趣味の経済学
コメ自由化への試案
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アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します
If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill
30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない
日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します
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アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します
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コメ自由化への試案
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もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ
▲ 1 もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ 安定供給のためには、自給率を下げること ( 2001年5月14日 )
▲ 2 関税率の工夫とノブレス・オブリージュ 特定の国からの輸入に頼らない制度 ( 2001年5月21日 )
▲ 3 問題への取組姿勢 積極的な自由化への対策 ( 2001年6月11日 )
▲ 4 農水省事務方の苦悩 その悲痛なメッセージを代弁する ( 2001年7月2日 )
▲ 5 自給自足の神話 それは文明発祥と同時に神話になった ( 2001年7月9日 )
▲ 6 現代に生かそう大坂堂島の米帳合い取引 需給調整と価格安定のために ( 2001年8月6日 )
▲ 7 農家はプットを生かそう 江戸時代の大阪堂島の商人に負けるな ( 2001年8月13日 )
▲ 8 キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか? これならば将軍吉宗も納得だろう ( 2001年8月20日 )
▲ 9 帳合取引所はカジノなのか? 待たれる市民投機家の参加 ( 2001年8月27日 )
▲10 指数取引が価格を安定させる さらなる取引商品の開発を ( 2001年9月17日 )
▲11 備蓄米はコールをロングしておこう 合理的な備蓄米制度と安定供給 ( 2001年9月24日 )
▲12 交換の正義が守られないとどうなるか? 今も生きてる、江戸商人の知恵 ( 2001年10月1日 )
▲13 文明開化で「自給自足」が神話になった 前半のレジュメ ( 2001年10月29日 )
▲14 農協はどうなるのか? 歴史的使命を終えた購買部門 ( 2001年11月5日 )
▲15 農協購買部門、各方面からの見方 農家は農協をとことん利用してみよう ( 2001年11月12日 )
▲16 農協、その事業内容の確認 「お客様は神様」の時代についていけるか? ( 2001年11月19日 )
▲17 3段階の系統組織 組織ダイエットはなるか? ( 2001年11月26日 )
▲18 コメ産直を考える 産業として伸びるキッカケとなるか? ( 2001年12月3日 )
▲19 信用事業は、頼母子講から金融自由化の荒波へ 住専での経験は生かせるか? ( 2002年1月14日 )
▲20 農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか? 事業部門毎に株式会社として独立 ( 2002年1月21日 )
▲21 農地売買自由化 農民を土地に縛り付ける封建制 ( 2002年2月4日 )
▲22 「身土不二」や「地産地消」について なるべく多くの人に味わってもらいたい (2002年6月10日)
▲23 スローフードというグルメ 食品産業のトレンド卵となるか? ( 2003年4月28日 )
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アマチュアエコノミストのすすめ
Index
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2%インフレ目標政策失敗への途
量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
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FX、お客が損すりゃ業者は儲かる
仕組みの解明と適切な後始末を
(2011年11月1日)
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コメ自由化への試案
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1 もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ
安定供給のためには、自給率を下げること
コメ自由化反対の根拠の一つ、「食糧安保」は間違っている。「不測の事態に備えてコメは自給すべきだ」との根拠は次の3つだろう。
(1)コメを海外からの輸入に頼ると、輸出国が日本との外交交渉事でコメを材料に使うかもしれない。
(2)世界情勢が不穏になると外国からコメを輸入できなくなる。
(3)世界的な異常気候になるとコメが不作になって、日本に輸出できなくなる。
一つひとつ検討してみましょう。
(1)コメは「売ってもらう」のか?「買ってあげる」のか?どちらでもない。自由貿易では売り手と買い手は平等だ。
だからコメの輸出国が外交交渉の材料に使うとすれば、日本も外交交渉の材料に使えばいい。「我が国の言うことを聞かなければ、コメを売らない」と言ったなら、「いいですよ、他の国から買うから。その代わりこれからはずっと買ってあげないよ。」と言えばいい。
さらにコメを特定の一国ではなく、多くの国から輸入していれば、輸出国が共同で日本への輸出を制限するのは難しい。アメリカ・オーストラリア・タイ・中国の政府が協議して、日本へのコメ輸出を禁止するとしたら、日本の一部の勢力から「かつてのABCDラインと同じ経済封鎖だ。
この事態を打開するにはもう一度大東亜戦争を始めるべきだ。」と、頭山満・大川周平・北一輝のような国粋主義者が出てくるかもししれない。
もっとも実際の業務は貿易業者が行うので第三国経由など、政府の規制はききにくいだろう。それに日本への経済封鎖はコメよりも、石油・鉄鉱石・半導体などのほうが効果的だろうし、それよりも日本からの投資を制限する方が効果的かもしれない。
各国が日本からの投資を制限し、日本の資本収支が赤字にならないとすれば、経常収支が黒字にならず、輸出が低迷し、日本は今以上の不景気になる。しかしそんなことをすれば、相手国の方も困ってしまう。
だいたい日本に対する経済封鎖などという発想は、大東亜戦争前夜の政治的・経済的発想と言うべきもので、真剣に取り上げるべき問題ではない。保護貿易という発想は、世界中が金本位制にこだわり、ケインズが一般理論を発表した時代の発想なのだ。
自由貿易がどんなに諸国民の富を豊かにするか、政府関係者だけでなく、ごく一部の「自由貿易は先進国だけに有利なシステムで途上国にはメリットがない」と信仰宗教のように信じているグループを除いて、誰でも分かっていることなのだからだ。
(2)世界情勢が不穏になって、日本にコメが輸出できない時とはどんな場合だろうか?
