趣味の経済学
官に逆らった経営者たち

西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill  30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill     30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

官に逆らった経営者たち 「日本株式会社」論に異論
 =1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」(前) ( 2002年4月 8日 )
 =1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」(後) ( 2002年4月15日 )
 =2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」(前) ( 2002年4月22日 )
 =2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」(後) ( 2002年4月29日 )
 =3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」(前) ( 2002年5月 6日 )
 =3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」(後) ( 2002年5月13日 )
 =4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」(前) ( 2002年5月20日 )
 =4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」(後) ( 2002年5月27日 )

* 戦後復興政策 ヨーロッパ 西も東も社会主義
趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

官に逆らった経営者たち
=1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」(前)
<「日本株式会社」と呼ばれる「妖怪」>  言語明瞭、意味不明の言葉がマスコミ界をうろついている。──「日本株式会社」という言葉が──。戦後日本経済が立ち直ったのはこの「日本株式会社」のおかげあるとか、しかしこれからはこの「日本株式会社」が発展のネックになるとか、改革を主張する過激派も,穏健派も、政官業のトライアングルの活躍に期待する族議員圧力団体派も、隠れコミュニストも、党派・立場を越えてこの言葉「日本株式会社」を使う。そこでこの言葉「日本株式会社」の意味するところは何なのか?実際の経済はどのような歩みだったのか?アマチュアエコノミストがプロ(ビジネスで発言する人たち)とは違った、ニッチ産業的(隙間産業的)な視点から検証してみようと思い立った。先ずこの言葉がどのように使われているか?その例を引用することから話を始めることにしよう。
 「いまや世界一の黒字国・債権大国にのし上がった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活感は乏しい。それどころか海外からは閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか?───その答えは、「日本株式会社」と呼ばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する。そうした経済構造自体を問い直し、改革することが、もはや国民的合意となっている。
 昭和の時代を通して官民総ぐるみで協調して形成された日本型経済システムが、東西の冷戦終結と五五年体制の崩壊という内外の激動を受けて、その大手術に向けて動きはじめたのである。これは日本経済の根底に関わり、痛みも伴う巨大なリストラ(再構築)を意味する」

 この本の著者は豊かな日本で生活しながら、その豊かさを実感出来ないと言う。豊かな生活用品に囲まれながら、心が満たされていないらしい。そしてそれは「世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する」と言う。この源流が「半世紀も前の昭和初期、当時のいわゆる満州国でめばえていたことは、第一の発見であった」と続き、「そしてこのシステムは戦後、単なる統制でなく企業か精神も誘導する独特な官民協調システムとして完成し、ついに欧米キャッチアップの目標を達成した」となる。
 これからの日本経済成長のために、「自由な企業活動を阻害する規制は、一層の撤廃を進めるべきだ」には賛成するのだが、前半の「官民協調システム」には疑問符を投げかける。そうは言っても確かに「日本株式会社」論は日本のマスコミに多く登場する。そこで戦後日本経済は「官民協調システム」だったのか?経済再建に政府の役割が大きかったのか?政府主導の経済再建だったのか?こうした疑問に答えるために、「官に逆らった経営者たち」とのタイトルで TANAKA1942b 独特の論法を展開してみようと思う。「経済学の神話に挑戦」とまでは行かないが、 従来からある安易な「日本株式会社」論に対する異論として展開する価値は十分にあると確信して論を進めることにしよう。 
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「ペンペン草を生やしてみせる」  川崎製鉄の社長西山弥太郎が1950(昭和25)年、「千葉に製鉄所を造る」と発表したとき、当時の日本銀行総裁、一万田尚登が「川崎製鉄が千葉工場建設を強行するならば、ペンペン草を生やしてみせる」と言ったと伝えられている。川崎製鉄は企業再建整備法に基づく整備計画により、川崎重工業(株)の製鉄部門を分離・独立し「川崎製鉄株式会社」として資本金5億円で設立された。初代社長に西山弥太郎就任。 これが1950(昭和25)年8月。就任3ヶ月後の1950(昭和25)年11月、西山は通産省に請願書を提出。千葉に総工費163億円規模の銑鉄一貫工場建設の計画が示されていた。東京湾の一角を埋め立てての工場建設という思い切った計画も大胆ならば、当時の川崎製鉄の資本金は5億円でしかなかった。それだけの資本金の会社が建設費の半分の80億円を国からの融資(見返り資金)に求めるものであったから、当時の産業界の大きな話題になった。
 西山は政府の財政資金に頼るため、当時の日銀総裁一万田尚登に話を持っていく。一万田は「あまりにも計画は大きすぎる。とても無理な計画だ」と言って話に乗らない。
 一万田は第三者に千葉製鉄所のことを聞かれて、露骨にイヤな顔をして、
「いま日本で大製鉄所は成り立たない。アメリカは技術が格段にすぐれ、鉄鉱石も原料炭もすべて安い。日本が遠くから運んで来ても失敗するに決まっている。製鉄所の屋根にペンペン草が生えても知らないよ」と言った。この発言が増幅されて、
「一万田はペンペン草を生やしてみせると言った」と伝えられた。
 一万田によると「そんなことを言った覚えがない。ただ、あの計画は戦後初めて高炉を建てるものだったから、順序からすればやはり旧日鉄、つまり分割された八幡か富士から認めるのが筋だ。しかもまだその時期さえ早すぎると思っていた。おそらくジャーナリズムの造語だろうが、たいへん良くできた言葉なので、あえて打ち消さなかった」と言っている。しかし時の金融界に君臨し「法王」と呼ばれた一万田の「慎重に」は「ノー」と同義だった。
 この一万田発言は、西山も否定している。とするとやはり当時のマスコミの誇張した報道、とも考えられるが、川崎製鉄の記録の中には一万田発言という記録もある。
 結局はっきりした事は分からないが、「川鉄ごとき小会社が・・・」という反発が経済界に強かったことも否定できない。「法皇」とも言われた権威者、一万田総裁と「ペンペン草」の取り合わせは、そうした空気を巧みに伝えて歴史に残る造語となったといえるだろう。
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<銑鋼一貫会社をめざす> 1945(昭和20)年8月戦争は終わった。終戦後対日占領軍は日本の軍事力破壊と経済民主化を遂行するなかで、1947(昭和22)年過度経済集中排除法(集排法)を成立させ、財閥および巨大軍需産業の解体を進めた。鉄鋼業も日本製鉄(日鉄)を含め、日本鋼管、川崎重工、住友金属、神戸製鋼など13社が分割指定を受けた。各社はそれぞれ分割案を作成し集排法の適用に備えたが、その後の占領政策の緩和で集排法の適応は次々に撤回されていった。しかし、日鉄分割指令だけは最後まで解除されず、1950(昭和25)年4月に日鉄は八幡製鉄、富士製鉄、日鉄汽船、播磨耐火煉瓦の4社に分割された。こうして戦前の巨大半官半民企業は分割されて、八幡・富士という純粋民間鉄鋼企業が誕生した。
 一方、この分割とほぼ平行して川崎重工は集排法が緩和されたにもかかわらず、造船を中心とした重工部門と製鉄を中心とした製鉄部門との分割をあえて選択し、1950(昭和25)年8月に川崎製鉄を誕生させた。
 この川崎製鉄分離独立は西山が強く主張したものだった。
「これからの製鉄業は溶鉱炉(高炉)を持たなければ発展は望めない。しかし溶鉱炉を持つには莫大な金がかかる。 造船所と高炉が一緒では川重の経営が難しくなる」というのがその理由であった。
 西山が社内や取引銀行の反対を押し切り、川崎製鉄が生まれた。しかし当時は平炉のみで、原料はクズ鉄に頼り、銑鉄は高炉を持つ八幡・富士製鉄に頼らざるをえない。西山は一筋に銑鋼一貫の製鉄所建設を目指すことになった。
「西山さんのハラが決まったのは関西系三社が経営を共同で引き継ぐつもりだった旧日鉄の広畑製鉄所が永野(重雄)さんの富士に取られたことからではなかったか」(黒田秀雄・川鉄商事社長)
 当時、富士製鉄社長だった永野も述懐している。「私は全社員に「広畑は取る。もし取れなかったら腹を切る」と言明した。むろん、これは単なる修辞ではなかった。私は本当に、失敗の時は男らしく割腹して果てる覚悟であった」(永野著「和魂商魂」による)
 広畑は旧日鉄の最新鋭製鉄所だったが、敗戦後に総司令部の命令で賠償に応じる予定の設備として高炉や圧延機械が封印されていた。それが無事に日本側に返されることになったとき、川鉄はじめ関西系メーカーは銑鋼一貫会社へ浮上する好機とねらっていた。しかし、永野に足をすくわれたことが、 西山を独自建設に踏み切らせる原動力になったのだった。
<多くの関係者が無謀と思った> 西山は従来のヨーロッパ型の小規模生産ではなく、アメリカ型の大量生産をねらい、新しい製鉄所には世界最新の設備を備えるつもりであった。そこで思い切ったコスト切り下げと品質向上に成功すれば、川鉄は国際競争力のある世界的鉄鋼メーカーになれる、と考えた。
 川鉄は西山の命令一下ただちに建設用地の選定に取りかかった。川鉄は関西の会社であり、かねて山口県が地元誘致を運動していたが、西山は大消費地東京周辺をねらい、千葉県と千葉市の誘いに乗り、工場建設を千葉市に決めた。西山が通産省に提出した計画では、500トン高炉2基、100トン平炉6基ならびに分塊・圧延機、ホットおよびコールド・ストリップ・ミル各1基を備え、銑鉄年産35万トン、粗鋼生産50万トン、総投資額163億円という驚くべき内容であった。
 1950(昭和25)年といえば、6月に勃発した朝鮮動乱で軍需ブームの兆しが見えたとはいえ、いまだ日本の鉄鋼業の将来は不安定な時期であった。 4月には日鉄が八幡・富士に分割され、業界はにわかに競争圧力が高まったばかりであった。しかも、日本には37基の高炉があり、需要不足で稼働しているのは12基だけ、という状況だった。通産省は八幡・富士・日本鋼管の高炉3社に川鉄・住金・神鋼の平炉メーカー3社の構成で第一次合理化計画を進めようと構想中。このため、西山を「官に楯突く反逆者」とみなした。
 このような状況で、日銀総裁、一万田の発言が出てくる。
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<中山素平・小林中の判断> 通産省の許可を待たずに西山は手持ちの資金を投入して千葉工場の建設に着手する。朝鮮動乱で儲け、その資金でクズ鉄を買いあさり、それが値上がりしてして二重の儲けとなった。
 1951(昭和26)年2月、 銑鋼一貫製鉄所建設の目的で千葉市に千葉製鉄所を開設。
 西山弥太郎は1893(明治26)年、神奈川県に生まれ、東京大学工学部冶金科を卒業。川崎造船所に入社後一貫して技術者の道を歩んだ。1935(昭和10)年には、ドイツ・クルップ社など欧米の鉄鋼産業を視察して、このころから世界との競争に勝つためには、溶鉱炉を持つことが不可欠であると考えるようになっていた。
 戦後、他の製鉄会社と同じく、川崎重工も経済パージで上役たちが追放されたため、最年少の取締役だった西山は急遽経営陣に加えられた。いわゆる三等重役だった。しかし西山はドッジ・デフレの混乱期に川崎製鉄を独立させ、初代社長に就任するや、技術者経営者の悲願ともいうべき銑鉄一貫工場設立を決断強行した。ここにおいて西山は技術者から経営者に変身する。
 西山の計画には当初「無謀、蛮勇だ」と笑われた。しかし技術屋から経営者に変身した西山の説得に風向きは変わっていった。通産省にいて請願書を受けた山地八郎(当時、東京通産局長)は、このときの模様を次のように語っている。
「最初に請願書を見たとき、私だけでなく皆驚きの一句でした。何しろあのころは各社とも溶鉱炉は十何本、遊んでいるような状況でして、古い設備をうまく活用することが当時の貧乏な日本としては大切なことではあるまいか、という意見が強かったですね。
 しかしながら、西山さんがいろいろ説得して歩いているうちに、なるほど放っといてはいかんな、ということになり、みなさんが賛成して、この際思い切って設備拡充しなくてはならん。通産省としても新しい設備の合理化を積極的に応援した方がいいのじゃないかと、だんだん変わっていったんです」
 融資の話は1951(昭和26)年5月に開業したばかりの日本開発銀行へ行く。当時日本工業銀行から理事として日本開発銀行に出向していた中山素平は、興銀から連れてきた審査部長の竹俣高畝に計画を調べさせる。はじめ竹俣は「断る理由を見つけるために」計画を調べた。しかし、技術顧問の助けで採算性を丹念に計算してみると、償却が進んでいる八幡など高炉三社よりはるかに安く製造できることがわかる。「鉄鋼業の将来を考えると計画を支援すべし」結論は変わった。
 最後は民間出身の総裁、小林中が決断した。この融資決定に中山素平は後にこう語っている。
「私は川崎製鉄の溶鉱炉建設が、八幡・富士など他の鉄鋼メーカーにもよい刺激と励みになると考えて、融資決定に賛成していたのですが、日本開発銀行の小林中さんに呼ばれて、開発銀行は一万田君が反対しても融資しよう。ただメインバンクの第一銀行が迷惑だと言うならやめる、と言うので、私が第一銀行の酒井杏之助さん(1951年頭取就任)に聞きに行ったら、「第一も協力します」とのこと。それで開発銀行は融資を決定したのです。結果は考えたようになりましたね」
 このようにして川崎製鉄の千葉での溶鉱炉建設が開始される。融資も日本開発銀行から10億円、メインバンクの第一銀行や市中銀行から26億円を糸口に、後には世界銀行からの借款まで可能となっていく。西山はこの川崎製鉄千葉工場の新しい溶鉱炉建設に備えて、技術者をはじめ官僚など、さまざまな人材を集めていく。
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<第一銀行酒井杏之助の見方> こうした状況で、メインバンクの第一銀行ではどのように見ていたのだろうか?
