趣味の経済学
コメ自由化への試案  Files
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill     30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します    趣味の経済学    趣味の経済学

コメ自由化への試案 Files  もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ
 1  もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ 安定供給のためには、自給率を下げること ( 2001年5月14日 )
 2  関税率の工夫とノブレス・オブリージュ 特定の国からの輸入に頼らない制度 ( 2001年5月21日 )
 3  問題への取組姿勢 積極的な自由化への対策 ( 2001年6月11日 )
 4  農水省事務方の苦悩 その悲痛なメッセージを代弁する ( 2001年7月2日 )
 5  自給自足の神話 それは文明発祥と同時に神話になった ( 2001年7月9日 )
 6  現代に生かそう大坂堂島の米帳合い取引 需給調整と価格安定のために ( 2001年8月6日 )
 7  農家はプットを生かそう 江戸時代の大阪堂島の商人に負けるな ( 2001年8月13日 )
 8  キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか? これならば将軍吉宗も納得だろう ( 2001年8月20日 )
 9  帳合取引所はカジノなのか? 待たれる市民投機家の参加 ( 2001年8月27日 )
10  指数取引が価格を安定させる さらなる取引商品の開発を ( 2001年9月17日 )
11  備蓄米はコールをロングしておこう 合理的な備蓄米制度と安定供給 ( 2001年9月24日 )
12  交換の正義が守られないとどうなるか? 今も生きてる、江戸商人の知恵 ( 2001年10月1日 )
13  文明開化で「自給自足」が神話になった 前半のレジュメ ( 2001年10月29日 )
14  農協はどうなるのか? 歴史的使命を終えた購買部門 ( 2001年11月5日 )
15  農協購買部門、各方面からの見方 農家は農協をとことん利用してみよう ( 2001年11月12日 )
16  農協、その事業内容の確認 「お客様は神様」の時代についていけるか? ( 2001年11月19日 )
17  3段階の系統組織 組織ダイエットはなるか? ( 2001年11月26日 )
18  コメ産直を考える 産業として伸びるキッカケとなるか? ( 2001年12月3日 )
19  信用事業は、頼母子講から金融自由化の荒波へ 住専での経験は生かせるか? ( 2002年1月14日 )
20  農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか? 事業部門毎に株式会社として独立 ( 2002年1月21日 )
21  農地売買自由化 農民を土地に縛り付ける封建制 ( 2002年2月4日 )
22  「身土不二」や「地産地消」について なるべく多くの人に味わってもらいたい (2002年6月10日)
23  スローフードというグルメ 食品産業のトレンド卵となるか? ( 2003年4月28日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)
コメ自由化への試案 Index

1 もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ
安定供給のためには、自給率を下げること
 コメ自由化反対の根拠の一つ、「食糧安保」は間違っている。「不測の事態に備えてコメは自給すべきだ」との根拠は次の3つだろう。
 (1)コメを海外からの輸入に頼ると、輸出国が日本との外交交渉事でコメを材料に使うかもしれない。
 (2)世界情勢が不穏になると外国からコメを輸入できなくなる。
 (3)世界的な異常気候になるとコメが不作になって、日本に輸出できなくなる。
 一つひとつ検討してみましょう。
 (1)コメは「売ってもらう」のか?「買ってあげる」のか?どちらでもない。自由貿易では売り手と買い手は平等だ。 だからコメの輸出国が外交交渉の材料に使うとすれば、日本も外交交渉の材料に使えばいい。「我が国の言うことを聞かなければ、コメを売らない」と言ったなら、「いいですよ、他の国から買うから。その代わりこれからはずっと買ってあげないよ。」と言えばいい。
 さらにコメを特定の一国ではなく、多くの国から輸入していれば、輸出国が共同で日本への輸出を制限するのは難しい。アメリカ・オーストラリア・タイ・中国の政府が協議して、日本へのコメ輸出を禁止するとしたら、日本の一部の勢力から「かつてのABCDラインと同じ経済封鎖だ。 この事態を打開するにはもう一度大東亜戦争を始めるべきだ。」と、頭山満・大川周平・北一輝のような国粋主義者が出てくるかもししれない。
 もっとも実際の業務は貿易業者が行うので第三国経由など、政府の規制はききにくいだろう。それに日本への経済封鎖はコメよりも、石油・鉄鉱石・半導体などのほうが効果的だろうし、それよりも日本からの投資を制限する方が効果的かもしれない。 各国が日本からの投資を制限し、日本の資本収支が赤字にならないとすれば、経常収支が黒字にならず、輸出が低迷し、日本は今以上の不景気になる。しかしそんなことをすれば、相手国の方も困ってしまう。 だいたい日本に対する経済封鎖などという発想は、大東亜戦争前夜の政治的・経済的発想と言うべきもので、真剣に取り上げるべき問題ではない。保護貿易という発想は、世界中が金本位制にこだわり、ケインズが一般理論を発表した時代の発想なのだ。
 自由貿易がどんなに諸国民の富を豊かにするか、政府関係者だけでなく、ごく一部の「自由貿易は先進国だけに有利なシステムで途上国にはメリットがない」と信仰宗教のように信じているグループを除いて、誰でも分かっていることなのだからだ。
 (2)世界情勢が不穏になって、日本にコメが輸出できない時とはどんな場合だろうか? アメリカ・オーストラリア・タイ・中国、どこからもコメが輸入できない情勢だったらその他の貿易も滞るだろう。第2次大戦後このような事態は起きてない。もしもアメリカ・オーストラリア・タイ・中国、どこからもコメが入らない事態となれば、それは第3次世界大戦だろう。 つまりこの場合は「食糧安保」ではなく、単なる「安保」なのだ。「世界情勢が不穏になったら?」という不安は、コメの自由化とは関係ない、と言える。この場合は「食糧安保」ではなくて「有事立法」なのだ。
 コメ作り農家にとって、コメは大切なものだし、コメのない生活なんて考えられないだろうし、「コメこそ日本の文化だ」と日頃から主張している文化人にとって、コメよりも繊維製品・半導体・乗用車・IT産業が大きな話題になるのは耐え難いことかもしれないが、世界情勢が不安になっても、コメはあまり大きな話題にはならないだろう。 もっとも少数者になればなるほど、レントシーキングという手段を選択するだろうから、圧力団体としての活動は活発になるであろう。
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 (3)1993年、日本はコメは不作だった。世界中のコメが不作になったら大変だ。では日本が不作の場合と世界中が不作の場合、どちらがありそうか?そしてその確率は?
 このように考えてみよう。
 (A) 100%日本で自給している場合。
 (B)国産、アメリカ、オーストラリア、タイ、中国それぞれの割合が20%程度の場合。
 (イ)豊作と不作の確率がそれぞれ50%として考える。
 (A) 100%日本で自給している場合は2年に一度は不作。(B)5カ国とも不作になる確率は、2の5乗=32。つまり5カ国全部が不作になるのは32年に一度のこと。
 (ロ)では豊作・平年作・不作がほぼ同じ確率で起きるとしたらどうだろう?

 (A)の場合3年に一度は不作。(B)の場合5カ国ともに不作になる確率は3の5乗=243。つまり5カ国全部が不作になるのは243年に一度のことだ。
 (ハ)それでは10年に一度の凶作はどうか?
 (A)の場合は10年に一度。(B)の場合は10の5乗。つまり10万年に一度のことになる。
 このような数字を並べなくても説明は簡単だ。「不作に備えるには、供給地を多くする」、「リスクを少なくするのは難しくても、分散させるのはたやすい」この説明で十分だろう。
 (1)(2) から自給率の向上と食糧安保とは結びつかない、と言える。そして (3)からはむしろ自給率の向上は食糧安保とは反対になる。
 もしもアメリカ・オーストラリア・タイ・中国の他にもインドネシア・ミャンマー・ベトナム・ウクライナ・ペルー・南アフリカからも輸入するようになったとしたら、すべての国が不作になる確率はどの位だろう? そうしてこれらの国が日本に対する経済封鎖を実施するのがどんなに困難なことか?これは読者のみなさんの想像にまかせましょう。
 あるいはこんな喩えはどうだろう?
 <例1>普段から取引があり、高いの、安いのと、やり取りしている同士、一方が「今回はいつもよりたくさん売ってくれ」と言ってきたら「いいけれどその代わり儲けさせてもらうよ」と言いながらも、売ってくれるだろう。
 <例2>しかしいつも「うちは自分のところで間に合わすから、おたくからは買わないよ」とけんもほろろ、取引に応じないところが、「今回だけ特別に売ってほしい。でも今回だけで、この次からは買う予定はない」と言って来たらどうしよう。 ずいぶん身勝手なわがままで、「そんな人とは、そんな業者とは、そんな国とはつきあいたくはない」が本音だろう。 「食糧安保の観点からコメの自給率を高めよう」、「コメは一粒たりとも輸入させない」などという身勝手な「尊農攘夷論」はもうやめにしましょうよ。衣食足りて礼節を知る私たち日本国民、これではあまりにも礼を失していますよね。
 では食糧の安定供給のためにはどうすればいいのか?結論==「世界各地から輸入し、供給地・輸送ルートを多くすること」 言い換えると「安定供給のためには、自給率を下げること」なのである。
( 2001年5月21日 TANAKA1942b )
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2 関税率の工夫とノブレス・オブリージュ
特定の国からの輸入に頼らない制度
<関税化の工夫> コメの安定供給には供給地と流通経路を多くすることだ。自給率を高めることは安定供給にはならない。一国に頼らず多くの国から安定的に輸入できるように、コメの輸入を自由化し、その上で関税率を工夫する。TANAKA1942bが提案する試案は国別の輸入実績を基に関税率を決めようというものだ。
 例えば、平成15年1月から平成15年12月までの国別の輸入実績を調べる。ある国の輸入量が全輸入量の40%だったとすると、平成16年4月から平成17年3月までのその国からの関税率を40%とする。 次の年、平成16年1月から平成16年12月までの輸入量が35%になったとすると、今度は平成17年4月から平成18年3月までの関税率が35%となる。つまり日本への輸出量が多い国は次の年には高い関税率となり、日本への輸出は押さえられることなる。
 日本人の主食であるコメがどこか特定の国に押さえられるのは、食糧の安全保障の点からみて好ましくない、と考えるならば、特定の国に依存しないようなシステムにするのがいい。この試案はそのための関税率の工夫である。では今まで実績のなかった国はどうか? この関税率に従えば、0%になる。 今まで実績のなかった国でも、日本へコメを輸出しようとするだろう。
 安定供給のためにコメの輸入を自由化しようと提案すると、「世界のコメ市場はとても小さくて、日本に輸出するだけの量が確保できない」、「アジアのコメはインディカ米だから日本に輸出はできないだろう」、「日本が世界のコメ市場に参入すると、市場が混乱するし、国際価格が上昇し発展途上国の国民に迷惑がかかる」等の心配、反対意見が出るだろう。 たしかに現在の世界のコメ市場を見ればその心配ははずれてない。しかし日本の市場が開放され、今後も日本への輸出が規制されないと分かれば、各国各地でコメが輸出用に増産される。 需要があれば供給が計られる。平たくいえば「儲かりそうだとなれば、人が集まり、事業を興し、生産を開始し、ハイリターンを求めて資金が集まる。」拝金主義と非難する人はいるだろうが、これが資本主義であり、世界の経済のあるべき姿はこれしか考えられないのだ。
 この制度での政府の役割はあくまでもレフェリーである。政府が国別の割り当てを決めたり、関税率の特例を作ったり、あるいは直接輸入交渉を担当したりといった、プレーヤーとして登場すると市場のメカニズムが働かなくなる。 前回のHPで生産国5カ国として例を挙げたのだが、各国が20%というのはあくまで一つの例であって実際はそのようなことはないだろう。つまりいつもでこぼこがあるということだ。パレート最適とはひとつのモデルであって、実際はその前後をふらふらさまよっていることになる。 それでも市場のメカニズムが有効に働いていれば、常に近づくような動きになるだろう。時には近づく途中で止まってしまったり、あるいは行き過ぎてしまったりと。しかしそれに満足せず、政府が計画し、統制し、パレート最適を実現しようとすると、かつての社会主義国の悲劇になる。 そして資本主義の所得の不平等を正すべきだ、という正義論を持ち出すと、結局ジニ係数は下がるが、人民が平等に不自由になり、平等に貧しくなる社会になってしまう。それは個人の政治的、経済的自由を保証する功利的な制度とはかけ離れたのになる。
 ところでこのような関税率、国別に税率が違うのは最恵国条約に反することになる。いずれはこうした制度は廃止して関税率は一律にするのがいい。一律にしても供給が不安定になることはないだろうが、今は自由化反対の声が大きいのでこうした関税率を採用するのがいい。 日本の市場が開放されコメの貿易量が多くなれば、つまり世界のコメ市場の取扱量が多くなれば、このような特別な関税率を適応しなくても安心だということが理解されるであろう。
<ドンケル試案のアイディアを借用> 上記の関税率案では平成16年度から関税率を変えるになっているが、直ちに関税化すると混乱も多いだろうから、ドンケル試案のアイディアを借用しよう。初年度は500%の関税率。その次の年は 400%。その次の年は 300%.、一年ごとに100%ずつ下げていく。 そうして上記の関税率の適応は100%の関税率の次の年からになる。
<ノブレス・オブリージュ> 上記の関税率案では最低0%の関税率の国が出てくるが、新しい関税率の案ではすべての国に関税率を10%上乗せする。40%の国は50%に、35%の国は45%に、0%の国は10%に、そうしてこの10%の関税収入を国際連合に贈与する。 「世界には十分な食事をとれない人々がいる。この人々の食料のために使ってください。」または「日本国民が海外からコメを輸入したら、その代金の10%を国連に贈与しますので、発展途上国のさらなる発展のために使ってください」と言う趣旨だ。衣食足りて礼節を知る私たち日本国民 、そろそろノブレス・オブリージュということを意識し始めてもいいと思います。
( 2001年5月28日 TANAKA1942b )
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3 問題への取組姿勢
積極的な自由化への対策
 日本政府の方針は食糧自給率の向上なのだが、政府の願望とは逆に自給率は下がっていく。ではどのようにして自給率を上げていこうというのだろうか?単純に考えれば、1)農地の拡大。2)農業生産性の向上。 これしかないと考えるだが、これを具体化するにはどうするのか?農水省の方針は分からない。もしかしたら具体的な対策は考えていないのではないだろうか?と疑いたくなる。農水省のHPによると、日本国民の食糧を確保するには、「国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要。 このような私たちの食生活は、国内農地面積(491万ha(平成10年))とその約2.4倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。」 とある。では自給率向上と、今の農地の2.4倍の農地をどうやって確保するのか?との関係はどうなるのだろうか?農業生産性が今と変わらないとすれば、 自給率 100%にするには、食料消費量を3.4分の1にしなければならないのだ!  
 1993年12月15日、細川内閣当時のガット、ウルグアイ・ラウンド農業合意での方針転向以後の国の政策は外圧による政策変更というパターンを取っている。 政策担当者が政策変更の責任を外圧に取らせている。もしかしたら政治家も官僚も「自給率の低下は自然の成り行き」と考えているのではないだろうか?「農産物の自由化はWTOの方針でもあり、日本政府は自由貿易の必要性を十分理解しているので、これを押しとどめることはできない」 「しかし、今までコメは一粒たりとも輸入させない、と言ってきた立場上今更自由化、とは言えない」「政府の立場はあくまで自給率の向上とし、世界の流れ、外圧によって政策変更とするとすれば余計な摩擦を生じさせないだろう。」と考えているのかもしれない。 だとすると嫌々ながら農産物の国内市場開放が進み、嫌々ながら食糧自給率の低下が進む。もしそうならばここで「嫌々ながら」の方針を転換して、「積極的にこれを進めよう」と考えてはどうだろう?というのがTANAKA1942bの発想。 考えが行き詰まったら反対のことを考えてみる。そうすると思いもかけない解決策が思い浮かぶことがある。 このHPの「首都高速道路の料金は2000円に値上げを」はそれだ。「渋滞で 700円を払う価値はない。しかし値下げはできない」それならば逆に値上げしたらどうなるだろう?と考えると新しい解決方法が見つかる。「国民はメディアに操作されるか?」もそうだ。 草野教授が批判するTVのモーニングショー、「こうあるべきだ」と考えるから腹が立つので、視聴者というお客様・神様に制作者がおもねているいるのだ、と考えるとその評価が変わってくる。「TV制作者は視聴者に気に入られようとして、心にもない番組を作らなくてはならない。かわいそうに」となる。 「タイ米を買うことは、タイに迷惑か?」もそうだ。タイの生産者とタイ経済のことを考えると、決して迷惑ではない。そうしてもし、あの時点で日本国民がコメ自由化を決断していれば、東アジア通貨危機、タイとインドネシアはあれほどの危機にはならなかったのだろう。
 こういう考え方、結構へそ曲がりで無責任に思えるかもしれない。しかしTANAKA1942bは日本の農業発展に無責任な姿勢ではないと、自負してる。 それは「住専処理に税金投入は当然」を読んでいただければ分かってもらえると思う。 1996年3月、この文を発表した当時、日本のテレビ・新聞・雑誌などのマスコミは「住専処理に税金を使うな」との一大キャンペーン中だった。あのキャンペーンに参加したジャーナリスト・評論家・エコノミストは「農協の一つや二つ破綻してもいい」と考えていたのだろうか? 「金融不安より前に農業パニックが起きてもいい」と考えていたのだろうか?あの当時からマスメディア、マスインテリは読者・視聴者がお客様なので、この神様に気に入られる情報を提供しようとして、自分の政治的・経済的な基本的な立場を捨て去ったと考えるべきなのかもしれない。
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 TANAKA1942bは個人的な趣味でこのテーマに取り組んでいる。国の政策決定にはなんの影響力もない。だから思い切ったことが書けるのだろう。もし農水省でこんなテーマを掲げたら、それこそ閣内不一致で、田中外相の問題より強く追求されるに違いない。 だからと言って、不測の事態の研究を怠ってもいいはずはない。「もしも大地震が起きたら?」の研究をするのと同じように、「もしも外圧に屈してコメ自由化が決定されたら?」の研究も必要なのだ。「危機管理」とはカッコいい言葉だが、もしもの場合の対策を研究するのはつらいことだ。 「そうなったらイヤだ」と思いながらも、「そうなるだろう」との姿勢で臨まなければならない。それも自然災害の場合ならともかく、政策変更のような事案だと、「お前は本当はそうなることを望んでいるのだろう」とか「そのように政策変更するように働きかけているのだろう」と疑われそうだし。そのいい例がかつての「三ツ矢計画」だった。 (なにしろ日本は言霊の国なのだから)防衛庁が不測の事態に備えての有事立法を研究していたら、「防衛庁は戦争を想定して研究している。有事が起こることを望んでいるのだろう」との野党の批判を浴びた。コメ自由化についてもそのような恐れがあるかもしれない。 だったらば筆者のような政策決定に何の影響力のない人間が、個人的な趣味で考える、というのだピッタリなのだろう。それともどこかに、「その憎まれ役私が買って出よう」と名乗り出る人がいるのだろうか?
 細川内閣のガットでのコメ政策変更、マスコミで知る限り青天の霹靂だったと思うのだが、関係者のみなさんは予測済みだったのだろうか?そうして十分な対策も練られていたのだろうか?
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 TANAKA1942bの基本的立場は「コメは自由化すべきだ」だ。この考えに反対の人が多くいて、今は筆者の方が少数派であり、「敵を倒すには、敵の手の内を知るべきだ」との考えでこのHPを読む人が多くいるに違いない。 当然そういう考えで読んで頂いても結構。
このHPの返信欄にはこう書いてある。「お名前:カッコいいハンドルネームでどうぞ!これは趣味のHPです、堅苦しい職業・肩書き・社会的地位は抜きにしましょう」もしそうでないと「あなたはコメ作りの実状を知らないからそう言うのだ」「そう言うあなたこそ、我々サラリーマンが都会でどんなに高い家賃に苦しんでいるか分からないだろう」「大学という象牙の塔にこもっているから、そんな生活感のない無責任なことが言えるのだ」「自分には全国の情報が集まってくる。素人が裏付けのない曖昧なことは言うべきだはない」「それはらば、特別な情報を持たない素人は黙っていろと言うのか?」など、感情のぶつけ合いになる恐れがあるからだ。 そうして、「コメは自由化すべきだ」と考えていても、食糧庁の役人が実名で発言するには勇気がいるだろうし、同じように、自由化になったら儲けようと手ぐすね引いている商社の社員が、実名で「コメは自由化すべきではない」とは発言できないだろう。
 今ネットでは田中外相応援団ができている。一方で「外相には不適格なので解任すべきだ」との主張もある。では解任して後任には誰を推薦すると言うのだろうか?外相経験者なら改革を進めるはずがない。自分の過去の業績を否定することになるからだ。 「とにかく解任すればいい」は後のことを考えない、「何でも反対政党」と同じ態度で、「日本政府は独占資本とアメリカ帝国主義との傀儡政権である。このことを人民に訴えるためには過激な行動も辞さない。とのかく今の政府を倒すために団結しよう」と同じ発想に感じられる。 そして後のことを考えずにとにかく現状を壊すとどうなるか?豚のナポレオンを主人公にした小説「アニマル・ファーム」にその恐ろしさを予感するのは筆者だけなのだろうか?そして世界は自由貿易の方向に向かいながらも、「コメは自給すべき」との主張を繰り返し、その対策・将来のビジョンを示さないでいるのには、同じような無責任さ、不作為の責任を感じる。 それよりも、未熟で、不完全で、時には矛盾もあって厳しい批判を受けたとしても、それでもビジョンへのたたき台になる提案をする方がずっと建設的だと思うことにしてこのHPを続けているということを理解してもらえれば、それで十分。
( 2001年6月11日 TANAKA1942b )
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4 農水省事務方の苦悩
その悲痛なメッセージを代弁する
 農水省のHPに興味深い記載があったのでこれについて考えてみた。食料自給率の低下と食料安全保障の重要性
(1)変化した私たちの食生活  お米の消費が減る一方、畜産物や油脂など、大量の輸入農産物を必要とする品目の消費が増加してきました。その結果、食料自給率は一貫して低下し、40%(平成11年)となっています。」 との記述。主要穀物(コメ、小麦、大豆、トウモロコシ)の需給表を見ると、コメの消費量が毎年少しずつ減っていること、およびコメ以外の自給率の低さに気づく。 さらに(2)国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要  このような私たちの食生活は、国内農地面積(491万ha(平成10年))とその約2.4倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。」との記述もある。
(1)に関する数字を見ると、小麦、大豆、トウモロコシ、について自給自足は絶望的になる。
(2)に関しては、どのように理解していいのか迷う。農水省の方針「自給率アップ」ならば、自給率 100%にするためには、(A)国内農地面積を3.4倍にする。(B)生産性を3.4倍に、つまり単位あたりの収穫を3.4倍にすることなのだ。 (C)では消費量を3.4分の1にすればいいのか?毎日3回食事をする人が1日1食にすればいい、とでも言いたいのだろうか?
 自給自足を目標としながらも、それが絶望的であることを裏付ける記載をする。何故だろう?「自給率をあげよう」のかけ声に水を差すような文を載せるのは何故か? 農水省の担当者は何を考え、何を目的としてこの文を書いたのだろうか?ここでアマチュアエコノミストが素人探偵に変身する。担当者の立場に立って、担当者の気持ちになって考えてみよう。たった1つの真実見抜く、名探偵コナンが推理する。
 「国の方針は自給率アップ。しかし各種の資料を検討すれば、これが不可能なことは明白だ。ちょっと経済学の本を読んだ人なら、保護貿易が国民を貧乏にすることぐらい誰でも分かる。しかしそれを言っちゃあお終い。 農家・農協関係者・その人達の票で当選している議員・文化人・ジャーナリスト、これらの人たちが、「生活権を奪うのか?」「農家を守れ」「コメは日本の文化だ」「田圃が果たすダム効果を無視するのか?」「美しい日本の自然と文化を守れ」このように役所に圧力をかけてきたらどうしよう? 担当者としてのボクの立場が危ない。まだ役所を首にはなりたくない。養わなければならない家族もいるし、ローンも残っているし。ボクが本当のことを言うのはあまりにも機会費用が大きい。(この点についてはHP「接待汚職の経済学」を参照)でも真実を伝えるべきだ、との良心はある。 誰か分かってくれないだろうか?「自給自足は神話だ」ということを。立場上分かっても言えない人は多いだろう。ボクのような農水省職員・農協関係者・今まで「コメは日本の文化だ」といってきて今更転向できない文化人、今まで支持してくれた購読者を裏切れないジャーナリスト。
 でもこの広い日本、ボクのメッセージを理解して代弁してくれる、自由な立場の人はいると期待しよう。そんな人にこの数字・メッセージが伝えられればいい。 こうしたボクの気持ちと立場を分かって、ボクに代わって「自給自足は神話だ」と言ってください。そんなアマチュアエコノミストが出てくれることを願ってこの文章を書きます。」
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 農水省のお役人さん、本音はどうなのだろうか?
 ここでバーチャル・インタビュー。農水省のエリート官僚山下さんにご登場願って、軽く一杯やりながら本音のところを語って頂きましょう。
官僚「田中さんねぇ、田中さんのように田の中で稲の育つのを見るのが趣味の人はいいけれど、農村で食えないというのは,住んでいる人の数が多すぎるということなんですよ」
「だって考えてごらんなさい。田畑の面積は限られている。 つまり、生産力に限界があるんです。だから住んでいる人の数が多いと分け前が少なくなる。したがって、農村では生活できないんですよ」
「ですから、農村の人たちは半分、都会へ出ていらっしゃい。これから都市周辺の農地をどんどん転用して住宅建設をすすめますから、そこへ移っていらっしゃい。 そうすると、農村に残った人たちも生きていけるんです」
田中「何をいうんですか、村の人間は半分、都会に出てこいというけれど、若い者ばかり出ていってしまって年寄りだけげ残されているのが農村の現実じゃないですか。残って者のパイは大きくなりませんよ」
官僚「あのね、われわれ国の仕事というのは、国民をまんべんなく豊かにすることであって、なにも住みにくい農村に人を住まわせることじゃないんですよ。住みにくいところに無理に住まなくてもいいんです」
官僚「コメの自由化結構じゃないですか」
「日本のコメ市場が自由になれば、日本向けのおいしいコメづくりのオリンピックが始まりますよ」
田中「そんなことしたら、10年後には、日本の食料自給率はカロリーベースで3割をきりますよ。穀物だけだと1割台まで落ちる。本当に農業のない国になりなすよ」
官僚「食料自給率が3割を切ってはいけないという根拠は、何ですか?」
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 このような推理はどうだろうか?
 児童のいじめによる自殺が社会問題になっている。事件後の学校側の発表で「いじめはなかったと思う」とのコメントが多い。ふだんから「うちの学校にはいじめはありません」と校長が言っていれば、「そんなの嘘だよ。ボクはいじめられているんだよ。あいつらをしかってよ」とは言いにくい。 それを言える勇気があればいじめられることもない。でも何らかのメッセージを発しているケースが多いはずだ。それを家族や教師など周りの大人が察してあげなければかわいそうだ。児童に向かって「自己責任」を押しつけられるほど、日本の社会は自己責任の確立した社会ではないようだからだ。
 農水省のお役人さんには失礼かもしれないが、いじめのケースと同じように考えるべきだと思う。生活を賭けてまで道理を通せとは言えない。ここは一般国民が気持ちを察してあげるべきだと思う。 もう「自給自足」とか「コメは一粒も入れない」とか「自分の食い分は自分で手当しよう」といった「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ。
 それにしても農水省のお役人さん、他の部署の人も元気ないなー。いくら族議員の力が強いと言っても、たかが「ネギ族議員」「椎茸族議員」「い草族議員」なんかの圧力に負けちゃって。「コメ族議員」に比べれば取るに足りない力でしょうに。 コメ問題、自給自足問題、で頭がいっぱいになっちゃって、自由貿易がどんなに国民を豊かにするか、保護貿易がどんなに不安な国際関係を生み出すか1930年代の世界恐慌,ABCDラインから大東亜共栄圏に突っ走った歴史、それを忘れるなんてどうかしてますねー。それに比べて外務省のお役人さんのすごいエネルギー。 「外務大臣と差し違えるのも覚悟の上」との気迫が感じられる。これだけのエネルギー、各省庁の事務方が発揮したら規制緩和・行政改革・財政再建・不良債権処理・構造改革など一気に進むと期待できるのだが、残念。
 もっとも誤解のないように言っておくとTANAKA1942bは田中外相応援団派です。
( 2001年7月2日 TANAKA1942b )
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5 自給自足の神話
それは文明発祥と同時に神話になった
 「自分達の食い分は最低限自分達で確保すること」「外交交渉に利用される恐れがあるので、食糧を他国に頼ってはいけない。」「日本古来からのよき食文化は守るべきなので、食糧は自給すべきだ」 このような「自給自足の神話」がかなり信じられているようなので、これらが神話であることを証明するのがこの文の目的である。
 まず、食料を自給自足している日本人はいないことに注目しよう。コメ、小麦、そば、キャベツ、長ネギ、椎茸、大豆、オレンジ、サンマ、鯖、エビ、牛肉、豚肉、鶏肉、塩これらすべてを自給自足している日本人はいない。 小さな集団、小さな自治体、都道府県、そして日本国全体、どの単位を取っても食料を自給してはいないのだ。 強いて言えば、「地球単位で言えば自給している」あるいは、ごく一部の発展途上国に、閉鎖的な少数民族の集団があるかもしれない位だ。個人として自給自足しているのは小説上のロビンソンクルーソーとフライデーくらいだろう。
 「東京都民はコメを自給すべきだ」という公約で都知事が当選したらどうなるだろうか?当選するかどうかは読めないが、「自分達の食い分は最低限自分達で確保すること」と信じている有権者は多いようだから、案外立候補者は出るかもしれない。 都知事の公約を実行するには、東京都の行政単位「区」と「市」に「食糧自給委員会」を設置する。委員会はそれぞれの区で 100%自給を目指す計画を立てる。収穫時期になって 100%が達成できなかったら、東京都の他の区か市から買うことができる。 ただし他府県からはダメ。従って余剰生産で自治体の利益を出してもかまわない。そうすればその区の住民の地方税が安くなる。委員会の下に地方公務員が実際の稲作運営を進める。ボランティアや児童、学生、PTA、それにサラリーマンも一時的に作業に参加する。 計画時点では積極的な賛成者はあまり多くはないが、宣伝が行き届くにつれて参加者は多くなる。 「自分の食べる物は自分で作ろう。これが自己責任だ」「誰が作ったか分からない食材よりも、自分たちで作った食品が一番安心だ。作った人の顔が見える食料を食べよう」「人任せの食べ物は信頼できない」「一粒のコメも大切にしよう」「贅沢は敵だ」「都会の人間関係は冷たい。 コメ作りを通じて価値観を共有できる共同体をつくろう」 「東京でも「地産地消」を広めましょう」等、多くのスローガンが町に溢れる。 批判は出なかった。反対者は何も言わずに静かに東京を去って行ったのだった。
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 さてこのように東京都でコメを自給するようになると、どのような変化が起こるだろうか?