アメリカ・オーストラリア・タイ・中国、どこからもコメが輸入できない情勢だったらその他の貿易も滞るだろう。第2次大戦後このような事態は起きてない。もしもアメリカ・オーストラリア・タイ・中国、どこからもコメが入らない事態となれば、それは第3次世界大戦だろう。
つまりこの場合は「食糧安保」ではなく、単なる「安保」なのだ。「世界情勢が不穏になったら?」という不安は、コメの自由化とは関係ない、と言える。この場合は「食糧安保」ではなくて「有事立法」なのだ。
コメ作り農家にとって、コメは大切なものだし、コメのない生活なんて考えられないだろうし、「コメこそ日本の文化だ」と日頃から主張している文化人にとって、コメよりも繊維製品・半導体・乗用車・IT産業が大きな話題になるのは耐え難いことかもしれないが、世界情勢が不安になっても、コメはあまり大きな話題にはならないだろう。
もっとも少数者になればなるほど、レントシーキングという手段を選択するだろうから、圧力団体としての活動は活発になるであろう。
# # #
(3)1993年、日本はコメは不作だった。世界中のコメが不作になったら大変だ。では日本が不作の場合と世界中が不作の場合、どちらがありそうか?そしてその確率は?
このように考えてみよう。
(A) 100%日本で自給している場合。
(B)国産、アメリカ、オーストラリア、タイ、中国それぞれの割合が20%程度の場合。
(イ)豊作と不作の確率がそれぞれ50%として考える。
(A) 100%日本で自給している場合は2年に一度は不作。(B)5カ国とも不作になる確率は、2の5乗=32。つまり5カ国全部が不作になるのは32年に一度のこと。
(ロ)では豊作・平年作・不作がほぼ同じ確率で起きるとしたらどうだろう?
(A)の場合3年に一度は不作。(B)の場合5カ国ともに不作になる確率は3の5乗=243。つまり5カ国全部が不作になるのは243年に一度のことだ。
(ハ)それでは10年に一度の凶作はどうか?
(A)の場合は10年に一度。(B)の場合は10の5乗。つまり10万年に一度のことになる。
このような数字を並べなくても説明は簡単だ。「不作に備えるには、供給地を多くする」、「リスクを少なくするのは難しくても、分散させるのはたやすい」この説明で十分だろう。
(1)と(2)
から自給率の向上と食糧安保とは結びつかない、と言える。そして
(3)からはむしろ自給率の向上は食糧安保とは反対になる。
もしもアメリカ・オーストラリア・タイ・中国の他にもインドネシア・ミャンマー・ベトナム・ウクライナ・ペルー・南アフリカからも輸入するようになったとしたら、すべての国が不作になる確率はどの位だろう?
そうしてこれらの国が日本に対する経済封鎖を実施するのがどんなに困難なことか?これは読者のみなさんの想像にまかせましょう。
あるいはこんな喩えはどうだろう?