「西山氏を見る世間の目は、製鉄の技術者としては有数のベテランであるが、向こう見ずの横紙破りで、経営者としての責任を取り得る人物ではないというのがおおよその評価であった。西山氏に言わせれば、よい事業を脇目もふらずに熱心にやれば、資金は必ずついてくる。否、ついてくるべきだというわけだが、世間はそう簡単にはついてこない。資本というものは臆病なものだ。だれが汗水たらした資本をまだ海のものとも山のものともわからないところへ出すであろうか」と、酒井杏之助(当時、第一銀行頭取)は「西山弥太郎追悼集」の中で書いている。
 しかし、川鉄のメインバンクである第一銀行にしてみれば「矢はすでに弦を離れた。川崎製鉄を見殺しにはできない。世間では第一銀行がはたして川崎製鉄を最後まで見捨てないであろうか、西山社長という人は手に負えない積極主義者で、この荒馬を何人が制御して行けるかなどの疑問を持っている。 川崎製鉄が進退きわまったと同様、第一銀行としても一大決心をせねばならぬ時に立ち至った」として、大森尚則常務(当時)を川鉄の会長に派遣するなど、徐々に川鉄と「心中」する構えを固めた。
 工事は着々と進み、1953(昭和28)年6月17日に第一高炉の火入れ式が行われた。だが第一期工事のあと、引き続きホットとコールド・ストリップミルを作り、第二高炉を作らねばならない。金はいくらでもいる。国内調達は困難だ。そこで川鉄は世界銀行に98億円という当時としては巨額の借款を申し込んだ。
 世界銀行から調査団がやってきた。西山は自ら作業服を着て一行を千葉製鉄所に案内し、熱っぽくその将来性を説いた。それに対して世界銀行の調査員は主要取引銀行である第一銀行の意向を知りたかった。酒井は率直に語った。
「川崎製鉄の現状は財務諸表から見れば、とうてい世界銀行の融資対象にはなりますまい。しかし日本は敗戦によりゼロから出発しなければなりません。川崎製鉄には貸借対照表には記載されない資産があります。それは西山社長の事業に対する熱意であり、社内全員の規律正しく働く意欲であります。あなた方も工場を見て気づかれたでありましょう」
 調査員は深くうなずき、「それは我々も認める。西山氏は実にダイナミックな人物で、製鉄に関する知識はきわめて豊富だ」
 と答えた。酒井は笑いながら、
「ただ西山氏のダイナミックなことは、いささか過ぎたることがないではないが・・・」
 と応じると、調査員も笑って相づちを打ったという。
 世界銀行は一万田よりずっと積極的に川崎製鉄に対した。1956(昭和31)年12月に72億円、1958(昭和33)年に28億8,000万円、1960(昭和35)年に21億6,000万円の借款が成立した。この桁はずれな支援がなければ西山の千葉製鉄所にかけた夢は挫折していたであろう。
 西山の製鉄所にかけた情熱が、慎重であるべき内外の銀行家を酔わせて、言われるままに西山の夢に金を貸してしまったのだった。幸いペンペン草は生えなかった。
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<高度成長への先駆け> 千葉製鉄所の成功は、日本の経営者に決定的な影響を与えた。大胆な投資計画を打ち出し、これを強行すれば、それがたとえ日銀総裁の意向に逆らうものであっても、必ず金融はついてくる。そして原材料輸入、製品輸出専用岸壁を持った大規模、最新鋭の臨海工場こそが世界最高の生産性を持つことを確信させた。
 以後、日本の経営者は驚くほど大胆な設備投資をし、世界市場を席巻した。一万田の言う「技術が格段にすぐれ、鉄鉱石も原料炭も安い」はずのアメリカの製鉄業は日本企業に敗退した。世界一の鉄鋼会社だったUSスチールも昔の威勢はない。
 川崎製鉄の一貫生産参入は他社に強い刺激を与えた。1953(昭和28)年住友金属は小規模高炉メーカー小倉製鉄を合併して銑鉄生産に参入し、神戸製鋼は1954年これも小規模高炉メーカー尼崎製鉄に資本参加して一貫化への足掛かりを築いている。さらに住友金属は1955年、神戸製鋼は1957年にそれぞれ千葉と同じような臨海型の新鋭製鉄建設計画を発表している。こうして日本鉄鋼業界は戦前予想もしなかった一貫六社による寡占的競争関係に入って行くのだった。
 戦後GHQによってもたらされた日本経済の民主化および日鉄の分割による市場競争の導入という大変化は、日本の企業家精神を大きく刺激した。とくに経済人パージで経営陣が入れ替えられた川崎重工の状況は、西山の企業家精神を大きく刺激した。最年少の重役として、川崎重工の再興経営者の一人となった西山は、自分の戦前からの夢を果たすまたとないチャンスを手に入れた。このように、戦前から連続的に蓄積された技術と経営感覚は、戦後の非連続的に出現した経営環境にダイナミックに対応し、西山をして戦後最も大胆と言われた意志決定に向かわせた。
 西山の千葉工場建設の成功は業界に与えたインパクトにとどまらない。この高度成長を予感させるような大胆な投資決定は、他のあらゆる産業の意志決定に影響を与え、まさに「投資が投資を呼ぶ」というダイナミックな戦後発展の先駆になったのだった。
( 2002年4月8日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」(後)
<鉄鋼業界の歴史> 官に逆らった西山弥太郎、その業績を理解するには日本の鉄鋼業界の歴史を知っておくといい。明治時代からの主要な製鉄会社の歩みを振り返ってみよう。 
日本製鐵株式會社
1897(明治30)年 農商務省、八幡に製鉄所の建設を着工
1901(明治34)年 官営八幡製鐵所操業開始
1934(昭和9)年2月1日 日本製鐵株式會社創立〔官営八幡製鐵所と輪西製鐵・釜石鉱山・三菱製鐵・富士製鋼・九州製鋼・東洋製鐵との製鉄合同による〕
1939(昭和14)年 日本製鐵株式會社広畑製鐵所を設置
1950(昭和25)年4月1日 過度経済力集中排除法にもとづき日本製鐵株式會社を解体
1965(昭和40)年 八幡製鐵が君津製鐵所を設置
1970(昭和45)年3月31日 新日本製鐵株式會社発足
日本鋼管株式會社
1912(明治45)年 日本鋼管株式會社(資本金200万円)設立
1914(大正3)年 第1号平炉(20トン)出鋼、継目無鋼管の製造営業開始
1937(昭和12)年 第1高炉(400トン)火入れ
1938(昭和13)年 トーマス転炉(20トン)3基 新設、操業開始
1958(昭和33)年 川崎製鉄所純酸素転炉(42トン)2基新設、操業開始
1959(昭和34)年 水江地区工場を水江製鉄所と呼称し、分塊・熱延・冷延設備新設、操業開始
1966(昭和41)年 福山製鉄所第1期工事完成
1976(昭和51)年 京浜製鉄所扇島地区第1期工事完成
1988(昭和63)年 創立記念日を機に、会社の呼称を「NKK」に統一
2001(平成13)年 本社ビルの譲渡を決定 日立造船(株)と造船事業の統合で合意 川崎製鉄(株)と全面的な経営統合について基本合意
川崎製鉄株式会社
1878(明治11)年4月 川崎正蔵が東京築地に川崎築地造船所を創業
1896(明治29)年10月 株式会社川崎造船所を設立。初代社長に松方幸次郎就任
1939(昭和14)年12月 株式会社川崎造船所を川崎重工業株式会社と改称
1950(昭和25)年8月 企業再建整備法に基づく整備計画により、川崎重工業(株)の製鉄部門を分離・独立し「川崎製鉄株式会社」設立、資本金5億円。初代社長に西山弥太郎就任
1951(昭和26)年2月 銑鋼一貫製鉄所建設の目的で千葉市に千葉製鉄所を開設
1953(昭和28)年6月 千葉製鉄所第1高炉火入れ
1967(昭和42)年4月 水島製鉄所で第1高炉が稼働
1976(昭和51)年 千葉製鉄所第3高炉稼働
2001(平成13)年4月 NKKとの経営統合を発表
株式会社神戸製鋼
1905(明治38)年9月 合名会社鈴木商店の神戸製鋼所として創業
1911(明治44)年6月 鈴木商店から独立、資本金140万円の(株)神戸製鋼所として発足
1917(大正6)年7月 門司工場を新設
1949(昭和24)年6月 企業再建整備法による整備計画認可。 8月 第二会社神鋼金属工業および神鋼電機(株)を設立
住友金属工業株式会社
1897(明治30)年4月 住友伸銅所開設
1902(明治34)年6月 住友鋳銅所開設
1935(昭和10)年9月 合併し住友金属工業(株)
1945(昭和20)年11月 扶桑金属工業(株)に商号変更
1952(昭和27)年5月 住友金属工業(株)に商号復帰
1959(昭和34)年8月 住友軽金属工業(株)分離
1961(昭和36)年1月 住友精密工業(株)分離
1963(昭和38)年1月 住友特殊金属(株)分離
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<戦後の政府主導の経済政策> 戦災の廃墟の中から日本経済は立ち上がった。1946(年26)春には戦前(1934-36平均)の3割にまで経済は回復したが、9月以降鉱工業生産は減少する。これは基本的な生産手段が不足したためだった。終戦直後の経済は戦災から免れた原材料を使用し、生産に当てていた。その資材が底をつくと生産が低迷する。石炭・鉄鋼・セメントの生産の遅れが、鉄道・港湾・探鉱・発電など基本的産業の遅れへとなっていく。
 吉田首相は連合軍最高司令官に対して、1946年8月30日資材の緊急を要請する。これは繊維産業など平和産業のためであったが、9月になって認められたのはわずか塩・銑鉄・揮発油の3品目だけだった。
 政府は石炭と鉄鋼を重点産業として、これを支援する体制を組む。生産される石炭は鉄鋼生産の目的を優先する。鉄鋼は炭坑の目的を優先する。このため他の産業や一般消費は犠牲になる。このような「傾斜生産方式」が採用されて、鉱工業生産は軌道に乗り始めた。ただしこれを傾斜生産方式の結果とする見解と、石炭・鉄鋼など生産財の不足は財の価格上昇を通じて市場メカニズムによっても解決されたはずだ、との見解もある。
 この時期の石炭と鉄鋼の生産実績は次の通り
年・期\産物 石炭(千トン) 鉄鋼(トン)
1946年度 T 4,952 73,012
U 5,182 72,616
V 6,011 85,012
W 6,346 88,681
1947年度 T 6,326 117,762
U 6,642 146,780
V 7,888 134,294
W 8,470 178,792
1948年度 T 7,998 222,411
U 8,121 287,101
V 9,121 338,082

炭坑労働者にコメ6合 1947年初めから石炭、鉄鋼への資材・資金・労働力の傾斜的配分が強化される。1947年度には3,000万トンの石炭確保が至上命令とされた。炭坑労働者には6合、その家族には3合のお米が配給され、NHKは木曜日午後8時からの今でいうゴールデンアワーに「炭坑に送る夕」を放送した。
 コメをこのように使うのには前例があった。戦国時代、戦時体制であちこちに、短期間のうちにいくつもの城を築いた。各地で普段は百姓でもパートの築城工事人足が必要になる。「コメを腹一杯食べたければ、築城工事に出てこい」と号令をかける。百姓のうち領主の行う「公共事業」に参加する者はコメを十分食べられた。そしてその公共事業は築城の他に、大規模な新田開発や鉱山開発が当時活発に行われていた。巨大河川の下流にある沖積層平野を安定させる工事は戦国時代から、江戸初期に集中していた。この分野で名をあげたのは、伊達政宗・武田信玄・加藤嘉明・黒田長政・加藤清正など。領内の河川を安定させ、米の収穫を安定させた大名が力を持つようになった。 (  江戸時代の百姓はけっこう豊かだった?