 まず、東京中のコメ屋が廃業し、スーパーからコメ売場が消える。東京都民がコメを買わなくなると、他県のコメ作り農家の収入が激減し、生活が苦しくなる。産業としてのコメ作りがなくなり、儲からないから品種改良や技術革新への投資が行われない。「コメ作りは日本の貴重な伝統文化だ」と元気に言う人がいなくなる。「自分の食糧は他人が作った物を金で買うのではなく、自分で手当すべきだ」と言うより「いくら金があっても商品としてのコメがないので、自分で手当しなければ、ひもじい思いをすることになる」となる。
 東京が経済の中心でなくなり、実質的に地方の時代となる。経済成長は止まるが、デフレで物価が安くなるので国民から非難の声は挙がらない。国民すべてが平等に貧しくなり、統計上もジニ係数は低下するのでエコノミストのなかにも「国民の所得格差が縮まった。とてもいいことだ」と支持する声も挙がってくる。一度お蔵入りした「くたばれGNP!」に流行語大賞が贈られ、「スモール・イズ・ビューティフル」も候補に挙がる。省エネが叫ばれ多くの迷案が出た。「深夜は一般家庭には送電ストップすべきだ」との提案は、全日本ローソク製造業組合からだった。選挙でどの政党が政権を取っても、NGO,NPO、市民運動、住民運動、自然保護運動家の主張が尊重され、「東京都民はコメを自給すべきだ」の政策は続行されることになる。
 東京都に住み税金を払っていれば、家族に必要なだけのコメが支給される。外で食事をするときは外食券食堂を利用すれば良かった。これで問題は解決するはずだったが、その外食券食堂のコメをどうするか?が問題になった。これには都知事も困った、あくまでも自給自足に徹すべきか?それとも外食に関しては他県米を認めるか?都民を納得させる政策が見つからない。そうこうするうちにヤミ米が摘発された。少しくらいなら、と目をつむっていた検察も、目に余るヤミ米についに動き出した。「食糧自給委員会」も動き出す。東京の地方テレビMXTVも「反ヤミ米キャンペーン」に乗り出した。 それまではコメの配給状況を毎日報じていたが、キャンペーンが始まるとさらに詳しく報道し、繁華街には多くのテレスコープを設置し、時には一週間ぶっ通しで「反ヤミ米キャンペーン」を放送するようになった。放送が始まると「憎悪週間が始まった」と言う人もあった。「検挙された者は、三角帽子をかぶせ町中を引き回せ。」との提案もあったが、これは採用されなかった。
 違反者が出ないようにと、農作業の始業時に大声で誓いを唱和するようになった。「われら東京都民は自分達の主食であるコメを自給することを誓います」この時全員赤いネクタイをすることになっていた。そしてこの誓いを「われら」と呼ぶようになった。こうした中で都知事は忙しくタフに仕事をこなしていた。睡眠時間は3時間だ、との噂も流れた。このため都知事のニックネームは「ナポレオン」となり、若い人は「ナポレ」と略して言った。識者はこうした言い方を「ニュースピーク」と名付けた。市民運動が活発になり、幼稚園の片隅から始まった運動が全国展開したり、本郷の「自主講座・公害原論」では沖縄からの講師の話に学生・市民が耳を傾けていた。
 東京の産業構造は少し変わり始めた。製造業、情報産業などが元気なくなり、代わりに観光業が伸び始めた。武蔵野台地で蓄えられた豊かな地下水が湧き出るところ、洗足池、井の頭池、三宝寺池、豊島園、六義園、三四郎池、不忍池、こうした所が観光地として賑わい、新たな東京の産業として注目を集めている。
 もう少し東京の変化を見てみよう。都内各地で田圃が開墾される。新宿区では歌舞伎町の一角にも田圃が出現し、コマ劇場も今はその跡形もない。戦後間もないとき新宿駅からビルもなく、そこにあったなにやら恐竜のモニュメントのような見せ物が見通せたときのような光景になる。当然近くの大久保小学校、大久保中学校の校庭の一部は田圃になっている。それでも年に2回、銀座とともに学生で賑わう風習は失われてなかった。観光地でさえコメ作りに参加する。三宝寺池から上石神井駅までの一帯は若い稲が成長し豊かな実りを予感させる。その地域の学校では生物の授業時間に、周辺地域の動植物の観察だけでなく、稲穂作りに参加する。生徒はそれを誇りに通学する。 東京の中心部から少し離れたところ、方位で言うと北西部に、この町はあった。生命あるものはみな、自然と一つだった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘が盛り上がり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、みどりの野原のかなたに、白い花のかすみがたなびき、秋になれば、かしやかえでや樺が燃えるような紅葉のあやを織りなし、松のみどりに映えて目にいたい。 春は沈黙していなかった。
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 それでは「自分達の食い分は最低限自分たちで確保すること」が神話になったのは一体いつの頃からなのだろうか?そうして何故神話になったのだろうか?
 人類が食糧の増産技術を手に入れ、自分が必要とする以上の食糧を生産するようになると、食糧を生産しない人間が現れた。彼らは食糧を生産する代わりに、生活用品、生産道具、美術工芸品、まつりごとに関する物、等を作り、食糧と交換する場所へ持ち寄った。その取引場所が市場となり、都市になり、文明が発祥した。さらにその都市で必要とされる物以上が生産されると、都市同士の取引が行われるようになりそれらのいくつかの都市が結びつき国家が生まれた。初めのうち必要な物を入手する方法として「贈与」「略奪」が多かったが、やがて市場での「交換」が主流になる。それは「取引費用」の安さに気づいたからだろう。20世紀になってアメリカで論文が発表されるよりずっと以前に、人類は「交換の正義」「取引費用」の大切さに気付いていたのだ。
 このように自分が必要とする食糧を、自分で作らない人が現れたとき、人類の文明が発祥したのだ。人類の多くが自分では食糧を作らなくなり、それでもまだ類人猿に近かった頃、部族のみんなで食糧を探し求め、みんなで分け合った頃の記憶がDNAの記憶素子に組み込まれていて、時々そのファイルが開かれて懐かしく思うときがある。精神的なショックや、ストレスがたまり自我を押し潰そうとしたときにファイルが開いてしまうようだ。まだ神話になる前の時代、その頃人類は食糧を求めることだけに神経を使っていればよかった。天災や病気は人間の想像を超えた存在、「神」の意志であって、悩み考えてもどうしようもないことだったので、ストレスがたまることもなく、精神的には豊かな生活をしていた。その頃の懐かしさが高まって、「自分達の食い分は最低限自分たちで確保すること」と遺伝子が言わせているのだ。という説はいかがでしょうか?
 アマチュアだからこのような乱暴な、反証不可能な仮説が立てられるのであって、専門家はこのような遊びはできない。(カール・ポパーに叱られる)「これこそアマチュアの特権なのだ」ということで、みなさんにアマチュアエコノミストをおすすめする次第なのであります。(これでやっと、タイトル通り「アマチュアエコノミストのおすすめ」ができます。ただし、「自給自足は神話」は経済学の常識であり、「経済学の神話」にはいずれ力を蓄えてから挑戦します。)
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 除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べ、行く年来る年に思いをはせる日本の文化、中国産のそばとカナダや東南アジアのえびの代わりに、国産品を使ったら、とても価格の高い物になって、いずれこのよき習慣は廃れていくだろう。平賀源内が宣伝して日本の食習慣として定着した、土用のウナギ。ウナギを日本で自給するとなったら、庶民の味ではなくなる。戦後日本人の食生活は動物性タンパクの洋食に変わりつつあるとのことだが、それでも納豆・豆腐・味噌・醤油はガンバっている。それも国内消費量のほぼ 100%を外国の安い大豆に頼っているからで、これも国産だけにしたら、庶民の食卓から消えるのは間違いない。経営的には大変苦しいと言われる日本の酪農、それでもアメリカから安いトウモロコシやグレーンソルガムを輸入することによってやっていけるのであって、「飼料も国産を使え」となったら廃業続出間違いない(国内消費量の95%が輸入品)。ビールは原料に国産品を使わなくてもいいとなったら、もっと安くなる。
 食糧ではないが、日本の得意技術金型。この技術と製品の輸出を制限したら、世界中の加工業者が悲鳴を上げる。そして日本の金型技術は需要が少ないから衰退し、職人の腕が鈍り、得意産業ではなくなる。ブッシュ政権が主要同盟国に理解を求め推進しようとしているMD、多くの電子部品を必要とし、その中でも主要なDRAM。その生産は日本企業4社と韓国企業1社で全世界の半分以上を生産している。1995年1月17日の阪神大地震、その直後に、ある日本の家電メーカーに世界中から電話とファックスが入った。「工場の被害はどうか?」「生産は続けられるのか?」なにしろこのメーカー1社だけで世界の大半の液晶ディスプレイを生産しているのだから、この工場が生産停止となれば世界のPCメーカーの生産に影響が出る。PC以外でも影響が出て、ハイテク産業全体に影響が出たかもしれない。
 超微粒子研磨剤というものがある。半導体のシリコン・ウェファーを磨く粉で、その一番細かいものは、横浜にある企業で世界の9割が作られていて、もし横浜に大地震が起きこの工場が操業不能になると大変なことになる。かつてベトナム戦争の頃アメリカ軍がTV爆弾を使い、これにソニーのTVが使われているのではないか?とニュースになったことがある。アメリカ政府は否定し、それ以上真相究明はなされなかった。
 東芝の子会社がソ連に工作機器を輸出した。これがココム輸出禁止製品にあたり、ソ連はこの工作機器を使い原子力潜水艦のスクリューを製造し、その工作機器によって作られたものは音が静かで潜水艦探知機に引っかかりにくいとのことだった。つまり「ソ連の原潜は日本製の工作機器によって作られたので性能がいい」と言えるのだ。これには後日談があって、子会社の不始末を親会社の東芝社長が記者会見で謝っていた。東芝の子会社は未成年者が多く、親会社の社長が後見人として保護しなければならない会社なのかもしれない。
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 さて、こうしたことを書き出したのは、こうしたハイテク安保に比べれば、食糧安保も、自衛隊の問題も、それほど深刻に悩むほどの問題ではなく、多少利権が絡み政官業のトライアングルが知恵を絞り、腕を振るうにしても、いずれはしかるべき落とし所に落ち着くだろう、と言えるからだ。しかしハイテク安保はそうではない。ノーベル賞はノーベルが発明したダイナマイトの特許、その使用料によって運営されている。しかし日本の中には「人類共通の財産とすべき発明には特許を与えるべきではない。」との主張がある。「遺伝子科学を応用した発明は人類共通の財産とすべきで、民間企業1社が独占するのはよくない。」だ。そして「特許を取らず、オープン・ソース、ネット上での無料公開。このLynaxこそ新しい時代の科学技術のあり方だ」と言うことになる。「遺伝子銃を使った組み替え食品は1社で独占するな」と言う主張も出るだろう。 こうした主張が大勢を占めるようになると、「どうせ発明しても、他の企業が無料で使うなら研究開発費を投資しても回収できないからやめよう」となり、進歩は停止する。企業は「特許を取って儲けよう」「そのためにこそ投資しよう」と考え、金融機関・投資家は資金が回収できそうだと判断して投資する。この資本主義のマネー・ゲームのルールを変えたら、経済成長はない。世界中が「東京都民はコメを自給すべきだ」の社会になる。
 つまり常に最先端のハイテク技術は民間企業1社に独占されているという状況になりやすいわけだ。こうした市場経済のルールを変えることはできないが、それだけにこうしたマネー・ゲームを批判する人は後を絶たないだろう。何しろ「核兵器を廃絶しよう」「環境破壊を防ぐために資源・エネルギーの無駄使いはやめよう」「自分達の食い分は最低限自分達で確保しよう」のようにいつまでも達成できない目標なので、いつまでも同じスローガンを唱えていられるからだ。
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 TANAKA1942bのネット上でのシリーズ、コメ自由化への試案、日本の安全保障、「すべての人が不満を持ちながらも、この程度なら諦めよう」と言う妥協点が見つけられる。コメの場合は、産地と流通経路を多くすることによって、リスクを分散できる。しかしハイテク安保はそうはいかない。研究開発の成果を1社で独占できるから投資するのであって、これを認めないと技術は進歩しない。そして1社での独占を認めるからこそ、その1社に不測の事態が起きたらどうなるか?の不安がつきまとう。このように現代は常に不安な状態で科学技術が進歩して行くことになる。
 「自分達の食い分は最低限自分達で確保していた」頃の人類 が経験したことのない、将来に対する不安を抱えながら、現代人は生きていかなければならないのだ。
 このようなアマチュアにしかできない、誇大妄想教のような話に迷い込んだとしても、自由貿易は発展させなければならない。「自分達の食い分は最低限自分達で確保しよう」との発想から生まれる保護貿易がどのような結果を招くか?1920年代、世界の先進国が保護貿易に走り1929年10月(暗黒の木曜日)、NYウォール・ストリートの株価暴落に端を発した世界恐慌、そして後発植民地主義国=大日本帝国の首根っこを押さえようとして仕組まれたABCDラインと、これに対抗して考えられた大東亜共栄圏で「自分達の食い分は最低限自分達で確保しよう」とした「最終戦争論」からはずれたあの無謀な戦争。この教訓は先進諸国の政策担当者ならすべて心得ている。たとえ一部の圧力団体の機嫌をとるために、長ネギ・椎茸で間違いを犯しても、それ以上のことは過ちは犯さないだろう。
 大東亜戦争について言えばこうなる。自給自足にはその範囲が広ければ広いほど可能性が高い。大久保さん一家より、大久保2丁目より、新宿区より、東京都より、日本国より、それに加えて、朝鮮半島、満州国、大東亜共栄圏、それも広ければ広いほどいい、となって侵略地を広げていったのだ。当時の選択肢は(1)自由貿易か?(2)自給自足地拡大か?の二者択一でしかなかった。しかも先進諸国は「自給自足の神話」の見えざる手に導かれて、保護貿易への道を走りだしていた。遅れて先進国の仲間に入った大日本帝国がこの流れを止めることはできなかった。むしろ一緒になって「自給自足」を促進せざるを得なかった。
 国を挙げて「自給自足の神話」を守ろうとした例は他にもある。スターリン指導のネップ(新経済政策)・ソホーズ・コルホーズ、毛沢東指導の大躍進・文化大革命・人民公社、エンベル・ホジャ指導のアルバニア、ポルポト指導のカンボジア、そして・・・
 そしてこれらの悲惨な状況は当時外部に正しく報道されてなかった。1930年代ヨーロッパのマス・インテリは、ソ連の悲惨な状況を知り得たであろう著名な文化人もNEPを礼賛する発言をしていたし、日本でも文革当時の報道はジャーナリストも文化人も四人組の宣伝係りに嬉々としていた。そして「地上の楽園」。これらに共通のキーワードは「平等」と「自給自足」であった。(一国社会主義、自力更正など)「自給自足の神話」を国家公認のイデオロギーとするとどんなことになるか?これらの悲惨な結果を見れば明らかである。その教訓を生かすためにガットが、そしてその発展的機構、WTOが機能している。先進諸国があのような過ちを繰り返すことはもうないであろう。
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 食糧安保の視点から「日本人の主食であるコメを輸入に頼るのは良くない」とか「食料自給率が下がっている、自給率を上げるように努力すべきだ」との主張がある。しかし「食糧安保」の視点から言えばこの2つの主張は正解ではない。正解は「産地や流通経路を多くすること」。これはTANAKA1942bが主張しているメッセージで、「住専処理に税金投入は当然」では次のように主張した。「幸い日本の食糧自給率は37%と低いので、消費者への影響は少ないかもしれない。農家が団地などでの産地直売、生協や市民団体の共同購入、大手スーパーの農家からの直接仕入れ等農協を通さないルート、それに輸入品等、産地や流通経路の多さが安定供給を保証する。食糧の安定供給のポイントは、自給率を上げることではなく、産地や流通経路を多くすることなのです。」このシリーズ=その1=では「では食糧の安定供給のためにはどうすればいいのか?結論==「世界各地から輸入し、供給地・輸送ルートを多くすること」言い換えると「安定供給のためには、自給率を下げること」なのである。 この考えは変わらない。 この考えからすると、「自給自足の神話」に拘るのは、スローガンに酔っていて問題の本質をみてないのか?あるいは自分の利益を守ることと国民の利益とを一緒にしている,公私混同だとみる。危機管理に徹すれば問題点は別にある。
 農水省HPその他多くのHPで確認できる、主要穀物の輸入量。これらの輸入率を見てもらおう。輸入量/需要量。小麦88%、大豆 100%、トウモロコシ99%、塩85%、砂糖64%。さらに、アメリカからの輸入量/需要量。小麦61%、大豆74%、トウモロコシ96%。これは誰でもアクセスできる数字。「自給自足の神話」を信じている諸氏がなぜ問題にしないのか?たった一つの真実見抜く、名探偵コナンの推理は「農水省事務方の苦悩」で明らかにした。
 本題はこれから。アメリカ政府がこれら3品目の日本への輸出規制を提案したらどうなるだろう?危機管理の担当者は当然研究していなければならない。対策は?日本政府はどのように対処すればいいのか?消費者は?消費者は高くても買うだろうから、日本の農家はこの時とばかり増産するのか?「お前はそれを願っているのだろう」とか「そんなことを言うと、アメリカは本当にそうするかもしれないから、黙っていた方がいい」とは「言霊信者」の発言になり、政治経済問題ではなくて、宗教問題になってしまう。では政治経済問題としては、どのような対策が必要なのだろうか?アマチュアエコノミストTANAKA1942bの考えはこうなる。「対策案は考える必要なし」「演習問題としてはおもしろいテーマだ」となる。そこでこれを1つの演習問題として取り上げてみよう。
 「日本はアメリカへの乗用車の輸出を数量規制すべきだ。さもなければわが国は小麦、大豆、トウモロコシの輸出を規制する」と要求してきたら?しばらく様子を見ることだ。しばらくすると、アメリカでの日本車が値上がりし、アメリカのディーラーが売り上げ不振から政府に文句を言い始める。しばらくすると小麦、大豆、トウモロコシの生産者も地元の議員に働きかける。「輸出規制をしたら代わりに政府が買ってくれるのか?そうでなかったら輸出規制はやめてほしい。さもなければ、今度の選挙で違う候補者を応援するから」と圧力をかける。市場経済では消費者が神様、民主制度では有権者が神様、この点は日本もアメリカも同じ。という訳でアメリカ政府は交渉では日本に対し強硬であっても、規制はできない。そしてその決定はアメリカ経済にとっても正解なのだ。アメリカは日本より、食料、エネルギーなどの自給率が高い。しかし世界経済のリーダーたるプライドがある以上、自由貿易の仕組みは壊せないのだ。
 農作物3品に関して心配ない、との考えはTANAKA1942bの見通し。しかし「コメを輸入に頼ると、外交交渉に利用される」との懸念を持つならば、こちらの方こそ心配すべきだ。コメは自由化されてもアメリカ一辺倒ではなく、オーストラリア、タイ、中国も日本への売り込みを図るだろうし、さらにその他の国の中からも売り込みがあるだろうからだ。(これに関しては=その1=を参照。)つまり「尊農攘夷論者」は「食糧安保」ということについては、「真剣に考えてはいないな」と思えてくる。答えの出しにくい順から言えば、「ハイテク安保」「軍事面での安保」「農産物3品安保」の順になるのだろう。
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 食糧安保・ハイテク安保という言葉を使った。問題を正確に理解するには言葉を少し変えてみる。どういうことか?コメ安保、小麦安保、大豆安保、トウモロコシ安保、ネギ安保、椎茸安保、い草安保、塩安保、液晶ディスプレイ安保、超微粒子研磨剤安保、テポドン安保、日本海不審船安保、尖閣諸島海域外国漁船安保・・・さらに細かく分類してみよう。93年のように日本産のコメが不作の場合の安保、自由化して輸出国が共同で輸出規制する場合の安保、アメリカ政府がコメ市場開放を求めて強硬姿勢の場合の安保。「食糧安保」と呼ばれているのは「コメ自由化して輸出国が共同で輸出規制する場合の安保」だけだ。大きなタイトルのようだが、実際はその一部しか考えていない。日本産が不作の場合の他国への協力要請はどうなのか?小麦は?トウモロコシの場合日本の畜産業への安保は?「コメは一粒も入れない」のための安保しか研究されないのか?
 「自給自足」を考えるとき、単位地域をどうするか?によって評価は違ってくる。東京都、新宿区、大久保町、大久保2丁目町内、大久保さん一家、あるいは首都圏、関東地方、本州、日本国、大東亜共栄圏、東アジア地区、ASEAN諸国、地球の北半球、地球。地球単位で言えば自給していると言えるのだろう。たとえ地球外の太陽エネルギーを利用しているとしてもだ。
 自給率の基準範囲は日本列島だけなのか?それならばある地域ではコメを作るが、ある地域では全く食料を生産しない人がいてもいいのか?大久保さん一家が自給してなくても、新宿区で自給していればいいのか?新宿区で自給してなくても東京都で自給していればいいのか?東京都で自給してなくても日本列島で自給していればいいのか?それなら日本列島で自給してなくても大東亜共栄圏で自給していればいいだろう。それができなくてもアジアで自給できればいいだろう。それも無理なら地球で自給できればいいだろう。それなら「自分達の食い分は最低限自分達で確保すること」の趣旨に反する。「自分達」とは日本列島の住民のことなのか?それならば朝鮮半島、満州国、大東亜共栄圏はどのように考えたらいいのか?
 「自分達の食い分は最低限自分達で確保すること」とのスローガンは信仰宗教に近い精神的な目標と考えるがいい。具体的な政策にしようとすると、「食料」の具体的な品目、「自給」の地域など煮詰め始めると先へ進めなくなる。一人ひとりの心の中にしまっておく、精神的な目標、あるいは「信仰宗教」と理解するのがいいのだろう。
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 「自分はしてないが、自給自足をすべきだ」と言う人と「自分は自給自足している。他の人もそうすべきだ。」と言う人がいるだろう。少なくとも「自分達の食い分は自分達で確保している」と自負する人はいるだろう。しかし残念ながらそれははずれ。自給しているのは「食い分のうちのコメだけ」「食い分のうちの野菜だけ」「肉だけ」。納豆・豆腐・味噌・醤油・パンそして塩。これらの原料は輸入に頼っているのだ。自給を目標にするには絶望的な量を輸入に頼っている。誇りを持って食料を生産している方々にも、この点少し意識して頂くとして、もう一つあまり意識していないだろうことを一つ。「消費者・お客様は神様だ」ということ。メーカー、生産者が新しい商品を開発し、宣伝広告し、消費者に売り込みを図る。それは知恵を絞り、金をかけた戦略=すさまじいサバイバル・ストラテジーだ。テレビ、新聞、雑誌,街頭での宣伝は激しい生き残りを賭けたもので、「メディアはイメージ操作している」と非難する人も出るくらいのものだ。 確かに企業イメージアップと商品を買ってもらうためには、ありとあらゆる手を尽くす。好感度タレントを起用し、商品の優れた面を強調し、マイナスイメージにつながることはさけ、商品名を連呼し覚えさす。確かにイメージ操作していると非難したくなる人が出るかもしれない。それでも神様がプイと横を向いてしまったら、作戦を変えなければならない。神様はなぜ気に入らないかも教えてくれない。その研究も大切な仕事の一つになる。ちょうど選挙で「なぜその人に投票したのか?」と言う必要がないので、どのようにしたら自分に多く投票させられるか?を研究するのと同じなのだ。
 なぜコメの消費量が減っているのか?「我が社の主力商品の売り上げが伸び悩んでいる、何故だろう?」となると全社上げての対策が検討される。この疑問に答えられなければ会社の売り上げは鈍り、社員のボーナスは期待できず、放っておけば倒産の危険性さえある。いくつかの対策が打たれるに違いない。有効な対策が見つかるまで試行錯誤が続くだろう。その時つくづく思うに違いない「お客様・神様に気に入られるのは大変なことだ」と。それは大企業でも・中小企業でも同じ。製造業でも、情報産業でも同じ。テレビで言えば視聴者が神様。視聴率が下がったら、視聴者に気に入られるように内容を変えていく。その時「視聴者は現状を正確に把握していない。この番組を見て理解すべきだ」などと説教しても始まらない。その姿勢とは「我々情報提供側=サプライ・サイドは一般国民より賢くて、善悪・損得の判断ができるが、多くの国民はその能力に欠ける」と思い上った考えだ、ということになる。
 パン業界も、インスタント食品の業界も、調味料も、ソフトドリンクも、業界内でのシェア争いと他業界との競争に力を注いでいる。そうして売り上げを伸ばしている。それは神様に気に入られるための努力なのだ。それに比べてコメはどうだろうか?
