官に逆った経営者たち

西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill  30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill     30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

官に逆らった経営者たち 「日本株式会社」論に異論
 =1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」 ( 2002年4月 8日 )
 =2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」 ( 2002年4月22日 )
 =3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」 ( 2002年5月 6日 )
 =4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」 ( 2002年5月20日 )

戦後最大の金融事件は進行中
  http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/fx-10.html
趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index 
  http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b//

官に逆らった経営者たち

=1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」(前)
<「日本株式会社」と呼ばれる「妖怪」>
 言語明瞭、意味不明の言葉がマスコミ界をうろついている。──「日本株式会社」という言葉が──。戦後日本経済が立ち直ったのはこの「日本株式会社」のおかげあるとか、しかしこれからはこの「日本株式会社」が発展のネックになるとか、改革を主張する過激派も,穏健派も、政官業のトライアングルの活躍に期待する族議員圧力団体派も、隠れコミュニストも、党派・立場を越えてこの言葉「日本株式会社」を使う。そこでこの言葉「日本株式会社」の意味するところは何なのか?実際の経済はどのような歩みだったのか?アマチュアエコノミストがプロ(ビジネスで発言する人たち)とは違った、ニッチ産業的(隙間産業的)な視点から検証してみようと思い立った。先ずこの言葉がどのように使われているか?その例を引用することから話を始めることにしよう。
 「いまや世界一の黒字国・債権大国にのし上がった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活感は乏しい。それどころか海外からは閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか?───その答えは、「日本株式会社」と呼ばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する。そうした経済構造自体を問い直し、改革することが、もはや国民的合意となっている。
 昭和の時代を通して官民総ぐるみで協調して形成された日本型経済システムが、東西の冷戦終結と五五年体制の崩壊という内外の激動を受けて、その大手術に向けて動きはじめたのである。これは日本経済の根底に関わり、痛みも伴う巨大なリストラ(再構築)を意味する」

 この本の著者は豊かな日本で生活しながら、その豊かさを実感出来ないと言う。豊かな生活用品に囲まれながら、心が満たされていないらしい。そしてそれは「世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに内在する」と言う。この源流が「半世紀も前の昭和初期、当時のいわゆる満州国でめばえていたことは、第一の発見であった」と続き、「そしてこのシステムは戦後、単なる統制でなく企業か精神も誘導する独特な官民協調システムとして完成し、ついに欧米キャッチアップの目標を達成した」となる。
 これからの日本経済成長のために、「自由な企業活動を阻害する規制は、一層の撤廃を進めるべきだ」には賛成するのだが、前半の「官民協調システム」には疑問符を投げかける。そうは言っても確かに「日本株式会社」論は日本のマスコミに多く登場する。そこで戦後日本経済は「官民協調システム」だったのか?経済再建に政府の役割が大きかったのか?政府主導の経済再建だったのか?こうした疑問に答えるために、「官に逆らった経営者たち」とのタイトルで TANAKA1942b 独特の論法を展開してみようと思う。「経済学の神話に挑戦」とまでは行かないが、 従来からある安易な「日本株式会社」論に対する異論として展開する価値は十分にあると確信して論を進めることにしよう。 