 )
 当時のお役人さんたち、日本の歴史をよく勉強していた。戦国大名と同じ政策を採ったのだから。ところで今日の農水省のお役人さんはどうだろう?秀吉・家康・松平定信・水野忠邦などと同じように、農地売買を制限し、百姓を土地に縛り付けておこうとする。歴史を学び過去の権力者と同じ政策を採ろうとしているのか?それともただ不勉強なだけなのか?そしてこの江戸時代からあった土地政策に百姓は反抗しない。越訴・強訴・一揆などは起きない。若者が生まれた土地を離れ,都会に働きに出ると(江戸時代の「走り者」)、「産業資本が農村の若者を都会に連れ出した」と非難する(江戸時代の「人返し令」と同じ)。そうした主張が一部の文化人と百姓の間から出る。「江戸時代を見直そう」との動きと同じように「江戸時代の封建的土地政策」が再評価されているようだ。
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<一万田法皇時代> 「川鉄千葉工場にペンペン草を生やしてやる」と言った一万田尚登が日本銀行総裁に在任したのは、1946(昭和21)年6月から1954(昭和29)年12月までの約8年半の歳月だった。この時期を「一万田法皇時代」と呼ぶ。その理由は (1)当時の日本銀行の地位・機能が大きな社会的影響力を持っていたこと。 (2)一万田個人の政治力の大きさによる。
  (1)終戦直後の日本経済は絶対的貨幣資本不足の下で、財閥系銀行、特殊銀行ともに十分な資金供給力を持たず、金融機関はもとより、大企業に到るまで日本銀行に依存しなければ資金調達が出来なかった。その一方で、インフレの恐れは度重なる抑制政策にもかかわらず消えなかった。このため通貨発行銀行としての日銀の責任と同時に権威をも高めることとなった。
 日銀の政策は「経済復興のための十分な資金供給という通貨拡大政策」と「インフレを抑制するために通貨拡大を押さえる」という矛盾する政策目標を達成しなければならなかった。このような困難な金融政策目標の下、民間の金融機関は日銀の援助なくしては経済復興資金を供給する能力を発揮することが出来なかった。こうして日銀総裁の意向を無視しては、金融機関も大企業も経営方針や経済活動の方向を決定することができなかった。ここに日銀の、一万田法皇の権威を高める理由が存在した。
  (2)一万田日銀総裁の8年半の間に、内閣は7つ、大蔵大臣は9人をも数えた。また公職追放令によって有力な財界人が少なくなったこともあり、一万田総裁は広範な分野にわたって密接な関係を持ち、不動の地位を築いていった。
 この時期において特筆される金融関係の出来事の一つに、日銀政策委員会設置の問題がある。1948(昭和23)年8月に総司令部(経済科学局)から手渡された「新立法による金融制度の全面改正」と題する非公式のメモには、大蔵省金融行政の権限、日銀の通貨信用政策に関する機能を持つ委員会設置の指示があった。このメモは、金融制度の全面的改革を行うために、新金融立法を準備するとの内容を含んでいた。
 このメモにいう委員会は大蔵省からも日銀からも独立した存在だった。このため大蔵省も日銀もこのメモへの対応に苦慮した。そして何度も総司令部と交渉を行い、バンキング・ボード(金融委員会)の設置による代案を経て、最終的にはポリシー・ボード(政策委員会)設置による解決策へと変遷した。
 傾斜生産方式採用といい、日銀政策委員会設置といい、オーバーローンによる資金供給機能の確立といい、この時期の一万田日銀総裁は金融界の法皇であった。この法皇にして「ペンペン草を生やしてやる」と言わしめた、西山の川鉄千葉工場建設計画がいかに大胆であったかが理解できよう。そして復興のために石炭と鉄鋼を政府指導の下に拡大しようとした官僚、しかしその支配に逆らって設備投資を拡大していった民間企業。これをみると戦後日本経済の復興と高度成長が官僚指導の下での「計画経済」であるかのような言い方には納得出来ない。官の統制をはねのけるビジョンと実行力を持った経営者たちが新しい状況を切り開いて行ったのだと思う。日本の市場には西山弥太郎やそれに続く優れた経営者がいて、その伝統は今でも失われていない、と思いたい。戦争直後からの経済復興を省みれば、平成時代の不況はいずれ乗り切りきり、さらなる発展の道を歩むと考えられる。少なくとも、過去に対する自虐的な歴史観は取りたくない、と考える。
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<イギリスの鉄鋼業> イギリスの鉄鋼業は1951年に国有化、1955年に民営化、1967年に再国営化、1988年再民営化とジグザグコースをたどった。最初の国有化はアトリー首相により行われ、1946年から、イングランド銀行・炭坑・鉄道・港湾・運河・電機・ガス・鉄鋼を国有化していった。これらの企業は採算点に達せず、自力で近代化や自己投資は不可能と見られていた。それらの国有化とは、つまり倒産寸前の企業を国民の税金でまかなおうということであった。その後”親方ユニオン・ジャック”となった炭坑と鉄道の労働者は、ストライキを多発させ、イギリス経済の足を引っ張ることになる。なお石炭公社の労組は1985年3月サッチャー首相との戦いに敗れ影響力を失う。
<フランスの鉄鋼業> 戦時中、戦後に予想される自由貿易体制への対応を検討した国外レジスタンス勢力の一部は、国際競争力が弱く、戦争によって疲弊した経済にとり、ただちに国境を開放することは無謀であると考えた。モネを中心とするこのグループは、近代化による競争力強化を自由貿易への参加の前提条件とみなし、保護主義的な過渡期を確保するという政策を取った。ヨーロッパ共同体(EEC)が発足する1958年まで保護主義を堅持し、大半の生産物に15%を超える関税を維持した。
 1950年モネの発案による、シューマン・プランが発表され、仏独中心の石炭・鉄鋼の共同管理体制としてヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。ECSCはイタリアとベネルクス3国の参加も得て6カ国で構成され、独仏和解、石炭・鉄鋼の近代化と競争力強化などの目的を与えられた。
<ドイツの鉄鋼業> フランスとの共同事業、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が西ドイツ経済再建の中心になる。資金的バックアップはアメリカからのマーシャル・プランが中心になる。西ドイツ政府の企業に対する関与は多くはないが、アメリカ・フランス・西ヨーロッパ諸国・そして西ドイツ政府の作る枠組みから、企業ははみ出すことは出来なかった。官に逆らう企業は存続出来ず、民間経営者の大胆な発想を活かす機会はなかった。
 このようにヨーロッパでは西山弥太郎のような、製鉄所に情熱をかけたダイナミックな経営者は現れなかった。と言うよりも官が経営していたので、「官に逆らう経営者」とは「官に逆らう官」「政府に逆らう官僚」ということになり、日本とは違っていた。アメリカを除く先進国の中で、鉄鋼に関して言えば、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
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<川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか? 参考文献>
昭和経済史(中)          有沢広己     日本経済新聞社 1994/ 3/11   
「日本株式会社」の昭和史     NHK取材班     創元社      1995/ 6/20  
起業家精神の研究         大谷 健     草思社     1994/10/20  
日本企業の経営行動4       米倉誠一郎他   有斐閣     1998/ 7/30  
日本の戦後企業家史:反骨の系譜  佐々木聡     有斐閣     2001/12/20  
高度成長の時代          香西 泰     日本評論社   1981/ 4/10  
工業化の軌跡           岡崎哲二     読売新聞社   1997/ 2/12  
テラスで読む戦後 トピック経済史 原田 泰     日本経済新聞社 1992/ 2/10  
経済学の冒険           原田 泰     日本経済新聞社 1994/ 6/ 3  
市場の経済学           三輪芳朗     有斐閣聞社   1996/ 6/20  
20世紀 日本の経済人       日経新聞編    日本経済新聞社 2000/11/ 7  
現代ヨーロッパ経済史       原輝史・工藤章  有斐閣     1996/ 2/25
( 2002年4月15日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」(前)
<「東京通信研究所」設立> 1945(昭和20)年10月、東京日本橋にある白木屋の3階、そこの狭い配電室の入り口に「東京通信研究所」の看板が掲げられた。そして1946(昭和21)年5月7日「東京通信工業株式会社」(東通工)が資本金19万円で設立された。奇しくも同時期、1945(昭和20)年10月浜松市で本田宗一郎が本田技術研究所を開設。1948(昭和23)年9月、本田技研工業株式会社(資本金100万円)として発足 。ここに戦後日本を代表するベンチャー・ビジネスがそろって産声をあげた。しかし業界も、マスコミも、世間もこの誕生が将来日本社会にどれほど大きな影響を与えるか、考えは及ばなかった。
 創立時の役員は次の通り。社長=前田多聞(まえだ たもん)。戦後すぐの東久邇内閣とそれに続く幣原内閣で文部大臣を務めたが、戦時下の東条内閣で新潟知事をしていたことが公職追放に抵触し、辞任していた。専務=井深大、取締役=盛田昭夫。その他、のちに宮内庁長官になる田島道治、井深が以前から世話になっていた増谷麟が役員になり、社外から全国銀行協会会長を務めた万代順四郎、旧家盛田家の当主盛田久左エ衛門が参加した。この時井深39歳、盛田25歳。こうして総勢20数名の小さな会社「東京通信工業株式会社」は誕生した。
 1946年1月井深が起草した「東京通信工業株式会社設立趣意書」の「会社設立の目的」「経営方針」には次のような文がある。
「会社設立の目的」
一、 真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設
一、 日本再建、文化向上ニ対スル技術面、生産面ヨリノ活発ナル活動
 以下略
「経営方針」
一、 不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ハズ
一、 経営規模トシテハ寧口小ナルヲ望ミ大経営企業ノ大経営ナルガ為ニ、進ミ得ザル分野ニ技術ノ進路ト経営活動ヲ期スル
 以下略
 設立当初は「家電メーカー」というより、「電気工事会社」であった。NHKのスタジオ改修工事などで実績をあげていった。
G型テープレコーダー1949(昭和24)年9月テープレコーダーの試作第1号機ができあがった。販売価格16万円。重量45Kgであった。以後H型、P型と改良が進む。テープレコーダーの開発には東通工の技術者のほかに東京芸術大学の学生が参加していた。後に大型新人バリトン歌手としてヨーロッパでも将来を嘱望された大賀典雄であった。音楽家としての耳を生かし、素人では分からない微妙な音の違いを指摘していった。そして既に経営者としての力量を示すかのように、テープレコーダーの芸大売り込み等営業面でもその才能を発揮していた。
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<トランジスタの特許取得へ> 1952(昭和27)年井深は初めて渡米する事になった。テープレコーダーの販売拡大のヒントを得るためだった。ニューヨークで山田志道に会った。山田はこれ以降アメリカにあって社外から東通工を支援することになる。アメリカ滞在中に友人が井深を訪ねてきた。ウェスタン・エレクトリック社(WE社)がトランジスタの特許を望む会社に公開しても良いと言っているが興味はないかと言う。トランジスタはベル研究所のショックレー、バーディーン、ブラッテンの3博士によって発明され、製造特許は親会社であるWE社が持っている。特許使用料を支払えば公開するという情報だった。
 突然ひらめいた。
「トランジスタをやってみよう。技術屋がたくさん必要になるに違いないし、リサーチャーもいるだろう。それに、我が社の技術屋の連中も新しいことに首を突っ込むのが大好きだ。うってつけじゃないか」
 トランジスタなど今回の渡米目的には入っていない。会社の事情がなければWE社の話に耳を貸さなかったかもしれない。 特許料が2万5千ドル(約900万円)というのも、東通工にとっては大きすぎる金額だ。しかし、やってみるだけのことはありそうだ。トランジスタも発明されてから4年、鉱石検波器とは違うことももはやわかっていたし、何よりも、トランジスタ自体が初期の接触型から合金型へと進歩していた。
 さっそく、井深は山田に頼み込んだ。
 「トランジスタの話を、よく聞いて帰りたいんだ」
 山田はウェスタン・エレクトリック社(WE社)の特許担当マネージャーに会えるよう、何度もコンタクトを取ったが、アポイントは取れなかった。心残りであったが井深は事後を山田に託して帰国の途に就いた。
 井深は社内のコンセンサスが得られると、通産省にトランジスタ製造の許可を求めにいった。しかし、返事はつれなかった。
「ちょっとやそっとで、トランジスタなんかできないよ。それに補聴器程度にしか使えないだろうし。それともトランジスタ補聴器を作りますか?」
 町工場に毛の生えた程度の東通工で難しいトランジスタが出来るわけがない。そんなことで高額な特許料を支払い、貴重な日本の外貨を使われてはたまらないと、てんで問題にもされない。
 東芝、三菱、日立といった大会社もトランジスタの開発を始めるところが現れ始めたが、その際にはアンブレラ契約を交わすという方法を採っていた。アメリカのRCAからすべての技術を供与してもらう代わりに、すべての商品にロイヤリティーを支払わなければならない。日本を代表する会社でさえそうなのに、東通工はWE社から特許権だけを買い取ろうとしていた。いかにも無謀なことだ、と言うのが通産省の見解だった。
 アメリカでは井深から後を託された山田の尽力によって、トランジスタの特許取得に向け、着々と交渉が進められていた。そして山田の努力が実を結ぶ日が来た。井深に届いた一通のエアメールがその実を運んで来た。
「あなたの会社に特許を許諾する用意がある。代表者が来てサインしなさい」
