争(1861〜65年)の間にアメリカ農業は商業的農業へと変容し、自給自足を神話へと変えていった。独立してしばらくの間のアメリカは綿花輸出に依存するモノカルチャー経済であったが、1850年頃から自給自足を神話の世界に追いやると同時に大きな変容を遂げる。
 アメリカの経済構造は、(1)北東部の工業地帯、(2)中西部のトウモロコシ・小麦の穀倉地帯、(3)南部の綿花地帯、(4)大平原の牧畜地帯、の4つの産業分野で構成された。農業生産性の向上は目覚ましく1855年から1895年の40年間の穀物の生産性では、トウモロコシで労働者1人あたりの労働時間は半分で、その収穫量は3倍、小麦のそれでは3分の1の労働時間で6倍もの収穫量を上げるまでになっていった。
 こうした農業の発展過程で、1848年、シカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade=CBOT)が設立された。しかし市場は出来たものの、貯蔵設備はなく、資金の余裕も無かったので、収穫期には供給が上まわり価格が低下し、端境期には価格が高騰した。こうした季節変動は農民だけでなくアメリカ経済を不安定にするものだった。このため農民、穀物商人、製粉・製パン業者、倉庫業者、金融業者などで、お互いに信頼できる相手を選び、仲間を限定し、それぞれ、10日先、1ヶ月先、2ヶ月先・・・など先々のものについて、「現在定めた価格」で「事前販売契約」方式の「先渡し取引」を行うようになった。
 この先渡し(Forward Contract)が確実に履行されると、生産者は収穫前から、あるいはタネを播く時から「販売済み」と同等の効果が得られ、収穫期の出盛り最盛期に投げ売りしなくてすむ。一方需用者の製粉業者や製パン業者も、予約された価格で、安定的、継続的に原料が確保できるうえに、余分な在庫を持たなくて済むようになった。この有利で便利な先渡し取引は、間もなくシカゴを中心に普及し、市場では12ヶ月にわたる現物受渡し日程表が作られるようになった。 TANAKA1942bがキャベツ帳合取引所はいかがでしょうか?▲で書いたようなことが19世紀後半からシカゴで行われていたわけだ。
<Forward から Futures へ>
CBTは1882年、担保機能の一層の強化と、当面する取引の増大に伴う帳簿上の未決済約艇の整理を簡素化を兼ねて「きわめて巧妙な会計処理による決裁方法」を採用した。これは先渡し取引の欠点である契約の継続性、硬直性からくる清算の窮屈さや、違約に係わる担保制度の不十分さからくる混乱の回避に大いに役立った。この「きわめて巧妙」な取引が「先物取引(Futures)」だった。
 この方法は、個々の売り手と買い手とが、当初個別相対取引で契約しても、その直後に、その売り手と買い手の間に取引所や清算会社(Clearing House)など第三者を介入させて、<売り手対第三者・買い手対第三者>の契約関係に切り替え、その関係を、実質的に<売り手集団対買い手集団>の関係に置き換える。つまり、売り手A対買い手Bの特定関係を集団対集団の不特定関係に置き換え、個々の債権債務を切り離して、個別相対の先渡し契約の制約から切り離すものであった。
 一方、売り手と買い手は、それぞれ定められた決済期日の期間内であれば、いつでも「買い付けたものは市場で転売」し、「売り付けたものは自由に買い戻す」ことができるようになる。そして「転売買い戻し」によって決済されたものは、当初の売買価格と、その後の転売買い戻し価格の差額を「差金」にとって清算する。「転売買い戻しによる差金決済」が行われるようになる。
 こうして「きわめて巧妙な決済方法」による、フォワードから発展したフューチャーズ、つまり先渡し取引から先物取引が行われるようになった。この取引では売り手と買い手の特定関係が切断されるので、契約違反(違約)に対する補償がなくなる。そこで、これに対しては、取引所や清算会社が介在して、集団で担保、保証する制度が確立されていくことになる。
( 2002年8月26日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(10)
消合場=クリアリング・ハウス
<実物取引、先渡取引、先物取引、オプション> 取引所での取引には多くの形態がある。取引用語をいくつかを取り上げ、取引形態を理解しよう。取り上げる用語は次の言葉。 実物取引(Cash)、先渡し取引(Forward)、先物取引(Futures)、オプション(Option).  
実物取引(Cash) アメリカでの実物取引=キャッシュ(Cash または Spot,Physical)とは、契約と同時に、またはほとんど時間をおかずに、受渡と決済が行われる取引のことを言う。日常生活の多くの取引はこれになる。Cash on Delivery がこれに当たる。 
先渡し取引(Forward)契約条件の内、商品の品質、数量、単価、受渡方法、決済方法などは契約締結時点で決定されるが、実際の受渡と決済は予め約束された将来の一定期日に行われるもの。取引そのものは売り手と買い手の間で相対で行われる。CHや消合場などの第三者が介入する取引ではない。銀行間(Inter-Bank)為替市場で先物の取引をフォーワードと呼ぶ。日常生活では、たとえば完成前のマンション購入契約は先渡し取引の範疇に入る。 
先物取引(Futures) 取引契約時と商品受渡時・決済時が違うという点では Forward と変わりない。しかし次の点の違いは大きい。すなわち、(1)取引所のような一定の場所で、一定の時間に、(2)予め決められた取引規則、契約条件に従い、(3)公開メイリオ;唱え(Open Outcry)という方法で、(4)集団取引を行い、(5)成立した取引は取引決済会社(Clearing House)に付け替える、(6)その結果、反対取引が容易に出来る、(7)契約当事者間の信用問題が発生しない、といった点が Forward と異なる。 
オプション(Option) 将来のある特定の時期に、予め約束した条件で、ある商品を売却したり、購入したりする権利を売買する取引。オプションは先物と異なり、権利の売買なのでその権利を行使するかどうかは買い手の自由、ということは実物の商品が売買されない場合もあるということ。具体例は =7=農家はプットを生かそう▲ を参照。ただしここでは先物取引(Futures)=差金取引は扱わず、先渡し取引(Forward)を現物先物取引と表現している。
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<帳合取引、名前の変遷> 先物取引も時代と共に名前が変わっていく。堂島米会所での先物取引は江戸時代の文献で「帳合米商内」という表現が多い。ではその後どのように替わっていったか、明治になるとコメだけでなく、株も取引されるようになる。そこでコメに限らず先物取引がどのように変わって行ったか、その変遷をたどってみよう。
 1893(明治26)年に取引所法が制定され取引の種類を3種類に区分した。すなわち「直(じき)取引」、「延(のべ)取引」、「定期取引」。直取引とは売買締結日から5日以内に現物と代金の授受を行う取引。延取引とは150日以内に現物と代金の授受を行う取引。定期取引は勅令により商品を指定し、その取引について「転売買戻し取引所の帳簿に記載する所に依り相殺するの方法」と定めた。帳合取引そのものだ。
 このように定めたのだが、直取引でも定期取引と同じ転売買い戻しによる差金取引が行われた。1903(明治36)年にはわずか4ヶ月だけ延取引について差金取引を認める「変則延取引」が行われた。
 1914(大正3)年、政府は、直取引は決裁期間が5日間もあるので差金決済が行われる、そうならないようにと決済期間を2日間に短縮した。しかしこれも政府の認識不足、2日間の間でも転売買い戻しによる差金決済は行われた。この違法な差金取引を「ジキ取引」とカタカナで書いた。1922(大正11)年に転売買い戻しによる差金決済が出来る取引を「清算取引」、出来ない取引を「実物取引」と規定した。