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「ペンペン草を生やしてみせる」  川崎製鉄の社長西山弥太郎が1950(昭和25)年、「千葉に製鉄所を造る」と発表したとき、当時の日本銀行総裁、一万田尚登が「川崎製鉄が千葉工場建設を強行するならば、ペンペン草を生やしてみせる」と言ったと伝えられている。川崎製鉄は企業再建整備法に基づく整備計画により、川崎重工業(株)の製鉄部門を分離・独立し「川崎製鉄株式会社」として資本金5億円で設立された。初代社長に西山弥太郎就任。 これが1950(昭和25)年8月。就任3ヶ月後の1950(昭和25)年11月、西山は通産省に請願書を提出。千葉に総工費163億円規模の銑鉄一貫工場建設の計画が示されていた。東京湾の一角を埋め立てての工場建設という思い切った計画も大胆ならば、当時の川崎製鉄の資本金は5億円でしかなかった。それだけの資本金の会社が建設費の半分の80億円を国からの融資(見返り資金)に求めるものであったから、当時の産業界の大きな話題になった。
 西山は政府の財政資金に頼るため、当時の日銀総裁一万田尚登に話を持っていく。一万田は「あまりにも計画は大きすぎる。とても無理な計画だ」と言って話に乗らない。
 一万田は第三者に千葉製鉄所のことを聞かれて、露骨にイヤな顔をして、
「いま日本で大製鉄所は成り立たない。アメリカは技術が格段にすぐれ、鉄鉱石も原料炭もすべて安い。日本が遠くから運んで来ても失敗するに決まっている。製鉄所の屋根にペンペン草が生えても知らないよ」と言った。この発言が増幅されて、
「一万田はペンペン草を生やしてみせると言った」と伝えられた。
 一万田によると「そんなことを言った覚えがない。ただ、あの計画は戦後初めて高炉を建てるものだったから、順序からすればやはり旧日鉄、つまり分割された八幡か富士から認めるのが筋だ。しかもまだその時期さえ早すぎると思っていた。おそらくジャーナリズムの造語だろうが、たいへん良くできた言葉なので、あえて打ち消さなかった」と言っている。しかし時の金融界に君臨し「法王」と呼ばれた一万田の「慎重に」は「ノー」と同義だった。
 この一万田発言は、西山も否定している。とするとやはり当時のマスコミの誇張した報道、とも考えられるが、川崎製鉄の記録の中には一万田発言という記録もある。
 結局はっきりした事は分からないが、「川鉄ごとき小会社が・・・」という反発が経済界に強かったことも否定できない。「法皇」とも言われた権威者、一万田総裁と「ペンペン草」の取り合わせは、そうした空気を巧みに伝えて歴史に残る造語となったといえるだろう。
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<銑鋼一貫会社をめざす> 1945(昭和20)年8月戦争は終わった。終戦後対日占領軍は日本の軍事力破壊と経済民主化を遂行するなかで、1947(昭和22)年過度経済集中排除法(集排法)を成立させ、財閥および巨大軍需産業の解体を進めた。鉄鋼業も日本製鉄(日鉄)を含め、日本鋼管、川崎重工、住友金属、神戸製鋼など13社が分割指定を受けた。各社はそれぞれ分割案を作成し集排法の適用に備えたが、その後の占領政策の緩和で集排法の適応は次々に撤回されていった。しかし、日鉄分割指令だけは最後まで解除されず、1950(昭和25)年4月に日鉄は八幡製鉄、富士製鉄、日鉄汽船、播磨耐火煉瓦の4社に分割された。こうして戦前の巨大半官半民企業は分割されて、八幡・富士という純粋民間鉄鋼企業が誕生した。
 一方、この分割とほぼ平行して川崎重工は集排法が緩和されたにもかかわらず、造船を中心とした重工部門と製鉄を中心とした製鉄部門との分割をあえて選択し、1950(昭和25)年8月に川崎製鉄を誕生させた。
 この川崎製鉄分離独立は西山が強く主張したものだった。
「これからの製鉄業は溶鉱炉(高炉)を持たなければ発展は望めない。しかし溶鉱炉を持つには莫大な金がかかる。 造船所と高炉が一緒では川重の経営が難しくなる」というのがその理由であった。
 西山が社内や取引銀行の反対を押し切り、川崎製鉄が生まれた。しかし当時は平炉のみで、原料はクズ鉄に頼り、銑鉄は高炉を持つ八幡・富士製鉄に頼らざるをえない。西山は一筋に銑鋼一貫の製鉄所建設を目指すことになった。
「西山さんのハラが決まったのは関西系三社が経営を共同で引き継ぐつもりだった旧日鉄の広畑製鉄所が永野(重雄)さんの富士に取られたことからではなかったか」(黒田秀雄・川鉄商事社長)
 当時、富士製鉄社長だった永野も述懐している。「私は全社員に「広畑は取る。もし取れなかったら腹を切る」と言明した。むろん、これは単なる修辞ではなかった。私は本当に、失敗の時は男らしく割腹して果てる覚悟であった」(永野著「和魂商魂」による)
 広畑は旧日鉄の最新鋭製鉄所だったが、敗戦後に総司令部の命令で賠償に応じる予定の設備として高炉や圧延機械が封印されていた。それが無事に日本側に返されることになったとき、川鉄はじめ関西系メーカーは銑鋼一貫会社へ浮上する好機とねらっていた。しかし、永野に足をすくわれたことが、 西山を独自建設に踏み切らせる原動力になったのだった。