 ライセンシーにしても良いというWE社からの手紙だった。東通工がどこの会社とも技術提携せずアドバイスも受けずに、独力でテープを完成させたことに感心し、トランジスタの特許を使わせても大丈夫だ、と判断したらしかった。
 1953(昭和28)年8月、3ヶ月の予定で欧米を視察することになっていた盛田がWE社との契約を任されることになった。
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<トランジスタ補聴器>  WE社との交渉には山田が同行した。日本ではまだ通産省の許可が下りてないため、許可が下り次第正式に契約することにして、仮契約を済ませた。東通工がWE社と結んだのはライセンシー契約であり、ノウハウ契約とは違う。そのため盛田は調印を済ませると、日本に帰ってから役立つように、トランジスタに関するありとあらゆる資料を集めまわった。これで渡米の目的を無事果たしたことになる。
 仮調印のおり、WE社の技術者は、
「トランジスタは非常に面白い。しかし今の段階ではオーディオパーパスにしか使えない。ヒヤリングエイド(補聴器)を作ったら良いだろう。日本に帰ったらぜひとも補聴器をつくれ」
としきりに勧めてくれた。盛田は補聴器では大きなマーケットになりそうもないなと思いつつ、「はあ、はあ」と聞いておいた。日本に帰った盛田はWE社とのやり取りを井深に話した。
「トランジスタができれば、わが社のチャンスとなるはずです。トランジスタを使って何かやりましょう。WE社では、補聴器をやれと言っているけど、どうでしょう」
井深も補聴器には否定的だった。 
「ラジオをやろう」
これが井深が出した答えだった。
「トランジスタを作るからには、大衆製品を狙わなくては意味がない。だから何としてもラジオだ。難しくても、最初からラジオを狙おうじゃないか」
 アメリカでさえ補聴器にしか使えない低周波数トランジスタしか作られていない当時、大胆な発想だった。しかし井深は強気だった。
「大丈夫だ、必ずラジオ用のものができるよ」
この言葉で、東通工の技術者たちの挑戦が始まった。
<「貴重な外貨は使わせない」と通産省>開発に対する会社の方針は決まった。しかし通産省の許可がおりない。
「当社ではWE社からライセンシーとしての許可をもらいました。ついては通産省のほうでも、この件に関して許可をお願い致します」
井深の言葉に通産省はカンカンだった。かってにサインしてくるなどもってのほか、けしからんと、余計につむじを曲げる始末。補聴器程度にしか使えないトランジスタのために、貴重な外貨は使えない、と言うのだった。
 通産省の出方をみながらできることから始めるほかはない。そこで社内から精鋭たちが集められ、トランジスタ開発部隊が編成された。ヘッドにはテープレコーダーの製造部長をやっていた岩間和夫が志願した。多方面から腕に自信のある連中が集まってきた。物理屋の塚本哲男と岩田三郎、機械屋の茜部資躬、化学屋の天谷昭夫、電気屋の安田順一。
 1953(昭和28)年も暮れかけようという頃、通産省の電子工業関係部門で大幅な人事異動が行われた。急転直下、トランジスタの認可が下りそうな気配だ。年が明けるとすぐ、岩間はトランジスタ研究のためアメリカへと旅立った。岩間和夫この時35歳。遅れて1月末、WE社のトランジスタ工場を視察するため、井深もアメリカへ向かった。いよいよ本格的にトランジスタに取り組む態勢が整った。そして1954(昭和29)年2月2日、東京通信工業にトランジスタ技術導入認可が下りた。
<世界初のトランジスタラジオはアメリカ企業が発売> そうこうしているうちに、東通工の社員を落胆させるニュースが、アメリカから届いた。“世界初のトランジスタラジオ発売”というニュースである。1954年の12月、米国リージェンシー社がトランジスタを4石使った出力10mWの本格的なスーパーヘテロダイン方式受信機TR-1型を発表、クリスマスシーズンを目指して発売を始めたのだ。
 自分たちの手で、世界初のトランジスタラジオを。その想いでこれまで頑張ってきなのだ。
「通産省が、もう少し早く許可してくれていたら」
 しかし、これが一つの転機となった。これまで以上にトランジスタ自体の開発も、回路のほうも、力を入れて取り組むようになった。成果は翌年1月に現れた。トランジスタを使ったラジオが鳴ったのだった。ジャンクション型のトランジスタ5石を用いたスーパー受信機TR-52型、その試作の成功だった。このTR-52型の改良型、TR-55が装いも新たに、日本初のトランジスタラジオの栄誉を担って発売された。1955(昭和30)年8月のことだった。
 米国ベル研究所で,3極真空管に相当する最初の半導体素子「点接触型トランジスタ」が発明され,その特許が申請されたのが1948(昭和23)年。1949年にはより本格的な「接合型トランジスタ」,1951年には「電界効果トランジスタ(FET)」が発明された。
 こうしたアメリカの大企業で発明されたトランジスタ、しかしそれを実用化したのは当時世間の認識度の低い会社、東京通信工業というベンチャービジネスだった。しかしこのベンチャービジネスが実用化したトランジスタ、日本の代名詞にもなるほどに世界に知れ渡った。池田勇人首相がヨーロッパ訪問したとき、フランスでドゴール大統領から、「トランジスタのセールスマン」と評されている。後にアメリカとの貿易問題になるほどに日本企業の主力産業になる。東通工技術者の無謀とも言える挑戦がなかったら、そして通産省のアドバイス通り特許取得を諦めていたら・・・
「官に逆らった経営者たち」「官に逆らった技術者たち」この人たちが日本の産業を革新し、私たち日本人だけでなく世界の人々の生活を便利にし、世界中の技術者・経営者に大きなインセンティブを与えることになった。敗戦後の荒廃した日本で川崎製鉄の西山弥太郎が、最も基本的産業である鉄鋼業界に革新を起こし、現代の奇跡とも言うべき日本の高度成長が始まる直前、東通工のトランジスタの実用化は大きな意味を持っている。ここにも「官に逆らった経営者たち」の日本社会に与えたインパクトの大きさをみる事になる。
( 2002年4月22日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」(後)
<ソニー・モルモット論> ソニーがトランジスタラジオで注目され始めた1960年代、週刊朝日の「日本の企業」に東芝を取り上げ執筆した中で、大宅壮一が「ソニー・モルモット論」を展開した。 「トランジスタでは、ソニーがトップメーカーだったが、現在ではここでも東芝がトップに立ち、生産高はソニーの2倍半近くに達している。つまり、儲かるとわかれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強みがあるわけで、何のことはない、ソニーは、東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」
 こういう言われ方は、ソニーにとって残念なことだった。たしかに東芝はトランジスタのために13億円もの大金を投じて工場を建てているし、生産高も多い。設立当時19万円だったソニーの資本金は12年経って、2億円に増えたが、東芝など戦前からの歴史を持つ大会社に比べれば、まだ駆け出し企業でしかなかった。
 しかし後年、井深は「ソニー・モルモット論」に対し、以下のように語っている。

「私共の電子工業では常に新しいことを、どう製品に結びつけていくかということが、一つの大きな仕事であり、常に変化していくものを追いかけていくということは、当たり前である。決まった仕事を、決まったようにやるということは、時代遅れと考えなくてはならない。ゼロから出発して、産業と成りうるものが、いくらでも転がっているのだ。これはつまり商品化に対するモルモット精神を上手に活かしていけば、いくらでの新しい仕事ができてくるということだ。トランジスタについても、アメリカをはじめヨーロッパ各国が、消費者用のラジオなど見向きもしなかった時に、ソニーを先頭に、日本の製造業者全部がこのラジオの製造に乗り出した。これが今日、日本のラジオが世界に幅をきかせている一番大きな原因である。これが即ち、消費者に対する種々の商品をこしらえるモルモット精神の勝利である。
 トランジスタの使い道は、まだまだ我々の生活の周りにたくさん残っているのではないか。それを一つひとつ開拓して商品にしていくのがモルモット精神だとすると、モルモット精神もまた良きかなと言わざるを得ないのではないか」
<モルモットがたくさん生まれる社会>ソニーがモルモットだったことをソニー自身が認めた。ところでモルモットはソニーだけなのか?井深がモルモットなら西山弥太郎もモルモットだ。本田宗一郎もヤマト運輸の小倉昌男もモルモットだ。官僚は権限を拡大しようとする。権限を強め、発言力を高め、天下り先を多くする。利権団体と族議員が官僚と協力しあう。ここに市場のメカニズムとは違う力が働く。それをレントシーキングと呼ぶ。
 しかしこのレントシーキングは人を引きつける力がある。政・官・業のトライアングルは集産主義的ビジョンを示すことがある。そのビジョンがないと不安になる人たちがいる。「政府は規制緩和すべきだと言う。しかし規制緩和した後、どのような社会になるのかそのビジョンを示せ」と言う。「政府がビジョンを描き、計画を立て、責任をもって実行すべきだ」となる。こうした考えの中に「モルモット」は存在しない。変わり者・へそ曲がりの経営者が出てきて、官に逆らった経営をするとトライアングルの立てたビジョンが崩れる。 それはトライアングルの権威失墜につながる。自由な市場経済では常に新規参入の可能性があり、官の立てた政策は修正させられる。このように将来が予測出来ない事に不安を覚える人たちが、市場経済に不安を持つ。しかしその不安は「無知から来る不安と」と非難される恐れがある。このため本音は言わずに、他の理由を見つけて市場経済を非難する。「今の政権に課せられた最大の課題は、景気対策である」(市場に任せていたらどうなるか分からない)。「真水10兆円規模の補正予算を組むべきだ」(その財源は問題にしない) (日本版財政赤字の政治経済学▲参照)。「公共事業の乗数効果に期待しよう」(日本ではインフラは整備され乗数効果は少ない。ビールは1杯目が旨いのだが、もうげっぷが出るほど呑んでいる)
今日の日本社会は「世論に逆らう官がいっぱいいる状況」と言うべきだろう。
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<モルモット売上高2位に浮上> 2002年4月27日朝日新聞によると、見出しに「ソニー売上高2位 電機大手の3月期連結 5社、最悪の赤字」とある。記事の初めの部分は次の通り。「電機大手9社の3月期連結決算で、ソニーが売上高で松下電器産業を抜いて、日立製作所に次ぐ2位に浮上した。ソニーとシャープ、三洋電機を除く6社は当期赤字に陥り、うち5社が過去最悪の赤字を計上。IT(情報技術)不況による本業の赤字と、リストラに伴う特別退職金など特別損失の計上が響いた。」
 同じ新聞の見出しに「役員報酬、ソニー開示へ」とあり、本文は次の通り。「ソニーは25日の取締役会で、6月に開催する定期株主総会の際、01年度の役員報酬の総額実績を開示する決定をした。月例給与に相当する役員報酬は米国では個別役員ごとに開示するのが主流だが、日本の上場企業では一部を除いて、役員報酬の全額すら開示してないのが現状だ。総額であっても大手企業が開示するケースは珍しい。ただ、今回の決定は個別開示を求めた市民団体に一部こたえた形であり、個別開示については「検討する」とするにとどめている」
 また同じ新聞に「ホンダ、営業利益6392億円」「ホンダが26日発表した3月期連結決算は、売上高が前期比13.9%増の7兆3624億円、営業利益が57.1%増の6392億円で、いずれも過去最高を更新した。利益のの6割をかせぐ米国が好調で、国内も小型車「フィット」がヒット。売上高に対する営業利益の割合は8.7%と、トヨタ自動車(01年9月中間期で7.4%)を上回った可能性が高く、経営効率の高さも際だつ。」
電機大手9社の決算と見通し   単位は億円 02年度は見通し ▼はマイナス・つまり赤字
企業\年度 売上高・01年度 売上高・02年度 当期損益・01年度 当期損益・02年度
日立製作所 7兆9937 8兆1000 ▼4838 600
ソ ニ ー 7兆5782 8兆0000 153 1500
松下電器産業 6兆8766 7兆 800 ▼4310 420
東  芝 5兆3940 5兆8500 ▼2540 230
N E C 5兆1010 5兆1000 ▼3120 100
富 士 通 5兆 69 5兆2000 ▼3825 0
三菱電機 3兆6489 3兆7000 ▼ 779 250
三洋電機 2兆 247 2兆1000 17 250
シャープ 1兆8037 2兆0000 113 370
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<ソニー商品開発の歩み>
1950年 日本初のテープレコーダー"G型"発売
1954年 トランジスタ技術導入認可
1955年 日本初のトランジスタ・ラジオ"TR-55"発売
1960年 世界初のトランジスタ・テレビ発売
1963年 世界初のトランジスタ小型VTRを発売
1968年 "トリニトロン"カラーテレビ発売
1971年 3/4インチ・Uマチック・VTR発売
1975年 家庭用ベータ方式VTRを発売
1979年 ヘッドホンステレオ"ウォークマン"発売
1982年 CDプレーヤーを発売 放送局用1/2インチ・カメラ一体型VTR"ベータカム"発売
1985年 カメラ一体型8ミリビデオ発売
1987年 デジタルオーディオテープ(DAT)デッキを発売
1988年 電子スチルカメラ"マビカ"を発売
1989年 高画質ハイバンド方式8ミリビデオ"ビデオハイエイト"シリーズ発売 
1992年 MDシステムを発売
1993年 放送業務用コンポーネントデジタルVTR"デジタルベータカム"システム発売 
1996年 デジタルスチルカメラ『サイバーショット』発売 平面ブラウン管 FDトリニトロン管搭載『KV-28SF5』発売
1997年 DVDプレイヤー発売 パーソナルコンピューター『VAIO』発売
1998年 ICメモリーカード「メモリースティック」発売
1999年 エンタテインメントロボット「AIBO(アイボ)」発売 小型二足歩行エンターテインメントロボット「SDR-3X」を開発