 この規定により株式では、清算取引については「短期清算取引」と「長期清算取引」の二区分が行われ、商品取引については「清算取引」と「銘柄別清算取引」の二区分が行われた。
 現行の先物取引は、第二次世界大戦後のアメリカの制度を見習い、「実物取引」と「清算取引」の区分と踏襲しながら、清算取引については Futures を訳して「先物取引」と呼んでいる。
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<消合場=クリアリング・ハウス(CH)> 堂島米会所では一日の取引が終わると消合場へ報告することになっていた。ここでは一日の取引を記録し、必要なら米仲買が入替両替から融資を受ける事もできた。そして一年に3度、4月28日、10月9日、12月24日の精算日にはここで差金清算をした。もちろんそれ以外の日でもここ消合場で清算を行った。堂島米会所では限月が3回、つまりSQが3日あったわけだ。
 取引とは本来当事者同士が納得すれば、価格は幾らでもいいはずだ。とすれば契約後の清算も当事者同士で行えばいい、となる。ところがここで消合場という第三者が介入する。この消合場という清算機関の登場が、帳合取引という差金取引を円滑に行うポイントになっている。そしてその堂島米会所での消合場と同じ機構がシカゴの取引所にもある。そこで現代の消合場=クリアリング・ハウス(CH)の働きを見ながら、差金取引=先物取引(フューチャーズ=Futeres)について考えてみよう。
ザラバ=Open Outcry 日本の証券取引所はザラバで行われる。堂島米会所もシカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade=CBOT)もザラバ、これをOpen Outcry(公開唱え)と言う。立会場では最初に価格の折り合った相手が誰であっても、その相手と取引するのが原則だ。つまり相手を選ぶことはできない。そのため特定の人間にしか聞こえないと恣意的な取引とみなされる。そのため全ての仲買人に聞こえるように大きな声を出す。このため淀屋米市で幕府が幾度も警告を出している。そして知らない人は喧嘩をしていると思う状況だった。この点は、米会所もCBTも東証も一緒、ただし東京穀物商品取引所は「板寄せ」という取引仕法をとっている。
取引の分解 価格の折り合いが付いた売買当事者はメモ書きにしてCHに提出する。現代のCHは取引内容をコンピュータに入力する。プリントアウトされた内容(売買当事者名、商品、価格、数量、限月)を当事者が確認すると、その時点でこの売買契約は<売り手*買い手>から<売り手*CH>と<買い手*CH>の2本の取引に替わる。こうして立会場での売り手と買い手との関係は切断され、CHがそれぞれ一方の当事者となり、契約履行の権利、義務をもつことになる。コンピュータはおろか電話、ファックス、電卓もなかった堂島米会所では消合場がCHの役目を果たしていた。
 なぜ第三者が介入するのか?こうすることにより、売り手も買い手も契約締結以降の相手方の信用状態に無関係でいられることになる。つまり相手方が倒産してもそれはCHとその倒産会社との関係になる。売り手も買い手もCHとの契約になるので、CHさえ倒産しなければ、なにも心配することはない。もう一つの利点、フューチャーズ(帳合取引、差金取引)の場合、将来の精算日(SQ,帳合商内の場合は4月27日、10月8日、12月23日)までの期間に行われる反対取引(買い持ち、または売り持ちのポジションを解消するための取引)に関して、当事者同士の契約のままであれば、その相手としか行えない。そこでCHが介入し、全く別の相手と反対取引をしてその内容をCHに登録し、契約を分解することによりCHとの契約関係においてポジションを解消することができる。
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<女王陛下のベアリングズ銀行破綻> 女王陛下の銀行と言われた英国のベアリングズが破綻したのは1995年のこと。シンガポール現地法人のトレーダー、ニック・リーソンが日本の株式市場で先物・オプションなどで損失を出し、その損失額はベアリングズの自己資本を上まわった。そしてそこまで損失が膨らむまで会社幹部は取引内容を把握していなかった。先物取引市場のメカニズムは需給関係適正化、価格の安定化に役立つ。と同時にそれに参加するには「自己責任」を強く求められる。そして大きな利益を得ることも出来るが、大きな損失を被る危険性もある、という現代の教訓としてこの事件を振り返って見よう。 
日本の株式市場でのマネーゲームベアリングズのシンガポール現地法人は、日本の株式市場が外国人投資ブームで沸いた1994年前半までは、先物・オプションと現物株での取引を駆使し、利益を上げていた。しかし夏以降、相場のトレンドは大きく変わる。相場は値動きの乏しい展開になる。それに伴い同社のサヤ取り戦略はうまく機能しなくなる。
 焦った同社では、相場が一定レンジ内に留まると想定した時に利益の出る、つまり膠着相場に強い先物・オプションの投資ポジションを組む。ところが1995年1月には、阪神大震災などをきっかけに日本の株式相場は大きく下げる。同社が取った膠着相場に強いポジションが裏目に出るようになる。
 そこで同社は一旦損切りの反対売買でポジションを軽くしていく。その損失分だけなら、会社全体を揺るがすような大問題には発展しなかったろう。しかし、同社のトレーダー、ニック・リーソンは損失分を取り戻そうとして、相場の押し上げを狙って先物を大量に買った。相場の押し上げが可能になると確信し、勢いづいたのは、損切りして一週間もしないうちに、住友銀行が不良債権の大量償却で1995年3月期決算を赤字にすると発表したのがきっかけだった。この発表を受けて株式市場が反発し始め、リーソンはこの株価の動きに”騙される”格好で再び買いを膨らませて行く。これには阪神大震災も影響している。彼は考えた「阪神大震災でこれだけ大きな被害が出た。村山内閣は補正予算を組んで被害対策を行うだろう。そうすれば景気対策になり、株価は上昇する」と。しかし大方の予想に反して、村山内閣は何もしなかった。村山内閣は市場関係者の常識を裏切った。株価は上昇しなかった。2月に入ると相場は一転して下げに転じた。損失は雪だるま式に膨らんでいった。損失を含んだ未決済建玉は日経平均だけでなく、東証株価指数(TOPIX)先物、日本国際先物などでも発生した。リーソンはしかし相場を操作しようとした。大量の買いを入れ、上昇トレンドを作ろうとした。しかし相場は操作できるものではない。それが益々損失額を増大させる。 
破綻処理 当局が恐れたのはベアリングズの破綻から連鎖的起こる金融・資本市場でのパニックだった。ソフト・ランディングさせなければならない。イングランド銀行(BOE)のジョージ総裁が考えたのは、ベアリングズの膨大な買い建玉を市場害で引き受けてくれる金融機関があるかどうか、ということだった。同操作委は急遽日本銀行幹部に話しを持ちかけた。しかし、市場集中原則から外れる取引は認められないのと、そもそも市場外でベアリングズの買い建玉を受けるような証券会社はいないため、同操作委の案は机上の案になる。
 週明けの東京株式市場はベアリングズの買い建玉が中に浮いてしまうことを嫌気して急落する。それまで先物主導の株価上昇を支えていたのはベアリングズの積極的な先物買いだっただけに、市場のショックは大きかった。結局、ベアリングズ問題は。オランダの有力金融機関INGがベアリングズの資産買収に名乗りを上げ、相場急落の翌週に買収手続を完了したことで終結する。 