 食管法の下、お客様は政府・議員だった。議員に働きかけ、議員を説得し、議員を動かし、政府に圧力をかければそれで良かった。消費者は神様ではなかった。地元議員に働きかけ、政府に消費者を説得してもらえば良かった。あるいは政府に代わって、政府の言葉として消費者を説得しても良かった。日本の食糧政策はどうあるべきか?政府とサプライサイドで決定し、消費者を納得させれば良かった。資本主義経済では珍しいケースだった。しかしそれに慣れ親しんだ人たちは異常とは思わなかった。実は旧社会主義国での食糧政策はこのようであった。そしてサプライサイドの近くにいて、この人たちを応援していたグループに社会主義に共感を覚える人たち・隠れコミュニストがいて、この人たちは「お客様は神様」ということを理解しないか、あるいは反感を持っていた。このためサプライサイドは未だに「お客様は神様」に気づいていない。
 神様は結構冷たい。「コメは日本の文化だ」と言われれば、なにも反論せず頷いて、それでいて反対の行動をとることがある。それも理由を言わずにだ。神様を非難するのはたやすい。ただし、神様に嫌われ、コメ離れを覚悟してならいいだろう。これが資本主義経済・市場経済で、政治の世界の民主制度・デモクラシーも神様の態度は同じだ。従って日本ではほとんどの政治家、企業、生産者、商売人は神様を大切にする。メディアでさえ経営を考えているポストはそうだ。
 個人がどのような信念で生きるか?これは自由だ。しかしその個人の生き方と社会のあり方は必ずしも一致しない。一人ひとりの人間にとって真理であることが社会全体にとって真理でない場合がある。「自給自足の神話」は人類の文明が発祥した時から、個人にとって真理でも、社会にとって真理ではなくなってしまったのだ。そして「自給自足」を神話としたことによって、人類の文明はさらに発展し続ける。ハイテク技術の「進歩」と「安保」のトレードオフの不安を抱えながらも、この進行を止めることはできないのだ。
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 日本で「自分は、自分の食い分を確保している」と胸を張って言う人も実は自分の食い分の一部だけを確保しているにすぎない。では残りの分は誰が確保しているのだろうか?「ハイテク産業に従事している人たちが、残りの食い分を確保している」それは小麦の88%、大豆の 100%、塩の85%になる。日本国民の食糧の多くは、意外なことに農家ではなく、ハイテク産業が確保しているのだ。ハイテク産業が稼ぎ出す外貨=ドル。アメリカやその他の外国にあったドルが、ハイテク産業の輸出と同時に、日本にきて為替業者・金融業者・貿易商社の手を経て、もう一度アメリカその他の外国へ行くことにより、小麦・大豆・塩などが日本に入ってきて消費者の手元へ届けられるのだ。(実際はコルレス契約があるので、現金は動かさず情報のやり取りだけで処理する。)日本の食糧自給率が40%程度ということは、残りの60%は農家以外の業者が確保していることになる。 人類が自分達が必要とする以上の食糧を生産するようになってから、その生産性は向上し、日本では必要量の60%を食糧以外の商品で確保するだけの高い生産性を確保している、とも言えるのだ。ここは一つ食糧の60%を手当しているハイテク産業に感謝しなければならないのだろう。 そして動物性タンパクの摂取量が増えているのだから、牛・豚・鶏を殺してくれた人(かつては士農工商の他の階級だった人)にも感謝しなければならない。
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 ところで「東京都民はコメを自給すべきだ」の公約で当選した都知事、再選は果たしたが三選はできなかった。他県のコメ作り農家が動いたからだ。東京がコメを自給し始めたため、いくら減反しても追いつかなくなり「都民にはコメ作りはやめてもらって、わたしらの作ったコメを買ってもらおう」と動き出したからだ。スローガンを受け入れ、「われら」を唱和していた東京都民は都知事選挙で「神様」の力を発揮した。さてそうなると東京はどうなるだろうか?元の東京になる。ということは?「自分達の食い分は最低限自分達で確保しよう」とする人が少なくなる。(全滅ではない)その分他県のコメ作りが盛んになる。東京では製造業と、それ以上にサービス業が盛んになる。一部のマネーゲームの勝利者が高額所得者名簿に名を連ね、その他大勢が後に続き少しづつ豊かになる。 高額所得者は自分の財産を有効に使おうとする。社会福祉に寄付したり、音楽・スポーツ・美術・工芸等のイベントに協賛したり、松方コレクションや大原美術館に匹敵するものを目指す計画も生まれる。下町だけでなく山の手でも「連」が開催される。 「金を儲けて、それを使うのが趣味だ」と言っても非難されなくなった。「趣味の経済学」だけでなく「趣味の金儲け」も市民権を得たようだ。経済成長に伴い税制が改革される。「累進課税をフラットに近づけ、法人税・相続税を軽減し、消費税を10%にし9%を歳入に、1%は国連に贈与する」という法案が可決される。教育バウチャー、負の取得税、コミュニティー・チャージは前向きに検討する、ということで継続審議になった。
 猥雑な都市、マネーゲームの競技場としてのTOKIOが戻ってきた。有閑階級の恋愛沙汰や贅沢三昧がTVのモーニング・ショーの話題を独占する。一部の知識人が苦虫を噛みしめたような顔で批判する「マスメディアは国民を政治的アパシーになるように、イメージ操作している」と。そんな批判をものともせず、情報消費者・神様のご機嫌を取ろうと猥雑な情報をせっせと販売する。都民は情報産業に「正義の味方」を期待せず、販売される情報を消費し、それを楽しむ。
 主要な盛り場では怪しげな商売が目立ち始めた。若者相手のキャッチセールス、新しいタイプの出会いサイト、高利の町金融、昔からあるピンク産業、夜の蝶とそれを追う殿方のための各種商売、どんな効果があるのか飲んでみなければ分からないドラッグ、一時自粛していたノーパンしゃぶしゃぶ、およそ日本に今まであった怪しげな商売がこの都市に集中し、表に出しにくい札束が飛び交っていた。時には警察の手入れもあった。現場の盛り場では野次馬が群がり、手入れの内容をあたかも見てきたかのように講釈する者もいた。まるで蜂の巣をつついたような騒ぎだった。この私悪の集まりはしかし、東京全体で見ると確かな繁栄への道でもあった。このように各部分は悪徳に満ちていたが、全部そろえばまさに天国であった。
 田圃の跡地にはマンションが建ち、野鳥が少なくなる。しかし自然がなくなったわけではない。コメ作りをやめた分、製造業、サービス業、その他ソフトサイエンスに特化しただけ、都民の生活が豊かになり、人々が近隣効果に関心を持つようになり、環境保護への投資が増大した。かつて田圃だった土地が住宅地となり、その周辺には緑の公園が点在する。自然とは手つかずのままがいい、との考えもあるだろうが、手入れをしてこそより良き環境が保たれるのだ。1920年から始まった明治神宮の杜、80年経った今見事な森に育ち、日本の造園技術の高さを世界に誇れるものになっている。新しい東京では桜公園、ツツジ通り、ポプラ並木が高層マンションと共存している。中小河川が整備され、雨水の利用と地下への誘導技術の進歩により、田圃のダム効果を強調する人は少なくなっている。
 いろいろ変化があるだろうが、沢山ありすぎて書き切れない。その他いろいろは、みなさんに想像して頂くとして、何が言いたいのか?そう、「東京都」を「日本」と置き換えて、「他県」を「アメリカ、オーストラリア、タイ、中国、その他コメ輸出国」と置き換えて考えて頂きましょう。日本がコメ市場を開放する、ということは、「東京がコメの自給をやめる」ということ。海外のコメ生産者が日本に輸出する、ということは「他県の農家が東京都民にコメを売る」ということ。東京のコメ市場を開放することによって、消費者としての東京都民と、生産者としての他県の農家、双方に利益があるのが理解できるだろうし、同時に、日本がコメ市場を開放することによって、日本国民と海外のコメ生産者に利益がある。ということが言いたくて、東京都民にしばらくの間コメ作りをやってもらった訳である。
※                      ※                      ※
 日本国民がコメ自由化を決断するとどうなるか?TANAKA1942bは1994年10月に「タイ米を買うことは、タイに迷惑か?」を書いた。さらに=その1=では「売り手と書いては平等だ」と書いた。しかし「外国がいつも売ってくれるとは限らない」との不安もあるようだ。そしてそれは、日本の生産者側にこそあるようだ。つまり「コメは売り手市場だ」との意識があるのだろう。市場ではどちらが「神様」なのか?しかし国際貿易という市場での「交換の正義」では売り手と買い手は平等だ。日本の売り手は認めたくないかもしれない。今まで政府をバックに売り手市場に甘えていたのだから。
 「東京都民はコメを自給すべきだ」の政策が放棄されると、日本国内のコメ生産者にその恩恵がくる。同じように日本国民がコメ自由化を決断すると、外国のコメ生産者が喜ぶ。そして日本への売り込みによって豊かになる人が出てくる。このように自由貿易は双方に利益がある。決して「ゼロサム・ゲーム」ではないのだ。強いて名付ければそれは「プラスサム・ゲーム」なのだ。そこで日本国民はどのような態度をとるべきか?答えははっきりしている。「自由貿易を促進する政策をとるべきである」。かつて戦後の苦しいときに自由貿易で力を付けた日本経済、これからは周辺諸外国にも力を付けてもらい、せいぜい日本のハイテク商品をいっぱい買ってもらって、日本の食糧自給率を下げられるよう、政策を方向づけるべきだ、と主張するものである。
 ところで、諸外国の立場を考えるなら、もう少し突っ込んで考えてみよう。それは=その2=で提案した、関税率の工夫、「全てのコメ輸入に10%の関税を上乗せして、それを国連に贈与する。」という試案だ。=その1=で書いたように、ふだんは「買わないよ」とけんもほろろ、それが突然「売ってください」とは、礼節を失ったわがままな態度だ。日本人らしくない。そう思いたい。あのようなことはもうナシにしたい。そろそろノブレス・オブリージェということを意識したいと思う。民主制度と市場経済が根付き、衣食足りて礼節を知る、私たち日本国民、それがふさわしい国民になったと自負しているのだが、諸氏の感想はいかがなものであろうか?
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 趣味としての家庭菜園が定着したのは何時の頃からだろうか?日曜大工が普及したのは何時の頃からだろうか?戦前でも、戦争直後でもなく、高度成長が終わりに近づいてからではないだろうか?
 人類は「自分が必要とする」以上の食糧・日用品の生産を可能とする技術を手に入れ、「自分が必要とする食糧・日用品」のほとんどを他人に頼る生活を始めた。先進諸国では飢餓の恐怖から解放され、生活に必要な日用品は十分手に入り、これらを選ぶ基準は「必要度」から趣味・センス・カッコよさといったことに変わりつつある。一方「先端技術の進歩」とその「安全保障」がトレードオフの関係にあることがはっきりしてきた今、未来に対するはっきりしない不安が増大し、それ以上にこうした不安テーマを解説し、不安を煽り、救いを売り込む、解説業・著述業・宗教業が職業選択自由の保証の上に業績を上げてきた。
 こうした状況が「自給自足の神話」を復活させているのかもしれない。このように考えると、ハイテク時代・高度情報化社会での生き方に対するヒントが見い出される。高度に分業化され、生活用品の多くを他人・他の社会に頼るようになった生活で、それから生じるストレスを解消する方法、それは家庭菜園・日曜大工・キャンプファイアー・サバイバルゲームなど文明発祥以前の生活を体験することかもしれない。幸い市場ではそれを意識してかどうか分からないが、消費者に選り取り見取り、多数の商品が提供されている。ここでも巧妙な市場メカニズムに感心させられるのだ。
 さて、「自給自足の神話」、これが神話であることは証明できたのであろうか?「自給自足の神話」と「先端技術の進歩とその安全保障とのトレードオフ関係」これらについてはまだまだ議論はつきない。しかし
「自由貿易こそが国民を豊かにする」という常識だけはしっかり押さえていなければならない、と主張するものである。
 私の個人的趣味につき合って、最後まで読んで頂いたことに感謝いたします。有り難うございました。
 ( 2001年7月9日 TANAKA1942b )
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6 現代に生かそう大坂堂島の米帳合い取引
需給調整と価格安定のために
 コメの輸入を自由化して、関税率を工夫し、特定の一国にからの輸入に偏らない制度にして、さてそこで、需給の安定と価格の安定はどうするか?食管法時代は政府がコントロールしていた。別の言い方をすれば、サプライサイドとその票をあてにする国会議員と農水省の役人とが、仕切っていた。この仕切屋さんがいなくなった後はどうしたらいいのか?その答えが「現代版米帳合取引所」の設立だ。それは江戸時代の大阪商人の知恵を拝借する事だ。
 大阪堂島の米帳合取引の説明は専門書に任せることにして、ここではコメの取引所として世界で初めて先物取引を始めた、ということに注目しよう。そしてその知恵を生かして、現代版米帳合取引所を作ろうという提案だ。といっても特別目新しい発想ではない。商品取引所は昔からあるし、穀物は今でも「東京穀物商品取引所」「中部商品取引所」「関西商品取引所」「関門商品取引所」で取引きされている。トウモロコシ、輸入大豆、小豆などの穀物に加えてコメも上場しようと言うのだが、この際新しい取引所を設立する気持ちで、その内容を検討してみようということだ。
 コメの取引所の構想は多くの人たちが検討しているはずだ。いずれコメが自由化されることは誰もが考えているだろうし、その時の対策も考えているだろう。東京穀物商品取引所は自分のところで扱おうと考えているだろうし、商社はそこで利益を上げるにはどのような仕組みが有利か考えているだろう。いずれ取引所設立が具体化してくれば自分達に有利な構想を提案することになるだろうからだ。アメリカ、オーストラリアの生産者もどのような取引所ができるか注目しているだろう。しかし日本では言霊信者がいるようなので、今具体的な提案をすると、信者から非難され、今後の仕事がやりにくくなりそうなので黙っているのだろう。
 そこでアマチュアエコノミストTANAKA1942bは誰も発表しないうちに構想を発表しようと思う。関係者はかなり具体的な構想を持っているだろうし、それらが発表されれば、アマチュアの出番はないだろうからだ。 だれも発表する前なら少しくらい不格好な試案でも許してもらえるだろう、との甘えもある。しかしそのように言いながら、「本当に考えているのだろうか?」もしかしたら「自由化になったときのことを言うのは、自由化を望んでいると思われはしないか?」と心配し、考えることも、準備すること手を着けてない人達がいるのではないだろうか?と心配にもなる。取引所ができても、買い手は準備万端であっても、売り手は勉強不足、準備不足という事態になるのではないか、との不安がある。
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 現代版米帳合取引所は特別目新しいものではない。今まで考えられ、制度化されたものの組合わせになる。まず取引所は官制ではなく、民間で設立する。株式会社組織で設立に関する厳しい規制はない。従って自由に設立できる。そしてその内容はそれぞれ特徴のあるものになるだろう。ここでは一つののモデルを考えることにしよう。
 取り引きは「現物取引」「先物取引」「オプション取引」になる。「先物取引」は@「先渡し取引(Forward=売買予約、建設中のマンションの予約販売など)」A「帳合い取引(Futures、大坂堂島米会所の帳合い取引=現物の受け渡しを伴わない取引)」B「指数先物取引」になる。
 「現物取引」では銘柄をどうするか?で取引所の特徴が出る。「こしひかり」とするか?「新潟産こしひかり」とするか?「魚沼産こしひかり」とするかで違ってくる。魚沼産こしひかりを生産している農家や取り扱い会社は「魚沼産こしひかり」という銘柄をつくって欲しいし、その他の生産者、取り扱い会社はそうではない。買い手側も個人と外食産業では違うだろう。
 この取引所の特徴は「指数取引」にある。コメの個別単独銘柄では数量が少なく、買い占めなど価格操作が行われる恐れがあるので「指数取引」で対応する。特に生産者の上部団体は価格の高値維持をねらって価格操作を試みる恐れがあるからだ。株式市場でさえ、PKOだとか、担当大臣が市場関係者に価格操作を以来するような国柄なので、コメ市場という馴れない人たちが参加する市場では、価格操作できないような十分な対策が必要になる。
 取引は「ザラバ」がいいだろう。「板寄せ」の方が合理的との考えもあるが、この市場は外国人投資家を参加させなければならない。そのためには「ザラバ」がいい。国際的なコメ取引所を目指すことになるのだから、日本の伝統に拘ることはない。同じような趣旨で、クリアリング・ハウスを設けるのがいい。江戸時代の知恵「消合場」もいいが、同じ働きなら外国人投資家も参加しやすいような制度がいい。
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 東京にでき、大阪にでき、その他の地方にコメ取引所ができる。それぞれ銘柄とか取引条件などで、特徴をだす。それぞれが競い合って、そのうちに勝ち組・負け組がでて提携・合併されるかもしれない。考えてみれば日本のコメ需要量からしてそれほど大きな市場にはならないだろう。では株式会社としてのコメ取引所が発展するにはどうしたらいいのか?それはコメに限らず商品を取りそろえることだ。クレジットデリバティブや天候デリバティブなども扱うことになるだろうし、不動産や債権を利用し、証券化した資産担保証券も扱うことになる。 そしてコメで言えば、日本の備蓄米もオプション取引で扱われることになる。そうなってこそ現代版米帳合取引所の存在意義が認められることになるのだからだ。(備蓄米に関しては稿を改めます)
( 2001年8月6日 TANAKA1942b )
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7 農家はプットを生かそう
江戸時代の大阪堂島の商人に負けるな
 今様米帳合取引所ができて、さあコメ作り農家はどのようにこのマネーゲームに参加するのだろうか?需要と供給のバランスをとること、価格の安定が主要な目的だ。それならば生産者米価の安定にも役立つのだろう。そうでなかったらコメ作り農家には必要ない無用の長物になる。この文はコメ作り農家がどのようにこの「今様米帳合取引所」を活用するか?の具体的な試案を提言するものである。コメ作り農家=田中さん、毎年農協を通してコメ1俵=60Kgを400口、すなわち24トン出荷していた。価格は1俵=60Kgで1万5千円。売上代金は 600万円。 コメも市場経済の荒波にもまれ始め「自己責任」の名の下に、自分で市場に出荷する時代になってしまった。「米価は農水省と全中あたりで決めてくれるのがいい」と考えていた田中さん、もう政府は何も決めてくれなくなってしまった。すべて「市場」に任せる、 と言う無責任ぶり。と怒りを露わにしても、結局自分で何とかしなければならなくなった。遠い海の向こうからもコメがやってくる時代になってしまった。生産者米価は幾らになるか分からない。秋になってみないと分からない。大方の予想は1万4千円から1万6千円だと言う。「その位の予想なら俺だって言えるよ」と文句を言っても、とにかく大損をしないようにしたい。大儲けはできなくても、大損はしたくない。そこでインターネットを使って、米帳合取引所のことを研究した。そしていくつかの戦略を立ててみた。これからその戦略について検討することにしよう。
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<与件> コメ1俵=60Kgを1単位=1枚と表現する。田中さんは400枚売るつもり。田中さんの予想は1枚1万5千円。いくつかの戦略を計画し、米価が1万3千円、1万4千円、1万5千円、1万6千円、1万7千円、の場合田中さんの収入を計算する。
<第1の戦略> 全て現物取引にする。この場合、米価が
13,000円の場合は 520万円。
14,000円の場合は 560万円。
15,000円の場合は 600万円。
16,000円の場合は 640万円。
17,000円の場合は 680万円。
<第2の戦略> 春に200枚=200俵(60Kgx200=12トン)を14,500円で先渡しで売っておく。14,500円x200=2,900,000円。 残り200枚は秋に現物取引する。この場合の収入はどうなるか?米価が
13,000円の場合、先渡し分2,900,000円。現物取引分13,000円X200=2,600,000円。両方で5,500,000円。
14,000円の場合、先渡し分2,900,000円。現物取引分14,000円X200=2,800,000円。両方で5,700,000円。
15,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分15,000円X200=3,000,000円。両方で5,900,000円。
16,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分16,000円X200=3,200,000円。両方で6,100,000円。
17,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分17,000円X200=3,400,000円。両方で6,300,000円。
<第3の戦略> 200枚を14,500円で先渡し売り。100枚を14,200円でプットを買っておく。(14,200円で売る権利を買っておく)この場合の手数料=プレミアムを10万円と仮定する。
13,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分1,300,000円。プットを行使して1,320,000円。全部で5,520,000円。
14,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分1,400,000円。プットを行使して1,320,000円。全部で5,620,000円。
15,000円の場合。先渡し分2,900,000円。プットを行使せず現物取引分2,900,000円(手数料10万円)全部で5,800,000円。
16,000円の場合。先渡し分2,900,000円。プットを行使せず現物取引分3,100,000円(手数料10万円)全部で6,000,000円。
17,000円の場合。先渡し分2,900,000円。プットを行使せず現物取引分3,300,000円(手数料10万円)全部で6,200,000円。
<第3の戦略>
   米価 13,000円  14,000円  15,000円  16,000円  17,000円  高低差

第1の戦略 520万円  560万円  600万円  640万円  680万円  160万円
第2の戦略 550万円  570万円  590万円  610万円  630万円  80万円
第3の戦略 552万円  562万円  580万円  600万円  620万円  68万円
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<第1の戦略> 2001年現在日本での取引はこのケース。現先もオプションもできない。従って政府の関与が少なくなり、市場のメカニズムに任せるようになると、価格変動が大きくなる。全中が価格操作しようとこのマネーゲームに参加してきても、市場が大きくなれば相対的な影響力が小さくなり、無駄な抵抗で終わるだろう。後には市場介入に対する非難だけが残る。
<第2の戦略> 江戸時代大阪堂島のコメ商人が世界に先駆けて生み出した制度=米帳合い取引はこのケース。コメの先物取引は江戸時代から少しづつ変化しながらも続き、統制経済の時代になくなった。今はその統制経済のままの姿が残り、生産者もこの制度を非難しない。コメの価格安定化よりも、日本の文化、ダム効果、環境保全、地域社会の要の方が大切のようだ。それも生産者以外の傍観者が言うなら分かるが、生産者も収入の安定よりもそれ以外の効果を重視するようだ。収入の安定が考慮されないなら、若い人の農業志望者が減るのは当然だ。尊農攘夷論者よりも、江戸時代の大阪商人の方が市場のメカニズムを効果的に活用していたようだ。
<第2の戦略> 21世紀の農家は最低この程度の戦略は採るようになるだろう。個々の農家にとって戦略選択が難しくても、コメ集荷業者がおすすめプランを作成するだろうからだ。農協の隙間を縫って参入する業者のウリは手数料の安さと付帯サービスになり、積極的に農家の相談役になろうとする。当然こうした市場のメカニズムに対する知識も十分身につけて参入するはずだ。せいぜい利用するのがいい。通常はコメ作り農家にとって消費者がお客様・神様だがこの場合は、コメ集荷業者にとってコメ作り農家がお客様・神様だ。うんと我が儘を言うがいい。これでやっと江戸時代の経済よりも進化したことになる。
<リスクの分散> 食糧の安定供給には「供給地を多くする」「流通経路を多くする」と主張してきた。つまり「リスクを分散する」ということだ。この今様米帳合取引も価格の変動というリスクを分散させようとの意図で運営される。「農業は工業と違って天候に左右される。」だから自給してリスクを一カ所で管理するか?それとも分散させるか?で考えは違ってくる。リスクを一カ所で管理するのがいいか?分散させるのがいいか?インターネットを利用している人なら答えは簡単。「パソコン通信がいいか?」「WWW インターネットがいいか?」好奇心の旺盛な人にはこの違いを研究して頂きましょう。そうするとコメの供給地を日本だけに限定して自給する制度と、日本だけでなく多くの国を供給地としてリスクを分散させる制度、この違いとそっくりなことに気づくはずだ。
 パソコン通信型のコメ経済は、供給地を管理しやすい日本だけにする、流通経路を農協だけにする、米取引を現物取引だけにする、そしてリスク負担は政府が負うという名目で、国民の税金に反映させる。つまりこれは統制経済を続行させようとの考えなのだ。人はそれを「社会主義経済」とか「国家独占資本主義」とか呼ぶようだ。
 ( 2001年8月13日 TANAKA1942b )
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8 キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか?
これならば将軍吉宗も納得だろう
 今様米帳合取引所がコメ作り農家の期待通り順調に働き始めた。難しい経済用語=ボラティリティーだとかブラック・ショールズ式など分からなくても、農協に替わってコメ集荷業者がそれぞれの農家に合った戦略を選んでくれる。コメ作り農家田中さんも、そんな業者の営業マンから指導を受けているうちに、自分でも戦略を立てられるようになった。 今は単なる農家の親睦団体となった「農協」の会合で自慢話をするうちに、キャベツ農家の小泉さんがその話に興味を持つようになった。「コメで安定収入が得られるなら、キャベツだってできるんじゃあないだろうか?」そこでこの村出身で、今は東京の証券会社で働いている、竹中君をお盆休みに村へ呼び戻し、研究会を開くことにした。その研究会の成果をここで発表することにしよう。
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   キャベツの出荷価格は最低1Kg60円から 200円まで乱高下した。そこで生産農家の収入を安定させたい、との発想で「キャベツ帳合取引所」設立の構想を練り上げてみた。取引所は新たに設立するのもいいが、例えば東京都中央卸売市場の9つあるうちの1つ、太田市場を民営化するのもいいだろう。国鉄も専売公社も電電公社も民営化して良くなった。 中央卸売市場全部を民営化するとなると既得権者の抵抗も大きいだろうから、今回はとりあえず1つだけ民営化する。そこでは今までの業務はそのままに、新たにキャベツの帳合取引部門を設立する。
 現物取引は今まで通りとする。先物取引およびオプション取引は満期日の半年前から売買を始める。 先物は満期日=現物を取り引きする2営業日前の13時に締め切り15時にその結果を発表する。つまりこうだ、 8月31日を満期日とする先物は 8月29日の13時に売買を締め切り、15時にその結果を発表する。その結果とは 8月31日には取引価格幾らの物が何枚予定されているか、 ということだ。その価格の高低、数量の多少によって31日に出荷する量を農家は調整することができる。
 オプションは満期日の1営業日前(この場合は30日)の13時に締め切り、15時に発表する。これにより 8月30日15時には翌日 8月31日の先物とオプションの取引予約の数量が発表される。それを見てから翌日の出荷量を決めることができる。当然満期日まで常に売買高は公表される。その数字を見ながら先物とオプションの売買が行われる。生産農家はその数字を見ながら作付け面積を決める。このようにキャベツ生産の初期の頃から数字を見ながら出荷の向けての生産調整をするので無駄が少なくなる。
 前回のコメと同じように収入を予想してみよう。
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<与件> キャベツ作り農家小泉さん、1日の出荷 400Kg。10Kgを1枚と表現して、40枚。生産者価格が1Kg60円、80円、 100円、 150円、 200円の場合の収入を計算する。
<第4の戦略> すべて現物取引とする。いままでの出荷方法だ。 
60円の場合は24,000円。
80円の場合は32,000円。
100円の場合は40,000円。
150円の場合は60,000円。
200円の場合は80,000円。
<第5の戦略> 200枚を80円で先渡しで売り。100枚を70円でプットを買っておく。(70円で売る権利を買っておく)この場合の手数料=プレミアムを500円と仮定する。残り100枚は現物売りとする。
60円の場合。先渡し分16,000円。現物取引分6,000円。プットを行使して6,500円。全部で28,500円。
80円の場合。先渡し分16,000円。現物取引分8,000円。プットを行使して6,500円。全部で30,500円。
100円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分19,500円(手数料500円)全部で35,500円。
150円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分29,500円(手数料500円)全部で45,500円。
200円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分39,500円(手数料500円)全部で55,500円。
<与件>
生産者価格   60円    80円     100円    150円    200円   高低差

第4の戦略 24,000円  32,000円   40,000円  60,000円  80,000円  56,000円
第5の戦略 28,500円  30,500円   35,500円  45,500円  55,500円  27,000円
 ここでは田中さんのコメ戦略、第1の戦略と第3の戦略を真似て戦略を立ててみた。
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<スケジュール調整と権利の売買> キャベツの場合は現時点から半年先までの先物・オプションの数字が公表される。これによって生産調整・出荷調整ができやすくなる。さらに、小泉さんが10月の第1週目に先物売りとプットを買っていたが、第2週目に延ばしたとなった時、これを売って10月第2週目の権利を買うことができる。
<裁定取引・スワップ> 東京帳合取引所太田市場が好評なので、仙台、名古屋、京都、大阪、福岡など各地に帳合取引所ができる。キャベツ作り農家はインターネットを使い各地の売り買い状況を見ながら出荷時期と出荷先を選択する。同じ時期の太田市場のプットと名古屋市場のプットを交換したりもする。 権利の売買を通じて、時期や取引市場を交換することができるようになる。それはちょうど裁定取引やスワップに似た取引になる。ここにおいて農産物が8代将軍徳川吉宗の時代から、やっと現代資本主義社会の取引に進化する。労働集約産業から知識集約産業に変化しようとする。35才以下の金融工学の専門家も農産物取引から、広くアグリビジネス一般に参入し始める。かつて農村部から都会の競争社会に飛び込んで行った若者もその成功者の一部が出身地に戻り始める。農村社会に変化の兆しが見え始めたようだ。
<種は播かれた> インターネット野菜取引市場はテスト運営が始まったようだ。生産者と販売業者を会員として、ネットを使って入札を行う。よく考えてみればネットオークションなのだ。こちらはすでにいくつかの運営組織ができ実際に活動している。大きな違いはC2C(Consumer to Cconsumer)かB2B(Business to Business)かだが、ネットオークションではB2Cもあるようだから、ノーハウは蓄積されているはずだ。
 ロジステックからの進出とネットオークションからの進出と、それに商社とソフト会社が組み合わさって発足するだろう。システムや資金には大きなネックはないだろうが、問題は生産者にそれだけの意欲があるかどうかだ。日本の農業システムは零細であることをよしとしている。企業が農地を購入するのに規制があるように、大企業を敵視する信仰があるようだ。このため新しい商品開発やシステム開発への投資資金が乏しい。特に外部からの投資に対するアレルギーが強い。都市部、都会人、大企業、外国資本などを嫌い、全てを内部処理しようとする。 ここにも尊農攘夷意識が強く表れている。しかし、いろいろ制度上の問題を抱えながらも、どこかがスタートすればすぐそれに続くシステムができるに違いない。この文を書いているその時間に、どこかで誰かがキーボードに向かって企画書を打ち込んでいるに違いない。どうかTANAKA1942bがこの文を発表する前には発表しないで欲しい。その位いつ計画が発表されてもおかしくない状況だと思う。
 ( 2001年8月20日 TANAKA1942b )
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9 帳合取引所はカジノなのか?