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<イギリスの電機産業> コンピュータはアメリカとほぼ同時期に、あるいはそれよりも早くイギリスで開発された。ケンブリッジ大学やマンチェスター大学でコンピュータがいち早く開発されたが、その企業化はイギリスではスムーズに進展しなかった。タイミングよくビジネス・チャンスをものにしたアメリカのIBMによってコンピュータ業界は世界的な準独占体制を築かれてしまった。イギリスでは多くの小規模コンピュータ・メーカーが乱立し、それを憂慮した政府の指導の下、最後はBLと類似した形でICLという合併企業が生まれたが、この企業も強い競争力を持つことはできず、1989年には日本の富士通に買収されてしまった。
<フランスの電機産業> フランスには世界的な電機産業はない。1985年の時点で政府によって管理されているフランス企業の数は2,636社。1995年には290社減って、2,346社。公共部門は1985年末に144万人を雇用していたが、1995年には130万人となった。これは総就業人口の5.1%と雇用労働者の6.6%に相当する。このようにフランスではリベラルなレジスタンスの社会主義的な経済政策が現在でも生きている。
<ドイツの電機産業> ドイツの電機産業と言えばジーメンス。ヨーロッパ企業の売り上げでは、(1)ロイヤル・ダッチ・シェル、(2)ブリティッシュ・ペトロリューム、(3)ダイムラー・ベンツ、(4)フォルクスワーゲン、(5)ユニレバー、(6)ジーメンス、の順になる。
 しかしこのジーメンス、OECD報告にみられるようにマイクロ・エレクトロニクス(ME)技術革新の立ち後れが問題になっている。東ドイツ、東ヨーロッパ、共産圏との前線基地国として政府、西ヨーロッパ諸国、アメリカなどの意向に企業は逆らうことが出来なかった。それが長く続き保守的な経営になり、デジタルICの重要性を過小評価し、機械工学に対する固執と過大評価の企業行動をとった。こうして1970年代前半にLSI-超LSI世代の開発に立ち遅れ、技術開発力の停滞が半ば構造化する。現在ジーメンスは高速化・大容量化がいっそう進むDRAMの自力開発が困難であり、しかも半導体売上高が国際競争に耐えうる臨界点にあるとさえ言われている。 戦前からの伝統ある企業も時代の変化を感じ取る経営者が現れないと、新規参入のベンチャー企業・モルモット企業の後塵を拝することになる。この業界についても、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
( 2002年4月29日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」(前)
<特定産業振興法が宗一郎に火を付けた>  戦後の日本経済を考えるとき、日本政府の指導が大きな影響力を持つと考え「日本株式会社」との表現を使う論者がいるようだ。政府が産業育成に積極的にかかわった例として、「傾斜生産方式」と並んで「特定産業振興法」(特振法)をあげる。この法案は将来、輸入自由化・資本自由化に備え日本企業の国際競争力を強化を目的としている。国際競争力強化の必要がある産業として、自動車産業・石油化学・特殊鋼などを指定している。これらの産業に税制や金融面での恩恵を与えると共に、合理化を進め、企業の合併や集中を図ろうとするものであった。通産省が特振法で目指したのは、政府(官僚)が先頭に立って、自由化に対抗する日本型官民協調態勢を築くことと理解された。つまり官僚が産業政策を立案し、業界を指導し、天下り先を確保し、日本型社会主義経済を築こうとするものであった。しかし官僚たちは日本のためであり、自己利益などの意識はない。損得勘定ではなく、正義感からの立案ではあった。
 特振法成立に向けて精力的に動いたのは、後に大型事務次官と言われるようになる、当時の通産省企業局長、佐橋滋であった。佐橋のもとで特振法の立案に携わった元通産省事務次官の両角良彦は当時を次のように振り返っている。
「自由化される業界の立場からみれば、そりゃ何とかしてもらわにゃ困る。いきなり国際競争力の寒い風に吹かれたら、太刀打ちできない。せめてオーバーコートぐらいは着せてほしいということですね。これは当然のことでしょう。やはり貿易自由化はタイムリミットのある問題なのです。日本政府の公約ですから。それに間に合うようにしなければならない。しかし、企業はまだ国際競争力に対しての自覚が非常に薄かったですね。ですから、オーバーコートが脱げるようになったら、その時脱げばいい。寒いうちはオーバーコートを差し上げなくてはなりますまい。それが特振法の目的だったんです」
<「特振法」=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」> 通産省は1961(昭和36)年に資本の自由化に対処するために、自動車業界を量産車メーカー、特殊車メーカー、ミニカー・メーカーの3グループに再編成する構想を発表した。1964年に特定産業振興臨時措置法案(特振法)として国会に上程した。それによると、特定産業については重電機、石油化学などが予定されていたが、とくに乗用車については、メーカーの新規参入を禁止する内容が含まれていた。四輪メーカーの乱立を防ぎ、国内の過当競争を阻止しない限り、日本車はアメリカ製に太刀打ちできないとされた。通産省は、以下の3グループに力を集約しようとした。
 量産車グループ:トヨタ、日産、東洋工業(現マツダ)。
 特殊車グループ:プリンス、いすゞ、日野。
 小型車グループ:三菱、富士重工、東洋工業、ダイハツ。
 この法案が通れば、ホンダが四輪に進出する機会は永遠に失われる。宗一郎の夢は、実現のなかばでついえてしまうのである。
「顧客に向かって、安くて価値のある製品を送り出す。 それがひいては社会に貢献することになる。商品が受け入れられなくて、社会に貢献できないのであれば、そういった会社が消滅していくのは当たり前のことだ」それが宗一郎の抱く企業理念であった。会社の存続は、あくまで消費者である国民に委ねるべきであって、企業は経営判断をそこに根ざして行うものである。けっして国や官僚の思惑に左右されるものでないし、指導されるものでもない。自由経済主義において、ごく常識的なルールである。これを無視し、力ずくで介入しようとする役人たちが宗一郎には許せなかった。
 これより前から、本田技研が四輪車の生産を意識しはじめていたという事情もあった。昭和35年に本田技術研究所を本体から分離独立させたのも、その現れであった。また社内には、四輪研究開発部隊が発足してもいた。責任者は中村良夫。オート三輪メーカーのクロガネが倒産したため、ホンダに移ってきた人物である。中村にオートバイを作るつもりはなかった。宗一郎との面接で、ホンダは四輪をやる気はあるのか、と正面から訊いたのもこの男だった。「あるよ」と宗一郎は短く、しかし強い調子で答えていた。
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<本田宗一郎Vs佐橋滋>  宗一郎は特振法の立法化に正面切って反対し、本田技研と通産省は烈しく対立した。猛然たる鍔ぜりあいは激化する一方で、マスコミもそれに飛びついた。通産省出身のある業界幹部が間に入り、宗一郎と通産省事務次官の会合を設定したのは、肌寒い一日のことであった。
 事務次官の名は佐橋滋。その権勢ぶりから、当時、天皇と呼ばれた人物である。しかしこれも、火に大量の油を注ぐ結果となった。
「ずばりお尋ねします。本田技研は四輪車を作るな。そうおっしゃるのですね」
 宗一郎は、つとめて冷静に切り出した。だが、その眼は憤怒にめらめらと燃えている。佐橋は、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせて応えた。
「まあ、はっきり言ってしまえばそういうことです。アメリカのビッグ3に対抗するには、日本の自動車メーカーなど二、三社でいい。新規参入を許す意味も必要もありませんよ」
 黙り込む宗一郎を見下すように眺めて、佐橋は続けた。
「それに、ホンダさんは二輪車だけでも企業として十分存続していけるでしょう」
 自制は、ぶつりと切れた。宗一郎は立ち上がって叫んでいた。
「ふざけるなあっ! うちの株主でもないあんた方に、四輪車を作るななどと指図されるいわれはないっ」
 佐橋は動じず、つい、と眼鏡を押し上げた。
「しかしね、本田さん。貿易の自由化は目の前だ。それまでに日本の四輪業界の体質を強化しておかないことには―」
「あんた方役人に何がわかる!? オートバイだって外国製品に立派に太刀打ちできた。厳しい競争があるからこそ、企業は必死になって努力するし、成長もするんです。自由競争のみが、競争力強化の真の手段なんだ」
「オートバイと自動車は別ですよ。あなたはフォードやGMに勝つ自信がおありですか?」
「あるに決まっているでしょう。オートバイでやったことを自動車でもやるのです」
 顔を歪めるようにして笑い、佐橋はこう言い放った。
「私たち官庁は国のためにどうあるべきかを考えている。あなたは自分の欲望や会社のことしか考えてないのではありませんか?」
「なんだと? 俺が私利私欲で会社をやっているとでも思っているのか! 俺たちが、オートバイで世界一位になったとき、お前らはなんて言った。 日本のために日の丸を揚げてくれて感謝しています、なんて言ってやがったじゃないか。いいか、俺がもし自動車で日の丸を揚げたときには、お前は切腹するぐらいの覚悟をしておけ」
 宗一郎は立ち上がり、会談はあっという間に決裂した。出された茶にひとくちもつけず、宗一郎は通産省の建物をあとにした。宗一郎は涙した。悔しかったからではない、今まで、俺に殴られながらついてきてくれた河島や、俺に金の心配をさせまいと頑張ってきてくれた藤澤の顔がちらついたからであった。そして一人つぶやいた。
「すまん」 「本田宗一郎物語」から
<宗一郎の怒り>  宗一郎は1983年のテレビインタビューで、佐橋滋と会った時を振り返り、次のように語っている。
「どうにも納得できないということで、僕は暴れたわけで、特振法とは何事だ。おれはやる(自動車を作る)権利がある。既存のメーカーだけが自動車を作って、われわれがやってはいけないという法律をつくるとは何事だ。自由である。大きな物を、永久に大きいとだれが断言できる。歴史を見なさい。新興勢力が伸びるにに決まっている。そんなに合同(合併)させたかったら、通産省が株主になって、株主総会でものを言え!と怒ったのです。うちは株式会社であり、政府の命令で、おれは動かない」(1995年2月5日、NHKテレビ「戦後経済を築いた男たち」から)
参照
▲「ホンダ50年史」▲  
▲ YOU TUBE 本田社長インタビュー「特振法について語る」▲

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<「トラックでもなんでもいい、大急ぎで車を作ってくれ」>  通産省の建物をあとにした宗一郎は、八重洲に向かった。
「おい、受付嬢がなかなか中に入れてくれなかったぞ」
「そりゃ無理ないな。社長とはいっても本社には近寄りもしないんだからな。年中研究所に入りびたりでな」
と、身を揺すって豪快に笑う藤澤を見て、宗一郎はホッとした。俺はコイツと一緒にやってきたんだ。そう思うと、今まで感じていた憤りが、ウソのように静まった。
「で、なんの用だい。社長みずから血相を変えて俺に会いにくるなんて、普通じゃないからな」
「ああ」
 宗一郎は、事務次官の佐橋との会談の様子を手短に語った。じっと聞いていた藤澤は、落ち着いた声で宗一郎に訊ねた。
「うちにはトヨタや日産にひけをとらない輸出実績がある。それをまったく考慮しないというんだな?」
「そうなんだ。しかも、四輪メーカーはその日産・トヨタだけで十分だといわんばかりの口ぶりだったな」
「そうか」
「そうか、だけか?ずいぶん落ち着いているじゃないか」
「ははは」
「ははは、じゃないぜ。何か奇策でもあるのか」
「うちの会社にはな、本田宗一郎という気違いがいてな」
「おいおい、もったいをつけるなよ」
「本田宗一郎が本気を出せば何でもできるんだ。世間の奴らはその恐ろしさを知らないがね」
「で、いったい俺に何をしろっていうんだ?」
「トラックでもなんでもいい、大急ぎで車を作ってくれ」
「そ、そうか、既得権か。わ、わかった。また来る!」
 宗一郎は、受付嬢にジョークを飛ばして、本社を後にした。
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<四輪車開発>  中村良夫をはじめ緊張する技術スタッフに向かって、宗一郎は強い口調で、会社の置かれている状況を説明した。一刻も早く車が欲しいという宗一郎の言葉に、全員が闘志を燃やした。
 宗一郎の至上命令を受け、四輪車の開発はすさまじい勢いで進められた。まさに尻に火のついた状態で多くのプロトタイプが生まれては捨てられた。一応実用化のめどが立ち、これならいけそうだ、と研究所員は、そのプロトタイプ車を宗一郎に見せることになった。
「なんだ、この不細工な車は。俺の想像しているのと全然ちがうぞ!」
 宗一郎は怒り始めた。そのプロトタイプは、シトロエンの2CVに似た軽自動車であった。宗一郎を最も怒らせたのは、そのエンジンであった。低回転型の2気筒だったからである。
「誰だ、こんなエンジンを作ったのは! もっと、ましなエンジンはないのか」
そう怒鳴る宗一郎に、ある研究員が、おずおずと答えた。
「500ccのスポーツカー用のエンジンならある段階にきていいるのですが、8000回転で回るDOHCなので、とても……」
「よし、それでいくぞ。それを360ccに作り変えろ。DOHCのままでいいぞ」
「しかし、……」
「しかし、じゃない。エンジンはそれで決まりだ。車体は他に無いのか?」
「500ccのスポーツカーはまだ、完成の域には・・・・」
「他には?」
「あの、軽トラックなら」
「スケッチを見せてみろ」
「は、はい」
「よし、このトラックでいくぞ」
「エンジンは?」
「さっきの、DOHCだ、あれを360ccにしたやつを使う」
「あの、軽トラックに、スポーツカーのエンジンをですか?」
「ははは、まあ、いいじゃないか。ホンダの第1号車としてふさわしいとは思わんか?まあ、500ccのスポーツカーが先だったらよかったんだが。スポーツカーの方も急いでくれよ」
 こうして生まれたのが、ホンダ社初の四輪車T360であった。それは国産初のDOHC搭載車でもあった。と同時に世界初のDOHCエンジン搭載のトラックだった?かもしれない。
 そのT360は昭和37年6月に発表され、同時に軽四輪スポーツカーのS360も華々しく登場した。 S360の完成披露は鈴鹿サーキットでおこなわれ、美女を隣に乗せて宗一郎自らがハンドルを握るという逸話を残したが、もともと、その年のモーターショーに出品するため、わずか数台しか作られなかった車である。S360はまもなく、幻の名車と呼ばれる運命をたどることとなった。