<多くの関係者が無謀と思った> 西山は従来のヨーロッパ型の小規模生産ではなく、アメリカ型の大量生産をねらい、新しい製鉄所には世界最新の設備を備えるつもりであった。そこで思い切ったコスト切り下げと品質向上に成功すれば、川鉄は国際競争力のある世界的鉄鋼メーカーになれる、と考えた。
 川鉄は西山の命令一下ただちに建設用地の選定に取りかかった。川鉄は関西の会社であり、かねて山口県が地元誘致を運動していたが、西山は大消費地東京周辺をねらい、千葉県と千葉市の誘いに乗り、工場建設を千葉市に決めた。西山が通産省に提出した計画では、500トン高炉2基、100トン平炉6基ならびに分塊・圧延機、ホットおよびコールド・ストリップ・ミル各1基を備え、銑鉄年産35万トン、粗鋼生産50万トン、総投資額163億円という驚くべき内容であった。
 1950(昭和25)年といえば、6月に勃発した朝鮮動乱で軍需ブームの兆しが見えたとはいえ、いまだ日本の鉄鋼業の将来は不安定な時期であった。 4月には日鉄が八幡・富士に分割され、業界はにわかに競争圧力が高まったばかりであった。しかも、日本には37基の高炉があり、需要不足で稼働しているのは12基だけ、という状況だった。通産省は八幡・富士・日本鋼管の高炉3社に川鉄・住金・神鋼の平炉メーカー3社の構成で第一次合理化計画を進めようと構想中。このため、西山を「官に楯突く反逆者」とみなした。
 このような状況で、日銀総裁、一万田の発言が出てくる。
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<中山素平・小林中の判断>通産省の許可を待たずに西山は手持ちの資金を投入して千葉工場の建設に着手する。朝鮮動乱で儲け、その資金でクズ鉄を買いあさり、それが値上がりしてして二重の儲けとなった。
 1951(昭和26)年2月、 銑鋼一貫製鉄所建設の目的で千葉市に千葉製鉄所を開設。
 西山弥太郎は1893(明治26)年、神奈川県に生まれ、東京大学工学部冶金科を卒業。川崎造船所に入社後一貫して技術者の道を歩んだ。1935(昭和10)年には、ドイツ・クルップ社など欧米の鉄鋼産業を視察して、このころから世界との競争に勝つためには、溶鉱炉を持つことが不可欠であると考えるようになっていた。
 戦後、他の製鉄会社と同じく、川崎重工も経済パージで上役たちが追放されたため、最年少の取締役だった西山は急遽経営陣に加えられた。いわゆる三等重役だった。しかし西山はドッジ・デフレの混乱期に川崎製鉄を独立させ、初代社長に就任するや、技術者経営者の悲願ともいうべき銑鉄一貫工場設立を決断強行した。ここにおいて西山は技術者から経営者に変身する。
 西山の計画には当初「無謀、蛮勇だ」と笑われた。しかし技術屋から経営者に変身した西山の説得に風向きは変わっていった。通産省にいて請願書を受けた山地八郎(当時、東京通産局長)は、このときの模様を次のように語っている。
「最初に請願書を見たとき、私だけでなく皆驚きの一句でした。何しろあのころは各社とも溶鉱炉は十何本、遊んでいるような状況でして、古い設備をうまく活用することが当時の貧乏な日本としては大切なことではあるまいか、という意見が強かったですね。
 しかしながら、西山さんがいろいろ説得して歩いているうちに、なるほど放っといてはいかんな、ということになり、みなさんが賛成して、この際思い切って設備拡充しなくてはならん。通産省としても新しい設備の合理化を積極的に応援した方がいいのじゃないかと、だんだん変わっていったんです」
 融資の話は1951(昭和26)年5月に開業したばかりの日本開発銀行へ行く。当時日本工業銀行から理事として日本開発銀行に出向していた中山素平は、興銀から連れてきた審査部長の竹俣高畝に計画を調べさせる。はじめ竹俣は「断る理由を見つけるために」計画を調べた。しかし、技術顧問の助けで採算性を丹念に計算してみると、償却が進んでいる八幡など高炉三社よりはるかに安く製造できることがわかる。「鉄鋼業の将来を考えると計画を支援すべし」結論は変わった。
 最後は民間出身の総裁、小林中が決断した。この融資決定に中山素平は後にこう語っている。
「私は川崎製鉄の溶鉱炉建設が、八幡・富士など他の鉄鋼メーカーにもよい刺激と励みになると考えて、融資決定に賛成していたのですが、日本開発銀行の小林中さんに呼ばれて、開発銀行は一万田君が反対しても融資しよう。ただメインバンクの第一銀行が迷惑だと言うならやめる、と言うので、私が第一銀行の酒井杏之助さん(1951年頭取就任)に聞きに行ったら、「第一も協力します」とのこと。それで開発銀行は融資を決定したのです。結果は考えたようになりましたね」
 このようにして川崎製鉄の千葉での溶鉱炉建設が開始される。融資も日本開発銀行から10億円、メインバンクの第一銀行や市中銀行から26億円を糸口に、後には世界銀行からの借款まで可能となっていく。西山はこの川崎製鉄千葉工場の新しい溶鉱炉建設に備えて、技術者をはじめ官僚など、さまざまな人材を集めていく。
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<第一銀行酒井杏之助の見方> こうした状況で、メインバンクの第一銀行ではどのように見ていたのだろうか?