<例1>普段から取引があり、高いの、安いのと、やり取りしている同士、一方が「今回はいつもよりたくさん売ってくれ」と言ってきたら「いいけれどその代わり儲けさせてもらうよ」と言いながらも、売ってくれるだろう。
<例2>しかしいつも「うちは自分のところで間に合わすから、おたくからは買わないよ」とけんもほろろ、取引に応じないところが、「今回だけ特別に売ってほしい。でも今回だけで、この次からは買う予定はない」と言って来たらどうしよう。
ずいぶん身勝手なわがままで、「そんな人とは、そんな業者とは、そんな国とはつきあいたくはない」が本音だろう。
「食糧安保の観点からコメの自給率を高めよう」、「コメは一粒たりとも輸入させない」などという身勝手な「尊農攘夷論」はもうやめにしましょうよ。衣食足りて礼節を知る私たち日本国民、これではあまりにも礼を失していますよね。
では食糧の安定供給のためにはどうすればいいのか?結論==「世界各地から輸入し、供給地・輸送ルートを多くすること」
言い換えると「安定供給のためには、自給率を下げること」なのである。
( 2001年5月21日 TANAKA1942b )
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2 関税率の工夫とノブレス・オブリージュ
特定の国からの輸入に頼らない制度
<関税化の工夫>
コメの安定供給には供給地と流通経路を多くすることだ。自給率を高めることは安定供給にはならない。一国に頼らず多くの国から安定的に輸入できるように、コメの輸入を自由化し、その上で関税率を工夫する。TANAKA1942bが提案する試案は国別の輸入実績を基に関税率を決めようというものだ。
例えば、平成15年1月から平成15年12月までの国別の輸入実績を調べる。ある国の輸入量が全輸入量の40%だったとすると、平成16年4月から平成17年3月までのその国からの関税率を40%とする。
次の年、平成16年1月から平成16年12月までの輸入量が35%になったとすると、今度は平成17年4月から平成18年3月までの関税率が35%となる。つまり日本への輸出量が多い国は次の年には高い関税率となり、日本への輸出は押さえられることなる。
日本人の主食であるコメがどこか特定の国に押さえられるのは、食糧の安全保障の点からみて好ましくない、と考えるならば、特定の国に依存しないようなシステムにするのがいい。この試案はそのための関税率の工夫である。では今まで実績のなかった国はどうか?
この関税率に従えば、0%になる。
今まで実績のなかった国でも、日本へコメを輸出しようとするだろう。
安定供給のためにコメの輸入を自由化しようと提案すると、「世界のコメ市場はとても小さくて、日本に輸出するだけの量が確保できない」、「アジアのコメはインディカ米だから日本に輸出はできないだろう」、「日本が世界のコメ市場に参入すると、市場が混乱するし、国際価格が上昇し発展途上国の国民に迷惑がかかる」等の心配、反対意見が出るだろう。
たしかに現在の世界のコメ市場を見ればその心配ははずれてない。しかし日本の市場が開放され、今後も日本への輸出が規制されないと分かれば、各国各地でコメが輸出用に増産される。
需要があれば供給が計られる。平たくいえば「儲かりそうだとなれば、人が集まり、事業を興し、生産を開始し、ハイリターンを求めて資金が集まる。」拝金主義と非難する人はいるだろうが、これが資本主義であり、世界の経済のあるべき姿はこれしか考えられないのだ。
この制度での政府の役割はあくまでもレフェリーである。政府が国別の割り当てを決めたり、関税率の特例を作ったり、あるいは直接輸入交渉を担当したりといった、プレーヤーとして登場すると市場のメカニズムが働かなくなる。
前回のHPで生産国5カ国として例を挙げたのだが、各国が20%というのはあくまで一つの例であって実際はそのようなことはないだろう。つまりいつもでこぼこがあるということだ。パレート最適とはひとつのモデルであって、実際はその前後をふらふらさまよっていることになる。
それでも市場のメカニズムが有効に働いていれば、常に近づくような動きになるだろう。時には近づく途中で止まってしまったり、あるいは行き過ぎてしまったりと。しかしそれに満足せず、政府が計画し、統制し、パレート最適を実現しようとすると、かつての社会主義国の悲劇になる。
そして資本主義の所得の不平等を正すべきだ、という正義論を持ち出すと、結局ジニ係数は下がるが、人民が平等に不自由になり、平等に貧しくなる社会になってしまう。それは個人の政治的、経済的自由を保証する功利的な制度とはかけ離れたのになる。
ところでこのような関税率、国別に税率が違うのは最恵国条約に反することになる。いずれはこうした制度は廃止して関税率は一律にするのがいい。一律にしても供給が不安定になることはないだろうが、今は自由化反対の声が大きいのでこうした関税率を採用するのがいい。
日本の市場が開放されコメの貿易量が多くなれば、つまり世界のコメ市場の取扱量が多くなれば、このような特別な関税率を適応しなくても安心だということが理解されるであろう。