 当時、難しいといわれたスポーツカーにあえて挑んだのは、技術に対するホンダのパイオニア精神を世に問うためであった。当然ホンダが初めて手がける分野であり、スポーツカーは技術的にも未解決の問題を多く含んでいた。だからこそ、宗一郎はチャレンジ・スピリットをかき立てられたのである。本命のS500ccの商品化は、翌年に迫っていた。
宗一郎は、藤沢への約束通り、最短で販売できる車を仕立て上げた。
 一方、藤澤には、秘密にしていた奇策があった。それは、消費者が会社を選別すべきであって、国ではない、という宗一郎の理念にそったものだった。「これで国は口出しできまい」と藤沢は一人ほくそえんだ。
 その奇策とは、 全国六十一紙の全面広告を使ってクイズを打つことであった。内容は、『さて、ホンダが発売する四輪車S500のお値段は?』、であった。これには、五百七十四万通という途方もない数の応募が殺到した。ハガキがさばききれず、整理して抽選するための機械をホンダ自らが開発しなければならないほどだった。昭和38(1963)年6月のことであった。
 この反響の大きさには、通産省の役人も驚きを隠せなかったという。それが多少は功を奏したか、ホンダに四輪車を駆け込み生産させた特定産業振興法案は、同年の通常国会であえなく廃案となった。その後の成否は、ホンダをはじめ、現在の自動車業界の業績が雄弁に証明している。
 昭和38年の後半は、宗一郎と本田技研にとってまことに輝かしい季節となった。 10月、スーパーカブならびにスポーツカブが、世界の優秀品としてフランスのモード杯を受賞。それを祝うように、ホンダは小型スポーツカーS500を発売する。宗一郎が期待した通り、この車は若者たちの垂涎の的となった。本格的なスポーツカーを、時代が待望していたのである。
 続く11月には、鈴鹿サーキットで、日本で初めての世界GPが開催され、50cc、250cc、350ccの3クラスに優勝したのである。それはホンダが名実ともに世界一の二輪車メーカーとなったことを意味していた。 「本田宗一郎物語」から 
( 2002年5月6日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」(後)
<藤澤「本当に幸せでした。心からお礼を言います」、宗一郎「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」>  1973年3月、藤澤は、「おれは今期限りで辞めるよ。本田社長に、そう伝えてくれ」と西田専務に命じた。本田はちょうど中国へ海外出張中だった。藤澤のこうした意向は、正式に本田と相談をした結果のものではなかった。西田は、羽田空港で本田の帰国を待ち、その場で藤澤の辞意を伝えた。本田にとっては予期しないことだったが、しばらく考えてから本田も、
 「おれは藤澤あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」
 と、西田に告げたのだった。
 西田からの報告を受けた藤澤は、本田との長い付き合いの中で初めて大きな誤りをした、と感じた。本田に、ゆっくりと考えてもらう時間が必要だろうと考えてのことだったが、やはり最初に、なぜ、本田に直接、自分が職を辞したいという意向があることを相談しなかったかと・・・。
 「本田さんは、社長交代の時、私に「おい、おれたち、辞めることになったんだからな。次の社長を頼む」と、おっしゃっただけでした。ご自身も、水冷・空冷論争でのことや、技術研究所の社長を退かれたことで、この時が来ると、ある程度は覚悟されていたのだと思います。藤澤さんが辞めると聞いて、同じ創業者である藤澤さんだけ辞めさせておいて、自分だけが残れるはずがない、と瞬時に引き際がいつかを考える。本田さんは、そんな素晴らしい方でした」(河島)
 こうして本田宗一郎と藤澤武夫の、創業期からの二人三脚は終わった。
 ホンダの両トップ交代劇は、二人が世間一般では、まだまだ現役として十分活躍できる年齢(本田が65歳、藤澤が61歳)だったこと、加えて、次期社長に内定した河島の年齢が、45歳という異例の若さだったことでも、大きな反響を呼んだ。しかも、二人にとっては全く血縁関係にない、新社長の誕生。ホンダが同族会社ではないということを、身をもって内外に示したのである。
 退任が決まった後のある会合で、藤澤は本田と顔を合わせた。当時の様子を藤澤は、1973年8月の「退任のご挨拶」ので、次のように触れている。
 ──ここへ来いよ、と(本田さんに)目で知らされたので、一緒に連れ立った。
 「まあまあだな」
 と言われた。
 「そう、まあまあさ」
 と答えた。
 「幸せだったな」
 と言われた。
 「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
 と言った私に、
 「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」
 とのことで引退の話は終わりました── 「ホンダ50年史」から▲
 創立25年目の1973年10月、本田・藤澤の両トップは株主総会を経て、二人そろって正式に引退。本田宗一郎66歳、藤澤武夫62歳であった。引退後の肩書きは取締役最高顧問であったが、二人とも会社に顔を出すことはなかった。鮮やかな引き際であった。同じ10月、第一次石油危機が発生し、二人の活躍舞台であった日本の高度成長は幕を下ろした。二人の引退はまさに一つの時代の終わりを告げるものであった。
 引退後、藤澤は趣味三昧の生活に入った。一方宗一郎は「本田のために頑張ってくれた社員にお礼を言いたい」と全国行脚の旅に出ている。車で700ヶ所を1年半かかって回った。海外も半年かけて回り、各地の工場でそこで働く従業員一人ひとりと握手をして「ありがとう」と言って回った。
 宗一郎は持ち前の明るさと行動力で社会事業やボランティア活動に携わって、多くの「本田ファン」をつくり、1989年には日本人で始めてアメリカの「自動車殿堂」入りを果たした。宗一郎の晩年は現役時代と同じように明るく輝いていた。
 河島が社長に就任した1ヶ月後、日本を第1次石油危機が襲った。それ以来、物価の高騰が続く中にあって、1974年1月末に河島新体制は、「ホンダ車は値上げせず」という施策を打ち出し、この難局を乗り切った。
 若い後継者を育て、早く道を譲る。こうしたホンダ流のトップ人事は、激動の時代に立ち向かう大きな力となった。河島も、
 「社長になった時に、真っ先に考えたことの一つに、”引き際の潔さ”をホンダの美風として残したいということだった」
 と、きっぱり言い切る。
 河島自身も、久米を後継者として選び、道を譲ったのは55歳の時であった。
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<お礼の会> 1991年8月5日、本田宗一郎は84歳でその生涯を終えた。宗一郎は人生の最後の着地についても生前から真剣に考えていた。
 「素晴らしい人生を送ることができたのもお客様、お取引先の皆さん、社会の皆さん、そして従業員の皆さんのおかげである。おれが死んだら、世界中の新聞に「ありがとうございました」という感謝の気持ちを掲載してほしい」と周囲に話していた。
 「お礼の会」は本社および各事業所で開催された。本社・青山会場では9月5日から3日間、午前10時から午後5時までの長時間にわたり開催され、これは8月23日社告として主要紙に掲載された。
 本社・青山会場と各事業所5会場への来場者数は延べ6万2千人を超えた。会場では、宗一郎の写真に手を合わせる人、展示品や絵画を囲んで談笑する人など、それぞれの想いを込めて、在りし日の宗一郎を偲んでいた。
 「皆様のおかげで幸せな人生でした。どうもありがとう」
 感情を素直にさらけ出し、時にはぶつかり合いながらも、多くの人々と想いを分かち合うという生き方を貫いた本田宗一郎は、最後に、形式やしきたりを超えた「お礼の会」という、全く新しい別れの形を残していった。
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<主要企業のオートバイ・シェア推移> 戦後のオートバイ製造業界はすさまじい競争であった。シェア推移を見るとそれがわかる。
メーカー\年 1951年 1953年 1955年 1957年 1960年 1963年 1966年
本田技研工業 9.9 17.9 16.4 18.9 44.1 63.5 58.1
東京発動機   9.3 20.2 12.0 4.2 2.2  
鈴木自動車工業     3.5 7.1 10.6 14.1 18.3
ヤマハ発動機     0.9 3.9 9.4 8.7 15.9
山口自転車工業     4.3 4.5 10.0    
ブリジストンサイクル         2.7 4.2 3.5
丸正自動車工業 2.1 3.9 3.1 2.0 1.0 0.0  
目黒製作所 6.6 3.3 3.1 3.3 0.9 0.3  
川崎重工業           1.8 2.8
唱和製作所 6.4 2.3 3.0 4.0      
みずほ自動車 0.5 4.9 3.5 0.2      
宮田製作所 2.1 2.2 1.4 0.8      
北川自動車   2.7 1.4 0.0      
富士重工業 33.2 14.2 9.8 12.1 4.0 1.9 1.4
三菱重工業 25.1 15.1 12.7 13.7 3.1 1.2  

<生産統計(四輪) 車種×メーカー 2001年1月-2001年12月>
メーカー\車種 乗用車 トラック バス 全車種合計
トヨタ 2,938,820 384,849 30,755 3,354,424
ホンダ 1,219,809 64,898   1,284,707
日産 1,088,170 171,169 10,755 1,270,288
スズキ 712,632 194,896   907,528
三菱 632,151 195,719 6,879 834,749
マツダ 657,241 72,038   729,279
富士重工 372,663 90,220   426,883
いすゞ 12,822 199,877 3,230 215,929
日野   48,605 1,449 53,435
日産ディーゼル   22,704   24,153
日本GM 492     492
その他   437   437
全メーカー 8,117,563 1,601,536 58,092 9,777,191

<主要国自動車生産台数  2000年1月-2000年12月合計>
アメリカ 日 本 ドイツ フランス イギリス イタリア
生産台数 12,804,972 10,141,057 5,547,447 3,183,681 1,813,426 1,728,353

<イギリスの自動車産業> 1950年代から1960年代にかけて世界的にも脚光を浴びたイギリスの自動車産業は、世界で2位の生産台数を誇っていたが、まもなく西ドイツに抜かれ、フランスに抜かれ、日本にも抜かれることになった。生産台数は60年代の200万台を頂点に、80年代は100万台程度に下がっている。この間、政府は規模の経済の重要性を認識し、企業間の合併を指導し、最後はイギリス系メーカーとしてはただ1社、ブリティッシュ・レイランド社に統合した(1968年)。しかしBL社はその後も奮わず、破産を避けるため、1974年に国有化する。しかし業績は改善せず、日本のホンダと技術提携して国際競争の中で延命しようとしたが、1989年民営化後、1994年にはドイツのBMWに売却された。サッチャー首相の民営化政策は1981年のブリティッシュ・エアロスペースに始まり、ジャガー、ブリティッシュ・テレコム、英国航空、ブリティッシュ・スティールと順調に進み、1990年には電力、水道事業と進んだ。つまりそれまでこれらの事業は国営だったというわけだ。
<フランスの自動車産業>フランスでの企業国有化は第2次大戦後、対独協力企業の懲罰を求めるレジスタンス(第2次大戦中から共産党と結んだレジスタンスの組織=Conceil National de la Resistance)の圧力に対応して、1944年末から行われた。
1945年ルノー国有化(1996年民営化)、1945年4大銀行国有化、1946年炭坑国有化、1946年電気・ガス国有化、1946年9大保険会社国有化
戦後の経済計画の出発点となるモネの「近代化=設備計画」(1947-1951)は、左翼の伝統的な計画理念を引き継ぎ、労働運動を含む広範な支持を得て開始された。モネ・プランは限定された資金・資源の有効な配分によって、石炭・電力・鉄鋼・セメント・農業機械の6つの「基礎的部門」の優先的発展をめざす一種の「傾斜生産方式」を採用した。
 国有化と計画経済を通じた国家主導の再建政策によって、経済復興は順調に進んだかのように思われた。国有企業は計画期間中国内設備投資の約半分を占め、近代化の推進主体となった。復興の振興につれて輸出も順調に回復し、貿易収支も徐々に改善された。しかしこの政策は次第に弱点を露呈した。とくに国家支出の拡大に伴いインフレ傾向が顕在化したこと。また強力な国家介入政策が西欧世界の自由主義的政策と対立したことが重要であった。1986年売上高上位20社のうち13社が国有企業であった。自動車産業について言えば、日本でトヨタが国有化させた状況を想像すればいい。戦後しばらくの間のフランスは「資本主義」と言うより「社会主義国家」であった。
<ドイツの自動車産業>フォルクスワーゲンは戦災で工場施設の2/3を焼失、1945年に連邦政府とニーザクセン州の所有する国営の有限会社として再建された。1960年には連邦政府20%、ニーザクセン州20%を所有する準国有の株式会社に改組される。ドイツの戦後経済復興は、西ヨーロッパの経済再建への支援策、1947年6月に発表されたマーシャル・プラン(ヨーロッパへの援助総額120-130億ドル)によるところが大きい。1952年のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の成立もドイツの経済再建に大きな影響を与えた。自動車産業はドイツの民族資本が中心であり、オペルがGMの資本下にある程度。戦後の西ドイツは直接自動車産業を支配はしなかったが、政府自身が国際機関の影響を強く受けていた。マーシャル・プランの資金受け皿としての「ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)」、その発展的機構「経済協力機構(OECD)」も無視出来ない。西ヨーロッパでは本田宗一郎のように「官に逆らう経営者」は出てこなかった。この業界についても、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