「西山氏を見る世間の目は、製鉄の技術者としては有数のベテランであるが、向こう見ずの横紙破りで、経営者としての責任を取り得る人物ではないというのがおおよその評価であった。西山氏に言わせれば、よい事業を脇目もふらずに熱心にやれば、資金は必ずついてくる。否、ついてくるべきだというわけだが、世間はそう簡単にはついてこない。資本というものは臆病なものだ。だれが汗水たらした資本をまだ海のものとも山のものともわからないところへ出すであろうか」と、酒井杏之助(当時、第一銀行頭取)は「西山弥太郎追悼集」の中で書いている。
 しかし、川鉄のメインバンクである第一銀行にしてみれば「矢はすでに弦を離れた。川崎製鉄を見殺しにはできない。世間では第一銀行がはたして川崎製鉄を最後まで見捨てないであろうか、西山社長という人は手に負えない積極主義者で、この荒馬を何人が制御して行けるかなどの疑問を持っている。 川崎製鉄が進退きわまったと同様、第一銀行としても一大決心をせねばならぬ時に立ち至った」として、大森尚則常務(当時)を川鉄の会長に派遣するなど、徐々に川鉄と「心中」する構えを固めた。
 工事は着々と進み、1953(昭和28)年6月17日に第一高炉の火入れ式が行われた。だが第一期工事のあと、引き続きホットとコールド・ストリップミルを作り、第二高炉を作らねばならない。金はいくらでもいる。国内調達は困難だ。そこで川鉄は世界銀行に98億円という当時としては巨額の借款を申し込んだ。
 世界銀行から調査団がやってきた。西山は自ら作業服を着て一行を千葉製鉄所に案内し、熱っぽくその将来性を説いた。それに対して世界銀行の調査員は主要取引銀行である第一銀行の意向を知りたかった。酒井は率直に語った。
「川崎製鉄の現状は財務諸表から見れば、とうてい世界銀行の融資対象にはなりますまい。しかし日本は敗戦によりゼロから出発しなければなりません。川崎製鉄には貸借対照表には記載されない資産があります。それは西山社長の事業に対する熱意であり、社内全員の規律正しく働く意欲であります。あなた方も工場を見て気づかれたでありましょう」
 調査員は深くうなずき、「それは我々も認める。西山氏は実にダイナミックな人物で、製鉄に関する知識はきわめて豊富だ」
 と答えた。酒井は笑いながら、
「ただ西山氏のダイナミックなことは、いささか過ぎたることがないではないが・・・」
 と応じると、調査員も笑って相づちを打ったという。
 世界銀行は一万田よりずっと積極的に川崎製鉄に対した。1956(昭和31)年12月に72億円、1958(昭和33)年に28億8,000万円、1960(昭和35)年に21億6,000万円の借款が成立した。この桁はずれな支援がなければ西山の千葉製鉄所にかけた夢は挫折していたであろう。
 西山の製鉄所にかけた情熱が、慎重であるべき内外の銀行家を酔わせて、言われるままに西山の夢に金を貸してしまったのだった。幸いペンペン草は生えなかった。
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<高度成長への先駆け> 千葉製鉄所の成功は、日本の経営者に決定的な影響を与えた。大胆な投資計画を打ち出し、これを強行すれば、それがたとえ日銀総裁の意向に逆らうものであっても、必ず金融はついてくる。そして原材料輸入、製品輸出専用岸壁を持った大規模、最新鋭の臨海工場こそが世界最高の生産性を持つことを確信させた。
 以後、日本の経営者は驚くほど大胆な設備投資をし、世界市場を席巻した。一万田の言う「技術が格段にすぐれ、鉄鉱石も原料炭も安い」はずのアメリカの製鉄業は日本企業に敗退した。世界一の鉄鋼会社だったUSスチールも昔の威勢はない。