何故シンガポールなのか? ベアリングズはシンガポール市場で日本株を先物取引している。なぜ東証・大証でないのか?それはいろいろな点で取引に便利だから。例えば日経平均先物は扱う単位が日本の半分。つまり半分の資金でマネー・ゲームに参加できる。東証は取引量の増大にあまり積極的ではない。かつて東京が国際的な金融都市になる、そのためオフィスビルが必要になり、そのため不動産価格が上昇する、との考えがあったが、少し甘かったようだ。日本にはマネー・ゲームを「拝金主義」と非難する考えが根強い。大坂堂島米仲買のセンスを理解出来ない人たちがいる。証券市場の周りにも、コメ・農産物生産者周りにも。そのため日本の市場経済はその発展がちょっとした抵抗勢力によって立ち止まってしまうことが多方面で見受けられる。残念。
( 2002年9月2日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(11)
商業都市大坂の発展
<大坂ー江戸為替制度の発達> 大坂堂島米会所の発達が新たな経済分野に刺激を与え、江戸時代の市場経済がさらに一歩前進した。それは大坂ー江戸為替制度の発達だった。幕藩体制において、幕府も諸藩も年貢米を大坂堂島で現銀に替える。その現銀を江戸で使うために現金に替えて江戸へ送金する。その送金システムが堂島米会所の発達と平行して確立していく。この件に関しては「大阪府史」(大阪府史編集専門委員会編 大阪府発行 昭和62年)に詳しいので、これを参考に話を進めよう。
 江戸時代離れた地区へ金を送る方法として、公金為替・江戸為替・上方為替・京為替・地方為替などが次第に発達した。この中で、扱い量も多く当時の経済に重要な役割を果たしたのが、公金為替と江戸為替であった。公金為替は1691(元禄4)年に始められ、江戸・京・大坂に両替店を持つ三井両替店が中心になっていた。「公金為替」とは幕府の公金輸送を主な目的とし、これに対して「江戸為替」は大名諸侯の資金輸送を目的としていた。
 江戸為替は、元和・寛永期のころから行われたとの説もあるが、通説では、1723(享保8)年に大坂両替商米屋(殿村)平右衛門によって始められたとされている。この制度は、大名諸侯が年貢米や国元の物産を大坂で売却し、その代銀や、大名貸しから借りた資金などを江戸へ輸送する送金為替と、その反対に大坂問屋から江戸問屋に送付した商品代金取立の荷為替(逆為替)とが結合して、為替取組が可能となった。そしてこの制度運用には大坂の通貨(銀)と、江戸の通貨(金)を両替する、という面倒なことが行われていた。この面倒な銀と金とを両替する、ということを省くために、金を基準にして通貨を統合しようとしたのが田沼意次と勘定吟味役の川井久敬が試みた、1765(明和2)年の明和五匁銀の発行と、1772(安永元)年9月の明和南鐐二朱判の発行 であった。これに関しては、大江戸経済学(1)改革に燃えた幕臣経済官僚の夢(2) 田沼意次と、その協力者たち▲ ( 2002年2月18日 ) に書いたのでここでは触れないことにする。
 この仕組みの流れは次のようになる。
大名がコメなどを大坂問屋に売る(江戸の屋敷で代金を使う場合は、この段階では代銀は受け取らない)⇒
大坂問屋は貸越勘定の相手方である江戸問屋を支払人とする為替手形を振り出す(同時に相当金額の商品を送るか、別勘定で帳尻を合わす)⇒
大坂両替商はこの為替手形を買い集めて、その代金(代銀)を大坂問屋に支払う⇒
大坂両替商はこれらの為替手形を江戸両替商に送り、それと同時に大坂問屋と取引関係のある大名(江戸藩邸)に対して送金為替を取組み、これを送付する⇒
江戸両替商は大坂両替商から受け取った為替手形によって、江戸問屋から代金を取り立てる⇒
この代金(通貨=金)を大名(江戸藩邸)に支払う。
 このようにして諸藩の大名は大坂でコメを売り、その代金を江戸藩邸で受け取る事ができた。この大坂と江戸の為替取組は現金を移動させない、という点で現代のコルレス契約に似ている。ここでも大坂商人の先見性に驚かされる。
<取組申為替手形ノ事> 江戸為替の雛形とみられる一例を示しておこう(大阪商業会議所編「大阪商業史資料」第五巻)
   取組申為替手形ノ事
 一 合金千両也
右ハ前田加賀守様御下金造ニ請取申候、此代リ金江戸ニ於テ米ル三十日限リ、右御屋敷御勘定所正直算太夫殿御指図次第、此手形引換御上納可被成候、為後日為替手形依テ如件
  享保八年卯年五月十日
                大坂 大黒屋福右衛門
江戸 戎屋三郎兵衛殿
 これは加賀金沢藩主(前田加賀守)の「下し金」に対する送金手形のかたちをとっている。これを振り出す印元の大坂両替商(大黒屋福右衛門)から江戸両替商(戎屋三郎兵衛)に宛て、江戸藩邸(前田加賀守)に送った手形をみると、その手形面に(殿御指図次第、此手形引換御上納可被成候)と指図書きが記されている。大坂両替商は江戸藩邸にこの送金為替を送り、同時に江戸両替商に案内状と江戸問屋宛の為替手形を送った。そのあと江戸両替商は宛名の江戸問屋から現金を支払わせ、江戸藩邸の用命に応じて納金の手続をとった。江戸為替は普通10日以上の期限を限って支払日とした。
 江戸為替のなかには参着払いのものもあった。また支払いに際して3000両ないし5000両までは無利息とし、また貸し越しにも応じていた。これを「無代為替」と言う。一方商人(問屋)相互間の代金取立手形は、支払日を振り出しの日付から一ヶ月内外、先日付けとなし、その間に手形の売買が行われた。
 江戸為替の方法は享保期以前にもこれに似た制度があったが、これが一般化するのは米屋(殿村)平右衛門によるところが大きい。その後両替商では一般にこの方法を用いるようになった。両替商は常に為替の出会いに注意し、必要に応じて北浜の金相場会所でこれを買い入れ、江戸藩邸には送金為替を送り、取引先の江戸両替商に案内状と為替手形を送った。江戸為替は一般に本両替が取り扱う業務となり、大坂ー江戸間の商品流通は新しい金融技術の進歩によっていっそう発展することとなった。
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<北浜金相場会所> 江戸では通貨として「金」を使い、大坂では「銀」を使う、一国二制度を布いていた。田沼意次と勘定吟味役の川井久敬の努力にもかかわらず、松平定信の宮廷クーデターにより、一国二制度は明治維新まで続く。そして一国二制度が続く限り、金銀相場の変動は全ての商人にとって重要な関心事であった。大坂では1662(寛文2)年に高麗橋筋両替所が設けられ、小判の売買が行われた。さらに1725(享保10)年10月には本両替仲間による「金子銭売買立会之儀」(金・銭売買)の願いが交許された。この高麗橋筋の両替屋所が1743(寛保3)年、北浜に移されて「金相場会所」と改称された。
 両替屋はたえず為替の出会いに注意し、為替市場(北浜の金相場会所)で為替を買うのを常とした。この為替を売買する市場は「二番」と言われた。二番というのは「本場」が金銭に限って取引され、為替は午後になってから売買されたことによる。会所では毎月2・5・8の日に市を立てた。当時の為替の多くは逆打ちであった。逆打ちというのは、大坂・京の金相場が高値(銀相場下値)で、江戸の金相場が下値(銀相場高値)のとき、大坂・京の為替方(為替御用商人)から打銀(為替取組みの手数料)を差し出してて為替を取り組む場合を意味した。
 このようにして、江戸為替の方法が普及するに伴って、江戸から上方へ送金依頼があったときの上方為替、大坂ー京間の京為替や、地方振り出しで江戸・大坂・京などの商人に宛てた地方為替などが発達し、三都を中心とした商品流通の展開に対応した為替取引機構の新しい展開が見られた。