<ドンケル試案のアイディアを借用>
上記の関税率案では平成16年度から関税率を変えるになっているが、直ちに関税化すると混乱も多いだろうから、ドンケル試案のアイディアを借用しよう。初年度は500%の関税率。その次の年は 400%。その次の年は 300%.、一年ごとに100%ずつ下げていく。
そうして上記の関税率の適応は100%の関税率の次の年からになる。
<ノブレス・オブリージュ>
上記の関税率案では最低0%の関税率の国が出てくるが、新しい関税率の案ではすべての国に関税率を10%上乗せする。40%の国は50%に、35%の国は45%に、0%の国は10%に、そうしてこの10%の関税収入を国際連合に贈与する。
「世界には十分な食事をとれない人々がいる。この人々の食料のために使ってください。」または「日本国民が海外からコメを輸入したら、その代金の10%を国連に贈与しますので、発展途上国のさらなる発展のために使ってください」と言う趣旨だ。衣食足りて礼節を知る私たち日本国民 、そろそろノブレス・オブリージュということを意識し始めてもいいと思います。
( 2001年5月28日 TANAKA1942b )
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3 問題への取組姿勢
積極的な自由化への対策
日本政府の方針は食糧自給率の向上なのだが、政府の願望とは逆に自給率は下がっていく。ではどのようにして自給率を上げていこうというのだろうか?単純に考えれば、1)農地の拡大。2)農業生産性の向上。
これしかないと考えるだが、これを具体化するにはどうするのか?農水省の方針は分からない。もしかしたら具体的な対策は考えていないのではないだろうか?と疑いたくなる。農水省のHPによると、日本国民の食糧を確保するには、「国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要。
このような私たちの食生活は、国内農地面積(491万ha(平成10年))とその約2.4倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。」
とある。では自給率向上と、今の農地の2.4倍の農地をどうやって確保するのか?との関係はどうなるのだろうか?農業生産性が今と変わらないとすれば、
自給率 100%にするには、食料消費量を3.4分の1にしなければならないのだ!
1993年12月15日、細川内閣当時のガット、ウルグアイ・ラウンド農業合意での方針転向以後の国の政策は外圧による政策変更というパターンを取っている。
政策担当者が政策変更の責任を外圧に取らせている。もしかしたら政治家も官僚も「自給率の低下は自然の成り行き」と考えているのではないだろうか?「農産物の自由化はWTOの方針でもあり、日本政府は自由貿易の必要性を十分理解しているので、これを押しとどめることはできない」
「しかし、今までコメは一粒たりとも輸入させない、と言ってきた立場上今更自由化、とは言えない」「政府の立場はあくまで自給率の向上とし、世界の流れ、外圧によって政策変更とするとすれば余計な摩擦を生じさせないだろう。」と考えているのかもしれない。
だとすると嫌々ながら農産物の国内市場開放が進み、嫌々ながら食糧自給率の低下が進む。もしそうならばここで「嫌々ながら」の方針を転換して、「積極的にこれを進めよう」と考えてはどうだろう?というのがTANAKA1942bの発想。 考えが行き詰まったら反対のことを考えてみる。そうすると思いもかけない解決策が思い浮かぶことがある。
このHPの「首都高速道路の料金は2000円に値上げを」はそれだ。「渋滞で 700円を払う価値はない。しかし値下げはできない」それならば逆に値上げしたらどうなるだろう?と考えると新しい解決方法が見つかる。「国民はメディアに操作されるか?」もそうだ。
草野教授が批判するTVのモーニングショー、「こうあるべきだ」と考えるから腹が立つので、視聴者というお客様・神様に制作者がおもねているいるのだ、と考えるとその評価が変わってくる。「TV制作者は視聴者に気に入られようとして、心にもない番組を作らなくてはならない。かわいそうに」となる。
「タイ米を買うことは、タイに迷惑か?」もそうだ。タイの生産者とタイ経済のことを考えると、決して迷惑ではない。そうしてもし、あの時点で日本国民がコメ自由化を決断していれば、東アジア通貨危機、タイとインドネシアはあれほどの危機にはならなかったのだろう。
こういう考え方、結構へそ曲がりで無責任に思えるかもしれない。しかしTANAKA1942bは日本の農業発展に無責任な姿勢ではないと、自負してる。
それは「住専処理に税金投入は当然」を読んでいただければ分かってもらえると思う。
1996年3月、この文を発表した当時、日本のテレビ・新聞・雑誌などのマスコミは「住専処理に税金を使うな」との一大キャンペーン中だった。あのキャンペーンに参加したジャーナリスト・評論家・エコノミストは「農協の一つや二つ破綻してもいい」と考えていたのだろうか?