 川崎製鉄の一貫生産参入は他社に強い刺激を与えた。1953(昭和28)年住友金属は小規模高炉メーカー小倉製鉄を合併して銑鉄生産に参入し、神戸製鋼は1954年これも小規模高炉メーカー尼崎製鉄に資本参加して一貫化への足掛かりを築いている。さらに住友金属は1955年、神戸製鋼は1957年にそれぞれ千葉と同じような臨海型の新鋭製鉄建設計画を発表している。こうして日本鉄鋼業界は戦前予想もしなかった一貫六社による寡占的競争関係に入って行くのだった。
 戦後GHQによってもたらされた日本経済の民主化および日鉄の分割による市場競争の導入という大変化は、日本の企業家精神を大きく刺激した。とくに経済人パージで経営陣が入れ替えられた川崎重工の状況は、西山の企業家精神を大きく刺激した。最年少の重役として、川崎重工の再興経営者の一人となった西山は、自分の戦前からの夢を果たすまたとないチャンスを手に入れた。このように、戦前から連続的に蓄積された技術と経営感覚は、戦後の非連続的に出現した経営環境にダイナミックに対応し、西山をして戦後最も大胆と言われた意志決定に向かわせた。
 西山の千葉工場建設の成功は業界に与えたインパクトにとどまらない。この高度成長を予感させるような大胆な投資決定は、他のあらゆる産業の意志決定に影響を与え、まさに「投資が投資を呼ぶ」というダイナミックな戦後発展の先駆になったのだった。
( 2002年4月8日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」(後)
<鉄鋼業界の歴史> 官に逆らった西山弥太郎、その業績を理解するには日本の鉄鋼業界の歴史を知っておくといい。明治時代からの主要な製鉄会社の歩みを振り返ってみよう。 
日本製鐵株式會社
1897(明治30)年 農商務省、八幡に製鉄所の建設を着工
1901(明治34)年 官営八幡製鐵所操業開始
1934(昭和9)年2月1日 日本製鐵株式會社創立〔官営八幡製鐵所と輪西製鐵・釜石鉱山・三菱製鐵・富士製鋼・九州製鋼・東洋製鐵との製鉄合同による〕
1939(昭和14)年 日本製鐵株式會社広畑製鐵所を設置
1950(昭和25)年4月1日 過度経済力集中排除法にもとづき日本製鐵株式會社を解体
1965(昭和40)年 八幡製鐵が君津製鐵所を設置
1970(昭和45)年3月31日 新日本製鐵株式會社発足
日本鋼管株式會社
1912(明治45)年 日本鋼管株式會社(資本金200万円)設立
1914(大正3)年 第1号平炉(20トン)出鋼、継目無鋼管の製造営業開始
1937(昭和12)年 第1高炉(400トン)火入れ
1938(昭和13)年 トーマス転炉(20トン)3基 新設、操業開始
1958(昭和33)年 川崎製鉄所純酸素転炉(42トン)2基新設、操業開始
1959(昭和34)年 水江地区工場を水江製鉄所と呼称し、分塊・熱延・冷延設備新設、操業開始
1966(昭和41)年 福山製鉄所第1期工事完成
1976(昭和51)年 京浜製鉄所扇島地区第1期工事完成
1988(昭和63)年 創立記念日を機に、会社の呼称を「NKK」に統一
2001(平成13)年 本社ビルの譲渡を決定 日立造船(株)と造船事業の統合で合意 川崎製鉄(株)と全面的な経営統合について基本合意
川崎製鉄株式会社
1878(明治11)年4月 川崎正蔵が東京築地に川崎築地造船所を創業
1896(明治29)年10月 株式会社川崎造船所を設立。初代社長に松方幸次郎就任
1939(昭和14)年12月 株式会社川崎造船所を川崎重工業株式会社と改称
1950(昭和25)年8月 企業再建整備法に基づく整備計画により、川崎重工業(株)の製鉄部門を分離・独立し「川崎製鉄株式会社」設立、資本金5億円。初代社長に西山弥太郎就任
1951(昭和26)年2月 銑鋼一貫製鉄所建設の目的で千葉市に千葉製鉄所を開設
1953(昭和28)年6月 千葉製鉄所第1高炉火入れ
1967(昭和42)年4月 水島製鉄所で第1高炉が稼働
1976(昭和51)年 千葉製鉄所第3高炉稼働
2001(平成13)年4月 NKKとの経営統合を発表