待たれる市民投機家の参加
 竹中君の話は続く。「ところでみなさんが先物を売る相手は誰ですか?」
 「それは、スーパーだとか、八百屋かなぁ」
 「そうです。ではスーパーや八百屋はどのように帳合取引所を利用するのでしょうか?」
 「分かった、スーパーや八百屋の戦略を考えて見よう」と田中さん。
<与件> 田中さんが考えた戦略は、東京米穀商会のの仕入れ戦略だ。 4,000枚を仕入れるとする。
<第6の戦略> 4,000枚すべてを現物で仕入れる場合。米価が
13,000円の場合、5,200万円
14,000円の場合、5,600万円
15,000円の場合、6,000万円
16,000円の場合、6,400万円
17,000円の場合、6,800万円
<第7の戦略> 2,000枚を15,500円の現先で買い、1,000枚を15,800でコールを買っておく。この時のプレミアムを100万円と仮定する。残り1,000枚は現物取引する。
13,000円の場合。先渡し分3,000万円。現物取引分2,700万円(手数料100万円)。全部で5,700万円。
14,000円の場合。先渡し分3,000万円。現物取引分2,900万円(手数料100万円)。全部で5,900万円。
15,000円の場合。先渡し分3,000万円。現物取引分3,100万円(手数料100万円)。全部で6,100万円。
16,000円の場合。先渡し分3,000万円。コールを行使して1,680万円手数料100万円。現物取引分1,600万円。全部で6,280万円。
17,000円の場合。先渡し分3,000万円。コールを行使して1,680万円手数料100万円。現物取引分1,700万円。全部で6,380万円。
<各戦略の検討>
   米価  13,000円  14,000円  15,000円  16,000円  17,000円   高低差

第6の戦略  5,200万円  5,600万円  6,000万円  6,400万円  6,800万円  1,600万円 
第7の戦略  5,700万円  5,900万円  6,100万円  6,280万円  6,380万円   680万円
#                    #                    #
 竹中君「ところで東京米穀商会の取引相手は誰ですか?」
 「それは、わしら農家だろうなぁ」
 「では田中さん、東京米穀商会の取引相手としての立場も踏まえて、田中さんの戦略をもう一度考えてみてください。」
 「そうか、そういうことなのか、少し分かってきたぞ。決定的な戦略を考えてみよう」
<与件> コメ1俵=60Kgを1単位=1枚と表現する。田中さんは400枚売るつもり。田中さんの予想は1枚1万5千円。いくつかの戦略を計画し、米価が1万3千円、1万4千円、1万5千円、1万6千円、1万7千円、の場合田中さんの収入を計算する。
<第1の戦略> 全て現物取引にする。この場合、米価が
13,000円の場合は 520万円。
14,000円の場合は 560万円。
15,000円の場合は 600万円。
16,000円の場合は 640万円。
17,000円の場合は 680万円。
<第8の戦略> 100枚を14,500円で現先で売り。100枚を15,500円で現先で東京米穀商会に売り。100枚を14,200円でプットを買い。100枚を15,800円でコールを東京米穀商会に売り。この場合プットの買いとコールの売りでプレミアムは差し引きゼロ。現先分は両方で300万円。
13,000円の場合。先渡し分300万円。現物取引分130万円。プットを行使して142万円。全部で572万円。
14,000円の場合。先渡し分300万円。現物取引分140万円。プットを行使して142万円。全部で582万円。
15,000円の場合。先渡し分300万円。現物取引分150万円。プットを行使せず現物取引分で150万円。全部で600万円。
16,000円の場合。先渡し分300万円。コールで158万円。プットを行使せず現物取引分160万円。全部で618万円。
17,000円の場合。先渡し分300万円。コールで158万円。プットを行使せず現物取引分170万円。全部で628万円。
<各戦略の検討>
   米価 13,000円  14,000円  15,000円  16,000円  17,000円  高低差

第1の戦略 520万円  560万円  600万円  640万円  680万円  160万円
第8の戦略 572万円  582万円  600万円  618万円  628万円  56万円
#                    #                    #
<投資家・投機家・スペキュレーター・ギャンブラー>
 竹中君「ところで田中さん、田中さんにプットを売るのは誰ですか?」
 「それは東京穀物商会だろう?」
 「そうですか?東京穀物商会はなるべく安く仕入れたいのであって、田中さんを助けたいとは思っていないでしょう。」
 「じゃあ、誰が我々農家にプットを売るのだろう?」
 「それはコメの流通とは直接関係のない一般投資家や機関投資家と言われる人達なのです。」
 「どうして一般投資家がプットを売るのだろう。よく分からない。」
 「ではここでスペキュレーターMr.Xに登場してもらいましょう」
 竹中君の話は次のようなものだった。
 Mr.Xの戦略は次のようなものだ。コメ帳合取引所で14,200円のプットを 100枚売り。15,800円のコールを 100枚の売り。これでプレミアム20万円が入る。 米価が14,200円から15,800円の間ならオプションは行使されないので、プレミアム20万円が利益となる。米価が14,200円以下ならプットが行使される。14,100円の場合Mr.Xは田中さんから 14,200円で買い取り、市場で14,100で売る。14,000円の場合は田中さんから14,200円で買い取り、市場で14,000円で売る。コールとプットのプレミアム20万円がこれで損益ゼロになる。13,900円の場合は田中さんから14,200円で買い取り、市場で 13,900円で売る。これでトータル10万円の損となる。このように米価が下がれば下がるほど損は大きくなる。
 米価が15,800円以上になった場合も、同じように考えればいい。つまり14,200円から15,800円の場合は利益が20万円。 13,900円以下の場合と15,800円以上の場合に儲けがなくなる。
 田中さん「それじゃぁ、まるでギャンブラーじゃないか。それとも取引所はカジノなのか?」
 竹中君「そう言えるかもしれませんね。でもこういう人がいるから田中さんや東京穀物商会さんのリスクが分散されるのですよ。」
 「コメを投機に対象にするのか?どうも気に入らないなぁ」とあまり納得してない様子。
 「Mr.Xはこの戦略の場合、米価が乱高下しなければ利益が出る、つまり価格の安定を望んでいるのです。」
 「それはそうだろうなぁ」
 「つまり、田中さんも東京穀物商会もMr.Xも、みんな自分の利益を追求しているのです。自分の採っている戦略が国民経済にどのような影響を与えるか?などとは考えてもいない。しかし他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて「米価の安定」という大きな目標を達成させるのです」
 「どこかで聞いたことがある言葉だなぁ」と言いながらも、田中さんは一応納得。
( 2001年8月27日 TANAKA1942b )
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10 指数取引が価格を安定させる
さらなる取引商品の開発を
<設立母体> 帳合取引所がどのように設立され、どのように発展していくのか?その将来像を描いてみよう。先ず設立に関して。
 1)一番可能性のあるのが、東京穀物商品取引所がコメを扱うようになること。すでに設立企画書はできているだろう。ただしこちらの計画では多くの点で従来型になるだろう。取引形態もザラ場ではなく板寄せを主張するだろうし(まさかゲキタクを主張することはないだろうが)、監督官庁の規制を多くし,取引所はベンチャービジネスと言うより、既得権者の利益を守る制度になるのではないか。帳合取引所を設立するとなると、一番近いところにあるだけに、堅実な計画書を書き、確実に設立の主導権を握ろうとするだろう。
 2)東京都中央卸売市場がその中の一つの市場、例えば太田市場で現物取引を始め、次第に先物・オプションと商品の品揃えを増やしているケース。野菜・果物・花きを扱っている実績から、こちらも堅実な計画を立てるだろう。こちらは生産者との結びつきがあるので、設立には条件は整っている。
 3)インターネットで野菜・果物の取引を始めた業者が次第に規模を拡大して行くケース。初めは生産者と小売業者との間を取り持つことから始める。このあたりが始めると結構ユニークな経営戦略を採るだろう。小さい組織から始めるので、サンク・コスト(撤退費用)が小さくて済むだろうから、
 4)大手商社などが中心になって、初めから大規模に事業展開するケース。
 5)自主流通米価格形成センターが発展的に始めるケース。今実際にコメの価格を形成するのはここだ。従ってここがやりそうに思えるが、多分違うだろう。既得権を主張し、新しい市場には反対し、そのために結局新しい取引市場の主導権を握ることはできないだろう。
<取扱商品> 先ず現物取引から始まる。これはコメが自由化・関税化されると同時に始められる。国産米とカリフォルニア米・タイ米、それぞれ価格差があっても銘柄別の取引なのですぐにでも始めることができる。同じ理由で現物先物もできる。差金先物はプレーヤーがそろうかどうかが問題だ。株や商品取引経験者はできるが、サプライサイドの参加者が揃わないと不自然は発足になる。コメ生産者の安定収入を目的としながら、そのコメ生産者が取引方法を理解できなくて参加できないのでは意味がないからだ。つまり現物を扱わない抽象的な商品ということを理解するには時間と経験が必要になる。今これらの取引について研究する時間のはずなのだが、全中も農協も生産農家も怠っているだろう。 こうした取引を研究するということは、将来積極的に取引に参加しようとする姿勢であり、それは自由化を前提としているので、「コメは自給すべきだ」の基本原則に反することだ、と非難されるだろうからだ。
 その点むしろオプションの方が理解されやすいかもしれない。こちらは現物を扱うので、分かりやすいだろう。このシリーズで差金先物の例題を扱わなかったのは、このような理由による。かえってややこしく感じるだろうからだ。
#                  #                  #
 価格の安定のためには指数取引を始めることだ。輸入が関税化されるため初めは国産米から始める。関税化が終わったところで全商品を指数化する。その過程では国産米の価格は下がって行くだろうから、それに伴い指数も下がっていく。通常の方式では公正な取引は期待できない。ここでなんらかの工夫が必要になる。取引数の制限や値幅制限などが必要になる。江戸時代の大阪堂島コメ商品に負けない知恵を絞り出すことだ。いろんなアイディアが出るだろう。そのアイディアと決定までの過程を公表することによってもコメ指数取引への関心を高めることができる。
 株式市場の日経平均と同じシステムをコメ市場でも採用する。コメ市場は現物の数に限りがあるので、現物取引だけでは多額の資金が投入された場合価格操作される恐れがあるからだ。1年間の日本国内の消費量が1千万トンとして1俵=60Kgあたり16,000円で計算すると、2兆5千億円。これが1年に取引される金額。全部国産の場合でも産直、スーパーなど市場を通さない流通などが半分あるとすれば、1兆円少し。これが1年間の数字、12ヶ月で割れば、1月1千億円程度。これでは全中などが価格操作したくなるだろう。
 指数取引は現物を扱わず、差金決済なので、数に制限はない。機関投資家だけでなく一般投資家が参加すれば価格の安定につながる。
 日経平均の取引で建枚数1枚で 200万円から 250万円の保証金が必要になる。それとは別に 100万円ぐらいは客勘定に入金しておいた方がいい。この点がネックになっている。コメ取引所ではもっと少ない資金で取引できるようにすべきだ。日経平均が大証よりもシンガポール市場で多く取り引きされているのも、扱う単位を小さくし、小資本でもこのマネーゲームに参加できるようにしているからだ。少ない資金でできると、知識不足の人や、十分理解しないで投資する恐れがある、ということを理由に扱う単位を小さくしないのだろう。小さな親切のつもりなのだろうが、人によっては「大きなお節介」と言うだろう。自己責任を全面に打ち出し、余計な規制はナシにした方がいい。コメ取引所は自己責任こそ最も尊重する市場として新しく設立するのがいい。既得権者の妥協によって設立されるなら、日本の農業は「先進国型産業」に生まれ変わることはできない。新しいコメ取引所が、新しい産業になるきっかけになれるはずだと信じたい。
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 コメが、農業が先進国型産業として生まれ変わる、そしてそれと一緒に取引所が生まれ変わる。流通部門で、「現物」から「先物」「期待」に重点が移っていく。リスクを先へ先へと分散させてヘッジしていく。物が動く前に情報が、知識が動く。流通産業の「物流」という言葉が不似合いになってくる。流通産業は「物」を動かすのではなく、情報を動かす産業になってくる。
 農業は「情報」を扱う流通産業の発達により、消費者との距離が縮まる。サプライサイドとディマンドサイドの距離が縮まり、消費者のニーズが生産者に素早く届けられ、確実に生産に反映される。これにより需要と供給のミスマッチが少なくなる。
 この情報の流通業者としては、コメ取引所がキーステーションになり、末端にはスーパー、集荷業者が位置する。この時農協は「情報集荷業者」として存在を示せるだろうか?それができなくては「農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になる」。
 こうした情報の流動化を促進する取引所は、コメから農産物、商品、さらに債権・不動産の流動化も促進することになる。バブルがはじけて不動産が不良債権として残った。これを債権化して流動化しようとの意見があるがなかなか進まない。不動産に限らず債権を証券化しようとの意見もなかなか実現されない。天候デリバティブも始まったが、まだ相対取引だ。為替リスクも含め相対取引から取引所で取り引きされる商品になってこそ普及される。コメ取引所がこうした証券化の先駆けになる役割を担っているのだ。こうしてコメ・農業が先進国型産業の先駆け旗手となるだろう。
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 このシリーズ=6=現代に生かそう大阪堂島の米帳合取引、で取引所の将来について次のように書いた。  東京にでき、大阪にでき、その他の地方にコメ取引所ができる。それぞれ銘柄とか取引条件などで、特徴をだす。それぞれが競い合って、そのうちに勝ち組・負け組がでて提携・合併されるかもしれない。考えてみれば日本のコメ需要量からしてそれほど大きな市場にはならないだろう。では株式会社としてのコメ取引所が発展するにはどうしたらいいのか?それはコメに限らず商品を取りそろえることだ。クレジットデリバティブや天候デリバティブなども扱うことになるだろうし、不動産や債権を利用し、証券化した資産担保証券も扱うことになる。 そしてコメで言えば、日本の備蓄米もオプション取引で扱われることになる。そうなってこそ現代版米帳合取引所の存在意義が認められることになるのだからだ。
 その後8月31日NHKテレビ、ニュース10で天候デリバティブを扱っていた。ただしそれは相対取引。いわばオーダーメイド、オートクチュール。こちらの取引所で扱うのは規格品、プレタポルテ。規格化することにより、透明性が高まり、取扱量が増える。さらに一般投機家もスペキュレーターとして参加することができる。
 もう一つ、個人投資家から幅広く集めた資金を不動産で運用する金融商品「不動産投資信託」(日本版REIT)が9月10日、東京証券取引所に初めて上場された。
 どちらもTANAKA1942bがこれからできるコメ帳合取引所で扱う予定にしていた商品だ。先を越されて残念。しかし同時にこれで帳合取引・デリバティブに関心が高まりコメ帳合取引所の設立機運が高まるだろう。江戸時代大阪堂島で世界に先駆け先物取引を始めた町人の知恵を、IT革命の現代に生かせるとしたら、なんと素敵なことだろう。
 日本のコメ文化、残すべき伝統とは?それは<工夫し、改良し、改革を起こす「進取の精神」>だと考えたらどうだろうか?品種改良して、コシヒカリ、ササニシキを生み、チャーハン・パエリア・ライスカレーなどの食べ方を取り入れ、化学肥料・防虫剤などの薬品、各種耕作機。これらと「伝統」を結びつけるのは、「進取の精神」だ。当然生産から消費への流通機構も改良される。その常に改良する態度こそが「日本のコメ文化、残すべき伝統」と考えるのがいいのではないだろうか?
( 2001年9月17日 TANAKA1942b )
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11 備蓄米はコールをロングしておこう
合理的な備蓄米制度と安定供給
 「コメの安定供給には産地と流通ルートを多くすること。」これはTANAKA1942bの基本的な考えだ。これに対して、「備蓄制度を忘れていませんか?」との批判が出るだろう。そこでここでは「備蓄米」について考えてみることにしよう。ところで適正な備蓄とはどういうことか?適正な備蓄量と、適正な方法だろう。では適正な備蓄量はどの位なのだろうか?現在の考えは 150万トンだ。そこでここではこの 150万トンを適正量として話を進めることにする。
<食糧庁が現物備蓄米を管理する方法> 今の制度はこれだ。毎年秋に食糧庁がコメ市場から国産米を 150万トン買い付ける。このコメを次の年の秋まで備蓄米倉庫に保管しておく。もしこれを放出することがなければ、次の年の秋に古米としてコメ市場で売りに出す。単純で分かりやすい制度だ。 ところでこの費用はどの位なのだろうか?買い付け価格は60キログラム1万6千円として、 150万トンでは、4000億円。それに管理保管費用が 210億円。もしそのまま年を越え古米となってコメ取引所で古米として売ればいくらになるのだろうか?買い手は加工用として買うのだろう。例えば新米の半値とすれば、売却代金は2000億円。備蓄のための費用を除いて、2000億円のコストがかかる。このように考えていたのだが、そうではないらしい。このHPで「教えてください」と呼びかけていたら、詳しい数字を教えてくれた方がいて、それによるとむしろ逆ざやになっている、とのことだ。しかしそれでも過去の売れ残りがある。古米がそれほど高い価格で全て売却できるとは思えない。しかしはっきり断言できる資料がない以上、管理保管費用が 210億円、という農水省の数字だけを上げておこう。
<外国産米を備置米とした場合> 備蓄米が国産米である必要はない。カリフォルニア米でもオーストラリア米でもいいだろう。日本市場でコメが不足した場合のための備蓄米。旨い国産米でなければならない、ということはないだろう。特にコストの面から言えば国産米である必要はない。外国産の備蓄米コストはどの位になるのだろうか?国産米の5分の1とすれば、買い付け費用が 800億円。古米となって半額となれば 400億円で売却。そのコストは 400億円。さてこれも政府が管理していると売却価格は市場の原理では推し量れない。しかもコストを他の経費と一緒にして分からなくするかもしれない。そこでここでも購入価格が安いということだけを指摘しておこう。
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<コールをロングしておこう> 今まで書いてきたのは、備蓄は食糧庁が現物を管理し、そうでない一般のコメは民間に任せる、という方法だ。ところで備蓄米は現物で備蓄しておかなければならないのだろうか?現代版大阪堂島米帳合取引ではオプションという取引が採用される。(もっともこれはTANAKA1942bの試案であり、実際はどうなるか分からないが、そうなるという前提で話を進めることにする)
 毎年春にその年の秋を限月としたコールを買う。ここでの話は食糧庁が管理するとの前提で話を進める。アメリカの生産者・生産組合・輸出業者などから40万トンのコールを買う。オーストラリアのコメ生産は、ほとんどがニューサウスウエールズ州南部のリベリナ地方で行われていて、同州の州法「第一次産品販売法」により、州内で生産された全てのコメについての国内外の独占販売権はライス・マーケティング・ボードに与えられている(コメ生産者協同組合に委託)。従って食糧庁はライス・マーケティング・ボードから40万トンのコールを買うことになる。タイからは輸出業者のグループが10くらいあるので、それらから40万トンのコールを買う。中国は窓口が一つなので、そこから40万トンのコールを買う。これで全部で 160万トンのコールをロングしたことになる。
 プレミアムが幾らにになるのか?前例がないので分からないが、現物の数パーセント、高くても1割とみればいいだろう。秋になって豊作なら権利を行使しない。不作の場合だけ権利を行使する。それも 160万トンすべての権利を行使するとは限らない。必要なだけの権利を行使すればいいのだ。コストのことを言うと、「何でもかんでも金勘定にしてしまう」と非難する人も出るかもしれない。しかしそうした人こそ、この備蓄米をオプションで手当することには賛成するはずだ。オプションで手当するということは、豊作で備蓄を必要としない年には古米を発生させないことになる。つまり今までの方式、常に 150万トンの備蓄米を準備する方式では毎年 150万トンの古米を発生させるのだ。それこそ資源浪費だ。オプション方式は省資源方式の備蓄方法なのだ。
 コメ自由化問題で陥りやすい過ちは「外国」という言葉で、あたかも「外国」という名の主権国家があるかのように錯覚してしまうことだ。「外国」とはこの場合アメリカ、オーストラリア、タイ、中国などの国を指す。「外国がコメを売ってくれない」とは、アメリカ、オーストラリア、タイ、中国が共謀して日本にコメを売らない、ということ。つまり各国が共同戦線を張らなければならないのだ。そしてこの場合の「外国」とは、「外国政府」ではなく、具体的には、「アメリカのある生産者」「アメリカのある地区の生産組合」「アメリカのある生産者と提携している貿易商社」etc.なのだ。このケースで食糧庁にコールを売る相手は沢山の生産者・業者なのだ。これら雑多な組織が食糧庁に対して共同戦線を張るのは、かなりしんどいことに違いない。
 この場合オーストラリアの収穫は日本の春になる。しかしここでは話を単純化するため、春に収穫されたコメを秋に買い付ける、として話を進めた。
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<全てを民間に任せたらどうなるか?> 食糧庁は取引所の数字を注目するだけ、実際の取引を全て民間に任せたらどうなるか?別に問題はないだろう。取引所は取引高を公表する。それを見て、手当するコメが少ないと判断する業者は先物を予約するだろう。これで十分だと判断する業者は黙ってそれを見ているだけ。どちらの業者が儲かるか?は結果を見ないと分からない。業者の自己責任で判断すればいい。それを食糧庁がやるとなると、そのリスクを国民が負うことになる。役人はなるべく危険を避けようとする。ということは多めに手当しようとして税金を無駄に使うことになるだろう。
<果たして備蓄米は必要なのか?> 国産米は秋に収穫される。カリフォルニア米、中国米も秋に収穫される。オーストラリア米は春に収穫される。タイ、ベトナム、カンボジア、ミャンマーなどは2期作、2毛作もあり夏の収穫もある。そうなると今まで秋に収穫され、次の年の秋まで収穫がなかった場合と備蓄の仕方が違ってくる。今までは1年間備蓄しなければならなかった。世界各地からコメが輸入されるようになると、半年備蓄すればいい、とか3ヶ月備蓄すればいい、となる。 さらに海外のコメ作り農家にとって日本への輸出は大きな利益を生み出すので、蓄積された利益で高性能の低温備蓄倉庫を造るかもしれない。そうなるとほぼ1年中新米が市場に出回るので、備蓄の必要性が小さくなる。少なくとも食糧管理制度の備蓄の概念とはまるで違ったものになるはずだ。しかも先へ先へとコールで繋いでいけるようになれば・・・
<突然輸入が途絶えたら?> 今まで書いてきたのは通常の場合の備蓄制度で、天候不順などで不作になった場合に対する備蓄制度だ。もう一つ危機管理対策が必要との考えがあるだろう。米国の同時多発テロ事件のようなことが起き、コメの輸入が短期間でも停止するケースだ。日本近海で紛争が起きたり、軍事演習中の不手際から機雷が放置され船舶の運航に支障が出る、などでコメの輸入が短期間でもストップする場合。こうした場合は日本国内での在庫が活用される。日本の港に停泊している貨物船での在庫、保税倉庫での在庫。流通業者での在庫、スーパーなど小売店での在庫、一般家庭での在庫。このような在庫があるので短期間の輸入停止に心配はいらない。パニックが起きない限り心配はない。そこで政府の役割は、十分な情報を開示し国民の不安を取り除くことだ。
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<豊川信用金庫の場合> 1973年12月13日、愛知県豊川市に本店のある「豊川信用金庫」で取り付け騒ぎが起きた。この金融機関の経営は安定していたにも拘わらず、突然の取り付け騒ぎに襲われたのだった。事情を調査すると、その前日か前々日に、名鉄の電車の中で女子高生が話をしていた。その中の1人が、その信用金庫に翌春就職する事になっていた。友達がその女子高生をからかって「そんな信用金庫すぐつぶれるからやめなさい」と言った。そこまで事後調査で分かった。それを聞いた周りの人は「あそこはつぶれるらしい」と預金を引き出しに行った。その噂が広がって豊川信用金庫は1日で9億円と言う取り付けがあった。
<原油が上がるとトイレットペーパーが売り切れる?> 1974年、アラブ産油国が原油の一方的な値上げを通告してからほぼ2週間後の11月の初め、大阪の千里ニュータウンでトイレットペーパーが商店・スーパーマーケットの棚から全く消えてしまった。どうしてそういう状況が起こったのか分かっていない。ある時から行列ができ始めてみんなが並んでしまう。開店と同時に通常の1ヶ月くらいの在庫の商品が、1日で場合によっては1時間から2時間で売れていく事態が起きた。消費者の買い占めはトイレットペーパーだけでなく、合成洗剤などにも普及し、日用必需品にかなり広範にパニックが起きた。このニュースが報道されると、パニックは全国に広まった。
 そしてこの頃、あるメーカーの流通経路の中間にある倉庫に品物があるのをたまたま見つけた主婦が、洗剤が商店にないのに倉庫にあるのはおかしいと言って新聞社や放送局に駆け込んでしまう。調べてみるとたしかに合成洗剤はたくさん倉庫にあったので、その企業は「売り惜しみに悪徳商人」と批判されることになる。
 あとで調べてみると、その時倉庫にあった量は正常な在庫数から比べるとかなり減っていた。毎日大量に出荷するので、倉庫の在庫は減っていた。それでもこういう状況では「悪徳商人」にされてしまう。
<昭和2年の失言恐慌> 1927年(昭和2年)3月の、片岡直温大蔵大臣の失言から始まった金融恐慌、東京渡辺銀行は資金の手当が付いていたのに、大蔵大臣の答弁で、預金者が殺到し破綻してしまった。銀行は一般国民などから金を預かり、それを企業などに貸してその利鞘で利益を出す。多く利益を出すにはなるべく手持ち資金を少なく、貸出額を多くした方がいい。銀行がタンス預金をしても利益は生まない。そのために一度に多くの預金者が引き出しに来るとパニックを起こす。そこで取り付け騒ぎを起こさない程度で、なるべく多く貸し出しをしたい、そのバランスが経験と知恵の働かせ所となる。
 1998年秋、日本は金融不安に揺れていた。三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券と大型破綻が続いた。街では危ない銀行の名前が取りざたされていた。この頃特定の銀行に一般預金者からの資金が集まり始めていた。窓口では新規口座を開設する客が異常に多かった。自分が預けている銀行が不安で移し替えてきたのだった。窓口で「あの銀行は大丈夫なんでしょうか?」と聞く客が多かった。特定の銀行ではこうした客に対するQ&Aのマニュアルが作られた、とのことだった。幸いマスコミでは、あの銀行に対する特定の銀行の「窓口応対マニュアル」の件は報じられなかったが、もしそれがニュースになれば、あの銀行では取り付け騒ぎが起き、破綻していただろう。
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<政府の役割は十分な情報提供> コメの問題を扱いながら金融不安の例を出した。これは物の流れ、資金の流れ、情報の流れについて考えたかったからだ。コメも金も十分な量があっても、パニックが起こると流れが詰まって、どこかで不足が生じる。それを避けるためには正確な情報を提供することだ。
 こうした例としては1993年秋のコメ不作から生じた、 1994年春の輸入米の不自然な販売方法を問題にすべきだろう。しかし今になってもどうだったのかよく分からない。輸入されたコメがどうなったのか?消費者の口に入ったのかどうか?国産米と輸入米とのブレンド米が不評で、抱き合わせ販売になったが、消費者が輸入米だけ販売店に持ってきて「引き取って欲しい」と言ったとか、そのような話が伝わっているのだが、よく分からない。
 こうしたことを公表したがらない官僚の姿勢、これは心配だ。食料の安定供給の問題点は、天候不良でも、外国の外交戦略の手段でもなく、人口爆発による食糧危機でもなく、情報を隠したがる官僚と、そのことから生じる国民の誤った思い込み、そしてパニック。これが食料の安定供給に暗い影を落とすようだ。
<マスコミ・識者の責任> 1996年、政府の住専処理案が批判されている頃、NHKテレビの討論会で、話題が住専処理案を通さないと金融不安が起きる、となった時、時の大蔵大臣(社民党)に「具体的にどの金融機関が危ないか、名前をあげてください。」と質問した大学の先生がいた。とんでもない質問だ。大蔵大臣が「この銀行とこの信用組合が危ない」と言ったら、間違いなく取り付け騒ぎが起きただろう。失言恐慌を頭に浮かべ、誘導尋問をして第二の片岡蔵相を作ろうとしたスタンドプレーとみた。 
 同じ頃一般紙のコラム「論説委員室から」にはこうあった。「農協貯金の取り付けや、ノンバンクである住専に端を発した金融不安が起こるというなら、どんな理由、どういうプロセスで起こりうるのか、なぜ防げないのか、納得のいく説明が必要だ」
 素人の投書ならともかく、論説委員なら政府に替わってその説明をすべきだったろう。鎌を掛け政府関係者の失言を誘おうとしたのは、文章を扱う者としては品位のない態度だ。社会的地位を利用して発言する人は、その影響力を意識すべきだ。アマチュアエコノミストがインターネットのHPで発言するのとは違う。
 「社会的地位、社会的影響力のある人は、それにふさわしい行動をしなければならない」==ノブレス・オブリージュ
 もっともこれは「もともと身分の高い人間は・・・」というのが本来の意味で、生まれた時からの育ちと教育を通じて身につく「特製の後天的バックボーン」であり、少し社会的影響力を持ったからといって、それだけではエリートとしての自覚が身につくものではない。買いかぶっていたTANAKA1942bの方が間違っていたのかも知れない。残念。
( 2001年9月24日 TANAKA1942b )
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12 交換の正義が守られないとどうなるか?