「金融不安より前に農業パニックが起きてもいい」と考えていたのだろうか?あの当時からマスメディア、マスインテリは読者・視聴者がお客様なので、この神様に気に入られる情報を提供しようとして、自分の政治的・経済的な基本的な立場を捨て去ったと考えるべきなのかもしれない。
# # #
TANAKA1942bは個人的な趣味でこのテーマに取り組んでいる。国の政策決定にはなんの影響力もない。だから思い切ったことが書けるのだろう。もし農水省でこんなテーマを掲げたら、それこそ閣内不一致で、田中外相の問題より強く追求されるに違いない。
だからと言って、不測の事態の研究を怠ってもいいはずはない。「もしも大地震が起きたら?」の研究をするのと同じように、「もしも外圧に屈してコメ自由化が決定されたら?」の研究も必要なのだ。「危機管理」とはカッコいい言葉だが、もしもの場合の対策を研究するのはつらいことだ。
「そうなったらイヤだ」と思いながらも、「そうなるだろう」との姿勢で臨まなければならない。それも自然災害の場合ならともかく、政策変更のような事案だと、「お前は本当はそうなることを望んでいるのだろう」とか「そのように政策変更するように働きかけているのだろう」と疑われそうだし。そのいい例がかつての「三ツ矢計画」だった。
(なにしろ日本は言霊の国なのだから)防衛庁が不測の事態に備えての有事立法を研究していたら、「防衛庁は戦争を想定して研究している。有事が起こることを望んでいるのだろう」との野党の批判を浴びた。コメ自由化についてもそのような恐れがあるかもしれない。
だったらば筆者のような政策決定に何の影響力のない人間が、個人的な趣味で考える、というのだピッタリなのだろう。それともどこかに、「その憎まれ役私が買って出よう」と名乗り出る人がいるのだろうか?
細川内閣のガットでのコメ政策変更、マスコミで知る限り青天の霹靂だったと思うのだが、関係者のみなさんは予測済みだったのだろうか?そうして十分な対策も練られていたのだろうか?
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TANAKA1942bの基本的立場は「コメは自由化すべきだ」だ。この考えに反対の人が多くいて、今は筆者の方が少数派であり、「敵を倒すには、敵の手の内を知るべきだ」との考えでこのHPを読む人が多くいるに違いない。
当然そういう考えで読んで頂いても結構。
このHPの返信欄にはこう書いてある。「お名前:カッコいいハンドルネームでどうぞ!これは趣味のHPです、堅苦しい職業・肩書き・社会的地位は抜きにしましょう」もしそうでないと「あなたはコメ作りの実状を知らないからそう言うのだ」「そう言うあなたこそ、我々サラリーマンが都会でどんなに高い家賃に苦しんでいるか分からないだろう」「大学という象牙の塔にこもっているから、そんな生活感のない無責任なことが言えるのだ」「自分には全国の情報が集まってくる。素人が裏付けのない曖昧なことは言うべきだはない」「それはらば、特別な情報を持たない素人は黙っていろと言うのか?」など、感情のぶつけ合いになる恐れがあるからだ。
そうして、「コメは自由化すべきだ」と考えていても、食糧庁の役人が実名で発言するには勇気がいるだろうし、同じように、自由化になったら儲けようと手ぐすね引いている商社の社員が、実名で「コメは自由化すべきではない」とは発言できないだろう。
今ネットでは田中外相応援団ができている。一方で「外相には不適格なので解任すべきだ」との主張もある。では解任して後任には誰を推薦すると言うのだろうか?外相経験者なら改革を進めるはずがない。自分の過去の業績を否定することになるからだ。
「とにかく解任すればいい」は後のことを考えない、「何でも反対政党」と同じ態度で、「日本政府は独占資本とアメリカ帝国主義との傀儡政権である。このことを人民に訴えるためには過激な行動も辞さない。とのかく今の政府を倒すために団結しよう」と同じ発想に感じられる。