<信用体系の確立> 堂島米会所設立により江戸時代の主要な産物であるコメが大坂に集まった。これにより大坂での商業が活発になり、金貸しとしての金融業、送金業としての金融業、金と銀との通貨両替としての金融業が発達した。こうした金融業の発達に伴い、一般取引でも両替商を仲介とした手形が一般化し、両替商の信用創造によって、商人間(B2B)の取引は手形によって決済される場合が多くなった。大坂が「天下の台所」と称せられ、全国諸藩の商品が大坂に廻送されたのは、問屋・仲買制度の整備・拡充による流通組織の発達と、両替商金融を中心とした信用制度の確立によってはじめて可能となった。
 江戸中期の商習慣を調査した「大坂商人仲間の取引形態」によると、大坂での41業種に及ぶ商人仲間の代金支払い方法には、現金払い、3日延、10日延、30日延、一節季払いなどの短期のものから、6月払い、12月払いのように長期にわたるものもあり、季払いで、2月・4月・6月・8月・10月・12月の各30日(晦日)が支払期日とされた。このような延売買には手形が用いられた場合が比較的多く、両替商がその仲介者となり、両替屋に対して手形を振り出す「振手形」(大坂手形とも呼ばれた)のかたちをとることが多かった。
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<大坂堀川の開削> 天下の台所大坂が商業都市としてその機能を発揮出来たのは、堀川の開削により運河があったからだった。この堀川の開削は豊臣秀吉時代に始まり、江戸初期にほぼ完成している。大坂の都市機能は江戸と違い商人によって進められた。江戸は幕府の命令で諸藩が費用を負担して行われた。これに対して大坂は「商人の町」との表現通り大坂商人が主役であった。
 堂島米会所があった新地から、淀屋橋を渡って道頓堀へ、このあたりの江戸堀川、京町堀川、海部堀川、阿波堀川、立売堀川、長堀川、北堀江、南堀江などの運河が主要な交通網であった。
 ここでの大動脈である東横堀川、西横堀川、天満堀川の3つと阿波堀川は豊臣秀吉の時代に完成していたが、他の二幹線長堀川と道頓堀川、および大阪湾と幹線をつなぐ市中西部の諸堀川が完成したのは元和・寛永のことであった。つまり大商業都市としての機能が発揮されるのはそれ以降のことだったと言える。そして堀川の開削の時期は次のようになっている。

堀川名   開削時期   開削者      堀川名   開削時期    開削者    堀川名  開削時期    開削者 
東横堀川 1594(文禄 3)年 ーーー      天満堀川 1598(慶長 3)年 ーーー     阿波堀川 1600(慶長 5)年 阿波商人
西横堀川 1600(慶長 5)年 永瀬七郎右衛門   道頓堀川 1615(元和元)年 成安道頓一族  京町堀川 1617(元和 3)年 伏見商人
江戸堀川 1617(元和 3)年 ーーー      海部堀川 1624(寛永元)年 ーーー     長堀川  1625(寛永 2)年 伏見商人
立売堀川 1626(寛永 3)年 宍喰屋次郎右衛門  薩摩堀川 1630(寛永 7)年 薩摩屋仁兵衛  逆 川  1685(貞享 2)年 ーーー
堀江川  1698(元禄11)年 ーーー      三軒家川 1698(元禄11)年 ーーー     難波新川 1733(享保18)年 ーーー
境川運河 1734(享保19)年 ーーー
 1620(元和6)年ころ、長堀川の両側が農地から市街地になった。その開発人の名前を付けた町ができた。長堀次郎兵衛町、長堀平右衛門町、長堀心斎町、長堀清兵衛町など。長堀川は当時「ふしみ川」と呼ばれていて、伏見の町人であった三栖清兵衛・岡田心斎・池田屋次郎兵衛・伊丹屋平右衛門の4人が開削したと言われている。また岡田心済は心斎橋を作ったとされちる。このほか開発町人の名前をたうけた町として常安町(淀屋常安)、徳寿町(平野次郎兵衛の法名)などがある。
 道頓堀は南堀川と呼ばれ、豊臣時代に平野藤次郎・道頓・安井治兵衛・安井九兵衛・が自己資本で開削にあたった。しかし治兵衛が病死し、道頓も大坂夏の陣で制ししたため未完成のままであった。1615(元和)元年に安井九兵衛と平野藤次郎に対し、南堀川については従来どおり請負として申付けるという命が出され、道頓堀は同年に完成した。この道頓という人物については、長く安井道頓と信じられていたが、坂上広麿の子孫から出た七名家のうちに成安(なりやす)家があり、そのなかに道頓を名乗る人物のいたことが証明されたため、現在では成安道頓の名をとって道頓堀となったとされている。
<大坂商人魂はどこへ行った>
 NASDAQは大阪を去った。大坂堂島米会所の伝統を受け継ぐ、現代の大阪商人はこの苦境をどう乗り越えるか?現代の米会所(米取引所)について、1年前に次のように書いた。
=6=現代に生かそう大阪堂島の米帳合い取引 需給調整と価格安定のために 考えてみれば日本のコメ需要量からしてそれほど大きな市場にはならないだろう。では株式会社としてのコメ取引所が発展するにはどうしたらいいのか?それはコメに限らず商品を取りそろえることだ。クレジットデリバティブや天候デリバティブなども扱うことになるだろうし、不動産や債権を利用し、証券化した資産担保証券も扱うことになる。そしてコメで言えば、日本の備蓄米もオプション取引で扱われることになる。そうなってこそ現代版米帳合取引所の存在意義が認められることになるのだからだ。( 2001年8月6日 TANAKA1942b )
 その後の動き。
(1) 2001年9月10日、「不動産投資信託」(日本版REIT)が東京証券取引所に上場された。初上場したのは、三井不動産系の投資会社「日本ビルファンド投資法人」と、三菱地所系の「ジャパンリアルエステイト投資法人」の投資証券。
(2) 「天候デリバティブ」の一つとして、「湿度デリバティブ」が登場した、と報じられたのが2001年11月。
(3) 今年になってUFJ銀行グループが信用デリバティブに力を入れる、と報じられた。
(4) 2002年7月30日には「天候デリバティブ契約額 世界で1兆円突破」と報じられた。この報道によると、「商品開発が激しくなるにつれ、国内独自のデリバティブ商品も登場している。日本興亜損害保険が風力発電など自然エネルギー業者を対象に、風力や日照量が不足した場合に損失を補償する商品を発売。東京海上が4月に開発した「台風デリバティブ」は発売から2ヶ月で契約件数が約40件となった」
(5) 2002年8月31日の新聞報道では、「信用デリバティブ 政策投資銀が参入 リスク取引支援へ」とある。記事によると「みずほコーポレート銀行が約1兆3千億円、三井住友銀行が約5千億円の差危険を束ねた信用デリバティブ導入を検討するなど、「国内で年度末までに計9兆円規模」(関係者)の導入が進むとみられている。政策投資銀はこうしたリスク移転を支援する考えだが、政策投資銀側に大きな損失が出る恐れもある」
(6) 二酸化炭素排出権の取引が始まった。アメリカは京都議定書を批准していない。アメリカ企業が動き出す前に、日本企業はシェアを確保しておこう。先日NHKテレビで、タイでの三菱証券社員の仕事ぶりを紹介していた。各社がんばれ。
 1年の間に世界は大きく変わる。世界に先駆けて先物取引を実用化した大坂商人、その血を受け継ぐ現代の大阪商人がこのまま市場経済の後塵を拝していいのだろうか?意地も、見栄も、プライドもどこかへ置き忘れてしまったのだろうか? ♪意地が廃れりゃこの世は闇さ なまじとめるな夜の雨♪ ♪ゆくぞ男のこの花道を 人生劇場いざ序幕♪ 江戸時代の大坂商人に引けを取るな。世界規模のマネーゲームが始まっている。レフェリーは世界各地の消費者だ。観客でありレフェリーである消費者、これに嫌われたチームはゲームから撤退することになる。日本のチーム、マネーゲームのプレーヤーたち、みんながんばれ。
( 2002年9月9日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(12)
識者はどのように評価したか?