株式会社神戸製鋼
1905(明治38)年9月 合名会社鈴木商店の神戸製鋼所として創業
1911(明治44)年6月 鈴木商店から独立、資本金140万円の(株)神戸製鋼所として発足
1917(大正6)年7月 門司工場を新設
1949(昭和24)年6月 企業再建整備法による整備計画認可。 8月 第二会社神鋼金属工業および神鋼電機(株)を設立
住友金属工業株式会社
1897(明治30)年4月 住友伸銅所開設
1902(明治34)年6月 住友鋳銅所開設
1935(昭和10)年9月 合併し住友金属工業(株)
1945(昭和20)年11月 扶桑金属工業(株)に商号変更
1952(昭和27)年5月 住友金属工業(株)に商号復帰
1959(昭和34)年8月 住友軽金属工業(株)分離
1961(昭和36)年1月 住友精密工業(株)分離
1963(昭和38)年1月 住友特殊金属(株)分離
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<戦後の政府主導の経済政策> 戦災の廃墟の中から日本経済は立ち上がった。1946(年26)春には戦前(1934-36平均)の3割にまで経済は回復したが、9月以降鉱工業生産は減少する。これは基本的な生産手段が不足したためだった。終戦直後の経済は戦災から免れた原材料を使用し、生産に当てていた。その資材が底をつくと生産が低迷する。石炭・鉄鋼・セメントの生産の遅れが、鉄道・港湾・探鉱・発電など基本的産業の遅れへとなっていく。
 吉田首相は連合軍最高司令官に対して、1946年8月30日資材の緊急を要請する。これは繊維産業など平和産業のためであったが、9月になって認められたのはわずか塩・銑鉄・揮発油の3品目だけだった。
 政府は石炭と鉄鋼を重点産業として、これを支援する体制を組む。生産される石炭は鉄鋼生産の目的を優先する。鉄鋼は炭坑の目的を優先する。このため他の産業や一般消費は犠牲になる。このような「傾斜生産方式」が採用されて、鉱工業生産は軌道に乗り始めた。ただしこれを傾斜生産方式の結果とする見解と、石炭・鉄鋼など生産財の不足は財の価格上昇を通じて市場メカニズムによっても解決されたはずだ、との見解もある。
 この時期の石炭と鉄鋼の生産実績は次の通り
年・期\産物 石炭(千トン) 鉄鋼(トン)
1946年度 T 4,952 73,012
U 5,182 72,616
V 6,011 85,012
W 6,346 88,681
1947年度 T 6,326 117,762
U 6,642 146,780
V 7,888 134,294
W 8,470 178,792
1948年度 T 7,998 222,411
U 8,121 287,101
V 9,121 338,082

炭坑労働者にコメ6合 1947年初めから石炭、鉄鋼への資材・資金・労働力の傾斜的配分が強化される。1947年度には3,000万トンの石炭確保が至上命令とされた。炭坑労働者には6合、その家族には3合のお米が配給され、NHKは木曜日午後8時からの今でいうゴールデンアワーに「炭坑に送る夕」を放送した。
 コメをこのように使うのには前例があった。戦国時代、戦時体制であちこちに、短期間のうちにいくつもの城を築いた。各地で普段は百姓でもパートの築城工事人足が必要になる。「コメを腹一杯食べたければ、築城工事に出てこい」と号令をかける。百姓のうち領主の行う「公共事業」に参加する者はコメを十分食べられた。そしてその公共事業は築城の他に、大規模な新田開発や鉱山開発が当時活発に行われていた。巨大河川の下流にある沖積層平野を安定させる工事は戦国時代から、江戸初期に集中していた。この分野で名をあげたのは、伊達政宗・武田信玄・加藤嘉明・黒田長政・加藤清正など。領内の河川を安定させ、米の収穫を安定させた大名が力を持つようになった。 (  江戸時代の百姓はけっこう豊かだった?