今も生きてる、江戸商人の知恵
<約束を守るためのコスト 破った場合の機会費用> 食糧安保の立場から「コメは自給すべき」と主張する、その根拠として「どこかの国に食料を依存すると、外交交渉のカードとして使う。」「もしも不作の場合は自国優先で日本への輸出を停止を停止する」をあげる。一方自由貿易を支持し、信頼する立場は心配していない。「交換の正義は守られる」「もし守らなければ、手痛いしっぺ返しを受ける」「マネーゲームのプレーヤーはそれを知ってゲームに参加する」このように考える。そこでここでは「交換の正義が守られないとどうなるか?」いくつかの例を検証してみよう。
<ロシアの国債モラトリアムとLTCM> 1998年8月17日ロシア政府はルーブルの切り下げと国債償還の無期延期を発表した。内容は次の通り。
 (1)中央銀行は1ドル=6.0から9.2ルーブルの水準で為替変動政策に移行する。引き続き激しい為替変動に際しては中央銀行が介入していく。また、金利政策も行っていく。
 (2)1999年12月31日までに償還期限が到来する国債は新たな有価証券に切り替える。これらの借り換えが終了するまでは国債の債権市場における取引は停止する。
 (3)外貨取引の一時停止、8月17日から90日間、外国からの金融クレジットの返済と有価証券を担保とした保証による保険の支払いの一時停止、先物外貨契約の一時停止を行う。
 これによりアメリカのヘッジファンドLTCMが巨額の損失を出し(20億ドルともいわれるが金額不明)、破綻の危機に追い込まれた。 1997年ノーベル経済学賞を受賞したロバート・マートンとマイロン・ショールズを経営陣に迎え、金融工学の粋を結集したヘッジファンドだったが、ロシアのモラトリアムはプログラムされていなかったようだ。これに対してアメリカ政府の対応は早かった。市場への連鎖反応を懸念したニューヨーク連銀は、9月下旬急遽米欧金融機関債権団による、LTCMに対する36億ドルの救済融資シンジケートを組成し、倒産をくい止めたといわれる。マスコミの報道はこのLTCMのことが中心だった。しかしTANAKA1942bは違ったことに注目している。それはロシア政府に対する民間企業の不信感が吹き出したこと。「ロシアに投資してもいつデフォルトされるか分からない。しばらくロシアへの投資は控えよう」との空気が大勢を占めることになったことだ。
 ロシアの対外債務は1998年末で約1,500億ドル。パリクラブ(公的債務)とロンドンクラブ(商業銀行債務)がロシア政府と返済スケジュールの見直しを図っているが、さらなるリスケジュールが検討されることになるだろう。債権者側としては完全にデフォルトとして処理する訳にもいかず、かと言って新たな投資もしにくい状況で、ロシアの市場経済化への道のりは、まだまだ長いものになるだろう。結局ロシアのモラトリアムは高い機会費用を払うことになってしまったのだ。
<サハラ以南の国々の債務は帳消しにすべきか?> ジュビリー2000の主張は「帳消しにすべき」なのだろう。そうなると一時的に債務がなくなり開発途上国政府は楽になるように思える。しかしその後が大変だ。民間からの投資が途絶える。各国政府の援助も少なくなる。「借金を返さない国に税金を貸すな」と国民が主張し出す。民主制度では有権者の声は無視する訳にはいかない。一部の知識人や市民団体が「借金棒引き」を主張しても、どちらが票に結びつくか?で国会議員は判断する。開発途上国への援助は確実に減少する。債務帳消しとその機会費用、機会費用の方が多いのだろう。 そしてもう一つ。これを個人の借金に喩えれば、債権者に向かって「あの人は借金を返せないから、自己破産させましょう」と呼びかけているようなものだ。借金をデフォルトさせるということは、債務国を自己破産させようと言うこと、つまり一人前の主権国家とは認めない、ということ、自立出来ないと宣言することになるのだ。
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<山一証券の例> 1997年11月24日、山一証券は自主廃業した。資産が十分あるので会社更生法の適用ではない、とのことだったが実際は債務超過だった。大蔵省は数字を読めなかったのか?そうではなかった。大蔵省証券局は全てを把握していた。全てを承知の上で自主廃業を選ばせたのだ。なぜか?なぜ会社更生法を適用しなかったのか?それはコール市場でのデフォルトを恐れたからだ。 山一証券破綻の少し前、1997年11月3日三洋証券が東京地裁に会社更生法を申請した。これにより金融機関が短期資金を取引する無担保コール市場では1997年11月4日、始めて債務不履行(デフォルト)が発生した。コール市場は銀行や期間投資家が翌日物などごく短期の資金を取引する短期金融市場の中核で、市場関係者によると三洋証券は約10ー20億円をこのコール市場で調達していたとみられている。
 短期市場では金融機関は返済不能リスクを認識してこなかった。ただ三洋証券の処理が従来型の業務停止命令だけでなく、会社更生法だったため「大蔵省の破綻処理手法が読めなくなった」との戸惑いを招き、市場の不安心理に拍車をかけた。
 山一証券の破綻ドキュメントは多くの書物が出ている。筆者はその直前の三洋証券の破綻劇に大きな影響を受けたと思う。三洋証券のコール市場でのデフォルトがなければ山一証券の破綻劇も少し違っていたかも知れない。それにしても11月24日午前11時半から、東京証券取引所での野沢正平山一証券社長の記者会見は印象的だった。これからも金融問題をTVで特集するときには何度も使われるのだろう。
 記者会見の最後に野沢社長は突然、マイクを持って立ち上がり「私たちが悪いんです。善良で能力のある社員たちには申し訳なく思います。一人でも再就職ができるよう、みなさんも支援してください」と涙ながら絶叫した。野沢社長は午後2時からの社内放送で自主廃業の決定を社員に報告した時も、「何ら恥じることなく、自信を持って新しい人生を踏み出していただきたい」と7500人の全社員に涙声で呼びかけたという。
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<今も生きてる、江戸商人の知恵> 江戸時代の日本、幕府の統治組織はかなり整備されていた。しかし金銭の貸し借りの関しては「当事者同士で解決するように」と干渉しなかった。このような公的機関の保護のない社会で、「交換の正義」を守るためにどのようなことをしたのだろうか?その仕組みの一つが「株仲間による制裁」であった。江戸時代コメ・材木・薪・油などの商品の、生産者から消費者への流れはつぎのようであった。
 生産者ー仲買ー問屋ー仲買ー小売ー消費者
 問屋の取引は多くの場合、信用取引だった。現代では不渡りを2度出すと銀行取引停止になり倒産。では江戸時代はどうか?金銭問題は奉行所へ持ち込んでも解決されない。公的機関でダメなら私的機関で、となると私的取立屋が活躍したのではないか?そうするとこれをテーマに小説が書けそうだが、ここでは違う点に注目する。株仲間の制裁処置だ。
 どのような不正に対し、どのような制裁が行われたか?と言うと、「株仲間の誰かに対して代金不払いを働いた者の名前を文書にして、株仲間全員に知らせて取引を停止する」制裁だ。現代日本の高度に進化した(?)市場経済では参入の自由が保証されている。(という理想が掲げられている)しかし江戸時代は違う。株仲間に入らなければ商売をやれなかった。従って株仲間から取引制止処分を受けたら、商売できないだけでなく生活費を稼ぐのも大変なことだったろう。 現代日本にあっても「もしも不作の場合は自国優先で日本への輸出を停止する」と交換の正義に不信感を表す論者がいるようだが、江戸時代の商人はちゃんとその対策を用意していたのだ。大阪堂島の米商人といい,株仲間制度といい、市場経済に反感を持ち、心の奥のどこかで社会主義に幻想を抱く「隠れコミュニスト」よりもずっと資本主義的であったのだ。
 江戸時代の町人の知恵は現代でも生きている。それは相撲の世界だ。現役を引退した力士が親方株を買い、部屋を興す。株仲間独特のルールがあって仲間の行動を制約する。そのため識者が「男女平等」と叫んでも、土俵には女性を上げない。日本の文化を大切にする人なら、この伝統も尊重するだろう。
<国際コメ取引所ではどうなるか?> さてこれが国債コメ取引ではどのようになるだろう?勿論取引に関する国債ルールは作られるが、こうした制裁処置も不正抑制の効果を発揮するだろう。例えばオーストラリアが天候不順でコメの出来が悪く、コメ輸出組織ライス・マーケティング・ボードがプットを売っておきながら期日に現物を供出しなければ、以後国際コメ取引市場では売ることができなくなる。と言うことは、ニューサウスウエールズ州の南部のリベリナ地方で収穫されるコメは国際市場では売れなくなる。輸出産業ではなくなるわけだ。核戦争でもあり地球の最後が近いとなれば、やけくそになって、将来のことも考えずにでたらめなことをするかも知れないが、それは非現実的な仮定であって実際はそのような無謀なことはしない。 取引停止は強力な抑止力になる。なぜなら業者は「損得勘定」で行動するからだ。コメ自給派のなかには違った基準で行動すると考える論者もいるかもしれない。善意・環境保全・自然との共生・農業を基盤にした文化・共同体・・・。損得勘定よりもこうしたことを重視し、行動すべきと主張する論者もいるだろう。そして損得勘定だけで行動することを「拝金主義」と非難する。しかし取引は、損得勘定だけで行われ、業者は利潤中心で行動する。それだけにその行動は予見しやすい。そうでなければ、自然保護を中心に考えるか?伝統文化を守ろうとするか?生産者と消費者との連帯を大切にするか?によって違う行動をとるだろう。ダブル・スタンダードどころではない。基準がいくつあっても始末がつかなくなる。
 心配する事はない。国際コメ業者は市場からのけ者されるのがイヤで、約束はなんとしても守ろうとする。それが商売人だ。たとえ「拝金主義」「守銭奴」と罵られようが約束は守ろうとする。その気持ち「隠れコミュニスト」には理解できないかも知れないが、約束は守ろうとするものなのだ。
( 2001年10月1日 TANAKA1942b )
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13 文明開化で「自給自足」が神話になった
前半のレジュメ
<儲かる農業を考えよう> 農水省のHPの記事について再び考えてみた。食料自給率の低下と食料安全保障の重要性 ▲
(1)
変化した私たちの食生活  お米の消費が減る一方、畜産物や油脂など、大量の輸入農産物を必要とする品目の消費が増加してきました。その結果、食料自給率は一貫して低下し、40%(平成11年)となっています。」との記述。主要穀物(コメ、小麦、大豆、トウモロコシ)の需給表を見ると、コメの消費量が毎年少しずつ減っていること、およびコメ以外の自給率の低さに気づく。さらに(2)国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要  このような私たちの食生活は、国内農地面積(491万ha(平成10年))とその約2.4倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。」 との記述もある。
 自給率=コメ95%、小麦 9%、大豆 3%、トウモロコシ 0%、グレーンソルガム 0%。石油 0%、ウラン 0%、天然ガス 3%、砂糖 8%、塩15%。これが現実だ。ごく一部の「尊農攘夷」論者の主張する、自給率向上を目指すとするとどうなるか?
 コメの自給率アップは考えてもしょうがない。コメは余っているのだから、「どのようにして、無理なく減反するか?」あるいは「どのようにしてコメ作り農家を減らすか?」を考えるべきだ。時々ネットに登場する意見「不況なので農村へ行ってコメを作ればいい」は無茶な主張。そんなことをしたら益々厳しい減反を強いられるので、農家に取っては迷惑な話だ。
 では大豆はどうか?大豆の自給率向上に輸入制限するとしよう。国産品は価格が高い。大豆から作られる、納豆・豆腐・味噌・醤油が値上がりし、庶民の食卓から遠ざかり、ご飯食が減り、コメ需要が減り、さらに厳しい減反を強いられ、これもまたコメ作り農家には迷惑な政策なのだ。
 トウモロコシの場合は、家畜の飼料が値上げされるので、日本の畜産業が衰退する。その結果牛肉・豚肉などの自給率が低下する。
 こうした数字を前に、「日本政府の農業政策は間違っていた」との主張が出そうだが、この数字は政府の方針で出た数字ではない。生産者・集荷業者・小売業者・消費者がそれぞれ自己の利益を極大化しようとして出た数字なのだ。日本政府の力は目標の数字を定めそれに到達させるほど強くはない。軍事独裁でも、宗教政治でも、プロレタリア独裁でもない、民主制度の国なのだから。こうした問題で政府批判をするのは、単にストレス解消で言っているのだ。
(「縄暖簾の経済学」参照) 従って「食糧自給率を向上させよう」と言いながら、具体的な品目を言わないのは、まさに「自給自足の神話」(「自給自足の神話」参照)にとらわれているからで、、「いつまで経っても到達できないスローガンだから、いつまでも同じことを主張していられる。」という安易な態度なのだ。
 こうした神話に惑わされている内に、自由化への対応が遅れる。それは結果的にはコメ作りの農家の将来を不透明・不安定にするものだ。もうそろそろ「尊農攘夷」論をやめにして、「儲かる農業」「農家の収入安定」について議論すべきだろう。「農村部門が豊かになると、都市部の土地価格が下がり、都会人の生活が豊かになる」のだ。
※                      ※                      ※
<日本では文明開化で「自給自足」が神話になった> (2)を前提に食料自給を考えると、その達成のためには(A)国内農地面積を3.4倍にする。(B)生産性を3.4倍に、つまり単位あたりの収穫を3.4倍にする。(C)消費量を3.4分の1にする。毎日3回食事をする人が1日1食にする。(D)人口を3.4分の1にする。
 ABCについては既に書いた。ここでは(D)について考えてみる。
 人口が1/3.4 になればいい、ということは、日本の人口が3千5百万人になればいい。そう考えると江戸末期の人口が3千百万人。ピッタリだ。日本列島で人類が生きていくために、その食料を自給自足すると、江戸時代の生産技術で3100万人を養うのが限度。現代の進んだ技術で3500万人が限度、ということになる。江戸時代の人口の増減は食糧生産量に左右されていた。この時代は日本全体で、あるいは各藩で、あるいはそれぞれの地方で自給自足をしていて、「自分の食べるものは、自分で手当する」が原則だった。勿論「地産地消」も当然のことだった。
 自然界では供給される食糧の量に応じて個体数の上限が決まる。人類もその法則に従ってきた。自給自足の範囲が狭ければ狭いほどその法則は分かりやすかった。江戸幕府が開国を決め、薩長連合が幕府を倒し、その過程で「尊王攘夷」論が葬り去られた。文明開化によって、日本は日本列島での自給自足を捨て、地球での自給自足政策を採用した。この時から「自給自足」は神話になったのだ。そうしてそのことによって、日本での食糧供給以上の人間がこの列島で生活できるようになった。
 日本の開国=文明開化とは日本列島に食糧供給できる以上の人間が生活できるようになったことなのだ。 21世紀の今日「自給自足」を主張するのは、歴史を明治維新以前、江戸時代にまで戻して、鎖国をし食糧供給量に見合った人口に調整しよう、との主張なのだ。それはイギリスでかつて産業革命初期のラッダイト運動のように、歴史の流れを逆流させようとするものなのだ。
 人類が自分が必要とする以上の食糧を生産する技術を手に入れた時文明が発祥し、「自足自給」が神話になった。日本では「尊王攘夷」を捨て、文明開化を選択した時に、「自給自足」が神話になった。そしてその時から「尊農攘夷」信仰が生まれた。
※                      ※                      ※
<シリーズ前半のレジュメ> このシリーズ始めた当初は10回続くかどうか、と思っていたのだが、ここまで回を重ねることになった。これでほぼ道半ばといったところ。そこでこれまで書いてきたことを纏めてみようと思う。
 「食糧の安定供給のためにコメを自給すべき」との主張は間違っている。安定供給のためには生産地、流通経路を多くすること、言い換えれば「自給率を下げる」ことなのだ。
(=1=もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ) もし特定の1国からの輸入に集中するのが不安なら、関税率を工夫する。(=2=関税率とノブレス・オブリージェ)  こうした状況は農水省の官僚は理解しているはずだ。しかし立場上言えない。それを(=3=農水省事務方の苦悩)として書いた。 (=5=自給自足の神話) では(それは文明の発祥と同時に神話になった)との、反証不可能な、非科学的な仮説を展開した。
 以上は「自由貿易こそが国民を豊かにする」との考えで書いた。
(=6=現代に生かそう大阪堂島の米帳合取引)からは先物やオプションがコメの安定供給と、コメ作り農家の収入安定に役立つだろう、との趣旨で書いた。
 これで「コメは自由化すべし」と「コメ帳合取引所」を終わり、これからは「儲かる農業」「農協はどうする」について書くつもりです。コメ作り農家も集荷業者も小売店主も消費者も、誰もが国民経済に貢献しようと思っているわけではないし、自分がどれほど寄与しているのかさえ知らない。ただ自分自身の利益拡大を図っているのであるが、多くの場合と同様に見えざる手に導かれて、今まで考えてもみなかった「食糧の安定供給」という大きな目標を促進する事になる。(アダム・スミスは生きている)
 いつものことながら、私の個人的な趣味に、これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
( 2001年10月29日 TANAKA1942b )
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14 農協はどうなるのか?
購買事業の歴史的使命は終わった
<メーカーとの交渉力が使命だった> 1947年(昭和22年)農業共同組合法が公布された。その後の経緯は別項に譲るとして、ここでは購買事業について考えてみる。先ず当時の状況を筆者なりに推測してみよう。
 購買事業の存在意義は、大量購入による仕入れ価格の削減にあったと思う。戦後間もない頃、世の中は物不足。生産者と消費者では生産者主導の取引だった。そこで個々の農家とメーカーとの力関係で言えば、メーカーの言いなりだった。そこで農協が登場した。メーカーと対等に価格交渉できると期待された。
 その後の変化をどう捉えるか?筆者はこう考えた。 (1)生産者主導の経済から、消費者主導の経済へ変わった。 (2)物不足の時代から、物余りの時代になった。 (3)農協の経営体質が問題になり、利益を追求しなければならなくなった。
<(1)生産者主導の経済から、消費者主導の経済へ変わった> 別の言い方をすると「お客様は神様です」が徹底した経済社会になった。それには消費者運動の果たした功績が大きいと思う。1970年代になるまで、乳脂肪分が何%であってもアイスクリームと呼び、果汁0%でもジュースと称していた。これに対して消費者型の異議申し立てが起きた。メーカー側は驚いたに違いない。それまでそうしたことに対する消費者の異議申し立て等なかったのだから。小さいことのようだが生産者の目を消費者に向けさす効果があったと思う。家庭電化製品のメーカー責任によるリコールが始まったのもこの頃だった。一方消費者運動の名を借りてメーカーを恐喝したと、欠陥車問題の弁護士がホンダに訴えられたのもこの頃だった。アメリカの消費者運動家、ラルフネーダーに刺激されながらも、日本独自の試行錯誤を重ねながら消費者主導の経済体制を築き上げていった。こうした関係者の努力は高く評価したい。
 こうした消費者主導に変わっていったのは食品製造や家庭電化製品が中心だった。消費者にとっての身近な商品、そして大企業中心だった。これには大企業=独占企業、消費者対大企業の対決、といった図式が消費者側の頭にあったかも知れない。当時は70年安保が終わったと言っても、今では考えられないほど社会主義に対する国民の憧れが強かった。そのような時代に、大企業を攻撃しようとする気持ちと消費者の権利を主張しようとする気持ちが合わさり消費者運動が進められたのだと思う。
 日本でまだ消費者運動が理解されていない時代、訳の分からない「消費者運動」を名乗る団体から矢文が来て、当時の担当者はとまどったに違いない。初めの内煙たがられていた運動も次第に理解される様になり、企業は消費者対策に力を入れ始めた。消費者運動の矢面に立たされたのが大企業中心であったため、皮肉なことに大企業から消費者対策に力を入れ始めた。「お客様は神様だ」は大企業から徹底していった。そうして未だに農業ではこの考えは定着していない。何しろ消費者に向かって生産者がお説教するのだから。農業が日本の文化の中心で、環境保護に効果があり、ダム効果は3兆円相当で、日本の工業が不振になり食料輸入ができなくなるとどんなに危険なのか、そのために自給率を上げなければならないのだから、高い食糧でも国産を買うべきだ、と。このような説教を家電メーカーや自動車メーカーがやったらどうなるだろう。とてもそのようなことは想像もできない。
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<(2)物不足の時代から、物余りの時代になった> この変化によって消費者のニーズが多様化した。商品を提供する側は絶えず消費者のニーズを知らなくてはならない。さらにそれに伴って幅広く、奥深い商品知識が必要になる。一般の企業ではこれを怠るとライバル企業にシェアを取られ、社員はボーナスが少なくなる。そのインセンティブがあるので消費者の要望に応えられるのだ。農協ではどうだろうか?
 物不足の時代には必要最小限の商品をそろえれば良かった。それで消費者・農家は喜んで・感謝して買ってくれた。その記憶が消えてない現代、消費者・農家が感謝して農協から物を買ってくれると錯覚している。物余りの時代、農協以外の販売業者は必死で消費者の機嫌を取ろうとする。ここでの取引は消費者が感謝するのではなく、「買ってくれて、有り難う」なのだ。当然消費者はそちらへ向かうようになる。「消費者・お客様は神様です」の方へ足が向くことになる。
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<(3)農協の経営体質が問題になり、利益を追求しなければならなくなった> 購買部門が利益を出すということは、(1)仕入れを安くする、(2)売値を高くする、(3)販売経費を節減する、のどれかだ。
 (1)農協の仕入れは安いのか?しっかりした資料がないようだ。ある資料によると農協のマージン率は小売商に比べかなり少なくなっている。そしてそれを引用した著者は実際は同じくらいだろう、と書いている。2000年11月に農水省が「農協改革の方向」というタイトルの文書を発表した。これによると「農業者等からの直接の発注を受ける受注センターを全国に一カ所設け、広域に配慮した配送拠点から供給する体制を確保し、輸送・在庫コストを最小にしていくこと」とある。それに対するコストとリスクは誰が負担するのか?結局は農協と農家が負担することになる。 コスト対ベネフィットと考えてどうなのか?コストもだがベネフィットの元になる資料、つまり現在の仕入れコストが一般企業に比べてどの位高いのか?この受注センターによりどの品目が、どの程度流通コストが低減できるのか?そうした数字、元になる数字がない。戦後の物がない混乱期ならともかく、現代では仕入れ価格に大きな差はないとみるべきだろう。 そうすると(2)の売価を高くすることに期待が集まる。
 (2)つまり「農家に高く買ってもらおう」と言うことになる。ここにおいて「農家のための購買部門」が「農協のための購買部門」に変身する。この販売価格に関してはもう一つ問題がある。農水省の文書から引用しよう。「農業者のタイプにより購入の仕方が異なるので、購入形態や購入量に応じた価格設定等のルールを定め、・・・実質的に公平な事業運営を行うこと」
 つまり「いっぱい買ってくれる人には安く売りましょう」という当たり前のことだ。この当たり前のことが改革の方向だと言うのなら、今まではどうなのか?大口購入者の犠牲において小口購入者が得をしている。別の言い方をすれば「みんなで弱者である、小口購入者を助けている」「大口購入者と小口購入者が共存している」「農協は助け合いの精神が十分に生かされた組織で、市場原理・競争原理に基づく社会はそのひずみを全て弱者に押しつけることになる」
 (3)販売経費を節減する、ということは農協も一般企業並に今流行の「リストラ」をやろうと言うことだ。ここにおいて農協がやっと一般企業並の時代感覚を取り入れることになる。 そしてこのことが「農協内に競争原理を持ち込み、助け合いの精神を失わせる」「農協と一般企業との区別がなくなる」と、組織内で旧勢力から反対されることになる。
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<販売部門が利益を出すと言うことは・・・> 販売部門が利益を出すということは、安く仕入れて、高く売ることにつきる。戦後の混乱期には「農協」という大きな組織であるが故に安く仕入れことができた。社会が変化し、経済が変化し農協であることの特典はなくなった。農家は農協から購入する価格面でのメリットがなくなった。農協が生き残るためにはマージン率を上げなければならなくなった。つまり「農家に高く売る」と言うことだ。この機に及んで「農協の購買部門」はどうあるべきなのか?
 「購買事業の歴史的使命は終わった」では具体的にはどうしたらいいのか?農水省の「文書」はアマチュアエコノミスト以下の作文として葬ることにしよう。今週はここで止め、農協の問題は回を重ねながら具体的な改革案を提言していきます。ご期待ください。
( 2001年11月5日 TANAKA1942b )
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15 農協購買部門、各方面からの見方
農家は農協をとことん利用してみよう
 農協は各方面からどのように見られているのだろうか?まず政府農水省から。国の方針は法律を目ればいい。そこで平成11年に制定された「食料・農業・農村基本法」を見てみよう。この法律の目的は
第一条
 この法律は、食料、農業及び農村に関する施策について、基本理念及びその実現を図るのに基本となる事項を定め、並びに国及び地方公共団体の責務等を明らかにすることにより、食料、農業及び農村に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図ることを目的とする。」

とある。以下2条から5条までを「基本理念」としているので、ここに掲載しよう。

(食料の安定供給の確保)
第二条
 食料は、人間の生命の維持に欠くことができないものであり、かつ、健康で充実した生活の基礎として重要なものであることにかんがみ、将来にわたって、良質な食料が合理的な価格で安定的に供給されなければならない。
2 国民に対する食料の安定的な供給については、世界の食料の需給及び貿易が不安定な要素を有していることにかんがみ、国内の農業生産の増大を図ることを基本とし、これと輸入及び備蓄とを適切に組み合わせて行われなければならない。
3 食料の供給は、農業の生産性の向上を促進しつつ、農業と食品産業の健全な発展を総合的に図ることを通じ、高度化し、かつ、多様化する国民の需要に即して行われなければならない。
4 国民が最低限度必要とする食料は、凶作、輸入の途絶等の不測の要因により国内における需給が相当の期間著しくひっ迫し、又はひっ迫するおそれがある場合においても、国民生活の安定及び国民経済の円滑な運営に著しい支障を生じないよう、供給の確保が図られなければならない。
(多面的機能の発揮)
第三条
 国土の保全、水源のかん養、自然環境の保全、良好な景観の形成、文化の伝承等農村で農業生産活動が行われることにより生ずる食料その他の農産物の供給の機能以外の多面にわたる機能(以下「多面的機能」という。)については、国民生活及び国民経済の安定に果たす役割にかんがみ、将来にわたって、適切かつ十分に発揮されなければならない。
(農業の持続的な発展)
第四条
 農業については、その有する食料その他の農産物の供給の機能及び多面的機能の重要性にかんがみ、必要な農地、農業用水その他の農業資源及び農業の担い手が確保され、地域の特性に応じてこれらが効率的に組み合わされた望ましい農業構造が確立されるとともに、農業の自然循環機能(農業生産活動が自然界における生物を介在する物質の循環に依存し、かつ、これを促進する機能をいう。以下同じ。)が維持増進されることにより、その持続的な発展が図られなければならない。
(農村の振興)
 農村については、農業者を含めた地域住民の生活の場で農業が営まれていることにより、農業の持続的な発展の基盤たる役割を果たしていることにかんがみ、農業の有する食料その他の農産物の供給の機能及び多面的機能が適切かつ十分に発揮されるよう、農業の生産条件の整備及び生活環境の整備その他の福祉の向上により、その振興が図られなければならない。

 農協に関しては次のようにある。

(農業者等の努力)
第九条
 農業者及び農業に関する団体は、農業及びこれに関連する活動を行うに当たっては、基本理念の実現に主体的に取り組むよう努めるものとする。
(団体の再編整備)
第三十八条
 国は、基本理念の実現に資することができるよう、食料、農業及び農村に関する団体の効率的な再編整備につき必要な施策を講ずるものとする。
この法律を基にその政策の具体化のための計画があるので、そこから農協に関係のありそうな部分を抜き出してみよう。
食料・農業・農村基本計画 平成12年3月
4 団体の再編整備に関する施策
 基本法の基本理念の実現に資することができるよう、食料、農業及び農村に関する団体の効率的な再編整備につき必要な施策を講ずる。  なお、これらの団体に関連する食料、農業及び農村に関する諸制度の在り方の見直しを行う場合には、これらの団体の体制についても、その見直しを行う。
ア 農業協同組合系統組織
 農業協同組合系統組織が、自主的に、食料の安定供給、農業の持続的な発展、農村の振興という基本法の基本理念を的確かつ効率的に実現できるような体制を整備するのに必要な施策を推進する。
イ 農業委員会系統組織
 農業委員会系統組織が、優良農地の確保及びその有効利用、担い手の育成及び確保等の役割を効率的かつ十分に果たすことができるよう、組織体制の適正化や組織の効率的な再編整備に必要な施策を推進する。 
ウ 農業共済団体
 農業共済団体が、農業の担い手の育成や農業経営の安定に果たす役割を強めつつ、農業災害補償制度の円滑な普及・定着に向けた取組を効率的に展開できるような体制を整備するのに必要な施策を推進する。
<それほどまでに国の干渉が必要なのか?> これほどまでに国家が口を出さないと。農業はやっていけないのだろうか?日本国内では一方で「規制緩和を求む」との声があり、一方で国の保護に入ろうとする。「人間幼稚化」ではなく「産業幼稚化」なのだろうか?