<江戸時代、「世俗の思想家」はどう見ていたか?> 江戸時代、大坂の商人たちが作り上げた「堂島米会所」を同時代の識者はどのように見ていたか?3人の世俗の思想家に登場して貰おう。この3人のアダム・スミスたちには「大江戸経済学」シリーズ、再度登場して貰うとして、ここでは「米」「堂島米会所」などに対する発言を取り上げてみよう。
<山片蟠桃の「夢の代」> 山片蟠桃1748-1821(寛延1-文化4)主著「夢の代」。升屋の番頭で、コメの仲買商から大名貸へ発展させた。大阪堂島の米会所(帳合取引所)を高く評価し、全国的に会所をつくり、日本をおおう流通網を作るべきだと考えた。これさえ整備されていれば「どこどこが飢饉らしい」という情報だけでそこへコメが集まる。堂島の米会所が情報でどう動くかを記している。さらに蟠桃は「浮き米」がそのまま備蓄になると説いた。単なる備蓄は「財の死蔵」であり、民の負担になる。しかし会所で米切手の売買が行われると、資金の必要な者は米切手を現金化する。余裕ある者はこれを購入する。現物のコメを動かさず売買できるから資金かが可能である。それが「浮き米」でいざというときの「備蓄」になると同時に「米切手」という形で資金として活用できる。全国的に会所をつくれば、天明の大飢饉のときの南部・津軽両藩のような小判を持ちながら餓死するといった状態は起こらないと言っている。 ここでは「夢の代」から一部を紹介しよう。
 ……天下の智をあつめ、血液を通わし、大成するものは、大坂の米相場である。
 大舜は心を用いて天下の智をあつめた。この相場は自然天然とあつまり、大成して天下の血液はこれから通い、これを通じて智の達しないものはなく、仁の及ばないものはない。
 その理由はなぜかというと、五畿七道の米穀で、大坂へ送らないものはない。そのうち関東・奥州・東海道の米穀は江戸に入るけれども、もともとその不足を大坂から補うことであるから、江戸に米が少なければ大坂から多く送り、江戸に多ければ少なく送ることであるから、血液が江戸・大坂のあいだによく通じあっているようなもので、その間に価格の点でひびき、こたえるようなことはない。
 ところで、大坂の米相場と他の地域との関係についていえば、今、西国に蝗(いなご)の害があったということで、飛檄をもって米を買うときは価格が急激にあがる。奥州地方が豊年で米を売るときは値がどっと崩れる。四国に風があるというと、船を飛ばして買いにゆけばまた値があがる。北国は順気で米の出来がよいと檄を伝えると、また値がさがる。関東に洪水で値があがり、二百十日の天気にまたさがる。御手伝で値がさがり、御買米であがる。浅間山・島原の雲仙岳の炎上(爆発)、出羽の地震、中国の津波にいたるまで、ことごとく驚いてこたえないものはない。
 あたかも神があって告げるようである。あたかも将軍がいて指揮するようである。天から命ずるのではない。人が集まって徒党をくむのでもない。西に買い、東に売り、北に買い、南に売る。米の相場の価格もあるいはあがり、あるいはさがり、あるいは保ち、あるいは飛躍的に変わる。毎朝毎朝、毎夕毎夕、入船入檄のたびごとに値段の高下することは、響きの声に応ずるがごとくである。
 そうではあるけれども、その道は二つ、いわく売、いわく買。その呼応も二つ、いわく貴(高)、いわく賤(低)。ただこれだけであって、天でもない、神でもない。行為と事実とをもって示すものは、すなわち人気のあつまるところ、またこれは天であり、またこれは神である。千人、百人の力の及ぶところではない。
 しかるにまた、一人で米の相場を動かすことがある。ただこれだけであって、天ではない。天ではないのに、天下の変化を知ることは掌(たなごころ)をさすようである。天に先立って天に違(たが)わない、天におくれて天の時を奉ずる。人に先立って人におくれ、事に先立って事におくれ、万物にあまねくして通じないことはない。ああ恐るべきかな。ああ今、天下に賢いものは、米相場にまさるものはないのである。
(「日本の名著」23 山片蟠桃・海保青陵 源了圓責任編集 中央公論社 1971年 から)
<海保青陵「稽古談」> 海保清陵1755-1817(宝暦5-文化14)主著「稽古談」「天王談」「万屋談」「論民談」「升小談」「海保青陵平書並或問」。旅学者。「東海道を往来にては十ぺん通れり。木曽を二へん、北陸道を一ぺん通れり。滞りてあそべるところは三、四十ヶ所。山に登りて見たること大小数百なり」という旅学者。 ここでは「稽古談」から一部を紹介しよう。
 升小(山片蟠桃)の工夫で仙台候の財政状態がずっと立ち直った由来をきくと、米の切手である。さて大坂では、いったいに金が多い上に、諸家の大名はみな米切手というものを作って、これをもって金を借りるから、ほんとうの金のほかに米切手という財貨がある。
 さてそのほかに、振り手形というものがある。為替手形のたぐいである。鴻池の店から受けとるべき金を、金で受け取らないで、手形で受け取るのである。あるいはこの手形を飯屋に振る、加島屋に振ると仮定して、この手形を飯屋に持っていっても、加島屋に持っていっても、金になることであるから、受け取った人はすぐに金にしないで、ほかへ金をやるべき時にこの手形をやる。金を受け取るべき人もこの手形さえあったら、いつでも金になるから、またほかにやる。これを振り手形という。これは、金のほか、米切手のほかに、また振り手形という財貨があるのである。
 そのほかに空米先納というものがある。この空米先納というのは、来年入庫する米を今年切手にして、これを銀主に入れて金を借りることである。手形の肩に来年の干支を書いたものである。いうなれば、これは悪いことである。青田売りである。これでもずいぶん金子の調達ができることである。
 このほんとうの金、米切手、振り手形、空米先納、……これだけはみな通用の財貨である。通用の財貨が多いから、金がふえるはずである。財産は財産をうむものであるから、大坂では財産をうむものがたくさんあるし、大坂がずっとずっと豊になる道理である。これみな大坂の町人たちがりにくわしいから、目がよく見えるのである。………
(「日本の名著」23 山片蟠桃・海保青陵 源了圓責任編集 中央公論社 1971年 から)
<本田利明「経世秘話」> 本多利明1743-1820(寛保3-文化3)主著「経世秘策」「西域物語」「経済方言」。江戸の数学塾の塾長。引用に適した文章が見当たらないので、利明の考え方を要約して紹介しよう。
 利明は天明の大飢饉は「人災」と見た。「日本は南西の隅から北東の隅へ,凡十度余り、里程五、六百里の細長い国なので、水旱損(水害や日照りの被害)があっても国中ということはない。豊作の国から凶作の国へ渡海・運送・交易すれば、万民の飢えと寒さを救える」と言う。こうしなかったために生じた天明の大飢饉の大量餓死もまた「天災」でなく「人災」だ、ということになる。さらに利明は流通経路確保のため火薬を使って、道路を開き港を作れと言っている。それには各藩の自己防衛的・自給自足的な戦国の遺制が邪魔している、と主張する。この考えが田沼意次の印旛沼開発に結び付いたと考えられる。
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<岡崎哲二「江戸の市場経済」> 岡崎哲二「江戸の市場経済」から、岩橋勝「近世日本物価史の研究」の資料を利用した分析を紹介しよう。これは江戸時代の株仲間に付いての研究の一部であり、天保の改革により株仲間停止になった、その前後の経済を見ることによって、株仲間の果たした役割を研究したものだ。
<株仲間停止による価格裁定機能の低下> 全国13地域(大坂・近江・播州・福知山・広島・防長・佐賀・熊本・江戸・名古屋・信州・会津・出羽)の米価データ変化率の相互の相関を1833〜1841年と1842〜1850年の2つの期間について比較する。