( 2002年5月13日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」(前)
<創業期>  とても事業として成り立つとは思えなかった宅急便、無謀ともいえた郵便小包への挑戦が、挫折することなく伸張している。ヤマト運輸の宅急便の取扱個数は1998(平成10)年度の7億7926万個と、郵便小包の3億1644万個の2.46倍。同年度の宅配市場では、37%のシェアを占め、日本通運のペリカン便の17%、郵便小包の15%を大きく上回っている。
 宅急便は1976(昭和51)年2月にスタートした。
 それまで家庭から小荷物を送るには、郵便小包以外に方法はなかった。宅急便はそこに殴り込みをかけたのだった。初年度の実績は、郵便小包の1億7880万個に対しわずか170万個。ヤマト運輸の試みは、誰しも失敗するだろうと考えていた。けれども、1980年代初頭(昭和50年代半ば)に採算点を超え、宅急便は利益を計上した。それを見て、同業30数社が一気にこの個人宅配市場に参入してきた。「クロネコヤマトの宅急便」のコマーシャルソングが全国の子供たちの口に上るようになった。(「小倉昌男 経営学」まえがき から)

 今週と来週はこのクロネコヤマトの宅急便の「官に逆らった経営者」=ヤマト運輸社長・小倉昌男の戦い振りを取り上げることにした。先ずは会社の生い立ちから。
 ヤマト運輸の前身「大和運輸」は1919(大正8)年11月、東京市京橋区木挽町(現在の銀座3丁目)において、資本金10万円、代表者小倉康臣、従業員15名、トラック4台をもって設立された。社史によれば、同社の設立は、明治末期に設立されたわが国最初のトラック事業者「帝国運輸」が発足後4年で解散消滅した後では、初めてのものであるという。つまりわが国で2番目に古いトラック事業者であるとともに、現在も営業を続けている事業者のなかでは最古の存在ということになる。
 現在最大の事業規模を誇る日本通運も、1919年(大和運輸と同年)に設立された「東京市街自動車」(トラック輸送を条件に許可されたバス事業者)の貨物部の一部として、牛馬車を用いて鉄道貨物の取扱業を行っていた。ちなみに、通運事業とは、鉄道輸送への貨物の集配を行う事業。なお、大和運輸は1982(昭和57)年に小倉昌男のもとで社名が「ヤマト運輸」と変更される。ここでは便宜的に小倉昌男の登場までを「大和運輸」、それ以降を「ヤマト運輸」と記述する。 
 戦前の大和運輸はいくつかの節目を経て成長した。
 その第一は、1923(大正12)年4月の三越呉服店(現三越百貨店)との市内配送契約だった。この契約は、三越が顧客向けに自社で行っていた配送を大和運輸へ専属委託するとしたものであり(その後他社も参入)、創業段階の大和運輸に経営の安定をもたらした。三越との配送契約は1979(昭和54)年12月にヤマト運輸側から契約を解消するまで67年間にわたって続けられた。百貨店から消費者への配送が、その後の消費者物流事業の技術的下地を築いたことは想像に難くない。
 第二の節目は、「大和便」の開始だった。自動車技術の進展によって車両の積載容量が増加すれば、それまでとは違った輸送形態が可能になる。トラックでいえば、容量の少ない車を貸し切りとして荷主の輸送に応じる段階から、複数荷主から貨物を引受、それらを積み合わせて同一方面に効率よく輸送に応じる段階に入って行ったのだった。1929(昭和4)年6月の東京ー横浜間の本格的な定期便を開始する(わが国最初の路線事業)。これを皮切りに、1935年末までに、北は前橋、宇都宮、東は千葉、水戸、西は平塚に及ぶネットワークを完成させている。この路線の運送事業に用いられたのが「大和便」の名称であり、ある意味では宅急便の祖先にあたるものだった。
<戦後期>  大和運輸は戦後、従業員290名、車両126台で営業を開始した。
 終戦後の大和運輸は、戦前から行っていた百貨店の配送契約と大和便による路線トラック事業を軸として発展した。このうち、百貨店の配送契約は、三越との契約を再開したのをはじめ、白木屋、松屋、伊勢丹、高島屋などと取引を広げた。さらに、昭和20年代から30年代にかけては、1954(昭和29)年に東京に進出した大丸百貨店をはじめ、経済成長とともに本格化した百貨店の新店舗拡大にあわせてマーケットが広がった。
 大和運輸にとってこの時期の百貨店配送は2つの意味を持った。
 第一は、戦前から培ったノウハウを武器にこの分野で圧倒的優位を誇り、同社の安定的な収益源となったこと。社史においても、路線トラック事業が昭和30年代末の不況を中心に悩むなかで、同社の経営を支えたのは百貨店配送であると指摘している。
 百貨店配送の第二の意味は、それによって小口貨物を家庭に配送する技術が養われたことだった。トラック業界ではかつて、百貨店から出る貨物を「ゴミ」と称したことがあった。企業物流に比べ、ゴミのように小さく、利益を上げずらい性格を言い表している。日本経済において重厚長大型産業が重視されていた時点では、この表現は当たっていたかもしれない。しかし「ゴミ」の輸送で利益をあげようとすれば、それに適した輸送システムを開発し、徹底した効率化を実現しなければならない。家庭に配送を行うためには、独自の配送地図や経路選択を開発しなければならない。このような内部技術は、貼付式の輸送伝票のように宅急便の基礎として直接活かされるものもあれば、一般家庭への知名度を得る、といった間接的に活かされたものもある。
 昭和40年代、貨物輸送は鉄道輸送からトラック輸送へ移行した。日本の貨物輸送における鉄道輸送のシェアは、1965(昭和40)年の30.5%から1975(昭和50)年の13.1%に低下し、トラック輸送は自家用と営業用を合わせて26.1%から36.0%へと急進した。大和運輸もこの時期、大和便のネットワーク拡大に努めたが、この時期までに日本最大の物流事業者に成長した日本通運や西濃運輸、さらに大手私鉄系の資本に支えられた新規事業者に後れをとった。結果的に事業は低迷し、新たな事業へ向けての経営革新が求められていた。
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<小口消費者物流=「宅急便」への挑戦> 個人宅配市場にターゲットを絞る。小倉昌男のこの案には、役員全員が反対した。
 だがヤマト運輸にはもう後がない。労働組合の代表の参加も仰いでチームを作り、利用者=家庭の主婦の立場で考え、商品化に取り組んだ。コストをかけても、質の高いサービスを提供すれば、利用者は必ず増える。「サービスが先、利益は後」を合い言葉に、宅急便事業が発進した。
 成功の大きなカギを握っていたのが、第一線のドライバーたちだった。荷物を運んで荷主に直接届ける彼らが、サッカーのフォワードのように現場の中心選手として働けるかどうか。旧来のピラミッド型組織を崩し、社員全員で情報を共有してやる気を引き出す「全員経営」を目指した。同時に、宅急便の全国ネットワーク構築や情報システムの整備、集配車両の開発などを通し、徹底した業態化を推し進めた。温度管理を取り入れたクール宅急便、スキー、ゴルフ宅急便などサービス内容も拡大し、宅急便は飛躍的な伸びを見せた。
 ところが思わぬ壁にぶつかった。時代遅れの規制行政がネットワークの拡大を阻んだ。小倉昌男は運輸大臣を相手に訴訟を起こしたのだった──。
 宅急便の発展段階で幾度となく、規制行政が発展の壁となった。そしてその規制行政との戦いがこの「官に逆らった経営者たち」のテーマなのだが、もう少し宅急便発足の状況を振り返ってみよう。
 新しい市場──個人から個人へ送られる小荷物を対象とし、不特定多数の人に利用してもらう個人宅配事業は、広く国民にメリットがある反面、採算が不確かであるというデメリットがあった。小倉昌男は新事業に対する社内の根回しを始めた。が、役員たちの反応は悲観的なものだった。
 百貨店配送は、日本橋や新宿のデパートから荷物が出るから集配の苦労はない。それに対して東京23区に散らばった市民に家庭から一個ずつ集荷するのは大変な苦労を要する。そんな仕事を始めれば赤字間違いない、というのが役員全員の意見だった。
 小倉昌男は社内の会議などあらゆる機会をとらえて新規事業の構想を説いて回ったが、はかばかしい反応が得られなかった。そんなとき、意外なところから声が上がった。社長がそんなにしつこく言うなら本気で考えてみようか──。そんなことを言い出したのは、なんと、労働組合の幹部たちだった。
 1975(昭和50)年8月、「宅急便開発要項」が役員会で承認される。同年9月1日ワーキンググループが編成される。これには労働組合の代表も参加する。作業は2ヶ月で結論を出した。
 準備も整い、1976(昭和51)年1月20日に関東支社に宅急便の組織と人事が発令された。そして1月23日、営業を開始した。初日の全体の出荷個数は、11個であった。東京23区、都下、関東6県の市部から始めた営業区域は態勢がととのった所から順次営業を開始していった。この結果、1979(昭和54)年度末(3月末日)の宅急便の取扱区域は、面積比で27.4%であったが、人口比では74.8%に達したのであった。
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<官僚組織との闘い> このシリーズ「官に逆らった経営者たち」としたが、ヤマト運輸・小倉昌男に関しては「官と闘った経営者」とのタイトルの方がよさそうだ。ではどのように闘ったのか?それを見ていこう。
路線免許での行政訴訟 1989(平成元)年12月までトラック運送業者は「道路運送法」で規制されていた。
(1)不特定多数の荷主の貨物を積み合わせて運ぶ路線トラックは旅客の乗り合いバスと同じように、利用する道路ごとに路線免許が必要とされた。たとえば東京から名古屋に貨物を運ぶのに、国道1号を通ろうが、国道246号を通ろうが、東名高速道路を通ろうが問題ないはずなのに、いちいち道路ごとの免許が必要だというおかしな規制が存在していた。
(2)貸し切りトラックは、道路ではなく、都道府県の行政単位に免許が与えられた。従って、東京都で免許を受けていても、神奈川県で受けていないと、東京のお客の荷物を、神奈川のお客に届ける事が出来ない。
 ヤマト運輸は1981(昭和56)年11月に、仙台ー青森間の路線免許延長の申請を提出した。しかし、青森県の同業者が反対運動をしたために、申請書は棚ざらしになってしまった。申請後4年経過した1985(昭和60)年12月に、行政不服審査法に基づき運輸大臣に不作為の異議申し立てをした。結果ははじめからわかっていた。 勿論違法ではない、というものであった。しかし、この手続きをとらないと訴訟が起こせないから、その順序のためであった。
 1986(昭和61)年8月28日、運輸大臣を相手取り「不作為の違法確認の訴え」を起こした。監督官庁を相手に行政訴訟に打って出た。官に闘いを挑んだのだった。路線延長の申請を5年も放っておいた理由など、裁判所で説明出来るわけがない、とふんだわけだ。運輸省は慌てて、公聴会を同年10月23日に開き、12月2日には免許を付与した。申請から免許取得まで実に5年、行政訴訟からは4ヶ月足らず、のことだった。
 同じことが九州でも起きた。福岡から熊本を経由して鹿児島に至る国道3号線の免許を申請したのが、1980(昭和55)年12月15日、東北路線に関する行政訴訟と平行して、九州路線も行政訴訟によって闘う姿勢を見せたため、運輸省は1986(昭和61)年12月に公聴会を開催し、翌1987(昭和62)年1月に免許を付与した。こちらは、申請から免許取得まで6年かかった。こうした運輸省を小倉昌男は次のように批判する。
 運輸省は、商業貨物と宅配荷物の市場の違いなど全くわかっていなかった。「市場が違うから商業貨物を運んでいる既存業者とは一切競合しない」、といくら説明しても、まったく理解できてない様子だった。ヤマト運輸は宅急便の全国展開に社運を賭けていた。それなのに、「既存業者の反対を抑えてくれればいつでも免許をやる」、とうそぶいた運輸官僚のことを思い出すと、未だ怒りがおさまらない。
 ヤマト運輸は、監督官庁に楯突いてよく平気でしたね、と言う人がいる。別に楯突いた気持ちはない。正しいと思うことをしただけである。あえて言うならば、運輸省がヤマト運輸のやることに楯突いたのである。不当な処置を受けたら裁判所に申し出て是正を求めるのは当然で、変わったことをした意識はまったくない。
 幸いヤマト運輸はつぶれずにそんだ。しかし役人のせいで、宅急便の全国展開が少なくとも5年は遅れている。規制行政がすでに時代遅れになっていることすら認識できない運輸省役人の頭の悪さにはあきれるばかりであったが、何よりも申請事案を5年も6年も放っておいて心の痛まないことのほうが許せなかった。 与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理ではないか。倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいいのである。(「小倉昌男 経営学」 から)

 1989(平成元)年9月には、北海道一円にわたる5路線、延長1,260キロの路線免許を取得する。12月には伊豆大島、奄美大島にもサービスを開始する。その結果1990(平成2)年3月末には、全国対比で面積比99.5%、人口比99.9%の地域にサービスを拡大することになった。
運賃改定で新聞広告を利用 宅急便の取扱荷物サイズは、Sサイズ(10キログラムまで)とMサイズ(20キログラムまで)の2本立てで、運賃はSサイズがMサイズより100円安く設定されていた。それを、Sサイズより一回り小さいサイズを作り、安い運賃を設定すれば、利用者も喜ぶし少量荷物の販売促進にもなると考えた。具体的には、2キログラムまでをPサイズとし、運賃はSサイズより200円安く設定し、同時にMサイズは100円値上げしてSサイズとMサイズとの差を200円にした。トータルとして増減なしにしようとした。
 しかし運輸省は「宅急便の独自の運賃設定は認められない」と言う。宅急便の運賃表を作って届けても受理しない。「では係官の机の上に置いて帰る」と言うと、「内容を見て良いと思うものだけ受理の印を押すが、その印のないものは運輸省が受理したことにはならない」と言う。そこで小倉昌男は新たな作戦に出る。