 )
 当時のお役人さんたち、日本の歴史をよく勉強していた。戦国大名と同じ政策を採ったのだから。ところで今日の農水省のお役人さんはどうだろう?秀吉・家康・松平定信・水野忠邦などと同じように、農地売買を制限し、百姓を土地に縛り付けておこうとする。歴史を学び過去の権力者と同じ政策を採ろうとしているのか?それともただ不勉強なだけなのか?そしてこの江戸時代からあった土地政策に百姓は反抗しない。越訴・強訴・一揆などは起きない。若者が生まれた土地を離れ,都会に働きに出ると(江戸時代の「走り者」)、「産業資本が農村の若者を都会に連れ出した」と非難する(江戸時代の「人返し令」と同じ)。そうした主張が一部の文化人と百姓の間から出る。「江戸時代を見直そう」との動きと同じように「江戸時代の封建的土地政策」が再評価されているようだ。
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<一万田法皇時代>「川鉄千葉工場にペンペン草を生やしてやる」と言った一万田尚登が日本銀行総裁に在任したのは、1946(昭和21)年6月から1954(昭和29)年12月までの約8年半の歳月だった。この時期を「一万田法皇時代」と呼ぶ。その理由は (1)当時の日本銀行の地位・機能が大きな社会的影響力を持っていたこと。 (2)一万田個人の政治力の大きさによる。
  (1)終戦直後の日本経済は絶対的貨幣資本不足の下で、財閥系銀行、特殊銀行ともに十分な資金供給力を持たず、金融機関はもとより、大企業に到るまで日本銀行に依存しなければ資金調達が出来なかった。その一方で、インフレの恐れは度重なる抑制政策にもかかわらず消えなかった。このため通貨発行銀行としての日銀の責任と同時に権威をも高めることとなった。
 日銀の政策は「経済復興のための十分な資金供給という通貨拡大政策」と「インフレを抑制するために通貨拡大を押さえる」という矛盾する政策目標を達成しなければならなかった。このような困難な金融政策目標の下、民間の金融機関は日銀の援助なくしては経済復興資金を供給する能力を発揮することが出来なかった。こうして日銀総裁の意向を無視しては、金融機関も大企業も経営方針や経済活動の方向を決定することができなかった。ここに日銀の、一万田法皇の権威を高める理由が存在した。
  (2)一万田日銀総裁の8年半の間に、内閣は7つ、大蔵大臣は9人をも数えた。また公職追放令によって有力な財界人が少なくなったこともあり、一万田総裁は広範な分野にわたって密接な関係を持ち、不動の地位を築いていった。
 この時期において特筆される金融関係の出来事の一つに、日銀政策委員会設置の問題がある。1948(昭和23)年8月に総司令部(経済科学局)から手渡された「新立法による金融制度の全面改正」と題する非公式のメモには、大蔵省金融行政の権限、日銀の通貨信用政策に関する機能を持つ委員会設置の指示があった。このメモは、金融制度の全面的改革を行うために、新金融立法を準備するとの内容を含んでいた。
 このメモにいう委員会は大蔵省からも日銀からも独立した存在だった。このため大蔵省も日銀もこのメモへの対応に苦慮した。そして何度も総司令部と交渉を行い、バンキング・ボード(金融委員会)の設置による代案を経て、最終的にはポリシー・ボード(政策委員会)設置による解決策へと変遷した。
 傾斜生産方式採用といい、日銀政策委員会設置といい、オーバーローンによる資金供給機能の確立といい、この時期の一万田日銀総裁は金融界の法皇であった。この法皇にして「ペンペン草を生やしてやる」と言わしめた、西山の川鉄千葉工場建設計画がいかに大胆であったかが理解できよう。そして復興のために石炭と鉄鋼を政府指導の下に拡大しようとした官僚、しかしその支配に逆らって設備投資を拡大していった民間企業。これをみると戦後日本経済の復興と高度成長が官僚指導の下での「計画経済」であるかのような言い方には納得出来ない。官の統制をはねのけるビジョンと実行力を持った経営者たちが新しい状況を切り開いて行ったのだと思う。日本の市場には西山弥太郎やそれに続く優れた経営者がいて、その伝統は今でも失われていない、と思いたい。戦争直後からの経済復興を省みれば、平成時代の不況はいずれ乗り切りきり、さらなる発展の道を歩むと考えられる。少なくとも、過去に対する自虐的な歴史観は取りたくない、と考える。
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<イギリスの鉄鋼業> イギリスの鉄鋼業は1951年に国有化、1955年に民営化、1967年に再国営化、1988年再民営化とジグザグコースをたどった。最初の国有化はアトリー首相により行われ、1946年から、イングランド銀行・炭坑・鉄道・港湾・運河・電機・ガス・鉄鋼を国有化していった。これらの企業は採算点に達せず、自力で近代化や自己投資は不可能と見られていた。それらの国有化とは、つまり倒産寸前の企業を国民の税金でまかなおうということであった。その後”親方ユニオン・ジャック”となった炭坑と鉄道の労働者は、ストライキを多発させ、イギリス経済の足を引っ張ることになる。なお石炭公社の労組は1985年3月サッチャー首相との戦いに敗れ影響力を失う。