 株仲間停止前の1833〜1841年については、相関計数の平均値は0.824とかなり大きい。この期間はほぼ全国の地域間で価格裁定が働くような整備された市場が存在していた。大坂堂島米会所が全国のコメ価格の地域格差を縮めるように働いていた。
 それに比べて、株仲間停止後の1842〜1850年については、相関係数の平均は大幅に低下して0.487となる。特に江戸の相関係数の低下が著しかった。これは株仲間停止期間中に米穀市場における地域裁定が有効に行われなかったことを意味している。
 これらのことから大坂堂島米会所が全国のコメ価格の地域格差を縮めるように働いていた。「天保の改革」と言われる老中水野忠邦の政策のうち、少なくとも「株仲間禁止」は経済を混乱させる失政であった、と言える。
<米価水準による検討> 地域間の価格裁定について別の角度からの検討を見てみよう。それは米価の変化率についての相関分析で、米価の水準に注目する。価格裁定が完全に行われれば、地域間の米価水準は輸送コストに一致する。そこである時期に地域間の米価水準が大きくなったとすれば、それは価格裁定の有効性が低下したか、あるいは輸送コストが上昇したことを意味すると考えられる。
 前に取り上げた13地域間の米価水準のバラツキを変動係数(標準/平均)で計る。これによると株仲間停止期間に米価水準の変動係数は、平均的に見て停止前よりも上昇した。このことから株仲間停止期間に価格裁定の有効性の低下ないし輸送コストの上昇が生じた可能性が高い、と結論つけている。(岡崎哲二「江戸の市場経済」講談社 1999年4月10日)
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<宮本又郎「近世日本の市場経済」> この本、宮本又郎「近世日本の市場経済」は堂島米会所の研究書として、幅広くテーマを扱い、説得力ある成果を提示している。「市場経済」「米」「大坂」がキーワイドになっている。目次には次の項目が並ぶ。
第T部 大坂米市場の成立と構造 制度史的分析
   第1章 大坂米市場の成立
   第2章 近世中期大坂における領主米流通
   第3章 近世大坂における米取引・流通機構
   第4章 地方における年貢米の集荷機構 加古川流域を事例として
第U部 大坂米市場の経済的機能 物価史的分析
   第5章 大坂米価の短期変動と米市場の機能
   第6章 米価変動ちお米穀需要構造
   第7章 堂島米市場における帳合米取引の機能
   第8章 地方米市場間の連関性と市場形成   
<価格安定に役立った米会所> ここでは「大坂堂島米会所が米価安定に役立った」ということに関する記述を紹介しよう。
宝暦期から明和・安永期において米価の変動は最も小さかった。全国市場としての大坂米市場の確率がこの米価の安定に大きく寄与したと、私は考えたい。享保中期以降この時代にかけて、「諸色高値の米価安」、すなわち米の他の商品価格に対する相対価格の低落現象が見られたことは承知のところである。 米の相対価格がなぜ長期的に低下したかについては本格的に論じる余裕はないが、市場への米供給量の増加がその一つの要因であったことは疑いないであろう。そしてこのような米供給量の増加が18世紀初頭までにほぼ官僚した全国的米流通機構のせいび・成立にypって支えられていたものであったことも間違いないところであろう。毎年大量の年貢米を収取し、それを売りさばかねばならなかった幕藩領主にとって、いつ何時でも迅速に、低い取引コストで大量の米を、全国的需要を反映した価格で売却できる市場が成立したことの意味はきわめて大きかったのである。したがって、市場への米供給量の増加と、市場機構の発達による流通コストの低下が米の相対価格の長期的低落の部分的要因であったといえるであろう。
<帳合米取引の経済機能> (1)一般的にいうならば、近世堂島米会所の帳合米取引は正米取引に対して価格平準化作用をもち、さらに「正米取引のヘッジとして利用されることによって価格保険機能を有していた」という従来からの説は、正米・帳合米の価格変動分析から支持されうる。
(2)しかし、価格平準化機能や価格保険機能の有効性は時代別に異なっていた。本章の分析によると、あらゆる角度から見て、宝暦期・明和期・安永期においてはこの両機能は最も効果的であった。そして多少その有効性が損なわれた天明・寛政・文化期を経て、文政期には堂島は再びその機能をかなりの程度回復した。しかし天保期以降には帳合米価格が正米価格をリードする機能が弱まり、また帳合米取引は正米取引に対して有効はヘッジ手段をほとんど提供しなくなっていた。
(3)一般に農産物中央市場で実需取引を行う卸売業者は生産者→消費者間の縦の流通過程において発生する手数料=商業利益を得ることを本質とし、相場の空間的・時間的変動による投機的利潤を得ることを主目的とするものではないと言ってよい。そしてこの性格を有する卸売業者が一般的に成立することによって、大量取引を継続的に行う中央市場の成立の条件が与えられるのである。しかしながら、大量取引は少しの相場変動でも取引当事者に多大の損失や利益を発生させるから、専門的卸売業者が一般的に成立するには、かれらを相場変動のリスクから解放することが重要な要件となる。この相場変動のリスクを回避する一つの有効な手段として多くの商業学の書が指摘するのは、周知のごとく先物取引を利用して行うヘッジ取引という方法である。大量取引市場に実物市場とならんで先物市場を併設すれば、実需業者は売り繋ぎや買い繋ぎによって、投機それ事態を目的とする専門的危険負担資本に相場変動のリスクを転嫁することができるのである。価格変動の激しい農産物の大量取引が先物取引を行う商品取引所的機構において組織化されることの意義はこの点に存するのである。
 このように考えるならば、宝暦〜文政期において堂島米会所の帳合米取引が上述のような価格保険機能を具備していたことは、近世大坂米市場の成立にとってきわめて重要な意味をもっていたと言わなければならない。それは大量の米を売買する蔵屋敷や米商人を相場変動のリスクから解放することによって、安全かつ恒常的な米取引を可能とする環境を準備したのみならず、すでに指摘したように、蔵屋敷や商人がおこなう米切手担保金融や過米切手振り出しによる金融にも安全性を補償するシステム 提供していたのである。したがって、逆に見れば、天保期以降幕末における堂島の価格平準化機能の衰えは大坂米市場衰退の果であると同時に、因でもあったと言えよう。
(宮本又郎「近世日本の市場経済」有斐閣 1988年6月30日)
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<「飢饉はコメの市場経済化にある」との考え> 江戸時代の飢饉を扱った本の著者には、「飢饉はコメの市場経済化にある」との考えがあるようだ。「幕府が米価を管理せず、米問屋の買い占め・売り惜しみを自由にさせていたからだ」との主張がある。江戸時代の「世俗の思想家」とは違った考えだ。幸い「エコノミスト」を名乗る著者でこうした「市場経済嫌い」の主張にお目にかかったことはない。 ここでは、これまで紹介した考えと少し違う感覚で大坂堂島米会所を捉えたものを紹介しよう。
米切手の功罪 中央米穀市場は、米切手の売買で成り立ったが、米切手は現物の米穀で裏付けられていたから、つまり現物取引であったといえる。それがやがて、売買時に即座に決済せず、一定期間をおいて決済する延取り引きが行われるようになり、1930(享保15)年には、幕府から帳合米商と呼ばれる延取り引きの仕法が公認された。米穀売買は決済時の差益を目当てに転売買が繰り返され、こうして、米穀市場は投機性の高いものとなっていった。
 投機性が強くとも、発行された米切手と現物の米穀が見あっていれば健全である。しかし、初版は財政事情もあり、また投機相場に関係し、さまざまなかたちの米切手を振り出していく。