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<全中のHPから> 組合員が作った新鮮で安心な農作物をJAを通して販売する「販売事業」、そして農業生産に必要な資材や生活に必要な物資を通して購入する「購買事業」を行っています。この事業をあわせて「経済事業」と呼んでいます。
《購買事業》
飼料の購入の際に、地域農業の担い手である大規模専業農家等に対し、供給数量や配送コストに見合った弾力的な価格設定を行う等のきめ細かな対応をしていくことが求められています。
 変化しつつある多様な食料需要に対応した農業を構築していくためには、きめ細かな消費者ニーズの把握が不可欠です。
 販売金額の伸びが大きい単位農協(1つの農協)については、以下に示す例のように、消費地や消費者に自ら積極的にアプローチする取組の実施率が高くなっています。
◆消費地へ出向いての実地調査
◆消費地でのアンテナ・ショップ等の設置
◆消費者との定期交流 等
 1JA(=農協)当たりの事業部門別の損益を見ると、従来より、信用・共済部門においてはプラス、購買・販売部門ではマイナスという状況が続いています。
 生産資材事業は、肥料農薬事業、資材・農機・施設住宅事業に大別されます。
 肥料農薬事業は、文字通り肥料と農薬の流通を担っています。なかでも化成肥料をはじめとする主要肥料の取扱量は国内流通の70%を占めています。化成肥料の原料のほとんどは国内で産出しないため、海外からの仕入れ機能強化にも取り組んでいます。また、「アラジン」をはじめとする高品質で安価なJAグループ独自の肥料・農薬の開発・供給も重要な業務のひとつです。
 資材事業では、育苗・栽培に必要な被覆資材や出荷のための包装資材を取り扱っています。低コスト段ボール資材の開発や環境に配慮した資材の普及に努めています。
 農機事業では、生産に欠くことのできない農機を取り扱っています。低コスト農機(HELP)の型式設定や取扱拡大を推進するとともに、広域部品センター設置など、広域的な事業展開をすすめています。
 施設住宅事業では、大型カントリーエレベーターや、選果包装施設など農家の省力化・低コスト化、さらには高齢化・情報化に対応できる施設の建設を推進しています。このほか、アパート経営支援等、土地活用のコンサルティングを行い、生産者の生活を支援しています。
<参考> 購買事業で農協のシェアは次のとおり、肥料92.3%、農薬70.0%、石油類64.0%、飼料39.8%
 農協と小売商のマージン率比較があるのでその一部を掲載しよう。品目 農協マージン率 (小売商マージン率)
 飼料4.8 (20.6) 肥料12.2 (20.6) 農業機械11.2 (28.7) 石油類18.3 (25.4) 自動車7.3 (29.1) 建築資材4.9 (26.0)
 米12.9 (22.3) 生鮮食品19.7 (32.9) 一般食品16.8 (24.6) 衣料品15.3 (37.6) 耐久消費財11.5 (34.4) 日曜保険雑貨洋品13.8 (31.9) 家庭燃料45.2 (46.8)
 以上の加重平均15.2 (27.3) 購買品全品目の平均14.3 (35.9)
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<誰でも、どこでも、購入量に関係なく価格は同じなのか?> 飼料の購入の際に、地域農業の担い手である大規模専業農家等に対し、供給数量や配送コストに見合った弾力的な価格設定を行う等のきめ細かな対応をしていくことが求められています。
 全中のHPから上記の文を拾い出した。これによると「多量に購入してくれるお客様には、優遇価格を適用しましょう」とのごく当たり前の商売になる。しかし本当に当たり前なのか?農家が単独でメーカーや商社と価格交渉しても力が弱い、そこで農協が纏めて多量に購入することによってメーカー・商社と価格交渉というのが農協購買部門の趣旨のはずだ。従って「多量に購入する農家も、少量購入の農家も同じ価格」のはずで、そしてそれは内部で確認されていた。農協の精神とは「力の弱い農家が集まれば強くなる。強い農家も、弱い農家も力を結集しましょう」つまり強い農家から弱い農家への所得移転を農協がやっているわけだ。それが普通の商売に改めよう、というのがこの文の趣旨になる。つまり「農協という名の社会主義的生産共同体、旧ソ連のソフォーズ、コルフォーズや人民公社から資本主義社会の株式会社にしましょう」と言うことだ。これで農協も、一般の業者と争って、農家=お客様=神様のご機嫌を取ることになる。農家にとっては歓迎すべきことだ。せいぜい我が儘を言ってどの業者が一番農家の希望を聞くか、見極めてみよう。
<運命共同体ではなく、便利なお店と考えよう> 農家が豊かで安定した収入を得るためには「農協は、運命共同体などではなく、便利な近所のお店」と考えるのがいい。もしほかにもっと便利なお店ができればそちらも利用すればいい。と言ってもどちらか一つに決める必要はない。そこでサービス競争が始まる。農協にとっては今までに経験したことのない競争になるだろう。そこで負けて競争から撤退する農協も出るかも知れない、あるいは十分な戦略を練ってたくましく生き延びて行く農協も出るだろう。そうして農協が「人民公社」から資本主義社会のサービス業に変身する。その変身ができなければ、いずれ単なる農家の親睦団体になるだろう。それを決めるのは神様=お客様=農家だ。
( 2001年11月12日 TANAKA1942b )
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16 農協、その事業内容の確認
「お客様は神様」の時代についていけるか?
 「コメ自由化への試案」を考えるとき「農協をどうするか?」は避けて通れない大きな問題だ。購買事業を取り上げたが、もう一度「農協とはなにか?」の原点にかえって、その事業内容を再確認してみよう。
信用事業 JAバンクだ。銀行や信用金庫・信用組合などと同じと思えばいい。預金残高約36兆円。問題点は状況の変化にどう対応するか?ということだ。 (1)金融ビッグバンで競争が激しくなる。これに勝ち残れるか? (2)低金利時代資金運用をどうするか? (3)農家の資金需要が伸びない。どこに貸し出すか?
 農家が農作機械などを積極的に購入していた時代は農家に資金需要があった。しかし農業がこれから拡大する産業とは考えられない、とすると農業での資金需要は伸びないだろう。電化製品や乗用車の普及もこれからは伸びないだろう。ではJAバンクはどこに貸し出すのだろうか?かつて住専に集中的に貸し込み大きな失敗をした。あれは「リスクを分散する」という基本姿勢を怠っていたからだ。この体質は今でも変わらないかも知れない。食糧の安定供給のために「供給地と流通ルートを多くし、リスクを分散させる」という姿勢を理解してないかも知れない。リスクを分散させるのではなく、「統制経済、社会主義経済のように一カ所で集中管理するのがいい」と考えているのかも知れない。 新たな融資先を開発しなければならない。かと言ってデリバティブは理解できないだろう。と言うより理解したがらないだろう。「あれはアメリカのグローバル戦略の一環で、金融も農産物もアメリカの多国籍企業の支配下に置こうとする戦略だ」と拒否するのだろう。
 低金利なのでコール市場での運用も期待できない。都市銀行など資金の取り手が農協・信託銀行などの出し手に期待しなくなっている。
 金融商品の多様化により農協でもリスクの高い商品を扱えるようになった。その「リスク」という概念を農家=お客=神様に理解させられるだろうか?いやそれよりも農協職員自身が十分理解できるのだろうか?多くのリスクを抱えたこの市場経済が社会主義経済・政府による管理保護経済と違うことを。それでありながら農協はこの「信用事業」と「共済事業」によって他の事業を支えている。現在これが農協の屋台骨になっているのだ。
共済事業 1950(昭和25)年、全国共済農業協同組合連合会(全共連)が設立された。この事業は、まず組合員と農協(JA)とが契約を結び、組合はこれを県共済連に再共済する。そして県共済はJA全共連に再々共済をして、共済責任を保証する仕組みになっている。
 信用事業と並ぶ農協の屋台骨。信用事業と同じように資金の運用方法が今後の問題だろう。この業界での金融ビッグバンの影響はどうだろうか?信用事業に比べればあまり悲観的ではない。共済と言う保険商品の販売は、自動販売機やセルフ・サービス販売ではない。フェイス・トゥー・フェイス販売、縁故、人脈販売が中心だから農協での販売は安泰だろう。ただそれだから「農協は共済などを押し売りする。断ると日常の扱いで不利になるので断れない」との不満が出るかも知れない。それが農協離れに結び付かなければいいのだが・・・
 それでも農協職員の多くが、信用事業と共済事業を手がけるようになるといい。そうすれば「リスク管理とはどういうことか?」を考え理解するようになるだろうからだ。
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販売事業 農協組合員が生産した農産物を協同販売して、組合員個々で対応するより有利な価格を実現しようとするのが農協の販売事業。また生産物を一定期間貯蔵・保管したり加工するのも販売事業の一部だ。問題は (1)無条件委託方式は今のままでいいのか? (2)コメの流通が自由化され、集荷業者としての特権がなくなり、扱い量が減ること。
 「リスクを分散させる」と言うことは流通部門にも当てはまる。農産物を農協を通して消費者のもとに届ける。その流通ルートは農協だけでなない。各地方の卸売市場も積極的に農家へ働き掛けている。ネット上でも野菜の流通ルートを作ろうとの動きがあり、何かのきっかけにこれが大きく発展する可能性がある。また産地直売はこれからも少しづつではあるが市場を大きくするに違いない。それは日本国民が豊かになって食品に対する価値観が変わって来ているからだ。未だに食糧を飢餓から救う物、「食べ物がなければ死んでしまう」との捉え方をする人がいるが、日本人の多くは飢餓も栄養失調もあまり意識の中にはない。むしろグルメとして捉えることが多くなっている。「飽食の時代」との表現で贅沢を批判する人も、日本にいる限り飢餓の心配はない。むしろ飢餓の心配がないから「飢餓」「人口爆発による食糧危機」を論じられるのかもしれない。(この話を進めていくと「縄暖簾の経済学」になりそうなのでここで話題を変えます)
 いずれ農協以外の集荷業者が参入し、農家に対して農協ではできない各種サービスを始めるだろう。そしてその集荷業者にとって農家はお客様=神様だ。神様にはどのように礼を尽くし、どのような我が儘に答えてくれるか?農家の皆さんは楽しみにしていていいだろう。
 流通の中心には取引所がなるだろう。江戸時代大阪堂島の商人の知恵が生かされるに違いない。すでに活動している「東京穀物商品取引所」も各地の中央卸売市場も、刺激を受けさらに活動を広げるだろう。
 「=6=現代に行かそう大阪堂島の米帳合い取引」で次のように書いた。
 東京にでき、大阪にでき、その他の地方にコメ取引所ができる。それぞれ銘柄とか取引条件などで、特徴を出す。それぞれが競い合って、そのうちに勝ち組・負け組がでて提携・合併されるかもしれない。考えてみれば日本のコメ需要量からしてそれほど大きな市場にはならないだろう。では株式会社としてのコメ取引所が発展するにはどうしたらいいのか?それはコメに限らず商品を取りそろえることだ。クレジットデリバティブや天候デリバティブなども扱うことになるだろうし、不動産や債権を利用し、証券化した資産担保証券も扱うことになる。そしてコメで言えば、日本の備蓄米もオプション取引で扱われることになる。そうなってこそ現代版米帳合取引所の存在意義が認められることになるのだからだ。
 この文を書いてから天候デリバティブについてはNHKテレビで紹介されていたし、資産担保証券は東証で売買されるようになった。さらに面白いのは2001年11月18日、朝日新聞に「のどあめ販売に新デリバティブ 湿度53%超えたら、補償金払います」との記事があった。「天候デリバティブ」に「湿度デリバティブ」という新顔が登場したわけだ。
 さてこのデリバティブの世界、農協職員の皆さん、この早い動きについていけますか? 「ハイテク金融商品」「多国籍企業のグローバル戦略」「アメリカのスタンダードをグローバル・スタンダードと押しつけている」等という問題ではなく、江戸時代の大阪堂島の商人や、江戸を初めとする全国の株仲間の知恵、言い換えれば日本人が昔から持っていた、「経済に対するセンスと知恵」これが生かされたと考えるべきだろう。むしろ多くの社会主義幻想者の批判がある中でも、このように市場経済に対する優れたセンスと知恵を守り育ててきた先人を誇りにしたいと思う。
購買事業 肥料・農薬・飼料・農業機械など組合員の営農活動に必要な品目の供給を行うのが生産(資材)購買であり、食品・日曜雑貨洋品・耐久消費財など組合員の生活に必要な品目の供給を内容とする生活(資材)購買だ。組合員が個々に交渉するより、組合として大量購入を前提として価格交渉をした方が有利だろうとの趣旨だ。しかしこれは供給側の態度の変化により、共同購入のメリットがなくなりつつある。
 「価格破壊」「流通革命」「消費者のニーズの多様化」等に対応できるのだろうか?「組合員=農家=お客様=神様」と言う意識はあるのだろうか?神様=農家=組合員はJAコープに限らず気に入ったお店で買い物をすればいい。それによって農協離れが起こると心配するなら、その時農協は慌てて対策を考えるだろう。どうしたら神様に気に入られるか?を。そして農協改革が起こるか、あるいは破綻の道を歩み始めるか?
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営農指導 農協事業の中で一番重要な事業かも知れない。そのポイントは「個々の農家に対する、作目別技術及び経営の指導・相談」となるだろう。これに対する営農指導員は、一農協あたり 5.3人、一営農指導員のカバーする正会員は平均 296人。農協職員に占める営農指導員の割合は 6.2%とけっして多くはない。「農協は営農指導をおろそかにしている」との批判が出るのも無理からぬことかも知れない。
 営農指導は受益者負担になっていない。おおまかに年間一組合員いくら、という形で徴収した原資(賦課金)や事業からの利益で賄っている。つまり赤字事業なのでこのままで営農指導を充実させるのは難しい。思い切った発想の転換=例えば組合員から「一時間いくら」といった対価を取る方式などを検討すべきだろう。とは言えこれは難しい。農協の精神は「受益者負担」ではないだろう。「助け合いの精神」ならば強者も弱者も平等に受益者として負担するということは受け入れられないはずだ。
 ここに業者が参入したらどうなるか?十分料金に見合ったサービスを提供するだろう。数社が参入しサービス競争が始まる。ここでも農家は業者にとってのお客様=神様だ。
厚生事業 1947(昭和22)年、農協が発足するとともに、厚生農業協同組合連合会(JA厚生連)が発足して病院経営に取り組むことになった。医療・保険事業は主に都道府県の連合会によって行われ、単位組合がこれを利用する仕組みになっている。
 JA厚生連に限らず保険事業は厳しいはずだ。もしそうでないと言うなら状況を性格に理解していないか、何かを隠しているかだ。 (1)低金利時代にあって資金運用が厳しい。つまり集まった保険料から運用益が出せない。 (2)高年齢化に伴い医療費が大きく伸びている。これらに対する対策はどうなのか?大手企業の健保や国民健保でも有効な方針が定まらない。農協で独自の将来像は描けないだろう。
観光・リゾート事業 観光事業としては、1967(昭和42)年に社団法人全国農協観光協会を設立、1990(平成2)年、株式会社全国農協観光に事業を引き継ぐ。これは旅行代理店。リゾート事業としては都市住民の農村・農業とのふれあいを目的とした「農村型リゾート整備」を進めている。
 1980年代のバブルが膨らんでいる時代ならともかく、大型テーマパークでさえ経営危機にある今日、どのようなリゾート計画を進めると言うのだろうか?旅行代理店は米国多発テロの影響で売り上げが減っている。社会的意義はともかくとして、経営はやっていけるのか?不良債権にならなければいいが。
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教育・広報事業 「事業」という表現をしたが、利益を生むものではなく「活動」という言葉が適しているかもしれないがここでは「事業」という言葉を使う。ところで「教育」とはどのような「教育」をするのだろうか?資本主義社会日本の中で、株式会社に囲まれた中で、「いかにして非資本主義社会を守って行くか?」の教育になるのだろうか?1844(弘化元)年、イギリスのロッジデールの組合の精神を現代に生かそうと教育するのだろうか?ロバート・オウエンなどに受け継がれて行く、マルクスの表現を借りれば「空想社会主義」をこの日本で実践しようとするのだろうか?そしてその教育となると、「1825年に始まり4年後に失敗した、ニューハーモニーにおける空想社会主義運動」を教育するのだろうか?もし本当に中央の幹部がそのように考えているならば、社会主義の本家「日本共産党」はどのように評価するだろう?民主社会主義を目指す「民主社会党」はどうか?そしてコメ議員の多くいる資本主義政党「自由民主党」は?もしもこの教育が徹底し農協組合員がロッジデールの空想社会主義を支持したら、日本の社会体制はどうなるのだろう?
農政事業農協法で「中央会は、組合に関する事項について、行政庁に建議することができる」とある。これにより政府に働きかける事業。コメ族議員に圧力をかける事業。今まではかなり成果があった。これからはこうしたレントシーキングの効果は期待できなくなる。それよりも消費者=お客様=神様のご機嫌を取る事業にシフトした方がいいだろう。
 ところで農協の農政事業では「危機管理」を研究しているのだろうか?日本政府が「外圧に負けた」との口実でコメ自由化を認めたらどうしたらいいのか?1995年12月のウルグアイ・ラウンドでは全くコメ輸入に対する「危機管理」はできていなかった。「そうなったらイヤだ」と思いながらも、「そうなることを予想して」研究しなければならない。「言霊」の国の研究者には辛いことだ。
 もう一つ、コメ族議員は「日本の農業を憂える余り、コメ族議員なのだ」とは思わないほうがいい。「農村票が欲しいから」なのだから。そしてそれは当然のことで、非難すべきことではない。こうしたクールな見方で、さて「農協を守る」のか、「農家を守る」のか、いずれ決断すべき時がくるに違いない。
青年部・婦人部 農協青年部は農村青年の独立した自主組織であって、農協の内部組織でも、御用組織でもない。という建前ながら農協の助成金に依頼している。そして若い人達は農協の古い体質に批判的だ。さらに農業人口の大幅な減少による部員数の減少、兼業化の波などの問題がある。
 農協婦人部は青年部に比べて元気がいい。ただし余り元気がいいので農協の古い体質衆からやっかみが入らなければいいが。むしろ農協から独立した方がこれからも大きく伸びるのではないだろうか。
農村文化の継承 農協関係の書物を読んでも余り書いてはないが、このあたりが一番農協のウリなのだろうと思う。将来農協がじり貧になり、影響力を失ったとしても、「農家の親睦団体」としては残るし、「農村文化の継承者」としての地位は保つだろうと思う。
 日本にはキリスト教、ユダヤ教、イスラムなどの一神教は根付かなかった。八百万の神々の国だ。その国で戦前ほど神社やお寺が地域社会での影響力を失っている。そうなると農村部では農協の出番だ。伝統文化・精神文化を扱うサービス業としての農協の存在を見直してもいい。問題はコストをどうやって手当するか?だ。農協の他事業から組み入れるか?しかしそれほど余裕もないし。受益者負担にするか?あるいは神社・仏閣のように寄付に頼るか?このあたりが試案のしどころになるのだろう。
( 2001年11月19日 TANAKA1942b )
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17 3段階の系統組織
組織ダイエットはなるか?
<農協の組織> 農協はどのような組織になっているのか?それを確認しよう。
正組合員と准組合員 農協の組合員には、共益権と自益権をもつ正組合員と、自益権はもつが議決や選挙への参加など直接的な共益権をもたない准組合員がいる。 正組合員になれるのは、10アール以上の土地の耕作を行っているか、1年に90日以上農業に従事している農民であること。
 准組合員になれるのは当該農協の地区内の地域住民であること。つまり一般のサラリーマンも准組合員になれる。
総合農協と専門農協  総合農協は特定の農業分野を対象としていなくて、信用事業と信用事業以外の事業を併せて行う農協。そして総合農協以外の農協を専門農協と言う。つまり総合農協は営農・購買・信用・共済などの事業を行い、専門農協は果樹園芸・畜産・酪農・養鶏。養蚕など特定の農産物の分野において、その生産指導・販売・資材の供給などを行う。
出資組合と非出資組合 組合員が加入する時に出資金がいるかどうか?出資義務のあるのが出資組合、組合員に出資させないのが非出資組合と言う。非出資組合は信用事業や共済事業は行えない。 財産的基盤が不十分で貯金者等の保護に欠ける恐れがある、との利用からだ。組合員の立場から考えると、特定の農産物生産には専門農協にきめの細かいサービスを期待できるが、信用・共済などのサービスがないので、専門農協の組合員でありながら総合農協の組合員になっているケースもある。 一方総合農協はそのサービス品目が多いだけに、それぞれが専門業者に負けないサービスを提供しなければならない、という苦労がある。例えば信用事業ならば民間の銀行・信用金庫・信用組合や郵貯と競合する事になり、共済事業も民間の保険会社と競合する。当然販売事業も購買事業もだ。
 総合農協は信用・共済・販売・購買など利潤を出す事業の他、教育・営農など収益を生まない事業も行っている。そしてこれらを充実させるには、それなりの経費がかかり、農協経営の足を引っ張ることにもなる。
 1993年(平成5)年 3月末の農協の数は総合農協3073、専門農協3921の計6994となっている。ちなみに1950年(昭和25)年 3月末の農協数は総合農協13,314、専門農協19,787の計33,101。
#                  #                  #
<事業別の上部組織> 農協組織は単位農協(専門農協・総合農協)、都道府県連合会、全国連合会という3段階の系統組織になっている。単位農協は全国各地に、地域別に設立される。総合農協はそれぞれカバーする地区が決まっていてテリトリーが重複することはない。 都道府県連合会は単位農協が組合員の意志により設立する。これは業種別の組織で,信連・共済連・経済連・厚生連および中央会がある。さらに都道府県単位の連合会の上部組織として全国組織があり、これは全国信連協会・農林中金・全共連・全農・全厚連・全中である。
 正式名称は次のとおり。信連=県信用農業協同組合連合会、共済連=県共済農業協同組合連合会、経済連=県経済農業協同組合連合会、厚生連=県厚生農業協同組合連合会、中央会=県農業協同組合中央会。 農林中金=農林中央金庫、全共連=全国共済農業協同組合連合会、全農=全国農業組合連合会、全厚連=全国厚生農業協同組合連合会、全中=全国農業協同組合中央会。
中央会は司令塔 都道府県連合会、全国連合会は業種別の組織になっているが、中央会だけは性格が少し違う。中央会は農協の健全な発展をはかることを目的とした指導機関だ。 通常の経済活動は行わず、農協の総合的な指導を行う。行政庁への建議(農政活動)(レントシーキング、つまり官庁や政党・政治家への陳情・圧力)や単位農協・連合会の監査なども行う。
#                  #                  #
<農協合併と組織2段階への進捗状況> 空想社会主義の共同体組織から資本主義社会の利益追求組織に変わらなければならない農協、3段階組織から2段階組織にと組織ダイエットをしようとしている。それは単位農協と全国連合会が直接結びつく。または単位農協と地域連合会で事業を完成させる。の方法により組織を変える。
 1991(3) 年10月にに開催された第19会全国農協大会で「農協の事業・組織の改革」が決議された。その内容は (1)単位農協の合併を促進し、大規模農協を確立する。 (2)こうした大規模農協が直接に全国連の事業を利用する事業2段階を実現する。 (3)府県段階の連合会と全国連合会を統合する。 (4)以上の方策を実践する具体策を策定する。
<農協合併と関連統計> 農林水産省「農協系統組織の現状と課題」平成12年5月 から数字を拾い出してみよう。
農業人口 昭和55年 専業農家=62万戸 兼業農家=404万戸 総農家数=466万戸 農家人口=2,137万人 
      平成10年 専業農家=43万戸 兼業農家=209万戸 総農家数=330万戸 農家人口=1,131万人 
組合員数 正組合員数 昭和55年=564万人 平成10年=534万人 
     准組合員数 昭和55年=224万人 平成10年=378万人
     正准合計  昭和55年=789万人 平成10年=913万人 
農協数 昭和35年=12,050 昭和45年=6,049 昭和50年=4,803 平成元年=3,791 平成10年=1,833 平成11年=1,580 平成12年=1,411
総合農協の統合平成13年3月31日現在、目標の529農協に対して1,411農協と達成率66%。(13年10月=1,153農協)
1県1JA奈良県が平成11年4月11日、県1JAとすることにより、農協合併と組織2段階を達成している。共済連は平成12年4月1日、全共連と統合。
信用事業農林中金との統合の方針を27信連が決定。
共済事業平成12年4月1日、47の県共済連と全国組織の共済連が一斉統合した。
経済事業=販売・購買事業平成13年3月31日、25の県経済連と全農が統合し、計31の県経済連が全農と統合した。
( 2001年11月26日 TANAKA1942b )
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18 コメ産直を考える
産業として伸びるキッカケとなるか?