 そのころ運輸省所轄の公共運賃は2年おきに改定するのが習慣であった。宅急便の新運賃を設定しようとしていたころ、路線トラック運賃の改定の時期がきて、運輸省とトラック協会(個々の業者ではない)との話し合いがまとまった。そのやり方は、路線トラック全社から社印を押した運賃改定申請書の表紙だけをトラック協会に提出させ、トラック協会はあらかじめ用意した5種類の運賃表にバラバラにホッチキスで止め、運輸省に提出する。運輸省は査定と称し、談合済みの運賃表に一本化する。路線トラック会社はバラバラに申請した形になってはいるが、どんな内容の申請をしたのか自分ではわからない、という茶番であった。 この時、ヤマト運輸は運賃改定申請書の提出を拒否した。大手の申請が1社でも欠けると作業が進まないから、運輸省はトラック協会を通じて頭を下げてきた。そこで、宅急便の独自運賃の申請を認めるなら路線トラックの申請書を提出する、という妥協案を出す。運輸省から承知したとの返答があり、路線運賃の申請書と宅急便運賃の申請書を両方とも提出した。しかし宅急便のほうは受理はしたものの、1年経っても一向に処理しない。そこで新たな作戦に出た。
 1983(昭和58)年3月、宅急便の運賃を3サイズに分けて改定する新運賃表の認可を申請した。その実施時期を6月1日として申請した。これは、運賃をいつ改定するかは事業者が決めるべきであって、運輸省が一方的に決めるべきではない、との考えからだった。そして5月17日の一般紙の朝刊に1頁3段の大きな広告を出した。それは「これまでより200円安いPサイズの発売と、その実施時期を6月1日にする」という内容だった。
 運輸省はヤマト運輸の申請を、審査しなかった。そこで5月31日の朝刊に同じ1頁3段の広告を出した。今度は「宅急便Pサイズの発売を延期いたします」の大見出しに続き、次のメッセージが読者の注目を引いた。
「従来、宅急便はSサイズ(10Kgまで)と、Mサイズ(20Kgまで)の2タイプでしたがこの度、ご利用の皆様の便宜のために、Sサイズより200円安いPサイズ(2Kgまで)の運賃を設け、6月1日から取扱開始を予定していました。しかし、運輸省の認可が遅れているため発売を延期せざるをえなくなりました。宅急便ご利用の皆様には大変ご迷惑をおかけいたします。紙上をおかりして、おわび申しあげます。運輸省の認可が下り次第、すみやかに発売を開始いたします」
 これを見て運輸次官が激怒したと伝えられている。しかし世論は、すでに行政管理庁や第二臨調が宅急便の運賃のあり方について改善を勧告していたこともあり、運輸省の対応の遅さを批判する声が強かった。結局、運輸省は7月6日に認可したのだった。このように小倉昌男は役所の対応の遅さに対して、真正面から向かって行った。
──以下次週へ続く
( 2002年5月20日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」(後)
<取次店は荷扱所なのか?>  宅急便がビジネスとして成立するかどうかをめぐって、小倉昌男が最も悩んだ点が、「個人の荷物をどう集荷するか?」だった。「電話一本で即集荷」は、たしかに戦略的な解決策ではあったが、1976年当時、電話は決して誰もが所有する代物ではなかった。学生など持っている方が珍しかった。ヤマトとしても、すべての荷主宅までただちに集荷に行けるほどの体力はなかった。
 荷主にとって出しやすく、ヤマトとしても集めやすい、そんな集荷方法として考え出されたのが、取次店制度だった。各街にある地元商店街に協力してもらおう、というのだった。これは、従来の路線事業における荷扱所(代理店営業)と違って、本業を別に持つ商店を対象とするところがミソだった。つまりサイドビジネスとして、空いた時間や店のスペースを利用してもらおうという制度だった。
 こうして燃料販売業者の目黒屋が取次店第一号になった。そして目黒屋の呼びかけで、目黒燃料組合員が取次店になっていった。
 このように、目黒燃料組合を起点として、宅急便が徐々に普及してきた1978年7月運輸省が「取次店は路線事業者の代理人である」とする一片の通達を発する。「宅急便取次店は路線事業者の荷扱所に相当するから、事業法に基づく許認可手続を行え」、というのであった。また、警察庁も、交通保安上支障があると思われる取次所については公安委員会による意見聴取事項とし、当局による実施調査を必要とする、と通知してきた。つまり、「交通に支障をきたすようなら認めないぞ」、というのだ。これは、「荷扱所は集配車が一時的に道路を占有する」と運輸省が都道府県公安委員会に言ったらしい。ヤマトでは「交差点以外の店なら許可してよい」とのお墨付きをもらう。
 宅急便など商売にならない、と高をくくっていたのが、商売になりだしたら一転して管理下に置こうとする。いかにも役所らしい対応だった。しかし軽車両運送事業届けをすることは取次店にとって決してマイナスではなかった。そこでただちに事業計画変更認可申請を開始。1978年7月31日の第一回申請で東京784点を申請したのを皮切りに、同年末日までに967店、翌1979年には1642店の申請をおこなう。そして、宅急便が損益分岐点を超える1980年以降は、爆発的に取次店が増えていく。宅急便取次が儲かる商売であると認知され始めたからだった。
 1980年代に入り、「我も我も」と宅急便取次店になる商店が増えてくると、さしもの運輸省も、取次店の営業実態が従来路線事業の荷扱所と異なることを認めざるを得なくなる。1985年12月、運輸省は取次店設置について大幅な規制緩和を行う。すなわち許可制から届出制に改め、路線外であっても集配圏の範囲内であれば設置届出を受理する旨、変更するのであった。
<投函サービスへの参入> 宅急便は届け先から受領印をもらう。それに対して郵便は、郵便受け・新聞受けに投函するだけ。郵便料金大幅値上げを契機にヤマト運輸は投函サービスを始めた。きっかけは1993年末、日経BP社からの打診だった。「来年から第3種郵便物料金が大幅に値上がりする。5割を超える値上げになるようだ。直販雑誌の多いわれわれとしては、これではとてもやっていけない。郵便よりも安い投函サービスを手がけてもらえないだろうか?」 
 郵便事業は赤字が累積し、1993年度で1002億円を超えていた。このため翌1994年1月に大幅値上げを決めていた。ハガキが41円から50円に、そして第3種郵便物は1月と4月の2度に及ぶ「改訂」で平均56%の値上げとなった。1993年から会長職に復帰した小倉昌男は決断する。「現状維持じゃだめだ。宅急便に続く柱となる事業を築こう」の合い言葉で新しい事業に取り組む事になる。
 事業は順調に伸びた。1997年、「クロネコメール」として全国展開することになる。規格は300グラムまでが160円、600グラムまでが210円の2サイズとなった(2000年から、1キログラムまで310円、を含む3サイズ。全国一律料金)。宅急便の伝票一貫システムに依らない物流、伝票のないという点で現場に戸惑いはあったものの、バーコードで表現される宅急便コードと郵便番号を併用する形で”情流”、物流ともに順調にスタートした。そして毎度のことながら、例によって運輸省が意地悪なことを言い出した。このサービスが宅急便とは異質な輸送サービスであることを認めず、「運送業であるのだから、引渡確認(受領印)が必要」「賠償制度を設けなさい」と言ってきた。この点に関しては、到着確認や賠償制度の導入で折り合いがついたものの、「全国一律料金はダメ」という点は長い間もめた。1990年に成立した「物流二法」(「貨物自動車運送事業法」および「貨物運送取扱事業法)によって運賃は届け出制に改められたが、運輸省の行政指導は執拗だった。
 運輸省の言い分は「貨物なんだから、運賃制度を遵守して距離ごとに価格を決めなければダメ」。しかし、宅急便同様の価格体系になっては、コスト計算も煩雑で荷主にとってメリットがなくなる。ヤマト運輸として引けなかった。顧客ニーズを背景に粘り強い交渉をした結果、ヤマト運輸に軍配があがるのは3年後のこと。郵政公社化=郵便事業への民間参入論(信書を除く)の高まりを受けて、2000年7月、民間運輸業者として初めて「全国一律運賃」の認可を受けることになる。
<クレジット・カードは信書なのか?> これまで見てきたのは「ヤマト運輸に逆らった官(運輸省)」という例だった。ところがここに来て郵政省という官もヤマト運輸に逆らってきた。それはクロネコ・メールでクレジット・カードを扱い始めた事に対して、郵政省が「クレジット・カードは信書にあたる。郵便法第5条に抵触する」と言ってきたことだった。クレジット会社と契約を結んだ利用者に、カード会社がカードそのものを送付する。それを書留郵便ではなく、クロネコ・メールを利用する。これが好評で売り上げも伸びてきたのだが、郵政省はクレジット・カードは信書にあたると主張する。この問題は両者譲らずいまだに決着をみていない。
郵便法
(郵便の国営)第2条
郵便は、国の行う事業であつて、総務大臣が、これを管理する。
(事業の独占)第5条
何人も、郵便の業務を業とし、又、国の行う郵便の業務に従事する場合を除いて、郵便の業務に従事してはならない。ただし、総務大臣が、法律の定めるところに従い、契約により総務省のため郵便の業務の一部を行わせることを妨げない。
2 何人も、他人の信書の送達を業としてはならない。2以上の人又は法人に雇用され、これらの人又は法人の信書の送達を継続して行う者は、他人の信書の送達を業とする者とみなす。
3 運送営業者、その代表者又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならない。但し、貨物に添附する無封の添状又は送状は、この限りでない。
4 何人も、第2項の規定に違反して信書の送達を業とする者に信書の送達を委託し、又は前項に掲げる者に信書(同項但書に掲げるものを除く。)の送達を委託してはならない、
 クレジット・カードを信書として扱わない、または第5条を削除すればいいのだが、郵政族の力は強い。郵政事業への民間参入にポストの数を条件にしたり、「市場経済に逆らう政・官」は抵抗勢力の力を誇示する。
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<戦後西ヨーロッパ諸国の社会主義的経済政策> これまで見てきたように、戦後西ヨーロッパ諸国は社会主義的な経済政策を採ってきた。「暴力革命に依らない社会主義建設」を目指していた。これが支持されたのにはいくつかの要因があった。
 (1)欧米知識人のマルクス主義接近が顕著になる「赤い30年代」、ハロルド・ラスキを始めとするマス・インテリの影響を受けた人々が社会主義に対する甘い幻想を抱いていたこと。ソ連のネップ(新経済政策)が破綻に瀕していたにも関わらず、それを報道しなかった。そのために多くの人々が社会主義を理想社会と思い込んでいた。
 (2)スペイン市民戦争で共和国軍・国際旅団を支持した人々が共産党と衝突し、共産党と離れアナーキストに近づき、アナルコ・サンディカリズムに希望を託し、労働者による工場自主管理を理想の生産システムであるかのように勘違いした。この勘違いは現在でも生きていて、日本では、倒産したカメラ・メーカーや写真用品販売店で労働者による自主管理がマスコミを賑わした。
 (3)第2次大戦直後、フランスの実業家ジャン・モネがフランスとドイツが2度と戦争をしないために、欧州統一機構が必要と考え、その具体的な第1歩を提案する。それは独仏の国境沿いにあるアルザス・ロレーヌ地方などで産出される石炭や鉄鉱石の共同管理であった。そしてその思想はEUへと発展していく。
 (4)ドゴールはフランスの栄光をかけ、アメリカとは違った政治・経済政策をとった。その際コカコーラ・マクドナルド・ディズニーランドだけでなくアメリカの自由な市場経済システムさえ否定してしまった。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」
 第2次大戦直後、ヨーロッパでいかに社会主義的な思想が支配していたか、それにはロンドン大学にあったハイエクがその著書「隷従への道=The Road to Serfdom」をイギリスで出版出来ず、シカゴ大学のフランク・ナイトの尽力により、同大学出版部から出版されたことに象徴される。それほどまでに、当時ヨーロッパではフォン・ミーゼスやハイエクは受け入れられなかった。 (このシリーズのためにいくつか本を読み、この時代に興味を持ったのですが、本題「官に逆らった経営者たち」から離れるのでいずれ「戦後西ヨーロッパ諸国の社会主義的経済政策」とでも題して書こうと思います。)
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<なぜ「日本株式会社」論なのか?> 戦後日本経済は驚異的な成長を遂げた。(1)戦時中の国家統制がなくなり、国家社会主義から普通の資本主義に近づいたこと。(2)パージにより若い経営者が誕生し、過去に捕らわれない大胆な経営を行ったこと。(3)戦争の被害を大きく受けた国の中では、最も政府の関与が少なかったこと。
 それにも関わらず「日本株式会社」論は生きている。マスコミは読者・視聴者を多く捉えれば、それで経営が成り立つ。週刊誌的な興味本位な見出しや内容は新聞・雑誌・テレビどれも程度の差はあっても、株式会社であるのだから当然のこと。その姿勢がなければ経営が成り立たないのだから、非難すべきことではない。エコノミストもプロであれば、それで生活費を稼いでいるのであれば、これも非難すべきことではない。それでも次の2点が気になる。 (1)戦後の日本経済を扱うのに、それ以前(戦前)との比較が少ない。日本以外(この場合ヨーロッパ)との比較がない。視野狭窄のようだ。(2)民の生き生きとした経営者より、厳しい規制を実施した官ばかりに目を向ける。良い面より悪い面を強調する自虐的な態度、それは歴史観のそれとも似た態度だ。子育てに例えるとこうなる。(1)徹底的に欠点を探し出し、愛の鞭を使ってでも直そうとする(すべての子供を単一目標に向け育てる)。(2)どんな小さな事でもいいから、長所を見つけ、褒めて褒めて褒めちぎって、長所を伸ばそうとする(先ず親が多様な価値観を認めること)。
 経済学入門書によく出る言葉=機会費用・価格弾力性・限界効用・比較優位。この「比較優位」とはどういうことだろう?「他と比べて、得意でない分野には、あまり手を着けず、得意な分野を伸ばしていこう」となる。「行政指導という余りよくない面もある、しかし若く大胆な経営者のいるという長所、これからはこの人たちに注目し、その活躍に期待しよう」との姿勢を取りたい。経済学、確かに学び、研究すれば知識は身に付く。しかしセンスはそうはいかないようだ。「素人歴史家は楽天的である」(森鴎外「伊沢欄軒」)し、「アマチュアエコノミストも楽天的」である。アマチュアエコノミスト、知識量ではプロに敵わない、しかしせめて、センスの悪さを笑われることのないように気を配っていようと思う。それには自分が公平な第三者にどう見られているか、絶えずそれを気にすることだろう。
シリーズ「官に逆らった経営者たち」  完
( 2002年5月27日 TANAKA1942b )
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