 ひとつは、在庫米高を超える数量を記載した過米切手である。領国から到着する数量に応じ、その過米部分を買い戻そうとするものである。どこまで買い戻せるかが問題で、やがて過米切手の多くは、現物の補償がない空米切手と化していった。また調達切手というものも登場した。これは、もはや本来の蔵米の払い出し切手ではなく、借金の担保として振り出した切手であった。
 多くの空米切手が飛び交い、米価は激しく変動することになる。米価は諸物価の基本ではなくなり、米価の変動と諸物価の高下は乖離していった。
(NHK歴史発見取材班編「歴史発見」14 角川書店 1994年6月30日 から)
<市場経済のコントロール>飢饉を扱った本に次のような文があった。
 18世紀中後期の大規模飢饉は、すでに述べてきたように、商品貨幣経済が、地方農村のすみずみまで浸透し、全国的な市場経済に藩経済も生産者も組み込まれていくなかで発生していた。(中略)
 食糧の生産地がわずか1年の大凶作でたくさんの餓死者を発生させてしまう。これが市場経済下の飢饉の恐ろしさである。江戸時代の日本列島に起こっていたことは、食糧が国境を越えて動いている現代では世界的規模での現象として起こりかねない。食糧輸出国が凶作になったとき、その国の農民や都市下層民が絶望的な食糧不足に襲われる危険は常に存在している。品薄で高騰した食糧を逆流させるのはそう簡単ではない。(中略)
 国際分業だからと発展途上国からたくさん農産食品を買い、見返りに電化製品や車やパソコンを売って消費ニーズに応えるのが、その国への経済貢献なのだろうか。あるいは、日本の食料自給率をあげて、世界の人口増に負担をかけず、飢餓している人たちにこそ食料が行き届くように仕組みを変えていくほうが国際貢献になるのだろうか。国家・地域の成り立ちと世界経済の折り合いをどうつけ、飢饉・飢餓から解放されるか、21世紀の人類史はそういった課題に具体的な処方箋を出していかなければならない。
(飢饉を扱った本から)
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<江戸期・堂島の米市場にみる多様な金融取引> 堂島米会所に対する評価、最近の経済学関係の本からとくにポイントを押さえた文章を引用しよう。 江戸時代、大坂は「天下の台所」と呼ばれたように、日本経済の中心に位置していた。すなわち、全国各地で生産された農産物・食料品・衣服・工芸品などは一旦大坂へと集荷され、大坂で競り落とされた財物は江戸・京都あるいは地方へと販売されていったのである。そうした大坂での財物の取引のなかでも最も重要な地位を占めていたのが、堂島で行われた米の売買である。各藩では余剰米を大坂で売却のうえ、売却代金を江戸屋敷運営費用などに充当していたのであった。
 大坂は堂島の米市場において売買されていたのは、米の現物ではなく、蔵元が発行した米の倉荷証券である米小切手であった。この米小切手の性格は漸次、米仲買間で転々と売買されるようになるなかで、米に対する請求権を体化した商品切手的なものへと変容していった。そしてまた、米小切手から蔵出しに至るまでの期間が長くなればなるほど、米小切手の保有者は米の価格変動リスクにさらされることになる。こうした価格変動リスクをヘッジするため、享保15年(1730)に帳合米取引と称される米の先物取引が幕府公認の下で開始された。このことは、価格変動が激しい商品の取引においては、価格変動リスク・ヘッジのため、自然発生的に先物取引が行われるようになることを示唆しているといえよう。
 江戸時代後期になり、諸藩の財政が窮乏化していくと、在庫米あるいは出来高米を上回る米小切手が発行されることもしばしばみられるようになった。こうした米小切手は、過米切手あるいは空米切手と呼ばれた。現在、商品販売の裏付けをもたずに資金繰り安定化のために発行される手形のことを融通手形というが、過米切手はまさにこの融通手形に相当するものである。このことは、大名、企業ともに借り手は資金繰りに窮すれば、時代を超えて同じような弥縫(びほう)策に走ることを示唆しているのだろうか。
(「金融システム」(改訂版)酒井良清・鹿野嘉昭 有斐閣 2000年12月30日)
( 2002年10月7日 TANAKA1942b )
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大坂堂島米会所(13)
21世紀の堂島
<幕藩体制と運命を共にした堂島米会所> 1841(天保12)年、老中水野忠邦は水戸藩主徳川斉昭の助言により株仲間を禁止する。物価高騰の原因を株仲間にあると見て、それが社会不安の原因となり、大坂町奉行元与力大塩平八郎の乱を招いた、として株仲間を禁止した。しかし株仲間禁止は物価問題を解決しなかったばかりか、むしろ流通機構の混乱を引き起こした。江戸町奉行遠山景元などの意見が幕府に受け入れられて、1851(嘉永4)年に問屋再興令が施行される。株仲間禁止とは、青果市場・魚市場・証券市場のセリ・場立ちに素人の参加を容認する様な政策だった。これにより流通機構は混乱し、堂島米会所もその機能が発揮できなくなる。
 株仲間再開後も米会所の機能は回復しなかった。過米切手あるいは空米切手と呼ばれる、商品販売の裏付けをもたずに資金繰り安定化のために発行される融通手形と同じのもが多く発行され市場が混乱した。この市場の混乱を評して市場経済の限界のように言う論者もいるようだが、これは会所の問題というより幕藩制度の限界と見るべきであろう。
 幕藩体制はその財源を年貢米によっていた。江戸時代は鎖国していたにも拘わらず経済は成長していた。生産性の低い米産業に替わって、生産性の高い産業=絹・綿・俵物などの中国への輸出産業・鰯などによる肥料・江戸を中心とした地場産業の成長・輸送流通産業・金融産業、などが成長した。幕府・諸藩の税収が伸び悩む一方町人の生活は豊かになっていった。支配階級である武士の生活が困窮を極め、被支配階級である町人が豊になる。当然幕藩体制は行き詰まり、過米切手が多く発行されるようになる。それを厳しく取り締まる力はもはや幕府には残っていなかった。そして幕藩体制の崩壊と同時進行的に米会所もその価格安定機能を弱めていった。
 明治維新後「大阪堂島米会所」は再開されるが、帳合取引=差金取引=先物取引は許可されなかった。さらに昭和になり戦時体制が進むと、米は市場の取引から政府が価格管理することになる。戦後も食糧管理法により価格は管理される。わずかに「自主流通米価格形成センター」のいう名前の機構が申し訳程度に設立されている。
<日本人は都市化と工業化を望んだ> 江戸時代初期、日本の主要な産業は「コメ」であった。その商品「コメ」の価格安定と流通機構整備の目的から「大阪堂島米会所」が設立され、機能した。しかし経済成長に伴う社会変化に幕藩体制は対応できず、米会所もその機能を低下させた。その要因とは都市化とコメを中心とした農業から、工業化・商業化という変化だった。明治維新になりその変化は加速された。この変化の進む先は「人々が豊になる方向」であり、日本国民はそれを望んでいた。幕末に3千万人程度しか養えなかった日本列島で、現在は1億2千万人が生活している。農水省のHPによると「日本国内で食糧を自給しようとすると3.4倍の土地が必要になる」という。江戸時代初期のように農業中心の産業社会より3.4倍も豊になったと言えよう。
 この衣食足りて礼節を知る人が多くなった豊かな社会、これは独裁者が強引に国民を引っ張っていった社会ではない。民主制度と市場経済によって成り立つ社会であるが、この社会を批判する人もいる。江戸時代がそのまま続く社会が条件にあった社会かも知れない。