 今週は予定していた原稿がどうしても纏まらないので、急遽思いつきで「コメ産直を考える」と題して書いてみた。産直に関しては「住専処理に税金投入は当然」を書いた時から気に懸かっていたので、もう少し突っ込んで考えてみた。
 旧食管法時代、生産されたコメは農協が一括集荷し、政府食糧庁が買い上げ、許可を受けた米屋だけが消費者に販売する、という一本のルートしかなかった。特別栽培米という制度はあったが、規制が厳しく扱う量は少なかった。 新食糧法により原則「生産の自由・販売の自由」となり、これにより新たに「コメ産直」というルートが生まれた。
 出荷側は生産農家であったり、民間の集荷業者であったり、農協であったり、民間のコメクラブであったり、「生産者直販」だったり「生産地直販」であったりする。さらにインターネットの普及により、宣伝・申込み・契約がネットでできるようになり普及への道が開けた。 今はネットを通じての思考錯誤の時代と言えよう。このルートが全消費量の何%になるか、データがないので分からないが、これから伸びるであろうことは十分予想される。
 従来になかったこの流通ルートが普及するとどのような影響があるか、考えてみた。
生産者と消費者のコミュニケーションが密になる 多くの消費者の声が生産者に届き、生産者は消費者ニーズに敏感になる。特に今このルートを利用する消費者は生産者に好意的な人が多い。トラブルも少なく、いい関係のコミュニケーションが深まるし、生産者の苦労も消費者に伝わる。「お客様は神様です」の考えが広まり、生産者に商売人意識・経営者意識が芽生える。  今週は予定していた原稿がどうしても纏まらないので、急遽思いつきで「コメ産直を考える」と題して書いてみた。産直に関しては「住専処理に税金投入は当然」を書いた時から気に懸かっていたので、もう少し突っ込んで考えてみた。
 旧食管法時代、生産されたコメは農協が一括集荷し、政府食糧庁が買い上げ、許可を受けた米屋だけが消費者に販売する、という一本のルートしかなかった。特別栽培米という制度はあったが、規制が厳しく扱う量は少なかった。新食糧法により原則「生産の自由・販売の自由」となり、これにより新たに「コメ産直」というルートが生まれた。
 出荷側は生産農家であったり、民間の集荷業者であったり、農協であったり、民間のコメクラブであったり、「生産者直販」だったり「生産地直販」であったりする。さらにインターネットの普及により、宣伝・申込み・契約がネットでできるようになり普及への道が開けた。 今はネットを通じての思考錯誤の時代と言えよう。このルートが全消費量の何%になるか、データがないので分からないが、これから伸びるであろうことは十分予想される。
 従来になかったこの流通ルートが普及するとどのような影響があるか、考えてみた。
既存の制度に刺激を与える このルートでの扱い量が増えると、集荷業者としての「農協」の扱い量が減る。農協のドル箱が小さくなり、農協に危機感が高まり、農協改革を進めざるを得なくなる。今まで規制に守られていた農協が、市場経済での普通の業者に変身する圧力になる。「産直」で成功した農協が先頭に立つかも知れない。
知恵が生かされる 消費者に気に入られる「勝ち組」と、そうでない「負け組」が出る。 どうしたら消費者の心を捉えることができるのか?HPの宣伝方法か?価格か?ブランドか?支払方法か?知恵の絞り所だ。若い人のアイディアが生かされ、他産業からの転入者・助っ人が活躍するだろう。
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市場が広がる 沖縄の消費者が北海道の農家に注文を出すこともあるだろうし、新潟の消費者が秋田こまちを発注するかも知れない。 さらにベンチャー精神旺盛の人は、海外邦人に売り込むかも知れない。配達方法・関税・検疫・為替などクリアすべき問題は多い。多くの失敗を繰り返しながらも挑戦する人は出てくるだろう。
 これは「身土不二」「地産地消」とは反対の動きで、とてもいいことだ。
 あの考えは消費者に多くの信者を作ることができても、生産者には邪魔な信仰だ。これから広く全国に消費者ファンを作ろうとする「芽」を摘むことになる。小さな地場産業に押しとどめようとする力になり、さらには保護貿易主義に向かう恐れもある。
 それよりも、紀州から危険を冒して江戸にミカンを輸送して大儲けをした、元禄時代の豪商「紀伊国屋文左右衛門」の行動力こそ、サプライサイドは手本にすべきであろう。(もっともこの話は俗説で、本当にミカン船を手配したのかどうか分かってはいないのだが・・・それでも「くだらない」の語源となった「下り物」は立派な「裁定取引」の典型と言える)
先物取引所設立への道につながる 今は新米の販売時期だが春になると、秋の新米の予約が始まる。半年先の取引の予約を契約する。これはもう立派な先物取引だ。取引所でのそれとは違い、相対取引ではあるが、これにより生産者も消費者も、先物取引のメリットを理解するようになる。未だに「先物取引」と言うと、デリバティブ、ヘッジファンドなどという聞き慣れないカタカナ語と共に、嫌悪感を持つ人もいるようで、「多国籍企業=食糧メジャーに日本の食糧が牛耳られる」との感覚で捉える人もいるかも知れないが、先物取引・オプションが生産者にとっても消費者にとってもメリットのある制度だ、ということが徐々にでもあるが理解されるようになり、「コメ帳合い取引所」の設立へ足がかりになる。
 ところで産直の取引価格だが、これは相対取引なので双方が納得すれば幾らでもいいのだが、それでも双方が納得するための参考価格があるといい。その役割を果たすのが帳合い取引所の価格だ。「手を掛けたコメなので取引所の価格よりも少し高い」とか「流通経路が短いので取引所の価格より安くできる」、など価格への信頼感のためにも、帳合い取引所ができるといい。江戸時代の大阪堂島米帳合い取引所は現代人にとっても必要な制度なのだ。世界に先駆けてこうした制度を作り出した先人に感謝しよう。
コメ作りが産業として自立への道を歩み始める ここに書いたことが順調に進めば、コメ作りが自立した産業としての道を歩み始める。やや楽観的な見方だが、間違っても反対の方向へ進むことはない。米作り農家も、集荷業者も、配達業者も、農協職員も、消費者も、誰も「農業改革」を意識しているわけではないし、自分がどれほど「食糧の安定供給」に貢献しているかも考えたことはない。ただ自分自身の利益拡大を図っているのであるが、多くの場合と同様に見えざる手に導かれて、今まで考えてもみなかった「米作りを産業として育てる」という大きな目標を促進することになるだろう。
順調に普及するのか? ある産業が大きく伸びる時期にはいろいろなトラブルが生じることがある。コメの産直もこれから取引件数が増えるに従い、消費者の思い違い、生産者の不手際からのトラブルも起こるかも知れない。しかし戦後物のない時代から、高度成長期を経てグルメの時代・飽食の時代となり、消費者は賢くなって来た。そして生産者側にも悪徳業者の入り込む隙も少ない。誠実でなければコメ作りはやっていけないのだから、不心得者が紛れ込む余地は少ない。産業として伸びていく過程で、このことは他の産業と違って、気を使う必要がなく安心だ。今後のインターネットを利用した、生産者直販・生産地直販の成長に注目していこう。
 コメ産直リンク集
 今回のリストは検索エンジンから拾い出した。生産者直販と生産地直販の業者も含まれる。農協に関しては殆どの農協が直販しているようだし、リストは簡単に検索できるし、数が多く、時間が足りなかったので今回は省いた。どのHPも良くできていて、インターネット初心者のTANAKA1942bには真似できないものばかりだ。それぞれの方が、他のHPを参考にしながらさらに消費者の心をつかむHPを作り、生産者直販が大きく伸びることを期待しています。
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ライスロッジ大潟・黒瀬農舎 秋田県大潟村の「あきたこまち」。5Kgの真空パックで「無農薬米」と「減農薬米」の2種類がある。
新潟産健康米 新潟県。現実に即したピロール農法でコストと手間をかけたコシヒカリ。
土佐のお米 高知県。窪川産の「におい米」と須崎産の「コシヒカリ」。
土の会 オーガム農法による米作り。宮城県・山形県・新潟県・岐阜県の農家が参加。コシヒカリ・ひとめぼれ・キヌヒカリなど。
みのりやへようこそ 新潟県の集荷・出荷業者。極上魚沼産米から激安コシヒカリブレンドまで各種。
米舗 善久寺屋 新潟県三条市の山崎米店が魚沼産コシヒカリなど各種取りそろえ。
魚沼産コシヒカリ自家製 新潟県魚沼軍塩沢町の農家が魚沼産塩沢米コシヒカリを玄米と白米で販売。
魚沼産コシヒカリ脱酸素パックの黒板屋米店 新潟県見附市のお米屋さんが新潟産コシヒカリを脱酸素パックで届けます。
極上コシヒカリ農家直送 新潟県魚沼各地の農家が丹誠込めて作った自慢のコシヒカリを直接販売するショッピングサイト。
お米市場 愛知県名古屋市に本社がある江国米穀(株)のオンライン・ショッピング。
京都田棚米こしひかり 京都市の長石米穀店が京都棚田米こしひかり、キヌヒカリを扱っている。
美味い米見つけた 福岡県の高崎製作所が有機肥料・低農薬でゆめつくし、ひのひかりを扱っている。
田近農園へようこそ 富山県。有機肥料を使った疎植栽培のコシヒカリを扱っている。
膝子農友会直販部 埼玉県さいたま市の生産者直販。コシヒカリ、キヌヒカリ、アキニシキ。野菜も扱っている。
あぜみち お米・ミルキークイーンの産直 群馬県板倉町の農家がミルキークイーンを産直。
朝日池総合農場 新潟県の(有)朝日池総合農場がコシヒカリ、ひとめぼれを直販。カモによる除草も行っている。
茶谷ファーム おいしい米 滋賀県近江八幡市、琵琶湖の水で育ったコシヒカリ、夢つくし、どんとこいを直販。
堆肥米コシヒカリ 三重県津市のヤマギシズム豊里顕地農事組合法人がコシヒカリを販売。
前原農園 福井県大野市の前原農園が無農薬有機栽培米ミルキークイーンを扱っている。
津軽米屋 青森県の農家が完全無農薬、無科学肥料栽培(アイガモ米)などの津軽ロマンを直販。
広島東城ふるさと宅急便 大阪府摂津市に本社がある広島東城愛農食品(株)がコシヒカリを扱っている。
浦南農園 奈良県吉野町の浦南農園が低農薬ツキノヒカリを直販。
伊達蒲の米蔵 宮城県の「伊達藩の米蔵」がひとめぼれ、ささにしきを扱っている。
(有)りいすぴあ・いぐち 和歌山市の(有)らいすぴあ・いぐちがこしひかり、ひとめぼれ、しなのこがねを扱っている。
(株)百万粒 新潟県西浦原郡の(株)百萬粒が新潟産コシヒカリを中心に各種取り揃え。
ミルキークイーン 栃木県下都賀郡大平町の兼業農家の集団がミルキークイーンを直販。年間定期購入特別価格もあり。
ササニシキ専門 宮城県登米郡南方町の農業生産法人(有)PFTサービスが有機栽培のササニシキを直販。
こめ屋がんたら 福島県楢葉町の、自分で作って自分で販売する米屋が、ならは純米の他コシヒカリ、ひとめぼれも扱っている。
ニシタ米穀 兵庫県加古川市のニシタ米穀(株)が各種取り扱い。年間契約もあり。
SUPER NAKAGAWA 大阪府枚方市のスーパーストアナカガワが福島県の自然乾燥米こしひかりを扱っている。
ごはんバンザイ 大阪市の無洗米専門店の米工房淡路屋がミルキークイーン他各種取り扱い。
アグリステーションかなん 宮城県のアグリステーションかなんがひとめぼれ、ささにしき、まなむすめ、ミルキークイーンを扱っている。
有機生活 東京都千代田区に本社のある(株)イー・有機生活が会員制のクラブで無農薬米・減農薬米など各種取り扱い。
きすき健康農業をすすめる会 島根県大原町の「きすき健康農業をすすめる会」がおろろ米を直販。
Welcome to Alison's shop 福島県相馬郡の農家が有機肥料によるコシヒカリを直販。
賀茂有機米生産組合 日本だけではなくアメリカへも直販している。
( 2001年12月3日 TANAKA1942b )
補足 2003年1月8日朝日新聞朝刊の社説に「日本のお米を世界へ」と題して、新潟県の賀茂有機米生産組合▲が米国へコシヒカリを輸出したニュースが載っていた。社説は次のように結んでいる。「やる気のある生産者を応援する。少なくとも意欲をそぐようなことはしない。それが政治や行政の仕事である」。
 「さらにベンチャー精神旺盛の人は、海外邦人に売り込むかも知れない。配達方法・関税・検疫・為替などクリアすべき問題は多い。多くの失敗を繰り返しながらも挑戦する人は出てくるだろう」と書いたTANAKA1942bの想像以上に「なるべく多くの人に味わってもらいたい」という意欲的な生産者は「身土不二」「地産地消」の発想を超えて活動しています。頼もしいことです。
訂正・変更・新規参入などありましたらお知らせください 上記産直で変更などありましたらお知らせください。 E-mail address: tanaka1942b@hotmail.com  
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19 信用事業は、頼母子講から金融自由化の荒波へ
住専での経験は生かせるか?
<農協金融は頼母子講の現代版か?> 頼母子講とは無尽とも呼ばれ、日本で古くからあった庶民の相互扶助的な金融制度。古くは鎌倉時代から宗教団体で利用された、と言われているが、庶民の家族生活が現代のようになったのは、江戸時代からなので、本格的な普及は江戸時代から、と考えるのがいいだろう。つまり現代のように、父親・母親・子供が一家族として独立して生活するのは江戸時代からなので、そう考えるのがいいだろう。
 この仕組みは、一定の口数を定め、一定の期間毎に一定の出資(掛け金)をさせ、1口毎に抽選または入札により所定の金額を順次加入者に渡す方式でお金を融資するもの。明治維新後も、新しい銀行制度ができたが庶民の間では、この無尽や質屋が多く利用された。1915年無尽業法が制定され、免許制となった。1940年に221社あったが1942年「金融事業整備令」が出て、1945(昭和20)年には57社になった。その後いくたびかの法改正を経て、1951(昭和26)年には相互銀行となり、1989(平成元)年に第2地方銀行となっている。
 宗教関係から発生したように、宗教とか地域とかの共通点を持つ者のためであった。当然農村部で、農家のための無尽もあったと思われる。無尽が相互銀行にに成長した要因は、相互銀行固有業務である相互掛け金の増加によるものではなく、普通銀行が行う、預金と融資であった。相互銀行が地方銀行に変わる時点では、総資金に占める相互掛金の割合は約 2.5%と、ほとんど無視できるほどに減少した。

閉鎖的な少数民族に見られる、食料無尽 江戸時代がそうであったように、アジアの閉鎖的な少数民族の社会ではコメが貨幣としての地位を占めている。こうした社会ではコメを出資(掛け金=掛けコメ)し、1年ごとに所定のコメ収穫量を特定の参加者に渡す制度がある。これは融資と言うより、富くじのような性格と、食料備蓄係りとの性格もあるようだ。
閉鎖的な社会だからこそ、存続できた アジアの閉鎖的な社会も政治経済の安定に伴い観光地として注目され始めた所もある。取材や物好きな観光客が外部から情報・物品・貨幣を持ち込む。気のいい観光客の来訪は富くじにあたったようなものだ。外部社会から持ち込まれる貨幣、内部のそれまで閉鎖的であった社会では使い物にならない。それが穀物不作の時に役立つ。もう頼母子講・無尽は必要ない。普段使わないでためて置いた貨幣で外部から食料を買ってくればいい。昔からの民族的な習慣は観光資源として残される。これが人気を呼びさらに観光客が訪れる。こうして観光資源は残されて、閉鎖的な少数民族の社会が国民経済に組み込まれていく。

食糧備蓄が現物から貨幣になり、頼母子講が普通銀行になる 生産性が低く、自給自足程度しか生産できなかった時代から、食料を生産しない人たちがいても、その人達を養うことができるほどになると、その食料が商品価値を持ち、商品経済が発展する。その過程で、食料が商品として貨幣の単位で計られることに抵抗感を持つ人たちがいた。その感覚は「金を貸して金利を取るのは良くない」とのトマス・アクイナスの時代の感覚と同じだろう。しかし倫理学者・哲学者の意向とは別により豊かな生活を目指す人々は、貨幣単位で物の価値を評価しようとする。
 こうした傾向を底流に、社会は貨幣経済に向かい、頼母子講は普通銀行に変わっていく。JAバンクもこの傾向に逆らうことはできない。頼母子講のような相互会社が株式会社になり、無尽会社が相互銀行になり、普通銀行になる。この傾向に沿うように変わるとすれば、「農家のための、農家の銀行」から「農村部に本社のある普通銀行」に変わるだろう。農協が規制をはずされ、住専に貸し込むことができるようになったのはその現れだ。そしてあまりのも住専一途に貸し込んだがために、住専処理が遅れ、ルールに沿わないスキームを採らざるを得ないことになってしまったのだった。
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<住専問題から学んだのか?>
1996年3月、住専処理法案が可決成立した。この法案には多くの人が反対した。もしこの法案が成立しなかったら、系統信用事業に大きな影響が出たに違いない。多くの国民の反対にあって、この法案が成立しなければ系統信用事業からの融資5.5兆円が戻らないことになるはずだった。住専7社が破綻したのに伴う負担の分担は次の通り。住専処理に伴う損失 6.41兆円=母体行負担 債権全額放棄 3.5兆円+一般行負担 債権放棄 1.7兆円+農林系金融機関からの贈与 0.53兆円+政府からの支出 0.68兆円
 この処理方式で、系統金融は貸し込んだ5.5兆円全額が戻り、その代わり5,830億円を贈与する事になった。母体行や一般銀行に比べ優遇されている。これは破綻処理のルール違反だ。この点から見れば確かにおかしな処理案であった。しかしあの時点でルール通りの処理をしたら、TANAKA1942bが毎日新聞社刊の「週刊エコノミスト」に書いたように、
「住専処理に税金投入は当然」いくつかの単位農協で取り付け騒ぎが起き、それが全国へ波及し、農協職員は総出でその処理にあたり、購買部門・購買部門・共済部門・営農部門などすべての部門の職員が、取り付け騒ぎの対策処理にあたることになり、農協はその働きを一時停止することになったろう。それは日本の農業が一時的にでも機能停止状態になることだった。どちらを取るべきだったのか?答えは当然政府処理案であった。しかし、政府は「系統金融が危ない」とは言えなかった。それを言えば、それで不安が起きる。「=11=備蓄米はコールをロングしておこう」で書いたように電車の中での女子高校生のたわいない冗談から、信用金庫の取り付け騒ぎが起こることさえある、まして政府が「この法案が通らなければ農協が危ない」などと言えば間違いなく、いくつかの農協で取り付け騒ぎが起き、破綻する農協・信連が出たであろう。つまり、あの住専処理法案は系統金融を破綻させないためのものだった。
 なぜ系統金融だけが危険だったのだろうか。それはリスクを分散させなかったからだ。農家・農業のための金融機関で、融資先には制限があった。それが規制が緩和されて、総力を住専に集中させてしまった。まるで今まで親の監視下のあった子供が自由になって、自分をコントロールする事ができなくて羽目を外したようなものだ。個人のレベルの問題なら「成長の過程でそういうこともあるだろう」ですまされるが、金融機関となるとそうも言っていられない。 それは過去のこととして、その教訓を生かしているのだろうか?リスクを分散する、この基本を生かしているのだろうか?系統が「コメ自由化反対」を主張し、日本のコメの供給地を日本だけにしようと主張したり、流通に関しても自主流通米価格形成センターに頼るのは、リスクを分散させずに集中させることになる。経済システムも、コントロール・タワーのない市場経済ではなく、政府が民間部門の面倒を見る、社会主義を希望しているのではないだろうか。だとすれば「本当は住専問題から学んでいない」と言える。
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<単位農協は無尽会社になるのか?> 全中は変わりつつある。その目指す方向は時代に沿ったものだ、と言える。しかし組合員はそれを歓迎しているのだろうか。喜んでいない人も多いだろう。身近な金融機関だったのが現代的なクールは金融機関に変わりつつあるのだから。では全国組織は別にして、単位農協は無尽会社的な金融会社にすべきなのだろうか?狭い地域を営業範囲とし、組合員中心に預金を集め、組合員に融資する、とする金融会社にするか?そこでは融資審査に環境破壊はないか?経済上の不平等は生じないか?なども考慮されるだろう。庶民の・農民の・農村の・持続可能な経済成長のための金融機関となろうとする。単位農協だけでもそれを目指すべきなのか?それが可能なのか?答えはNO。無尽会社が相互銀行を経て第2地方銀行になった過程を振り返れば分かる。閉鎖的な少数民族社会で食料安保が食料無尽から貨幣の備蓄へ変わる過程を見れば分かる。日本では江戸時代の旅学者=海保青陵に聞けば答えてくれる。
 日本の農家・農業・農協を取り巻く環境は農協ができた頃とは大きく変わっている。日本の農村は情報・資金・人材・物流と言った面で孤立してはいられない。閉鎖的な社会を保つことはできない。無尽会社的な金融機関は、金融自由化の時代に営業を続けることはできない。 かつて産業革命初期のような荒々しい資本主義社会であれば理想とした「ロッジデールの精神」も、企業が「お客様は神様です」と変わった現代、もう理想ではなくなっている。一部の社会主義に憧れる人の心の中でしか生き続けることはできない。単位農協も、全国組織の全中の目指す改革に取り組まなくてはいずれ破綻するだろう。
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<各県単位の農協相互銀行を経て第3地方銀行へ> 系統金融はこれからどうなるのか?1つの未来像を描いて見よう。
(1)1県1農協 奈良県では1県1農協が実現した。各県がこれに向かう。
(2)株式会社農業相互銀行の設立 1県1農協が実現したところから、県信連と合併し例えば「神奈川農業相互銀行」のような相互銀行を設立する。
(3)普通銀行への転換 相互銀行が出揃った時点で一斉に株式会社組織の普通銀行へ転換する。これで第3地方銀行群ができる。この金融機関は「営業区域の規制」とか「取引会社は資本金3,000万円以下」などの規制はしないこと。 そしてこうした規制は全ての金融機関から撤廃する。こうして「都市銀行」「地方銀行」「第2地方銀行」 「第3地方銀行」「信金」「信組」「信託銀行」「労金」が同一市場で競い合うことになる。その競い合いとは、預金者獲得であり、融資先獲得だ。両側にいる神様たちの心と懐を捉える競い合いになる。
(4)先に豊かになれる銀行から、ドンドン豊かになる そして、そうでない金融機関を吸収合併していく。市場のメカニズムを生かした「構造改革」だ。規制を多くすると伸びる金融機関の足を引っ張ることになる。伸びる活力を持った金融機関が思いっきり伸びることによって、そうでないところの雇用を引き受けることができる。 勝ち組を作ることにより、構造改革の「痛み」を和らげることができる。成長のためにはガムシャラに突っ走るランナーが必要だ。世界経済でも「先に豊かになれる国から豊かになる」しかない。 「平等」を強調するなら「全ての国が平等に貧しくなる世界経済」しか計画できない。先に豊かになる金融機関があるから、他がそれを目指す。先に高い給料を出す業界があるから、それを目指して組合が闘争計画を立てる。理由を付けて高い給料を引き下げれば、闘争目標ができず、結局賃金闘争のエネルギーを失う。
(5)金融自由化の大波を乗り切るのはどの金融機関か? 低成長が続くならリテール・バンク市場は飽和状態だろう。世界市場での競い合いに挑戦するなら、預金獲得と融資拡大だけでは限界がある。金融派生商品やM&A手数料稼ぎなどに手を広げる必要がある。今は大手から零細までリテールと言っているようだ。いずれ金融再編成が大きなニュースになる時が来る。 その時に解説者がいろいろ理由を付けるだろうが、必ず「神様」の力が働くに違いない。農協が・農家が・そしてその支援者達が「どれだけ神様の機嫌をとるか?」がポイントになると思う。どのように神様の機嫌を取ろうとするか?TANAKA1942bはそれを注目していこうと思う。
( 2002年1月14日 TANAKA1942b )
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20 農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか?
各事業部門毎に株式会社として独立
<購買部門> 飼料・肥料・農耕具の販売会社を設立する。それら全てを扱う株式会社組織の商社でもいいし、単品を扱う販売代理店でもいい。メーカーの資本が入ってもいいし、組合員が資本を出し合ってもいい。営利を目的とした株式会社であることが肝要だ。農協職員は本人の希望があればこちらへ転籍できる。基本的な給料は変わらないが、営利企業になると能率給部分が多くなる。 会社の基本姿勢は利益を出すこと。これは農協の「組織の生き残り作戦」ではなく、「農協職員の生き残り作戦」だ。組合員は好きなところから購入すればいい。農協を「運命共同体」としてではなく「利用できれば便利な組織」と考えるようになってきている。そうすると農協の利用率が下がり始める。 無理に農協を利用させようとすると、どこかでひずみが出る。
<販売部門> こちらも集荷業者を株式会社として立ち上げる。コメ・野菜・穀物・くだもの・加工品など、それら全てを扱う株式会社組織の商社でもいいし、単品を扱う集荷業者でもいい。 この分野には地域の青果市場が活発な営業活動を展開するだろう。またネットを使った仲介業者も動き出すだろう。農家は最も有利な条件の業者を選べばいい。業者の競争が農家にとっての有利な条件を満たし始める。購買部門と同じように個々では生産者=農家=お客様=神様になる。大いに我が儘を言うといい。
<営農指導> ここでは「受益者負担の原則」を貫き通すことにしよう。「営農指導会社」を設立する。 あるいは個人で「営農コンサルタント業」を始めるのもいい。お金を取る以上いい加減な指導ではやっていけない。農家にとって満足のいく指導が行われるはずだ。
<共済部門> この部門は既に全国組織と県単位の2段階になっている。しばらくはこのままでいい。そのうちにどうなるか?各県の共済販売会社が民間の保険会社の商品を扱い始め、全共連が開発した保険商品を系統以外の民間会社も販売するようになる。 こうして商品開発の競争と、その商品の販売競争が始まる。ここでも農家はお客様=神様になる。
<信用部門> 前回書いたように各県単位の普通銀行になる。これを全国組織の単一銀行とすると、生産性の低い県が全体の足を引っ張ることになる。結局護送船団方式になる。各県単位が独立して営業し、先に豊かになれる県から、ドンドン豊かになるのがいい。 農協職員は専門知識を身につけることによって、業界再編正になっても再就職に不安はない。ただし準備怠りなかった人の話、不勉強な人には厳しいかも知れない。
<グリーンツーリズム> 旅行代理店は独立してこの分野での顧客獲得競争に参加すればいい。
<地域文化の伝承> 農協から経済活動を除くと、そこには地域文化の伝承という役割、農家の親睦団体としての役割が浮き上がってくる。経済活動をする農協と、この部門が同一組織になっていると、「地域文化の伝承」としての活動が経済部門の余剰利益の大きさに影響される。 農協の経済活動から大きな利益が出なければ、地域文化の伝承もおろそかになる。 そこで「地域文化の伝承」という活動は農協の経済活動とは切り離す。それ自体独立した活動とする。そしてこれは経済活動ではないので、有限会社や株式会社ではない組織とする。それは任意組織・NGO・宗教法人などが考えられる。 地域の神社が中心になって、季節折々の行事を司る。青年部・婦人部・シルバー部の活動の拠点とする。あるいは適当な神社がなければ「豊作祈願神社」を作るのもいい。
 日本人には「八百万の神々」は受け入れやすい。自治体の組織とすると、住民全ての意向を反映させなければならない。事柄によってまとまりにくい場合がある。宗教法人とすることによって、受益者負担の原則が生きてくる。 それは活動の費用はどうするか?に生きてくる。自治体の組織にすると、大きな声で主張する人・役所や政治家に顔の利く人・外部の支援組織をバックに発言する人などの意見が採用される。宗教組織にすると沢山寄進した人の意見が採用されることになる。これは自然なことだろう。
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<農家は農協に何を期待するか> 普通のサービス業と同じことを期待すればいい。飼料・肥料・農耕具など安く手に入るならそれでいい。好きなところから購入すればいい。農産物の出荷も同じ。サービス・支払い条件のいい集荷業者を通せばいい。農業政策に対する意見は直接担当部署に言えばいい。 農協の組織が分割されることにより、各部門の必要性が改めて見直される。さらに民間業者が参入する事により、農協職員の意識に「組合員=お客様=神様」と「同業他社との競争意識」が生まれる。そうしてそれが「農協改革」出発点になる。各分野で民間業者と競合しても、「農家の親睦組織」としての農協は残るだろう。農協職員も「農家のため」という建前と、「農協の利潤拡大」という本音を使い分けるよりも、民間業者の社員として「会社の売り上げ向上」という本音だけで働く方が気持ちが楽になるに違いない。 農村社会での経済活動は株式会社=民間会社に任せて、農協は「農家の親睦団他」として、「地域文化の継承組織」に徹するのがいいだろう。
「農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか?」 は決して農業再生に悲観して言うのではない。むしろそうすることによって、農業が産業として発展し、農家が豊かにな道へつながるに違いないからだ。もう江戸時代からの古い制度は脱ぎ捨てましょう。
( 2002年1月21日 TANAKA1942b )
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21 農地売買自由化
農民を土地に縛り付ける封建制
<江戸時代の農地政策> 豊臣秀吉江戸時代の土地制度・身分制度の基になったのは、豊臣秀吉が1591(天正19)年に出した「身分統制令」と考えていいだろう。 1591(天正19)年8月21日に出されたこの法令は、全3ヶ条からなっていて、第1条では、奉公人・侍・中間・小者・あらし子など武家および武家奉公人が、百姓・町人になることを禁じ、第2条では農村にいる百姓が田畑を捨てて商人になることを禁じている。第3条は侍・小者をはじめとする奉公人が、その主人の許可なしに他の主人に仕えることを禁じたもので、主人の奉公人に対する支配の絶対性を保障したものだ。
 ちなみに主人の許可がなければ他に仕えられない、その例はこの法令が出てからずっと後に、平賀源内(1728-1779)(享保13-安永8)が高松藩を出ても他の藩には仕えられず、結局浪人のまま終わってしまった例がある。
松平定信1788(天明8)年に老中松平定信は「出稼ぎ奉公制限令」を出す。これは「農民は勝手に農村を離れるな」「町へ出て行こうなどとは考えずに、しっかり農業をやれ」との考えだ。
担保江戸時代の融資には大きく分けて3つのパターンがあった。(1)担保なしの大名貸し。(2)担保を取っての町人貸し。(3)農地を担保に農民貸し。このうち(3)農地を担保に農民貸し、は農地の売買が不自由なので担保価値が低く、多く借りられない。 もう一つ、返済不能になり土地の所有権が頻繁に移転する事を幕府は嫌った。このため農地を担保に借りるのに、いろいろ面倒な制限を加えた。これも農民を土地に縛り付けることになった。
天保の改革水野忠邦の天保の改革、その目玉の一つが「人返し令」だ。江戸に出稼ぎに来ている農民を帰農させる政策。新たに農村から江戸への移住を禁止し、農民を農村部に縛り付けようとした。現代でもこうした感覚の持ち主はいるようだ。 「農民は農業に従事すべきで、都会の大企業が若い人を集団就職などで農村部から連れ出したのはけしからん」との感想を持つ人もいるようだ。これは農村部に農業を含め魅力的な産業がなかったからで、責任は若い人の就職先を作れなかった農村部の実力者にある。