そして後のことを考えずにとにかく現状を壊すとどうなるか?豚のナポレオンを主人公にした小説「アニマル・ファーム」にその恐ろしさを予感するのは筆者だけなのだろうか?そして世界は自由貿易の方向に向かいながらも、「コメは自給すべき」との主張を繰り返し、その対策・将来のビジョンを示さないでいるのには、同じような無責任さ、不作為の責任を感じる。
それよりも、未熟で、不完全で、時には矛盾もあって厳しい批判を受けたとしても、それでもビジョンへのたたき台になる提案をする方がずっと建設的だと思うことにしてこのHPを続けているということを理解してもらえれば、それで十分。
( 2001年6月11日 TANAKA1942b )
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4 農水省事務方の苦悩
その悲痛なメッセージを代弁する
農水省のHPに興味深い記載があったのでこれについて考えてみた。食料自給率の低下と食料安全保障の重要性
(1)「変化した私たちの食生活 お米の消費が減る一方、畜産物や油脂など、大量の輸入農産物を必要とする品目の消費が増加してきました。その結果、食料自給率は一貫して低下し、40%(平成11年)となっています。」
との記述。主要穀物(コメ、小麦、大豆、トウモロコシ)の需給表を見ると、コメの消費量が毎年少しずつ減っていること、およびコメ以外の自給率の低さに気づく。
さらに(2)「国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要 このような私たちの食生活は、国内農地面積(491万ha(平成10年))とその約2.4倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。」との記述もある。
(1)に関する数字を見ると、小麦、大豆、トウモロコシ、について自給自足は絶望的になる。
(2)に関しては、どのように理解していいのか迷う。農水省の方針「自給率アップ」ならば、自給率 100%にするためには、(A)国内農地面積を3.4倍にする。(B)生産性を3.4倍に、つまり単位あたりの収穫を3.4倍にすることなのだ。
(C)では消費量を3.4分の1にすればいいのか?毎日3回食事をする人が1日1食にすればいい、とでも言いたいのだろうか?
自給自足を目標としながらも、それが絶望的であることを裏付ける記載をする。何故だろう?「自給率をあげよう」のかけ声に水を差すような文を載せるのは何故か?
農水省の担当者は何を考え、何を目的としてこの文を書いたのだろうか?ここでアマチュアエコノミストが素人探偵に変身する。担当者の立場に立って、担当者の気持ちになって考えてみよう。たった1つの真実見抜く、名探偵コナンが推理する。
「国の方針は自給率アップ。しかし各種の資料を検討すれば、これが不可能なことは明白だ。ちょっと経済学の本を読んだ人なら、保護貿易が国民を貧乏にすることぐらい誰でも分かる。しかしそれを言っちゃあお終い。
農家・農協関係者・その人達の票で当選している議員・文化人・ジャーナリスト、これらの人たちが、「生活権を奪うのか?」「農家を守れ」「コメは日本の文化だ」「田圃が果たすダム効果を無視するのか?」「美しい日本の自然と文化を守れ」このように役所に圧力をかけてきたらどうしよう?
担当者としてのボクの立場が危ない。まだ役所を首にはなりたくない。養わなければならない家族もいるし、ローンも残っているし。ボクが本当のことを言うのはあまりにも機会費用が大きい。(この点についてはHP「接待汚職の経済学」を参照)でも真実を伝えるべきだ、との良心はある。
誰か分かってくれないだろうか?「自給自足は神話だ」ということを。立場上分かっても言えない人は多いだろう。ボクのような農水省職員・農協関係者・今まで「コメは日本の文化だ」といってきて今更転向できない文化人、今まで支持してくれた購読者を裏切れないジャーナリスト。
でもこの広い日本、ボクのメッセージを理解して代弁してくれる、自由な立場の人はいると期待しよう。そんな人にこの数字・メッセージが伝えられればいい。
こうしたボクの気持ちと立場を分かって、ボクに代わって「自給自足は神話だ」と言ってください。そんなアマチュアエコノミストが出てくれることを願ってこの文章を書きます。」