 「20世紀は大規模な工業化と急速な都市化とによって特徴づけられる。資本主義と社会主義とを問わず、世界のほとんどすべての国々について、工業化と都市化によってもたらされた歪みが、20世紀末の混乱と破壊を招来したといってよい。あるべき理念とは、工業化と都市化に対置されるものであって、その指向するものは農的世界の新たなる展開であり、自然環境と調和し、安定的な社会環境を形成しながら、より人間的な社会を求めようとするものであって、本来的な意味での持続的な経済発展を実現するものである。工業化、都市化の流を大きく変えて、農的世界の展開を通じてはじめて、新しい21世紀へのへの展望が可能となるといってよい。工業化と都市化が果たしてなにをもたらしたか、また、その背景に存在する21世紀の国家とは何であったのか、について、改めて考え直すことによって、農的世界の展開がいかに可能となるかを模索し、20世紀を超えて、新しい思想的、実践的地平を切り開くことを試みたい」
<このシリーズに登場した町人たち>
<淀屋> 淀屋辰五郎・淀屋与衛門・初代淀屋常安・二代目淀屋个庵(こあん)・四代目淀屋重当(しげまさ)・五代目淀屋広当(ひろまさ)
<堂島の商人> 塩谷庄次郎・河内屋儀兵衛・福島屋久右衛門・田辺善左衛門・境屋善衛門・田辺屋藤左衛門・加島屋清兵衛・尾崎屋藤兵衛・津軽屋彦兵衛・加島屋久右衛門・俵屋喜兵衛・升屋平右衛門・久宝屋太兵衛、備前屋権兵衛・柴屋長左衛門・紙屋治兵衛・高田屋作右衛門・相模屋又市・北国屋仁兵衛
<江戸の商人> 紀伊国屋源兵衛・大坂屋利右衛門・野村屋甚兵衛、中川清三郎・川口茂右衛門・久保田孫兵衛・冬木善太郎・杉田新兵衛・伊勢屋万右衛門・枌木平四郎・冬木彦六・三谷三左衛門・中島蔵之助・戎屋三郎兵衛
<大坂開発に尽くした町人> 成安道頓・宍喰屋次郎右衛門・薩摩屋仁兵衛・長堀次郎兵衛・長堀平右衛門・長堀心斎・長堀清兵衛・三栖清兵衛・岡田心斎・池田屋次郎兵衛・伊丹屋平右衛門・平野次郎兵衛・平野藤次郎・安井治兵衛・安井九兵衛
<米以外の大坂商人> 鴻池屋庄兵衛・加島屋作次郎・加島屋作五郎・米屋伊太郎・天王寺屋弥七・島屋利右衛門・鴻池屋善衛門・辰巳屋久左衛門・米屋(殿村)平右衛門・大黒屋福右衛門
<その他の登場人物> 塩屋庄次郎・天王寺屋平助・井原西鶴・山片蟠桃・海保清陵・本多利明
<自己責任をとれる町人たち> このシリーズに登場した町人の名前を列挙してみた。これだけ多くの町人が活躍した大坂、商人の町=大坂らしく皆自己責任で活躍した。さて、21世紀堂島米会所が再開出来るか?誰が?どの組織が?どのような取引所になるか?こう考え始めて現代と当時の違いに気づいた。当時は自己責任が尊重される資本主義社会で、現代は社会主義なのだ、と。大坂の運河も橋も、大坂の商人が資金を出し、ハイリターンを期待し、ハイリスクを負担した。こうして自己責任において工事を進めたのだが、はたして現代でこれだけのリスクを負担する人がいるだろうか。取引所開設に伴うリスクは個人では負担できない。リターンも期待できないから、情熱を注ぐ人も出てこない。サプライサイドは取引所には関心がない。政府による農業保護だけに関心を絞っている。「米は日本の文化だ」「世界の米市場は商いが薄い。貿易に頼らず、自給自足態勢を取るべきだ」と主張する文化人・学者を味方に、農業を市場から保護へと進めようとする。
 現代では大坂商人のようなリスクは取れない。いくら稼いでも「累進課税」という罰金が待っているので、運河を掘ったり、橋を架けたり、自費で取引所を開設したりはとても出来ない。関係のありそうな組織も、働いている職員にインセンティブが働かない。このように考えると悲観的になる。とは言え、それでも日本は市場経済、何時どこで予想もしない組織、異端者が出ないとも限らない。「官に逆らった経営者」が出たように「神話に挑戦するイノベーター」が出るだろう。日本にはまだまだそのような臍曲がりの出る余地は十分にあると期待することにしよう。
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<主な参考文献・引用文献>
『堂島米会所文献集』世界最古の証券市場文献 島本得一/編 所書店      1970. 9
『国内農産物の先物取引』     農林中金総合研究所編   家の光協会    2001. 4 
『江戸時代の先覚者たち』       山本七平      PHP研究所     1990.10.19  
『江戸時代』             大石慎三郎     中公新書     1977. 8.25
『享保改革の商業政策』        大石慎三郎     吉川弘文館    1998. 2.20  
『百姓の江戸時代』          田中圭一      ちくま新書    2000.11.20  
『村から見た日本史』         田中圭一      ちくま新書    2002. 1.20  
『堂島米会所文献集』         島本得一      所書店      1970. 9.25  
『近世日本の市場経済─大坂米市場分析』宮本又郎      有斐閣      1988. 6.30  
『日本経済史T経済社会の成立』17-18世紀 宮本又郎他    岩波書店     1988.11.30  
『大坂堂島米会所物語』        島実蔵       時事通信社    1994. 7.20  
『戦国時代』(下)          永原慶二      小学館      2000.12.20  
『日本永代蔵』 暉峻康隆訳      井原西鶴      小学館      1992. 4.20  
『近世稲作技術史』          嵐嘉一       農山漁村文化協会 1975.11.20  
『赤米のねがい』古代からのメッセージ 安本義正      近代文芸社    1994. 3.10 
『赤米・紫黒米・香り米』       猪谷富雄      農産漁村文化協会 2000. 3.31  
『日本の名著23』 山片蟠桃 海保青陵 源了圓訳      中央公論社    1971. 2.10  
『コメ』 東京大学公開講座61     吉川弘之      東京大学出版会  1995.10.10   
『金融システム』           酒井良清・鹿野嘉昭 有斐閣      2000.12.30  
『歴史発見』 14          NHK歴史発見取材班編  角川書店     1994. 6.30
『大阪府史』          大阪府史編集専門委員会編 大阪府      1987. 3.30
『大阪市の歴史』           大阪市編纂所編   創元社      1999. 4.20
『明治以前 日本土木史』       (社)土木学会編   土木学会     1936. 6.30
『米の日本史』            土肥鑑高      雄山閣出版    2001. 5. 5
『江戸商人の知恵嚢』         中島誠       現代書館     1999. 5.20
『江戸の市場経済』          岡崎哲二      講談社      1999. 4.10
『日本人の西洋発見』     ドナルド・キーン 芳賀徹訳 中公文庫     1982. 5.10
『国内農産物の先物取引』       農林中金総合研究所 家の光協会    2001. 4. 1  
『江戸の経済システム』        鈴木浩三      日本経済新聞社  1995. 7.14
『ザ・シカゴ・マーケット』      河村幹夫      東京布井出版   1984. 9.10
『商品先物取引の基礎知識』      木原大輔      時事通信社    1980. 7.10
『早わかり商品先物取引』     日本ユニコム企画調査部 東洋経済新報社  1996.12.19
( 2002年10月14日 TANAKA1942b )
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