<フランスの鉄鋼業> 戦時中、戦後に予想される自由貿易体制への対応を検討した国外レジスタンス勢力の一部は、国際競争力が弱く、戦争によって疲弊した経済にとり、ただちに国境を開放することは無謀であると考えた。モネを中心とするこのグループは、近代化による競争力強化を自由貿易への参加の前提条件とみなし、保護主義的な過渡期を確保するという政策を取った。ヨーロッパ共同体(EEC)が発足する1958年まで保護主義を堅持し、大半の生産物に15%を超える関税を維持した。
 1950年モネの発案による、シューマン・プランが発表され、仏独中心の石炭・鉄鋼の共同管理体制としてヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。ECSCはイタリアとベネルクス3国の参加も得て6カ国で構成され、独仏和解、石炭・鉄鋼の近代化と競争力強化などの目的を与えられた。
<ドイツの鉄鋼業> フランスとの共同事業、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が西ドイツ経済再建の中心になる。資金的バックアップはアメリカからのマーシャル・プランが中心になる。西ドイツ政府の企業に対する関与は多くはないが、アメリカ・フランス・西ヨーロッパ諸国・そして西ドイツ政府の作る枠組みから、企業ははみ出すことは出来なかった。官に逆らう企業は存続出来ず、民間経営者の大胆な発想を活かす機会はなかった。
 このようにヨーロッパでは西山弥太郎のような、製鉄所に情熱をかけたダイナミックな経営者は現れなかった。と言うよりも官が経営していたので、「官に逆らう経営者」とは「官に逆らう官」「政府に逆らう官僚」ということになり、日本とは違っていた。アメリカを除く先進国の中で、鉄鋼に関して言えば、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
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<川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか? 参考文献>
昭和経済史(中)          有沢広己     日本経済新聞社 1994/ 3/11   
「日本株式会社」の昭和史     NHK取材班     創元社      1995/ 6/20  
起業家精神の研究         大谷 健     草思社     1994/10/20  
日本企業の経営行動4       米倉誠一郎他   有斐閣     1998/ 7/30  
日本の戦後企業家史:反骨の系譜  佐々木聡     有斐閣     2001/12/20  
高度成長の時代          香西 泰     日本評論社   1981/ 4/10  
工業化の軌跡           岡崎哲二     読売新聞社   1997/ 2/12  
テラスで読む戦後 トピック経済史 原田 泰     日本経済新聞社 1992/ 2/10  
経済学の冒険           原田 泰     日本経済新聞社 1994/ 6/ 3  
市場の経済学           三輪芳朗     有斐閣聞社   1996/ 6/20  
20世紀 日本の経済人       日経新聞編    日本経済新聞社 2000/11/ 7  
現代ヨーロッパ経済史       原輝史・工藤章  有斐閣     1996/ 2/25
( 2002年4月15日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男

西山弥太郎   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha.html
井深大     http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-2.html
本田宗一郎   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-3.html
小倉昌男    http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-4.html
全部の目次   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/