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<その土地を最も有効に活用する自信のあるものが、最も高い価格を付けるだろう> 農地の売買を自由にしてみよう。誰が高い価格を付けて買うだろうか?個人?法人?自治体?不動産屋?工場?こういうことは言えるだろう。「私はこの土地を一番有効に利用する自信がある。だから一番高い価格を付ける」と。 そして「なぜなら私がこの土地から、一番収益をあげることができる」と言う。もしも自治体なら「あの自治体が一番税金の無駄遣いをする自信があるのだろう」となる。それでも、「その土地が有効に使われる」という点では希望がもてる。
 株式会社が農地を所有することに反対があるようだ。例えば「株式会社は事業が行き詰まると、農地を荒れ果てたままに放っておくだろう」との主張。しかしそれは違う。 利潤を追求する企業は農地を荒れ果てたまま放って置くようなムダはしない。使い道が見あたらなければ、すぐに売りに出す。土地を有効に活用する自信があっても、うまく行かなければ、次に自信のあるものがその土地を買う。 トップがだめなら、その次、その次と試行錯誤が繰り返される。こうして土地利用が計られる。農地にとってはこれが一番幸せだろう。
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<農家は土地を売って職業選択の自由が広がる> 農地売買が自由になると、土地を売って他の職業に転職できる。農業よりも他の職業が適していると思ったら、先祖伝来の農地を売って転職してもいい。その土地を買って農業を続けようとする人には、農地売買自由化は朗報だ。
 農地が多目的に転売されると、土地評価額が上がる。土地を売って転職する人に有利になる。農家が豊かになる条件の一つになる。
 土地の評価額が上がると、担保価値が上がる。農業に対する投資がしやすくなる。農地の一部でハウス栽培を試してみたい。 それには設備投資が必要だ。今の土地を担保に今までより多く借りられるようになれば、新規投資の可能性が広がる。転職せず、農業で豊かになろうとする人にも有利だ。
<投資をせずにリターンを求めるな> 農地売買を制限することは、外部からの投資を制限することになる。投資をしないで事業を始めたり、拡大しようと考えるのは間違っている。お金がなくて事業を始めようなどとは考えられないのだが、農地売買を制限して農村部を豊かにしようとするのは空想社会主義のようだ。 ユートピア小説では「各人は食料・日用品を必要に応じて与えられる」ことになっている。しかしそれを生産する費用、生産に携わる人件費などは無視される。資源と資金が無限にあるかのようだ。
 農村部で産業活動を活発にするには、外部からの資金・人材が必要になる。農地を売って資金を確保し、その資金を基に人材を確保する。そうして農村部で新規産業を興す。或いは外部から企業を誘致する。 それには外部からの人材を暖かく受け入れる環境が必要になる。食料を作っている、というプライドが時には思い上がり、と感じられると、外部の人材は定着しない。日本の食糧自給率は約40%、残りの60%は農家以外の輸出産業が稼ぎ出すドルに頼っているのだ。日本の農家は必要な食料の半分も生産していない。
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<農地委員会はその地域から金持ちが出ることを許可する機関か?> 農地売買が農家が豊かになる条件の一つなら、農地売買を審査する農地委員会とはなんだろう?自分達の地区から、農地を売って豊かになろうとする農家に対して「自分だけ豊かになるのは許さない」とか「豊かになってもいい」と許可する機関なのだろうか? かつて江戸時代は農民を支配する幕府がその権限を持っていた。今は同じ地区の人たちがその権限を持っている。江戸時代はお上が権限をもって支配していたのが、現代では同じ地区の人たちが権限を持っている、ということは、時には豊かになろうとする人の足を引っ張ることになる。 農家に有利なのは農地売買の自由化だ。しかし自由化を主張するのは都市部の主張で、農村部から自由化の主張は聞こえてこない。抜け駆け的に豊かになるのは許さない、と皆で足を引っ張り合っているかのようだ。
<嫉妬心に正義の仮面を被らすな> 「他人の不幸は、我が身の幸せ」ではなく「他人の幸せは、我が身の幸せ」となると、農地委員会が農地の転売を不許可にすることはない。同じ地区内で「先に豊かになれる者から、豊かになる」の方針なら、農地が高く売れる方策を考えるべきだ。それには買い手を制限しないこと。買った後の土地利用に対する規制を少なくすることだ。今まで農地委員会の委員だった人は農地が売れるよう積極的に働くといい。不動産業を経営したり、広告宣伝業もいいだろう。今まで農家が豊かになるのを阻害していたのだから。
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<農地を広げても食糧自給は達成できない> 自給率=コメ95%、小麦 9%、大豆 3%、トウモロコシ 0%、グレーンソルガム 0%。石油 0%、ウラン 0%、天然ガス 3%、砂糖 8%、塩15%。これが現実だ。ごく一部の「尊農攘夷」論者の主張する、自給率向上を目指すとするとどうなるか? 農水省のHPによると「食料を自給するためには、国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要。このような私たちの食生活は、国内農地面積(491万ha(平成10年))とその約2.4倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。」 となる。
(1)食糧自給率の低さを嘆くか?(2)その土地が養うことのできる3.4倍の人口を養う生産性の高い産業を持っていることを誇るべきか? (1)を支持するならば、日本人は江戸末期の人口に減らし、江戸末期の生活水準にしなければならない。或いは日本列島だけでは養い切れないので、海外に日本の領土を求めなければならない。 (2)を主張するということは、これからも産業の構造改革を進め、生産性の高い産業に資源・人材・資金が特化されるような体制を維持することだ。そのためには生産性の低い分野から高い分野へ、資源の移転が進む。そして低い分野は海外へ移転することにもなる。 いわゆる「産業の空洞化」が起こる。日本の将来像としてどちらを選択するか?迷う余地はない。考えれば(2)を選択すべきであることは明らかだ。(1)はまともに取り上げるべき主張ではない。
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<農村部の通貨流通量が増える> 農地を買う資金はどこから来るか?農村部内での移動だけではない。都市部の資金が投入されることも多くなる。これを「農地が大企業に支配される」と非難する人がいる。誰が支配しようがその土地を有効に利用しようとすることに違いはない。 それと注目すべきは、「農村部の通貨流通量が増える」ということだ。通貨流通量が増えるとどうなるか?それは江戸時代に、荻原重秀や田沼意次と仲間の経済官僚たちが が行った金融政策を振り返れば明らかだ。西洋の「経済学」は必要ない。江戸時代、日本の「経世済民」で明らかになる。 日本には江戸時代からそれだけの知恵が蓄えられている。その知恵を誇りに思い、その知恵を活用したい。「農家が豊かになるために」「農村部の経済活動が活発になるために」そのために「農村部の通貨流通量を増やすこと」は効果があるだろう。そして農村部が豊かになると、都市部の土地価格が下がり、都市生活者の生活が楽になる。 このため都市部の資金が農村部に投入されるのは、農家にとってだけではなく、都市部の人にも望まれることだ。このあたりの経済の仕組みが分からないと、江戸時代荻原重秀や田沼意次と仲間の経済官僚たちが行った金融政策を否定し、新井白石や松平定信が取った政策を支持するような誤った選択をすることになる。 それは「全ての人が平等に貧しくなる」政策だ。本人も気付かない嫉妬心が周りの人たちの足を引っ張り、結果的に自分も貧しくなる。その仕組みを理解することが必要になる。
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<江戸時代の土地政策から脱却しよう> 江戸時代幕府は身分制度を厳しくし、土地に縛り付けようとした。現代では自分から土地に縛り付けようとする。江戸時代それでも農業を産業として捉えようとした考えがあった。現代では「安全性のため」「環境を守るため」「身土不二、地産地消」などと言い、農家が豊かになる方策を考えようとしない。 地産地消は消費者側から考えれば、それなりの支持は得られようが、生産者に取っては邪魔なスローガンなはずだ。「消費者に喜ばれる野菜をいっぱい生産して全国へ売ろう」としても、「地産地消、私たちは地元産の野菜を食べます。」と言われたら、全国展開もできない。 江戸時代幕府が農民を支配した、その方法を現代の農民自身が選択する、そうした農業政策は変えるべきだ。その第1にすべきこと、それが農地売買の自由化なのだ。
 こうした問題を考えるとき、よく言われるのが「意識革命」だ。本気で言っているのだろうか?別の言い方をすれば、「多くの人たちをマインドコントロールしよう」との主張なのだ。 新興宗教ではない。人がどのような意識を持つか、どのような宗教を信じるか?それは自由だ。改革すべきは制度。それを支える法律。農地売買に関する規制を緩やかにすれば、農村部は変わる。農家が豊かになるための選択肢が増える。若い人がここで夢を実現させようとする。豊かになろうとする、意欲・活力が満ちてくる。
( 2002年2月4日 TANAKA1942b )
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22 「身土不二」や「地産地消」について
なるべく多くの人に味わってもらいたい
 身土不二(しんどふじ)という言葉がある。どういう意味かというと、山下惣一著「農の時代がやってきた」(家の光協会 1999年4月)から引用しよう。 「周知のように(でもないか?)、「身土不二」は、「身土」、人間の身体と土は「不二」、二つじゃない。つまり一体だという意味。中国の古い医書に出てくる言葉だそうで、わが国では明治30年代(1897-1906)に福井県出身の軍医・石塚左玄らが起こした「食養道運動」のスローガンとして使われ、彼らは「自分の住む土地の四里(約16キロメートル)四方でとれた旬のものを正しく」食べることを理想として提唱した。
 まだ流通が未発達の明治時代になぜそのような運動が起こったのか?たぶん多くの人たちはやむおえず「身土不二」の食生活をしていたはずだ。そう疑問を抱いたのでその筋の専門家に調べてもらたら、文明開化の影響で当時の上流階級の食生活が急速に洋風化し、それに伴って従来にはなかった病気がふえたという背景があった、ということまではわかったが、それ以上のことはわからなかった。
 「身土不二」という題名の本も読んでみたが、解説書ではなく、その原理に照らして近代栄養学を批判した内容だった。これはこれで面白かったが、当然、逆の主張もあるわけで、「このボーダレス時代に馬鹿なことを言うな。地球を一つと考えれば「身土不二」じゃないか」というわけだ。

 では「地産地消」とは?「なるべく地元で取れた農産物を食べましょう」ということになろう。 この二つの言葉、ある人たちから大変支持されているようだ。「コメ自由化反対」「遺伝子組み替え食品反対」「無農薬・低農薬食品を普及させよう」「農業は自然環境保全に役立つ」「株式会社の農地取得反対」こうした主張をする人たちが「身土不二」「地産地消」を言うようだ。
生産者と消費者の立場の違い この二つの言葉ある種の消費者から支持されているようだ。消費者の立場からは、「近くで取れた新鮮な野菜」「地元の風土にあったもの」こうしたものを食べたい、または「食べるべきだ」との考えも出てくるだろう。ところで生産者の立場はどうだろう。 「生産者の地元の消費者に支持されたい」し、しかし同時に「もっと、もっと広く、日本中の消費者に私の畑で取れた野菜を食べてもらいたい」「遠く離れた地方の人達にも、必ず喜んでもらえる自信がある」このような考えの人たち、いっぱいいると思う。こうした意欲的な生産者と「身土不二」「地産地消」との関係はどうなるだろう。
ネット活用の産直 インター・ネットの普及に伴い農産物の産地直売が生まれた。クロネコヤマトの宅急便の普及も産地直売を助けている。この「産地直売」と「身土不二」「地産地消」の関係はどうだろう。どうも反対の考えのようだ。
 前回「産地直売」をテーマに「身土不二」「地産地消」について書いたので、一部引用しよう。
=18=コメ産直を考える 産業として伸びるキッカケとなるか? ( 2001年12月3日 ) 沖縄の消費者が北海道の農家に注文を出すこともあるだろうし、新潟の消費者が秋田こまちを発注するかも知れない。さらにベンチャー精神旺盛の人は、海外邦人に売り込むかも知れない。 配達方法・関税・検疫・為替などクリアすべき問題は多い。多くの失敗を繰り返しながらも挑戦する人は出てくるだろう。
 これは「身土不二」「地産地消」とは反対の動きで、とてもいいことだ。
 あの考えは消費者に多くの信者を作ることができても、生産者には邪魔な信仰だ。これから広く全国に消費者ファンを作ろうとする「芽」を摘むことになる。小さな地場産業に押しとどめようとする力になり、さらには保護貿易主義に向かう恐れもある。
 それよりも、紀州から危険を冒して江戸にミカンを輸送して大儲けをした、元禄時代の豪商「紀伊国屋文左右衛門」の行動力こそ、サプライサイドは手本にすべきであろう。 (もっともこの話は俗説で、本当にミカン船を手配したのかどうか分かってはいないのだが・・・それでも「くだらない」の語源となった「下り物」は立派な「裁定取引」の典型と言える)
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<一村一品運動> 大分県で進められている「一村一品運動」、県のHPから その趣旨を抜き出してみよう。
1. 運動の提唱 一村一品運動は、地域を活性化する一つの道として、地域の顔となる、地域の誇りとなるものを掘り起こし、あるいはつくりだして、それを全国、世界に通用するものに育てていこうと昭和54年に平松知事が提唱しました・・・ 以下大分県のHPを参照のこと。「地域活性化」「農業発展」にとって期待できる政策、と言えよう。
農業の活性化という面から考えれば、こちらの方が趣旨にあっている。村が「地元産の農産物を食べましょう」ではなくて「地元産の農産物を全国に広めましょう」の運動こそ必要だ。 都会のターミナル駅やデパートなどで開催される「〇〇県物産展」も「地産地消」とは違う。消費者運動が「地産地消」を言うのはいいとして、生産者側に立つ人が提唱するのはちょっと違うような気がする。
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<自由化派VS自給派の論争> 冒頭に山下惣一氏の著作から引用したので、もう一つ引用しよう。「それでも農は命綱」(家の光協会 1994年10月)から、コメ自由化問題についての部分だ。
なぜ、自らの食を放棄するのか 自由化派VS自給派の論争 
霞ヶ関のいわゆる”官僚”と呼ばれる人と飲んでいて、ちょっとした口論になった。 「山下さんねえ。農村で食えないというのは、住んでいる人の数が多すぎるということなんですよ」といい出したからである。
「だって考えてごらんなさい。田畑の面積は限られている。つまり、生産力に限界があるんですよ。だから住んでいる人の数が多いと分け前が少なくなる。したがって、農村では生活できないんですよ」
「ですから」と相手は、口を挟む隙を与えず続けた。「農村の人たちは半分、都会へ出ていらっしゃい。これから都市周辺の農地をどんどん転用して住宅建設を進めますから、そこへ移っていらっしゃい。そうすると、農村に残った人たちも生きていけるんです」
 はじめは冗談かと思って聞いていた。しかし、どうも本気でいっているらしいとわかって、”こいつは馬鹿か”と考えた。
「何をいうんですか」と私は当然、反論した。「村の人間は半分、都会に出てこいというけれど、若い者ばかり出ていっていまって年寄りだけが残されているのが農村の現実じゃないですか。残った者のパイは大きくなりませんよ」
「あのね、われわれ国の仕事というのは、国民をまんべんなく豊かにすることであって、なにも住みにくい農村に人を住まわせることじゃないんですよ。住みにくいところに無理に住まなくてもいいんです」
 のれんに腕押しという感じである。どうやら私などは、頼まれもしないのに条件の悪い農業と農村にしがみついて、愚痴や怨み事ばかりいっている不平分子に映るらしい。
 話題は、農業問題からコメの自由化に移った。
「結構じゃないですか」と相手は高らかにいい放った。「日本のコメ市場が自由になれば、日本向けのおいしいコメづくりのオリンピックが始まりますよ」
「そんなことしたら」と私はいった。「10年後には、日本の食糧自給率はカロリーベースで3割を切りますよ。穀物だけだと1割台まで落ちる。本当に農業のない国になりますよ」
 相手は落ち着き払って、こういった。
「食糧自給率が3割を切ってはいけないという根拠は、何ですか?」
「えっ!」私は絶句した。長い間たってから、何だろう、と考えた。別の言い方をすれば、なぜ、日本に農業が必要か、ということになる。本当に必要なのだろうか?なぜ必要なのだろう。・・・
これに関しては=4=農水省事務方の苦悩 その悲痛なメッセージを代弁する ( 2001年7月2日 )で書いているので、そちらをお読みください。 一言付け加えるなら、「ある日突然「自給率向上」の建前が、「輸入自由化」の本音に変わる時があるに違いない」と。
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<生産者の顔の見える農産物> 消費者にとって「身土不二」「地産地消」は”生産者の顔の見える農産物”という点でアピールするのだろう。とくに最近は雪印に端を発した「不正表示」などにより、消費者の生産者に対する不信感が高まっているので、「生産者がどういう人か分かる」ということは安心されるかもしれない。 ただし、「地元産の農産物を育てましょう」が「他府県の産物は遠慮しましょう」にならないように。「日本人には日本人が作った、日本産がいいんだ」が「だから、中国産や朝鮮人の作った物はやめよう」にはならないこと。
生産者にとって「生産者の顔の見える農産物」とはどういう意味があるだろうか?生産者にとっても、消費者と直接コミュニケーションがとれれば、商品の良さをアピールする事が出来る。ということはアピール出来ない生産者は不利になる。 つまり商品の善し悪しだけでなく、そのアピールの仕方で売り上げが変わるだろう、ということだ。ということは「農業も普通の産業に近づいてくる」とも言える。
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<儲かる農業を考えましょう> 「身土不二」も「地産地消」も消費者側からの主張。では「一村一品」はどうか。生産者側からの発想のようだが、それでも
「4.これからの一村一品運動 」「ムラの生命を都市の暮らしへ」をスローガンに、「自然との共生」、「都市と農村の共生」、「アジアとの共生」の新しい視点に立って、世代や国境を超えた運動として展開しています」 その趣旨の後には、こうした文章が続く。「共存」等という大義名分なしに、単純に「農業を育てよう」でいいのではないだろうか?それとも大義名分がないと、支持されないのだろうか? 「農業政策の基本は、いかにして農業を儲かる産業に育てるか?だ」と言い切るべきだと思うのだが、そうした意見は聞こえてこない。特に農業関係者からの主張は「農業は聖職で、儲かってはならない」とでも言いたいようだ。
( 2002年6月10日 TANAKA1942b )
補足 ▲2003年1月8日朝日新聞朝刊の社説に「日本のお米を世界へ」と題して、新潟県の賀茂有機米生産組合▲が米国へコシヒカリを輸出したニュースが載っていた。社説は次のように結んでいる。 「やる気のある生産者を応援する。少なくとも意欲をそぐようなことはしない。それが政治や行政の仕事である」。
 「さらにベンチャー精神旺盛の人は、海外邦人に売り込むかも知れない。配達方法・関税・検疫・為替などクリアすべき問題は多い。多くの失敗を繰り返しながらも挑戦する人は出てくるだろう」と書いたTANAKA1942bの想像以上に「なるべく多くの人に味わってもらいたい」という意欲的な生産者は「身土不二」「地産地消」の発想を超えて活動しています。頼もしいことです。
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23 スローフードというグルメ
食品産業のトレンド卵となるか?
<イタリアから始まったトレンド> ファーストフードに対するスローフード、その内容は次の3点に絞られるだろう。 1つは、消えつつある郷土料理や質の高い食品を守ること。2つめは、質の高い素材を提供してくれる小生産者を守っていくこと。3つめは、子供たちを含めた消費者全体に、味の教育を進めていくこと。
 ところでこれは主催者側の意見。これとは違って「農業は先進国型産業である」との立場から見ると変わってくる。このところ市民運動を取り上げてみた。身土不二、地産地消、地域通貨、フェアトレード、そこで今回はスローフードをアマチュアエコノミストの目で見ることにした。
<豊かになるとエンゲル係数が高くなる?> 「所得が高くなると、家計の消費支出に占める食費の割合が低くなる」ドイツの社会統計学者エンゲル(Christian Lorenz Ernest Engel 1821-1896)が発見した法則によるとこうなる。この場合の食費とは人が生きていくうえでの、必要最少限の食費ということだが、豊かな社会ではそうではない「食費」が支出される。 一般に「グルメ」と呼ばれている。世の中が平和で安定し、生活に余裕が出てくると「グルメ」支出が大きくなる。江戸時代になってから一日3食の習慣が定着し、江戸では外食産業が栄えた。それは元禄、天明、文化・文政時代に多く、江戸の3大改革──享保・寛政・天保時代はデフレ不況時代で食生活も変化が停滞した。江戸町人が好んで食べたのが、すし、そば、てんぷら、うなぎ、つくだに、どじょう、まんじゅう、とうふなど。 そば、てんぷら、うなぎは江戸の3大ファーストフードであったようだ。最近は「江戸ブーム」とかで、こうした江戸時代町人の衣食に関する書物も多く出版されて、江戸時代に興味をもつアマチュア歴史家にはいい時代になっている。 
<ニーズがあって生産があるのか、生産があってニーズが作り出されるのか> 消費者主導の社会で、生産者は消費者のニーズに応えようとする。生産者が消費者のニーズを無視したり、消費者に説教しようとしたら消費者は去って行く。農産物生産者が「農業の多面的機能」を持ち出し、消費者をマインド・コントロールしようとすれば、消費者は逃げて行く。どの業界でも消費者は神様だ。神様のわがままに「困ったことだ」と陰で愚痴をこぼしながらも消費者の機嫌を取ろうとする。このように考えると、消費者ニーズがあって生産がある、と考えられる。ところが豊かな社会では生産者が消費者ニーズを作り出す。広告・宣伝会社がその具体的実行者になる。分かりきったことだけど、それを経済学者はちょっと難しく表現する。
 依存効果──近代的な宣伝と販売術は、生産と欲望をいっそう直接的に結びつけている。宣伝と販売術の目的は欲望をつくり出すこと、そなわちそれまで存在しなかった欲望を生じさせることであるから、自立的に決定された欲望という観念とは全然相容れない。これをおこなうのは、直接または間接に財貨の生産者である。消費財の生産費とその生産に対する需要を喚起するための費用との間に関係があることは、経験的にみて明らかである。新しい消費財を売り出すときには、それに対する関心を起こさせるために適当な宣伝をしなければならない。生産を拡張する前には、宣伝費を増大させておかねばならぬ。近代企業の戦術においては、ある製品の製造費よりもその需要をつくり出すための費用の方が重要である。このようなことはすべて言い古されたことであって、どんな三流大学の経営学部のいちばん成績の悪い学生にとっても初歩的な知識である。 欲望をつくり出すための費用はおそるべき金額にのぼる。1974年における宣伝費は約250億ドルに達した。もっとも、前に述べたように、宣伝費のすべてが欲望をつくり出すためのものだとは言えない。それはともかく、それまでの数年間、宣伝費は毎年約十億ドル増えていたのだ。このように無視しえないほど大きい支出は、消費需要の理論と統合すべきものである。
 しかしそのような統合を認めると、欲望が生産に依存することも認めなければならない。生産者は財貨の生産と欲望の増出という二重の機能をもつことになる。消費者どうしの見栄張り競争というような受動的な過程ばかりでなく、宣伝とそれに関連した積極的な活動によって、生産は生産によって充足されるべき欲望をつくり出す、ということを容認することになる。
 実業家や一般の読者は、わかりきったようなことを私が強調するので、とまどいされるであろう。たしかにわかりきったことだ。しかしこれは不思議なほど経済学者が反対してきたことなのである。経済学者は、素人とちがって、これらの関係の中に既存の観念をそこなうものがあることを感じていた。その結果かれらは、あらゆる経済現象のうちでもいちばん厄介なこの近代的な欲望造出という現象から目をそむけていたのである。 (「ゆたかな社会」第4版 ガルブレイス著 鈴木哲太郎訳 岩波書店 1990.3.9 から)
<ムダ遣いが資本主義を発展させる> 「デフレ不況」と言われる日本、しかしデフレとは貨幣価値が上がること。安物ばかりが売れるわけではない。テレビの経済番組でこんなことを言っていた。「ある証券会社の調査によると、フランス有名ブランド、日本での売上が1970年の売上に比べて昨年はその10倍の売上だった。そして全世界の売上の40%は日本の売上であった」と。 グルメはふだんの食事よりも高いから「グルメ」になる。豊かな社会では「ムダ遣いの楽しみ」を味わう。ふだんはファーストフードで節約して、時々スローフードで贅沢する。このパターンを普及させることによって、利益率の高い食品産業・外食産業が発展して行く。
 経済学教科書に「貯蓄のパラドックス」というのがある。「不景気だから」と言って国民が節約して、ものを買わずに貯蓄をすると、結局総需要が減って不景気が加速される、というものだ。「合成の誤謬」などとも言う。どこかヘソまがりがいて「貯蓄のパラドックスは間違っている」と主張していないか、と思っているのだが、納得させるほどの主張にはお目にかからない。やっと見つけた「経済学改造講座 正当派への有罪宣言 」(第5章 貯蓄のパラドックスの嘘 M.スコーセン著 原田和明・野田麻里子訳 日本経済新聞社刊)も説得力に欠ける。 やはり「貯蓄のパラドックス」は否定できない法則なのだろう。そうすると「消費は美徳」となる。
 そうしてもっと積極的に消費を評価すると「恋愛と贅沢と資本主義」(Liebe,Luxus und Kapitalismus)との関係で経済を考えたり、ゆたかな社会(The Affluent Society)の有閑階級(Leisure class)の服装は非実用的なものになり、その消費は「顕示的消費」(conspicuous consumption)となると考える方が、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus)という捉え方よりも資本主義の本質が見えてくる。
<農家はトレンドを捉えるか?> 食糧不足の時代から飽食の時代へ変わり、サプライサイド主導の時代からディマンドサイド主導の時代になった。消費者が神様になり生産者は神様の顔色を窺うようになった。そんな時代になって素直に時代の変化について行こうとする人と、頑固に変わらない人と、二極化が進む。狭い社会に閉じこもり「身土不二」「地産地消」「農業の多面的機能」「自給自足」こうしたスローガンを掲げ、変化を拒絶する人がいる。一方で消費者は、行列のできるラーメン、食の哲人、ファーストフード、コンビニおむすび、ベルギーワッフルなどを求め歩く。
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<山下惣一的ブラックユーモア> 「コメ自由化反対」の先頭に立つ山下惣一氏、その著書「農業わけ知り辞典」に鋭いブラックユーモアがあったので一部引用しよう。
一村一品 一村一品、正しくは「一損一貧」という。ひとつ作るたびにひとつ損して一段と貧しくなる意。農村の危機を背景に繰り返し登場しては消滅していく官製農村活性化運動のコピー。近年「一村百品」「一人百芸」「一村十景」など亜流が登場しているが、いずれもわびしき線香花火。ただ、農民の目をふさぎ、社会矛盾や世の病根から目をそらさせる効果は若干あり、その面で評価する向きもある。
特別国家公務員 特別国家公務員とは、自称稲作専業農家のこと。彼らの集合名詞。「食管法」に守られて、作物を作る苦労がなく、収入は安定し、毎年同じ仕事を繰り返していれば生きられるという意。ために、きわめて従順、発想貧困、自立心が弱く、気迫に欠ける。
言行不一致 唇をまっ赤に塗った女性が「無農薬野菜を食べたい」と叫んでいた。
      JRのローカル線廃止の抗議大集会に集まった人たちは、みんなマイカーで来ていた。
      農家のご婦人たちの田植えのおやつは、パンと缶コーヒーである。
      国産ミカンジュースの販売拡大会議は、コーヒーを飲みながらえんえんと続けられた。
消費者ニーズ @農業関係者が責任逃れのためにもっとも安易に多用する詭弁。お調子者が追従する決まり文句。A消費者の名を借りた市場・流通業界ニーズの別名。
過保護農政論 農業は過剰に保護されているとする一部の人たちの論。それだけ過剰に保護されている農業からどんどん人が離れ、後継ぎが育たず、嫁も来ないのはなぜか?という農業現場の率直な疑問に対して、納得させるだけの説明がないのが特徴。
有機農業 「勇気農業」から出発して、いま「非勇気農業」または「憂杞農業」に堕した農法のひとつ。
農水省 しばしば農民の敵役となる。通産省が国家戦略産業としての自動車業界の利益を代表しているのに対し、当該省庁においては、その負荷を負い、農業を安楽死に導く墓堀人の役割を果たしている。
農業改良普及所 農業の経営者(農水省)の命(めい)を受けて小作人(農民)の指導にあたる現場監督庁のこと。ここで禄を食む者のことを「農業改良普及員」という。自らのことを「役人」と称し、「指導」「関係」を連発して、簡単な話をわかりにくくする傾向がある。
農民作家 現代農民の兼業・副業の一形態。農業収入だけでは生計が維持できないため、逆に食えないことを逆手にとって日銭を稼ごうとする現代の賎業。家の恥、村の恥を天下にさらすことを特徴とし、そのため家庭内でも村のなかでも孤立している場合が多い。業界は高齢化が進み、後継者難に陥っている。が、後継者は容易に出てこない。
自立経営農家 自立経営農家とは、存在しにくいもののたとえ。生産物の価格決定権を持たない条件のもとでも、やり方によっては農業も産業たりうるという非現実的な虚妄に駆り立てられている意欲的な農民が陥りやすい罠。他人(とくに官製)の理論で武装するのを特徴とする。そのため外に対しては虚勢、見栄を張り、内にあっては無理を重ねて健康を害し、人生をまっとうできない者が多い。
生活者「消費者」よりは少し物事を深く、根源的に考える人たちが使用している「消費者」の類語。最大の欠陥は、「生活者」を「住民・市民・国民・大衆・民衆」に置き換えてもいささかの支障もないというところにある。つまり、何も主張していないのと同じこと。
消費者 字義どおりの解釈では「消して費やす者」となる。百姓ことばで「穀つぶし」「役立たず」の意。したがって、穀つぶしの集合名詞。衆愚の別称となる。
農協 本来的には保守政党の「愛人」の意。「脳狂」を語源とする。
農業経済学 「農業不経済学」の略。ためにする学問。農業のためにはいささかも役に立たず、それ以外についてもおよそ役に立たないことを立つものと錯覚して行う行為。
農業補助金 大人が子供に与えるお駄賃の派生語。転じて農政当局が自らの政策遂行を目的として農民にかがせる鼻ぐすりのことをいう。
専門家 正しくは「専問家」=もっぱら問い続けるだけの人。農業の「専門家」とは口先百姓の意。
 (山下惣一著「農業わけ知り辞典」創森社 1995.10.15 から) 
 こうしたブラックユーモアが農業経営者に受け入れられるならば、日本のお百姓さんまだまだヘコタレテいない。それだけの気持ちの余裕があるなら、時代の変化を敏感に捉えて、スローフードもひとつのきっかけとして、神様(消費者)の心を捕まえるに違いない。そのように期待しています。